剣侠
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著者名:国枝史郎 

「よいお天気でございますとも……へい、さようで、よいお天気で」
 ――そこで又ムッツリと家伝の膏薬を、節立った手で練り出した。
 お妻は眉をひそめて見せたが、
「日和が続いていい気持だのに、爺つぁんはいつも不機嫌そうね」
「へい、不機嫌でございますとも、倅が江戸へ出て行ったまま、帰って来ないのでございますからな」
「またそれをお云いなのかえ。ナーニそのうち帰って来るよ」とは云ったものの殺された倅、弁太郎が何で帰るものかと、心の中で思っているのであった。
(あの人を殺したのは陣十郎だし、殺すように進めたのは妾だったっけ)
 こう思えばさすがに厭な気がした。
 まだお妻がそんな邯鄲師(かんたんし)などにならず、この郷に平凡にくらしていた頃から、弁太郎はひどくお妻を恋し、つけつ廻しつして口説いたものであった。その後お妻は故郷を出て、今のような身の上になってしまった。と、ヒョッコリ[#「ヒョッコリ」は底本では「ヒョッコり」]弁太郎が、膏薬売となって江戸へ出て来、バッタリお妻と顔を合わせた。爾来弁太郎は附き纏い、長い間の恋を遂げようとし、お妻の現在の身分も探ぐり、恋遂げさせねば官に訴え、女邯鄲師として縄目の恥を、与えようなどと脅迫さえした。お妻は内心セセラ笑ったが、うるさいから眠らせてしまおうよ、こう思って情夫の陣十郎へケシカケ、一夜お茶ノ水へ引っ張り出し、一刀に切らせてしまったのであった。
 杉浪之助が源女の小屋から、自宅へ帰る途中(みちすが)らに見た、香具師の死骸は弁太郎なのであった。
「爺つぁん、主水さんのご機嫌はどう?」お妻は話を横へそらせた。


「あのお方もご機嫌が悪そうで」
 弁三はそう云って俯向いて、物憂そうに膏薬を練った。
「出て行きたそうなご様子はないかえ?」
「出て行きたそうでございますなあ」
「出て行かしちゃアいけないよ」
「というお前さんの云いつけだから、せいぜい用心しては居りますがね」
「行かせたらあたしゃア承知しないよ」
 剃刀(かみそり)のような眼でジロリと見た。
「手に合わなけりゃア仕方がねえ、ボーッと竹法螺吹くばかりだ」
「と、村中の出口々々が、固められるから大丈夫だねえ。でもそういった大袈裟なこと、あたしゃアしたくはないのだよ」
「ご尤(もっと)もさまでございます」
「どれご機嫌を見て来よう」
 腰かけていた縁から立って、お妻は裏の方へ廻って行った。
(凄い女になったものさな)
 お妻の後を見送りながら、そう弁三爺さんは思った。
 以前この郷に居た時分は、度胸こそあったが可愛いい無邪気な綺麗な娘っ子に過ぎなくて、この家などへもノベツに来て、お爺さんお爺さんと懐かしがってくれたお妻、それがどうだろう陣十郎とかいう浪人者と手をたずさえて、今度やって来た彼女を見れば、縹緻も上ったがそれより何より、人間がすっかり異(ちが)ってしまっていて、腕には刺青眼には殺気、心には毒を貯えていて、人殺しぐらいしかねまじい姐御、だいそれた女になっているではないか。
(陣十郎とかいうお侍さん、随分怖そうなお侍さんだが、あんな人の眼をこっそり盗んで、鴫澤主水(しぎさわもんど)とかいうお侍さんを、こんな所へ隠匿(かくま)うなんて……血腥さい[#「血腥さい」は底本では「血醒さい」]事件でも起こらなけりゃアいいが)
 これを思うと弁三爺さんは、不安で恐ろしくてならなかった。
 数日前のことであった、そのお侍さんを駕籠に乗せて、宵にこっそりやって来て、
「このお侍さんを隠匿っておくれ、村の者へも陣十郎さんへも、誰にも秘密(ないしょ)で隠匿っておくれ、昔馴染みのお前さんのとこより、他には隠し場所がないんだからねえ」
 こうお妻が余儀なげに云った。
 見ればどうやらお侍さんは、半分死んででもいるように、気息奄々憔衰していた。
「へい、それではともかくも……」
 こう云って弁三は引き受けた。
 と、翌日から毎日のように、お妻はやって来て介抱した。
(どういう素性のお侍さんなのかな?)
(お妻さんとの関係はどうなんだろう?)
 解(わか)らなかったが不安であった。
 婆さんには死に別れ、たった一人の倅の弁太郎は江戸に出たまま帰って来ない。ただでさえ不安で小寂しいところへ、そんなお侍さんをあずかったのである。
 弁三爺さんは憂鬱であった。
 黙々と膏薬を練って行く。
 ヒョイと生垣の向こうを見た。
「あッ」と思わず声をあげた。
 陣十郎が蒼白い顔を、気味悪く歪めて生垣越しに、じっとこっちを見ているではないか。
(さあ大変! さあ事だ!)


「おい」と陣十郎は小声で呼んだ。
「おい爺(とっ)つぁん、ちょっと来てくんな」
 生垣越しに小手招きした。
 裏の座敷にはお妻がいるはずだ。
「へい」とも返辞が出来なかった。
 顫えの起こった痩せた体を、で弁三はヒョロヒョロと立たせ、庭下駄を穿くのもやっとこさで、陣十郎の方へ小走って行った。
 生垣を出ると村道である。
 と、陣十郎がしゃがみ込んだので、向かい合って弁三もしゃがみ込み、
「へ、へい、これは水品様……」
「爺つぁん、お妻が来たようだね」
「オ、お妻さんが……へい……いいえ」
「へい、いいえとはおかしいな。へいなのか、いいえなのか?」
「へい……いいえ……いいえなので」
「とすると俺の眼違いかな」
「………」
「恰好がお妻に似ていたが……」
「…………」
「ナーニの、俺ら家を出てよ、親分の家へ行こうとすると、鼻っ先を女が行くじゃアないか。滅法粋な後ろ姿さ。悪くねえなア誰だろうと、よくよく見ると俺の女房さ。アッ、ハッハッそうだったか、女房とあっては珍しくねえ、と思ったがうちの女房ども、どちらへお出かけかとつけて来ると、お前の家へ入ったというものさ」
「へ、へい、さようで、それはそれは……」
「それはそれはでなくて、これはこれはさ。これはこれはとばかり驚いて、しばらく立って見ていたが、裏の方へ廻って行ったので、爺つぁんお前をよんだわけさ」
「へ、へい、さようでございますかな」
「裏にゃア何があるんだい?」
「へい、庭と生垣と……」
「それから雪隠と座敷とだろう」
「へい、裏座敷はございます」
「その座敷にだが居る奴はだれだ!」
「ワーッ! ……いいえ、どなた様も……」
「居ねえ所へ行ったのかよ」
「ナ、何でございますかな?」
「誰もいねえ裏座敷へ、俺の女房は入って行ったのか?」
「…………」
「犬か!」
「へ?」
「雄の犬か!」
「滅相もない」
「じゃア何だ!」
「…………」
「云わねえな、利いていると見える、お妻のくらわせた鼻薬が……」
「水品様、まあそんな……そんな卑しい弁三では……」
「ないというのか、こりゃア面白い、媾曳宿(あいびきやど)に座敷を貸して、鼻薬を貰わねえ上品な爺(おやじ)――あるというならこりゃア面白い! 貰った貰った鼻薬は貰った。そこでひし隠しに隠しているのだ! ……ヨーシそれならこっちの鼻薬、うんと利くやつを飲ませてやる」
 トンと刀の柄を叩いた。
「鍛えは関、銘は孫六、随分人を切ったから、二所ばかり刃こぼれがある、抜いて口からズーッと腹まで! ……」
 ヌッと陣十郎は立ち上り、グッと鯉口を指で切った。


