油絵新技法
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著者名:小出楢重 

 もちろん日本画の世界とか、フランスにあっては画商人の多くがその仲間で市価を製造するが、日本の洋画の世界には左様な組織[#「組識」は底本では「組識」]はまだ現れていないので、画家は勝手気ままの思わくだけの価格を自作につけるので画家がヒステリーを起こしている時などは時々非常に高価か、馬鹿に低廉であるかも知れないし、どうせ売れもしない大作だとあきらめるとやけ糞で何万円とつけてみたりするのだ。まったくもって価格がよい絵を示しているわけでもないと私がいったらその人は大いに失望した。
 しかしいかにあてにならぬ価格でも、もう洋画が流行してから明治、大正を過ぎた今日である。何となく画家のうちにもおおよその見当を自分で発見して来た如くである。やはり西洋の画商のしきたりをまねたものと思うが、絵画の号数に応じてその各自の地位、自惚れを考慮に入れて、価格を定めつつある。すなわち一号を何円と定める、一号を仮に一〇円とすると一〇号の大きさの油絵は一〇〇円であり、一号を二〇円と定めると一〇号が二〇〇円になるわけだ。
 さて各自が勝手な市価だが現在では大体において一号五〇円以下では決して売らないという大家もあり、なおそれ以上彼らを眼下に見下ろして俺は国際的の御一人だから一号三〇〇円以下では売らないといったりすることもあるようだが、内実はいかに相なっているかそれは素人にはわからない。しかしまず常識的な画家の相当の作品は一号一〇円から五〇円の間を低迷しているように私には思える。

 さて、現代画家でもっとも高く、もっとも多くの自作をもっとも手広く売り拡めんがためには、金持ちの応接間はことごとく上がり込むだけの勇気と、手打ちうどんの如き太き神経を必要とするだろう。自分で絵を作り価格を考え、外交員ともなり、自個の芸術的存在を明らかにし、その作品のよろしきものだという証拠の製造もやるといえば、まったく精力と健康も必要だろう。それで本当にいい作品が出来れば幸いだが、天は二物を与えずともいわれている。
 それらの健康と太き神経なく、金持ちの応接室と聞いただけでも便通を催すという潔癖なる神様で、パトロンも金もなかったら、この現代ではいかに善き作品を作っても、作れば作るほど、食物が得られない。さてパトロンなるものも左様に多く転がって存在するわけでもなく、万一あったとしても、それはかの愛妾達がする体験を画家もやってみねばならないことであり、神経が尖っていれば辛抱は出来ないだろう。

 近頃、研究所へ通う多くの画学生達や展覧会への相当の出品者達で本当に何もかもを打ち捨て、絵に噛りついているという人達の存在がいよいよこの世では許されなくなって来たものであるか、必ず何か他に余業を持っている人達が多くなって来つつある如く思える。新進作家にして同時に小学校の訓導であり、百貨店の宣伝部員であったり、図案家であったり、会社員であったり、ヱレヴェーターボーイであったりする。今にバスガールや女給で相当の出品者を発見することになればそれも面白いと思う。
 日曜画家という名が現れている。すなわち日曜だけ画家となり得る生活を持つところの半分の神様すなわち半神半人の一群である。これらはまったく芸術とは関係なき仕事においてわが臓腑と、妻子を養いつつ日曜は神様になろうとする近代の傾向である。近頃、非常に多い画人の中にはこの種の日曜画家は案外多いものだろうと私は思う。
 悲しいことには絵画の様式は複雑であり、たった一日で完成すべき性質を欠いているがためにここに、絵画の本質と日曜との間に悲劇が起こってくる。
 油絵という芸術が現代生活上の必要からおいおいと日曜のみの仕事になっていったら、会社員の俳句ともなり、娘さんの茶道、生花、長唄のおけいこともなり、普及はするが淋しい結果になりはしないかと思う。
