剣侠
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著者名:国枝史郎 

 本陣油屋の奥の座敷では、逸見(へんみ)多四郎義利が、眼をさまして起き上った。


 多四郎は聞き耳を澄ましたが、
「源女殿! 東馬々々!」と呼んだ。
 と、左の隣部屋から、
「はい」という源女の声が聞こえ、
「眼覚め居りますでござります」という、門弟東馬の応える声が、右の隣部屋から聞こえてきた。
「宿(しゅく)に騒動が起こったようじゃ。……ともかくも身仕度してこの部屋へ!」
 間もなく厳重に身拵(みごしら)えした、東馬と源女とが入って来た。
 その間に多四郎も身拵えし、三人様子をうかがっていた。
 そこへ番頭が顔を出し、
「木曽福島の馬市へ参る、百頭に余る馬の群が、放れて宿へなだれ込み、出火などもいたしましたし、切り合いなどもいたし居ります様子、大騒動起こして居りますれば、ご用心あそばして下されますよう」
 こう云ってあわただしく走って行った。
「何はあれ宿の様子を見よう」
 多四郎は源女と東馬とを連れて、油屋の玄関から門口へ出た。
 多四郎がこの地へやって来た理由は?
 源女の歌う歌の中に、今は変わって千の馬、五百の馬の馬飼の、云々という文句があった。そこで多四郎は考えた。そういう馬飼の居る所に、黄金は埋められているのであろう、そうしてそういう馬飼の居る地は、木曽以外にはありそうもない。木曽山中には井上嘉門という、日本的に有名な馬飼があって、馬大尽とさえ呼ばれている。そやつが蔵しているのではあるまいか? おおそうそう馬大尽といえば、門弟高萩の猪之松方に、逗留しているということじゃ、源女殿と引き合わせ、二人の様子を見てやろうと、源女を連れて高萩村の、猪之松方へ行ったところ、本日井上嘉門ともども、木曽へ向かって行ったとのこと、それではこちらも木曽へ行こうと、東馬をも連れて旅立ったので、途中で馬大尽や猪之松の群と、遭遇(あ)わなければならないはずなのであるが、急いで多四郎が間道などを歩き、かえって早くこの地へ着き、日のある中(うち)に宿を取ったため、少し遅れてこの地へ着き、先を急いで泊まろうとせず、夜をかけて木曽の福島へ向かう、猪之松と馬大尽との一行と、一瞬掛け違ってしまったのであった。
 さて門口に立って見れば、宿の混乱言語に絶し、収拾すべくもなく思われた。
 群集が渦を巻いて街道を流れ、その間を馬の群が駈け巡り、その上を火の子が梨地(なしじ)のように飛んだ。
「これは危険だ、ここにいては不可(いけ)ない、野の方へ! 耕地の方へ!」
 こう云って多四郎は群集を分け、その野の方へ目差して進んだ。
 その後から二人は従(つ)いて行ったが、いつか混乱の波に呑まれ、全く姿が見えなくなってしまった。

 鍵屋で眼を覚まして起き上った澄江は、傍らを見たが陣十郎が居ない。
(どうしたことか?)と思ったものの、居ないのがかえって天の与え、今日の彼の様子から推せば、今後どんな目に逢わされるかも知れない。
(宿を出てともかくも外へ行こう)
 仕度をして外へ出た。
(主水様は?)
 こんな場合にも思った。


 昼間見かけた例のお侍さんが、もし恋しい主水様なら、この宿のどこかに泊まっていよう、お逢いしたいものだお逢いしたいものだ!
 思い詰めて歩く彼女の姿も、いつか混乱に捲かれてしまった。
 岩屋で眼覚めた主水その人も、ほとんど澄江と同じであった。
 傍らを見るとお妻が居ない。天の与えと喜んだ。義理あればこそ今日まで、一緒に起居をして来たのではあるが、希望(のぞみ)は別れることにあった。
 そのお妻の姿が見えない。
(よしこの隙に立ち去ろう)
 で、身仕度して外へ出た。
(鍵屋の二階で見かけた女、義妹澄江であろうも知れない。ともかくも行って探して見よう)
 で、その方へ歩を運んだが、人と馬と火との混乱! その混乱に包まれて、全く姿が見えなくなった。
 喚声、悲鳴、馬のいななき!
 破壊する音、逃げまどう足音?
 唸る嵐に渦巻き渦巻き、火の子を散らす火事の焔!
 宿は人の波、馬の流れ、水の洗礼、死の饗宴、声と音との、交響楽!
 その間を縫って全くの狂乱――血を見て狂った悪鬼の本性、陣十郎が走っては切り、切っては走り、隠見出没、宿の八方を荒れ廻っていた。
 今はお妻を探し出して切る! ――そういう境地からは抜け出していて、自分のために追分の宿が、恐怖の巷に落ち入っている、それが変質的彼の悪魔性を、恍惚感に導いていた。で男を切り女を切り馬を切り子供を切り、切れば切るほど宿が恐怖し、宿が混乱するその事が、面白くて面白くてならないのであった。
 返り血を浴び顔も手足も、紅斑々(こうはんはん)[#「紅斑々」は底本では「紅班々」]として凄まじく、髻(もとどり)千切れて髪はザンバラ、そういう陣十郎が老人の一人を、群集の中で切り仆し、悲鳴を聞き捨て突き進み、向こうから群集を掻き分け掻き分け、こっちへ向かって来る若い女を見た。
「澄江エ――ッ」と思わず声をあげた。
 それが澄江であるからであった。
「陣十様[#「陣十様」はママ]か!」と澄江は云ったが、あまりにも恐ろしい陣十郎の姿! それに自身陣十郎から遁れ、立ち去ろうとしている時だったので、陣十郎の横を反れ、群集の中へまぎれ込もうとした。
「汝逃げるか! 忘恩の女郎(めろう)!」
 そういう澄江の態度によって、心中をも見抜いた陣十郎は、可愛さ余って憎さが百倍! この心理に勃然として襲われ、いっそ未練の緒を断ってしまえ! 殺してしまえと悪鬼の本性、今ぞ現わして何たる惨虐!
「くたばり居ろう!」と大上段に、刀を振り冠り追いかけたが、その間をへだてる群集の波! が、そいつを押し分け突っ切り、近寄るや横から、
「思い知れ――ッ」と切った。
 が、幸いその途端に、一頭の馬が走って来、二三の人を蹴り仆し、二人の間へ飛び込んだ。
「ワ――っ」という人々の叫び! 又二三人蹴り仆され、澄江も仆れる人のあおりで、ドッと地上に伏し転んだ。
 と「お女中あぶないあぶない!」と、云い云い抱いて起こしてくれたは、旅装束(よそおい)をした武士であった。
「あ、あ、あなたは主水様ア――ッ」
「や、や、や、や、澄江であったか――ッ」


