めでたき風景
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著者名:小出楢重 

それは、仁木弾正が花道の穴から煙とともにせり上がってみた時、見物人が皆居眠っていたというよりも、もっと張合いのないことである。
 喜んでくれるどころか、如何にしてこの種を消滅させようかとさえ考えられたりすることがあっては、一人前の魂を持ったものにとっては癪に障ることである。この様子を腹の中で聞いただけでも、まず因果の種はひねくれざるを得ないではないか。
 もし、私だったら母体を破って流れ出してやるかも知れない。

 私の知っているAという女がある悪食家に食べられた話がある。
 私は妙なめぐり合わせで、昔から変なものばかりに好意を持たれたものである。以前私は怪説絹布団という話を書いたことがある。それは六十幾歳で草履の裏のような顔に白粉をべったりと塗った婆さんに大変な好意を示された話である。
 私は自分の仕事の性質上、随分悪食家となってはいるけれども、食慾や色慾に対しては決して悪食にまで進んではいないつもりでいる。
 だから私は、左様な奇怪な婆さんを好きには決してなれなかったのだ。
 ところでこのAという女は六十歳ではなかった。当時多分十九か二十歳位だったと記憶する。年齢だけ聞くと、さも好意が持てそうに思われるかも知れないが、本当は持てないのだ。
 それが当分の間、手伝いのために田舎から私の家に来ていたことがあった。私はそのころ中学の五年生位だったと思う。現代のモダンボーイから見たらむしろ馬鹿に近かったかも知れない位遅れたぼんぼんに過ぎなかった。
 そんなわけで、私は彼女を台所の諸道具類と別段の区別もつけてもいなかった。火鉢と天窓と水道と雑巾と彼女であった。
 ところがいつからともなく彼女は、私の両親や人のいない時に限って私の前へいやに立って見せるようになって来た。初めのうちは何のことかわからなかったが、あまりたびたび立って多少の[#「多少の」は底本にはなし]笑いをさえ含むので、何となく不気味でうるさくなって来た。そしてだんだんうすぼんやりとそのわけが判って来た。わけが判って来ると堪らなく嫌になって来た。
 とうとう私は我慢が出来ないので、母に訴えた。どうもAがつきまとって堪らない。裏へ行くと裏へ来る、表へ行けば表へ来る、二階へ上がれば二階へ現れる、そしてにやにやと笑って困るから何とか一つ叱ってくれと注文した。母も半分は笑いながらもちょっと驚いた風で、早速世話をしたところのAの姉を呼んで話した。
 まあ、あの子が、そんな阿呆なことをしますのんか、まあそうでっか、一ぺん叱ってやりますといった。
 それからAはあまり私の前へ立たなくなったけれども、ときどき私を見るその眼が以前よりも物凄くなってしまった。
 彼女の実家というのは大阪近在のある貧乏寺だった。するとある時報恩講が勤まるからといって五、六日暇をとって帰って行った。その不在中こそせいせいしたことを覚えている。
 五、六日後、彼女は再び私の家庭へ現れた。ところがAは不思議にも、じろじろ私を以前の如く眺めなくなってしまった。その代り彼女は何だか遠くの空気ばかり眺め出した。
 ある日、車屋が彼女への手紙を持って来た。以来たびたび持って来るようになった。そのたびに彼女はふらふらと暴風の日の煙の如く出て行くのであった。
 やがてある[#「ある」は底本では「ある日」]一日、再び手紙によって誘い出された彼女は、とうとう夜になっても帰らず翌朝になっても帰らず、ようやくその夕暮時、ふぬけた煙となって帰って来た。この煙は一日一晩、どこを迷うて何をして来たかということは、どんな素人にもほぼ見当のつくことであった。
 彼女は一晩中寝ずに心配した姉と姉の亭主とそのことで驚いて田舎から駆けつけた僧侶である彼女の兄とに責められて、とうとうある男との関係を白状してしまった。ある男はやはり寺の坊主だった。しかも最近のあいびきの夜は、満腹して寝そべった坊主のいうのに、実は俺には許嫁があるのでそれがなかなかの別嬪で、とてもお前のようなもの足元へも寄れん。お前の手を見てみい、亀の甲みたいやないか、そんなものを嫁にもらえるかい、といったそうだ。
 彼女は自分の手を見てなるほどと思ったかも知れない。それだけ余計に腹が立つわけだ。
 彼女は夢中でそのままその安宿を飛び出したが実家へはもちろん私の家へも帰ることが出来なかった。同時に彼女は彼女の体内にひそんでいるかも知れないところの坊主の血を感じたりするともう帰るべき家はこの世の中では機関車の下か、松の枝より他には見当たらなかった。
 彼女は本当に煙の如く市中をうつらうつらと歩き廻り、それから鉄道線路に沿うてあるいてみたが結局魂だけは線路へ一時預けとして彼女の抜殻だけが私の家へ帰って来たのであった。
 そこで姉や兄はその抜殻を叱りつけて、田舎の寺へ連れて帰ってしまった。連れて帰ったものの、よほど注意しなければこの抜殻はいつ魂のもとへ帰ってしまうかも知れない様子なのであった。

 四、五日経ったある日、いつもの如く本堂で兄は夕べの勤行をしていた時、いつもの如く彼女もその後ろに坐っていた。灯明が木魚や欄間の天人を照らしていた。しばらくするうちに何だか兄は後ろの方が変にひっそりとするのを感じたのでお経を読みながら、ふと振返ってみると彼女がいない。いなくなっているのに別段不思議はないわけだが、そのいなくなったあとには不思議な空洞が残されていたのだ。すると心の底に棲む虫が急に騒ぎ始めたのである。
 兄は立ち上がって庫裡を覗いたが真暗だった。妻に訊いても知らぬといった。そこで彼女の下駄を調べてみたらそれがなくなっていた。兄はともかく提灯を携げて飛び出し、夢中で街道を走ってみた。
 十町程行くと鉄道の踏切がある。
 その踏切へ差しかかる四、五間手前のところにセルロイドの櫛が一つ落ちていた。それから黒い血らしいものと砂にまみれた髪の毛の一束[#「一束」は底本では「束」]が乱れていた。
 兄はこの静物を見ると同時に坐ってしまった。腰が抜けるということはほんまにあることだす[#「だす」は底本では「だ」]と彼は後に話していた。
 これではいけないと思って無理から立ち上がり慄えながら線路を探し廻ったが、不思議にも肝腎の死体がなかった。
 ちょうどそこへ村人が通り合わせて、彼はAを今駅の構内へ運んだから、早く行ってやれ、まだ虫の息はあるようだからと知らせてくれた。
 H駅のうす暗い八角形のランプはいつも蜘蛛の巣で取り巻かれている。その下のうす暗い片隅の蓆の上に彼女は寝かされていた、兄が行った時、眼を開いて何かいうのである。おそるおそる近寄ってみると彼女は片手両足を失い至極簡単なる胴体となってしまっていた。
 彼女の愛人から亀の甲だと呼ばれた彼女の大切なその手はどこへ落として来たものか影も形もなくなっていた。
 集まって来た駅の人達も村人も、もうあかんなといっているし、警察の人も警察医も、もうあかんといった。兄ももうあかんと考えた。