 その代り相当の優秀な作家が、絵によって世の役に立つところの仕事、世の中に絵の描けない人達のためにつくすべき仕事に向かって流れて行くことは私は悪くないと思う。美しく近代的なショーウィンドを構成し、ペンキ看板はよりよくなり、女の衣服は新鮮であり新聞紙や雑誌は飾られ、□絵は工夫され、ポスターと新薬は面目を改めていくだろう。都会は美しさを増す。
 しかながら一軒のかしわ屋の看板を描くために五〇人の画家が押し寄せたとしたらどうだ。どうしていいかにも私も見当がつかない。
 だが、やきもきと何かと戦っているところの若いものはまだいいとして、本当に芸術に噛りつきながらもつぶしの利かない、しかも世の中の焦点から消えて行く日本の老大家達の末もあまり明るいものではない、かと思われる。
(「セレクト」昭和五年三月〜四月)
   秋の雑感

 秋の大展覧会というものは、例えば二科にしても、先ず五十銭の入場料を支払えば、日本全体の今年度に於ける新芸術の進歩、方向その他一切の技術から遠くフランス画壇の意向から、その尖端の新柄の土産に至るまで、悉くを眺めつくす事が出来る甚だ便利な封切りものの常設館でもある。
 ここで秋の封切りを一度観賞しておくと、若い男女は日本の新芸術からフランスの風向きに至るまでを一年間は有効に話の種として交際する事が出来る。
 もし私が若い男だったら、やはり断髪の近代女性と共にあの会場を散歩して見るであろう。そしてピカソ、ドラン、シュール・レアリズムは、と云った事を口走り乍ら、その無数の大作を私達の背景として漫歩するだろう。そしてその中の一枚を彼女へのお土産として、彼女のピアノの上の壁の為めに買ってやるには少々高価であり過ぎる。そこで絵はがきを買って待たせておいた自動車へ埋まり、銀座へ出て、ハンドバックを買ってやるかも知れない。
 その訳でかどうか知らないが、あの幾百枚の油絵の中で、何点が見知らぬ人に買われて行くかを注意して見ると、全く驚くべき少数のものが引取られるのみである。東京はまだいい、大阪での開催中において、毎年一枚かせいぜい二枚か売れて行くだけであると云うと何か嘘のような、税務署への申告のような話だが本当なのだ。それも調べて見ると何かの縁につながれたる人情を発見すると云う有様である。
 だが展覧会は売る為めの仕事ではないと云えば又それまでの事ではあるが、画家の一年中の代表作が売れて行く事は悪い現象でもあるまい。
 だが近代の展覧会はいよいよ形が壮大となり、秋季大興行の一つとなって来つつある。そして近代の画家は一年中、食物と戦いつつ若き男女の漫歩に適するハイカラなる背景を無給で製造している訳でもある。何千人の人達が散歩して了い画界の潮流を示して了うと直ちに引込めてあとは画室の納屋へ永久に立てかけておく。
 せめてそれでは、入場者が全国野球大会の一日分位いでもあって、その五十銭の入場料の配当にでも出品作家が預かればまず生活の一部分は救われるだろうが、現在の如き程度であっては、展覧会は来年度の開催が保証されれば幸福と考えねばならない次第だそうである。
 そこで現代の若き作家は商品見本を秋に示し、一年間は潜行して画商と、番頭と、作者を兼業しつつ多忙を極め、なるべく嫌らしく立廻って漸く生存する事が出来るだろう。
 * * * *
 だが、画家の絵を作りたがる心根は又いじらしいものである。如何にいじめられ、望みを奪われ、金が無くとも、ただ絵が描き度いという猛烈な本能に引ずられて、我々は仕事をしているために、決して画家は如何に条件が悪くとも、怠業をしたり示威的な行動を起したりはしない。何んだって構わない。自分の一年中の仕事の封が切って見せたくて堪らないのだ。たれかの背景となりたくて堪らないのである。だから画家が不出品同盟とか脱退とかいって怒るのは、必ず鑑査に関する時か、自己の名誉、権力についての時ばかりだといっていい。それが芸術家の性慾だ。