 抱き起こしてくれたその武士こそ、恋しい恋しい主水であった。
「主水様ア――ッ」と恥も見得もなく、群集に揉まれ揉まれながら、澄江は縋りつき抱きしめた。
「澄江! 澄江! おおおお澄江!」
 思わず流れる涙であった。
 涙を流し締め返し、主水はほとんど夢中の態で、
「澄江であったか、おおおお澄江で! ……昼間鍵屋の二階の欄で。……それにいたしてもよくぞ無事で! ……別れて、知らず、生死を知らず、案じていたに、よくぞ無事で……」
 しかしその時群集の叫喚、巷の雑音を貫いて
「やあ汝(おのれ)は鴫澤主水(しぎさわもんど)! この陣十郎を見忘れはしまい! ……本来は汝に討たれる身! 逃げ隠れいたすこの身なれど、今はあべこべに汝を探して、返り討ちいたさんと心掛け居るわ! ……見付けて本望逃げるな主水!」と叫ぶ声が聞こえてきた。
「ナニ陣十郎? 陣十郎とな?」
 かかる場合にも鴫澤主水、親の敵(かたき)の陣十郎とあっては、おろそかにならずそれどころか、討たでは置けない不倶戴天の敵!
(どこに?)と声の来た方角を見た。
 馬や群集に駈けへだてられ、十数間あなたに離れてはいたが、まさしく陣十郎の姿が見えた。
 が、おお何とその姿、凄く、すさまじく、鬼気陰々、悪鬼さながらであることか! ザンバラ髪! 血にまみれた全身!
 ゾッとはしたが何の主水、驚こうぞ、恐れようぞ、
「妹よ、澄江よ、天の賜物、敵陣十郎を見出したるぞ! 討って父上の修羅の妄執、いで晴そうぞ続け続け――ッ」と刀引き抜き群集を分け、無二無三に走り寄った。
「ア、あにうえ! お兄イ様ア――ッ」
 叫んだが澄江の心は顛倒! 勿論親の敵である! 討たねばならぬ敵であるが、破られべかりし女の命の、操を救い助けてくれた恩人! ……陣十郎を陣十郎を!
(妾(わたし)には討てぬ! 妾には討てぬ!)
「オ、お兄イ様ア――ッ、オ、お兄イ様ア――ッ」
 その間もガガ――ッ! ド、ド――ッ! ド、ド――ッ! 響き轟き寄せては返す、荒波のような人馬の狂い!
 宿(しゅく)は狂乱! 宿は狂乱
「陣十郎オ――ッ! 尋常に勝負!」
「参れ主水オ――ッ! 返り討ち!」
 一間に逼った討ち手討たれ手!
 音!
 太刀音!
 合ったは一合オ――ッ!
「わ、わ、わ、わ――ッ」と悲鳴! 悲鳴!
 いや、いや、いや、主水ではなく、陣十郎でもなく群集群集!
 群集が二人の切り結ぶ中を、見よ恐れず意にもかけず、馳せ通り駈け抜け走る走る!
 その人々に駈けへだてられ、寄ろうとしても再び寄れず、焦心(あせっ)ても無駄に互いに押され、右へ左へ、前と後とへ、次第次第に、遠退く、遠退く!
「陣十郎オ――ッ! 汝逃げるな!」
「何の逃げよう――ッ! 主水参れ――ッ!」
「お兄イ様ア――ッ」
「妹ヨ――ッ」
「澄江殿! 澄江殿! 澄江殿オ――ッ」


 追分宿の狂乱の様を、望み見ながらその追分宿へ、入り込んで来る一団があった。
 旅合羽に草鞋脚絆、長脇差を落として差し、菅笠を冠った一団で、駒箱、金箱を茣蓙に包み、それを担いでいる者もあり、博徒の一団とは知れていたが、中に二人の武士がいた。
 秋山要介と杉浪之助と、赤尾の林蔵とそれの乾児の、三十余人の同勢であり、云わずと知れた木曽福島の、納めの馬市に開かれる、賭場に出るべく来た者であった。
 納めの馬市には日限がある。それに間に合わねば効果がない。で猪之松や林蔵ばかりが[#「ばかりが」は底本では「ばかりか」]、この日この宿を通るのではなく、武州甲州の貸元で、その馬市へ出ようとする者は、おおよそ今日を前後に挿んで、この宿を通らなければならないのであった。
 要介達は何故来たか?
 源女を逸見多四郎に取られた。
 爾来要介は多四郎の動静、源女の動静に留意した。
 と、二人が連立って、木曽へ向かったと人伝てに聞いた。
(では我々も追って行こう)
 おりから林蔵も行くという。
 では同行ということになり、さてこそ連れ立って来たのであった。
 粛々と一団は歩いて来たが、見れば行手の追分宿は、火事と見えて火の手立ち上り、叫喚の声いちじるしかった。
 と、陸続として逃げて来る男女! 口々に罵る声を聞けば、
「焼き討ちだ――ッ!」
「馬が逃げた――ッ!」
「百頭、二百頭、三百頭オ――ッ!」
「切り合っているぞ――ッ!」
「焼き討ちだ――ッ」
 耳にして要介は足を止めた。
「林蔵々々、少し待て!」
「へい、先生、大変ですなア」
「どうも大変だ、迂闊には行けぬ」
「そうですとも先生迂闊には行けない」
「宿を避けて野を行こう」
「そうしましょう、さあ野郎共、その意(つもり)で行け、街道から反れろ」
「へい」と一同街道を外し、露じめっている草を踏み、野へ出て先へ粛々と進んだ。
 進み進んで林蔵の一団、生地獄の宿を横に睨み、宿の郊外まで辿りついた。
 と、この辺りも避難の人々で、相当混雑を呈してい、放れ馬も時々走って来た。火事の光は勿論届きほとんど昼のように明るかった。
 その光で行手を見れば、博徒の一団が屯(たむろ)していて、宿の様子を眺めていた。
(おおどこかのお貸元が、避難してあそこにいるらしい。ちょっとご挨拶せずばなるまい)
 渡世人の仁義である。
「藤作々々」と林蔵は呼んだ。
「へい、親分、何でござんす」
「向こうに一団見えるだろう。どこのお貸元だか知らねえが、ちょっと挨拶に行って来ねえ」
「ようがす」と藤作は走って行ったが、すぐ一散に走り帰って来た。
「親分、大変で、猪之松の野郎で」
「ナニ猪之松? ううん、そうか!」
 見る見る額に青筋を立てた。
「先生々々、秋山先生!」
「何だ?」と要介は振り返った。
「向こうに見えるあの同勢、高萩の猪之だっていうことで」
「猪之松? ふうん、おおそうか」
 要介も向こうを睨むように見た。


「林蔵!」としかし要介は云った。
「猪之松には其方(そち)怨みはあろうが、ここでは手出ししてはならぬぞ」
「何故です先生、何故いけません?」
「何故と申してそうではないか。宿は火事と放れ馬とで、あの通りに混乱し、人々いずれも苦しんで居られる。そういう他人の苦難の際に、男を売物の渡世人が、私怨の私闘は謹むべきだ」
「そうですねえ、そう云われて見れば、こいつ一言もありませんや。が、相手がなぐり込んで来たら?」
「おおその時には売られた喧嘩、降りかかる火の子だ、断乎として払え!」
「ようがす、それじゃアその準備だ。……やいやい野郎共聞いていたか、猪之の方から手出ししたら幸い、遠慮はいらねえ叩き潰してしまえ! ……それまではこっちは居待懸け! おちついていろおちついていろ!」
「合点でえ」と赤尾の一党、鳴を静めて陣を立てた。
 と、早くも猪之松方でも、彼方に見える博徒の群が、赤尾の一党と感付いた。
「親分」と云ったのは一の乾児の、例の閂峰吉であった。
「林蔵の乾児の藤作の野郎が、やって来て引っ返して行きましたねえ」
「うん」と云ったのは猪之松で、先刻すでに駕籠から出、牀几を据えさせてそれへ腰かけ、火事を見ていた馬大尽、井上嘉門の側に立って、これも火勢を眺めていたが、
「うん、藤作が見えたっけ」
「向こうにいるなあ林蔵ですぜ。林蔵と林蔵の乾児共ですぜ」
「俺もそうだと睨んでいる」
「さて、そこで、どうしましょう?」
「どうと云って何をどうだ。先方が手出しをしやアがったら、相手になって叩き潰すがいい。それまではこっちは静まっているばかりさ」
「上尾街道では林蔵の方から、親分に決闘(はたしあい)を申し込んだはず。今度はこっちから申し込んだ方が」
「嘉門様がお居でなさらあ。……素人の客人を護衛(まも)って行く俺らだ、喧嘩は不可(いけ)ねえ、解ったろうな」
「なるほどなア、こいつア理屈だ。……じゃア静まって居りやしょう」
 この時二人の旅姿の武士と、同じく一人の旅姿の女、三人連れが火事の光に、あざやかに姿を照らしながら、宿の方から野へ現われ、猪之松方へ歩いて来た。
 眼ざとく認めたのが要介であった。
「杉氏」と要介は声をかけた。
「あの武家をよくご覧」
 浪之助は見やったが、
「先生ありゃア逸見先生で」
「であろうな、わしもそう見た」
「先生、女は源女さんですよ」
「そうらしい、わしもそうと見た。……よし」と云うと秋山要介[#「要介」は底本では「要助」]、つかつか進み出て声をかけた。
「あいやそこへまいられたは、逸見多四郎先生と存ずる。しばらくお待ち下されい」
 さようその武士は本陣油屋から、人波を分け放馬を避け、源女と東馬とを従えて、野へ遁れ出た多四郎であったが、呼ばれて足を止め振り返った。


