油絵新技法
[青空文庫|▼Menu|JUMP]
著者名:小出楢重 

 我国では、古来より単化と省略とを眼目とする処の、線によって直ちに心を現し得る処の、最も主観的な画技を以て悠々(ゆうゆう)自適しながら楽しんで来たものであった。勿論(もちろん)その技法の原因は支那より伝来せる技法と精神ではあったようだがともかくも長い年月において、独立した自由な日本らしき芸術様式を創造して来たものである。
 もしも、西洋というものが、我が日本国の前へ立ち現われてさえくれなかったならば、この私たちの国は見渡す限りの美しき木造建築と、土と瓦(かわら)と障子と、鈴虫と、風鈴と落語、清元(きよもと)、歌舞伎(かぶき)、浄るり、による結構な文明、筋の通った明らかなる一つの単位の上に立つ処の文明を今もなお続けている訳であったかも知れない。
 ところが、私たちが生れる少し以前において、既に本当の生(き)一本の日本文化は消滅しかかっていたのである。それは伊太利(イタリア)の文明がフランスへ渡りドイツへ影響するという具合とは全く別である処の、全く単位を異にする処の、文明によって日本は蔽(おお)われてしまったのである。
 さて、この日本を蔽うて来た時の西洋の画風はといえば丁度西洋絵画が衰弱し切った頃のものであり、同時に西洋画が現代にまで漕(こ)ぎつけようとした処の努力やその苦悶の最中である処の画風であった。
 そこで日本人は、西洋人が十九世紀における芸術上の苦悶を本当に体験する事なく、ただ降って来た風雨をそのまま受けていたに過ぎないのである。即ち古い手法の残りと新しき技法の初めとが相前後して渡来した訳であった。
 もし、仮に、西洋において、新らしい芸術運動が起らず、古き伝統によるアカデミックがそのままに日本へ流れ込んで少しの変動もなかったとしたら、日本現在の油絵は、大(おおい)に趣きを異にしていたに違いない。明治の初めにおける高橋由一(ゆいち)、川村清雄、あるいは原田直次郎等の絵を見ても如何に西洋の古格を模しているかがわかる。あの様式がそのまま日本で発達し成長していたならば、日本の洋画は随分ある意味において、かえって画法としては壮健な発達を成していたかも知れないと思う。
 ところで日本に発達した西洋画は原田氏以後の黒田清輝(せいき)氏たちの将来せる処のフランス印象派によって本当に開発されたのであった。以来、なおそれ以上の破格である処の伝統を抜き去ろうと努力した処の革命期の多くの絵画が侵入して素晴らしき発達を遂げたのである。
 しかしながら、近代フランスの画家たちが求めた処の、技術の革命の眼目とする処は、単化と自由と、省略とプリミチーブと線と、素人らしさと稚拙と、野蛮とであったといっていいと思う。
 日本人は求めずして既にそれらのものはあり余るほど、古来より心得、持参している処のものであったが故に、西洋の近代の絵画は、日本人にとっては真(まこ)とに学びやすい処の都合よきものであったのである。直ちに真似(まね)得る処の芸術様式である。西洋人は形をくずそうとして努力した。日本人はこれ以上くずしようのない形を描く事において妙を得ていたのである。
 これは甚だ僥倖(ぎょうこう)な事で、他人の離縁状を使って新らしき妻君を得たようなものである。
 しかしながら、何か日本人の絵には共通して紙の如く障子の如く、薄弱にして、浅はかにして、たよりない処のものが絵の根本に横(よこた)わっている事を昔から、日本人自身が感付いて来ている。そして誰れもが、相互の心に承知している処の欠点である。
 私たちの仲間が集った時など、つい話がその問題に触れがちである。如何に拙(ま)ずい西洋人の絵にしてもが、かなりの日本人の絵の側へ置いて見ると絵の心の高低は別として日本人の絵は存在を失って軽く、淡く、たよりなく、幽霊の如く飛んで行く傾向がある。西洋人の絵には何かしら動かせない処の重みと油絵具の必然性が備わり、絵画の組織が整頓せるために骨格がある如くである。
 最も主観的な様式である処の構成派や立体派あるいは未来派の作品においてすら、西洋人のものは殊(こと)に立体派においては、特にその立体に本当の立体が備り、空間が存在し複雑なリズムがあり、立体の種々相を眺め得るのである。
 その側へ、同じ日本人の立体的作品を並べて見ると、日本人のものは立体らしい模様が描いてあるに過ぎず、よく視(み)ると立体でも何んでもない図案に見えて来るのである。
 モネの海の絵を見た。画品も心も相当に高く美しいものであったが、われわれ東洋人はその絵に現われている処の海の本当の広さと地球の存在の確実さに驚かされるのである。
 空の高さ断崖(だんがい)の大きさ地球の重さがある。モネの海はその地平線まで何哩(マイル)かある。本当に船を走らす事が出来るだけの空間を持っている。
 私は日本人の作品において空の複雑な調子の階段とその大きさをまだ一度も感じた事がない。海の広さ遠さ、この世の有様を感じる事が出来ない。
 しかしながら、画品と心の高さ、高尚な気位いちょっとした筆触の面白さ、部分の小味等においては日本人はかなりうまい仕事の出来る人種である。
 日本人の油絵の共通した欠点は、絵の心でなく、絵の組織と古格と伝統の欠乏であるらしいという事は確かである。
 西洋人の求める処のものは日本人の多少持てあましている処のものであり、日本人の求めなくてはならないものは西洋人が持て余している処のものであるかも知れない。
 しかしながら前に述べた如く、西洋の場合では、あらゆる伝統と絵の組織の下敷から這出(はいだ)す事が肝要であり、知り悉(つく)した事を忘却せんとする処に新技法の必然的な意味が存在するのであるけれども、日本では忘却すべき何物も持っていないのであった。最初からすでに忘却そのものであり、単純そのものであり、省略そのものであったのである。
 それから、日本にはあらゆる伝統と古格と絵画の様式を研究すべきミュゼーがない事も頗る迷惑なる事である。そしてこの世界のどちらを眺めてもその油絵の伝統を生み出さしめた処の都会もなければ建築もなく生活の名残りすらないのである。ただ見渡す限りは上海(シャンハイ)、シンガポール、バラックの連続とアメリカ風位いの雰囲気(ふんいき)である。
 もし時代の如何なる影響があるにかかわらず、油絵というものに一生をゆだねる覚悟を有(も)つ以上は、先ず画家として勉強の最も初めにおいて西洋の伝統と古格とその起る処の生活に触れなければいけないと思う。そして絵画の組織を極(き)め基礎を固めなければならぬ。
 私は最初に絵画の組織と基礎的工事について述べたが、それ以上の基礎の修業を怠る事は出来ないと思う。
 そして新らしき心と、新らしい技法とをその正確にして深き技法の修練の上に建てなければ油絵という技法は萎(しな)びて行くであろう。
 国粋とか、日本的とか、国民性とかいうべきものは油絵として確かな組織の上に現れる処の求めずして起る処の新らしき日本的であり、個性であり国民性でなくては駄目である。
 油絵具とカンヴァスとを用いた処の、一夜のうちに考案せる日本みやげ的油絵は生長すべき命の玉を決して持っていないであろう。それらは、日本的といえ、古き日本、消滅せる日本のおもかげを油絵具を以て現した処の亡霊に過ぎない。
 要するに、日本人としての新らしき油絵の技法は充分なる基礎的工事の上に盛られなければならないと思う。