 全く画家の製作慾も、性慾そのものよりも強い。性慾は制限すれば健康を増すが、画家から筆を奪うと彼は病気になる。
 さて、展覧会では絵画は背景であり、見本市場であり、競争場であり常設館であるとすれば、勢い素晴らしき存在と人気が若き画家の常識ともなり勝ちだ。
 従って絵画は、その画面を近頃著るしく拡大しつつあり、何か不思議な世界を描いて近所の絵画をへこまそうと企て、あるいは日本以上に展覧会と画家で充満せるパリでは、藤田氏の奇妙な頭が考案されたりするのも無理では決してないだろう。
 日本の近代の絵にしてもがどうやら手数を省いて急激に人の眼と神経をなぐりつけようとする傾向の画風と手法が発達しつつあり、尚いよいよ発達するはずだと思う。
 かくして秋の大展覧会は野球場であり常設館となって、素晴らしい人気を博し得れば幸いである。私も亦なるべく大勢の婦人達を誘って近代的漫歩のために何回も訪問する事に努力したい。
 然し乍ら若くて野心ある画家は、空中美人大観兵式でも、らくらくと描き上げるだけの夢と勇気を持つが、もう多少の老年となれば左様な事も億劫にして莫迦らしく、若い男女の為めの背景となるところの興味も失って了う。つい洗練された自分の芸術境の三昧に入り度がり、籠居して宝玉の製造に没頭する。
 情けない事には、巴里の如くその玉を引取るべき画商がなく、展覧会は完全に登竜門の大競技場となり漫歩の背景となりつつあるが為めにこの常設館のイルミネーションの中で完成されたる滋味ある宝玉も同居するのだから、甚だそれはねぼけた存在と見え勝ちである。玉から云えば他の作品はポスターでありポスターから云えば玉はねぼけた存在であると云う。又そう云う処に若い心が発散するのである。然し若き尖端は永久に尖端ではあり得ない。やがて今の尖端人は又玉を製造する日が来る。そして次の尖端の邪魔をする訳である。
 私は芸術家が宝玉と化けた時、これを何か適当な陳列棚へ集めて、尖端の大競争場裡から救い上げて見度いと思う。でないと、全く球場に埋まる老いたる玉が気の毒であり、芸術の完成を萎びさせていけないと思う。尖端と元気のみが芸術だとは云えないから。

   かげひなた漫談

 東洋画には陰影がない。強いて凹みを作らねばならぬ時には淡墨をもって隈というものをつける。これは単に凹んだ場所をやや暗くするだけのものであって、その隈どりの方向によってこの世の太陽が今どちらに存在するかといったことは一切わからない。この現実の太陽光線とは一向無関係であるところのたんなる凹みであるに過ぎない。
 ところが西洋画における陰影は必ず太陽のある位置がわかるところのこの世の影である。もちろん西洋でもうんと古代の初期絵画になると一種の隈で現実世界の光線とは無関係になっていることがあるが、相当絵画が進歩してからのものは非常にいよいよ太陽光線によって現れたところのこの世界のあらゆる光線の強弱階段を描いている。印象派などは極端に太陽光線ばかりを描いたようだが、ともかく影とひなたは油絵の母体であり相貌といっていい。だから日本画の技術のみを習得した画家には絶対に油絵は早速試みることは出来ないが、洋画家はちょっと道楽に日本画の墨画を試みてもまずいながらも成功する例が沢山ある。それは自分達人種の伝統にからみついているところのお里へちょっと帰りさえすれば出来る仕事であるのだ。西洋人は素人でも子供でもが何か絵を描こうとする時必ず影とひなたから描いて行く、そして絵の心得なきものでも容易に遠近と立体とを表現することが出来る。