「これはこれは秋山先生か」
 こう云ったが逸見多四郎、当惑の眉をひそかにひそめた。
「不思議な所でお逢い申した」
「いや」と要介は苦笑いをし、
「拙者におきましてはこの邂逅、不思議ではのうて期する処でござった」
「期する処? はてさてそれは?」
「と申すはこの要介、貴殿を追っかけ参りましたので」
「拙者を追っかけ? ……何故でござるな?」
「源女殿を当方へいただくために」
「…………」
「過ぐる日貴殿お屋敷において、木刀立合いいたしました際、拙者貴殿へ申し上げましたはずで。源女殿を取り返すでござりましょうと。……なお、その際申し上げましたはずで、後日真剣で試合ましょうと。……」
「…………」
「いざ、今こそ真剣試合! 拙者勝たば有無ござらぬ、源女殿を頂戴いたす!」
「…………」
「なお、この際再度申す、拙者が勝たば赤尾の林蔵を――その林蔵は拙者と同伴、乾児と共にそこへ参ってござる。――関東一の貸元として、猪之松を隷属おさせ下さい!」
「拙者が勝たば高萩の猪之松を――その猪之松儀これより見れば、同じく乾児を引卒して、そこに屯して居るようでござるが、その猪之松を関東一の、貸元として林蔵を乾児に……」
「致させましょう、確かでござる!」
「しからば真剣!」
「白刃の立合い!」
「いざ!」
「いざ!」
 サ――ッと三間あまり、二大剣豪は飛び退ったが、一度に刀を鞘走らせると、火事の光りに今はこの辺り、白昼(ひるま)よりも明るくて、黄金の色を加えて赤色、赤金色の火焔地獄! さながらの中にギラギラと輝く、二本の剣をシ――ンと静め、相青眼に引っ構えた。
 これを遥かに見聞して、驚いたのは林蔵と猪之松で、
(俺らのために先生――師匠が、――師匠同志が切り合ったでは、此方(こちとら)の男がすたってしまう! もうこうなっては遠慮は出来ねえ! 控えていることは出来なくなった!)
 両人ながら同じ心で、同じ心が言葉になり、
「さあ手前達かもう事アねえ、猪之の同勢へ切り込んで、猪之の首をあげっちめえ!」
「さあ野郎共赤尾へ切り込め! 林蔵を仕止めろ仕止めろ!」
 ド――ッとあがった鬨の声!
 ムラムラと両軍走りかかった。
 白刃! 閃き! 悲鳴! 怒声! 仆れる音! 逃げつ追いつ、追いつ逃げつする姿!
 混乱混戦の場となったが、この時宿(しゅく)もいよいよ混乱! 混乱以上に阿鼻叫喚の焦熱地獄となりまさり火事の焔の熱気に堪えかね、空地へ耕地へ……耕地へ耕地へと、さながら怒濤の崩れる如く、百、二百、三百、四百! 老幼男女家畜までが、この耕地へ逃げ出して来た。
 その人波に揉まれ揉まれて、澄江とお妻とが泳いで来た。
 と、陰惨とした幽鬼の声で、
「澄江殿オ――、お待ちなされ! ……汝お妻ア――遁そうや!」と叫ぶ、陣十郎の声がした。


 澄江もお妻も振り返って見た。
 愛欲の鬼、妄執の餓鬼、殺人鬼、――鬼となった陣十郎が人波を分けて、二人の方へ走って来た。
 血刀が群集の波の上に、火光(ひかり)を受けて輝いている。
(陣十郎に捕らえられたら、妾(わたし)の命は助からない)
 お妻は夢中で悲鳴を上げて走り、
(陣十郎殿に捕らえられたら、妾の躰も貞操も……)
 こう思って澄江も無我夢中で、前へ前へとヒタ走った。
「どうぞお助け下さりませ!」
 無我夢中で走って来た澄江、一挺の駕籠のあるのを見かけて、そこへ駈け付けこう叫んだ。
「お助けいたす! 駕籠の中へ!」
 誰とも知らず叫んだ者があった。
「お礼は後に、事情も後に!」
 こう云って澄江は駕籠の中へ、窮鳥のように身を忍ばせた。
「駕籠やれ!」と又も誰とも知れず叫んだ。
 駕籠がユラユラと宙に上り、街道の方へ舁がれて走り、その後から赧顔長髪の、酒顛童子[#「酒顛童子」は底本では「酒天童子」]さながらの人物が、ニタニタ笑いながら従(つ)いて走った。
 猪之松の屋敷で澄江の躰を、自分の物にしようとして、陣十郎に邪魔をされて、望みを遂げることに失敗した、馬大尽の井上嘉門であった。
「駕籠待て――ッ、遣らぬ! 待て待て待て――ッ!」
 陣十郎は追っかけたが、
「や、こいつ陣十郎! 又現われたか、今度こそ仕止めろ!」と、猪之松の乾児達一斉に、陣十郎を引っ包んだ。
 一方、お妻はその隙を狙い、ひた走りひた走ったが、息切れがして地に仆れた。
 と、そこに刀を下げて、寄せ来る群集に当惑し、左右に避けていた武士がいた。
「お侍さまと見申して、お助けお願いいたします!」
 云い云いお妻は武士の袖に縋った。
「誰じゃ? よし、誰でもよし! 見込まれて助けを乞われた以上、誰であろうと助けつかわす! 参れ!」と云ったがこの武士こそ、秋山要介と太刀を交わし、命の遣り取りをしようとした瞬間、群集の崩れに中をへだてられ、相手の姿を見失ったところの、逸見多四郎その人であった。
「東馬々々、東馬参れ!」
「はい先生! 私はここに!」
「源女殿は? 源女殿は?」
「源女殿は人波にさらわれて……どことも知れずどことも知れず……」
「残念! ……とはいえ止むを得ぬ儀、東馬参れ――ッ!」と刀を振り上げ、遮る群集に大音声!
「道を開け! 開かねば切るぞ!」
 刀の光に驚いて、道を開いた群集の間を、あてもなく一方へ一方へ、三人は走った走った走った。
 が、それでも未練あって、
「源女殿オ――、源女殿オ――ッ」と呼ばわった。
 そういう声は聞きながら、永らく世話になってなつかしい、要介の姿を見かけた源女は――逸見多四郎に対しても、丁寧な待遇を受けたので、決して悪感は持っていなかったが、要介に対してはそれに輪をかけた、愛慕の情さえ持っていたので、その方角へ人を掻き分け、この時無二無三に走っていた。
「秋山先生!」とやっと近付き、地へひざまずくと足を抱いた。