 体力、神経、本能、表現力、等について
 私は如何に近代の絵画がその形において驚くべき省略がなされ、自然に対して反逆しつつあるかの如き様子にさえ見えるまでの変形が企てられ、気随気儘(きずいきまま)の画家の心が遠慮なく画面に行われているとはいえども、その根底をなす処には必ず伝統の積み重ねられたる古き心が隠され、その心と共に確実なる写実にその基礎を置いているものである事を述べたつもりである。
 日本は洋画の発祥の地ではなかったので、つい勢いその根が如何なる栄養を吸いつつ何の要求から現代となったか、即ち近代絵画の花が咲き崩(くず)れ出したかを眺める事が出来難い不便な位置にあるために、ついその花だけを眺め、何の支度(したく)もなく花だけを模造しようとする傾向があり、また、若き壮なる年配にあっては特にそれを先ず企てようとする。だがもともと、切り花の生命はどうせ幾日間の間である。
 日本洋画壇の今までの傾向は大体が輸入時代だからやむをえない道程ではあったが、その切花の見本は無数の花の中のたった一つの種類に過ぎないものである場合でさえも、その一種の花が当分のうち全日本の浦々にまで流感の如く速かに発生するのである。
 だが根がないために、次の切花の到来を待ちあぐむ。勿論花の見本だけでも心を刺戟(しげき)し開発する役には立つ、しかしながら、根を本土におろすべき芸術はその根も共に知る事なき限り本当の発生と進歩は困難である。
 さて、近代の日本を刺戟した処の切花の元祖、フランスに起った処の印象派以後の素晴らしい種類の流派というものは元来画家が作らんがために製造した処の流派ではなく、やむにやまない情慾の発作によって、あるいは素晴らしい旧時代の退屈からの要求によってあらゆる絵画が動き出したのではないかとさえ私は考える。
 人間が自然に各様式の風貌(ふうぼう)を以て生れては来るのであるが、便宜上馬に類する者、狸(たぬき)に類するもの狐(きつね)に類するものを集めて、狸面、狐面と区別すると、説明がしやすいからだろうと思う。自分自身もつい他人との混雑を避けて、つい似たもの同志がより集って後期印象派とか何々と称するに到るものかも知れない。
 中には俺(お)れは狐だとは思っていないのに狐の部に入れられて内心困っている者もないとはいえないだろう。
 要するに画家が絵画に対する本当の心の動きは、それは本能の動きであり、何の理由もなく、ただ次から次へと、貪(むさぼ)るが如く新らしいものが描きたいというに過ぎない。強い制作力ある画家ほど、飽きやすく、貪慾(どんよく)にして我儘(わがまま)である。
 古人はよく九星とかいうものによって人の性格を定めて見る事をする。私はよく知らないが、九紫(きゅうし)はどんな性格であり五黄(ごおう)の寅歳(とらどし)の男女は如何に意地強きかといったりする。その星の強さというものに似たものを、私は画家の性格のうちに見る。本当の自個をよく生かす画家の星の強さは他の凡百の弱き画家の上に作用して皆悉(ことごと)く自分と同じ真似(まね)をさせてしまう。自分の流感を他人の全部へ感染させるが如きものであり、感染するものこそ弱き星の性格者であり自ら好んで感染してしまうのである。
 性慾の本能が常に同じものを嫌い、常に新らしきものを要求し、それを得てまた更に更新してその終る処を知らず、遂(つい)に死を賭(と)するに至るといった調子と画家の心とは殆(ほと)んど同じ形をとっている。
 誰れが何んといっても、何が何んであろうとも、流派が何で、シュールがどうなってもいい。常に自分の慾情が猛烈でさえあればそれが万事であり、その星の強さが、世界を征服するといった具合になるのだと私は思っている。そしてそれが画家の本音でもあると考える。さて最後に鋭き表現力だ。
 殊に近代の画家は、先生のいわゆる師風を継承する必要もなく、狩野元信(かのうもとのぶ)の元の一字を頂戴(ちょうだい)する必要もない。師風である処の印象派を今日廃業したといって直ちに破門をされる心配もない。もし破門されれば速かに出て行けばそれでいい。
 主人ゆずりの娘を頂戴したくなければ嫌だといって差支(さしつか)えない時代である。他の世界はどうか知らないが絵画の世界ではそうである。万事が許されているのだ。芸術の世界には絶対の自由が許されているはずだ。
 従って、一度この国に住めば終生絵画の足は洗えない。カンヴァスの上だけの自由は普通人の夢にも与えられていない天地なのである。
 であるのに、人間は、永久に縛られていたいものである。あまり永く先祖伝来の何物かで縛りつづけられて来たわれわれは、さア思う存分の自由を与えてやるから足を延ばせといわれても逆に不安を感じ水に溺(おぼ)れんとするものが、何物か例えば棒切れや藁屑(わらくず)でさえも握りしめるといった風に、面喰(めんくら)って手近の何物かにしがみつくものである。
 昔は一人の親方、先生、師匠に一生を捧(ささ)げたが、今は一人の先生を離れて明るい世界へ泳ぎ出した。ところで自由な波を一人明らかに乗り切る天才は地球上のあらゆる画家を知らぬ間に自分一人にしがみつかせている事になったりする。
 セザンヌという人は知らぬ間にどれだけ多くの弟子を集めたか、昔の弟子は師弟の関係は重大なる関係だったが今は知らぬ間に大勢の親分であり、知らぬ間に親分はまた捨てられてもいたりする。
 近代の科学は地球を縮めてしまったが故に、一人の天才の仕事は直ちに全世界に紹介されやすく、同時に世界の画家が自由に師と定め、また師を去り次の天才へ走るという事も近代の出来事である。ともかくも弱きものが強きものにしがみつく事は、やむをえないけれども、あらゆるものを速(すみや)かに卒業して、自分自身の力によって泳ぎ得るものが近代の技法を感得するものだろう。

