出家とその弟子
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著者名:倉田百三 

この戯曲を信心深きわが叔母上(おばうえ)にささぐ
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極重悪人唯称仏(ごくじゅうあくにんゆいしょうぶつ)。 我亦在彼摂取中(がやくざいひせっしゅちゅう)。

煩悩障眼雖不見(ぼんのうしょうげんすいふけん)。 大悲無倦常照我(だいひむげんじょうしょうが)。

         (正信念仏偈)
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出家とその弟子
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    序曲

      死ぬるもの

       ――ある日のまぼろし――

人間 (地上をあゆみつつ)わしは産まれた。そして太陽の光を浴び、大気を呼吸して生きている。ほんとに私は生きている。見よ。あのいい色の弓なりの空を。そしてわしのこの素足がしっかりと踏みしめている黒土を。はえしげる草木、飛び回る禽獣(きんじゅう)、さては女のめでたさ、子供の愛らしさ、あゝわしは生きたい生きたい。(間)わしはきょうまでさまざまの悲しみを知って来た。しかし悲しめば悲しむだけこの世が好きになる。あゝ不思議な世界よ。わしはお前に執着する。愛すべき娑婆(しゃば)よ、わしは煩悩(ぼんのう)の林に遊びたい。千年も万年も生きていたい。いつまでも。いつまでも。顔(かお)蔽(おお)いせる者 (あらわる)お前は何者じゃ。人間 私は人間でございます。顔蔽いせる者 では「死ぬるもの」じゃな。人間 私は生きています。私の知っているのはこれきりです。顔蔽いせる者 お前はまたごまかしたな。人間 私の父は死にました。父の父も。おゝ私の愛する隣人の多くも死にました。しかし私が死ぬるとは思われません。顔蔽いせる者 お前は甘えているな。人間 (やや躊躇(ちゅうちょ)して後)わたしは恐れてはいます。もしや死ぬのではなかろうかと。……あゝあなたは私の心を見抜きましたな。ほんとうは私も死ぬのだろうと思っているのです。私の祖先の知恵ある長老たちも昔から自分らのことをモータルと呼んでいますから。顔蔽いせる者 それはほんとうじゃ。禽獣(きんじゅう)草木魚介の族と同じく死ぬるものじゃ。人間 あなたはどなたでございますか。その威力ある言葉を出すあなたは?顔蔽いせる者 わしは死なざるものに仕える臣じゃ。お前はわしを知らぬかの。人間 知っているような気もするのですが、……いゝえ、やはり知りません。顔蔽いせる者 お前はたびたびわしの名を呼ぶようじゃ。ことにこのごろはあまりたびたびなので煩(わずら)わしいほどじゃ。人間 ではもしやあなたは? おそれながらお顔蔽いをとって一度だけどうぞお顔をお見せくださいませ。顔蔽いせる者 わしはモータルには顔を見せぬものじゃ。死ぬるものには。人間 それはなぜでございます。顔蔽いせる者 モータルを見るとわしは恥ずかしくて死ぬるからじゃ。人間 死ぬる者という言葉には軽蔑(けいべつ)の意味が含まっているように聞こえます。顔蔽いせる者 死ぬのは罪があるからじゃ。罪のないものはとこしえに生きるのじゃ。「死ぬる者」とは「罪ある者」と同じことじゃ。人間 では人間は皆罪人だとおっしゃるのでございますか。顔蔽いせる者 皆悪人じゃ。罪の価は死じゃ。(消ゆ)人間 今のは彼れだな。それに違いない。いったいあれは幻だろうか実在だろうか。わしは初めは無論幻だと思っていた。けれどだんだんそうは思われなくなりだした、だってあの恐ろしい破壊力は、あまりはっきりしているもの。実在だとしていったいあれは何者だろう。私はあれの正体が見たい。それを知りさえしたらこわくはない。私はあの恐ろしい火と水との正体を知ってからは、彼ら自身の法則でかえって彼らを使役して私の粉(こな)ひき場の車をまわさせたり竈(かまど)をたかせたりしている、わしは彼の法則を知りたい。彼の本体をつかみたい。でなくてはわしの生活はいつも脅かされるから。あれを知るようになったのは私の不幸だ。しかし私の知恵の成長でもある。あゝ恐ろしい彼よ!顔蔽いせる者 (あらわる)お前はまたわしを呼んだな。人間 私はあなたの顔が見たい。顔蔽いせる者 ゆるされぬ。人間 どうあっても。顔蔽いせる者 その欲望はお前の分に過ぎている。お前の目に不浄のある限りは。人間 弓矢にかけても。顔蔽いせる者 あわれなものよ!人間 (手をのばして顔蔽いをとろうとする)顔蔽いせる者 その手に禍(わざわ)いあれ!(遠雷きこゆ)人間 (ひざまずく)幻影の列あらわる。
顔蔽いせる者 見よ。人間 鳥や獣やはうものの列がすぎる。鷲(わし)は鳩(はと)を追い、狼(おおかみ)は羊をつかみ、蛇(へび)は蛙(かえる)をくわえている。だがあの列の先頭に甲冑(かっちゅう)をかぶり弓矢を負うて、馬にのって進んでいるのは人間のようだ。顔蔽いせる者 彼は全列を率いている。人間 あれは征服者だ。顔蔽いせる者 そして哀れなもののなかの最も哀れなものだ。人間 あ、馬に拍車をあてた、全列は突進しだした。(凶暴なる音楽おこる)まるであらしのように。あんなに急いでどこに行くのだろう。顔蔽いせる者 滅亡へ。すべての私を知らないものの行くところへ。人間 おゝ。列通過す。あらしのごとき音楽次第におだやかになり、静かに夢のごとき調子となる。新しき幻影現わる。
顔蔽いせる者 見よ。人間 若い男と女だな。男はたくましい腕の中に女を抱いている。そして女は男の胸に顔をうずめている。玉のような肩に黒髪がふるえている。甘いさざめきに酔っているのだろう。顔蔽いせる者 よく見よ。人間 (熟視す)あゝ泣いているのだ。男は女をはなしてため息をついている。さびしそうな顔。顔蔽いせる者 幸福の破れるのを知りかけているのだ。人間 あなたを呼んでいるのではありませんか。顔蔽いせる者 わしに気がつきかけているのじゃ。しかし、わしを呼ぶのを自らさけているのじゃ、自分をいつわっているのじゃ。人間 男はふたたび女を抱こうとしました。けれど女はこのたびは突きのけました。そして男を呪(のろ)うています。男は女を捕えました。無理に引っぱって崖(がけ)のそばに行きました。……あゝあぶない。……(叫ぶ)あッ。顔蔽いせる者 わしをまっすぐに見ないものの陥るあやまちじゃ。(音楽やみ、幻影消ゆ)人間 私はあなたをみとめています。あなたをまっすぐに見ています。あなたの本体を知りたいと願っています。顔蔽いせる者 小猿(こざる)の知識でな。ものの周囲をまわるけれど決してものの中核にはいらない知識でな。人間 私はあなたの力を認めます。あなたの破壊力を。あなたは何のために、ものをこわすのですか。顔蔽いせる者 それはこわれないたしかなものを鍛え出すためじゃ。人間 私はそのたしかなものを求めます。私があなたを知って以来あなたにこわされないものを捜しています。顔蔽いせる者 見つかったかな。人間 まだ。たしかなと思ったものはみなあなたがこわしてしまいましたから。征服欲も友情も、恋も学問も。顔蔽いせる者 こわれるものはみなこわすのがわしの役目じゃ。(間)人間 たしからしいものを見つけました。今度は大丈夫のつもりです。