 西洋の神様や幽霊の絵は足だけは宙に浮かび上がっているが、やはり太陽の光を浴びているところの確実なる地上の存在となって立っている。幽霊でさえもまず半透明体位のところで、やはり光線を浴びてまごついている。中世紀の宗教画やバーンジョーンズの神様の絵など見ると神様達はちょうど靴か下駄の如く何か変な形のものを足へ履いて、そこから焔が立ち昇っていて、この世の太陽光線によって光と反射と影を伴うて立っている。だから私はややもすると神様とは信じられないで宝塚の少女歌劇を見ている心が起きてくる場合がある。フットライトに照し出された、芝居の神様を思い浮かべることがある。かの壷坂霊験記を見ると、観音様がなんといっても人間のことだから、完全に日本画の如く線と、平面と、半透明体とになり切れないものだから、やむなくきらきらする衣裳を電燈に輝かせつつ光と影を持ったまま岩と雲の間に立ち現れ、われこそは観音也とのたまう。もし役者が完全に透明となる薬でもあれば、彼らは直ちに服用して線となり透明体と化してしまうであろう。
 で私などはどうも陰影ある竜とか観音、神様などをば習慣的に好まなくなっている。ただあらましの線だけ与えてくれれば当方で勝手な観音や神様を呼んで、勝手にありがたがってみたりすることに慣れている。
 日本のエロチックな浮世絵の裸体とか足にしてもがもちろん影がないので、その線条の赴くところにしたがって観音は自然を空想しながらよろしく当てはめて行く。その点はまことに画家の仕事は楽で便利である。ほんの略画、素描、一部のアウトラインだけを示すと、日本人は勝手な色彩なり想像を篏め込んでくれる仕掛けとなっている。一本の指で万事を悟らせる一休禅師のコツもこれであろう。二、三本の柳の数条の線へ幽霊と文字で記してさえも、勝手に怖ろしがってくれる、悟りの早い気の利いた人種であり好ましい東洋精神である。
 もしこれを無風流で禅の心得なき西洋人に見せたら、どうも本当に合点が行かないので一向何の顔もしないかも知れない。地図ですかと訊かれては、ノンノン、幽霊ですよ、それドロドロなどいって見てもなんとも感じないので阿呆らしくなって仕舞うだろう。ドロドロといえば直ちに怖ろしがらねばならぬという礼儀を知らないのだから困るのだ。
 でもこの東洋の世界をば科学文明は仙人と道釈人物、幽霊、鶴亀、竜の類を追い出し、あるいは動物園へ収容してしまった。そして一本の指くらいでは何も悟ってはくれない。はなはだ現実的で科学的で理論的で、批判的構成的、立体的にして陰あるところ必ず太陽のある世界へとうとう暴露してしまった。
 そしてこの世は、少女歌劇の神様が征服しつつあるともいえる。近頃のシュールレアリズムの類にしてもが、あのキリコなどの作画を見ても、室内に馬がいたり、大戦争が始まっていたりする。実に超現実とは見えるけれどもしかし実に正方形の室内が確実に存在し、まさに大戦争が立体的な箱の中にさもほんものらしく始まっている。シュールであるがあくまで現実的である点に不思議な誘惑を私は感じる。
 日本人描くところのシュールは超の方は容易に出来るのだが、何しろ永い星霜を仙人と鶴と亀とを友としていた関係上、なかなかレアリズムとか写実とか、光線の階調の研究とかいう不粋な方面はどうもまだ板につかない関係もあるが、なかなかレアリズムの方がうまく行かないとみえて何かせんべいの如く平坦にしてややもすると大津絵とばけてしまうこともある。
(「みづゑ」昭和五年九月)
   暑中閑談

 この世に住んでいる以上は、ごく少々でも自分の世界に極楽を見出す必要はある。でないとあまりにも憐れだから。しかしこの世といってもパリの都もこの世だし、アメリカもロシアもこの世だが、われわれのこの世は日本現代である。この日本現代のこの世こそは極楽の中でもはなはだ不安定な極楽だと思えてならない。なぜだかわれわれ絵描き渡世するものにはよくわからないが、どうも安定な感じだけはしないことは確かだ。私等の仕事の絵画の構図と構成は第一の条件として安定を求めている。そして統一である。昔から天地人といって、少々先端的な例ではないが、天地人の構図はあらゆる方面にも用いられている構図の基礎である。