     9 自然を前に、自然を背後に

 最初の一筆から最後の一筆に至るまで自然の前で行う処の絵画の技法は、印象派初期の人たちによって初められたものであると私は記憶する。
 それは、あまりに人間が安易な想像にのみよって製作していると常にそれが自然とのよき連関によって成立ってさえいればいいが、ついややもすると、単なる想像によって画家は知っているだけの同じ事を同じ色彩と同じ手段によって何回でもくり返す傾向を生じてくる。従って何千人の画家が悉(ことごと)く気不症(きぶしょう)な仕事をつづけてしまうがために、画道は衰弱しつづけ世界は眠気(ねむけ)を催すに至る。
 その時あまりの世の腐り方と眠む気に腹を立てたる者どもは、つい、この際人間のケチな想像力を離れてもとの自然の力へ帰りたい、もとの野獣となりたいと叫ぶ。ここでその反動として起ったのが最後まで自然の前で仕事をする事にあったと考える。その仕事は全く近代絵画への最初の方向転換であり、大成功だったと思う。これによって十八、九世紀に充満していた腐り切った陰鬱(いんうつ)の空気を完全に払い去った事は近代フランス印象派画家、マネ、モネ、ピサロ等の一団の恩恵であらねばならぬ。
 自然の前で仕事する方法は、私の画道の修業時代もまたこの勢力、この方法の最盛期でもあったために、私は最後まで自然の前に立つ技法を学んだ。従って自然なしでは柱なき家でありテレスコープなき潜航艇でもある。
 さて自然の前でする技法の特質は、想像にのみよるものが陥りやすい処のマンネリズムから飛び離れ得る事であり、また、画家が自然から直接パレットの上に絵具を調合すると、彼は不知の間に一つの不知の調子と色彩をカンヴァスの上へ現し得る事である。
 彼と、筆と、絵具と、カンヴァスの間に、も一つ、何か彼の知らない一つの不思議な力が常に働いている事である。その力が絵を彼と共に完成して行き、彼にもわからぬ力を画面に与える。
 彼が自然を背にして勝手に色彩を弄(もてあそ)ぶ時この不思議な力は働かない。
 そんな訳で自然の前でした仕事を、もし自宅で空だけの一部を記憶によって描き直そうとする時、如何にパレットの上で絵具を交ぜ合せて見ても、再び自然の前で一秒間に作ったはずのその色と調子を出す事が出来ないのである。それを無理から直して行くうちに空は妙に沈んで色彩は死んで行く。全く直接の写実というものが絵画を生かし力づけて行く事は驚くべきものがある。
 しかしながら、写実は万事ではない。これによって最も新鮮な世界はもたらされたが、この方法は全世界に行き渡ってしまった今日、さて、その次にはこの方法が大体、一つの反動によって起った仕事であるがために、要するにその欠陥も発見されて来た。それはあまりに自然の前に立ち、その命令にのみよって一筆を動(うごか)す事の習慣から、見ているものだけは描き得るが、実物を離れては画家は何一つとして描き得ない。自然を離れては画家は頭へ形と色と調子の記憶力を完全に失ってしまった事である。それと共に、心の働きを極端に自然物の陰へ追い込んでしまったものである。従ってここに心の動きの制限された処の、ただ形と光線と色彩との何の奇もなき風景の切り取り画と人物のスケッチ類の多くが、再び揃(そろ)えの衣裳(いしょう)によってこの世に並び出したものである。

 元来如何なる芸術品であっても制作というものは、昔から人を避けて一室に籠居(ろうきょ)し、専念その仕事に没頭する傾向あるべきものだが、近代の外光派以来、混雑の往来に立ちながら、あるいは風景において、空における一点の雲の去来を気にして、その雲が立ち去るまでは筆を動かす事が出来なくて待っていたりするものすらある。晴れたる風景画は晴れたる日の幾日かを要求し、雨の日の絵は同じ雨を毎日註文(ちゅうもん)して見たりするが、それは画家のためのみの存在には非(あ)らず、勝手気ままに晴れて行く。
 これでは旅をするにも宿屋の滞在にもいらぬ費用も必要であり、その上一枚の絵を失敗しては立つ瀬もなかろう。
 印象派の持つ欠陥によってまた絵画は衰弱と退屈を現し初め、画家の本能は、性慾は、当然、動かずにはいないだろう。
 即ち印象派以後の立体派、フォーヴの一群、その他シュール・レアリズムのそれらに至るまで、近代の各様式による絵画の技法は、直接の自然写生から再び絵画の本来の性質である処の画室制作にまで立ち戻ろうとしている。あるいは画室制作と自然写生との混合によって制作する態度を続けている画家もある。
 即ち現代の絵画は、全く自然を元の如く画家の背後へ廻してしまいつつある。またなお自然を前にしながら背をむけているもの、及び、なお自然そのものの前に忠実に立てるものの三種類の画家が今日共存していると思う。
 要するに現代人の想像力を極端にまで表現しようとするもの、形と色調と力を自然から引出しつつ自然の形に変化を極端に与えようとするもの、ただ自然そのものをそのままの形に、といっているものの三種である。
 だがしかし、如何に自然を背にしてもまた自然を前にしても、要するに人は結局地球の上に立っているに過ぎない事において変りはない。所詮(しょせん)人間は地球を脱出する事が出来ない如く人の心と自然との形のデリケートなる連関によってあらゆる傾向の芸術は生れて行くのではないか。
 自然の前でも後ろでもいい、要は常に鋭き感性とその貪慾(どんよく)を以て、画家は、素晴らしい仕事をさえやってのければそれが万事である。
 昔の日本画家の例えば光琳(こうりん)宗達(そうたつ)などのあの、空想的な素晴らしい絵画の背後に、彼の自然からの忠実な、綿密な写生帖(ちょう)がどれだけ多く存在したか、浮世絵画家の版下(はんした)絵にどれだけの紙が貼(は)り重ねられて一本の線、一人の顔が描き改められているかを知る必要がある。モデルを見ずに描いたというミケランジェロはどれだけ多くの死体を研究したか、大雅堂(たいがどう)はどれだけ多くの山水を巡礼して歩いたかを知らなくてはならぬ。
 工房でのみ仕事する芸術家は常に驚くべき写実をその押入れの中に隠しているのだ。押入れの空(から)っぽの空想的作家こそ自ら死の道を行くものである。それはいつの時代にあっても永久に変らない一事である。