顔蔽いせる者 何ものじゃ。人間 子供です。たとえ私は衰えて死滅しても、わたしの子供は新しい力で生きるでしょう。私の欲望を子供の魂のなかに吹きこみます。顔蔽いせる者 お前はまだ知らないな。人間 え。顔蔽いせる者 お前のむすこは死んだぞ。人間 えっ。(まっさおになる)そんなことがあるものか。顔蔽いせる者 凶報が来るのにまもあるまい。人間 達者で勉強しているという手紙が来たのはけさのことです。顔蔽いせる者 午(ひる)すぎに死んだのだ。人間 うそだ。顔蔽いせる者 (沈黙)人間 (熟視す)あゝあなたの態度にはたしかさがある。(絶望的に)だめだ!顔蔽いせる者 さようなら。人間 (あわてる)待ってください。せがれは病気をかくしていたのですね。あわれな父に心配させまいと思って。顔蔽いせる者 組でいちばん元気だった。人間 決闘しましたか。無礼な侮辱者を倒すために。あれは名誉を重んじたから。顔蔽いせる者 いいや。人間 ではどうして?顔蔽いせる者 煙突から落ちたのだ。人間 (失神したるがごとく沈黙)顔蔽いせる者 二分間前まで日あたりのよい芝生(しばふ)の上で友人とたのしく話していた。その時友の一人がふとした思いつきで、たれか煙突にのぼって見せないかと言った。お前の子はこれもほんの気まぐれに、一つは友だちを笑わせようという人のいいおどけた心で、快活に、「やってみよう」といってのぼりはじめた。仲間はその早わざをほめた。ところで、てっぺんのところの足止めの釘(くぎ)が腐っていたのだ。人間 おゝ。顔蔽いせる者 人はその日の午後に来た道楽者の煙突掃除人(そうじにん)をしあわせものだと言っていた。人間 (うめくように)芸術だ。たしかなものは芸術です。わたしはわたしの涙で顔料を溶かします。私の画布の中にこわれないたしかなものを塗りこみます。顔蔽いせる者 ここまで来てはもうたしかなともたしかにないともわしは言わない。だが、お前はお前の病気のことを忘れはしまいな。人間 片時も。あなたが私の健康を奪ってしまったのが私の不幸のはじまりでした。そしてあなたを知るはじまりでした。それからというもの私がどれほど苦しんでいるか!顔蔽いせる者 お前の体温がもう二度高くなればお前は刷毛(はけ)を捨てねばなるまい。人間 おゝ。顔蔽いせる者 それは起こり得ぬ事だろうか。今だってお前は毎日熱が出るのではないか。人間 祈りです。たしかなものは祈りです。私は寝床のなかで身動きもできなくとも目をつむって祈ることができます。顔蔽いせる者 一つの打撃がお前の頭の調和を破れば、お前は今まで祈った口でたわいもない囈言(うわこと)を語り、今まで殊勝に組み合わせた手できたならしいことを公衆の前にして見せるかもしれない。あの動物園の猿(さる)のように。人間 (よろめく)そんなことはあり得ぬことだ。顔蔽いせる者 ありうることだ。現にお前たちの仲間はこのごろ盛んに殺し合っているようだが、そのような白痴が幾人できたか知れない、――人間 あなたはあまり残酷だ。顔蔽いせる者 お前の価に相当しただけ、――鳥獣ら無数の生物の群れのおらぶ声起こる。
人間 (おののきつつ)あの声は?顔蔽いせる者 お前の殺した生物の呪詛(じゅそ)だ。人間 あゝ。(頭をおさえる)顔蔽いせる者 お前は姦淫(かんいん)によって生まれたものだ。それを愛の名でかくしてはいるが。人間 私の罪を数えたてるのはよしてください。顔蔽いせる者 限りがないから。――人間 私は共食いしなくては生きることができず、姦淫しなくては産むことができぬようにつくられているのです。顔蔽いせる者 それがモータルの分限なのだ。人間 (訴えるように)人間の苦痛を哀れんでください。顔蔽いせる者 同情するのはわしの役目ではない。人間 なぜ? あゝなぜでございますか。顔蔽いせる者 刑罰だ!(大地六種震動す)人間 (地に倒れる)顔蔽いせる者 (消ゆ)舞台暗黒。暴風雨の音。やがてその音次第に静まり、舞台ほの白くなり、うす甘き青空遠くに見ゆ。人間の姿屍(しかばね)のごとく横たわれるが見ゆ。かすかなる音楽。
童子の群れ (天に現わる。歌を唱う)すべての創(つく)られたるものに恵みあれ。
死なざるもののめぐし子に幸いあれ。
童子の群れ (消ゆ)人間 (起き上がり天を仰ぐ)遠い遠い空の色だな。そこはかとなき思慕が、わたしをひきつける。吸い込まれるようなスウィートな気がする。この世界が善(よ)いものでなくてはならぬという気がほんとうにしだした。たしかなものがあることは疑われなくなりだした。私はたしかに何物かの力になだめられている。けれど恵みにさだめられているような気がする。それをうけとることが、すなわち福(さいわ)いであるように。行こう。(二、三歩前にあゆむ)向こうの空まで。私の魂が挙(あ)げられるまで。――幕――[#改ページ]

    第一幕

人物 日野左衛門(ひのさえもん)         四十歳
   お兼(かね)(その妻)       三十六歳
   松若(まつわか)(その息。出家して唯円(ゆいえん))十一歳
   親鸞(しんらん)            六十一歳
   慈円(じえん)(その弟子(でし))      六十歳
   良寛(りょうかん)(その弟子)      二十七歳

      第一場

日野左衛門屋敷。
座敷の中央に炉が切ってある。長押(なげし)に槍(やり)、塀(へい)に鉄砲、笠(かさ)、蓑(みの)など掛けてある。舞台の右にかたよって門がある。外はちょっとした広場があって通路に続いている。雪が深く積もって道のところだけ低くなっている。

お兼 (炉のそばで着物を縫うている)やっとここまでできた。あと四、五日もすればできあがるだろう。なにしろ早くしなくてはもうすぐお正月が来る。松若も来年は十二になるのだ。早く大きくなってくれなくては。ほんとに引き延ばしたいような気がする。(間)それにつけても左衛門殿のこのごろの気のすさみようはどうしたものだろう。だんだんひどくなるようだ。国にいたころはあんな人ではなかったのだけれど。ほんとに末が案じられてならない。(外をあらしの吹き過ぎる音がする)きょうもたいそう立腹して吉助(きちすけ)殿の家に行かれたのだけれど、めんどうな事にならなければよいが。(立ちあがり、戸をあけて空を見る)おゝ寒(さむ)。(身ぶるいする)また降って来るな。(戸を締め炉のはたにきたり、火かきで火をつつき手をかざす)松若はきょうはおそいこと、寒いのに早く帰って来ればよいのに。(あたりをば見回し)もう暗くなった。(立ちあがり、押し入れから行灯(あんどん)を出して火をつける。仏壇にお灯明をあげ、手を合わせて拝む)松若 (登場。色目の悪い顔。ふくれるように着物を着ている。戸をあける)かあ様、ただ今。(ふろしき包みと草紙(そうし)とを投げ出し)おゝ寒い、さむい。(手に息を吹きかける)お兼 おゝお帰り。寒かったろう。さあおあたり。きょうはたいへんおそかったね。松若 (炉のそばに行く)お師匠様のうちでごちそうが出たの。皆およばれしたのだよ。それでおそくなったの。お兼 そうかえ。それはよかったね。お行儀よくしていただいたかえ。松若 あゝ。わしの清書が松だったのだよ。お兼 そうかえ。それはえらいね。草紙をお見せ。この前の清書の時は竹だったにね。(松若より草紙を受け取り、広げて見る)なるほど、「朱に交われば赤くなる」だね。だいぶしっかりして来たね。