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「源女殿か――ッ!」と秋山要介、これも地面へ思わず膝つき
「逢えた! よくぞ! 参られた! ……杉氏々々!」と嬉しさの声、顫わせて呼んで源女を抱き、
「もう逃がさぬ! どこへもやらぬ! 杉氏々々源女殿を、林蔵の手へ! ……そこで介抱!」
「おお源女殿オ――ッ! よくぞ来られた!」
 駈け寄って来た浪之助、これもなつかしさに声を亢(たか)ぶらせ、
「いざ源女殿、向こうへ向こうへ! ……先生にもご同道……」
「いやいや俺は逸見多四郎を! ……」
「この混乱、この騒動、見失いました上からは……」
「目つからぬかな。……では行こう」
 この混乱の人渦の中を、阿修羅のように荒れ廻っているのは、澄江を奪われお妻を見失い、猪之松の乾児達に取り巻かれ、切り立てられている陣十郎であった。
 十数人を殺傷し、己も幾度か薄手を受け、さすがの陣十郎も今は疲労! その極にあって眼はクラクラ、足元定まらずよろめくのを、得たりと猪之松の乾児の大勢、四方八方より切ってかかった。
 それをあしらい、避けつ払いつ――こいつらに討たれては無念残念、どこへなりと一旦遁れようと退く、退く、今は退く!
 ようやく人波の渦より出、追い縋る猪之松の乾児からも遁れ、薮の裾の露じめった草野へ、跚蹣(さんまん)として辿りついた時には、神気全く消耗し尽くした。
(仆れてなろうか! 仆れぬ! 仆れぬ!)
 が、ドッタリ草の上に仆れ、気絶! ――陣十郎は気絶してしまった。
 火事の遠照りはここまでも届いて、死人かのように蒼い顔を、陰影づけて明るめていた。
 修羅の巷は向こうにあったが、ここは寂しく人気なく、秋の季節は争われず、虫の音がしげく聞こえていた。
 と、この境地へ修羅場を遁れ、これも同じく疲労困憊、クタクタになった武士が一人、刀を杖のように突きながら、ヒョロリヒョロリと辿って来た。
「や、死人か、可哀そうに」と呟き、陣十郎の側(そば)へ立った。
 が、俄然躍り上り――躍り上り躍り上り声をあげた。
「陣十郎オ――ッ! 汝(おのれ)であったか! 鴫澤主水が参ったるぞ! 天の与え、今度こそ遁さぬ! 立ち上って勝負! 勝負いたせッ!」
 武士は鴫澤主水であった。
「起きろ起きろ水品陣十郎! 重なる怨み今ぞ晴す! ……起きろ! 立ち上れ! 水品陣十郎!」
 刀を真っ向に振り冠り、起き上ったらただ一討ち! ……討って取ろうと構えたが、陣十郎は動かなかった。
(死んでいるのか?)と疑惑が湧いた。
 手を延ばして額へ触った。
 気絶しているのだ、暖味がある。
(よ――し、しからばこの間に!)
 振り冠った刀を取り直し、胸へ引きつけ突こうとしたが、心の奥で止めるものがあった。
(あなたが高萩の森の中で、気絶しているのを陣十郎の情婦、お妻が助けたではありませんか。……正体もない人間を、敵(かたき)であろうと討つは卑怯、まず蘇生させてその上で)と。
(そうだ)と主水は草に坐り、印籠から薬を取り出した。

恩讐同居


木曽福島の納めの馬市。――
 これは勿論現代にはない。
 現代の木曽の馬市は、九月行なわれる中見(なかみ)の市と、半夏至を中にして行なわれる、おけつげという二つしかない。
 納めの馬市の行なわれたのは、天保末年の頃までであり、それも前二回の馬市に比べて、かなり劣ったものであった。もうこの頃は山国の木曽は、はなはだ寒くて冬めいてさえ居り、人の出もあまりなかったからである。
 とは云え天下の福島の馬市! そうそう貧弱なものではなく、馬も五百頭それくらいは集まり、縁日小屋も掛けられれば、香具師(やし)の群も集まって来、そうして諸国の貸元衆が、乾児をつれて出張っても来、小屋がけをして賭場をひらいた。
 この時集まって来た貸元衆といえば――
 白子の琴次(ことじ)、一柳の源右衛門、廣澤の兵右衛門、江尻の和助、妙義の雷蔵、小金井の半助、御輿の三右衛門、鰍澤(かじかざわ)の藤兵衛、三保松源蔵、藤岡の慶助――等々の人々であり、そこへ高萩の猪之松と、赤尾の林蔵とが加わっていた。
 左右が山で中央が木曽川、こういう地勢の木曽福島は、帯のように細い宿であったが、三家の筆頭たる尾張様の家臣で、五千八百余石のご大身、山村甚兵衛が関の関守、代官としてまかり居り、上り下りの旅人を調べる。で、どうしてもこの福島へは、旅人は一泊かあるいは二三泊、長い時には七日十日と、逗留しなければならなかったので、宿は繁盛を極めていた。尾張屋という旅籠(はたご)があった。
 そこへ何と堂々と、こういう立看板が立てられたではないか!
「秋山要介在宿」と。
 これが要介のやり口であった。
 どこへ行っても居場所を銘記し、諸人に自己の所在を示し、敵あらば切り込んで来い、慕う者あらば訪ねて来いという、そういう態度を知らせたのであった。
 その尾張屋から二町ほど離れた、三河屋という旅籠には、逸見(へんみ)多四郎が泊っていたが、この人は地味で温厚だったので、名札も立てさせずひっそりとしていた。
 さて馬市の当日となった。
 博労、市人、見物の群、馬を買う人、馬を売る人、香具師(やし)の男女、貸元衆や乾児、非常を警める宿役人、関所の武士達、旅の男女――人、人、人で宿(しゅく)は埋もれ、家々の門や往来には、売られる馬が無数に繋がれ、嘶(いなな)き、地を蹴り、噛み合い刎ね合い、それを見て犬が吠え――、声、声、声で騒がしくおりから好天気で日射し明るく、見世物小屋も入りが多く、賭場も盛って賑やかであった。
 そういう福島の繁盛を外に、かなり距たった奈良井の宿の、山形屋という旅籠屋へ、辿りついた二人の武士があった。
 陣十郎と主水であった。
 奥の小広い部屋を二つ、隣同志に取って泊まった。
 二人ながら駕籠で来たのであったが、駕籠から現われた陣十郎を見て、
「こいつは飛んだお客様だ」と、宿の者がヒヤリとした程に、陣十郎は憔悴してい、手足に幾所か繃帯さえし、病人であり、怪我人であることを、むごたらしく鮮やかに示していた。
 夕食の膳を引かしてから、主水は陣十郎の部屋へ行った。
「どうだ陣十郎、気分はどうだ?」
「悪い、駄目だ、起きられぬ」
 床を敷かせ、枕に就き、幽かに唸っていた陣十郎は、そう云って残念そうに歯を噛んだ。
「これではお前と立ち合い出来ぬよ」