 自然を前にする処の印象派風の描法は、ありのままの自然の一部を切り取り、画面に構図を作り、見たままの色彩をそのままに現して行く。絵の具は重なって行き、重なった色彩と、調子と筆触はまた次の調子と色彩と筆触によって埋められて行く。そしてまた次の日に同じ事が繰り返えされて画面の全体のリズムが整い、自然とのよろしき連関を保って画家がよしと思う時、即ち絵画は仕上がるのである。そのよしと思う時が大切な時である。リズムと調子に鈍感なるものはいつまで描いていてもよしと思う時がなく、終(つい)に描き過ぎて折角の絵をなぶり殺しとする事がある。自分の絵の仕上り時を発見する事が、その画家の力量だという言葉さえあった。
 従って、自然の前で仕事をなす画家は、どんな味が最後に画面に盛られるか、如何なる答がこの運算によって現れるかを知らない場合が多い。最後の予想は最後の一筆まで判然しないといってもいい位だ。
 黒田清輝という先生に私は教(おしえ)を受けた事があるが、自分はどんな絵が出来上るかを常に知らずに描いている。初めから、かかる絵を描きたいと思った事がないといわれた事を記憶する。印象派画家の仕事は皆多分にこの傾向を持っている。
 後期印象派以後近代に至る諸傾向の画家の仕事は、いよいよ画家自身の心の動きに執着を持ち出してしまったと思う。そして彼らは自然の前に立ってはいるがそしてその手法としては同じく色彩と筆触と調子を画面に盛ってはいるが、しかし自然そのものとは全く異った有様を画面に創造しつつある如く見える。側(かたわ)らに立って見るものは、その画家が何を描きつつあるのかわからない事さえありがちである。それ位いの程度において画家は自然の上に自分の心を蔽(おお)い被(かぶ)せている。そして自然からは自分以上の何物かを汲(く)み出しつつ画面に自分の心と自然のリズムとのよき化合物を盛り上げている。私は後期印象派に属せしめられている処の、ゴーグ、セザンヌもその代表的の画人であるが、それ以後のマチス、ドラン、キッスリング、ディュフィ等もまたかかる傾向による技法を行いつつある人たちだと思う。
 なおルオー、シャガール、ピカソ、キリコ等のものになると、もう殆(ほとん)ど制作に対しては自然の前には決して立たないであろうとさえ感じられる。それは悉(ことごと)く心の働きがその大部分を占領してしまっている。
 しかしながら、ただ注意すべき事は、ピカソ、ルオー等、皆あらゆる古き画風と技法の卒業者であり、また、彼らの絵には不思議に強き立体感と現実性を備えている事である。この現実性の強き存在と、その不思議なる立体感なき心の簡単なる超自然の超現実的亡霊などはあまりにも莫迦莫迦(ばかばか)しき童謡であり童話であるに過ぎない。日本で咲いた超現実派に時々このかよわき童謡の立看板を見る事も淋しい気のする事である。
 要するに近代絵画は確実なる方程式を組み立て、かくの如く、あるいは右へあるいは左へ、黒く、白く、画家の心の動きに従って確実な形式の上に答が盛られて行く必要があると思う。ただ何んとなく答が出るのではない。答は直ちに確実なる予定通りに現れるという技法を近代の画家は取りつつあると思う。
 そこで、近代の絵画は、かくありたいと予定すれば、自然の中から、それに適合するだけのものを汲(く)み出すのである。それ以外のものは、未練もなく捨て去る。必要なものを摘出して不必要なる多くのものを悉く省略してしまうのである。
 ところで力ある作家は、複雑なる運算によって答に必要なものを吸収するが、頭の悪い作家は、あるいは基礎的工事を欠く処の作家は、必要なものまでも捨ててしまい、捨つるべきものを拾って見たり、結局画面は混雑してただ心の亡霊と自然の糟(かす)だけが画面に漂う。
 要するに近代絵画の構成は鋭き心によって、自然を取捨選択し、自由に画の材料を駆使し、自然を変形し、気随なる気ままを確実なる基礎の上に立てなくてはならない。
 先ず印象派風の描法は、どんなに画家の頭が曇っていても、下手でも素人でも、ただ自然に万事を依頼して描いているが故に、間違った処でそれは何かじめじめとした鬱陶(うっとう)しい平凡な写生画が現れるに過ぎないけれども、この近代の心を発揚したるはずの技法にして神経鈍き絵画の、その答の間違いたる間抜け面(づら)などは、そしてしかも平気ですましていたりしては、真(まこ)とに悲しい滑稽(こっけい)に外ならない。
 殊に近代におけるある種の描法、例えばヴラマンクの如き風のものは一気に答にまで迫る処の気合術ともいえる。先生は徒(いたず)らに気合をかけても誰れ一人としてその気に打たれるものなき時まことにまた悲しくも憐(あわ)れである。
 空腹なる先生の気合術は徒らなる努力である。先ず飯を食べてからの気合術であらねばならぬ。気合術に限らず、いつの時代にあっても、絵画の仕事は、空腹者が直ちに写実を軽蔑(けいべつ)して画室に籠(こも)ったとしたら、それは悲惨なる結果を表すであろう。先ず順序として、そっとそのまま捨てて置けばそれでいい、自ら餓死して行くにきまっている。
 要するに新らしき何物かを創造せんとするものは、それはカンヴァスの作り方でも絵の具の並べ方でも、パレットナイフの使用でも、褐色(かっしょく)の乱用でも黒の悪用でも何んでもない。それは人間の誰れよりも強い星の性格と、貪慾(どんよく)なる本能と、鋭き神経と、体力と而して最も秀(すぐ)れたる表現力を兼ね備えているものでなければならないと思う。そのどれかを欠いでいるものは、必ず多少の不運を感じるであろう。
 殊に、如何ほど、貪慾なる本能はあっても表現の才能なき画家の幕切れは悲しいと同時に、表現力のみあってよき神経と強き星を欠く処の画家は、商業美術と看板へその方向を転換する機会が最も多く与えられ、またその事によって世のために働き得るものであろうと思う。なおその上に近代の人間にとっての特別なる生活の重荷はまた画家の才能と星の強さと、その貪慾をどれ位いの程度に歪(ゆが)めつつあるかを思い、近代における画家の仕事のいよいよ複雑なる困難さを私は考える。
 従って近代の画家は基礎的な仕事は大切と思いながらも、ついせっかちとなり、つい空腹のまま飛び出して手軽な大作を乱造せんとする傾向も認められる。大体において近代の技法が甚だせっかちにして粗雑で、ちょっと見た時大変立派で、暫(しばら)く見ていると穴だらけのガタ普請(ぶしん)であり、味なき世界を呈しがちである事は近代技法の悪の半面でもあろう。

     10 近代の生活と新技法

 近代の一般の傾向を見るに活動写真はその映画館で悉(ことごと)くの封切を鑑賞し、お料理法と趣味講座と英語と体操はラジオで勉強し、野球は夏の大仕合を見ておき、絵画は秋の大展覧会を鑑賞すればそれで日本の芸術は先ず一年間の重要なる傾向を悉く知っておく事が出来る。あるいはそれ以上、フランス画壇の最新の潮流までも共にその大略を遠望する事さえ出来る。とすればこの不景気にして、しかも大作を収容すべき家なき芸術愛好家は、その無数の壁面の一枚の絵を持ち帰って狭い部屋へ懸けて見る必要はどうもなさそうである。友人の誰れかでもあるとか、特殊な関係のものはまた格別の義理人情が加わるが故に座右に置いてもいいが、先ず何の関係もなく頼まれもしない多くの絵画は、単に鑑賞しておけばそれでいい訳ではある。殊に銀座を散歩する如く、秋の季節において友人と、女の友と、断髪の彼女とともに漫歩の背景として展覧会場を撰ぶ事は、甚だ適当でもある。即ち日本における尖端(せんたん)芸術の封切りを彼女と共に味(あじわ)いつつ、会場にあっては誰れ彼れの知友に出会い、談笑し、彼女を紹介し、また人の女を羨(うらや)みなどする事も悪い事ではない。
 さて画家はこれら漫歩の背景のための封切り絵を作らんがため、一年の間内職やらその他あらゆる方法によって生活と戦争しながら、あるいは親の足を噛(かじ)りながら、親の足を噛る事も当節はなかなか素人の考える位い容易な仕事でもないそうだが、様々の苦労を尽している次第である。
 ともかく画家は封切りのために働く処の給料なき役者でもある。そして画家は何が何んでも封だけは切って見せたいという本能を持っている。
 ところで、一度封を切った作品はも早や古手となってしまって二度の勤めは嫌がられる傾向を持ったりするので、勢いその絵は小品ならば万一にでも生活の一助とならぬ事もないが、大作であったりしては、画室で埃(ほこり)をあびて重ねられて行く。従ってただ一回の封切りが画家の生命ともなりつつある事は芸術のために喜ばしき現象とは思えない。
 一九三〇年型の自動車の出現は去年のぼろ自動車を広場へ山積せしめるであろう如く、即ち近代の洋画家はその場限りの技法の華々(はなばな)しき効果をのみ考えはしないだろうか。これは近代の生活の様式と展覧会の組織と、画家の心との間に連関する処の悲しき連関ではないかとも思う。近代絵画に対するこれは私の持つ重大なる不安でもある。
 さて私は、近代の新らしい油絵はどうして描けばよいかという事については一切述べなかったようである。しかし、どうしたら新式の絵が素人にも一朝にして描き得るかという便利な話がこの世に本当に存在するとは私には信じられない。もっとも一週間速成油絵講習会といった風の事を企てる香具師(やし)もあるだろうけれども、先ず正直な処さような話し位い莫迦(ばか)々々しいものはない。
 恋愛は横町のカフェー何々の彼女となすべし、その技法は斯々(かくかく)と教えられて早速取りかかってはあまり素晴しく成功する見込みはなさそうに思われる。
 それで私は主として近代の油絵の技法に対する心構えに関して多く喋(しゃべ)って見たつもりである。

