油絵新技法
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著者名:小出楢重 

 その画法には秘伝があり、描くべきものには必ず厳格な順序がありその軌道に従って描くのである。その法軌から離れた事、勝手な事をすれば破門されるおそれがある。
 従ってその方則を習うだけでもかなりの年数がかかる訳であった。従ってかなりの子供のうちから稽古しなくては到底充分の修業が出来ない事だったらしい。
 一人前の心を持った大人となると自分の心が自分に見えて来る。そこで柔順に先生の方則、流派の型など馬鹿々々しい仕事を習得してはいられない。そこで何もわからぬ子供時代においてあらゆる馬鹿々々しい仕事を習練させたものでもある。
 ある流派、先生の型、をうけ継ぎ受け継いだ結果生き生きとした画人が西洋でも日本でも出なくなり、世の中が人間の心は、即ち画人の心は、心にもない方向へ方向のわからぬ乗物によって引きずられた結果、生き生きとした画人が西洋でも日本でもすっかり出なくなり世の中が萎(しな)びかかって来たものである。そして十九世紀の終りから二十世紀の初めにおいて非常な勢となって近代の自由な明るい気ままな人間の心を主とした処の画の方則が現れ出したのである。
 それは飽き飽きした結果誰れいうとなく現れ出した人間の本音である。
 即ち近代の絵の技法は人間の本音から出発しなくては面白くないのである。
 本心本音のいう処、命ずる処に従ってそれ相当の技法を用いて行く処に新らしい意味が生じてくる。

     3 技法の基礎的工事について

 私は近代の画家は、最も自由な技法によってその本心本音を遠慮する処なく吐き出す必要があると思うのである。そして、その心の命ずるままに、あらゆる技法を生むべきものであると思う。
 また各人各様の技法を持ち、絵画は千差万別の趣きをなすという処に、自由にして明るい世の中があるのだと思う。この世の中の画家が悉(ことごと)く一様に仲よしであり、お互に賞讃し合い遠慮し合い意気地(いくじ)のない好人物揃(ぞろ)いであったとしたらしかも安全と温雅を標語としたら、随分間違いは起らないかも知れないが地球は退屈のために運行を中止するかも知れない。
 ところで、しかし、人間の本心というものはかなり修業を積まぬ限りさように容易に飛び出すものではないようだ。さように簡単な本心にちょくちょく飛出されては世の中が迷惑するであろう。これこそ俺(お)れの本心だろうと思った事が、翌日、それはまっかな嘘(うそ)であったり、人の借りものであり、恥かしくて外出も出来ない場合がない事はない。極端にいえばこれこそ人間の本心であり個性であるというべきものは死ぬまで出ないものかも知れないが、その本心を出そうとする誠意と、それに近づこうとする努力とが芸術を多少ともよろしき方向へ導くのではないかとも思う。
 勿論、人間の本心は子供の時代を離れ一旦(いったん)神様から見離された以上、人間は、今度こそ、自分自身の努力によって神様を呼び戻さなくてはならないのである。
 技法以上の絵、絵にして絵にあらざるの境と誰れやらがいったが、正にその境に到達するまで、何んとかしてやらなければならないのだ。
 食べて後吐く、食べて後排泄(はいせつ)する。先ず技法の基礎をうんと食べる必要がある。
 では何を食べるか、それは画家は先ずこの世の中の地球の上に存在する処の、眼に映ずると同時に心眼に映ずる処の物象の確実な相を掴(つか)みよく了解し、よく知りよくわきまえ、その成立ちを究(きわ)める事が肝要ではないかと思う。
 この世の物象をよく究め了解する事においては、目下油絵技法の根本の仕事としては一般に先ず最初は素描、即ちデッサンの研究によって自然の形状、奥行、光、調子、といった事柄を探索するのが最も安全にして重要な仕事とされている。
 即ち自然は如何に成立っているものか、地上にあるあらゆる空間、風景、動物、静物はどんな約束で構成されているのか、世界にはどんな調子があり、リズムがあるか、太陽の光はどんな都合に世の中を照しているのか、それによる色彩の変化強弱その階調等それらを如何にして画面へ現すものか、といった風の事を調べるのである。
 それは、大都会の地理を調べる仕事である。都会で如何に何かを仕様としても、都会に対する常識なき者は、先ずモーロー車夫の手にかかるであろう。もしも女ならばうっかりしている間に何かに売飛ばされてしまうかも知れない。
 あるいは親切そうな案内者によって、本願寺の石段は何段あるか、天王寺の塔の瓦(かわら)の類を暗記させられてしまうかも知れない。余談は別として、目下西洋画を勉強するものが必ず行う処の方法として、先ず最初に石膏(せっこう)模型の人像によって、木炭の墨、一色の濃淡によってそれらの物の形と線と面と、光による明暗の差別、空間、調子、遠近、奥行き、容積、重さに至るまでの事を研究了解会得して行くものである。それが素描の意味であり技法の基礎工事である。
 話が大変科学的であるようだが、しかしながらこの科学が油絵の重大な原因ともなってその技術の底に横(よこたわ)っている事を忘れてはならないのである。この点において東洋画の技法とは根本的に差違ある処のものである。

 東西技法の差異と特色
 私はここで西洋画と東洋画との技法の根本的差異について少し述べて置きたいと思う。
 東西の文明が入り乱れて頗(すこぶ)るややこしくなった今の世の日本ではしばしば日本画も西洋画もあるものか、自由自在に何もかも取り入れて、要するに絵でさえあれば、何んでもいい、進めや進めという説もかなりあるものである。これは油絵の技術にのみよっている画家たちの中には尠(すくな)いようだが目下の日本絵の材料によっている人たちの中には、かなり称(とな)えられている処の事柄である。私自身も昔、日本画の技術を捨てる以前においては、かなりかかる説を振廻して先生を困らせた事を記憶する処の一人であった事を、白状して置かなければならない。出来ない相談という事を発見して私は完全に油絵に乗り換えてしまった次第である。
 勿論、広い意味において、美の終点、芸術の終点ともいうべきものは、何に限らず高下深浅の別こそあれ、ほぼ一様な域に到(いた)るものかも知れないが、芸術の材料とその技法の差によって、その芸術が発散する処の表情には歴然とした差別があるものである。一つの技法がその技法の限界を超(こ)えると、その技法はかえってよくならずに死滅してしまうものである。油絵には油絵だけが持つ生命があり表情がありその能力にも限界が備(そなわ)っている。油絵が万能七(しち)りんの代用はしないはずだ。
 一つの技術が世界悉(ことごと)くの芸術の様式と内容の総(すべ)てを含んでしまうという技法は今までにまだ発見されていないようだ。
 活動写真という進歩した便利至極の芸術でさえ活動写真だけが持つ味以上のものは出そうでない。三味線には三味線という材料に相当するだけの技法と世界が存在する。シネマにおけるダグラスの活躍に三味線の伴奏があったら多少変だろうしあまりに愉快は得られないであろう。
 いつか、セロの如き三味線を考案した才人もあったようだが、どうもまだ新芸術の材料として一般に使用されているようにも聞かない。
 西洋技法の表面を借用して六曲屏風(びょうぶ)に用い、座敷を下手なパノラマ館としてしまった実例はかなり混乱の現代日本に多い例である。
 私は昔、現代劇に、浄るりのチョボが現れたのを見た事があった。また、乃木(のぎ)大将伝を文楽座で人形浄るりとして演じた事があったと記憶する。前者においては愛子は涙の顔を上げて太夫が語ると愛子というハイカラな女は顔を持ち上げて泣き出した。
 かかる例は極端な場合であるが、しかしこの極端が往々にして平然と今の時代の新工夫新様式として通用する事があるのである。この事はかなり重大な問題であるのでここにはっきりと尽す事は出来ないが、要するに西洋画と日本画との技法には、根本的に単位の違ったものが存在するという事を、いって置きたいのである。