も少し字配りをよくしたらなおいいだろう。丹誠(たんせい)してお稽古(けいこ)したおかげだよ。(松若の頭をなでる)松若 吉助(きちすけ)さんとこの吉也(きちや)さんは梅だったよ。お兼 あの子はいたずら好きでなまけるからだよ。(間)あの、ちょいと立ってごらん。(松若立つ。ものさしで丈(たけ)を測る)三寸五分だね。ではあげを短くしなくては。お前の荷物だよ。よくうつるだろう。お正月にこれを着てお師匠様の所に年始に行くのだよ。松若 お正月はいつ来るの。お兼 もう十二日寝ると来るよ。松若 おとうさんは?お兼 おとうさんは吉助殿の所へ行かれた。もうおっつけお帰りだろう。松若 吉助のうちの吉也は私をいじめるよ。きょうもお稽古(けいこ)から帰りに、皆して私の悪口を言って。お兼 え。悪口をいっていじめるって。ほんとかい。松若 松若のおとうさんは渡り者のくせに、百姓をいじめたり、殺生(せっしょう)をしたりする悪いやつだって。お兼 まあ(暗い顔をする)そんな事を言うかい。松若 うむ。宅(うち)のおとうさんをいじめるから、私はお前をいじめてやると言って雪をぶっかけたよ。お兼 悪いことをするやつがあるね。大丈夫だよ。私がお師匠様に言いつけてやるから。松若 いんや。私が一度お師匠様にいいつけたら、帰り道によけいにいじめたよ。(残念そうに)道ばたの田の中に押し落としたりしたよ。お兼 まあ。そんなひどい事をするかえ。心配おしでないよ。私が今によくしてあげるからね。松若 うむ。(うなずく)お兼 (戸棚(とだな)から皿(さら)に干(ほ)し柿(がき)を入れて持ちきたる)さあ、これをおあがり。秋にかあさんが干しておいたのだよ。私はちょっとお台所を見て来るからね。(裏口から退場)松若柿を食う。それからあたりを見回し仏壇の前に行き、立ったまま不思議そうに仏像を見る。それからすわってちょっと手を合わせ拝むまねをする。それから卓の上の本を捜し、絵本を一冊持って炉のはたにきたり、好奇心を感じたらしくめくって見る。
お兼 (登場。前掛けで手をふきつつ)おいしかったろう。(間)何を見ているのだえ。松若 うむ。おいしかったよ。(熱心に絵本に見入る)お兼 今の間(ま)に少し裁縫(しごと)をしよう。(炉のはたに近く縫いさしの着物を持ちきたり針を動かす)両人しばらく沈黙。
松若 かあさん。これなんの絵だえ。お兼 (針を止めて)お見せ。(のぞき込む)それはね、お釈迦(しゃか)様という仏様がおなくなりなさった絵だよ。(針をつづける)松若 そうかい。衣(ころも)を着たたくさんの坊さんがそばで泣いているね。お兼 みんなお弟子(でし)たちだよ。偉いお師匠様がおかくれなされたのだからねえ。松若 ふむ。猿(さる)だの蛇(へび)だのいるね。鳩(はと)もいるよ。皆泣いてるね。どうしたのだろうね。お兼 お釈迦様は慈悲深いおかたで畜生(ちくしょう)でもかわいがっておやりなされたのだよ。それでかわいがってくれた人が死んだので皆泣いているのだよ。松若 ふむ。(考えている)左衛門 (登場。猟師の装いをしている。鉄砲をかつぎ、腰に小鳥を二、三羽携えている)帰ったよ。ばかに寒い。お兼 お帰りなさい。待っていました。寒かったでしょう。降っていますか。(戸のそばまで出て迎える)左衛門 大雪だよ。このぶんでは道がふさがってしまうだろう。(雪を払う)松若 とう様。お帰りなさい。(手をつき頭をかがむ)左衛門 うむ。(頭をなでる)きょうはお師匠様とこのおふるまいだったってな。松若 あい。よく知ってるね。左衛門 吉助(きちすけ)かたで吉坊に聞いて来た。お兼 あの話の首尾はどうだったの。(鉄砲を塀(へい)にかけ、獲物をかたづける)左衛門 まるでだめだ。きょうはさんざんな目にあった。朝から山を駆け回ってやっと雑鳥が三羽だろう。それから吉助の宅(うち)に寄ったが、あのやつずるいやつでね。わしが強く出ると涙をめそめそこぼして拝み倒そうとするのだよ。それでいてこっちが優しく出ようものなら、ひどい目にあわせるのだからね。全くこの辺の百姓は手に合わないよ。(着物を着換え、炉のそばに寄る)お兼 それでどういう話になったの。左衛門 正月までに払わなければこっちはこっちの考えを実行するからそう思えときめつけてやったよ。そしたら吉助がまっさおになったよ。おふくろはすがりついてことわりをするしね。吉也(きちや)までそばで泣きだしたよ。お兼 まあかわいそうではありませんか。も少し待っておやりなさいな。あの宅(うち)でもほんとうに困っているのでしょうから。左衛門 どうだか知れたものではない。わしはあの吉助(きちすけ)が心からきらいなのだ。腹の悪いくせにお追従(ついしょう)を使って。この春だってそ知らぬ顔で宅(うち)の田地の境界を狭(せば)めていたのだ。お兼 それは吉助も悪いには悪いけれど、そうなるのもよっぽど困るからのことですわ。左衛門 困ると言えば宅(うち)だって困ってるではないか。こっちに移って来てからというもの、不運つづきで、少しばかりの貯(たくわ)えで買った田地は大水で流れるし、松若は病気をするし、なかなか楽な渡世ではないよ。優しくしていればきりがつかないのだ。吉助ばかりではない。この辺の百姓は皆そうだ。わしは時々自暴(やけ)になるような気がするよ。世の中の人間が皆きらいになるよ。お兼 でもこのお正月だけは無事に祝わせておやりなさいな。あまり手荒な事をして恨みを結んだりしては寝ざめがよくないわ。人にたたかれたのでは寝られるが、人をたたいたのでは寝られないと言うではありませんか。(間)まあ御飯をおあがりあそばせ。(裏口より退場)左衛門 松若、お前はさっきから何を見てるのだい。松若 かあ様の絵の本だよ。仏壇の卓にあったのだ。たくさん絵があるよ。御殿やお寺の絵もあるし、鬼が火の車をひいている絵もあるし、それから……左衛門 はあ。あの「地獄(じごく)極楽(ごくらく)のしるべ」か。松若 地獄極楽って私知ってるよ。善(よ)いことをしたものは死んで極楽に行くし、悪い事をしたものは地獄に行くのだろう。だがあれはほんとうかい。左衛門 皆うそだよ。そう言って戒めてあるのだよ。(考えて)もしほんとうとしたら、地獄だけあるだろうよ。はゝゝゝ。松若 ここに子供が川ばたでたくさん石を積んで、鬼が金棒でくずしている絵があるがこれはなんだろうね。左衛門 (暗い顔をする)それは賽(さい)の河原(かわら)と言って子供が死んだら行く所だ。松若 私は死んだら賽の河原へ行くのかい。左衛門 皆うそだ。つくり話だ。(松若の顔を見る)その本はもう見るのおよし。松若 私はなんだかこの本がおもしろいよ。左衛門 いやそれは子供の見る本ではない。(松若より絵本を取る)お前は寒いからもうお寝(やす)みよ。また風をひくといけないからな。松若 まだ眠くないよ。お兼 (登場。箱膳(はこぜん)の上に徳利を載せて左衛門の前に置く)お待ち遠さま。ひもじかったでしょう。さあおあがりなさい。(徳利を持つ)左衛門 (杯をさし出し注(つ)いでもらって飲む)お兼。わしもなひどいことをするのは元来好きなたちではないのだ。小さい時から人のけんかをするのを見ても胸がドキドキしたくらいだよ。だがあんなふうにして殿様に見捨てられて、浪人になってこっちに渡って来てから、わしは世間の人の腹の悪さをいやになるほど知ったからな。人は皆悪いのだ。信じたものは売られるのだ。心の善(よ)いものはばかな目を見せられて、とても世渡りはできないのだ。