   ガラス絵雑考

 私は、ガラスというものについて特殊な愛着を持っている。ガラスでさえあれば何んだっていい。上等の古いカットグラスから氷屋のコップ、写真のレンズ、虫めがねにいたるまで同じ程度において愛着を感じ、ことに色ガラスの色感くらい私を陶酔させるものはない。安物の指輪の赤いガラス玉、支那めし屋の障子に嵌め込まれたる色ガラス、暗の夜に輝くシグナルの青と赤など、ことに私はその青色により多くの陶酔を覚える。何か心不安なる折、何かが癪に障る時、苛々する時このシグナルの青色の光を眺めると一時この世の何物をも忘れ去ることができる。それは私にとってのカルモチンである。
 昔の散髪屋とか湯屋の装飾品としての懸け額に日本名勝風景などの類や役者の似顔や、美人、いなせな男が絞りの手拭を肩に掛けたる肖像等を浮世絵末期的手法によって、これもまたガラスへ描かれてあるのを私は見た。あるいは手箱の表の装飾として美人のガラス絵が嵌め込まれているのも昔は多かった。私は子供の時からそのガラスに描かれてあるところの不思議な光沢と色感の魅惑に迷わされがちだった。
 だいたいガラス絵(ビードロ絵ともいわれている)というものはガラスの裏といってもガラスに表裏はないようだが、ともかく、ガラスの一方から絵を描いて、その裏側へ絵の答を表していく技術なのである。普通の絵のごとく表から観賞するのではない。ガラスへ塗った色彩をその裏側から見ると絵具の面の反対がことごとくガラスに吸収されてまったく色ガラスを見るのと同じ効果を表す。
 昔、話はちがうがガラス写しの写真というものがあった。あれは色彩がなく、単に白と黒との調子のものであるが、しかしちょうどガラス絵と同じ仕事を写真でやったものである。
 古きガラス写しの写真のもっとも古風なものは、その周囲を美しい金属のフレームで飾られ、打ち出し模様ある革製の箱に収められてことのほか悦ばしきものであった。今や人々は祖先の肖像を入れたまま仏壇の引き出しの底深くしまい込んで忘れているであろうかも知れないが一度取り出して観賞して見るがいいと思う。
 しかし多少新しい時代のものは白き桐箱に入っている。あれはもうわれわれには興味が持てない。

 さてガラス絵のことだが私はその歴史に関しても知りたいと思っているが、なにしろ欧州、インド、支那、日本といった具合にかなり手広い諸国で製作されているかのようである上にその絵には署名あるものがない。年代も記されていないので、誰が、どこで、どうして作ったのかわからない。私の持っている、マドモアゼルロアソンという文字が記されている二人の娘の肖像も、まったくオランダあたりから渡来したのかと思っていたが、よく見るとそれは支那製である事がわかった。あるいは案外長崎辺りで作った日本品であるかも知れない。ところで私はだいたい、ガラス絵だからといって何でも買って集めたり歴史を調べたりする余暇も興味もないので、ただわからないままにそのよきものを眺めて楽しんでいるだけである。
 私の現在所持しているものの中でも、あるいはその他でもっとも多く見受けるガラス絵の種類を大別すると、純国産ともいえるところの浮世絵末期的なる職人芸術であるところの美人、名勝、風俗、役者等のものと、次には長崎あるいは支那で多く造られたであろうところの西洋人、西洋名勝、西洋風俗絵、オランダ風車のある風景に点景人物が添えられたもの等がある。これはその技法はまったく陰影あるところの油絵風である。たぶん、西洋の油画、版画とか、石版、銅版画の類よりのコピーであろうと思われる。
 次には純粋の支那国産的なるものがある。これは支那絵の描法をもって線と色彩によって濃厚にかつおもしろく描かれてある。
 以上の三種類のものがもっとも現在でも多く見当たるところのものである。日本国産的のものは画品は下がるものもあるが下がった中にまた捨て難い味と強い色感と末期的浮世絵風を私は発見する。そして簡単な線で囲み平面を塗りつぶしたる描法によってよき単化が偶然にも行なわれてはなはだ得難いものもある。
 風景画などの中には、その点景人物のことごとくは、当時の人物写真の美人を切り抜いて貼りつけてあるものがある。そして風景だけは描かれている。俗っぽいものだがその考案に愛矯が持てる。
 支那国産的な画風を持つものに私はもっとも美しい美人絵や静物の類を発見する。また鏡台とか手箱の類の引き出しのなかから数枚のエロチックが現れるものもある。私が近頃支那の土産としてもらったものなどは、ほとんど紙に類する程度のうすきガラスに描かれている男女の絵だった。そのうすくて波打てるガラスはまた格別の味を感ぜしめる。
 支那風のガラス絵のガラスはいったいに、質がうすくて波を打っている。泡がある。私は近頃だんだんその波と泡あるうすきガラスに興味をそそられる。
 同じく支那出来のものの中には、西洋画のコピーがはなはだ多い。それは何かつまらない輸入絵とか版画類からの模製と思うが、この種類の中にはずいぶん美しいものが多い。陰影と調子が深く応用されていて、むしろその原画のつまらないものを支那人の心と手とガラスの効果によって、それを宝玉にまで翻訳したというべきものがある。
 私は近頃では主として支那出来のものに興味が傾いている。
 フランス、ドイツにおける新しい画家でガラス絵を試みるものあると聞くが、私はその作品を見ないから何ともいえないが、多分おもしろいものと思う。
 しかしながら現代の作家を別として、要するにガラス絵なるものは署名のないところの職人芸術であり農民美術であったにすぎない。だから非常に偶然にも宝玉を発見し、またほとんど多くが俗悪なガラス玉にすぎないが、しかしその宝玉もまた、本物の玉でなくガラス玉であるところの卑近なる宝玉であり、泥中の蓮でもある。
 ガラス絵のよきものを探す興味はすなわち泥中に蓮を求める興味でもあり酩酒屋のガラス戸を覗いて見る感興でもある。したがってどんなガラス絵でもガラスでさえあればいいとはいかない。ややもすると閉口さされる位のものがある。
 さてそれらのガラス絵の技術はその職人がことごとくいなくなったために判然としないが、つい先頃まで大阪ではその最後の一人のガラス絵職の老人がいたらしいので話を聞こうと思ったところがすでに死んだあとだった。支那や朝鮮では、目下製造されつつあるようだが、それは主として支那絵や日本画の方法と同じく墨をもって線描きが施され、泥絵具が膠で溶解されて塗られているものである。絵具としては泥絵具、金銀泥が用いられている。あるいは、粉末の泥絵具をニスの類を交えてペンキのごとくして用いられていると考えられるものもある。
 現在でもなお朝鮮で作られているところの手箱や箪笥の扉等の装飾のために嵌め込まれたもので水牛の角を薄くセルロイドのごとく透明となし、これに山水鳥獣がおもしろく描かれてあるのを私は見た。それはやはり泥絵具と墨であり絵具は膠で固められているようだ。
 私はガラス絵を観賞する興味も持ってはいるがしかし私は自分でガラス絵を描いてみたいと思う心が強いので結局、めんどうがなくてすぐ手もとにあるところの油絵具を用いて描くことを考えた。それには私はメディアムとして速乾漆液をそのまま柔らかな日本風の彩色筆に含ませて油絵具をきわめて薄くほとんどお汁(つけ)の状態にまで溶解してガラス面へ塗って行く方法をとっている。
 それがもっとも効果がよく、第一早く乾燥するので短気な私にとっては都合がいい。その代わりあまりに早く乾燥するので多少ぼかしはやり難いが、これは熟練によらなければならない。
 筆洗いとしてはアルコールを用いている。手のよごれやガラスの掃除にも重宝である。
 しかしながら多少の大作でもやるとすれば速乾漆液では乾きが早過ぎて不便だ。やはり日本絵具を膠で溶解してゆっくりと描いて行く必要があると思う。
 しかしながら私の考えでは、ガラス絵はなるべく小品のミニアチュールとして、手のひらへ乗せて味わう程度のものがもっとも好ましいものであると思う。それのためには油絵具がもっとも調子の深さを表すためにも便利である。
(「美術新論」昭和五年六月)
   私のガラス絵に就いて