 兄は電報で、彼女の姉とその亭主を呼んだので彼らは終列車で到着した。姉は蓆の上で無残なる胴体と化けている妹を見て泣いた。しかしその胴体はしきりに水を要求している。そしてその色魔坊主を取り殺すと叫んでいる[#「叫んでいる」は底本では「呼んでいる」]。
 しかしどうせもうあかんものなら病院へ入れることは無駄なことでもあるし、費用という点も至極考えねばならぬことだしするのでとりあえずまあ[#「まあ」は底本にはなし]家へ運んで置いたらよろしいやろ、どうせあすの朝までだすさかいということに話がきまった。
 彼女は最後の一夜を玄関[#「玄関」は底本では「玄間」]の庭の片隅へ蓆を敷いて寝かされ呻き通した。一族は何が何であろうとも、まず一杯飲まねば助からぬということになり座敷では相談がてらの酒宴が開かれた。皆がもう朝までのことだといってその手筈をきめたにかかわらず、死骸となり切れないのが彼女自身である。蓆の上でだんだん意識がはっきりとしてくるのであった。

 翌朝、彼女はお粥が食べたいといい出した。ある男はひそかにああそれがいかん、変が来る前にはたべたがるものだすと鑑定した。
 しかし彼女はお粥が大変うまかったといって喜んだだけで、一向変調な顔をしないのみか多少以前より喋り出して来たものだ。その喋るというのがまたおかしいとまだ未練を残す者もあった。
 何かの故障で芝居の幕がしまり損ねた如く、多少間が抜けたので医者を呼んだところ、医者もこんなはずはないのだが、おかしいといった。しかしまず九分九厘まではといって帰ってしまった。
 その九分九厘という胴体がまた、昼めしがたべたいといい出し、晩めしも食うといい出した。
 また医者に相談したが医者といえども幕の故障をいかんともすることが出来なかった。
 それでは病院へでも入れますかということになって、とうとう一族の間には相談のやり直しが始まりその翌朝、大阪まで急いで行くことになった。完全に間が抜けてしまった切りである。
 病院で彼女は、改めて片手と両足の骨を正気のまま鋸で切断された。医者が痛いかと訊いたらちょっと痛いと答えたそうだ。しかし医者はこれで発熱すると多分もういけないでしょうといった。もうそろそろ熱が出るのかと思っていると熱が出ないのだ。
 翌朝になって彼女はまたお粥をたべた。医者はまったくこれは奇蹟です、こんな経過はめったにないことだといって感心して、安心なさいもう大丈夫ですといった。これでとうとう幕は完全にしまらぬことときまったが、それにつけても一族の胸へつかえることはこれからさきの入院料や手術代それからさきの幕のない女一代の長さであった。
 次の間で一族はなぜこんな不思議なことがあるのやろかといって、まったくこの結構な[#「結構な」は底本にはなし]奇蹟に対して迷惑そうな顔をした。

 奇蹟といえばアメリカ映画の活劇や猛闘を見ると奇蹟だらけである、もうあれだけの谷底へ自動車もろとも墜ちたのだから多分助かるまいと思っていると、案外平気な顔で何度でも起き上がって来る主役がある。
 七度生まれて何とかするという言語はアメリカではありふれて役に立たないだろう。

 私はそのころ流行していた軍歌の一節、死すべき時に死せざればという文句を思い出した。遠足などでただ何となく歌っていたものだが、なるほどあれはこのことかも知れない、と思ったことであった。
 やがて彼女は完全な亀の甲となって退院したが以来、はかなきその一生を棒となった片手に環をはめて、それへ糸を通し残された右手をもって糸車を廻しているという。
 それから彼女を食べた悪食坊主であるが彼は自殺のあった翌日から行方不明となってしまったそうである。坊主は亀を食べて中毒した。
(「週刊朝日」昭和二年九月)
   酒がのめない話

 ある初夏の頃だった、私は誘われて戸山ヶ原へ出た。一人の友人はポケットにコップを用意し、も一人はビールを携げていた。五月の陽光は原っぱの隅々から私たちの懐中から、シャツの中まで満ちてしまい、ある温(ぬ)くさがわけのわからぬ悩ましさを感ぜしめ、のどを渇かさしめ、だるく疲らしてくれた。そこでわれわれは何か素晴らしいものが欲しいようなさもしいような感情を抱きつつ草むらの匂いを吸いながら寝ころんで青空を眺めたものだった。
 友人はビールをうまそうに飲みはじめた。私は実は一滴の酒も飲めないのだ。アルコールは私の心臓にとっては猫いらずであった。でも私はあらゆる酒の味を他の何物よりも好むのだからまったく私は難儀な境遇にあるといっていい。私はのどを渇かしつつ羨ましくそれらを眺めていたものだから、友人は、まあビールのことだ、一杯位はいいだろうといって私のためにコップを捧げてくれたので、あまりの羨ましさに、ついがぶがぶと飲んでしまったものだ。まったくそんなことは、かつてしたことはなかったが、するとやがて猫いらずは私の頭と顔と血脈とを真赤に染め出し、私の心臓を急行列車のピストンの如く急がせてしまったのであるが、わずか一杯のビールで苦しむのはさも男らしくないようだから、つとめて平静な顔をして雲を眺めていたところ、その急速なピストンが逆にすこぶる緩漫になったと思うと、急に五月の天地が地獄の暗黒と変じて来た。私はこれがわがなつかしき地球の見おさめかと感じた。
 友人は私の足を持って私を逆さにぶら下げたり仁丹を口へ押し込んだりした。二、三分の間私は草葉のかげへ横たわってから目が醒めた。まさかビールがこんなことになるとは友人も私も思いがけなかったことだった。その友人の一人はこの間死んだ帝展の遠山五郎君だが、私達が十幾年ぶりでパリで出会った時、彼もまたそのことを記憶していて思い出話をしたことである。そのかなり頑健そうであった彼がすこぶるたよりない私よりさきへ死んで行くとは思えなかった。

 私は左様に酒がのめないのだが、しかし、酒がのめたらどれ位この世の幸福が多いことかと思い羨んでいる。もちろん、のめないが故にどれだけの幸いがあるのか、それはよくわからないけれども多分それは細君がうるさがらないことであり、修身学的には結構なことでもあり、他人に迷惑を及ぼさないことでもあろう。
 しかし私は酒による恍惚境とその色彩と、その雰囲気と、その匂いと、その複雑にして深味ある味は何物にも求め得ない宝玉の水だと思っている。私は常にそれをちょっとなめさせてもらうだけで一生涯満足せねばならぬ。

 花の頃の日曜や祭日等、私は遠足や郊外への散歩等を好まない。子供のつき合いで止むを得ない限りはなるべく出ないことにしている。あの電車や汽車の混雑も嫌だが、ことに泥酔者がうるさくて堪らない。
 泥酔者は電車の中で嘔吐を吐く、電車のみでなく道路でさえ陽春にはどれ位多くの嘔吐が一夜に吐き散らされているか知れない。そしてそれを見ると彼等が今まで何をたべ何をしていたかが想像出来るからなおさら堪らない不潔さを感じる。
 よき日和であり日曜であれば、人間の機嫌はよろしい。まず家族づれの清遊を試みようとして出かけたりするが、その途中で泥酔者が電車に乗り合わせたりすると私の機嫌など消滅してしまい、不潔な一日を得て帰ることも多い。
 そこで私は外出や行楽は必ず日曜祭日以外においてすることにきめている。そして花時や祭日は家に籠居してもって楽しみとする。
 しかしながら私がもし酒がのめたとしたら、私もまた泥酔してなるべく雑言を吐き散らし、迷惑を他人に及ぼし喧嘩をなし、常々嫌だと思う奴の頭を撲りつけ、乱暴を働き騒ぎ廻ってみたいと考えている。酔えるものは、こら馬鹿めといったところで酔っているからということで相すむけれども、私の如く常に醒めているものが誰かに馬鹿めといったら、その馬鹿は一生涯消え失せない馬鹿となる。酒は都合よきごま化し薬であると思う。あらゆることをごま化すのみでなく自分自身の心をごま化し、もって心を転化させることさえ出来る。
 ごま化すといえば、煙草だってそうである。一時の疲れた神経をごま化し、人と自分との対話の間にあっては煙幕を張って、あるてれくささをごま化し、話と話の空間をふさぐのに適当である。
 酒も煙草ものめない私は、常に常であるところから悩みは悩みの上へ重なり、疲れは疲れの上に堆積するばかりである。
 時にコーヒーと餅菓子とケーキをもって心気を爽やかにすることは胃散の用意なくては出来難い。しかる後、心に積る悩みは固まって憂鬱となるおそれがある。
 私はまったく酒によって心よき前後不覚の味を得てみたいと思う。あるいはまったく酒なき世界が現れてほしいものだと考えることもある。飲める者とのめない者とがこの世に共存するのは情けない。しかしながら酒なき食卓は火の気なき火鉢ではある。