わしは嘲笑(ちょうしょう)したいような気がするのだ。わしは思うのだ。わしの優しいのは性格の弱さだ。わしはそれに打ちかたねばならない。ひどい事にも耐える強い心にならねばならない。わしは自分でひどい事に自分をならそうと努めているのだよ。お兼 まあ。そんな事をする人があるものですか。自分の心を善(よ)くしょうと心がけるかわりに悪くしょうとして骨折るなんて。左衛門 (飲み飲み語る)わしは悪人になってやろうと思うのだ。善人らしい面(つら)をしているやつの面の皮をはいでやりたいのだ。皆うそばかりついていやがる、わしはな、これで時々考えてみるのだよ。だが死んでしまうか、盗賊になるか、この世の渡り方は二つしか無いと思うのだ。生きてるとすれば食わねばならぬ。人と争わずに食うとすれば乞食(こじき)をするほかはない。世の中の人間が皆もののわかる人間なら乞食はいちばん気持ちのいい暮らし方だろう。だがいやな人間から犬に物を投げてやるようにして哀れみの目で見られて残り物をもらって生きるのはいちばんつらいからな。そして世の中の人間はみんなそのような手合いばかりだからな。乞食もできないとすれば、むしろ力ずくで奪うほうがいくら気持ちがよいか知れない。どうせ争わねばならぬのなら、わしは慈悲深そうな顔をしたり、また自分を慈悲深いもののように考えたり虚偽の面をかぶるよりも、わしは悪者ですと銘打って出たいのだ。さもなくば乞食をするか。それも業腹(ごうはら)なら死んでしまうかだよ。ところでわしはまだ死にともないのだ。だから強くなくてはいけないのだ。だがわしは気が弱いでな。気を強くする鍛錬をしなくてはいけないのだ。きょうも吉助(きちすけ)の宅(うち)でおふくろに泣かれた時にはふらふらしかけたよ。わしはわしをしかってもっと気強くしなくてはならないと腹を決めてどなりつけてやったのだよ。悪くなりくらなら、おれだっていくらでも悪くなれるぞという気がしたよ。(酒を飲む)お兼 まあ、あなたのような一概な考え方をなさる人もないものですわ。そのような事を松若の前で話すのはよしてくださいな。自分の子におとうさんがお前は泥棒(どろぼう)になれと教えるようなものではありませんか。あなたはとても悪者になれる柄ではないのですからね。根が優しいのですからね。それは善(よ)い性格ではありませんか。左衛門 いや、わしは自分を善い性格とは考えたくないのだ。善い人間ならなぜ乞食(こじき)をしないのだ。いやなぜ死なないのだ。皆うその皮だよ。わしの言う事がわからないかい。(だんだん興奮する)お兼 あなたの心持ちはわかりますけれどね。左衛門 わしは気が弱くていけないのだ。こっちに来てからだんだん貧乏になったのもそのためだよ。様子を知らぬ武士の果てと見て取って、損と知れている商売をつかませたり、田地をせばったり、貸した金は返りはしないし。今にいやいやで乞食にならねばならなくなるよ。いやないやなやつの門口に哀れみを乞(こ)うて親子三人立たねばならなくなるよ。わしはお前や松若がかわいいでな。今のうちにしっかりしなくては末が知れている。なにしろ気が弱くてはだめだよ。(酒をがぶがぶ飲む)お兼 (心配そうに)もうおよしなさいな、お酒は。あなたはだんだん気が荒くおなりなさるのね。私はほんとうに心配しますわ。それに近所の評判も悪いのですもの。きょうもね。(声を落として)松若から聞くと、吉也(きちや)がほかの子供をけしかけて松若をいじめるのですって。それがあなた、皆あなたの気荒いせいからなのですよ。左衛門 なんだってわしのせいだというのだい。お兼 松若のおとうさんは殺生(せっしょう)をしたり百姓をいじめる悪いやつだっていうのですよ。宅(うち)のおとうさんをいじめるから、お前をおれがいじめてやると言って雪をぶっかけたり、道ばたから押し落としたりするそうですよ。左衛門 そんな事をするかい。悪いやつだ。お師匠様に言いつけてやれ。お兼 そうすると帰り道によけいにひどい目に会わせるそうですよ。左衛門 (怒る)吉也(きちや)の悪(わる)め。よし、そんな事をするならおれに考えがある。あすにも吉助(きちすけ)の宅に行ってウンという目にあわせてやる。お兼 そのような手荒な事をしたのではかえって松若のためにもなりませんわ。それよりもあなたがもっと気を静めて百姓などをいたわってやってくださればよいのですわ。無理をしないであなたの生まれつきの性質のとおりにしてくださればよいのではありませんか。左衛門 それでは見る見る家がつぶれるよ。こっちが優しく出れば、向こうも、正直に応じるというように世の中の人間はできていないのだ。あくまで優しく出る気ならさっきも言ったようにいやなやつの門口に立つ覚悟でなくてはできないのだ。お前にその覚悟があるかい。わしは世渡りの巧みな性質に生まれて来ていないのだ。この性質を鍛え直さなくては世渡りができないのだ。妻子を養い外の侮辱を防ぐ事ができないのだ。(気をいら立てる)もっと悪に耐えうる強い性格にならなくてはならないのだ。おれはおかげでだんだん悪くなれそうだよ。昔は人様に悪く言われると気になって夜も眠られなかったものだ。今は悪く言われても平気だよ。いや気持ちがいいくらいだよ。おれも強くなったなと思うのでな。鉄砲で鳥や獣を打つのでも鶏をつぶすのでも、初めはいやでならなかったが今ではなんでもなくなった。(酒を飲む)お兼 私はあなたに言おうと思っていたのです。後生だから猟はもうよしてくださいな。私殺生(せっしょう)は心からいやですのよ。猟をしなくっては食べていけないというのではなし。左衛門 初めはいやいややったのが、今ではおもしろくてやめられないのだ。向こうの木の枝に鳥がいる。あれはもうおれのものだと思うと勝ち誇ったような愉快な気がする。殺すも生かすもおれの心のままだでな。バタバタ落ちて来たやつを拾い上げて見ると、まだ血が翼について温(あたた)かいよ。たまには翼を打たれて落ちてバタバタしてまだ生きているのもあるよ。そのような時には長く苦しませずに首をねじって参らせてやるのだ。お兼 私そんな話を聞くのはもういやですからよしてください。私のおかあさんは生きてるとき生き物を殺すのをどんなにいやがったか知れません。あんなに信心深かったのですからね。私などはおかあさんのしつけのせいか、殺生は心からいやですわ。あなたが庭で鶏をつぶしなさる時のあの鳴き声のいやな事といったらありませんわ。それに(松若のほうをちょっと見て)それに私はなんだかあのように松若の弱いのは、あなたが殺生をしだしてからのような気がするのですよ。左衛門 そんなばかな事があるものか。お前の御幣(ごへい)かつぎにもあきれるよ。お兼 それにあなたは、信心気がありませんからね。せめて朝と晩とだけはお礼だけでもなさいましな。私などは一度でも拝むのを怠ると気持ちが悪くていけませんわ。ほんに行く末が案じられますわ。このような事では運のめぐって来ないのも無理はありませんわ。左衛門 仏様を拝んだところでしかたがないよ。わしは仏像と面(かお)を見合わせてすわるのがつらいのだよ。(間)今晩は変な気がしてちょっとも酔えないよ。お前が陰気な話ばかりするものだから。もっと酔わなくては。(酒を杯に二、三杯続けて飲む)お兼 そんな無茶に飲むのはおよしなさいな。(左衛門を心配そうに見つつちょっと沈黙)私はほんとに心細くなるわ。(戸の外をあらしの音が過ぎる)ひどい吹雪(ふぶき)ですねえ。左衛門は手酌(てじゃく)でチビリチビリ飲んでいる。お兼は黙って考えている。松若は本を見ている。親鸞、慈円、良寛、舞台の右手より登場。墨染めの衣に、笈(おい)を負い草鞋(わらじ)をはき、杖(つえ)をついている。笠(かさ)の上には雪が積もっている。