 私は前述べました如く、此の美しい効果を持つ技法を、も一度生かして、もっと画家の仕事へ引き入れて、吾々が水彩やグワッシュを用いる如くガラス絵を試みる様にし度いと思うのであります。それで私は、ナルべく簡単で便利な方法を、種々工夫して見たのです。

     私が目下便利だと思って使用している製作材料

 (A) 油絵具使用の場合
顔料(油絵具) を用います、普通油絵に使うだけの種類は必要です。  (金銀泥) 泥は大変美しい装飾的効果を現わすものです、私はよく金泥で署名をします。 油[#以下「A」と「B」は「油」の下で二行に分かれ、「A」「B」の下に上向きのくくり記号]A ヴェルニアタブロー Vernis a tableaux
B 速乾漆液 工業用薬品店にあります。
 右二種の油をAを7Bを3位いの割合に混合して使用します。此の割合は時に多少、変更してもよいのです。速乾が多くなると早く固まり過ぎて、広い部分など塗るのにむらが出来て困る事があります。又ヴェルニばかり多量では、乾きが遅くて、あとから筆を重ねると、先きの絵具が皆動いて了います。現在私は速乾漆液のみを用いて描きます。
筆 非常に軟かいものがよいので、私は日本画の彩色筆を、大小五六本と、面相筆を二三本用意しています。筆洗い 石油、アルコールを併用します。即ち石油で先ず洗った後に、尚おアルコールでよく洗って置くのです。アルコールは主として、速乾を洗い落すのです。或は手先きのよごれた時や、ガラス面の掃除に使用します。また描き損じた絵を洗い落すにも、アルコールが一番重宝であります。ガラス 油絵で云えばカンヴァスに当るものです、描くべき此のガラスは、成る可く薄くて、凸凹や泡のないものを選び度いのです。昔しのものは、殆んど紙の如く薄いのを用いています。中々味のあるものです。私は便利の上から、写真の乾板の古いものを、常に使用します。写真屋とか製版所へ行けば、いくらでも古いものを売ってくれます。 又特に波打てる泡だらけのガラスも面白いものです。ガラス切り これも必要です。自分の描き度いと思う大きさに、ガラスを切断する必要があります。ガラスを切る事は、多少習練を要します。不用なガラスを何枚も切って見ると、コツがわかるものです。ガラス切りの種類も、色々ありますが、矢張り、本式の、金剛石がついていると称するものが、一番いいでしょう。パレット これは普通の油絵のパレットでよろしい。或はブリキ板を使ってもいいでしょう。最も注意を要する事はパレットの掃除です。ヴェルニや速乾が交じっている絵具を、そのまま捨てて置くと、何んとしても取れなくなるし、次の調色の非常な邪魔を致しますからパレットナイフで掃除した上をアルコールで拭う事です。。 (B) 粉末絵具使用の場合
顔料 図案用粉末絵具を使用してもよいが、色調がどうも卑しくなりますから、日本画用の胡粉、朱、白緑、白群青、群青、黄土、岱赫、金銀泥等を用うるのが最もいい様です。膠 それ等の絵具は日本絵を描く時と、同じ方法で膠を以て絵具をとき、墨を以て線描きを施した上を塗って行くのです。西洋画風に描くには線を省き、調子のみを以て描いて行く。
     ガラス絵製作の順序

 先ず、一枚の風景画を作ろうとします。第一に必要なるは、早速モティフとして適当な場所を探しに出なくてはなりません。これは鉛筆とクレイオンとスケッチ帖位いあればいいでしょう。
 都合のいいモティフに出会ったとすると、それを充分正確に写生することです。そしてそれへ、覚えの色だけを塗って置くのです。色彩の記憶さえ確かなら、鉛筆の素描だけでもいいのですが成る可く色彩も施して置く方が、絵の調子を破らず、楽くに仕上げる事が出来ます。手古摺る事が少ないのです。
 スケッチした素描淡彩を、家へ持ち帰えって、その上へ同じ大きさのガラスをのせ、決して位置がくるわない様にして、絵具を前記の油で溶解し乍ら、少しずつ塗って行くのであります。或は粉末絵具を以って。
 ガラスは勿論、アルコールで充分美しく、掃除して置く必要があります。
 ここで普通の絵とは違って、特別な考えが必要である事は、絵の結果、即ち答えが、裏手へ現われるのですから、普通の絵の如く、幾度も色を重ねて、仕上げて行く事が出来ない事です。一度塗った色彩や線は、最後の一筆であり結果の色であります。それで、描くべき順序が、普通の絵とは全く反対になるわけです。例えば空全体を塗って置いて、あとから月を描こうとしても、それは駄目です。空の色に蔽われて了って、月は画面へ決して現われないでしょう、即ち月は、何よりも真先きへ描いて置く必要があります。そして、あとから空全体を塗りつぶさなくてはならないのです。若しも雲があれば、雲も月と共に、先きへ描いて置かなくてはならないのです。
 林檎を描くとします。その光ったハイライトの部分は、先きに描いて置くのです。次に暗い影を描くのです。最後に赤い全体の球を塗りつぶすのであります。
 滑稽な事には、自分の署名などは、左文字で一番最初に、記して置かねばならない事です。
 それをうっかりして、先きへ描いて置くべきものを忘れて了って、あとで弱る事があります。例えば裸体人物の時に、臍を忘れて、腹全体を塗りつぶして、あとから表を返して見て、驚く事があります。こんな時には、臍の部分だけ、あとから絵具を、アルコールで拭い取らなければなりません、地塗りとか、空とかバックなどは、最後の仕事です。樹木などは、葉の一枚一枚の点々は先きに、葉の全体の固まりは、後から塗ります。道路の点景人物は先きに、石ころも先きに道全体の色は、最後に塗りつぶさねばなりません。
 時々裏返えして見て、仕上って行く絵の調子を眺め、次の仕事を考える必要もあります。あまり度々裏返えして見てばかり居ると、勢や気合いが抜けて絵が大変いじけて了うものであります。ある程度までは、度胸や胆力が必要です。
 処で仕上った絵は、実物の風景とは、左右が反対になっています。丁度エッチングの場合と同じ事であります。
 絵具の塗り方は、あまり厚くぬらない方がいいのです。なるべく淡く、サラサラとつけて行く方がよろしい。ガラスの透明を利用してタッチを表わす工夫をするとよいのです。或は淡い、絵具を二三回も重ねて、重く濃厚な部分や、軽く半透明な場所なども作るのです。すると、ガラス特有の味が出るものです。
 顔料に就いては、油絵具を用いた場合も、粉絵具を用いた場合も、その描法に変りはありません。その効果に於て、油絵具の方は少し濃厚であります。粉末絵具は、自然粉っぽい気がして、サラサラとした感じがします。極く小品には油絵具がよく、少し大ものには粉末絵具が適している様であります。絵具ののびもよろしい。古いガラス絵などは、主として粉末絵具が使ってある様に思えます。
 一枚のガラス面が、殆んど絵具で塗りつぶされた時は、絵が仕上った時であります。
 出来上った絵は、よく乾かす事が必要です。乾くとその絵具のついてある面へ、その絵の調子によって、黒い紙か或は藍、或は鼠色の紙をガラスと同じ大きさに切って当てます。その紙の地色によって、絵の調子を、強めたり弱めたりする事が出来ます。
 色紙を当てると、次に馬糞紙の様な厚紙を、これもガラスと同じ大きさに切ってすて、周囲を細い色紙か何かで、糊付けにして了います。こうすると、ガラスで手を傷けたりすることもなく少し位い取り落しても、こわれる事はありません。斯うして一枚の絵の仕上げを終るのであります。