   因果の種

 誰も同じことかも知れないが、どうも私はほんのちょっとした絵を仕上げる場合でも必ずそれ相当の難産をする。
 楽しく安らかに玉のような子供を産み落としたという例は、皆目ないのである。
 その難産を通り越すか越さないかが一番の問題である。越せばとにかく絵は生まれる。越さない時は死か流産か、あるいはてこずりとかいうものである。
 難産が習慣となっている私にとっては、たまに軽い陣痛位で飛び出したりすると、いかにもその作品に自信が持てないのである。情けないことである。
 それで難産で苦しんだ時の絵は必ず上等で、玉の如き子供であるかというに、それが決して左様でもない。ただ妙な関係で絡みついてしまって一と思いに殺してしまうわけにも行かないところのものが生まれりなどするのである。
 本当のお産だってそうだ。一年間も親は苦しんだ上、命をかけて産み落とした筈のその子は必ず上等であるとはきまっていない。でも自分達夫婦の分身であり、母親は生命をかけた関係上、実は人間よりも狸に近いものであっても、ふとんや綿で包んで大切にしている。
 それをわれわれ他人が、ちょっと綿の中を覗いて見ると、全くの狸であり昆虫であり、魚である場合が多いのだから悲しむべきことである。
 ことに不具や低能児を抱いている母親の愛情などはまた格別のものであるらしい。
 絵だってその通りで、私は三年間をこの作に捧げたとか、私の霊魂を何とかしたとか、私は神を見たとかいうふれ出しだから、一体どんなものが現れたのかと思って見ると実は狸であったり霊魂が狐であったりする場合の方が多いのだ。
 もし本当のことばかりを不作法にいう批評家があって、命をかけて抱いているその赤ん坊を一々おや鯛だね、おや狐でいらっしゃいます、お化けかと思ったというて歩いたら、まったくそれは一日も勤まらないところの仕事であるかも知れない。心ではいもむしだと思っても、そこは女らしいとか、まあかわいいとか、天使のようだとか、何とか、都合のいい賛辞でも呈しておかねばならないものなのである。礼儀だから。
 ところで私自身、まったく私は命をかけつつ日々の難産をつづけその奇怪なる昆虫を産み落としつつあるのである。そして人間の情けなさは馬鹿な母親の如く、いもむしや狸にも似たわが子の眼玉へ接吻したりなどすることになる。
 しかし不幸なことにも接吻しながらも変な顔していやがるなと、心の底では思っている。しかしその子は何かの因縁とか因果の種とかいうべき怖ろしいものだとあきらめていて抱いている。
 ところがこの変なものを産み出すための難産には随分の体力が必要である。私が一番情けなく思うのはこの体力の不足である。
 ことに油絵というものは西洋人の発明にかかるところの仕事だけあって、精力と体力とで固めて行く芸術だといっていいかと思う位のものである。神経の方は多少鈍くとも油絵の姿だけは出来上がるものだといって差し支えない。
 私は日本人全体が西洋人程の体力をもっていないことを認めている。それは性慾や食慾について考えても同様である。
 日本人の中でも私などはもっとも体力の貧しい方である。私が徴兵検査の時、体重は十貫目しかなかった。検査官の一番偉い人が十貫目という字と私の顔を見比べて、どうかお大切になさいといって、いの一番で解放してくれたものである。
 以来、私はもう死ぬかと思いつつもインド洋を越えてフランスまでも出かけて今なお生きているが生きていることに大して自信をもっていない私が、難産をつづけながら因果の種を抱こうというのであるからこれもまた因果なことである。
 世には病身にしてかつ人一倍淫乱だという者がよくあるものだ。私はそれかも知れない。しかしこの行いだけは止めるにも止められない。
 その上、文明がまだ中途半端で混沌としているので、西洋画家の生活が殆ど成立っていないから、まったく生活とは無関係であり、勝手な仕事となっており、しかし多情多淫であっては、やがては疲れはてて奇怪なる低能児を抱えたまま行き倒れてしまうのではあるまいかということを、私の虫が知らせてくれるのである。
 現に行き倒れつつある多くの先輩を見るに及んで情けなく思う。由来私は政治家の死や何かにあまり悲しみを感じないが、名妓のなれのはてとか、役者、二輪加師、落語家の死、あるいは難産しながら死んで行く画家のことを聞くと本当に心が暗くなる。
(「アトリエ」昭和二年九月)
   あまり美しくない話