 古びた畳、煤けた天井、雨もりの跡のある茶色の襖。裏座敷は薄暗く貧しそうであった。
 江戸土産の錦絵を張った、枕屏風を横に立てて、褥(しとね)の上に坐っているのは、蒼い頬、削けた顎、こればかりは熱を持って光っている眼、そういう姿の主水であった。
「心身とも恢復いたしました。もう大丈夫でございます」
 そんな姿でありながら、そうして声など力がないくせに、そう主水は元気ありそうに云った。
「そろそろ発足いたしませねば……」
「さあご恢復なさいましたかしら」
 高過ぎる程高い鼻、これだけが欠点といえば欠点と云え、その他は仇っぽくて美しい顔へ、意味ありそうな微笑を浮かべ、流眄(ながしめ)に主水を眺めながら、前に坐っているお妻は云った。
「ご恢復とあってはお父様の敵(かたき)、お討ちにならねばなりませんのねえ」
「はいそれに誘拐(かどわか)されました妹の、行方を尋ね取り戻さねば……」
「そうそう、そうでございましたわねえ」
 お妻はまたも微笑したが、
「そのお妹御の澄江(すみえ)様、まことは実のお妹御ではなく、お許婚(いいなずけ)の方でございましたのね」
 そう云った時お妻の眼へ、嫉妬(ねた)ましさを雑えた冷笑のようなものが、影のようにチラリと射した。
「はい」と主水は素直に云った。
「とはいえ永らく兄妹として、同じ家に育って参りましたから、やはり実の妹のように……」
「さあどんなものでございましょうか」
 云い云い髪へ手をやって、簪(かんざし)で鬢の横を掻いた。
「お許婚の方をお連れになり、敵討の旅枕、ホ、ホ、ホ、お芝居のようで、いっそお羨(うらやま)しゅうございますこと……」
 主水は不快な顔をしたが、グッと抑えてさりげなく、
「その妹儀あれ以来、どこへ連れられ行かれましたか……思えば不愍……どうでも探して……」
「不愍は妾もでございますよ」
 お妻の口調が邪見になり、疳を亢ぶらせた調子となった。
「人の心もご存知なく……妾の前でお許婚の、お噂ばかり不愍とやら、探そうとやら何とやら、お気の強いことでございます」
 グッと手を延ばすと膝の前にあった、冷えた渋茶の茶碗を取り、一口に飲んでカチリと置いた。
「妾の心もご存知なく!」
 西陽が障子に射していて、時々そこへ鳥影がさした。
 生垣の向こう、手近の野良で、耕しながらの娘であろう、野良歌うたうのが聞こえてきた。
□背戸(せと)を出たればナー
よいお月夜で
様(さま)の頬冠(ほおかむ)ナー
白々と
 二人はしばらく黙っていた。
 と、不意に怨ずるように、お妻が熱のある声で云った。
「ただに酔興で貴郎様を、何であの時お助けしましょうぞ。……その後もここにお隠匿(かくま)いし、何の酔興でご介抱しましょう。……心に想いがあるからでござんす」


 主水は当惑と多少の不快、そういう感情をチラリと見せた。
 が、お妻はそんなようにされても、手を引くような女ではなく、
「あの際お助けしなかろうものなら、陣十郎が立ち戻り、正気を失っている貴郎様を、討ち取ったことでござりましょうよ。……恩にかけるではござりませぬが、かけてもよいはずの妾(わたし)の手柄、没義道(もぎどう)になされずにねえ主水様……」
「あなた様のお心持、よう解っては居りまするが、……そうしてお助け下されました、ご恩の程も身にしみじみと有難く存じては居りまするが……」
 そう、主水はお妻の云う通り、あの日陣十郎を追って行き、疲労困憊極まって、鎮守の森で気絶した時、お妻の助けを得なかったなら、後にて聞けば陣十郎が、森へ立ち戻って来たとはいうし、その陣十郎のために刃の錆とされ、今に命は無かったろう。だからお妻は命の恩人と、心から感謝はしているのであり、そのお妻が来る度毎に、それとなく、いやいや、時には露骨に、自分に対して恋慕の情を、暗示したり告げたり訴えたりした。でお妻が自分を助けた意味も、とうに解ってはいるのであった。
 さりとてそのため何でお妻と、不義であり不倫であり背徳である関係、それに入ることが出来ようぞ!
「主水様」とお妻は云った。
「あなた様にはまだこの妾(わたし)が陣十郎の寵女(おもいもの)、陣十郎の情婦(いろおんな)、それゆえ心許されぬと、お思い遊ばして居られますのね」
 下から顔を覗かせて、主水の顔色を窺った。
「いかにも」と主水は苦しそうに云った。
「それを思わずに居られましょうか。……討ち取らねばならぬ父の敵(かたき)! 陣十郎の寵女、お妻殿がそれだと知りましては、心許されぬはともかくも、何で貴女(あなた)様のお志に……」
「従うことなりませぬか」
「不倶戴天の[#「不倶戴天の」は底本では「不具戴天の」]敵の情婦に……」
「では何でおめおめ助けられました」
「助けられたは知らぬ間のこと……」
「では何で介抱されました……」
 答えることが出来なかった。思われるはただ機を失した! 機を失したということであった。
 助けられたその翌日、訊ねられるままにお妻に対し、主水は姓名から素性から、その日の出来事から敵討のことから、敵の名さえ打ち明けた。
 と、お妻は驚いたように、主水の顔を見詰めたが、やがて自分が陣十郎の情婦、お妻であることを打ち明けた。
 これを聞いた時の主水の驚き!
 同時に思ったことといえば、
(助けられなければよかったものを!)
 ――というそういうことであり、直ぐにも立ち退こうということであった。


(直ぐに立ち退いたらよかったものを)
 今も主水(もんど)はこう思っている。
 立ち退こうとその時云いはした。
 と、お妻が止めて云った。
「ここは高麗郡(こまごおり)の高萩村、博徒の縄張は猪之松という男、陣十郎の親分でござんす。十町とは歩けなさるまい、そのように弱っているお体で、うかうか外へ出ようものなら、手近に陣十郎は居りまするし、猪之松親分の乾兒(こぶん)も居り、貴郎(あなた)様にはすぐに露見、捕らえられて嬲り殺し! ……ご発足など出来ますものか」
 しかし主水としては敵の情婦に、介抱なんどされること、一分立たずと思われたので、無理にも立とうと云い張った。
 と、お妻は嘲笑うように云った。
「ここは『刃ノ郷(やいばのごう)』と申し、高萩村でも別趣の土地、秩父香具師の里でござんす。住民一致して居りまして、事ある時には竹法螺を吹く。と、人々出で合って、村の入口出口を固め、入る者を拒み出る人を遮る。妾(わたし)もこの郷の女香具師の一人、いいえ貴郎様は発足(た)たせませぬ! 無理にお発足ちと有仰(おっしゃ)るなら、竹法螺吹いて止めるでござんしょう」
 もう発足つことは出来なかった。
 こうして今日まで心ならずも、介抱を受けて来たのであって、無理に受けさせられた介抱ではあるが、敵の情婦と知りながら、介抱を受けたには相違なく、で、それを口にされては、返す言葉がないのであった。
(直ぐに立ち退けばよかったのだ! 機を失した! 機を失した!)
 このことばかりが口惜まれるのであった。
 二人はしばらく黙ったままで――主水は俯向いて膝を見詰め、お妻はそういう主水の横顔を、むさぼるように見守っていた。
「それにいたしましても何と云ってよいか、あなたにとりましてはこの主水。敵の片割ともいうべきを、そのようにお慕い下さるとは……」
 途切れ途切れの言葉つきで、やがて主水はそんなように云った。
「さよう、敵の片割でござる。あなたの愛人水品陣十郎を、敵と狙う拙者故……」
「悪縁なのでござりましょうよ」
 そうお妻も言葉を詰らせ、ともすると途切れそうな言葉つきで云った。
「因果な恋なのでござりましょうよ……あの日、あの時、鎮守の森で、死んだかのように可哀そうに、憐れなご様子で草を褥(しとね)に、倒れておいでなさいましたお姿、それを見ました時どうしたものか、妾はそれこそ産れてはじめての、――本当の恋なのでございましょうねえ……そういう思いにとらえられ……まあ恥かしい同じ仲間の、たくさんの郷の人達が、側にいたのに臆面もなく、あたしゃアこのお方をご介抱するよと、ここへお連れして参りましたが……因果の恋なのでござりましょうねえ。……それにもう一つには妾にとりまして、あの水品陣十郎という男、本当の恋しい男でなく、愛する男でもありませぬ故と……そうも思われるのでござります」