 大体東洋画の特色ともいうべきものは、絵に実際の奥行きのない事だといってもいいかと思う。その代り奥行きは間口の方へいくらでも延びて行く処の技法である。例えば家に奥行きを多く作る必要ある場合には土佐派にあっては家の屋根を打ち抜いて座敷を見せ、その中の事件を現すやり方である。あるいは南画の如く山の上へ山を描き、そのまた上に海を描き、その上になお遠き島を描く事である。
 百里の距離を作るには日本画では、先ず近景を描き、中景を描き、而して百里の先きを同じ大きさにおいて一幅の中に収めてしまい、その間には雲煙、あるいは霞(かすみ)を棚引(たなび)かせて、その中間の幾十里の直接不必要な風景を抹殺(まっさつ)してしまう。観者はその雲煙のうちに幾十里を自ら忍びて、そこに地球の大きさを知るのである。従ってさような技法は、一幅の中にいろいろの物語や内容を現すに至極便利な方法である。絵巻物などが作られるのも無理のない技術である。あるいは風景の多種多様な情趣あるいは一幅の画面に四季の草花、花鳥に描くにも適している技術である。
 西洋画の場合では、さように観者の想像に委(ま)かせる事はあまりしない。画家が眼に映じた地球の奥行きをそのままに表現せんとする。だからこの点では日本画の自由にして百里の先きの人情風俗までも現し得る仕事に対しては頗(すこぶ)る不便不自由なものである。
 例えば風景の場合、西洋画にあっては近景に立てる樹木、家、石垣等が殆(ほと)んど画面を占領してしまい、百里の遠方は已(す)でに地平線という上の一点に集合している次第となってしまう。その遠方の人情を見ようとすれば望遠鏡の力によって漸(ようや)く発見し得る仕事である。
 さように百里の先きの遠き人情物語を現す事は出来ないけれども、その代り前面の樹木と枝が如何にも世界に確実に存在し、如何に光に輝き、樹木と家とが如何に都合よくあるか、画面にどんな線と、色彩とをそれらが与えるか、そのあらゆる実在の色彩、線、形、光、調子の集合が人間にどんな心を起させるかといった具合の仕事を現す。
 要するに眼に映じる自然のありのままの実在が如何に美しく、複雑に組立てられているかという事を現すのに適当な技法である。
 従って、従来の東洋画には実在感が尠(すくな)く、その代り非常に空想的で情趣に満ちているに反して、西洋画は陰影と立体が存在し、太陽の直接の影響による光が存在し、空気があり科学があり、実際と強き立体感が頑(がん)として控えているのだ。
 東洋画を天国とすると西洋画はこの世である。あるいは極楽と地獄の差があるかも知れない。
 ところでわれわれ近代の人間にとっては極楽の蓮華(れんげ)の上の昼寝よりは目(ま)のあたりに見る処の地獄の責苦(せめく)の方により多くの興味を覚えるのである。その事が如何にも私を油絵に誘惑した最大の原因でもある如く思える。

     4 素描(デッサン)

 要するに、よくこの世界を了解するという事は、よく観察しよく写実しなければ油絵は成立って行き難いものである。
 そこで油絵技法の基礎工事としてその写実の研究方法として、一般に行われている確実な方法というのは即ち素描(デッサン)をやる事である。
 しかしながら、素描と一口にいっても、その範囲は頗(すこぶ)る広いものである。例えばコンテーを以(もっ)て描かれたもの、あるいは木炭、ペン、毛筆等で描かれたもの、あるいは一切の色彩を交えない線描の絵の一切を素描という事も出来る。あるいは日本絵の下絵や鳥羽僧正(とばそうじょう)の鳥獣戯画やその他雪舟(せっしゅう)の破墨(はぼく)山水に到(いた)るまでも素描といえばいえるものである。
 しかし、ここでいう処の油絵の基礎としての素描、デッサンは、油絵の基礎工事としてのものであって、即ち、木炭紙の上へ木炭を以って、石膏(せっこう)の胸像あるいは生きた人体を写生し、その形態、平面、立体、凸凹、明暗の調子等の有様を研究し表現する処の仕事をいうのである。
 初学の人たちがその考えだけは立派な芸術的な考えを以って、いろいろの展覧会や画集において見た処のマチスやルオーやピカソ的素描を、直ちに石膏や人体に向って試みようとするのをしばしば見る事がある。あるいは直ちに一切の写実を飛越えて、構成的素描や、油絵を制作するのがある。それも結構ではあるが、あまりに芸術の奥儀にまで一足飛びに飛び過ぎているものというべきである。
 日本へ渡来する西洋のいい絵や立派な素描の多くは、その諸大家の学生時代の習作では決してないので、それは雪舟の山水の如く鳥獣戯画の如く、素描それ自身がすでに充分完全な芸術作品となり切ったものなのである。
 即ちそれらは肥料でなく花であり実である処のものである。
 それらの花や実を結ぶ以前において、如何に多年の手数と肥料が施されているかという事を承知しなくてはならないと思う。
 米のなる木をまだ知らぬという俗謡がある。日本にいると、全く米のなる木を知らずに過している事が多いのは頗る危険な事である。
 素描、油絵、あらゆる西洋芸術は、すべて花となり切って渡来する。その花を見て直ちにその模製を試みる事は、庭の土から直ちにライスカレーを採集して以って昼めしにあり付こうとする考えである。
 短気は損気という言葉もある。ホルバインの素描における一本の線あるいはマチスの極端に省略された一条の線の裏には、どれだけ捨て去られた多数の線が存在しているかを知らねばならない。
 そこで、私は絵の基礎的工事ともなり、肥料ともなるべき充分の科学的な素描の仕事をする事を勧めるのである。即ち絵画芸術の奥儀にまで飛ぶ事をしばらく断念して、出来得るかぎりの正確さにおいて、石膏あるいは人体の実在をよく写実する事である。そして自然の構造とあらゆる条件を認識すべきものである。
 ところで私は正直にいうと、この素描即ちデッサンの勉強というものは、個人が勝手に、家にあって習得する事の頗る困難なものなのである。何故なら、石膏像を忠実に写そうとしても最初の人にとっては、その正確な形、その明暗の調子や光の階段を本当に認める事が容易な事ではないのである。それから石膏像の種類を個人としてはさように数多く設備する訳にも行かないので一つの胸像を毎日描いていると飽きてしまって興味が続くものではない。それでなくともデッサンは、かなり無興味な仕事と考えられやすいのである。
 それから、石膏よりもなお一歩進んで人体の素描に及ぶと、なおさら毎日々々モデルを個人で雇う事も随分の贅沢(ぜいたく)であり、永続きのしない事である。
 そこで本当に勉強しようとすれば、何んといっても、大勢の画家が集って、各々がお互に眺め合い、せり合い揉(も)み合ってグングンと進んで行くのがよい方法である。
 それは、私自身の経験に見ても、昔、白馬会(はくばかい)の研究所でおよそ一ケ年と、美校の二年間のデッサン生活において、先生の指導も結構に違いはなかったが、お互の競争心理が、絵を進ましめる事に非常な力があった事は確かである。
 そこで私は普通学の勉強時代やアマツールとしての時代がすみ次第に本当に絵をやろうとするにはやはり美校あるいは相当の研究所へ通う事が最も適当な方法であろうと考える。