 蚤、虱、蝿、蚊、南京虫、何とそれは貧乏臭い虫類であることか。
 しかしその中でも蝿と蚊はさほど貧乏の匂いを持っていない。もちろん蝿と蚊は貧乏以外の場所へ遠慮なく出入りすることが、多少許されているからであるかも知れない。そして家の中に蚊がいても、客に対してさほど赤面する必要はないようだが、畳の上を蚤がしきりに飛んでいたり、虱を客へ伝染させたりしてはまったく赤面せずにはいられない。
 しかしながら自分の身体のうちに多くの虫を同居させ、養いともに苦労していることを感じていると、蚤や虱も憎めるものではなく、あまりうるさくもないものだ。
 私はその貧乏臭い彼らとは相当の馴染を持っていた。多くの彼らと常に馴染んでいるとあまり邪魔にはならないものとなってしまう。そして猫が時々蚤をせせっている如く、人間は猿股を電灯の光で眺めてみたり、乞食や仙人は青葉の下で虱を食べたりする、それは彼らを憎んで食べているのではなく自然を楽しみながら煙草の煙を吸う如く、彼らの一つ一つを捕えて食べているのだと思われる。
 南京虫の家に住みて南京虫を忘れ、蚊の中に住みて蚊やり香を焚き、団扇でそよそよと彼らを追うことは、また夏らしき情景を作るためにしている仕事のようである。
 貧乏で退屈で希望なくてつまらない時、私は蚊にたべられた場所を掻くことを楽しんだことさえあった。パリの客舎でノスタルジーを感じた時、南京虫のきずあとをいつまでも[#「までも」は底本では「まで」]掻いて長い時間を消したことがあった。
 冬のある暖か過ぎる日にはふと一匹の蝿がうなりを立てて飛び廻ることがある。私はその音で冬の寒さを忘れることが出来る。
 冬から春へのある季節になると、何という種類の蝿か私にはわからないが、妙に細長く力のない蝿が便所の中へ発生することがある。その蝿は発生すると同時に恋愛を始め、恋愛をつづけながら、しかし少々のことでは離れず重なり合って死んで行くのを見る。まったく猥らな相貌を呈した厭味な蝿である。
 私は郊外へ住んでから蚊の多くの種類を知るようになったが、一つだけ私の厭な奴があることをたまに発見する。それはお尻を高射砲の如く突き立てて壁へとまるところのマラリヤ蚊である。私がインド洋航海中同じ部屋にいた人がシンガポールへ上陸した時、その蚊から頂戴して来たマラリヤを発病したのだ。蒸暑いムンスーンのインド洋上で故郷を思いながら四〇度の熱を一日何回となく繰り返すことはまったく気の毒だと私は思ったが、しかし狭い同室で発汗している人があることは、そしてそれがマラリヤであることは私たちを怖れさせた。やがてその人は病室へ送られたが、マルセイユへ上陸出来ず、彼はロンドンまで行くことになった。私は彼からハンカチーフを贈られ私は寝衣の着換えを彼へ進上して別れたことがあった。
 私は多くの蚊よりもたった一匹の蚊、一匹の蚤が寝室を荒らすのを怖れる。彼らはまったく私を不眠症にしてしまう。多くの蚊、多数の蚤に対しては度胸がすわってしまうものである。
 今自分の家には畳がなく、ベッドによって暮しているために最近蚤の味を忘れてしまっていたが過日、ある旅館で私は近頃珍しく蚤が腰のあたりを噛むのを感じて眠れなかった。
 彼らは馴染むと平気となるが、彼らを怖れると重大なものとなって来る。大体近代の文化は病院の手術室の如く、白く明るくガラス張りの中へわれわれ人間の世界を追い込めようとする傾きがある。そしてわれわれは蝿、蚤、蚊、その他あらゆる黴菌から遠ざかり、まったく虫なき世界、蚊なき世界、黴菌なき世界でただ一人人間が完全に清潔に暮すことが出来ることになるかも知れない。その代りその時は、たった一匹の蚤に食べられても人間は殺されてしまうかも知れない。とは思うものの今の時代、われわれの身辺にはなるべく蚊、蚤、蝿はいてくれない方が勝手ながら幸いである。

   嫌い

 嫌いといえば、私はかつて蜘蛛という随筆を書いたことがある。如何に私がこの世の中で嫌いだということはそれを読んだ人は知ってくれる筈だ。
 今や再び嫌いについて考えてみるに、やはりなんといっても私には蜘蛛ほど嫌いなものはないようである。まったく私は蜘蛛だけは胸がドキドキする位の嫌いさである。
 この嫌な蜘蛛にもたくさんの種類があるが、私の一番怖ろしく思う種類のものは、その足を拡げると直径四、五寸から五、六寸にいたるものである。胴体がドス黒くて、太くて長い足をノソリノソリと動かすところ、私はとうてい正視するに忍びないのである。情けないことにはこの蜘蛛は多く室内にいて天井や、壁や便所の中を歩き廻るのだから堪らない。いわば同居しているのだから、私にとっては生涯の苦の種だ。
 この蜘蛛は主として関西方面に多く、ことに温かい国に多いのだ。紀州や四国辺などには随分どっさりいるらしい。

 私がある夏、伊予の道後温泉で高浜虚子氏や朝日の大道鍋平君などとともに四、五日滞在したことがあった。ところがその宿にこの大蜘蛛の多かったことは驚くべきものであった。
 初めて座敷へ通った時、私は床の間の上に一匹、天井の壁に二、三匹、大きな奴が控えているのを発見して私はこんなところに永居は出来ないと考えた。
 私が二階へ行こうとして階段を登りかかると大きな一匹が下りて来て、ちょうど階段の途中で蜘蛛と私がすれちがったことがあった。私は悲鳴を上げた。蜘蛛はその声に驚いて飛び上がった、それでまた私が夢中になって座敷へ転がり込んだ。
 それから私の神経は極度に興奮して、一寸蝿が首筋へとまってさえも私は飛び上がった位だ。私は大道君に頼んで、一つ一つ座蒲団をもって退治してもらった。鍋平朝臣の蜘蛛退治というのはあまり伝説にも見当たらないようだがなかなか手際のいいものだった。私はその死骸を見るに忍びないので、始末のつくまで、庭へ出て待っていたことである。私は道後を思うとすぐ蜘蛛を思い出していけない。

 去年の夏は紀州の大崎という片田舎の漁村へ、研究所の夏季講習会があったので生徒とともに出かけてみた。
 ところがその宿の便所というのが、そもそも私達が到着したその時から気にかかって堪らないものであった。その夜のことだ、私はどうしても便所へ入る必要に迫られたものであった。もちろん淋しい漁村のことだから、便所に電灯がつく筈もないのだ。その真暗の便所の壁に、どうやら何物かがいそうな気がしてたまらないのであった。そこでとうとう同行の国枝金三さんに、君一つはばかりまでついて来てはくれまいかと頼んでみたものだ。
 何がさて、仏性の金三さんだから快く引き受けてくれた。よしよしといいながら提灯を携げてついて来てくれた。なんぞいるかというので、私はちょっと待っててやといいながら尻をまくって便所の隅々を見廻した。すると予感というものはまったくおそろしいもので、大きな奴がしかも二匹、目玉が燐光を放って物凄いのだ。
 君、いるいるといって私は往来へ逃げ出した。暫時、金三さんはドタンバタンと便所の中で一人立廻りをやっていたが、やがて小出君、安心しいや、もう二つとも殺したという声がした。私はその時位金三さんの親切が身に沁み込んだことはなかった。しかしながらこんな仏性の人に二匹まで殺生をさせたことを大変相すまぬと思って今に気にかかっているのである。

 そんなに嫌いな蜘蛛をば種に使って私は子供の時分、よく大人を欺したことがある。私は画用紙へその大蜘蛛の姿を墨で描いて、鋏で切り抜くのであった。切り抜いてみると、自分で今切り抜いた筈のその絵の蜘蛛が、心もち悪くて自分で掴めない位なものである。それを我慢しながら、その八本の足の先端へ糊をつけて暗い壁へ貼付けるのである。すると胴体だけが少し浮き上がってちょっと見ると本ものに見えるのである。しかる後、私はさァ皆来てくれ、くもやくもやと騒ぎ廻るのだ。
 ある時蜘蛛を生捕りにすることを自慢のおやじが近所にいた、おやじは早速団扇と篩とを持ってやって来て、さあ見なはれや、今生捕りまっさかいといいながらその紙の蜘蛛へ一生懸命篩を被せているのであった。ところが足が糊づけだから、なかなか蜘蛛は動かないのだ。何度被せてみても元の如くちゃんと壁に噛みついているのである。さすがのおやじも少し不気味に思えたとみえて、これはおかしいぞといって少し蒼くなった。見物していた皆のものも少し変な顔をした。おやじはとうとう団扇でくもをなぐりつけたものだ。すなわち紙の蜘蛛はヒラヒラと散って来た。裏は真白だったからおやじは怒った。もこれからは、ほんまにぼんぼん蜘蛛が出たかて、取ったれへんぞといって帰ってしまった。そして学校で教わった狼の話を私は思い出してはなはだすまないと思ったことがある。