「お妻殿!」とやや鋭く、やや怒った言葉つきで、咎めるように主水は云った。
「いかに拙者に恋慕の情をお運びになるあなたとはいえ、現在の恋人をあからさまに、恋せぬなどと仰せらるるは……そういうお心持でござるなら、拙者に飽きた暁には、又他の情夫に同じように、拙者の悪口を仰せられましょう……頼み甲斐なき薄情! ……」
「いいえ、何の、主水様、それには訳が、たくさん訳が……」
 あわてて云ったもののそれ以上、お妻は云うことは出来なかった。
 自分が女賊で、女邯鄲師(おんなかんたんし)で、平塚の宿の一夜泊り、その明け方に同宿の武士、陣十郎の胴巻を探り、奪おうとして陣十郎のため、かえって取って押えられ、それを悪縁に爾来ずっと、情夫情婦の仲となり今日まで続いて居るなどとは、さすが悪女の彼女としても、口へ出すことが出来なくて、自分はこの郷の香具師の娘、陣十郎に誘惑され、情婦となって江戸や甲州を、連れ廻されたとそんなように、主水には話して置いたのであった。
 女邯鄲師としての悪事の手證を、押えられたための情夫情婦、それゆえ本当の恋ではないと、こう云い訳出来ぬ以上は、そう主水に咎められても、どう弁解しようもなく、お妻は口籠ってしまったのであった。
 が、お妻はニッと笑い、もっともらしくやがて云った。
「妾の前に陣十郎には、情婦(おんな)があったのでござります。江戸両国の女芸人、独楽廻しの源女という女、これが情婦でござりまして、諸所方々を連れ歩いたと、現在の情婦の妾の前で、手柄かのように物語るばかりか、貴郎(あなた)様のお許婚(いいなずけ)の澄江様にも……」
「澄江にも! うむ、陣十郎め!」
「横恋慕の手をのばし……」
「いかにも……悪虐! ……陣十郎……」
「あの夜澄江様を誘拐(かどわか)し、しかも妾という人間を、下谷の料亭常磐などに[#「常磐などに」は底本では「常盤などに」]待たせ……さて首尾よく澄江様を、連れ出すことが出来ましたら、妾を秋の扇と捨て、澄江様を妾の代わりに……」
「何の彼如き鬼畜の痴者に、妹を、妹を渡してなろうか?」
「そういう男でござります。そういう男の陣十郎を、何で妾ひとりだけが……先が先ならこっちもこっち……主水様! 今は貴郎様へ!」
「それにいたしても、妹澄江は……」
「お許婚の澄江様は……」
「上尾街道のあの修羅場で、馬方博徒数名の者に、担がれ行かれたと人の噂……」
「人の噂で聞きましたなア……さあそのお許婚の澄江様……澄江様のお噂さえ出れば、眼の色変えてお騒ぎになられる」
「妹であれば当然至極!」
「可愛い可愛いお許婚なりゃ、脳乱[#「脳乱」はママ]遊ばすもごもっとも? ホ、ホ、ホ、その澄江様、どうで担いだ人間が、馬方博徒のあぶれ者なら? ……」
 しかしその時表の庭の、方角にあたって云い争う、男の声が聞こえてきた。
「や、あの声は?」
「おおあの声は」
 二人ながら森(しん)と耳を澄ました。

 陣十郎は弁三を突きのけ、村道から境の生垣を越え、表の庭へ入って行った。
「云い古されたセリフだが、俺の遣る金鼻薬は、小判じゃアねえドスだ延金だアッハハ、驚いたか望みならば――ズバッと抜いて、先刻も云った口から腹まで、差し込んでやろうどうだ、どうだ?」
 なお止める弁三を突きまくり、陣十郎はグングン歩いた。


「ままにしやアがれ!」
 不意に弁三は、年は取っても秩父香具師――兇暴の香具師の本性を現わし、猛然と吼え競い立った。
「裏座敷にゃア誰もいねえ! とこう一旦云ったからにゃア、俺も秩父香具師の弁三だ、あくまでも居ねえで通して見せる! 汝(うぬ)は何だ、え汝は? 馬の骨か牛の骨か、どこの者とも素性の知れねえ、痩せ浪人の身分をもって『刃ノ郷』の俺らの仲間、お妻ッ娘と馴れ合ったのさえ、胸糞悪く思っているのにここら辺りを立ち廻り、博徒の用心棒、自慢にもならねえヤクザの身を、変にひけらかせて大口を叩き、先祖代々素性正しく、定住している俺達へ、主人かのように振る舞い居る! ナニ刀だ! 抜いて切るって! おお面白い切られよう、が手前が切る前に、こっちもこっちで手前の体へ」
 喚くと陣十郎へ背中を向け、庭を突っ切り縁へ駈け上り、座敷へ飛び込むと床の間にある、鳥銃を抱えて走り出で、縁に突っ立ち狙いを定めた。
「秩父の山にゃア熊や狼が、ソロソロ冬も近付いて来た、餌がねえと吼えながら、ウロウロ歩いているだろう。狙い撃ちにして撃ち殺し、熊なら胸を裂き肝を取り、皮を剥いで足に敷く、秩父香具師の役得だア。手練れた鉄砲にゃア狂いはねえ! 野郎来やがれ、切り込んで来い! 定九郎じゃアねえが二ツ弾、胸にくらって血へどを吐き、汝それ前にくたばるぞよ! 来やアがれ――ッ」とまくし立て、まくし立てながらも手に入った早業、いつか火縄に火を付けていた。
「待て待て爺(おやじ)」と周章狼狽、陣十郎は胆を冷し、生垣の際まで後退った。
「気が短いぞ、コレ待て待て! ……鉄砲か、ウーン、こいつ敵(かな)わぬ……」
 まさか撃つまい嚇しであろう、そうは思っても気味が悪く、見ればいやいや嚇しばかりでなく、こっちを睨んでいる弁三の眼に、憎悪と憤怒と敵愾心とが、火のように燃えていた。
 ゾッと感ずるものがあった。
(いつぞやお妻に聞いたことがあった、いつぞやお茶ノ水の森の中で、お妻に頼まれて殺生ながら、叩っ切って殺した弁太郎という男、秩父香具師の膏薬売、弁三という老人の、失った一人の倅であると! おおそうだったこの弁三が、殺した弁太郎の父親だった。……下手人が俺だということなど、まさかに知っては居るまいが、親子の血がさせる不思議の業、この世には数々ある、何となく弁三爺の心に、俺を憎しむ心持が、深く涌いていないものでもない。もしそうなら撃つぞ本当に!)
 ゾッと感ずるものがあった。
 そこでいよいよ後退りし、小門の方へ後ざまに辿り、
「解った、よし裏座敷には、誰もいない、犬さえ居ない! よし解った、そうともそうとも! ……誰がいるものか、居ない居ない! ……居れば! 居れば悪いが……それもよろしい、居ない居ない! ……そこで帰る、撃つな撃つな! ええ何だ鉄砲なんど……恐ろしいものか、ちと怖いが……馬鹿!」と一喝! がその時には、既に村道へ遁れ出ていた。