「まあ可(い)い、ゆっくり養生するさ」
 主水はそう云って気の毒そうに見た。
「快癒してから立ち合おう」
「それよりどうだな」と陣十郎は云った。
「こういう俺を討って取らぬか」
「そういうお前を討つ程なら、あの時とうに討って居るよ」
「あの時討てばよかったものを」
「死人を切ると同じだったからな」
「それでも討てば敵討(かたきうち)にはなった」
「誉にならぬ敵討か」
「ナーニ見事に立ち合いまして、討って取りましたと云ったところで、誰一人疑う者はなく、誉ある復讐ということになり、立身出世疑いなしじゃ」
「心が許さぬよ、俺の良心が」
「なるほどな、それはそうだろう。……そういう良心的のお前だからな」
「お前という人間も一緒に住んで見ると、意外に良心的の人間なので、俺は少し驚いている」
「ナーニ俺は悪人だよ」
「悪人には相違ないさ。が、悪人の心の底に、一点強い善心がある。――とそんなように思われるのさ」
「そうかなア、そうかもしれぬ。いやそうお前に思われるなら、俺は実に本望なのだ。……俺は一つだけ可(い)いことをしたよ。……いずれゆっくり話すつもりだが」
「話したらよかろう、どんなことだ?」
「いやまだまだ話されぬ。もう少しお前の気心を知り、そうして俺の性質を、もう少しお前に知って貰ってからそうだ知って貰ってからでないと、話しても信じて貰われまいよ」
「実はな」と主水も真面目の声で、
「実はな俺もお前に対し、その中(うち)是非とも聞いて貰いたいこと、話したいことがあるのだよ。が、こいつも俺という人間を、もっとお前に知って貰ってからでないと……」
「ふうん、変だな、似たような話だ。……が、俺はお前という人間を、かつて疑ったことはないよ。俺のような人間とはまるで違う。お世辞ではない、立派な人間だ」
「お前だってそうだ、可(い)いところがある」
 二人はしばらく黙っていた。
 木曽街道の旅籠の部屋だ、襖も古び障子も古び、畳も古び、天井も古び、諸所に雨漏りの跡などがあって、暗い行燈でそれらの物象が、陰惨とした姿に見えていた。
 乱れた髷、蒼白の顔、――陣十郎のそういう顔が、夜具の襟から抽(ぬきん)でている。
 それは化物絵を思わせるに足りた。
「おい」と陣十郎は感傷的の声で、
「俺とお前は血縁だったなア」
「…………」
 主水は無言で頷いた。
「俺とお前は従々兄弟(またいとこ)だったんだなア」
「…………」
「だから互いに敵同志になっても、……」
「…………」
「こんな具合に住んでいられるのだなア」
「そうだよ」と主水も感傷的に云った。
「そうだよ俺達は薄くはあるが、縁つづきには相違ないのだ」
 ここで又二人は黙ってしまった。
 行燈の光が暗くなった。
 燈心に丁字でも立ったのであろう。
「寒い」と陣十郎は呟いた。
「木曽の秋の夜……寒いのう。……風邪でも引いては大変だ。わしの夜具を掛けてやろう」
 主水は云って自分の部屋へ立った。


 追分宿の大乱闘、その時仆れた陣十郎を目つけ、主水は討って取ろうとしたが、気絶している人間は討てぬ。で蘇生させたところ、陣十郎は無数の負傷、立ち上る気力もなくなっていた。
 しかし彼は観念し、草に坐って首差し延べ、神妙に討って取られようとした。
 これがかえって主水の心を、同情と惻隠とに導いて、討って取ることを出来なくした。
 で、介抱さえしてやることにした。
 旅籠へ連れて来て医師にかけた。
 それにしてもどうしてそんな負傷者を連れて、福島などへ行くのであろう?
 こう陣十郎が云ったからである。
「井上嘉門という馬大尽が、博徒猪之松の群にまじり、あの夜乱闘の中にいた。そこへ澄江殿が逃げ込まれた。と、嘉門が駕籠に乗せ、福島の方へ走らせて行った。その以前からあの嘉門め、澄江殿に執着していた。急いで行って取り返さずば、悔いても及ばぬことになろう。……これにはいろいろ複雑の訳と、云うに云われぬ事情とがある。そうして俺はある理由によって、その訳を知っている。が今は云いにくい。ただ俺を信じてくれ。俺の言葉を信じてくれ。そうして一緒に木曽へ行って、澄江殿を取り返そう」
 ――で、二人は旅立ったのであった。
 主水にしてからが澄江の姿を、追分の宿で見かけたことを、不思議なことに思っていた。馬大尽井上嘉門のことは、上尾宿の旅籠の番頭から聞いた。
 しかし、澄江と嘉門との関係――何故嘉門が駕籠に乗せて、澄江をさらって行ったかについては、窺い知ることが出来なかった。
 陣十郎は知っているらしい。
 詳しい事情を知っているらしい。
 が、その陣十郎はどうしたものか、詳しく話そうとはしないので、強いて訊くことも出来なかった。
 とはいえ澄江がそんな事情で、嘉門に連れられて行ったとすれば、急いで木曽へ出張って行って、澄江を奪い返さなければならない。
 ――で、旅立って来たのである。
 二人は翌日山形屋を立って、旅駕籠に身を乗せて、福島さして歩ませた。
 鳥居峠へ差しかかった。
 ここは有名な古戦場で、かつ風景絶佳の地で、芭蕉翁なども句に詠んでいる。
雲雀(ひばり)より上に休らう峠かな
 木曽の五木と称されている、杜松(ねず)や扁柏(ひのき)や金松(かさやまき)[#ルビの「かさやまき」はママ]や、花柏(さわら)や、そうして羅漢松(おすとのろう)[#ルビの「おすとのろう」はママ]などが、鬱々蒼々と繁ってい、昼なお暗いところもあれば、カラッと開けて急に眼の下へ、耕地が見えるというような、そういう明るいところもあった。
 随分急の上りなので、雲助はしきりに汗を拭いた。
 主水は陣十郎の容態を案じた。
(窮屈の駕籠でこんな所を越して、にわかに悪くならなければよいが)
 で、時々駕籠を止めて、客をも駕籠舁(かごかき)をも休ませた。
 峠の中腹へ来た時である、
「駕籠屋ちょっと駕籠をとめろ」
 突然陣十郎はそう云った。
「おい主水、景色を見ようぜ」
「よかろう」と主水も駕籠から下りた。
「歩けるのか、陣十郎」
「大丈夫だ。ボツボツ歩ける」
 陣十郎は先に立って、森の方へ歩いて行った。