   五月の風景

 私は冬中をば冬眠中の蜘蛛の如く縮み上がって暮す。そして冬眠中に出来そうな仕事、例えばストーブの側で裸女を描くとか、あるいは公設市場で蔬菜静物を買い込んで来てテーブルへ並べてみるとか、あるいは子供の流感に喫驚して代診の如く体温計を持って走ってみたりなどするのである。
 ところでいくら神様が造ったと称する不思議にも立派な裸女や蔬菜静物といえども、毎日毎日眺めていると食べものと同じく飽きるものである。ああ、またカボチャかと思う。こうなってはもはや、何事もおしまいである。早く春になれと思う。新鮮な風景を早く描きに出たいと考える。それで私は人一倍春を待つのである。
 大体春というものはいじけているものを伸上がらせるものである。私が春に会うて伸出すと同時に冬中縮みながら考えていたところの芸術という私の一番大切な考え以外における私の体内にひそむその他のあらゆるものまでを共に伸上がらせてしまうのである。伸出すものは私ばかりではない世の中の花が揃って咲出すのである。本当の蜘蛛もそろそろ動き始める。すると汽車や電車は浮上がり伸出した人達でもってすでに一杯となっているし、往来へ出ると御馳走の嘔吐が吐き散らされているし、浪花踊が始まっていたり、芦辺踊の紅提燈がずらりとお茶屋の軒に並んでいたりするのである。すると私はちょっとカン□スを枠へ貼ってみたり、あるいはちょっと外出してみたり、帰ってみたり、またちょっと出てみたり、また帰ってみたり、あるいは「どうしたものか知らん」「何んぞ」「どないぞ」「何んとか一つ」といった言葉を繰返しながら、すこぶるよい天気の一日を殆ど中腰となって、動物園の狐が檻の中でする如く狭い部屋の中をぐるぐると巡回するのである。こうなるとしまいには何とも知れない憂鬱が込み上がってくるものだ、わけのわからない癇癪が立ちのぼってくる。
 私はこんな状態になったある日のこと、とうとう私は妻君にちょっとしたいいがかりをして、食べていたお茶漬を襖へ向かって投げつけたことがあった。襖は破れて茶碗は半分、唐紙へ食い込んだ。その穴から襖の中へお茶漬が半分流れ込んであとの半分は畳の上へ散乱したものである。散乱したお茶漬というものは随分穢いものだと私は思った。私はそれを見るに忍びないので二階へ駆け上がったがどうも気にかかって堪らないので二〇分ばかりの後、そっと下りて茶の間を覗いて見た。すると驚いたことには何もかも綺麗に片づけてあるのにこわれた茶碗とお茶漬だけは、散乱したままそっと宝物の如く大切に保存されてあるのだった。これには少し弱った。一刻もこんな穢らしいものを捨てておけないと私は考えたが、今さら掃除を命じるのはくやしいから、掃除位なんだと私は叫んで箒を持ってめし粒を掃き寄せ、襖の穴へは紙を貼った。流れ込んだ茶漬は仕方がないからそのまま封じ込めてしまった。
 その後私はその襖を見るたびにこの中には、あのめし粒が入っているんだなと思うのである。

 まずそんないろいろの悩ましき障害から、私は春になったら花を描いてみよう、桃のある間にあすこへ出かけて二、三枚制作してみようなど数年来同じことを考えていながら、ただそわそわとしてまだ一枚の春らしい絵も作らず、今年こそ今年こそと思いつつこの季節を逃してしまうのである。
 ようやくにして多少の猥褻の気を含める桜の花も散りはて、柿の若葉が出揃い、おたまじゃくしが蛙となって鳴き出す頃、初めて私の神経がややもとの鞘へ収まろうとするのである。もう世の中全体の浮気も一段落を告げ、もはや何を見ても満目青いことである。それからだんだん自然の青さと暑さは増すばかりだ。
 この青さと暑さが私にとってよい合薬だ。私は私の故郷へでも帰った心地がする。もう電車や汽車に乗っても、酔っぱらった青年団や旗を持った運動会にも出会わない。まず家を出て仕事をして帰るまで、さほど機嫌を損じることもない。まず五月の風景は私の野外における仕事始めのかき入れ時である。
 ところが多少困ることにはこの安心な初夏風景は絵の構成上、色彩に不足を感じることである。すなわちただ一切が緑であるから。
 それでようやく辛うじて、空と水とによって画面の色彩に変化を保たせようとするのである。絵描きに限らず人は何となく、夏になると水のそばへ行きたがるのもあるいは同じ要求からかも知れないと思う。
 でもまだ初夏には若葉のよき階調があるけれども、もう梅雨を過ぎるといよいよ緑は深くどす黒く、ただもう鬱蒼として黒いのである。したがって画面はすこぶる単調を免れない。
 しかしながら私はそれで満足して、静かに日傘の下で安心して仕事をつづけることが出来る。
(「新潮」昭和二年五月二十六日)
   夏は自動車

 夏はことに自動車のドライヴはすがすがしい。まして自分自身でドライヴすることが出来たらさぞ愉快なことと思う。しかしながら私は大体雑念妄想の多い性質だから、ハンドルを握りながらすれちがった美人について考えたりするうちに一〇〇メートル位は進むことであろうから、そのうち何者かに突き当たらずにはいないであろう。だから私は自分でドライヴする道楽だけは、万一自動車の古手が一〇〇円位で手に入るとしても決してなすべきことではないと断念している。
 自動車というものは軌道がないので、何となく自由な走り方をするのが好きだ、一直線でなく、人間の歩行と同じく、多少とも千鳥足で進行するところが、大変自分の心のために安楽と自由を感ぜしめる。
 軌道の上に鉄の車が嵌めこまれているところの電車や汽車は直線の上を窮屈に進み、その代り安全であり安定はしているが、その安全からくる退屈さはまた格別である。
 ところで自動車はむしろ、不安全と不規則と危険に満ちている。左右にゆらゆら動きながら、思っただけの速度の緩急を随時に行いつつ走るので心を束縛することがなく、気随気ままを振舞うことが出来る。気随、気ままで危険に充ちた興味を味わうことは、近代のわれわれの心を慰めるのにもっとも適当である。そしてわれわれは退屈から救われるのである。
 その点、汽車に終日乗ってみると安全ではあるが、いくら欠伸をしてもし尽せない位の欠伸を催す。
 私はしばしば自動車の遠乗に誘われる。その時車上の家族は主体であり、自然風景はことごとくたんなる背景となるに過ぎない。水の流れる如く、人も海も山も家もただ後ろへ流れて行くだけである。
 まったく自動車のドライヴでは、距離や哩数はたんに指針の尖端にのみ現れるに過ぎない。本当の地球の広さはわからない。したがってドライヴの旅の印象は、活動写真で見た実写ものの記憶と殆ど同じことであるといっていいと思う。
 私はいつか奈良ホテルから、公園を自動車で通過したことがあった。その時の奈良はちょうど渡欧の途中で見物したシンガポールの植物園とほぼ同じだった。そして歩いている男女は土人の如く見えてしまった。そして別の日に、私は同じ公園の古さと広さと長閑さと人情とがわかった。もちろん私の足で歩いたのだ。
 何しろ自動車のドライヴは愉快だがあらゆる人情と風景と地球が縮まってしまうことは惜しむべきことだと思う。しかしまあ、自動車のドライヴはその日の天候とテンポの速さの近代味を楽しめばそれでいいのだ。そしてなお車上の親愛なる人間同士が親愛であれば幸甚であろう。とにかく夏はオープンの車体を走らせることが壮快にして晴々していることではある。