生贄の女


 同じその日のことである。――
 高萩村の博徒の親分、猪之松の家は賑わっていた。
 馬大尽事井上嘉門様を、ご招待して大盤振舞いをする――というので賑わっているのであった。
 博徒とはいっても大親分、猪之松の家は堂々たるもので、先はお屋敷と云ってよく、土蔵二棟に離座敷、裏庭などは数奇(すき)を凝らした一流の料亭のそれのようであり、屋敷の周囲には土塀さえ巡らし、所の名主甚兵衛様より、屋敷は立派だと云われていた。内緒も裕福で有名であったが、これは金方が附いているからで、その金方が井上嘉門様だと、多くの人々は噂して居、噂は単なる噂ばかりでなく、事実それに相違なかった。
 猪之松という人間が、博徒のようになく人品高尚で、態度も上品で悠然としてい、お殿様めいたところがあり――だからどこか物々しく、厭味の所はあったけれど、起居動作はおちついている、行儀作法も法に叶っている、貴人の前へ出したところで、見劣りがしないところから、自然上流との交際が出来、そこで井上嘉門などという、大金持の大旦那に、愛顧され贔屓にされるのであった。
 金方の井上嘉門様を、ご招待するというのであるから、その物々しさも一通りでなく、上尾宿からは茶屋女の、気の利いたところを幾人か呼び、酒肴給仕に従わせ、村からも渋皮の剥けた娘――村嬢(そんじょう)の美(よ)いところを幾人か連れて来、酒宴の席へ侍らせたり、これも上尾の宿から呼んだ、常磐津(ときわず)の[#「常磐津(ときわず)の」は底本では「常盤津(ときわず)の」]女師匠や、折から同じ宿にかかっていた、江戸の芝居の役者の中、綺麗な女形の色若衆を、無理に頼んで三人ほど来させ、舞など舞わせる寸法にしてあった。
 田舎の料理は食われない――と云ったところで上尾も田舎、とは云え勿論高萩村より、いくらか都会というところから、料理は上尾からことごとく取った。
 兄弟分はいうまでもなく、主立った乾児幾十人となく、入れ代わり立ち代わり伺候して[#「伺候して」は底本では「仕候して」]、嘉門様からお流れ頂戴、お盃をいただいたりした。
 嘉門は午後(ひる)からやって来て、今は夜、夜になっても、仲々去らず、去らせようともせず、奥の座敷の酒宴の席は、涌き立つように賑わってい、高張を二張り門に立てて、砂を敷き盛砂さえした、玄関――さよう猪之松の家は、格子づくりというような、町家づくりのそれでなく、大門構え玄関附、そういった武家風の屋敷であったが、その玄関を夜になった今も、間断なく客が出入りして、ここも随分賑かであり、裏へ廻ると料理場、お勝手、ここは一層の賑かさで、その上素晴らしい好景気で、四斗樽が二つも抜いてあり、酒好きの手合いは遠慮会釈なく、冷をあおっては大口を叩き、立働きの女衆へ、洒落冗談を並べていた。
 陽気で派手でお祭り気分で、ワーッといったような雰囲気であった。
 その勝手元へ姿を現わしたのは、浮かない顔をした陣十郎であった。
「これはいらっしゃい水品先生、こんなに遅くどうしたんですい?」
 こう云って声をかけたのは、猪之松にとっては一の乾分――上尾街道で浪之助などに追われ、逃げ廻る弱者の峯吉ではなく――角力上り閂(かんぬき)峰吉であった。
「遅いか早いかそんなことは知らぬ。陽気だな、これは結構」どこかで飲んで来たらしく、陣十郎は酔っていたが、凄い据わった血走った眼で、ジロジロ四辺(あたり)を見廻わしながら、上ろうともせず随分邪魔な、上框(あがりかまち)へデンと腰かけ、片足を膝の上へヒョイとのっけ、楊子で前歯をせせり出した。


(ご機嫌が悪いぞ、あぶないあぶない)
 酒癖の悪いのを承知の一同、あぶないあぶないと警戒するように、互いに顔を見合わせたが、こんな時にはご自慢の情婦(おんな)――お妻を褒めるに越したことはないと、唐子の音吉というお先ッ走りの乾児が、
「姐御、どっこい、奥様だったっけ、奥様お見えになりませんが、一体全体どうしたんで、こんな時にこそご出張を願って、あの綺麗で粋なご様子で、お座敷の方を手伝っていただき、愛嬌を振り蒔いていただけば、嘉門様だって大喜び、親分だって大恭悦、ということになるんですがねえ。それが昼から夜にかけて、一度もお見えにならねえなんて……一体全体奥様は……」
「奥様? ふん、誰のことだ!」
 ギラリと陣十郎は音吉を睨み、
「奥様、ふふん、どいつのことだ!」
「どいつッて、そりゃ、お妻さんのこと……」
「枕探し! ……あいつのことか!」
「え? 何ですって、こいつアひでえや」
 ヒヤリとして音吉は首を縮めた。
 勿論音吉をはじめとして、乾児一同お妻のことを、どうせ只者じゃアありゃアしない。枕探し、女邯鄲師(かんたんし)、そんなようには薄々のところ、実は推していたようなものの、亭主――情夫――陣十郎の口から、今のようにあからさまに云われては、ヒヤリとせざるを得なかった。
「何を云うんですい、水品先生」
「何とは何だ、これ何とは! ……枕探しだから枕探し、こう云ったに何が悪い。いずれは亭主の寝首を掻く奴! ……そんな女でも奥様か!」
「ワ――ッ、不可(いけ)ねえ、何を仰有るんで、……奥様で悪かったら奥方様……」
「出ろ! 貴様! 前へ出ろ!」
 勝手元一杯に漲っていた、明るい燈火(ひ)がカッと一瞬間、一所へ集まり閃めいた。
 見れば陣十郎の右の手に、抜かれた白刃が持たれていた。
 バタバタと女達は奥の方へ逃げた。
「アッハハハ」と陣十郎は、不意に気味悪く笑い出した。
「ある時には関の孫六、ある時には三条小鍛冶、ある時には波の平! 時と場合でこの刀、素晴らしい銘をつけられるが、ナーニ本性は越前直安(ただやす)、二流どころの刀なのさ。……が、切れるぞ、俺が切れば! ……千里の駒も乗手がヤクザで、手綱さばきが悪かろうものなら、駄馬ほどにも役立たぬ。……名刀であろうとナマクラが持てば、刀までがナマクラになる。……それに反して名人が持てば、切れるぞ切れるぞ――ズンと切れる! ……嘘と思わば切って見せる! ……どいつでもいい前へ出ろ!」
 云い云い四方を睨み廻した。
 山毛戸(やまかいど)の源太郎、中新田の源七、玉川の権太郎、閂峰吉、錚々(そうそう)たる猪之松の乾児達が、首を揃えて集まってはいたが、狂人(きちがい)に刃物のそれよりも悪く、酒乱の陣十郎に抜身を持たれ、振り廻されようとしているのであった。首を縮め帆立尻(ほたてじり)をし、ジリジリと[#「ジリジリと」は底本では「ヂリヂリと」]後へ退(さが)りながら、息を呑み眼を見張り、素破(すわ)と云わば飛んで逃げようと、用心をして構えていた。