慈円 たいへんな吹雪になりましたな。良寛 だんだんひどくなるようでございます。慈円 お師匠様。あなたはたいそうお疲れのように見えますな。良寛 おん衣の袖(そで)はしみて氷のように冷とうなりました。親鸞 もう日も暮れてだいぶになるな。慈円 雪で道もふさがってしまいました。良寛 私はもう歩く力がございません。親鸞 ではこのあたりで泊めてもらおうかな。慈円 この家で一夜の宿を乞(こ)うてみましょう。良寛 ほかの家も見あたりませんね。(戸口に行き戸をたたく)もし、もし。松若 (耳を澄ます)とうさん。だれか戸をたたくよ。お兼 風の音だろう。左衛門 この吹雪に外に出るものは無いからな。松若 いんや。確かにだれか戸をたたいてるよ。良寛 (戸を強くたたく)もしもし。お願い申します。お願い申します。お兼 (耳を澄ます)ほんとに戸をたたいてるね。だれか人声がするようだ。(庭におり戸を開く)どなた様で?(三人の僧を見る)何か御用でございますか。松若母の後ろより好奇心でながめて立っている。
良寛 旅の僧でございますが、この吹雪(ふぶき)で難儀いたしております、誠に恐れ入りますが、一夜の宿をお願いいたす事はできますまいか。お兼 それはお困りでございましょう、もう十丁ほどおいでなされば宿屋がございます。慈円 あの私たちは托鉢(たくはつ)いたして歩きますものでお金(あし)を持っておりませんので。良寛 どのような所でもただ眠ることさえできればよろしいのでございますが。お兼 さようでございますか。(三人の僧をつくづく見る)ではちょっと夫にきいてみますから。そこはお寒うございます。内にはいってお温(あたた)まりあそばせ。左衛門 お兼。なんだい。お兼 旅の坊さんなんですがね。三人ですの。この雪で困るから一夜だけ泊めてくれないかとおっしゃるのです。お金(あし)がないから宿には着けないのですって。三人の僧内にはいり庭に立つ。
左衛門 (いやな顔をする)せっかくだがお断わりしよう。お兼 でも困っていらっしゃるのだから泊めてあげようではありませんか。左衛門 いや泊めるわけには行かないよ。お兼 あなたいいではありませぬか。何も迷惑になるのではなし。それに御出家様ではありませぬか。左衛門 いやだよ。(声を荒くする)坊さんだから泊められないのだ。わしは坊さんが大きらいだ。世の中でいちばんきらいだ。お兼 そんな失礼なことを。(慈円に小声にて)お酒に酔っているのです。気を悪くしないでください。慈円 (左衛門に)どこでもよろしゅうございますから、今晩一夜だけとめていただかれますまいか。左衛門 お断わりします。良寛 縁先でもよろしゅうございますが。左衛門 くどい人だな。慈円 お師匠様どういたしましょう。親鸞 私がも一度頼んでみましょう。(左衛門に)御迷惑ではございましょうが、難儀をいたしておりますで、御縁とおぼしめして一夜だけ泊めていただかれませんでしょうか。左衛門 お前さんは師匠様だな。(冷笑する)なるほどありがたそうな顔をしておいでなさるよ。だがあいにくわしは坊さんがきらいでしてな。虫が好きませんのでな。親鸞 おいやなのはわかりました。だがあわれんでお泊めくださいまし。左衛門 お前さんがたをあわれむなんて。どういたしまして。いちばんおうらやましい御身分でいらっしゃいますよ。この世では皆に尊ばれて死ぬれば極楽へ行かれますでな。あなたがたは善(よ)い事しかなさらないそうだでな。わしは悪い事しかしませんでな。どうも肌(はだ)が合いませんよ。親鸞 いいえ。悪い事しかしないのは私の事でございます。左衛門 (親鸞の言葉には耳を傾けず)あなたがたのなさる説教というものはありがたいものですな。おかげで世間に悪人がなくなりますよ。喜捨、供養をすれば罪が滅びると教えてくださるので、皆喜んで米やお金を持って行きますでな。お寺は繁盛いたしますよ。すわっていて安楽に暮らして行けますよ。善い事をすれば極楽に行けるとはありがたい教えでございます。ところであいにくこの世の中は善い事ができぬようにくふうしてつくってありますでな。皆極楽参りができますよ。はゝゝゝ。親鸞 そのようにおっしゃるのはごもっともでございます。左衛門 あなたがたはまったくお偉いよ。むつかしいお経をたくさん読んでおられるでな。またそのお経に書いてあるとおりを実行なさるのでな。殺生(せっしょう)もなさらず、肉も食わず、妻も持たず、まるで生きた仏様みたようでございますよ。心の内で人を呪(のろ)う事もなければ、婦(おんな)を見て色情も起こりませぬのでな。いやきたない夢さえも御覧になりませぬのでな。御立派な事ですよ。さような立派なおかたがたに、わしみたような汚(けが)れたものの宅(うち)に泊まっていただいてはおそれ多い気がしますのでな。親鸞 滅相な。私は決してあなたのおっしゃるような清い人間ではありません。左衛門 わしはけさも殺生しました。それからけんかをしました。それから酒を飲みました。それから今はお前さんがたを……お兼 左衛門殿。ちとたしなみなさらぬか。はたの聞く耳もつらいではありませんか。(顔を赤くする。親鸞に)御出家様。どうぞ堪忍してやってくださいまし。(左衛門に)あなたそんなに口ぎたなく言ったり、皮肉を言ったりしないでも、お断わりするのなら、そう言っておとなしくお断わりすればいいではありませんか。左衛門 だから始めから断わってるではないか。わしは坊さんはきらいだから、お泊め申す事はできないのだ。慈円 では私ら二人は泊めていただかなくともようございます。どうぞお師匠様だけは泊めてあげてくださいませ。たいへんお疲れでございますから。良寛 御覧のとおり寒さにふるえていらっしゃいます。慈円 吹雪(ふぶき)さえやめば、あすの朝早く発足いたしますから。良寛 一夜の宿を頼むのも何かの因縁とおぼしめして。左衛門 できないといったらできません。外をあらしの音がする。
慈円 私はどうなってもよろしい。ただお師匠だけは……(涙ぐむ)左衛門 あいにくそのお師匠様がいちばんきらいだよ。人に虚偽を教えるものはなおさらいやだよ。わしはな悪人だが悪人という事を知っているのだ。親鸞 あなたはよいところに気がついておられます。私とよく似た気持ちを持っていられます。左衛門 はゝゝゝ。あなたと私と似てたまるものかい。良寛 では宿の儀はかないませぬか。左衛門 かないません。慈円 ではあきらめます。どうぞその炉で衣をかわかす事だけお許しください。しみて氷のように冷たくなっています。お兼 さあ、さあどうぞおかわかしなさいませ。今炭をついでよい火をおこしてあげますから。(炉のほうに行かんとする)左衛門 (さえぎる)よけいな世話を焼くな。(声を荒くする)お前がたはなんというくどいやつだろう。さっきからわしがあれほど言うのがわからないのかい。少しは腹を立てい。この偽善者め。面(つら)の皮の厚い――お兼 左衛門殿、左衛門殿。左衛門 (親鸞に)早く出て行け。この乞食坊主(こじきぼうず)め。(親鸞を押す)慈円 あまりと言えば失礼な――良寛 お師匠様に手を掛けたな。左衛門 早く出て行け。(良寛をこづく)良寛 なにを。(杖(つえ)を握る)左衛門 打つ気か。(親鸞の杖を取って振りあげる)親鸞 良寛。手荒な事はなりませぬぞ。親鸞二人の中に割って入る。左衛門親鸞を打つ。杖は笈(おい)にあたる。