 素描の方法について
 話の順序として、ここに極く概略のデッサンとしての木炭画の方法の概略を述べて置こうと思う。

 デッサンの準備
木炭(西洋木炭)
木炭紙
カルトン(紙挟(ばさ)みであり画板(がばん)であるもの)
クリップ 二個(紙を抑(おさ)える)
フィキザチーフ Fixatif(仕上った画を定着する液)
吹き器(フィキザチーフを画面へ吹きつける)
食パン(食パンの軟(やわらか)きを指で練り固めてゴムの代用とする)
画架
以上のものがあれば即ち石膏の胸像の簡単なものから描き初める事が出来る。そしてだんだんと複雑な石膏に及び、やがて生きた人体のモデルに及ぼせばよいのである。
 石膏写生が無興味だとあって、直ちに人体写生に飛越える事も冒険であり無駄骨である。人は動く、形は変化する色彩が複雑で初学の眼には判然としない。またその物質感も石膏と違ってかたい所、あるいは軟かい場所等様々の触感があるために最初に人体を写す事は無理である。

 最初の心得
 石膏の胸像をば画面の中央へいじける事なくまた実物よりも妙に大きくならぬよう、ほぼ実在の大きさを想像させる位いの、のびやかさを以て画面の中央へ行儀よく描くべき事。
 画面の片隅へ胸像がずり込んだり前方へのび出したりしないように、構図よろしく画面へ取り入るべき事。
 なるべく、実物の全体を大まかに描き初め、眼、鼻等の造作を決して気にかけず大きな塊(かたま)りとして見るべき事。どうも、最初の人は必ず目玉を気にして、顔の形も整わない中(うち)から目玉だけははっきりと描くくせがある。そして妙なお化けを製造する。
 顔の造作は立体中の凹所凸起位いに思って描けばいいと思う。
 最初はなるべく木炭の最も淡き調子を以て描き初むる事。うすぼんやりとした大体の塊まりからだんだんと形を強めて行くべき事。
 大体の形状がほぼ出来ると同時に最も明るい部分と、他の暗き部分との明暗二つの大きな世界に区別する事。次に明所の光の諸階段を眺め暗所の反射等による諸階段を眺めて行く。
 例えば太陽と白き球体との関係を想像して見るに、太陽が球を照す時、太陽に面する方は昼であり、他方は夜である。
 即ち昼夜の大体に区分される。次に昼の部分において最も太陽の直射する部分が最も明るく、それより光が斜にあたるに従い正しき音階を作りつつ暗さを増して行く。
 また、日蔭(ひかげ)の即ち夜の部分であるが、地球とすれば星あかり、あるいは月の光、この世の物体とすればあらゆるものの反射の光があるので、従ってここにもまた光の音階が現れる。そして結局太陽から遠く、反射からも遠い処の昼夜の分岐線(図ではAB線[#図は省略])の辺りにおいて最も暗い影を見るのである。
 かくの如く昼夜両面の中に、無数の光の正しき音階が現れて来るのであるが、この光の階段はこの球体の場合に限らず、あらゆる立体においてもこれとほぼ同じ理由による光の階段が大概の場合附き纏(まと)うものである。
 石膏の胸像も球に比べるとかなり複雑な立体ではあるが、しかしこれを一つの球だと考えてしまって、その調子を眺める事が必要である。
 ただ多少の形に変化あるだけ、調子にも複雑な変化を現すが、大体において球の場合と同じ光景を呈するのである。
 石膏にあてる日の光は、なるべく右、あるいは左横手よりする事がよいと思う。正面に光があたると、完全な明暗の区別が見えなくなり物体が平板と見え、調子を見る事が出来ないからである。
 食パンを使い過ぎない事。しめったパンをゴシゴシと摺(す)り込むと紙が湿って木炭がのらなくなってしまう。
 木炭はその尖端(せんたん)を使用し、時には木炭の横腹を以て広い部分を一抹(いちまつ)する事もよろしい。鉛筆画と違って、調子を作るために線の網目や並行の斜線を使用する必要がない。ぼかすためには指頭を以て木炭で描いた上を摺る事もよろしい。
 あまり指頭でぼかし過ぎ、こすり過ぎると木炭の色が茶色と変じて死んでしまう。また脂汗(あぶらあせ)の指で摺りその上をパンでゴシゴシ消すと、木炭紙は滑(なめら)かになってしまって木炭はのらなくなる。
 木炭では、最も軽く淡き色より最も濃く黒き色に到るまでの多くの度や、階段を造り得るものである。それを生かして自由自在に調子のために活用すべきである。
 以上、先ずざっと、その位いの事を最初に知って置く必要がある。それからは、要するに自分自身の眼を以って、出来るだけ正確に写す事である。

     5 人体習作について

 素描を研究すると同時に、油絵を以って、人体の五体を描く事は、基礎工事として技術上欠くべからざる順序である。
 この世の中で人間が一番よく了解し得るものは、お互の人間同士の姿である。猿は猿を知り、犬は犬を知り、猫は猫を、牛は牛を知っているはずである。
 人間は猫の縹緻(きりょう)の種々相を見わけるだけの神経を持たないが、猫はちゃんと持っているのである。
 松の木の枝を実物よりも五本省略して描いても松は松であるけれども、人間の指が一本不足しても、人は怪しむ、人間の腹のただ一点である処の臍[#「臍」は底本では「腸」]を紛失させたとしたら、腹は不思議な袋と化けてしまう。
 人間は、人間の形をよく了解すると同時に、人間の五体の美しさをも最もよく了解するものである。
 人間が鹿(しか)や鳥の水浴を見て恋を感じたという事は珍らしいが、それと同時に人間の五体が如何に美しいとはいえ、牛や馬が見ても世の中で一番美しいものは人体だとはいえないであろう。牛は牛の五体が最も美しく、馬は馬の五体を了解する事かも知れない。
 目下、油絵の基礎的技法として、または最も興味ある題材として、一般に裸身を描く事が行れている事については、それが人間にとって、他の何物よりも強き美しさを感じさせ永く描きつづけて飽きる事がなく人間が人間をよく了解するが故になおさら他の万物よりもごま化しの利(き)きにくい処のものであって、その色彩の複雑にして、微妙である処、一ケ所として一様な平面を持たないあらゆる凸凹において、線において、立体において、そのかたさ、滑らかさ、その構成の美しさがある。
 人間が鹿や鳥の水浴を見て恋を感じたという事は珍らしいが、それと同時に人間の五体が如何に美しいとはいえ、牛や馬が見ても世の中で一番美しいものは人体だとはいえないであろう。牛は牛の五体を感じ、馬は馬の五体をよく了解するであろう。とにかく人間にとって他の何物よりも強き美しさを示すものは人間の裸身であろう。従って永く描きつづけて興味の続くものも裸身である。それから、人間がよく了解するが故になおさら他の万物よりもごま化しの利きにくい処のものであり、その色彩の複雑にして微妙である処、一ケ所として一様な平面や線を持たない処、あらゆるデリーケートな凸凹において、線において、その立体において、そのかたさ、滑かさ、その軟かさ、その構成の整頓せる事において、さようなあらゆる点において、一般裸身を描く事がわれわれ画家にとっては最もよき終生のモチーフであり、画家の喜びであり、またその困難さにおいては初学者にとって最も興味ある手本としてこれらが多く描かれ用いられる訳であろうと考えられる。
 全く、われわれが例えば一個の桃を終生描きつづける事は困難だが、画家は終生裸女を描いている事は珍らしい出来事では決してないものである。