「アッハハハ」
 と陣十郎は、また気味の悪い笑声を立てた。
「切る奴は他にある、汝(おのれ)らは切らぬ、安心せい……鴫澤主水(しぎさわもんど)を探し出し、ただ一刀に返り討ち! 婦(おんな)、お妻を引きずり出し、主水ともども二太刀で為止(しと)める。……久しく血を吸わぬ越前直安、間もなく存分に血を吸わせてやるぞ!」
 燈火(ともしび)に反射してテラテラ光る、ネットリとした刀身を、じっと睨んで呟くように云ったが、
「汝ら解るか男の心が? 己を殺そうとして付け廻している、敵(かたき)を持っている男の心が」
 乾児達の方を振り返った。
「へい」と云ったのは閂峰吉で、
「さぞまア気味の悪いことで、いやアなものでございましょうなあ」
「討たれまいとして逃げ廻る。いやなものだぞ、いやなものだぞ」
「いやアなものでござりましょうなあ」
「が、一面快い」
「…………」
「討て、小童(こわっぱ)、探し出して討て! が俺は逃げて逃げて、決して汝には討たれてやらぬ。……こう決心して逃げ廻る心、快いぞ快いぞ」
「そんなものでございますかなあ」
「とはいえ厭アな気持のものだ。討つ方の心は一所懸命、命を捨ててかかっている。討たれる方は討たれまいとして、命を惜しんで逃げ廻る。心組みが全く別だ。討つ方には用心はいらぬ。討とう討とうと一向だ。討たれる方は用心ばかりだ。……用心をしても用心をしてもいずれは人間油断も隙もあろう、そこを狙われて討たれるかもしれぬ! この恐怖心、厭アなものだぞ」
「へい、さようでございましょうなあ」
 突然立ち上ると陣十郎は、刀をグ――ッと中段につけ、両肘を縮め肩を低めたが、
「今迄の俺がそうだった! 討たれる者、逃げ廻る者、今迄の俺はそうだった! 剣法で云えばこの構えだ! ……が俺は一変した!」
 こう沈痛に声を絞ると、俄然刀を大上段に冠った。
「大上段、積極的の構え! 俺は今日からこっちで向かう! 俺の方から敵を探し、返り討ちにかけてやる! それにしても汝ら卑屈だぞ! 俺が鴫澤主水という敵に、付け廻されているということを、心の中では知っていながら、おくびにも出そうとしないではないか! そうであろうがな! そうであろうがな!」
 刀を大上段に振り冠ったまま、陣十郎は憎さげに叫んだ。
 乾児達は顔を見合わせた。
 それに相違ないからであった。
 過ぐる日上尾の街道で、赤尾の林蔵にいどまれて、こっちの親分が引きもならず、真剣勝負をした際に、鴫澤主水とその妹の、澄江とかいう娘とが、親の敵を討つと宣(なの)って、水品陣十郎を襲ったが、討ちもせず、討たれもせず、主水という武士は行方不明、澄江という娘は博労達に、どこかへ担がれて行ってしまったと、その時こっちの親分に従(つ)いて、その修羅場にいた八五郎の口から、乾児達は詳しく話されて、そういう事情は知っていた。そればかりでなくその日以来、それ迄はほとんど毎日のように、ここの家へやって来て、乾分達へ剣術を教えたり、ゴロゴロしていた陣十郎が、姿をあまり見せなくなり、なお噂による時は、これ迄ずっと住んでいた家――この村の外れにあるお妻の実家へも、住まないばかりか余り立ち寄らず、ひたすら主水兄妹によって、探し出されることを恐れていると、そういうことも聞き知っていた。


 そうして知って居りながら、知って居るとも知らないとも、事実おくびにも出さなかった。というのは事が事であるからで、それにそういう次第なら、あっし達が味方をいたしますから、主水兄妹を探し出し、返り討ちにしておしまいなせえと、こんなことを云うには陣十郎の剣技が、余りにも勝れて居る、といって主水兄妹に、器用に討たれておやりなせえとは、なおさら云えた義理でなく、それで黙っていたのであった。
 で、乾児達は顔を見合わせた。
 と不意に陣十郎は、振り冠っていた燈(ひ)に光る刀を、ダラリと力なく下げたかと思うと、にわかに疑わしそうに寂しそうに、むしろ恐怖に堪えられないかのように、ウロウロとした眼付をして、勝手元に、乾児達の中に、主水が居りはしないだろうかと、それを疑ってでもいるかのように、一人々々の顔を見たが、
「疑心! こいつが不可(いけ)ないのだ! こいつから起こるのだ、弱気がよ! ……と、守勢、こいつになる!」再び中段に刀を構えた。「こいつが守勢、守勢になると、かえって命は守られぬ。……それよりも、守勢の弱気になると、ヒッヒッヒッ、情婦(おんな)にさえ、嘗められ裏切られてしまうのさ! ……そこでこいつだ積極的攻勢!」また上段に振り冠った。
「攻勢をとってやっとこさ、身が守られるというものだ! ……酒だ! くれ! 冷で一杯!」
 ソロリと刀を鞘に納め、片手をヌッと差し出したが、ヒョイとその手を引っこませると、フラリとばかりに框(かまち)を上った。
「飲むならいっそ奥で飲もう。馬大尽様の御前でよ。陽気で明るい座敷でよ。親分にもしばらくご無沙汰した。お目にかかって申訳……退け、邪魔だ!」
 ヒョロリヒョロリと、乾分達の間を分け、奥の方へ歩いて行った。
 後を見送って乾児達は、しばらくの間は黙っていた。
 と不意に閂峰吉が、
「八五郎の奴どうしたかなあ」と、あらぬ方へ話を持って行った。
 陣十郎の影口をうっかり利いて、立聞きでもされたら一大事、又抜身を振り廻されるかもしれない。障(さ)わるな障わるなという心持から、話をあらぬ方へ反らせたのであった。
 一同(みんな)はホッと息を吐いた。
「先刻(さっき)ヒョッコリ面を出して、馬大尽様にもうちの親分にも、お気に入るような素晴らしい、献上物を持って来るんだと、大変もねえ自慢を云って、はしゃいで素っ飛んで行きゃアがったが、それっきりいまだ面ア出さねえ。何を持って来るつもりかしら」
 こう云ったのは源七であった。
「上尾街道の一件以来、あいつ親分に不首尾だものだから、気を腐らせて生地なかったが、そいつを挽回しようてんで、何か彼かたくらんではいるらしい」
 こう云ったのは権太郎であった。
「あいつが一番の兄貴だったんだから、たとえ親分が何と云おうと――手出しするなと云ったところで、そんなことには頓着なく、林蔵の野郎を背後の方から、バッサリ一太刀あびせかけ、あの時息の音止めてしまったら、とんだ手柄になったものを、主水とかいう侍の妹とかいう女を、馬方なんかと一緒になって、どこかへ担いで行ったということだが、頓馬の遣口ってありゃアしねえ」
 苦々しく閂峰吉が云った。
 がその時玄関の方で、五六人の声で景気よく、
「献上々々、献上でえ!」と囃し喚く声が聞こえてきたので、一同(みんな)は黙って聞耳を立てた。
 この囃し声を耳にしたのは、お勝手元の乾児ばかりでなく、奥の座敷で酒宴をしている、馬大尽歓迎の人々もひとしく耳を引っ立てた。