 色彩においても調子においても、画面の全面にわたってその軽重濃淡配置よろしき時絵画は仕上がり、人はその画面に向かって安心して見ほれることが出来る。機関車、飛行機、軍艦の安定は絵画の調子の安定より以上に必要だろうと思う。調子、色彩、リズムの不整頓な絵画を見せて死傷者を出した展覧会というものはない。
 しかしながら明治以来われわれは単位のまったく違った文化の将来によっていわゆる過渡期という年代があまりにも永く続いているので、極楽は不安定なものだとさえ習慣によって思ってしまうようにさえなりつつあるような気さえする。だが一枚の絵でさえも調子を合せるに一〇日もかかることがあるし、構図の安定に幾日間を費やしてなおまとまらないのだから、この極楽世界の混乱をパンやゴムで消して見ても、何時仕上がるか見当がつかないかも知れない。
 とにかく家庭、建築、人情、風俗、生活の形式、儀礼等がある年代を経て工夫統一され、よろしき調和を現して滑らかに進行している時代ではその生活、風俗、浮世の雑景はそのままにどの一角を切り取っても画面に絵としてのよろしき構図を形造るものであり、それがためについその風俗、生活の有様が画家の絵を作る本能を都合よく刺戟する。
 由来、画家というものははなはだ本能的な存在であって、描くに足るだけの対象物に出会うとどうあっても描いてみたいので、そこに理由や理屈を見出しているのんきな寸暇が見出せないのである。それは恋愛としかしてそれに続く性慾の性急にも似ているといっていい。そこに何か不都合な障害があってそれを描くことが差し止められると神経衰弱的傾向を現し自狂的となりやすい。
 だから安定にして統一ある生活の美しさがあれば、画家は直ちにその生活を描くにきまっていると思う。近頃の戦争文学にしてもがそうである。世界大戦の休止して約十年の後人間はやっと戦争を芸術として味わうだけの安定を得たのである。日本では関東大地震の名画はまだ現れない。
 生活の天地人が定まらない限りややもすると、画家は天国へ志を預けてしまうことさえある。ある時代には画家はことごとく達磨と鶴と、仙人と竹石にのみ安定を発見した時もある。と同時にある時代では極端に生活を芸術の対象とした時代もある。かの浮世絵全盛期ではほとんど仙人も達磨も天からのそのそ降りて来て、ひどい達磨などは美人の裾に感じて立ち上がって踊り出したりしている。まずこれなどは生活の安定を少し通り過ぎた時代だったに違いない。
 さてこの現代の不安不統一をきわめた風俗人情を持てるわが極楽世界では、画家はどれだけ現代生活を芸術へ織り込んでいるかと思ってみるに、どうもむしろ反対にある時代に画家達が現世を逃避して鶴や、仙人、道釈人物、竹石、支那楼閣山水のみ描いて心を慰めたと同じように現代画家は生活から遠ざかって静物、裸体、地球のしわとしての山水、風景を描いているようだ。大体静物はいつの時代でも桃は桃であり、花は花である。風俗習慣を除去した裸像は常に永久にただの人間の肉体そのものであり、風景は地球の凸凹であるわけだから、そこに人工的な不統一や混乱がないので、ちょうど鶴や雲や竹石を描くのと同じ都合である。
 さて私はまた日本画の展覧会を眺めることがあるが、その描かれている世界は何かといえば、春信や春草がその頃を描いた如く、この現在の風景を描いているものはあまりない。主としてそれは過去の日本支那の風俗人物美人であり、天平であり、絵巻物は雨月物語、栄華物語、西遊記であり、肖像は平清盛であり、頼朝である。美人は多く徳川期から招待されたるマネキン嬢である。風景は信貴山縁起、信実の風景であり、大雅堂であり、点景は仙人である。たまたまピアノ弾く現代娘もあるにはあるが、その絵の様式はさても美しく仕上げられたる人形仕立てであり、清元によってカルメンとカチューシャと女給の恋を現さんとて企てたるナンセンスをさえ感じることが出来るのである。