慈円 お師匠様早くお出あそばせ。(左衛門をさえぎる)松若 おとうさん。おとうさん。(うろうろする)お兼 (まっさおになる)左衛門殿、左衛門殿。(後ろから左衛門を抱き止める)左衛門 放せ。ぶちなぐってやるのだ。親鸞、慈円、良寛、戸の外に出る。左衛門杖(つえ)を投げる。杖は雪の上に落ちる。
松若 おとうさん。おとうさん。(左衛門にしがみついて泣く)お兼 (外に飛んで出る。おどおどして親鸞をさする)痛かったでしょう。許してください。私どうしましょう。おけがはありませぬか。親鸞 大事ありません。托鉢(たくはつ)をして歩けばこのような事は時々あることです。お兼 どうぞ私の夫を呪(のろ)ってやってくださいますな。(泣く)悪いやつでもゆるしてやってくださいまし。親鸞 心配なさるな。私はむしろあの人は純な人だと思っていますのじゃ。慈円 あまりひど過ぎると思います。良寛 (涙ぐむ)お師匠様。私はなさけなくなってしまいました。――黒幕――
      第二場

舞台一場と同じ。夜中。家の内には左衛門、お兼、松若三人枕(まくら)を並べて寝ている。戸の外には親鸞石を枕にして寝ている。良寛、慈円雪の上にて語りいる。

慈円 夜がふけて来ましたな。良寛 風は落ちましたけれど、よけいに冷たくなりました。慈円 足の先がちぎれるような気がします。(間)お師匠様はおやすみでございますか。良寛 さっきまで念仏を唱えていられましたが、疲れて寝入りあそばしたと見えます。慈円 すやすやと眠っていられますな。良寛 お寝顔の尊い事を御覧なさいませ。慈円 生きた仏様とはお師匠様のようなかたの事でしょうねえ。良寛 私はおいとしくてなりません。(親鸞の顔に雪がかかるのを自分の衣で蔽(おお)うようにする)慈円 なかなかの御苦労ではございませんね。良寛 私は若いからよろしいけれど、お師匠様やあなたはさぞつろうございましょう。おからだにさわらなければようございますが。(親鸞のからだに手を触れて)まるでしみるように冷たくなっていられます。慈円 この屋の家内は炉のそばで温(あたた)かく休んでいるのでしょうね。良寛 主人はあまりひど過ぎますね。酒の上とは言いながら。慈円 縁の先ぐらいは貸してくれてもよさそうなものですにね。良寛 私は行脚(あんぎゃ)してもこのような目にあったのは初めてです。慈円 お師匠様を打つなんてね。良寛 私はあの時ばかりは腹が立ってこらえかねましたよ。お師匠様がお止めなさらぬなら打ちのめしてやろうと思いました。慈円 あの手が腐らずにはいますまい。(間)お師匠様の忍耐強いのには感心いたします。私は越路(こしじ)の雪深い山道をお供をして長らく行脚(あんぎゃ)いたしましたが、それはそれはさまざまの難儀に出会いました。飢え死にしかけた事もありますし、山中で盗賊に襲われたこともありますよ。親知らず、子知らずの険所を越える時などは、岩かどでお足をおけがなされて、足袋(たび)はあかく血がにじみましてな。良寛 京にいられた時には草鞋(わらじ)など召した事はなかったのでしょうからね。慈円 いつもお駕籠(かご)でしたよ。おおぜいのお弟子(でし)がお供に付きましてね。お上(かみ)の御勘気で御流罪(ごるざい)にならせられてからこのかたの御辛苦というものは、とても言葉には尽くせぬほどでございます。良寛 あなたはそのころから片時離れずお供あそばしていらっしゃるのですからね。慈円 私は死ぬまでお師匠様に従います。京にいるころから受けたおんいつくしみを思えば私はどんなに苦しくても離れる気にはなられません。良寛 ごもっともでございます。(間)私は比叡山(ひえいざん)と奈良(なら)の僧侶(そうりょ)たちが憎くなります。かほどの尊い聖人(しょうにん)様をなぜあしざまに讒訴(ざんそ)したのでございましょう。あのころの京での騒動のほども忍ばれます。慈円 あのころの事を思えばたまらなくなります。偉いお弟子たちはあるいは打ち首、あるいは流罪になられました。どんなに多くの愛し合っている人々が別れ別れになった事でしょう。今でも私は忘れられませぬのはお師匠様が法然(ほうねん)様とお別れなされた時の事でございます。良寛 さぞお嘆きなされた事でございましょうねえ。慈円 それは深く愛し合っていられましたからね。お師匠様が小松谷の禅室にお暇乞(いとまご)いにいらした時法然様は文机(ふづくえ)の前にすわって念仏していられました。お師匠様は声をあげて御落涙なされましたよ。なにしろ土佐(とさ)の国と越後(えちご)の国ではとても再会のできないのは知れていますからね。それに法然聖人(ほうねんしょうにん)は八十に近い御老体ですもの。良寛 法然様はなんと仰せになりましたか。(涙ぐむ)慈円 親鸞よ。泣くな。ただ念仏を唱えて別れましょう。浄土できっと会いましょう。その時はお互いに美しい仏にしてもらっていましょう。南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)とおっしゃいました。良寛 それきりお別れなされたのでございますか。慈円 忘れもせぬ承元元年三月十六日、京はちょうど花盛りでしたがね。同じ日に法然様は土佐へ向け、お師匠様は北国をさして御発足あそばしました。良寛 法然様は今はどうしていらっしゃいますでしょう。慈円 もうおかくれあそばしました。そのたよりのあったのは上野(こうずけ)の国を行脚(あんぎゃ)している時でしたがね。お師匠様は道に倒れて泣き入られましたよ。良寛 ではほんとうに生き別れだったのですね。慈円 はい。(衣の袖で涙をふく)両人しばらく沈黙。
良寛 まだ夜はなかなか明けますまいな。慈円 まだ夜中過ぎでございます。良寛 寒くてとても眠られそうにはありませんね。慈円 でも少しなと眠らないとあすの旅に疲れますからね。良寛 では少し眠ってみましょうか。両人横になり目をつむる。
左衛門 (うなる)うーむ。うーむ。お兼 (身を起こす)左衛門殿。左衛門殿。(左衛門をゆり起こす)左衛門 (目をさます)あゝ、夢だったのか。(あたりを見回し、ぼんやりしている)お兼 あなたたいへんうなされましたよ。左衛門 あゝこわい夢を見た。お兼 私はちょっとも寝つかれないでうつらうつらしていたら、急にあなたが変な声をしてうなりなさるものだからびっくりしましたわ。左衛門 ふむ。(考えている)お兼 私は気味が悪かったわ。あなたが目をさますと、私を見た時にはそれは恐ろしそうな顔つきでしたよ。左衛門 恐ろしいというよりも不気味(ぶきみ)な、たちの悪い夢だった。魂の底にこたえるような。(まじめな顔をして、夢をたどっている)お兼 どんな夢ですの。話してください。私も気にかかる事があるのですから。左衛門 (寝床の上にすわる)わしが鶏をつぶしている夢を見たのだよ。薄寒いような竹やぶの陰だったがね。わしはそこらにころがっている材木の丸太に片足かけ片手で鶏の両の翼と首とをいっしょに畳み込んで、しっぽや胴の羽を一本一本むしっていた。鶏は痛いと見えて一本抜くたびに足をひきつけて、首をぐいぐいさせてるけれど首をねじてあるのだから鳴く事はできないのだ。見る見る胴体から胸のほうにかけて黄色いぽツぽツのある鳥肌(とりはだ)がむきだしになった。