 明応(めいおう)年間に木曽義元、小笠原氏と戦って、戦い勝利を得たるをもって、華表(とりい)を建てて鳥居峠と呼ぶ。
 その鳥居の立っている森。――森の中は薄暗く、ところどころに日漏れがして、草に斑紋(まだら)を作ってはいたが、夕暮のように薄暗かった。
 そこを二人は歩いて行った。
 紅葉した楓(かえで)が漆(うるし)の木と共に、杉の木の間に火のように燃え、眩惑的に美しかったが、その前までやって来た時、
「エ――イ――ッ」と裂帛の声がかかり、木漏れ陽を割って白刃一閃!
「あッ」
 主水だ!
 叫声を上げ、あやうく飛び退き抜き合わせた!
 悪人の本性に返ったらしい! 見よ、陣十郎は負傷の身ながら、刀を大上段に振り冠り、繃帯の足を前後に踏み開き、大眼カッと見開いて、上瞼へ瞳をなかば隠し、三白眼を如実に現わし、主水の眼をヒタと睨み、ジリリ、ジリリと詰め寄せて来た。
 殺気!
 磅磚(ぼうばく)!
 宛(えん)として魔だ!
 気合に圧せられ殺気に挫かれ、主水はほとんど心とりのぼせ、声もかけられずジリリジリリと[#「ジリリジリリと」は底本では「ヂリリヂリリと」]、これは押されて一歩一歩後へ後へと引き下った。
 間!
 静かにして物凄い、生死の境の間が経った。
 と、陣十郎の唇へ酸味のある笑いが浮かんで来た。
「駄目だなア主水、問題にならぬぞ。それでは到底俺は討てぬ」
「…………」
「人物は立派で可(い)い人間だが、剣道はからきし物になっていない」
「…………」
「刀をひけよ、俺も引くから」
 陣十郎は数歩下り、刀を鞘に納めてしまった。
 二人は草を敷いて並んで坐った。
 小鳥が木から木へ渡り、囀りの声を立てていた。
「主水、もっと修行せい」
「うん」と主水は恥かしそうに笑い、
「うん、修行するとしよう」
「俺が時々教えてやろう」
「うん、お前、教えてくれ」
「俺の創始した『逆ノ車』――こいつを破る法を発明しないことには、俺を討つことは出来ないのだがなア」
「とても俺には出来そうもないよ。『逆ノ車』を破るなんてことは」
「それでは俺を討たぬつもりか」
「きっと討つ! 必ず討つ!」
 主水は烈しい声で云い、鋭い眼で陣十郎を睨んだ。
 それを陣十郎は見返しながら、
「討てよ、な、必ず討て! 俺もお前に討たれるつもりだ。……が、それには『逆ノ車』を……」
 主水は俯向いて溜息をした。
 二人はしばらく黙っていた。
 森の外の明るい峠道を、二三人の旅人が通って行き、駄賃馬の附けた鈴の音が、幽かながらも聞こえてきた。
「『逆ノ車』使って見せてやろうか」
 ややあって陣十郎はこう云った。
「うむ、兎も角も使って見せてくれ」
「立ちな。そうして刀を構えな」
 云い云い陣十郎は立ち上った。
 そこで主水も立ち上り、云われるままに刀を構えた。
 と、陣十郎も納めた刀を、又もソロリと引き抜いたが、やがて静かに中段につけた。


「よいか」と陣十郎が云った途端、陣十郎の刀が左斜に、さながら水でも引くように、静かに、流暢に、しかし粘って、惑わすかのようにスーッと引かれた。
 何たる誘惑それを見ると、引かれまい、出まいと思いながら、その切先に磁気でもあって、己が鉄片ででもあるかのように、主水は思わず一歩出た。
 陣十郎の刀が返った。
 ハ――ッと主水は息を呑んだ。
 瞬間怒濤が寄せるように、大下手切り! 逆に返った刀!
 見事に胴へダップリと這入った。
「ワッ」
「ナーニ切りゃアしないよ」
 もう陣十郎は二間の彼方へ、飛び返っていて笑って云った。
「どうだな主水、もう一度やろうか」
「いや、もういい。……やられたと思った」
 主水は額の冷汗を拭いた。
 また二人は並んで坐った。
「どうだ主水、破れるか?」
「破るはさておいて防ぐことさえ……」
「防げたら破ったと同じことだ」
「うん、それはそうだろうな」
「どこがお前には恐ろしい?」
「最初にスーッと左斜へ……」
「釣手の引のあの一手か?」
「あれにはどうしても引っ込まれるよ」
「次の一手、柳生流にある、車ノ返シ、あれはどうだ?」
「あれをやられるとドキンとする」
「最後の一手、大下手切り! これが本当の逆ノ車なのだが、これをお前はどう思う?」
「ただ恐ろしく、ただ凄じく、されるままになっていなければならぬよ」
「これで一切分解して話した、……そこで何か考案はないか?」
「…………」
 無言で主水は考えていた。
 と、陣十郎が独言のように云った。
「すべての術は単独ではない。すべての法は独立してはいない。……『逆ノ車』もその通りだ。『逆ノ車』そればかりを単独に取り上げて研究したでは、とうてい破ることは出来ないだろう。……その前後だ、肝心なのは! ……どういう機会に遭遇した時『逆ノ車』を使用するか? ……『逆ノ車』を使う前に、どうそこまで持って来るか? ……こいつを研究するがいい。……こいつの研究が必要なのだ」
 ここで陣十郎は沈黙した。
 主水は熱心に聞き澄ましていた。
 そう陣十郎に云われても、主水には意味が解らなかった。いやそう云われた言葉の意味は、解らないことはなかったが、それが具体的になった時、どうなるものかどうすべきものか、それがほとんど解らなかった。
 で、いつ迄も黙っていた。
「澄江殿はどうして居られるかのう」
 こう如何にも憧憬(あこが)れるように、陣十郎が云いだしたのは、かなり間を経た後のことであった。
 異様な声音に驚いて、主水は思わず陣十郎を見詰めた。
 と、陣十郎の頬の辺りへ、ポッと血の気が射して燃えた。
(どうしたことだ?)と主水は思った。
 が、直ぐに思い出されたことは、陣十郎が以前から、澄江を恋していたことであった。
(いまだに恋しているのかな)
 こう思うと不快な気持がした。
 それと同時に陣十郎の情婦? お妻のことが思い出された。
 卒然として口へ出してしまった。
「お妻殿はどうして居られることやら」
「ナニお妻?」と驚いたように、陣十郎は主水を見詰めた。


「お妻! ふふん、悪婆毒婦! あんな女も少ないよ」
 やがて陣十郎は吐き出すように云った。
 追分宿の夜の草原で、後口の悪い邂逅をした。――そのことを思い出したためであった。
「そうかなア」と主水は云ったが主水にはそう思われなかった。
 彼女の執拗なネバネバした恋慕、どこまでも自分に尽くしてくれた好意――一緒にいる中は迷惑にも、あさましいものにも思われたが、さてこうして離れて見れば、なつかしく恋しく思われるのであった。
(が、そのお妻とこの俺とが、夫婦ならぬ夫婦ぐらし、一緒に住んでいたと知ったら、陣十郎は何と思うであろう?)
 夫婦のまじわりをしなかったといかに弁解したところで、若い女と若い男とが、一緒に住んでいたのである。清浄の生活など何で出来よう、肉体的の関係があったと、陣十郎は思うであろう――主水にはそんなように思われた。
 それが厭さに今日まで、主水は陣十郎へ明かさないのであった。
 とはいえいずれは明かさなければならない――そこで奈良井の旅籠屋でも、聞いて貰いたいことがある、云わなければならないことがあると、そういう意味のことを云ったのであった。
 似たような思いにとらえられているのが水品陣十郎その人であった。
 澄江と夫婦ならぬ夫婦ぐらし、それをして旅をさえつづけて来た。が、そう打ちあけて話したところで、肉体のまじわりなかったと、何で主水が信じよう。暴力で思いを遂げたぐらいに、まず思うと思ってよい。
 打ち明けられぬ! 打ち明けられぬ!
 で、今だに打ち明けないのであったが、早晩は話してしまわねば、自分として心苦しい。そこでこれも奈良井の宿で、聞いて貰いたいことがある、話さねばならぬことがあると、主水に向かって云ったのであった。
 二人はしばらく黙っていた。
 互いに一句云ったばかりで、澄江について、お妻に関して、もう云おうとはしなかった。
 触れることを互いに避けているからである。

 木曽福島へやって来たものの、逸見多四郎は馬市そのものに、何の関心も執着もなく、執着するところは埋ずもれた巨宝、それを手に入れることであった。
「お妻殿」と旅籠の座敷で多四郎は優しく微笑して云った。
「木曽の奥地西野郷へ、行って見ようではござらぬか」
「はいはいお供いたしますとも」
 お妻は嬉しそうにそう云った。
「其方(そなた)は健気で話が面白い。同行すると愉快でござろうよ」
「まあ殿様、お世辞のよいこと」
「東馬、其方(そち)も行くのだぞ」
「は、お供いたします」
 こんな塩梅(あんばい)に二人を連れて、多四郎は福島の宿を立った。
 奥地の木曽の風景を探る。こう二人には云ったものの、その実は奥地の西野郷に、馬大尽事井上嘉門がいる。そこに巨宝があるかもしれない。有ったらそれを手に入れてと、それを目的に行くのであった。
 木曽川を渡ると渡った裾から、もう険しい山路であった。
 急ぐ必要の無い旅だったので、三人は悠々と辿って行った。