 裸身は画家、一生の最もよきモチーフであると同時にその表現の困難さにおいては他の何物よりも困難である。従って初学者にとってこれも描く事は写実的技能を養う上に欠くべからざるよき対象である。即ち石膏学生と同じく、最初は木炭を以って人体の素描を研究せねばならぬ。次にカンヴァスの上へ素描の下地を作り、油絵具を以て忠実にその立体と調子と色彩のあらゆる関係を研究して行く事が必要である。
 この場合において、初学の人たちはややもすると、習作と製作とを混同して直ちに、何か素晴らしい芸術品を作り出そうとする傾きがあるものである。例えば研究所でまだ石膏の首の調子さえ描き得ないにかかわらず、ルノアル翁晩年の作を直ちに模そうと考え、あるいは直ちにピカソの立体をモデルに当てはめようと考える。あるいはドランの線を附け加えようとする。そして、ピカソやドランやルノアルが、如何に写実がうまいか、如何に写実で苦しんだかという事を考えまいとする傾向のあるものである。それは前章に述べた如く米のなる木を考えないのと同じである。直ちに庭からライスカレーを採取しようとするものである。
 先ず最初は、あらゆる道楽心を捨て去って、そこに立つ人体そのものを尊敬する心が必要である。モデルがあらゆるものを教えてくれるはずである。モデルと自分と、そして厳格な写実、それ以上の技法はないといって差支(さしつか)えない位いのものである。
 自然を勝手に置きかえて見たり、バックを無意味にぬりかえたり、不必要なものを附加したり、モデルを軽べつする事は、やがて神罰によって失明するに至るであろう。
 かくの如く忠実にして厳格なる写実によって、自分の前に立てる裸身と空間との複雑にして困難な物象を描きつづけているうちに、画家は、種々様々の技法の要素らしいものを自ら拾い、自ら感得して行く訳である。そして同時に、あらゆる形態と物象を描きこなし得るだけの力と自信をも養う事が出来るのであると、私は考える。

 初学の人はしばしばあまりにデッサンを習得し過ぎ、あるいは人体写生において写実をし過ぎると、形や技巧の事が気にかかって面白い絵が描けなくなるといった風の事をいう。
 それから、いろいろと、現代の大家たちの絵について、かなりしっかりとした画技の熟達を見せながら、少しも人の心を刺戟(しげき)し、感動させる力のない、調子の低い様々の画を示して問う人たちを見る。
 なるほど、それはわれわれが見ても、少しも絵として迫ってくる力のない事は、全くその初学の人たちがいう通り平凡にして、かつ精神力の欠乏したしかも整頓(せいとん)だけはしているという絵である事は確かである。
 しかしながら、銘刀は祟(たた)りをなすという事がある。それは銘刀の所有者が低能者であったからである。百人の低能者が最新の軍艦へ乗り込んだとしたら、その威力を充分我が海軍のために発揚し得るかどうか、うたがわしい。
 われわれはそれがために軍艦を呪(のろ)い、銘刀を捨てる必要はない。何もかもが人間それ自身の問題ではある。素描や厳格な写実が人を殺す場合はあるかも知れないけれども、それは殺された人が弱かったためである。それ位の弱者は早いうちに殺されて置く方が自他共に幸福であるかも知れない。
 しかしながら、人はなかなか容易に死に切れるものではない。画技の下敷となり半死半生の姿を以て、しかもそれに馴(な)れ切って平然と生きている処の大勢があるものである。そして形だけは整頓した処の、例えば甲冑(かっちゅう)を着けたる五月人形が飾り棚の上に坐っている次第である。かかる者を総称して近代の若い人たちはただ何んとなく、アカデミックという風の名称を捧(ささ)げているように思う。
 石橋を叩(たた)いてばかりいて決して渡り得ない臆病者と石橋を叩く事ばかりに興味を覚えて渡る事を忘れてしまうものとがある。あるいは決して叩かずに渡る勇者がある。しかしながら石橋でさえも叩いて置く方が間違いはないようである。然(しか)る後、渡る事だけは決して忘れてはならない。
 私は、以上述べた処の素描、及び人体写生を以て画技における基礎工事と考えるのである。これらの仕事を充分に研究する事は即ち石橋を叩く作業であろう。
 然る後において、画家は、好む処、心の趣(おもむ)く処に従い、風景、静物、人体、その他あらゆるこの世の万象を描く事において絶対の自由と気ままとが許されているはずである。
 私は以上油絵の基礎について述べて見たのである。それは甚だ不完全な説明であったが、ともかく、素描と人体研究とは油絵を描くものにとっては、充分経験しなくてはならぬ処の義務教育である事を知ってほしい。と同時にそれは画家の生涯に附き纏う処の画道の骨子であり、それによって画家は自然の組織と絵画の組織を発見もし、技法の秘密をも探究する事を得るのである。
 この修業を怠(おこた)るものは一時の器用と才気から何か目新しいものを作る事が出来るとしても、それは本当に成長すべき運命を持たないであろう。月不足の嬰児(えいじ)の如く。
 小児の傑作が長ずるに従って消滅するのも子供は絵画の組織を持たないからであるといっていい。