その毛の抜けた格好のぶざまなのが、皮肉なような、残酷な感じがするものでね。お兼 まあいやな。あなたがいつも鶏をつぶしなさるから、そのような夢を見るのですわ。左衛門 ところで今度はあの翼を抜かねばならない。わしは片方の翼と足とを捕(つか)まえて、地べたにおしつけて力を入れて抜いた。翼は大きくて小さい骨ほどあるのだからちょっと引っぱったぐらいでは抜けはしないからね。すると一本抜くごとに鶏が悲鳴をあげるのだ。お兼 私はあの声ぐらいいやなものはありませんわ。殺してしまってからぬけばよかりそうなものですにね。左衛門 それでは羽が抜けにくいし、だいち肉がおいしくなくなるのだ。わしは夢の中でその声を聞くとなんとも言えない残酷な快感を感じるのだ。それで首を自由にさせて、ゆっくりゆっくり一本ずつぬいて行った。するとお前が飛んで来てね。お兼 まあ。いやな。私も出るのですか。左衛門 うむ。後生だから、鳴かせるのはよしてくださいと言うのだ。それでわしは鶏の首をぐるぐるねじったのだ。それがまるで手ぬぐいを絞るような気がするのだよ。そして鶏の頭を、背のところにおしつけて、片手で腹をしめつけて、足を踏まえて、しばらくじッとしていたのだ。鶏は執念深くて、お尻(しり)で呼吸をするのだからな。もう参ったろうと思って手を放したところが、その毛のぬけたもう鶏とは見えないようなやつが、一、二間も駆け出すのだよ。お兼 もうよしてください。ほんとに恐ろしい。左衛門 それからが気味が悪いのだよ。わしはあわてて、その鶏を捕まえて、今度は鶏の首を打ち切ろうと思って地べたに踏みつけて庖丁(ほうちょう)を持って今にも切ろうとしたのだよ。鶏は変な目つきをしてわしを見た。そして訴えるような、か弱い声でしきりに鳴くのだ。その時急に夢の中でわしがその鶏になってるんだよ。わしは恐ろしくて声を限り泣いた。「鶏(とり)つぶし」は冷然としてわしの顔を見おろしていた。わしはもう鳴く力も弱くなって、哀れな訴えるような声を立てていた。するとわしはなんだかこのとおりの事がいつか前に一度あったような気がするのだよ。はて聞き覚えのある声ではあるわいと思った。その時今まで長く忘れてしまっていた一つの光景が不思議なほどはっきりとその鶏になってるわしの記憶によみがえって来たのだ。ずっと昔にわしが前(さき)の世にいた時に一人の旅の女を殺した事があったのだ。わしは山の中で脇差(わきざし)をぬいて女に迫った。女は訴えるような声を立てて泣いた。わしが思い出したのはその泣き声だったのだ。その報いが今来たのだなと思った。屠殺者(とさつしゃ)の庖丁は今に下りそうで下らない。その時わしはうなされて目がさめたのだ。お兼 なんて変な恐ろしい夢でしょうねえ。(身ぶるいする)左衛門 その前世の悪事の光景を思い出した時の恐ろしさ。気味の悪いほどはっきりしているのだからね。あゝ地獄だという気がしたよ。今でも思い出すと魂の底が寒いような気がする。(青い顔をしている)お兼 今夜はなんだか変な気がしますね。私も寝床にはいってから少しも眠られないので、いろいろな事が考えられてならなかったのですの。実は私のなくなったおかあさんの事を思い出しましてね。変な事をいうようですけれどもね。私はなんだか宵(よい)のあの出家様が私のおかあさんの生まれかわりのような気がするのですよ。左衛門 なにをばかな。そんな事があるものか。お兼 おかあさんはあんなに信心深かったでしょう。そして死ぬる前ころ私に「私は今度はどうせ助かるまい。私が死んだら坊様に生まれかわって来る。よく覚えておおきよ。門口に巡礼して来るからね」って言いました。それを真顔でね。それからというものは私は巡礼の僧だけは粗末にする気になれないのですよ。その事を思い出しますのでね。松若 (目をさます)もう起きるのかい。お兼 いいえ。夜中だよ。寒いから寝ておいで。(蒲団(ふとん)をかけてやる)松若 そうかい。(また寝入る)二人沈黙。外を風の音が過ぎる。
左衛門 宵(よい)の出家の衆はどうしただろうね。お兼 雪の中を迷っているでしょうよ。左衛門 わしは気になってね。酒に酔っていたものだからね。すこしひどすぎた。(考えている)お兼 あなた坊さまを杖(つえ)でぶちましたね。左衛門 悪い事をした。お兼 私がはたで見ていても宵のあなたのやり口は立派とは思えませんでしたよ。乱暴なだけではありませんでしたからね。あなたのいつもはきらう、皮肉やら、あてつけやら、ひねくれた冷たい態度でしたからね。左衛門 わしもそう思うのだ。宵にはどうも気が変になって来ていたからね。お兼 それにあの坊さんはよさそうな人でしたよ。少しも気取ったところなどなくて、謙遜(けんそん)な態度でしたからね。私は好きでしたから、泊めてあげたかったのですのに、あなたはまるで聞きわけが無いのですもの。左衛門 少し変わった坊様のようだったね。お兼 少しも悪びれない立派な応対でしたわ。私はかえってあの坊様にあなたの風(ふう)を見せるのが恥ずかしくて顔が赤くなるようでしたわ。左衛門 まったくいけなかったね。お兼 それにあの坊様はあなたの言葉に興味を感じて注意しているようでしたよ。むしろ親しい好意のある表情をして聞いていましたよ。左衛門 わしもそんな気がせぬでもなかった。お兼 ほんとに宵(よい)のあなたはみじめだったわ。坊様はあなたの皮肉に参らないで、かえってあなたを哀れみの目で見ているようでしたよ。左衛門 (顔を赤くする)そう言われてもしかたがない。お兼 お弟子衆(でししゅう)は私らは家の外でもよろしい、ただお師匠様だけは凍えさせたくない、と言って折り入って頼むのに、あなたは冷淡に構えているのですもの。私かわいそうでしたわ。左衛門 どうしてああだったのだろう。わしの中に悪霊でもいたのだろうか。お兼 おまけに杖(つえ)でぶったのですもの。あの時年とったお弟子は涙ぐんでいましたよ。若いほうのお弟子が腹を立てて杖を握りましたら、坊様はそれを止めましたよ。威厳のある顔つきでしたわ。左衛門、黙って腕を組んでいる。
お兼 私は外に飛んで出て思わず坊様の肩をさすって許しを乞(こ)いましたのよ。でもあまりおいとしかったのですもの。左衛門 坊様はその時なんと言った。お兼 大事ありません、行脚(あんぎゃ)すれば、このような事はたびたびありますとおっしゃいました。左衛門 あれからどうしただろうかねえ。さだめしわしを呪(のろ)った事であろう。(考える)お前これから行って呼びもどして来てくれないか。あの坊様が一生呪いを解かずに雪の中を巡礼していると思うとわしはたまらなくなる。お兼 いいえ。夫を呪ってやってくださるなと私が言ったら、安心なさい、私はむしろあの人を心の純な人と思っていますとおっしゃいましたよ。左衛門 そんな事を言ったかえ。(涙ぐむ)どうぞも一度連れて来てくれ。わしはあやまらなくては気がすまない。お兼 この雪の降る真夜中にどことあてもなく捜すことができるものですか。左衛門 これきり会えないのはたまらない気がする。お兼 でもしかたがありませんわ。左衛門 もしかまだ門口にいられはすまいか。お兼 そんな事があるものですか。あんな所に立っていたら凍え死にしてしまいますわ。左衛門 でも気になるから、見て来てくれ。お兼 見て来るには来ますけれどね。(手燭(てしょく)をともし、庭におり、戸をあけて外を透かして見る)あら(叫ぶ。外に一度飛んで出る。それからまた内にはいる)左衛門殿。早く来てください。来てください。(外に飛び出る)左衛門、緊張した、まっさおな顔をして外に飛び出る。松若母の声に目をさまし、父のあとからついて出る。三人の僧驚いて目をさまし、身を起こす。