馬大尽の屋敷


 その同じ日のことであった、旅籠(はたご)尾張屋の奥の部屋で、秋山要介が源女と浪之助とへ、
「さあ出立だ。いそいで用意! 西野郷へ行くのだ、西野郷へ行くのだ!」
 急き立てるようにこう云った。
 要介は源女を取り返して以来、そうして源女と福島へ来て以来、源女の口からこういう事を聞いた、
「妾(わたくし)だんだん思い出しました。大森林、大渓谷、大きな屋敷、無数の馬、酒顛童子のような老人のいた所、そこはどうやら福島の、奥地のように思われます」と。
 それに福島へ来て以来、林蔵の[#「林蔵の」は底本では「林臓の」]乾児(こぶん)をして逸見(へんみ)多四郎の起居を、絶えず監視させていたが、それから今しがた通知があった。逸見多四郎が供二人を連れて、西野郷さして発足したと。
 そこでこんなように急き立てたのであった。
 三人は旅籠を出た。
(西野郷には馬大尽事、井上嘉門という大金持が、千頭ほどの馬を持って、蟠踞(ばんきょ)[#ルビの「ばんきょ」は底本では「はんきょ」]しているということだ。それが源女のいう所の、酒顛童子のような老人かも知れない)
 要介はそんなことを思った。
 さて三人は歩いて行く。
 西野郷は今日の三岳村と、開田村とに跨がっており、木曽川へ流れ込む黒川の流域、貝坪、古屋敷、馬橋、ヒゲ沢渡、等々の小部落を点綴(てんてつ)したところの、一大地域の総称であって、その中には大森林や大渓谷や瀧や沼があり、そのずっと奥地に井上嘉門の、城砦のような大屋敷が、厳然として建っているのであった。
 今日の歩みをもってすれば、福島から西野郷へは一日で行けるが、文政年間の時代においては、二日の日数を要するのであった。
 分け上る道は険しかったが、名に負う木曽の奥地の秋、その美しさは類少なく、木々は紅葉し草は黄ばみ、木の実は赤らみ小鳥は啼きしきり、空は澄み切って碧玉を思わせ、驚嘆に足るものがあり、そういう境地を放牧されている馬が、あるいは五頭あるいは十頭、群をなし人を見ると懐かしがって、走って来ては鼻面を擦りつけた。
「妾(わたし)、だんだん思い出します」
 源女は嬉しそうに云い出した。
「たしかに妾こういう所を、山駕籠に乗せられ揺られながら、以前に通ったように思います」
「そうでござるか、それは何より……源女殿には昔の記憶を、だんだん恢復なされると見える」
 そう云って要介も喜んだ。
 歩きにくい道を歩きながら、三人は奥へ進んで行った。
 その日も暮れて夜となった。
 その頃要介の一行は、一軒の杣夫(そま)の家に泊まっていた。
 このような土地には旅籠屋などはなく、旅する人は杣夫や農夫に頼み、その家へ泊まることになっていた。
 大きな囲炉裏を囲みながら、要介は杣夫の家族と話した。
「西野郷の馬大尽、井上嘉門殿のお屋敷は、大したものでござろうの?」
「へえ、そりゃア大したもので、ご門をお入りになってから、主屋の玄関へ行きつくまでに、十町はあるということで」
「それはどうも大したものだな」
「嘉門様お屋敷へ参られますので?」
「さよう、明日(あした)行くつもりじゃ」
「あそこではお客様を喜ばれましてな、十日でも二十日でも置いてくれます」


「大家のことだからそうであろう」
「幾日おいでになろうとも、ご主人のお顔を一度も見ない、……見ないままで帰ってしまう……そういうことなどザラにあるそうで」
「ほほう大したものだのう」
 翌日一行は杣夫の家を立ち、その日の夜には要介達は、井上嘉門家の客になっていた。
 客を入れるために造ってある、幾軒かある別棟の家の、その一軒に客となっていた。
 想像以上噂以上に、嘉門の屋敷が豪壮であり、その生活が雄大なので、さすがの要介も胆を潰した。
 いうところの大家族主義の典型(てんけい)のようなものであった。
 西野郷の井上嘉門と、こう一概に人は云っていたが、行って見れば井上嘉門の屋敷は、西野郷からは更に数里、飛騨の国に寄っている、ほとんど別個の土地にあり、その土地から西野郷へまで、領地が延びているのだと、こう云った方がよいのであった。
 山の大名!
 まさにそうだ。
 周囲三里はあるであろうか、そういう広大な地域を巡って、石垣と土牆(どしょう)と巨木とで、自然の城壁をなしている(さよう将に城壁なのである)その中に無数の家々があり田畑があり丘があり、林があり、森があり、川があり、沼があり、農家もあれば杣夫の家もあり、空地では香具師(やし)が天幕(テント)[#ルビの「テント」は底本では「テン」]を張って見世物を興行してさえいた。
 しかもそれでいてその一廓は、厳然として嘉門の屋敷なのであった。
 つまり嘉門の屋敷であると共に、そこは一つの村であり、城廓都市であるとも云えた。
 馬や鹿や兎や狐や、牛や猿などが、林や森や、丘や野原に住んでいた。
 到る所に厩舎(うまや)があった。
 乞食までが住居していた。
 嘉門の住んでいる主屋なるものは、一体どこにあるのだろう?
 ほとんど見当がつかない程であった。
 が、その屋敷はこの一劃の奥、北詰の地点にあるのであって、その屋敷にはその屋敷に属する、石垣があり門があった。
 要介に杣夫が話した話、「ご門をお入りになってから、主屋の玄関へ行きつくまでに、十町はあるということで」と。
 これはこの門からのことなのであった。
 が、総体の嘉門の屋敷、周囲三里あるというこの屋敷の、雄大極まる構えと組織は、何も珍しいことではなく、昭和十七年の今日にあっても、飛騨の奥地や信州の奥地の、ある地方へ行って見れば、相当数多くあるのである。新家(しんや)とか分家(ぶんけ)とかそういう家を、一つ所へ八九軒建て、それだけで一郷を作り、その家々だけで団結し、共同の収穫所(とりいれしょ)や風呂などを作り、祭葬冠婚の場合には、その中での宗家へ集まり、酒を飲み飯を食う。
 白川郷など今もそうである。
 で、嘉門家もそれなのであるが、いかにも結構が雄大なので、驚かされるばかりなのであった。
 宗家の当主嘉門を頭に、その分家、その新家、分家の分家、新家の新家、その分家、その新家――即ち近親と遠縁と、そうしてそういう人々の従僕――そういう人々と家々によって、この一劃は形成され、自給自足しているのであった。
 要介達の泊まっている家は、宗家嘉門の門の中の平屋建ての一軒であった。
 さてその夜は月夜であった。
 その月光に照らされて、二梃の旅駕籠が入って来た。