     画面の大きさの事

 画面の大きさを考える事は、重要な事であります。油絵は八号位いから百号、二百号、三百号とどれ位いでも大きく描く事も出来、又その材料が、それだけの味を充分受け持つ力のある材料であるのです。処で水彩は、もう二十五号以上にもなると、材料に無理が起って不愉快になります。水彩と云う材料は、そんな大ものを引受ける力がありません。何んとしても小品の味であります。
 ガラス絵は特に、大ものはいけない様であります。第一馬鹿に大きいガラスと云うものが、人に何時破れるかも知れぬと云う不安を与えていけません。
 それから、次へ次へと絵具を重ねることが出来ないものですから、勢い画面が単調になります。筆触もなければ絵具の厚みもない、ここで不安と単調が重なるものですから、どうしても不愉快が起らざるを得ません。
 そんなわけで、大体に於てガラス絵の大作と云うものは、昔しから尠ない様です。日本製の風景画などに、よく三十号位いもあるのがありますが、それは大変面白くないもので、怠屈な下等な感じのするものであります。何んといってもガラス絵は、小品に限ります。Miniature の味です。小さなガラスを透して来る宝石のような心もちのする色の輝きです。宝石なども小さいから貴く好ましいのですが、石炭の様に、ごろごろ道端に転がって居れば、馬の糞と大して変りは無いでしょう。
 私の考えでは、ガラス絵として最も好ましい大きさは、二三寸四方から五寸位い、と思います。私は三号以上のものを描いた事はありません。
 ここに、作画の上に注意すべき事は、何しろ左様に小さい作品である上に、殆んど想像で仕上げるものでありますから、例えば子供の肖像を描く場合、それは下絵として充分正確な素描も必要であって、芸術として厳重な考えを持って、やらなくてはいけません。どうかしてそれが、子供雑誌とか、婦人雑誌などの、甚だセンチメンタルな玩具となって了う事も怖れねばならないのであります。
 要するにガラス絵と云っても、少しも他の油絵や、水彩と変わりなく充分の写実力を養って後ちでないと面白い芸術品は出来ないでしょう。
 食物で云えばガラス絵などは、間食の如きものでしょう。間食で生命を繋ぐ事は六つかしい。米で常に腹を養って置かなくてはなりません。
 その上ガラス絵は大体に於て趣味的な仕事ですから、あまりに変なガラス絵のみに熱中し、油絵を忘れて製作していると多少鼻もちならぬ趣味臭さを発散して不愉快ですから、これも亦間食として作るべきでしょう。あり過ぎる趣味は全く臭くていけません。

     額縁の事

 ガラス絵とその額縁との関係は、中々重大であります。何んと云っても、二三寸の小品の事ですから、これに厭な額縁がついていれば、その小さな画面は飛ばされて了います。充分中の光彩を添えるだけのものでなくてはならないでしょう。
 支那のものでは、よく紫檀の縁がついています。上品でいいものです。古いビードロ絵にはそれは西洋風のいい味を持つ古めかしい縁がついています。
 私は額縁屋へ喧かましく云って造らせたりしますが、どうも云う事を聞かないので癪だから致方なく、私は場末の古道具屋をあさって、昔の舶来縁の古いのを探しまわるのです。古額は案外美しいものがあります。昔し渡った鏡のフチなど今も散髪屋などによく残っていますが、中々いいものがあるのです。こんなものは古道具屋では、あまり価値が無いものですから、気の毒な様なねだんで売ってくれます。こんなのを常に買い込んで置いて、時に応じてその画面の寸法に合わせて、額縁屋で切らせ、組み合させるのです。すると絵にピッタリと合った味が、成立する事があります。
 先ず以上その大略の事は申したつもりであります。