   上方近代雑景

「今はもう皆あれだす、うちの子供にもあんなん買うたろ」といって漸(ようや)く着せて見た洋服を、私は心斎橋筋(しんさいばしすじ)の散歩で沢山見受ける。即ち女の子は、近所の女給かダンサーの扮装(ふんそう)となって街頭に現れる。その両親は、どうだす、見てんかという顔で歩いている。
 あるいは子供のスカートの裾(すそ)が妙に厚ぼたくふくれているので何かと思って近寄ると、とても長い洋服にウンと縫上げがしてあった。五、六歳の子供だが、多分女学校へ入学してから漸く身に合うに至るだろう。あるいは男の子のズボンが膝(ひざ)の下何寸かに垂れ下っていて上着(うわぎ)に大きなバンドがあり、それへ粋(いき)な帽子を着せたものだから、遠く望むと請負師(うけおいし)の形であったりする。
 女学生やバスガアルの帽子を見るに、何ゆえか素晴らしく大きなもので、殊(こと)に前後へ間延びしている。師直(もろなお)が冠(かぶ)る帽子の如く、赤垣源蔵(あかがきげんぞう)のまんじゅう笠(がさ)でもある。
 一体、何が中に入っているかと思って覗(のぞ)いて見ると、髻(たぶさ)が無残に押込まれてあるのだ。なるほどと思う。女学生らは、自分の毛髪の入れ場所に悩んでいるのだろう。
 今や若き男たちは、ネクタイの新柄を選びパンタロンの縞柄(しまがら)について考え、帽子に好みの会社を発見しつつあるが、婦人の洋装に至っては、まだまだ夏はアッパッパに毛の生(は)えたもの多く、冬は腰がひえてかないまへんという関係やら、家では靴をぬぎ畳の上へ坐する風習と、暖房装置がこたつであったりするために、あまり多く見受けない。しかし、たまたま、驚くべき中河内(なかかわち)郡あたりのカルメンといった風の女性の散歩を見ることがあるが、そんな場合、東西屋(とうざいや)の出現の如くうるさき人々は眺めている。その点では神戸と阪神沿線に見る教養ある洋装婦人や娘たちには相当スッキリとした、近代性を発見して私は満足する事がしばしばある。殊に神戸は西洋人と支那人とインド人とフランスの水兵等、あらゆる人種の混雑せるがために、神戸を中心とする女の洋服は多少本格的だ。だが、植民地臭くはある。

 私は子供の如く、百貨店の屋上からの展望を好む。例えば大丸(だいまる)の屋上からの眺めは、あまりいいものではないが、さて大阪は驚くべく黒く低い屋根の海である。その最も近代らしい顔つきは漸(ようや)く北と西とにそれらしい一群が聳(そび)えている、特に西方の煙突と煙だけは素晴らしさを持っている。しかし、東南を望めば、天王寺、茶臼山(ちゃうすやま)、高津(こうづ)の宮、下寺町(しもてらまち)の寺々に至るまで、坦々(たんたん)たる徳川時代の家並である。あの黒い小さな屋根の下で愛して頂戴ねと女給たちが歌っているのかと思うと不思議なくらいの名所図会(ずえ)的情景である。ただ遠い森の中にJOBKの鉄柱が漸く近代を示す燈台であるかの如く聳えている。
 大阪の近代的な都市風景としては、私は大正橋や野田附近の工場地帯も面白く思うが、中央電信局中之島(なかのしま)公園一帯は先ず優秀だといっていい。なおこれからも、大建築が増加すればするだけその都会としての構成的にして近代的な美しさは増加することと思う。ただあの辺(あた)りの風景にして気にかかる構成上の欠点は、図書館の近くにある豊国(とよくに)神社の屋根と鳥居(とりい)である。あれは、誰れかが置き忘れて行った風呂敷包(ふろしきづつ)みであるかも知れないという感じである。

 大阪には、甚だ清潔に休息し得る本当のカフェーというもの甚だ少い。殊に南の盛り場に至ると全くないといっていい。そのくせカフェーはうるさいほどあるのだが。
 先ごろも、甚だ野暮(やぼ)な次第であるが、三組の夫婦づれで心斎橋を散歩した時、あまりにのどが乾(かわ)いたのでお茶でも飲みましょうといったが、その適当な家がないのだ、ふと横町に多少静からしい喫茶の看板を発見してドアを開(あ)けると、これはまた例の青暗い家だった。われわれ夫婦たちの間へ、一人ずつの女給が割込んだものだ。さてわれわれ男たちは何事を喋(しゃべ)ってよろしきか、女給は何を語るべきか、細君は如何なる態度を示すべきかについては暫(しばら)くの間、重き沈黙が続いたのちわれわれは出がらしの紅茶と不調和と鬱陶(うっとう)しさを食べて出た。
 しかしながら、大阪のカフェーは旅の空か何かで訪問したらさぞ不思議な竜宮(りゅうぐう)だろう。和洋の令嬢と芸妓(げいぎ)、乙姫(おとひめ)のイミタシオンたちがわれわれを直(すぐ)に取り巻いてくれる。しかし彼女たちは踊らず、歌わずただ取り巻いてチップだけは受取ろうという訳だから、十分間で十分の退屈を味わうことが出来るかも知れない。だがしかし、あれは一体要するに、何をして遊ぶ処だか、あのややこしい、近代性は飲み込めないのだ、しかし、名称は女給仕人(きゅうじにん)だから給仕のつもりで控えている訳だろう。だが、それにしてはあまりに多過ぎるうるさい悩ましくも美しい給仕人ではある。とにかく大阪のみに限らず日本の近代風景は、かなりの悲劇だ。ともかく決して面白くもないが、万事を諦(あき)らめて、私はやむをえず心斎橋筋をそれでも歩いて見る。

   観劇漫談

 どんなくだらない展覧会でも、決して見落したことがないという絵画愛好家がある如く、本当の芝居好きという人物になると、如何なる芝居でも、芝居と名のつくものは何から何まで見て置かぬと承知がならないという。そして舞台では誰が何を、どんなに演じていたって構わない。ただ要するに芝居の中で空気を吸うて毎日坐っていたいというものさえある。
 さような人物になると座席など決して贅沢(ぜいたく)はいわない。いつも鯛でいえばお頭(かしら)の尖端(せんたん)か、尻尾(しっぽ)の後端へ噛(か)じりついて眺めている。
 即ち近くで泣く子供を叱(しか)り付けながら、足の痺(しび)れを我(が)まんしながら、遠いせりふを傾聴しながらあるいは弁当とみかんの皮に埋(うま)りながら、後ろの戸の隙間(すきま)から吹き込む冷たい風を受けながら、お茶子(ちゃこ)の足で膝(ひざ)を踏まれながら、前へ坐った丸髷(まるまげ)と禿頭(はげあたま)の空隙(くうげき)をねらいつつ鴈治郎の動きと福助のおかるを眺めることが、最も芝居を見て来たという感じを深くし、味を永く脳裡(のうり)に保たしめるのであるらしい。そしてまた次の興行には必ず行ってまたあのうれしい苦労がして見たくなるのである。
 それらの苦労をなめ、火鉢(ひばち)の温気と人いきれを十分に吸いつくして、頭のしんが多少痛み出すころから、漸(ようや)く芝居の陶酔は始まるのだと芝居通の一人はいう。だがそれらの苦労を全部省略してしまった処の近代風の劇場では、見物人が煙草をのまぬが故(ゆえ)に、ものを食べないが故に、火鉢を持ち込まない故に、芝居が終るころになっても空気はからりと冴(さ)えているので、どうもも一つ、張合(はりあい)がなくて、陶酔すべき原料がないという。
 しかし大阪では、新らしい近頃の文楽座(ぶんらくざ)以外では先ず、どの劇場もまだまだ、充分の原料を設備して愛好家を待っている。
 さて、私の如く常に芝居の空気とその雰囲気(ふんいき)による訓練を欠いでいる無風流な者どもが、そして毎日無風流な文化住宅とビルディングとアトリエの中をズボンと靴で立ちつくしているものたちが、時たま観劇に誘われて見ると、東京の劇場は靴のままの出入りだから幸福だが、大阪では通人のする苦労を共に楽しまねばならない。この我まんこそが芝居をよりよきものにするのだとは知りながらも、つい腹の方が先きへ立ってくるのでいけない。時代のテンポは画家という風流人を、かくも無風流にしてしまったかと、われながら、あきれるばかりである。
 昨夜も久しぶりで、窮屈な桝(ます)の中へ四人の者が並んで見たが、四人の洋服は八本の足を持っているものだからその片づけ場所がないのだ。くの字に折って畳んで見たり、尻の下へ敷いて見たりまた取り出して伸ばして見たり、あるいはさすって見たり、全く持てあました。
 愛人と共に過ごす幸福の一夜は、片腕の存在を悲しむという意味の唄(うた)がどこかにあったが、全く芝居では両足の存在が悲しい。帽子と共に前茶屋へ預けて来ればよかった。その窮屈の中へなお、火鉢と、みかんと、菓子と食卓と、弁当と、寿司(すし)と、酒とを押し込もうというのだ。