お兼 まあ、あなたがたはまだここにいらしたのですか。この雪の降るのに、この夜中に。まあ、どうだろう。冷たかったでしょう。凍えつくようだったでしょう。左衛門 (親鸞に)私は……私は……(泣く)許してください。(雪の上にひざまずく)親鸞、感動する。少しおどおどする。それから黙って左衛門の肩をさする。
お兼 根はいい人なのですからね。根はいい人なのですからね。慈円 (涙ぐむ。小声にて)南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)南無阿弥陀仏。良寛 南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。異様な緊張した感動一同を支配す。少時沈黙。
お兼 どうぞ皆様内にはいってください。炉にあたってください。冷たかったでしょう。この夜中に。薄い衣きりで。ほんとにどうぞはいってください。(親鸞の衣より雪を払う)こんなに雪がたくさんかかって。(内にはいる)左衛門続いてはいる。親鸞、慈円、良寛、沈黙して内にはいり、雪を戸口で衣より払い庭に立つ。
左衛門 (座敷に上がる)どうぞ上がってください。お兼たき木をたくさんついでくれ。お兼 (たき木をつぎつつ)どうぞ上がってください。炉のそばで衣をかわかしてください。親鸞 (弟子に)ではあげてもらいましょう。(草鞋(わらじ)を脱いで座敷に上がり炉のそばに寄る。慈円、良寛それにならう)左衛門 宵(よい)には私はひどい仕打ちをいたしました。酒を飲んで気が変になっていたのです。いったいにこのごろ気が変になっているのです。私が悪うございました。私は恥ずかしい気がします。私は皮肉を言ったり冷笑したりしました。(熱心になる)私はそれがいちばん気にかかります。あなたがたはさぞ私を卑しいやつだとおぼしめしたでしょう。そう思われてもしかたがありません。私はいつもはそのような事を卑しんでいました。けれど昨夜は心の中に不思議な力があって、私にそのような所業をさせてしまいました。私はその力に抵抗する事ができませんでした。親鸞 それを業(ごう)の催しというのです。人間が罪を犯すのは、皆その力に強(し)いられるのです。だれも抵抗する事はできません。(間)私はあなたを卑しい人とは思いませんでした。むしろ純な人だと思いました。左衛門 ようおっしゃってくださいます。私が一つの呪(のろ)いの言葉を出した時に、次の呪いの言葉がおのずからくちびるの上にのぼりました。私はののしり果たすまではやめられませんでした。あなたがたを戸の外に締め出したあとで、私の心はすぐに悔い始めました。けれど私はそれを姑息(こそく)にも酔いでごまかしました。私はけさ不思議に恐ろしい夢にうなされて目がさめました。酔いはすでにさめ果てていました。私は宵の出来事を思い返しました。そして心鋭い後悔の苦しみと、あやまりたい願いでいっぱいになりました。このままあやまらずにしまうならどうしようかと思いました。その時雪の中で凍えかけていられるあなたがたを見いだしたのです。どうぞ私を許してください。親鸞 仏様が許してくださいましょう。あなたのお心が安まるために、私も許すと申しましょう。あなたが私に悪い事をなすったのなら。けれど私はあなたを裁きたくありません。だいち私はその価がありません。昨夜私は初めあなたの言葉を聞いた時あなたの心の善(よ)さがじきにわかりました。私は親しい心であなたに対しました。けれどあなたは私を受けいれてくれませんでした。その時私はあなたをお恨み申しました。外に追い出された時私の心は怒りました。もし奥様のとりなしの言葉が無いならば、あなたを呪(のろ)ったかもしれません。私は奥様に決して呪いませんと申しました。けれど夜がふけて寒さの身にしむにつれて、私の心はあなたがたを恨み始めました。私は決して仏様のような美しい心で念仏していたのでありません。私はだいち肉体的苦痛に圧倒されそうでした。それからあなたがたを呪う心と戦わねばなりませんでした。私の心は罪と苦しみとに囚(とら)われていたのです。左衛門 あなたのお話はこれまでの坊様のとはちがいます。あなたは自分を悪人かのようにお話しなされます。親鸞 私は自分を悪人と信じています。そうです。私は救い難き悪人です。私の心は同じ仏子を呪いますもの。私の肉は同じ仏子を食いますもの。悪人でなくてなんでしょうか。慈円 お師匠様はいつもそのように仰せられます。お兼 左衛門殿も常々そのように申します。親鸞 (左衛門に)あなたはよいところに気がついていられます。あなたのお考えはほんとうです。左衛門 あなたはそれで苦しくはありませんか。私は考えると自暴(やけ)になります。私は善を慕う心がございます。けれど私は悪をつくらずに生きて行く事ができません。またその悪であることを思わずにいる事もできません。これは恐ろしい事だと思います。不合理な気がします。私はしかたがないから悪くなってやれという気が時々いたします。お兼 左衛門殿は自分を悪に耐える強い人間に鍛えあげるのだと言って、わざとひどい事に自分を練らそうとするのでございますよ。そのくせいつも心は責められているのでございますよ。それで苦しまぐれに自暴(やけ)になって、お酒など飲むのです。だんだん気が荒(すさ)んで行きますので、私もほんとに案じています。左衛門 どうせのがれられぬ悪人なら、ほかの悪人どもに侮辱されるのはいやですからね。また自分を善(よ)い人間らしく思いたくありませんからね。私は悪人だと言って名乗って世間を荒れ回りたいような気がするのです。(間)御出家様。教えてください、極楽と地獄とはほんとうにあるものでございましょうか。親鸞 私はあるものと信じています。私は地獄が無いはずはないという気が先にするのです。私は他人の運命を傷つけた時に、そしてその取り返しがつかない時に、私を鞭(むち)うってください、私を罰してください、と何者かに向かって叫びたい気がするのです。その償いをする方法が見つからないのです。また自分が残酷な事をした時にはこの報いが無くて済むものかという気がするのです。これは私の魂の実感です。左衛門 私はさっきそのような気がいたしました。もしあなたがたにあやまる機会がなくて、あれぎりになってしまったら、あなたがたがいつまでも呪(のろ)いを解かずに巡礼していらしたなら、私のつくった悪はいつまでも消えずにおごそかに残るにちがいないという気がしました。また私は生きた鶏をつぶす時にいつも感じます。このようなことが報いなくて済むものかと。私はあなたを打ったことを思うと、どうぞ私を打ってくださいといいたい気がします。親鸞 私は地獄がなければならぬと思います。その時に、同時に必ずその地獄から免れる道が無くてはならぬと思うのです。それでなくてはこの世界がうそだという気がするのです。この存在が成り立たないという気がするのです。私たちは生まれている。そしてこの世界は存在している。それならその世界は調和したものでなくてはならない。どこかで救われているものでなくてはならない。という気がするのです。
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