 五十畳敷の広さを持った座敷に、無数の燭台が燈し連らねてあり、隅々に立ててある金屏風に、その燈火(ひ)が映り栄えて輝いている様は、きらびやかで美しく、そういう座敷の正面に、嵯峨野を描いた極彩色の、土佐の双幅のかけてある床の間、それを背にして年は六十、半白の髪を切下げにし、肩の辺りで渦巻かせた、巨大な人間が坐っていたが、馬大尽事井上嘉門であった。日焼けて赧い顔色が、酒のために色を増し、熟柿(じゅくし)を想わせる迄になって居り、そういう顔にある道具といえば、ペロリと下った太い眉、これもペロリと下ってはいるが、そうしてドロンと濁ってはいるが、油断なく四方へ視線を配る、二重眼瞼の大きい眼、太くて偏平で段のある鼻、厚くて大きくて紫色をしていて、閉ざしても左の犬歯だけを、覗かせている髭なしの唇に、ぼったりと二重にくくれている顎、その顎にまでも届きそうな、厚い大きな下った耳であった。身長(せい)も人並より勝れていたが、肥満の方は一層で、二十四五貫もありそうであり、黒羽二重の紋付に、仙台平の袴をつけ、風采は尋常で平凡であったが腹の辺りが太鼓のように膨れ、ムッと前方に差し出されているので、格好がつかず奇形に見えた。曲□(きょくろく)に片肘を突いて居り、その手の腕から指にかけて、熊のように毛が生えていた。
 蝦蟇のようだと形容してもよく、絵に描かれている酒顛童子、あれに似ていると云ってもよかった。
 嘉門の左右に居流れているのは、招待(よ)ばれて来た猪之松の兄弟分の、領家の酒造造(みきぞう)、松岸の権右衛門、白須の小十郎、秩父の七九郎等々十数人の貸元で、それらと向かい合って亭主役の、高萩の猪之松が端座したまま、何くれとなく指図をし、その背後に主だった身内が、五六人がところかしこまってい、それに雑って水品陣十郎が、今は神妙に控えていた。
 常磐津の[#「常磐津の」は底本では「常盤津の」]師匠の三味線も済み、若衆役者の踊も済み、馳走も食い飽き酒も飲み飽き、一座駘然、陶然とした中を、なお酒を強いるべく、接待(とりもち)の村嬢や酌婦(おんな)などが、銚子を持って右往左往し、拒絶(ことわ)る声、進める声、からかう声、笑う声、景気よさは何時(いつ)までも続いた。
 どうで今夜は飲み明かし、嘉門様はお泊まりということであった。
「納めの馬市も十日先、眼の前に迫って参りました、いずれその時は木曽の福島で、又皆様にお眼にかかれますが、何しろ福島は山の中、碌なご馳走も出来ませず、まして女と参りましては、木曽美人などと云いますものの、猪首で脛太で肌は荒し、いやはやものでございまして、とてもとてもここに居られる別嬪衆に比べましては、月に鼈(すっぽん)でございますよ。が、そいつは我慢をしていただき、その際には私が亭主役、飲んで飲んで飲みまくりましょう。いや全く今夜という今夜は、一方ならぬお接待(とりもち)、何とお礼申してよいやら、嘉門大満足の大恭悦、猪之松殿ほんに嬉しいことで」
 猪之松は片頬で微笑したが、
「いや関東の女こそ、肌も荒ければ気性も荒く、申して見ますれば癖の多い刎馬――そこへ行きますと木曽美人、これは昔から有名で、巴御前、山吹御前、ああいう美姫(びき)も出て居ります。納めの馬市に参りました際には、嘉門様胆入りでそういう美人の、お接待に是非とも預かりたいもので。……」
 ここで猪之松は微笑した。


 微笑をつづけながら猪之松は、
「そこで今夜は私が胆入り、ここに居りますどの女子でも、お気に入りの者ござりましたら、アッハハハ、取り持ちましょう」
「アッハハ、それはそれは、重ね重ねのご好意で、そういうお許しのある以上、嘉門今夜は若返りまして、……」
 すると、その時聞こえてきたのが「献上々々、献上でえ!」という、玄関の方からの声であった。
(何だろう?)
 と猪之松をはじめとし、座にいる一同怪訝そうに、玄関の方へ首を捻じ向けた時、八五郎を先頭に四人の博労が――、それは以前(まえかた)馬大尽事、井上嘉門を迎えに出た、高萩村の博労達であったが、その連中が縦六尺、横三尺もあるらしい、長方形の白木の箱に、献上と大きく書き、熨斗まで附けた物を肩に担ぎ、大変な景気で入って来た。
「八五郎じゃアないか、この馬鹿者、嘉門様おいでが眼につかぬか! 何だ何だその変な箱は!」
 猪之松は驚いて叱るように怒鳴った。
 八五郎はそれには眼もくれず、博労を指揮してその大箱を、猪之松と嘉門との間に置いたが、自分もその傍らへピタリと坐ると、
「ええこれは木曽の馬大尽様事、井上嘉門様に申し上げます。私事は八五郎と申し、猪之松身内にござります。ふつつか者ではござりまするが、なにとぞお見知り置き下さりましょう。……さて今回嘉門様には、木曽よりわざわざの武州入り高萩村へお越し下され、我々如き者をもご引見、光栄至極に存じます。そこであっしも何かお土産(みやげ)をと、いろいろ考案仕(つかまつ)りましたが、何せ草深いこのような田舎、これと申して珍しい物も、粋な物もござりませぬ。それに食い物や食べ物じゃア、いよいよもって珍しくねえと、とつおいつ思案を致しました結果、噂によりますると安永(あんえい)年間、田沼主殿頭(たぬまとのものかみ)様の御代の頃、大変流行いたしまして、いまだに江戸じゃア流行(はや)っているそうな、献上箱の故智に慣い、八五郎細工の献上箱、持参いたしてござります。なにとぞご受納下さりませ。……ええ所で親分え、貴郎(あなた)だってこいつの蓋を取り、中の代物をご覧になったら、八五郎貴様素晴らしいことをやった、手柄々々と横手を拍って、褒めて下さるに違えねえと、こうあっしは思うんで……と、能書はこのくらいにしておき、いよいよ開帳はじまりはじまり……さあさあお前達手伝ってくれ」と、その時まで喋舌(しゃべ)る八五郎の背後(うしろ)に、窮屈そうに膝ッ小僧を揃え、かしこまっていた博労達を見返り、ヒョイとばかりに立ち上った。
「開帳々々」とこれも景気よく、四人の博労達も立ち上ったが、水引の形に作ってあった縄を、先ず箱から解きほぐした。
「ようござんすか、蓋取りますでござんす。ヨイショ!」と八五郎は声をかけた。
「ヨイショ」と博労達はそれに応じた。
 と、パッと蓋が取られた。