     6 近代の心と油絵の組織

 油絵というものが西洋に生れ、西洋人の要求と生活から湧(わ)き出してから古き歴史を持ち、やがて素晴らしい時代が来、大天才が輩出し、その時代時代において花を咲かせ実を結び、あらゆる人間の要求によって、あらゆる画風を生じ傑作を無数に残し、その技法は完全に研究され絵画の組織は充分に備(そなわ)り過ぎる位いに備ったのである。故に油絵技法とその組織というものは、私の考えによると、十六世紀の時代においてその全盛期であり、油絵技法の最頂点を示し、その時代と人間の生活との親密にして必然の要求による結合と、無理のない発達の極度にまで達しているものであると思う。
 それ以後の西洋にあっては、伊太利(イタリア)、フランスの別なく、油絵芸術は習慣と惰性とによって、ともかくも連続はしていた訳であるが睡気(ねむけ)を催すべき性質のものとなり、芸術としての価値は下向して来た事は歴史に見てもその作品に見ても明(あきら)かである。
 私は、ここに西洋絵画史を述べる暇と用意を持たないが、ともかくも、私は油絵具という材料とその形式で以てする芸術の限界においては、再び、レオナルドや、ルーベンス、レンブラント、ドラクロア、ヴェラスケス、ゴヤ等の仕事に比すべき位いの、材料と人間の生活と、技法と画家の心とが無理もなく完全に結び付き、壮大なものを生むべき時代はおそらく来まいと考えるのである。
 あの重たく、厚く、深く、大きく、堅固で悠長(ゆうちょう)で壮大で、真実で、華麗で、油絵の組織の完備する点で、また油絵具の性状が完全に生かされている点において、私は油絵具のなさるべき、頂点の仕事が已(す)でにその時代において為(な)し尽されているように思えてならないのである。
 極端な事をいえば油絵の技法は最早や大昔において、役に立ってしまった処の芸術形式であるといっても差支えないかも知れない処のものである。そして近代以後の人間世界の要求からは、多少とも不合理な材料であると思われ来るべき運命をさえ、持っていはしないかとひそかに私は疑うのである。
 如何に面白い日本音楽であったとしても、近代日本女性の複雑な恋愛が新内(しんない)によって表現される訳には行き難いし、われわれの悲しみを琵琶歌(びわうた)を以て申上げる事も六(む)ずかしいのである如く、あの粘着力ある大仕掛にして大時代的な、最も壮大であった時代を起源とする歴史と組織を有する処の、ミケランジェロやルーベンスを生んだ処のその武器を持って、戦いに出る事は、近代以降の人間にとってかなり憂うべき十字架となりつつありはしないかとさえ考え得るのである。
 だがしかし、今私はさような事を述べる場合ではない。われわれは近代人がこの技術を如何に処理し如何に組織を改めたかを知らねばならぬ。
 全く、西洋においても、十五世紀以来、多少の変化はあったとしても大局から見て絵画は立派な老舗(しにせ)の下敷となって退屈を極め出したのである。その結果近代のフランスにおいて、とうとう印象派が起り、次に後期印象派が起り、キュービストとなり、構成派となり未来派となり、ダダとなり、あらゆるものが次から次へと勃興(ぼっこう)した事は、一つには退屈と衰亡に際する一種の死の苦悶(くもん)から湧き上った処の大革命であったに違いない。
 それらのいろいろの主張や主義や、団体は、幸にして油絵の組織を悉(ことごと)く変化させ、あるいは暴動に似たイズムさえ各処に起って、近代の芸術は頗(すこぶ)る面目を改めてしまった事は何んといっても晴々とした事である。
 幸にして油絵の組織は完全に潰(つぶ)されてしまった。しかしながら、組織を潰す事は油絵そのものの死を早め誘うものである事が判明した。人間の組織を潰す事は人間の死を致す場合がある。それから、人間はあまりに潰れ過ぎたものを正視する事を何んだか嫌がる本能性があるものである。過ぎたるは及ばずという言葉の如く、最近は、その潰(つぶ)れた油絵の組織をば建て直そうとする傾向が現れた。やはり、人類を生かすためには紀元以前から持参する処の古き胃袋を必要とする事、古き肺臓、古き心臓、そして古き生殖器さえも必要であると思われて来た訳であるかも知れない。
 そこで近代の油絵は、また再び構成され、あるものは古典に立ち帰って研究され、あるいはその以前である処のプリミチーブの領域にまで頭を延ばして研究され、油絵の組織は整頓されようとして来たのである。
 だがしかし、それらの仕事の何もかもは、近代の心と油絵技法との、そりの合わない事における末世の苦悶と見ていいかと私はひそかに考える。
 何はともあれ、油絵は、油絵という範囲と限界のあるものである事が判明した。そしてその限界を越えざる程度において、組織を変改し、近代の心をその上に盛り、近代の心と個性によってその古き古き胃袋を使いこなし、古き組織の人間が新らしきツェッペリンに乗る事等によって、現代の絵画はともかくも生命を保ちつつ動いているかの如く見えるのである。
 要するに油絵という芸術には、それ相当の組織があり、その組織を完全に潰すと同時に油絵は死滅しかかるものである事がわかったのである。即ちその形体、立体、線、空気、調子、光、空間、階調、構図、色彩等の相連関する処の結合体を欠く事が出来ないのである。
 近代の人間のあらゆる苦悶によって、それらの伝統と、組織の要素が捨てられ、潰され、再び拾われ整理されたその結果において、ともかくもなされた近代の油絵における技法上の大事業は、あるいは特質とも見るべきものは、それは壮大なる王様の行列を数台の自動車に改めた事である。非常な省略と単化が行われ出した事だといってよい。
 技法と組織の省略と単純化は近代絵画のもつ重要な特質だと言っていいであろう。
 単純と省略は野性へ帰ろうとする力である。うるさい礼節の極端な発達は、人間の心をその中へ封じ込めてしまうものである。壮大にして複雑な油絵の組織と、先祖の立派な遺業は次の時代の人間の心をその下敷にしてしまったものである。
 近代人の苦悶はとうとう人間の心を組織ある野性において露出せしめた訳である。フランス近代におけるフォーブの一群などはその代表的な一群であろう。