 清元とか浄瑠璃の様式というものはまったく、現代女給や女学生の心理を表すには少々不適当なテンポと表情をそなえている如く、日本絵の様式が現代のあらゆるものたとえばビルディングの前に立てるサラリーマンの肖像を描くには折合いが悪く、強いて試みると不調和から来る笑いを観者に与え勝ちである。なおさらそれを芸術の域にまで将来することは尋常の力わざではない。バスガールと車掌の六曲屏風というものがあったら、さて別荘のどの部屋へ立てたらいいか。これならまだ油絵の様式でさえ描けばまた何とか応用の途はある。要するに結局、時代は如何に変遷しても日本画の展覧会は雲と波と鶴と何々八景と上代美人と仏像である。それでもしも日本画の展覧会を西欧都市で開催でもすると、日本に汽車はあるかと訊くところのタタミ、ハラキリ的西洋人はうっかりと東洋天国を夢想して今に吉祥天女在世の生活にあこがれ、日本人はことごとく南宋的山水の中で童子をしたがえて琴を弾じ、治兵衛は今も天満で紙屋をしているように思ってくれたりするかも知れない。そしてはるばるやって来ると富士山の下で天人がカフェーを開いているし、新開の東京にはフォーブとシュールレアリズムとプロレタリア芸術が喧嘩をしていたりするわけだから、少々ばかり驚くことだろう。
 すなわち彼らは腹立ちのあまり日本はなぜあの古き天国へ還元しないか、油絵なぞ描くのがそもそも誤りだと、さも親切らしき訓戒を与えて去って行くこともある。この訓戒こそは都会人が田舎へ行くと、誰でも一応は申してみたくなる口上である。私が西洋からの帰途上海へ上陸した折、ちょうど支那人の洋画展覧会があったのでのぞいてみた。するとほとんど拙いものはかえって支那的な感じを持っていたが少々出来のいいのは大概日本の帝展風だった。何故帝展と同じものを描くのか、支那にはもっと支那らしい……と例の口上がいってみたくなったが、さて私はこの口上だけは軽々しくいうべきものではないと思った。支那の若い作家はまた彼らの天国を勝手自由に求めているのだから、いらない世話はしない方がいい。
 さて、若き力ある西洋画家が最新の技法を将来して日本の土を踏むや、彼らは大概一年間はどうしようかを考える。その折角の最新芸術様式によって日本の何者を生かそうかと考える時、生きそうな何者も容易に発見出来ないことがある。古い伝統の上にようやくと重なり重なって統一せるパリの都会とその生活の落着きと、美しさの上に立って動く芸術の様式であり、その様式によって直ちに写し出すことの出来る人間生活、日常風景、都会雑景である。例えばモンマルトル辺りの古びた家並と鎧窓の続くパリの横町と、フランス的な横文字の看板の美しい配列に陶酔せるユトリロふうであるとしても、日本現代の都市へ帰朝すれば、八階のビルディングの下に下駄の如き長家が並び、アッパッパ、学名ホームドレス着用の草履をはいた奥様と女中の点景と、仁丹と福助足袋の広告は、画面構成上少々勝手が違い過ぎはしないか。ここに一年や二年は如何にあのアッパッパと仁丹を表現すべきかについて考えた結果、落胆と、失望と、不勉強と、生活難はどしどしと攻めよせてくる。
 といった悩みはざらにある。すなわち東洋回顧を始めて立体と調子と厳格なる写形的技術をもって障子と襖とかたびらの爺さんを描いてみると、釣り鐘で提燈の風情を現す位の牛刀の味を示す。