 京人形が入れてあった。
 髪は文庫、衣裳は振袖、等身大の若い女の、生けるような人形が入れてあった。
 と、眼瞼を痙攣させ、その人形は眼をあけて、天井をじいいっと見上げたが、又しずかに眼をとじた。
 人形ではなく生ける人間で、しかもそれは澄江(すみえ)であった。
 富士額、地蔵眉、墨を塗ったのではあるまいかと、疑われるほどに濃い睫毛で、下眼瞼を色づけたまま、閉ざされている切長の眼、延々とした高い鼻、蒼褪め窶れてはいたけれど、なお処女としての美しさを持った、そういう顔が猿轡で、口を蔽われているのであった。
 明るい華やかな燭台の燈が、四方から箱の中のそういう顔を照らして浮き出させているだけに、美しさは無類であった。
 一座何となく鬼気に襲われ、誰も物云わず顔を見合せ、しばらくの間は寂然としていた。
 がさつ者の八五郎は喋舌り立てた。
「いつぞやの日に上尾街道で、親分と赤尾の林蔵とが、真剣の果し合いなさんとした時、水品先生に対し――いやアこれは水品先生、そこにお居でなさんしたか、こいつア幸い可(い)い証人だ――その水品先生に対し、親の敵(かたき)とか何とか云って、若エ武士とこの娘とが、切ってかかったはずでごぜえます。その時あっしとここに居なさる、博労衆とが隙を狙い、この娘だけを引っ担ぎ、あっしの家へ連れて来たんで。さてどうしようか考えましたが、見りゃアどうしてこの娘っ子、江戸者だけに素晴らしく、美しくもありゃア品もあって……そこで考えたんでごぜえますよ、嘉門様へご献上申し上げようとね……」
 身を乗り出し首を差し出し、箱の中の女を覗き込んでいた嘉門は、この時象のような眼を細め、厚い唇をパックリ開け、大きい黄色い歯の間から、満足と喜悦の笑声を洩らした。
「フ、フ、フ、八五郎どんとやら、嘉門満足大満足でござんす……フ、フ、フ、大満足! こりゃア全く、とても素晴らしい、何より結構な贈品(おくりもの)、嘉門大喜びで受けますでござんす。……」


 夜はすっかり更けていた。
 裏庭に別棟に建てられてある、猪之松の屋敷の離座敷、植込にこんもり囲まれて、黒くひっそりと立っていた。屋根の瓦が水のように、薄白く淡く光っているのは、空に遅い月があるからであった。
 その建物を巡りながら、幾人かの人影が動いていた。
 寝所へ入った馬大尽嘉門に、もしものことがあったら大変――というので猪之松の乾児達が、それとなく警護しているのであった。
 池では家鴨(あひる)が時々羽搏き、植込の葉影で寝とぼけた夜鳥が、びっくりしたように時々啼いた。
 が、静かでしんとしていた。
 主屋でも客はおおよそ帰り、居残った人々も酔仆れたまま、眠ったかして静かであった。
 離座敷の内部(うち)の一室(ひとま)。――そこには屏風が立て廻してあった。
 一基の燭台が置いてあり、燈心を引いて細めた燈火(ひかり)が、部屋を朦朧と照らしていた。
 屏風の内側には箱から出された生贄の女澄江の姿が、掛布団を抜いて首から上ばかりを、その燈火の光に照し出していた。
 そうしてそれの傍には、嘉門が坐っているのであった。
 澄江の心はどうであろう?
 義兄(あに)であり恋人であり許婚(いいなずけ)である、主水とゆくゆくは婚礼し、身も心も捧げなければならぬ身! それまでは穢さず清浄に、保たねばならぬ処女の体! それを山国の木曽あたりの、大尽とはいえ馬飼の長、嘉門如きに、嘉門如きに!
 処女を失ってはもう最後、主水と顔は合わされない。永久夫婦になどなれないであろう。
 復讐という快挙なども、その瞬間に飛んで消えよう。
 澄江の気持はどんなであろう?
 時が刻々に経ってゆく。
 と、不意に屏風の上から、白刃がヌッと差し出された。
 嘉門はギョッとはしたものの、大胆に眼を上げて上を見た。
 屏風の上に覆面をした顔が、じっとこちらを睨んで居た。
「曲者!」
 ガラガラ!
 屏風が仆された。


 枕刀の置いてある、床の間の方へ走って行く嘉門の姿へは眼もくれず、着流しの衣裳の裾をからげ、脛をあらわし襷がけして、腕をまくり上げた覆面武士は、やにわに澄江を小脇に抱えた。
「曲者でござるぞ、お身内衆! 出合え!」と喚き切り込んだ嘉門!
 その刀を無造作に叩き落とし、
「うふ」
 どうやら笑ったらしかったが、
 ビシリ!
 もう一揮! 振った白刃!
「ワッ」
 へたばったは峯打ちながら、凄い手並の覆面に、急所の頸を打たれたからで、嘉門はのめって這い廻った。
 それを見捨てて襖蹴開き、既に隣室へ躍り出で、隣室も抜けて雨戸引っ外し、庭へ飛び下りた覆面を目掛け、
「野郎!」
「怪しい!」
 と左右から、猪之松の乾児で警護の二人が、切りつけて来た長脇差を、征矢(そや)だ! 駈け抜け、振り返り、追い縋ったところを、
 グーッ!
 突だ!
「ギャーッ」
 獣だ! 殺される獣! それかのように悲鳴して仆れ、それに胆を消して逃げかけた奴の、もう一人を肩から大袈裟がけ!
「ギャーッ」
 こいつも獣となってくたばり、夜で血煙見えなかったが、プ――ッと立った腥(なまぐさ)い匂い! が、もうこの時には覆面武士は、植込の中に駈け込んでい、その植込にも警護の乾児、五人がところ塊ってい、
「泥棒!」
「遁すな!」
 と、竹槍、長ドス!
 しかし見る間に槍も刀も、叩き落とされ刎ね落とされ、つづいて悲鳴、仆れる音! そこを突破して覆面武士が、土塀の方へ走るのが見られ、土塀の裾へ行きついた時、そこにも警護の乾児達がいる。ムラムラと四方から襲いかかったばかりか、これらの物音や叫声に、主屋の人々も気づいたかして、雨戸を開け五人十人、二十人となく駈け出し走り出し、提燈、松明を振り照らし、その火の光に獲物々々を、――槍、鉄砲、半弓までひっさげ、しごき、振り廻し狙っている、――そういう姿をさえ照らしていた。
 しかしこの頃覆面武士は、とうに土塀を乗り越えて、高萩村を野良の方へ外れ、淡い月光を肩に受け、野を巻いている霧を分け、足にまつわる露草を蹴り、小脇に澄江をいとしそうに抱え、刀も既に鞘に納め、ただひたすらに走っていた。
 その武士は水品陣十郎であった。

 それから十日ほど日が経った。
 陣十郎と澄江との二人が、旅姿に身をよそおい、外見からすれば仲のよい夫婦、それでなかったら仲のよい兄妹、それかのような様子をして、木曽街道を辿っていた。
 初秋の木曽街道の美しさ、萩が乱れ咲き柿の実が色づき、渡鳥が群れ来て飛びつれて啼き、晴れた碧空を千切れた雲が、折々日を掠めて漂う影が、在郷馬や駕籠かきによって、軽い塵埃を揚げられる街道へ、時々陰影(かげ)を落としたりした。
「澄江殿、お疲労(つかれ)かな?」
 優しい声でいたわるように、こう陣十郎は声をかけた。
「いいえ」と澄江は編笠の中から、これも優しい声で答えた。