     7 近代新技法の特質

 人間世界の文化があまり発達し過ぎてしまう頃には、沢山の組織とあり余った規則とうるさい儀礼とでこの世の中は充(み)たされてしまう事である。そして人間の心がその下敷となって動きの取れない悲しみを味(あじわ)うものである。規則や組織が古ぼけてしまった時には、ぜひとも清潔に掃除してしまわない限り、次の新らしい人間の心は成長し難いものである。
 西洋における近代のあらゆる絵画の主義や傾向の新しい各派の次ぎ次ぎと起って来た有様は、全く驚くべきものであった。それらはあたかも油絵の組織と規則の下敷から躍り出した処の勇敢なる一群の野蛮人であったといって差支(さしつか)えあるまい。
 新らしき野蛮人は、いつも大掃除については欠くべからざる役目を仕(つかまつ)るものである。
 大体、野蛮人の仕事は単純である。粗野であり、素直であり、個性的であり怪奇である。近代フランスにおいて起った種々雑多の新しい傾向は悉(ことごと)くこの野蛮人の仕事を更に繰り返したものであるといって差支えあるまい。
 即ち印象派以後、ゴーグ、セザンヌ、立体派、野獣派等正に壮大にして衰弱せる老舗の下敷から這出(はいだ)した処の勇ましき野蛮人の群であった。そして彼らの仕事の偉大なる特質は野人の特質である処のあらゆるものの単純化という事であったといっていいと思う。
 しかしながら、その近代に起った野蛮人は、何世紀かの教養と、習練と文化と生活を経て来た処の神経の、明敏にしてデリケートな処の、ヒステリックである処の、そして伝統というものを、その血液の中に確実に含んでいる処の、野蛮人であったのである。
 従ってその野人の仕事は、即ち近代絵画の性質は悉く非常な神経的のものであり、その技法は単純ではあるが頗(すこぶ)るデリケートなものであり個人的のものであり洗練され、鋭い処のものであるのは当然である。そして個人の心を、露骨に表そうとする処のものである。
 個人的といえば、あらゆる絵画は個人的な芸術作品であると思えるかも知れないが、しかしあまりに技法が複雑となり、発達し過ぎた時代の絵画は、ややもすると、個人の製作でなくなっている場合が多いのである。日本でも西洋でも、昔の絵画は、大勢の人たちによって製造されたものが頗る多いのである。あたかも建築の如く、芝居の如く、連作小説の如く、である。
 先ず先生がおおよその着想と構図とを与え、下塗り中塗りは大勢の弟子にまかせ、上塗りでさえも大勢の弟子たちがやる事は普通の事とさえされていた事さえあるらしいのである。
 弟子たちは現今の人間の如く自意識が発達していなかったためか、その仰(おお)せをかしこみて、頗る謹厳丁重に指図(さしず)を待って描き上げるのであった。それは結果においては壮大な壁画や大作を作るにはかえってよき効果さえあったものである。
 近頃でも、日本画の帝展制作等において、大勢の弟子たちが先生の画面へ敬意を捧(ささ)げながら一筆の光栄を拝しつつ手伝っている事は、昔と大した変化はない事を見受けるものである。
 かくの如くして古代の名作は出来上っている事が頗る多いのである。それは決して私は悪い事とはいえないと思う。一人の作でも大勢の作にしても、壮大偉麗なものが出来れば幸い至極と思う。
 ところが近代における人間の自意識の発達と非常な神経の発達とは、極端に個人の心の動き方を現そうとするし、また鑑賞しようとする方向に向って来たようである。
 徹頭徹尾、個人でやる仕事は勢いその画面が小さくなって来た事である。即ち近代絵画の画面の容積は狭(せば)まって来ている事は確かである。そして小さい画面へ人間の神経をなるべく簡単にして深く鋭く表現しようとする。その結果は、自分の作品に対して如何にしても他人や書生や弟子や妻君の手を煩(わずらわ)す事が出来難いのである。一本の線、一つの筆触が近代絵画の生命となってしまっているのであるが故に。
 その結果は、近代画家位い書生や弟子を家に養わない時代も珍らしいといっていいだろう。最も近代生活は画家をしていよいよ窮迫の底へ沈めて行く傾向もあるからやむをえない事かも知れない。また近代位い書生や弟子入りする事を嫌がる時代も尠(すくな)い、それは個人の神経を生かそうとする時代精神からであるかも知れず、またその他の種々の原因があるようだが今ここにそれを述べている暇がないので省略する。とにかく弟子の必要は完全になくなってしまった。

 絵画の形式や組織が単純化され、神経は鋭くなり、画面は狭まって来た以上はその一点一画は頗る重大な役目をなす事となってしまったのである。空の一抹(いちまつ)樹木の一点、背景の一筆の触覚は悉(ことごと)く個人の一触であり一抹であらねばならなくなってしまったのである。
 それは、書の精神にも、あるいはまた南宋(なんそう)画の精神とも共通する処のものである。南宋画が北画に対して起った原因と丁度近代絵画が湧出(ゆうしゅつ)した事とは、頗るそれも類似せる事を私は感じるのである。しかもその技法と精神においても、その単化と個人的である点において、心の動きある事においてその絵画の技法が持つ表情において、半(なかば)一致せる諸点を感じるのである。
 古き占い法に墨色判断というものがある。その法は、白紙へ引かれた墨の一文字によって、その運勢と病気と心の悩みを判断するのである。
 私はそれを非常に面白い占い法だと思っている。
 近代絵画の技法は全く、その墨色の集合体だともいい得る、決して弟子や他人の一筆を容(い)れる事を許しがたい。この事は近代絵画の技法における最も重大な特質であろうと考える。
 要するに、作家の心の表現に役立たない処のあらゆる複雑な衣服を脱し、うるさき技法を煎(せん)じ詰め、あってもなくてもいいもののすべてを省略してしまう事は近代技法の特質であると思う。
 換言すれば、絵画の上で、弟子や他人にまかせても差支えない場所の悉くを省略して、私自身の力と心を現すに必要なもののみを確実に掴(つか)む事である。
 私はこの技法を完全にまで進めているものをマチスの絵画において感じる事が出来ると思う。
 私はマチスが近代技法の特質を最もよく生かし得た画人であると思っている。

 絵画の技法にあってその組立の複雑な衣を脱がして行くと、最後に何が残るかといえばそれは線である。
 野蛮人の絵画、太古の絵画も線に主(おも)きを置いている。近代フランスの野蛮人もまた線へ立ち戻る事に努力したようである。日本画における没骨体(もっこつたい)という進歩した技法から逆に、いわゆる、白描の域へまで立ち帰ろうとしたのである。
 油絵における技法の底の底へ沈んでいた処の線を引ずり出した近代野蛮人の功績は大したものであったと思う。
 次に複雑な立体を頗る簡単な立体に節約し百の調子を十にまで縮め色彩を単純にし、然(しか)る後に人間の心を複雑な儀礼の底から救い出す事に成功したと言っていいだろう。
 野蛮に帰り、初期に帰ろうとする心の動きにおいて、子供の絵や野蛮人の作品が近代画家を悦(よろこ)ばしめたのであった。
 それから簡略を生命とする処の東洋画、あるいは一条の線の流れが世相の百態を表す処の錦絵がフランスにおいて近代絵画の大革命を起さしめる大なる原因の一つとなった、という事は当然であろう。
 その他南洋土人の原始的作品や名もない処の画家の稚拙が賞玩(しょうがん)され、素人画が賞味され、技法の上に取り入れられたりした事も当然の事であろう。
 いろいろの事によって近代の新らしい絵画の技法は、自由にされ、明るくなり、簡単にされ、省略されてしまったものである。
 しかしながらそれらは、何世紀の歴史と生活の背景とを持つ処の西洋における出来事であった。我が日本は決してさような油絵具を持ってなされた壮大なる芸術を作った覚えもなければ、その進歩と、老舗(しにせ)と、その衰弱の悩みも経験した事は更にないのである。その技法の下敷となって苦しんだ覚えもないのである。それは単に西洋人だけの苦悶(くもん)に過ぎなかったのである。