 それから芝居の雰囲気を増す原料の一つである光景は、幕が開いてしまっているのに、小用や何かで立った男女老若が、ぞろぞろばたばたと花道を走る事だ。
 昨夜も判官(はんがん)は切腹に及んで由良之助(ゆらのすけ)はまだかといっている時、背広服の男が花道を悠々(ゆうゆう)と歩いて、忠臣蔵四段目をプロレタリア劇の一幕と変化させた事だった。
 全く幕が開いた暫(しば)らくなどは舞台では何が始まっているのか見えない位のこんとんさである。姉(ね)えやん、光(み)っちゃん、お母(かあ)ん、はよおいでんか、あほめ、見えへんがな、すわらんか、などわいわいわめいている。
 その喧噪(けんそう)の花道を走る芸妓(げいぎ)の裾(すそ)に禿頭は撫(な)でられつつ、その足と足との間隙(かんげき)から見たる茶屋場などは、また格別の味あるものとなって、深き感銘とよき陶酔を老人に与えたであろうかも知れない。
 とにかくも、先ず芝居はどうであろうとも、芝居の中の浮世の雑景は、近代の様式による劇場のとりすましたるものとは違って、雑然として見るべきものが甚だ多い処に、私も芝居以上の陶酔を持つ事が出来る気がする。
 なるほど、徳川時代か何かに生れて、のらりくらりと芝居の桝の浮世の中へ毎日入りびたっていたりする事は、悪くはない事だったであろう。ところでわれわれ現代人はこの八本の足の始末に困っているのだ。
 さて、かかる光景を喋(しゃべ)っているうちに予定の紙数は尽きてしまった。芝居の本文は他の連中へ譲って私はこれで擱筆(かくひつ)する。
 挿入の絵は公設市場に蟹(かに)が並べてあるのではない。忠臣蔵四段目、福助の判官が切腹を終ったすぐあとの、静寂なる場面の印象を描いたものである。

   芦屋風景

 芦屋という処へ住んで二年になる。先ず気候は私たちの如くほそぼそと生きているものにとっては先ず結構で申分はない。そして非常に明るい事が、私たち淋(さび)しがり屋のために適当しているようだ。
 南はすぐ海であり、北には六甲山が起伏し、その麓(ふもと)から海岸まではかなりの斜面をなしている。東に大阪が見え、西には神戸の港がある。電車で大阪へ四十分、神戸へ二十分の距離である。
 その気候や地勢の趣きが南仏ニースの市を中心として、西はカーニュ、アンチーブ、キャンヌ東はモンテカルロといった風な趣きにもよく似通(にかよ)っているように思えてならない。殊に山手へ散歩して海を眺めるとその感が深い。小高い丘陵が続く具合、別荘の多い処、自然が人間の手によってかなり整頓されている処、素晴らしいドライヴウエイがあり、西洋人夫婦が仲よく走る有様なども似ている。私は散歩する度(た)びに南仏を思い出すのである。
 それで随分風景を描く場所も従って多く、風景画には不自由を感じないように思える訳でもあるけれども、それが事実はさようにうまく成立っていない処が、南仏と芦屋との悲しい相違である。
 南仏蘭西(フランス)一帯にかけて生い茂っている処のオリーブの林は如何に多くの画家を悦ばしている事か知れない。その墨の交じった淡緑色と、軟かく空へ半分溶け込んで行く色調は随分美しい。セザンヌやルノアルの風景の半分はオリーブの色調で満たされているといっていいかも知れない。
 この芦屋にはオリーブの代りに黒く堅い松の林の連続がある。松も悪いともいえないが、オリーブのみどりに比べると色彩が単調で黒過ぎる、葉が堅い。従って画面が黒く堅くなる。
 地面は六甲山から流れ来る真白の砂地である。白と堅いみどりの調和は画面に決して愉快な調和を与えない。その白い砂地に強い日光が照りつけ、松の影が地に落ちるとただ世界はぎらぎらとまぶしく光るだけである。大概の画かきはこれは御めんだといって逃げ出す有様を私はしばしば見る。
 それから風景としての重大な要素である処の建築が文化住宅博覧会であるのだ。或る一軒の家は美しくとも、その両隣りがめちゃなのだ。すると、悉(ことごと)くめちゃと見えてしまう。
 その家あるがために風景がよく見えるという位の家が殆(ほと)んどない。これは何も芦屋に限らない、現代日本の近郊の大部分は同じ事ではあるが。
 それにつけても羨(うらや)ましいのはモンテカルロ辺(あた)りの古風な石造の家や別荘の積み重なりの美しき立体感である。マッチの捨て場所のない清潔な道路である。
 家ばかりを幾度描いても描き切れない豊富な画材が到る処に転がっているのだ。
 でも私は、あまりいい天気の日に、何かたまらなくなって、カンヴァスを携げて山手の方へモチーフをあさりに行く。そしてその度びに何か腹を立て、へとへととなって疲れて帰ってくる事が多いようである。
 その腹立ちを直すために、神戸へ出かけて、ユーハイムの菓子でコーヒーをのみ、南京街で新鮮な野菜を求めて帰ってくる。
 私の絵に静物や裸女が多くなるのもやむをえない影響であるだろう。