   大和魂の衰弱

 私自身の経験から云うと、私達ちの学生時代は、自分等の作品を先生の宅へ持参して、特に見てもらうと云う事をあまり好まないと云う気風が多かった様に記憶する。殊に展覧会前などに於て持参に及ぶ男を見ると、何んだ、嫌な奴めと考えられた位いのものであった。自分の絵は自分で厳しく判断すれば大概判っているもので、それが判らない位いの鈍感ならさっさと絵事はあきらめる方がいいと考えていた。そして尚お、先生達ちの絵に対してさえも厳しい批評眼を持つ事を忘れなかった。
 学校や研究所は自分達ちの工場と考え、お互が励み合いお互で批評し合い、賞め合い、悪口をいい合い、或は自分を批判し尽して以て満足していたものであった。
 初めて文展が出来た時、私達ちは何も知らずに暮していたが、多少大人びた者共は、ひそかにお互の眼を掠めて作品を持って先生達ちの内見を乞いに伺うものが現れた様だった。左様な所業は何かしら非常な悪徳の一つとさえ見做されていて、敢えて行うものは、夜陰に乗じて、カンヴァスを風呂敷につつみ、そっと先生の門を敲くと云った具合であったらしい。又学生の分在であり乍ら文展に絵を運ぶと云う事は少年が女郎買いすると同じ程度に於て人目を憚ったものである。或は、むしろ、女郎買いの方は憚らなかったとも云えるが、文展出品は内密を主んじる風があった。
 私などは、殊の外恥かしがり屋の故を以てか、浅草や千束町へは毎晩通っていたが、文展へ絵を出す如き行為は決してなすまじきものであると考えていた事は確かである。そして吾々はそれによってある気位いを自分自身で感じていたものだった。先ず鞭声粛(シュク)々時代と云えば云える。東洋的大和魂がまだ吾々の心の片隅に下宿していたと云っていいかも知れない。
 その私達ちの学生時代からたった十幾年経た今日、時代は急速に移って、鞭声粛々とは何んですかと訊ねられる事に立ち到った。今に大和魂と云った位いでは日本でも通じなくなる時代が来ないとも限らない。
 勿論、画学生は数から云って、今とは到底比較にならない少数のものが、本当に苦労して勉強していたものであるが、私達ちの時代よりもっともっと以前にあっては、全くこれは話にならない処の苦労をなめた処の少数にして真面目な研究者があった訳であろう。然し、嫌な奴も存在したであろう。
 目下芸術教育は盛んに普及し、一般的となり大衆的となりつつある。従って、どれが専門の画学生やら、アマツールやらさっぱり判らぬ時代となって来ている。田舎の図画の教師達や図案家、名家の令嬢、妻君、女学生、会社員、あらゆる職を他に持っている人達の余技として、絵画が普及し、隆盛になりつつある様である。
 それは真とに日本文化の為めに結構な事であるが、それだけ一般化され、民衆化され、平凡化されて来た芸術の仕事の上に於ては、従って往時の画家の持っていた処の大和魂とも申すべき画家の気位いが衰弱して行く情けなさは如何ともする事が出来ないのである。そしてただ、一寸、入選さえ毎年つづけていれば、それで校長と親族へ申訳が立つと云う位いの、安価な慾望までが普及しつつあるかの如くである。
 お引立てを蒙る、御愛顧を願う、と云う文句は米屋か仕立屋の広告文で最早や無いのである。芸術家は常に各展覧会に於て特別のお引立てと御愛顧を蒙らなければならないが為めに、年末年始、暑中は勿論、かなりのはがきさえも用意せねばならない時代である。そうしなければ、この文明の世界に絵描きは立っても居ても居られないと云う場合に立ち到っているかの如くである。
 従って近頃位い、各先輩や審査員の家へ絵を持って廻る画学生の多い時代はかつて無いと云っていいかも知れない。
 批評を受けることは必ずしも悪い事では無いが、それが単に絵の批評だけであるならいいが、或はそれ以外の点に目的がある如き頗るややこしい場合がかなりあるのである。
 とに角一度審査員の目に触れさせて置く必要があると云う考えから、無理やりに見せにくると云う事が無いとは断言出来ない事を私達ちは感じる。その証拠に、この絵はよくないから駄目だと考えますと云った筈の絵が矢張り出品されている事も多いのである。
 ひどいのになると、頼み甲斐ある先生のみを撰んで一つの絵を持ち廻っている人達ちさえあるものである。そして、悉く内意を得て置くと名誉にありつき易いと云う考案である。
 それを吾々が何も知らず、うっかりと、時間を捧げて苦しい思いを噛み殺し乍ら正直に何とか批評をさせられる訳である。後に到ってその男が各人の玄関へ立ち現れたと聞くに及んで私達は淫婦にだまされたよりも尚お更らの不愉快を感じる事屡々である。それらの人種を私達は廻しをとる男と呼んでいる。
 全く、近代世相に於ける人の心は単純なる大和魂では片づけられない。今の時代にそんな野暮な事は流行しませんよと云われれば全くそれまでの話である。廻しをとる位の事は全くの普通事だと云えば左様らしくもある。中元御祝儀と暑中見舞と、相変りませず御愛顧を願わなければ全く以て、食って行けない時代であるかも知れない。然し乍ら、左様に苦労してまで描かねばならぬ程、面白い油絵であり且売れる見込みのあるべき油絵ではあるまいと思うのだが。
 私は秋の季節になると近頃よくこんな事を考えさされるのである。

   洋画ではなぜ裸体画をかくか

 私の考えでは、人間はお互い同士の人間の相貌に対してことのほか美しさを感じ、興味を覚え強い執着を持ち、その心を詳らかに理解するものであると思うのです。
 それは何しろわれわれは同類でありますから、私達が犬や馬や虎や牡丹やメロンやコップや花瓶や猫の心を理解し、その形相を認めることが出来るより以上によく認め理解し得るものであると思うのであります。
 よく判り、よく理解出来、その相貌の美しさを詳細に知ることが出来、強く執着するが故にその美を現そうとする心もしたがって強く、その表現も簡単なことではすまされないのです。欲の上に欲が重なり、ああでもないこうでもないところの複雑極まりなき表現欲が積り、何枚でも何枚でも描いてみたくなるのであります。
 要するに同類である人間の構成の美しさを知り、それに執着することは一つにはわれわれの本能の心が助けているのでありましょう。本能が手伝うから花鳥山水に対するよりも今少し深刻であり、むしろどうかすると多少のいやらしさをさえ持つところの深さにおいて執着を感じるのであります。
 したがって裸体、ことに裸女を描く場合、あるいは起こりがちな猥褻感もある程度までは避け難いところのものであります。しかしそれは伴うところの事件であって、主体ではないのです。喰べてみたらと思う者がいやしいのでしょう。またたべたらうまそうにのみ描く画家もいやしいでしょう。
 春信や師宣の春画も立派な裸体群像だと私は考えていますが、猥感を主体としているために人前だけははばかる必要があるのです。
 すなわち西洋画のみに限らずインドの仏像もギリシャの神様もロダン、マイヨール、ルノアールも、南洋の彫刻も師宣や春信も、裸体の美をしつこく表現しています。
 しかしともかく私は自動車や汽車の相貌、花瓶や牡丹やメロンや富士山の相貌より以上のしつこさにおいて裸体ことに裸女の相形に興味を持っています。
 その他に画家の勉強の方法として、これは西洋画に限って裸体を描きます。
 それはデッサンや油絵の習作のためには裸体が、毎日毎日の練習にはもっとも適当であり便利であるためでしょう。それはきわまりなき立体感やその剛軟、微妙な色調とデリケートな凸凹と明暗の調子、そして決してごまかし得ないところの人体の形の構成をことごとく表現し描き出すことは、もっとも困難な仕事とされています。したがって裸体習作の困難は、写実を常に本領とするところの油絵の基礎工事であります。それは画学生の初学から一生涯つきまとうところの基礎工事であり難工事でありましょう。
(「美術新論」昭和四年六月)
   挿絵の雑談

 よほど以前の事だが、宇野浩二(うのこうじ)氏が鍋井(なべい)君を通じて自分の小説の挿絵(さしえ)を描いて見てくれないかという話があった。自分は挿絵を全く試みた事がなかったが挿絵というものには相当の興味を持っていたし、小説家と自分とが知り合って共同出来る場合には殊(こと)に仕事もしやすいので、いつか描いて見てもいいといって置いた事があった。ところで最も困る問題は、私が常に東京にいない事だった。大概の小説が東京を中心として描かれているのだから、私が関西にいては、その日その日の原稿の往復に、どれだけ手数を要するか知れない上に絵を作る上からでも、例えば、誰れでもが知っている銀座のタイガアを道頓堀(どうとんぼり)の美人座でごまかして置く訳には行かない。
 新聞小説なら、原稿が三、四十回分でもすでに出来上ってさえいてくれたら、私がしばらくの間を東京で暮して仕上げてしまえば出来る訳であるが大概の場合、長編の原稿は、その日その日、一回分ずつ画家の方へ廻されてくるのであるから、到底地方に居据(いすわ)っていては出来る仕事ではないのであった。
 そんな事や何かで、ついそのままになっていた処が、突然私は大阪朝日から邦枝完二(くにえだかんじ)氏の「雨中双景」の挿絵を頼まれたので、時代ものは背景の関係も尠(すくな)いし、居据っていながら描けるので、つい引受けて見たのが挿絵を試みた最初だった。
次ページ
ページジャンプ
青空文庫の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
作品情報参照
mixiチェック!
Twitterに投稿
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶし青空文庫

Size:157 KB

担当:undef