     8 新技法と日本人

 我国では、古来より単化と省略とを眼目とする処の、線によって直ちに心を現し得る処の、最も主観的な画技を以て悠々(ゆうゆう)自適しながら楽しんで来たものであった。勿論(もちろん)その技法の原因は支那より伝来せる技法と精神ではあったようだがともかくも長い年月において、独立した自由な日本らしき芸術様式を創造して来たものである。
 もしも、西洋というものが、我が日本国の前へ立ち現われてさえくれなかったならば、この私たちの国は見渡す限りの美しき木造建築と、土と瓦(かわら)と障子と、鈴虫と、風鈴と落語、清元(きよもと)、歌舞伎(かぶき)、浄るり、による結構な文明、筋の通った明らかなる一つの単位の上に立つ処の文明を今もなお続けている訳であったかも知れない。
 ところが、私たちが生れる少し以前において、既に本当の生(き)一本の日本文化は消滅しかかっていたのである。それは伊太利(イタリア)の文明がフランスへ渡りドイツへ影響するという具合とは全く別である処の、全く単位を異にする処の、文明によって日本は蔽(おお)われてしまったのである。
 さて、この日本を蔽うて来た時の西洋の画風はといえば丁度西洋絵画が衰弱し切った頃のものであり、同時に西洋画が現代にまで漕(こ)ぎつけようとした処の努力やその苦悶の最中である処の画風であった。
 そこで日本人は、西洋人が十九世紀における芸術上の苦悶を本当に体験する事なく、ただ降って来た風雨をそのまま受けていたに過ぎないのである。即ち古い手法の残りと新しき技法の初めとが相前後して渡来した訳であった。
 もし、仮に、西洋において、新らしい芸術運動が起らず、古き伝統によるアカデミックがそのままに日本へ流れ込んで少しの変動もなかったとしたら、日本現在の油絵は、大(おおい)に趣きを異にしていたに違いない。明治の初めにおける高橋由一(ゆいち)、川村清雄、あるいは原田直次郎等の絵を見ても如何に西洋の古格を模しているかがわかる。あの様式がそのまま日本で発達し成長していたならば、日本の洋画は随分ある意味において、かえって画法としては壮健な発達を成していたかも知れないと思う。
 ところで日本に発達した西洋画は原田氏以後の黒田清輝(せいき)氏たちの将来せる処のフランス印象派によって本当に開発されたのであった。以来、なおそれ以上の破格である処の伝統を抜き去ろうと努力した処の革命期の多くの絵画が侵入して素晴らしき発達を遂げたのである。
 しかしながら、近代フランスの画家たちが求めた処の、技術の革命の眼目とする処は、単化と自由と、省略とプリミチーブと線と、素人らしさと稚拙と、野蛮とであったといっていいと思う。
 日本人は求めずして既にそれらのものはあり余るほど、古来より心得、持参している処のものであったが故に、西洋の近代の絵画は、日本人にとっては真(まこ)とに学びやすい処の都合よきものであったのである。直ちに真似(まね)得る処の芸術様式である。西洋人は形をくずそうとして努力した。日本人はこれ以上くずしようのない形を描く事において妙を得ていたのである。
 これは甚だ僥倖(ぎょうこう)な事で、他人の離縁状を使って新らしき妻君を得たようなものである。
 しかしながら、何か日本人の絵には共通して紙の如く障子の如く、薄弱にして、浅はかにして、たよりない処のものが絵の根本に横(よこた)わっている事を昔から、日本人自身が感付いて来ている。そして誰れもが、相互の心に承知している処の欠点である。
 私たちの仲間が集った時など、つい話がその問題に触れがちである。如何に拙(ま)ずい西洋人の絵にしてもが、かなりの日本人の絵の側へ置いて見ると絵の心の高低は別として日本人の絵は存在を失って軽く、淡く、たよりなく、幽霊の如く飛んで行く傾向がある。西洋人の絵には何かしら動かせない処の重みと油絵具の必然性が備わり、絵画の組織が整頓せるために骨格がある如くである。
 最も主観的な様式である処の構成派や立体派あるいは未来派の作品においてすら、西洋人のものは殊(こと)に立体派においては、特にその立体に本当の立体が備り、空間が存在し複雑なリズムがあり、立体の種々相を眺め得るのである。
 その側へ、同じ日本人の立体的作品を並べて見ると、日本人のものは立体らしい模様が描いてあるに過ぎず、よく視(み)ると立体でも何んでもない図案に見えて来るのである。
 モネの海の絵を見た。画品も心も相当に高く美しいものであったが、われわれ東洋人はその絵に現われている処の海の本当の広さと地球の存在の確実さに驚かされるのである。
 空の高さ断崖(だんがい)の大きさ地球の重さがある。モネの海はその地平線まで何哩(マイル)かある。本当に船を走らす事が出来るだけの空間を持っている。
 私は日本人の作品において空の複雑な調子の階段とその大きさをまだ一度も感じた事がない。海の広さ遠さ、この世の有様を感じる事が出来ない。
 しかしながら、画品と心の高さ、高尚な気位いちょっとした筆触の面白さ、部分の小味等においては日本人はかなりうまい仕事の出来る人種である。
 日本人の油絵の共通した欠点は、絵の心でなく、絵の組織と古格と伝統の欠乏であるらしいという事は確かである。
 西洋人の求める処のものは日本人の多少持てあましている処のものであり、日本人の求めなくてはならないものは西洋人が持て余している処のものであるかも知れない。
 しかしながら前に述べた如く、西洋の場合では、あらゆる伝統と絵の組織の下敷から這出(はいだ)す事が肝要であり、知り悉(つく)した事を忘却せんとする処に新技法の必然的な意味が存在するのであるけれども、日本では忘却すべき何物も持っていないのであった。最初からすでに忘却そのものであり、単純そのものであり、省略そのものであったのである。
 それから、日本にはあらゆる伝統と古格と絵画の様式を研究すべきミュゼーがない事も頗る迷惑なる事である。そしてこの世界のどちらを眺めてもその油絵の伝統を生み出さしめた処の都会もなければ建築もなく生活の名残りすらないのである。ただ見渡す限りは上海(シャンハイ)、シンガポール、バラックの連続とアメリカ風位いの雰囲気(ふんいき)である。
 もし時代の如何なる影響があるにかかわらず、油絵というものに一生をゆだねる覚悟を有(も)つ以上は、先ず画家として勉強の最も初めにおいて西洋の伝統と古格とその起る処の生活に触れなければいけないと思う。そして絵画の組織を極(き)め基礎を固めなければならぬ。
 私は最初に絵画の組織と基礎的工事について述べたが、それ以上の基礎の修業を怠る事は出来ないと思う。
 そして新らしき心と、新らしい技法とをその正確にして深き技法の修練の上に建てなければ油絵という技法は萎(しな)びて行くであろう。
 国粋とか、日本的とか、国民性とかいうべきものは油絵として確かな組織の上に現れる処の求めずして起る処の新らしき日本的であり、個性であり国民性でなくては駄目である。
 油絵具とカンヴァスとを用いた処の、一夜のうちに考案せる日本みやげ的油絵は生長すべき命の玉を決して持っていないであろう。それらは、日本的といえ、古き日本、消滅せる日本のおもかげを油絵具を以て現した処の亡霊に過ぎない。
 要するに、日本人としての新らしき油絵の技法は充分なる基礎的工事の上に盛られなければならないと思う。