 私の家を門のそとから眺めて見ると、温室があり花壇があり様々の草花が咲き乱れている。その少し奥にはガレージがあり、二台のオートバイが並んでいる。それから小さな亭座敷(ちんざしき)があり、松の並木があって、私の家の玄関が見えその奥づまりに画室がある、という極く見かけは立派な光景である。
 御宅の先生はオートバイに乗られますかと驚いて訊(き)く人がある。勿論、ヴラマンクはオートバイで写生に走るというから、日本にだって一人位いはさような影響を蒙(こうむ)る画家が出ても差支えなかろうとは思うが、実は宅の先生はまだ自転車にも乗れないのだから残念だ。
 私自身は私の家の内から外を常に眺めて暮しているから、花壇も温室もガレージも、オートバイも皆、私のものではない事がよくわかっている。そして、ただ私のアトリエだけが漸(ようや)く自分自身のものであるに過ぎないのだ。
 本当は、私は自分の衣食住に関しては、非常に気むずかしく、神経質で気ままで、自分の考え以外の事は決して許したくない性質を持っているのであるが、自分にはそれを徹底させるだけの資力も根気もないので、何もかもをあきらめて衣食住の一切は成り行き次第の流れのままにまかせてある。
 万一、明日大地震が起って、直ちに吾人(ごじん)は穴居生活に移らねばならぬとあれば、私は直ちに賛成する。
 私は橋の下でも、あるいは大極殿(だいごくでん)の山門の中でも決して辞退はしないつもりである。水は方円の器に従うが如く、私はそれに応じての私の身を置くに適当な何かを以て飾り立て、ぼろぎれを張り廻(めぐら)し、工夫を凝(こら)して心もちよく住んで見せるだけの自信はあると思っている。要するに乞食性だといえばいえる。
 衣類、持ちものにしても、私の好みの日本服、好みの洋服、好みの外套(がいとう)、好みの帽子、好みの宝石、好みの時計、好みの自動車といいかけると限りなく私の注文は心の奥に控えている。
 だがしかし、私は万事を自分の心のままに出来得ないものならば、最早や何一つとして注文して見る必要はないと考えている。だから、手当り次第の勝手気ままの不統一で通す事にしている。一度パリで買って私の気に入ったパンタロンは、よそ行きも常も婚礼も朝から晩まで着通して、今なお着用しているがさすがに、縞(しま)が磨滅して来た。惜しいものである。
 終日、洋服で通すという不粋な事は私だって本当は好きだといえないが、私は洋服を意地からでも着て暮す。
 勿論、私の今の家には座るべき座敷がないのだから、和服では裾(すそ)が寒くて堪(たま)らない上に、私のやせぎすは、腹が内側へ凹(へこ)んでいるために、日に幾度ともなく、帯を締め直す煩(はん)に堪えない事もあるのである。
 私がもし、急に明日から金閣寺で暮すという身分にでもなったとしたら、私は直ちにパンタロンは紙屑屋へ売飛ばして衣冠束帯で身を固めるであろう。
 先ず花の下には花の下の味があり、鉄管の中にはまた格別の世界があるのに違いない。何に限らず住み馴れたらまたなつかしい故郷となるものだろうと思う。
 今の処、何んといっても私が思う存分の勝手気ままを遠慮なく振舞い得る場所はただ一枚のカンヴァスの上の仕事だけである、ここでは万事をあきらめる必要がない。私の慾望のありだけをつくす事が許されているのだといっていいと思う。
 画家というものがどんな辛(つら)い目に会っても、悪縁の如く絵をあきらめ得ないのも無理のない事かも知れない。

   芝居見物

 大阪の芝居見物は何かものを食べながら、話しながら、飲みながら、その間に時々舞台を見ているようである。もの見遊山というのは芝居見物のことだと私は子供の時から思っていた。
 私の父は芝居、遊芸道楽に関することは何から何まで好きであったから、私は人間の心もちも出来ていない幼少の時分から芝居へはしばしば出入りした。そして何かたべながらちょいちょいと舞台を眺める教育を受けたのである。だから私は充分大人となってから後も、芝居というものは何か退屈をきわめた時に芸妓を連れて遊びに行く場所だとばかり思っていた。芝居の中心は舞台の方になくてわれわれ見物人の方にあるようだった。だから今私が小さい時のことを考えても、舞台で何を演じていたかということはあまり記憶に残っていない。ただ時に大きな月がおりて来たり、波が動いたり、その波と波との間を何か美しいお姫様が流れて来たり、それが助けられたり、馬に乗せられた罪人の娘が引摺られて来たり、寒い時に役者の素足がふるえていたり、切腹したり、雪が降ったり癪を起こしたり、刀を抜いたりした断片を覚えているだけである。それが何という芝居でどんな筋であったかも皆忘れてしまっている。それよりも私は私の側に並んでいた芸妓の話や、父の顔や、女将の肖像、盛られた御馳走の方を多く記憶する。あるいは時には芸妓の代りに母と女中であったりしたこともある。
 私はその後、学校生活のためや、肝腎の父が死んだりして十年以上も殆ど芝居を見ずに暮してしまった。
 今度は父の代りに私は友人に誘われて再び芝居を見るようになった。十何年間芝居というものを見なかった私は、随分進歩も変化もしたことだろうと思って出かけたところが、不思議なことにも芝居の中はやはり昔のままの姿で見物人は私の父と同じ真似をしていた。芸妓が何かたべながらわさわさとしていて、舞台では十幾年前と同じ役者が同じ顔をして同じせりふを申し上げていた。私は芝居の国では地球は回転しないのかと思った。
 芝居だけは十年位、欠席していても決して時代に遅れないのだという自信を私は得たものである。なるほどこの芝居なら、せめて何か食いながらでなくては見ていられないかも知れない。芝居見物というのはあの狭い桝の中で家族親類は懇親を結び、芸妓は旦那と、男は女と、懇親を結ぶ場所であり、そして舞台では余興をやっていると見る方が本当かも知れない。
 その代り舞台では、いかに名人といえども見物人が背を見せて勝手な話に耽り、勝手にめしを食い酒を飲んでいるのだから、今必要なせりふを申し上げましょうと思っても、少しも見物人へ通じないのだから、まったく何をする張り合いも抜けてしまうことだろう。かくして役者と見物人はお互いに殺し合うのではないかと思う。
 以来私は時々それでも芝居は見に行く。しかしそれは疲れたらタクシーへ乗る心もちで芝居へ行く。煙草の代用、カフェーのつもりで行くというきわめて不埓な見物人である。まさに大阪的見物の致し方である。だから舞台では何をしていてくれても一向差し支えはないのだ。手品でも旧劇でも新劇でも浄瑠璃、落語、何でもよいのである。要するに見物人の懇親を邪魔さえしなければよいのである。そして役者は好男子であればいい。
 しかしながらこれでは名人も芸を磨く気にはなれないだろう。その点東京の見物人はもっと本気な意気を持っていると思う。私は名人を作るのは見物人の力だとさえ思っている。見物人が舞台へ背を向けては万事おしまいだといっていい。名人は決して現れないだろう。
 私は東京で吉右衛門を見て、それから大阪でそれを見た。すると大阪では吉右衛門が半分しかないように感じられた。それは役者の不足のためかも知れないが、どうも私には張り合いの都合も随分あるのではないかと考えた。
 それで常に関西にのみ多く住んでいる私は、つい芝居を見に行く本気を失ってしまう。たまたま行くとその不埓な見物をする。私は常に不埓な見物でことのたりる関西を淋しく思う。

   見た夢

 私は他人の見たという夢の話を聞くことに一向興味が持てない。夢はあまりに夢のような話であり過ぎる。しかしながら自分の夢を語ることはかなり面白いものであると見えて、昨夜見た夢をくどくどと語る人は多い。
 私は今自分の見た夢を語って暫時、迷惑を与えようと思う。食べ過ぎた晩、過労の夜、神経がすこぶる衰えた時に見て、私の記憶に残っている夢の数は多いがそのうちの二、三の馬鹿らしきものを選ぶ。

     A
 私の庭で私は大園遊会を催した。集まるものは主として画家であり、ことに二科の会員はみな、出席していた。庭の大きな池には花見の船が浮かび、おでんが煮えつまりつつあった。
 就中、一艘のボートには大勢の楽手がいて、素晴らしい行進曲を奏ではじめた。

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