 すなわち日本画家が現代生活相を怖れる如く西洋画家も現代生活の諸相を避けて、彼らは永久に地球のしわであるところの山水を描き、永久に人間であるところの裸体の安定を描き、常に新鮮なる食慾を放散するところの菜果を描いて画面に統一をつけているように思える。だから展覧会ではどうも現代肖像画のいい作品が少なく風俗画が絶無でありがちである。
 しかしながら油絵は写実を基礎とするが故に、如何に回避しても現代的風景は人物に静物に、風景に必ず織り込まれて来ることは避け難い。東洋画の如くうるさいところは空白として金箔で埋め、動物園の鶴を雲上に飛ばすだけの自由が技法的にも許されてはいないのである。その背景である現代世相を如何に処理するかの見当が合理的に発見された時に、初めて油絵の技術は日本的に成長して行くのではないかとさえ私は思っている。
 もしもマチスとピカソを招待して一カ月ばかり牛込あたりの下宿屋へ美校学生とともに下宿させたとしたら、彼らはあの世界有数の技術と立体感を如何に発揚するか見ものだろうと思う。煙草盆と机と、茶色の壁紙と雨漏り地図と、桃三個並べて、日本における画家の生活をしみじみ考えるであろうかどうか。私はピカソでないので一向見当がつかないが、一度招待して描かせてみたい。案外日本の画家の方が下宿で制作するコツをよく知っていてうまいかも知れない。
 近頃面白いことには絵画材料店に静物用の壷とバック用のインド更紗の安いイミタシオンと、果実を並べる台等を売っていることである。かくしてまでも西洋館の背景を造る必要もなさそうだが、下宿屋の二階ではまったくその人体と静物の背景には困るだろうと思う。これは同情すべきである。今に裸女用マチス型ソファー、バッグ、シーツ、枕、一組何円のセットが現れ帝展風、二科御用静物セット、裸女兼用といったものが安価で売り出されるかも知れない。
 しかしながら日本の現代は必ずしも左様にセットを用いなくとも今や何パーセントの日本人はベッドと洋室とパジャマで寝ている。かえって私は純日本的な日本髷の裸女と背景が一〇〇号の力作で現れたらむしろ嫌らしいと思う。臥裸婦というわけのわからぬ名題によって、船底枕に友禅の掛布団、枕もとに電気スタンド、団扇、蚊やり香、しかしてあまりの暑さに臥裸婦となった光景ははなはだ生活的だから描いてみてもいいわけだが、さてこれはあまりにも日本人の伝統が第何感を刺戟せずにはおかない。あまりにもぴったりするところのものである。
 ところでソファーとか寝台は部屋の装飾であり、人に見せて多少自慢とする傾向あるものである。そこでソファーの上の人体、寝台上の臥裸婦は日本の閨房程の感じを現さないですむところに、背景としての使用に適当しているという点がある。現れていいものが現れているのだから当然であるが、日本の枕は隠しておくべきものが現れるのだからはなはだ恐縮である。
 現れたる水泳着の足をさっぱりと観賞し得るが、隠されたる裾からの一寸の白い足は驚くべきものを放射する。
 とにかく私なども私自身が洋室に起臥している関係から、裸女は必ず西洋的背景を使っているが、それもまた現代日本の生活であり、また画家としては画家の生活でもあるのだと私は考えている。そして要するに裸女の永久の腹と乳と尻とを描けばいいのである。
 とにかく現代の生活は、日本画家にも西洋画家にも描きづらいものであるらしい。したがって風俗画はことに発達しない傾向がある。もし完全にどの日本の一角を切り取っても必ず絵になるという画家があったら、それは充分なる漫画家であらねばならぬ。あるいはブルジョアがタイピストを膝に乗せて往来を行く汗だくの兵隊の行列を眺めている光景を描くかも知れないところの傾向的画家であるかも知れない。私はもし技術さえ確実であるならば、傾向的作家のうちから現代日本の風俗画のいいものが生まれるかも知れないとさえ思うことがある。




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