 体力、神経、本能、表現力、等について
 私は如何に近代の絵画がその形において驚くべき省略がなされ、自然に対して反逆しつつあるかの如き様子にさえ見えるまでの変形が企てられ、気随気儘(きずいきまま)の画家の心が遠慮なく画面に行われているとはいえども、その根底をなす処には必ず伝統の積み重ねられたる古き心が隠され、その心と共に確実なる写実にその基礎を置いているものである事を述べたつもりである。
 日本は洋画の発祥の地ではなかったので、つい勢いその根が如何なる栄養を吸いつつ何の要求から現代となったか、即ち近代絵画の花が咲き崩(くず)れ出したかを眺める事が出来難い不便な位置にあるために、ついその花だけを眺め、何の支度(したく)もなく花だけを模造しようとする傾向があり、また、若き壮なる年配にあっては特にそれを先ず企てようとする。だがもともと、切り花の生命はどうせ幾日間の間である。
 日本洋画壇の今までの傾向は大体が輸入時代だからやむをえない道程ではあったが、その切花の見本は無数の花の中のたった一つの種類に過ぎないものである場合でさえも、その一種の花が当分のうち全日本の浦々にまで流感の如く速かに発生するのである。
 だが根がないために、次の切花の到来を待ちあぐむ。勿論花の見本だけでも心を刺戟(しげき)し開発する役には立つ、しかしながら、根を本土におろすべき芸術はその根も共に知る事なき限り本当の発生と進歩は困難である。
 さて、近代の日本を刺戟した処の切花の元祖、フランスに起った処の印象派以後の素晴らしい種類の流派というものは元来画家が作らんがために製造した処の流派ではなく、やむにやまない情慾の発作によって、あるいは素晴らしい旧時代の退屈からの要求によってあらゆる絵画が動き出したのではないかとさえ私は考える。
 人間が自然に各様式の風貌(ふうぼう)を以て生れては来るのであるが、便宜上馬に類する者、狸(たぬき)に類するもの狐(きつね)に類するものを集めて、狸面、狐面と区別すると、説明がしやすいからだろうと思う。自分自身もつい他人との混雑を避けて、つい似たもの同志がより集って後期印象派とか何々と称するに到るものかも知れない。
 中には俺(お)れは狐だとは思っていないのに狐の部に入れられて内心困っている者もないとはいえないだろう。
 要するに画家が絵画に対する本当の心の動きは、それは本能の動きであり、何の理由もなく、ただ次から次へと、貪(むさぼ)るが如く新らしいものが描きたいというに過ぎない。強い制作力ある画家ほど、飽きやすく、貪慾(どんよく)にして我儘(わがまま)である。
 古人はよく九星とかいうものによって人の性格を定めて見る事をする。私はよく知らないが、九紫(きゅうし)はどんな性格であり五黄(ごおう)の寅歳(とらどし)の男女は如何に意地強きかといったりする。その星の強さというものに似たものを、私は画家の性格のうちに見る。本当の自個をよく生かす画家の星の強さは他の凡百の弱き画家の上に作用して皆悉(ことごと)く自分と同じ真似(まね)をさせてしまう。自分の流感を他人の全部へ感染させるが如きものであり、感染するものこそ弱き星の性格者であり自ら好んで感染してしまうのである。
 性慾の本能が常に同じものを嫌い、常に新らしきものを要求し、それを得てまた更に更新してその終る処を知らず、遂(つい)に死を賭(と)するに至るといった調子と画家の心とは殆(ほと)んど同じ形をとっている。
 誰れが何んといっても、何が何んであろうとも、流派が何で、シュールがどうなってもいい。常に自分の慾情が猛烈でさえあればそれが万事であり、その星の強さが、世界を征服するといった具合になるのだと私は思っている。そしてそれが画家の本音でもあると考える。さて最後に鋭き表現力だ。
 殊に近代の画家は、先生のいわゆる師風を継承する必要もなく、狩野元信(かのうもとのぶ)の元の一字を頂戴(ちょうだい)する必要もない。師風である処の印象派を今日廃業したといって直ちに破門をされる心配もない。もし破門されれば速かに出て行けばそれでいい。
 主人ゆずりの娘を頂戴したくなければ嫌だといって差支(さしつか)えない時代である。他の世界はどうか知らないが絵画の世界ではそうである。万事が許されているのだ。芸術の世界には絶対の自由が許されているはずだ。
 従って、一度この国に住めば終生絵画の足は洗えない。カンヴァスの上だけの自由は普通人の夢にも与えられていない天地なのである。
 であるのに、人間は、永久に縛られていたいものである。あまり永く先祖伝来の何物かで縛りつづけられて来たわれわれは、さア思う存分の自由を与えてやるから足を延ばせといわれても逆に不安を感じ水に溺(おぼ)れんとするものが、何物か例えば棒切れや藁屑(わらくず)でさえも握りしめるといった風に、面喰(めんくら)って手近の何物かにしがみつくものである。
 昔は一人の親方、先生、師匠に一生を捧(ささ)げたが、今は一人の先生を離れて明るい世界へ泳ぎ出した。ところで自由な波を一人明らかに乗り切る天才は地球上のあらゆる画家を知らぬ間に自分一人にしがみつかせている事になったりする。
 セザンヌという人は知らぬ間にどれだけ多くの弟子を集めたか、昔の弟子は師弟の関係は重大なる関係だったが今は知らぬ間に大勢の親分であり、知らぬ間に親分はまた捨てられてもいたりする。
 近代の科学は地球を縮めてしまったが故に、一人の天才の仕事は直ちに全世界に紹介されやすく、同時に世界の画家が自由に師と定め、また師を去り次の天才へ走るという事も近代の出来事である。ともかくも弱きものが強きものにしがみつく事は、やむをえないけれども、あらゆるものを速(すみや)かに卒業して、自分自身の力によって泳ぎ得るものが近代の技法を感得するものだろう。

     9 自然を前に、自然を背後に

 最初の一筆から最後の一筆に至るまで自然の前で行う処の絵画の技法は、印象派初期の人たちによって初められたものであると私は記憶する。
 それは、あまりに人間が安易な想像にのみよって製作していると常にそれが自然とのよき連関によって成立ってさえいればいいが、ついややもすると、単なる想像によって画家は知っているだけの同じ事を同じ色彩と同じ手段によって何回でもくり返す傾向を生じてくる。従って何千人の画家が悉(ことごと)く気不症(きぶしょう)な仕事をつづけてしまうがために、画道は衰弱しつづけ世界は眠気(ねむけ)を催すに至る。
 その時あまりの世の腐り方と眠む気に腹を立てたる者どもは、つい、この際人間のケチな想像力を離れてもとの自然の力へ帰りたい、もとの野獣となりたいと叫ぶ。ここでその反動として起ったのが最後まで自然の前で仕事をする事にあったと考える。その仕事は全く近代絵画への最初の方向転換であり、大成功だったと思う。これによって十八、九世紀に充満していた腐り切った陰鬱(いんうつ)の空気を完全に払い去った事は近代フランス印象派画家、マネ、モネ、ピサロ等の一団の恩恵であらねばならぬ。
 自然の前で仕事する方法は、私の画道の修業時代もまたこの勢力、この方法の最盛期でもあったために、私は最後まで自然の前に立つ技法を学んだ。従って自然なしでは柱なき家でありテレスコープなき潜航艇でもある。
 さて自然の前でする技法の特質は、想像にのみよるものが陥りやすい処のマンネリズムから飛び離れ得る事であり、また、画家が自然から直接パレットの上に絵具を調合すると、彼は不知の間に一つの不知の調子と色彩をカンヴァスの上へ現し得る事である。
 彼と、筆と、絵具と、カンヴァスの間に、も一つ、何か彼の知らない一つの不思議な力が常に働いている事である。その力が絵を彼と共に完成して行き、彼にもわからぬ力を画面に与える。
 彼が自然を背にして勝手に色彩を弄(もてあそ)ぶ時この不思議な力は働かない。
 そんな訳で自然の前でした仕事を、もし自宅で空だけの一部を記憶によって描き直そうとする時、如何にパレットの上で絵具を交ぜ合せて見ても、再び自然の前で一秒間に作ったはずのその色と調子を出す事が出来ないのである。それを無理から直して行くうちに空は妙に沈んで色彩は死んで行く。全く直接の写実というものが絵画を生かし力づけて行く事は驚くべきものがある。
 しかしながら、写実は万事ではない。
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