 二梃の駕籠の着けられた家も、客を泊めるための家であったが、要介達の泊まっている家とは、十町ほども距たっていた。
 主水と陣十郎とが駕籠から出た。
 そうして家の中へ消えて行った。
 こういう大家族主義の大屋敷へ来れば、主人の客、夫婦の客、支配人の客、従僕の客、分家の客、新家の客と、あらゆる客がやって来るし、ただお屋敷拝見とか、一宿一飯の恩恵にとか、そんな名義で来る客もあり、客の種類や人品により、主人の客でも主人は逢わず、代わりの者が逢うことがあり、従僕の客でも気が向きさえすれば、主人が不意に逢ったりして、洵(まこと)に自由であり複雑であったが、感心のことには井上嘉門は、どんな粗末な客であっても、追い返すということはしなかったそうな。有り余る金があるからであろうが、食客を好む性質が、そういうことをさせるのであった。
 要介は心に思うところあって、
「有名なお屋敷拝見いたしたく、かつは某(それがし)事武術修行の、浪人の身にござりますれば、数日の間滞在いたし、お家来衆にお稽古つけたく……」
 とこういう名目で泊まり込み、陣十郎と主水とは、
「旅の武士にござりまするが、同伴の者この付近にて、暴漢数名に襲われて負傷、願わくば数日滞在し、手あて致したく存じます」
 と、こういう口実の下に泊まったのであった。
 陣十郎は猪之松の屋敷で、嘉門を充分知って居り、知って居るばかりか嘉門を襲った。――そういう事情があるによって、絶対に嘉門には逢えなかった。
 顔を見られてさえ一大事である。
 で、顔は怪我したように、繃帯で一面に包んでいた。
 逸見多四郎が堂々と、
「拙者は武州小川の郷士、逸見多四郎と申す者、ご高名を知りお目にかかりたく、参上致しましてござります」
 と、正面から宣(なの)って玄関へかかり、丁寧に主屋へ招じ入れられたのも、同じ日のことであり、お妻も東馬も招じ入れられた。
 さて月のよい晩であった。
 要介は源女と浪之助を連れてブラリと部屋から戸外へ出た。
 この広大の嘉門の屋敷の、大体の様子を見て置こうと、こう思って出て来たのであった。
 林のような植込みの中に、ポツリポツリと幾軒とない、立派な屋敷が立っていて、もう夜も相当更けていたからか、いずれも戸締り厳重にし、火影など漏らしてはいなかった。
 と、三人の歩いて行く行手を、二人の武士が歩いていた。
 この家へ泊まっている客であろう。
 そう思って要介は気にも止めなかった。
 が、そこは人情で、自分もこの家の客であり、先方の二人も客であるなら、話して見たいとこんなように思い、その後をソロソロとつけて行った。
 植込を抜け幾軒かの屋敷の、前を通ったり横を通ったりして、大略(おおよそ)五六町も歩いたであろうか、その時月夜の空を摩して、一際目立つ大屋敷が、その屋敷だけの土塀を巡らし、その屋敷だけの大門を持って、行手に堂々と聳えていた。
(これが嘉門の住居だな。いわば本丸というやつだ。いやどうも広大なものだ)
 要介はほとほと感に堪えた。


 先へ行く二人の客らしい武士も、その屋敷の広大なのに、感嘆をしているのであろう、しばし佇んで眺めていたが、土塀に添って右の方へ廻った。
 要介たちも右の方へ廻った。
 と、二人のその武士達は、土塀の前の一所へ立って、しばらく何やら囁いていたが、やがて土塀へ手をかけると、ヒラリと内へ躍り込んだ。
「おや」
「はてな」
 と云い要介も、浪之助も声をあげた。
「先生、あいつら変ですねえ」
「客ではなくて泥棒かな」
 二人は顔を見合わせた。
 と、先刻から物も云わず、熱心に四辺(あたり)を見廻したり、深く物思いに沈んだりして、様子を変えていたお組の源女が、この時物にでも憑かれたような声で、
「おお妾(わたし)は思い出した。この屋敷に相違ない! 妾が以前(まえかた)送られて来て、酒顛童子のようなお爺さんに、恐ろしい目に逢わされた屋敷! それはここだ、この屋敷だ! ……この屋敷だとするとあの地獄は――地獄のように恐ろしく、地獄のようにむごたらしく、……□まぐさの山や底無しの、川の中地の岩窟(いわむろ)の……その地獄、その地獄は、どちらの方角だったかしら? ……もう解(わか)る! 直ぐ解る! ……でもまだ解らない、解らない! ……そこへ妾はやられたんだ! そこで妾は気絶したんだ! ……」
 云い云い源女は右を指さしたり、左を指さしたりした。

 土塀を乗り越えた二人の武士、それは主水と陣十郎とであった。鳥居峠から駕籠に乗り、薮原から山へかかり、この日この屋敷へ来た二人であった。
 彼等二人の主たる目的は、井上嘉門に攫(さら)われた澄江を、至急に取り返すことにあった。
 遅れてもしも澄江の躰に――その貞操に傷でもついたら、取り返しのつかぬことになる。
 そこでこの屋敷へ着くや否や、負傷の躰も意に介せず、陣十郎は陣十郎で、その奪還の策を講じ、主水は主水で策を講じたが、これと云って妙案も浮かんで来ず、こうなっては仕方がない、嘉門の主屋へ忍び込み、力に訴えて取り返そうと、さてこそ揃って忍び込んだのであった。
 忍び込んで見てこの主屋だけでも洵(まこと)に広大であることに、驚かざるを得なかった。
 百年二百年経っているであろうと、そう思われるような巨木が矗々(すくすく)と、主屋の周囲に聳えていて、月の光を全く遮り、四辺(あたり)を真の闇にしてい、ほんの僅かの光の縞を、木間からこぼしているばかりであった。ところどころに石燈籠が道標(みちしるべ)のように立っていて、それがそれのある四辺だけをぽっと明るくしているばかりであった。
 主屋の建物はそういう構えの、遥か向こうの中央にあったが、勿論雨戸で鎧われているので、燈火など一筋も漏れて来なかった。
 と、拍子木の音がした。
 夜廻りが廻って来たらしい。
 二人は木立の陰へ隠れた。
 拍子木の音は近付いて来た。
 と、不意に足を止めたが、
「これ、誰じゃ、そこにいるのは?」
 一踴!
「わッ」
 一揮!
 寂寥!
「おい、陣十郎切ったのか?」
「いや峯打ちだ。殺してはうるさい」


 なお二人は先へ進んで行った。
 と、行手から男女らしいものが、話しながら来る気勢(けはい)がした。
 そこで二人は木陰へかくれた。
 男女の声は近寄って来たが、数間へだてた地点まで来ると、
「其方(そなた)あちらへ……静かにしておいで。……ちと変だ……何者かが……」
 こういう男の声がして、しばらくそれからヒッソリしていたが、やがておちついた歩き方で、歩み寄って来る気勢がし、
「これ誰じゃ、そこに居るのは?」と咎める威厳のある声がした。
 主水も陣十郎も物云わず、息を殺してじっとしていた。
「賊か、それとも……賊であろう。……身遁してやる、早く立ち去れ」
 声の様子でその人物が、武士であることには疑いなかった。
 主水の耳へ口を寄せ、陣十郎は囁いた。
「俺がやる。お前は見て居れ……ちと彼奴(あいつ)手強いらしい」
「うむ」と主水は頷いた。
 陣十郎はソロッと出た。
 既に刀は抜き持っている。
 それを暗中で上段に構え、一刀に討ち取ろうと刻み足して進んだ。
「来る気か」と先方の男が云った。
「可哀そうに……あったら命を……失わぬ先に逃げたがよかろう」
 あくまでも悠然とおちついていた。
 陣十郎はなお進んだ。
 勿論返辞などしなかった。
「そうか」と先方の武士が云った。
「どうでも来る気か、止むを得ぬの。……では来い!」と云って沈黙した。
 疾風(はやて)! 宛然(さながら)! 水品陣十郎! 二つになれと切り込んだ。

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