心々の旅の人々


「お疲労でござらば駕籠雇いましょう」
 陣十郎も編笠の中から、念を押すようにもう一度云った。いかにも優しい声であった。
「何の遠慮などいたしましょう、疲労ましたら妾の方から、駕籠なと馬なとお雇い下されと、押してお頼みいたします……どうやらそう仰言(おっしゃ)る貴郎様こそ、お疲労のご様子でございますのね。ご遠慮なく馬になと駕籠になと、ホ、ホ、ホ、お召しなさりませ」
 からかうように澄江は云った。
「ア、ハ、ハ、とんでもない話で、拙者と来ては十里二十里、韋駄天のように走りましたところでビクともする足ではござりませぬ。……貴女は女無理して歩いて、さて旅籠(はたご)へ着いてから、ソレ按摩じゃ、ヤレ灸(やいと)じゃと、泣顔をして騒がれても、拙者決して取り合いませぬぞ」
「貴郎様こそ旅籠に着かれてから、くるぶしが痛めるの肩が凝るのと、苦情めいたこと仰せられましても、妾取り合わぬでござりましょうよ。ホ、ホ、ホ」と朗かに笑った。
 陣十郎も朗かに笑った。
 これは何たることであろう! 敵同志であるこの二人が、こう親しくこう朗かで、浮々と旅をつづけて行くとは?
 それには深い事情があった。
 澄江はあの夜猪之松の屋敷で、すんでに井上嘉門によって、操を穢されるところであった。それを陣十郎が身を挺し、養われかくまわれた恩をも不顧(かえりみず)、猪之松の乾児(こぶん)を幾人となく切り捨て、自分を助けて遠く走り、農家に隠匿(かくま)い今日まで、安穏に生活(くらし)をさせてくれた。その間一度も陣十郎は、自分に対していやらしい言葉や、いやらしい所業(しわざ)に及ばなかった。勿論陣十郎は義父(ちち)の敵(かたき)、討って取らねばならぬ男、とはいえ義父を討ったのも、その一半は自分に対し、恋慕したのを自分が退け、義父や主水が退けたことに、原因があることではあり、性来悪人ではあろうけれど、従来一度も自分に対しては、悪事を働いたことはなかった。その上今は女の生命の、操を保護してくれた人――とあって見ればこの身の操は、云うまでもなく許婚(いいなずけ)の、主水一人に捧げる外、誰にも他の男へは、捧げてはならず自分としても、断じて捧げぬ決心であり、このことばかりは陣十郎にも、ハッキリ言動で示しはしたが、それ以外には陣十郎に対して、優しく忠実にまめまめしく、尽くさねばならぬ境遇となり、義父(ちち)上の敵を討つことは、武士道の義理には相違ないが、生命――操の恩人には、人情としてそれと等なみに、尽くさなければならぬ義理があるはず、そこで澄江はそれ以来、今のような行為を執っているのであり、主水様と陣十郎殿とが巡り合い、敵討の太刀が交わされても、どうも妾には陣十郎殿に対し敵対することも出来そうもないと、心では思ってさえいるのであった。
 陣十郎の心持といえば
「この清浄無垢の白珠を、俺は誰にも穢させない!」
 この一点にとどまっていた。
 鴫澤(しぎさわ)庄右衛門を殺したのも、一つは澄江への恋心を、遮られたがためであった。敵持つ身となった原因、それが澄江であるほどの、澄江は陣十郎の恋女であった。だからその澄江を馬飼の長、嘉門如きが穢そうとする、何のむざむざ黙視出来ようぞ! そこで奪って逃げたのであり、遁れて知己(しりあい)の農家に隠匿い、今日まで二人で生活(くらし)て来る間、彼は今更に澄江という女が、女らしい優しい性質の中に、毅然として動かぬ女丈夫の気節を、堅く蔵していることを知り、愛慕の情を加えると同時に、尊敬をさえ持つようになり、暴力をもって自己の欲望などを、どうして遂げることが出来ようぞと、そう思うようになりさえした。


(澄江にとっては俺という人間、何と云っても義父の敵だ、それについてどう思っているだろう?)
 これが一番陣十郎にとっては、関心の事であらねばならず、で、絶えず心を配り、澄江の心を知ろうとした。
 と、澄江はその一事へは、決して触れようとはしなかった。
 陣十郎も触れなかった。
 さよう、互いにその一事へは、決して触れようとはしなかったが、陣十郎は自分の油断に澄江が早晩つけ込んで、寝首を掻くというような、卑劣な態度に出るということなど、澄江その人の性質から、有り得べからざることであると知り、それだけは安心することが出来、同時に澄江が義父の敵の自分に助けられたということから、義理と人情の板ばさみとなり、苦しい心的境遇に在る、そういうことを思いやり、憐愍同情の心持に、とらわれざるを得なかった。
(主水に対して澄江の心は?)
 これも実に陣十郎にとっては、重大な関心の一事であった。
(勿論澄江は心に深く、主水を恋していることだろう!)
 こう思うと陣十郎はムラムラと、嫉妬の思いに狩り立てられ、
(澄江が俺の意に従わぬのも、主水があるからだ!)と、主水に対する憎悪の念が、彼をほとんど狂気状態にまで、導き亢(たかぶら)せ追いやるのであった。
 時々彼は澄江に向かい、主水のことを云い出して見た。
 と澄江はきっとそのつど、あらぬ方へ話を反らせてしまって、何とも返辞をしなかった。
 それが陣十郎には物足らず、心をイライラさせはしたが、しかしまだまだその方がよくて、もしもハッキリ澄江の口から、ないしは起居や動作から、主水恋しと告げられたら、その瞬間に陣十郎の兇暴性が爆発し、乱暴狼藉するかもしれなかった。
 どっちみち陣十郎はこう思っていた。
(自己一身の生命の、永久の安全を計るためにも、主水は是非とも討って取らねばならぬ)
 こっちから主水を探し出して、討って取ろうと少し前から、心に定(き)めた陣十郎が、今や一層にその心を深く強く定めたのであった。
 その主水はどこにいるか?
 それは全く解らなかった。
 が、気がついたことがあった。
 間もなく行なわれる木曽の馬市、納めの馬市へは武州甲州の、博徒がこぞって行くはずである。高萩の猪之松も行くはずである。ところで主水は俺という人間が、その猪之松の賭場防ぎとして、食客となっているということを、知っているということであるから、猪之松が福島へ行く以上、俺も行くものとそう睨んで、俺を討つため福島さして、主水も行くに相違ない。ヨ――シそいつを利用して、俺も出て行き機を狙い、彼を返り討ちにしてやろう。
 で、ある日澄江へ云った。
「猪之松乾児の幾人かが、拙者と其方(そなた)とがこの農家に、ひそみ居ること知りましたと見え、この頃あたりを立ち廻ります。他所(よそ)へ参ろうではござりませぬか」


 こうして旅へ出た二人であった。
 旅へ出てはじめて木曽へ行くのだと、澄江は陣十郎によって明かされた。とはいえ鴫澤主水を討つべく、木曽へ行くのだとは明かされなかった。
「木曽へであろうと伊那へであろうと、妾(わたし)はどこへでも参ります」
 そう澄江はおだやかに応えた。
 成るようにしか成りはしない。神のまにまに、流るるままに。……そう澄江は思っているからであった。
 又、そう思ってそうするより他に、仕方のない彼女でもあるのであった。
(しかし澄江がこの俺が、主水を討つために木曽へ行くのだと、そう知ったら安穏では居るまいなあ)
 陣十郎はそう思い、そうとは明かさずただ漫然と、木曽への旅に澄江を引き出した。自分の邪の心持が、自分ながら厭になることがあり、
(俺は悪人だ悪人だ!)と、自己嫌忌の感情から、口の中で罵ることさえあった。
 それに反して澄江に対しては、そうとは知らずに云われるままに、義兄であり、恋人であり許婚である主水を、返り討ちにする残虐な旅へ、引き出されたことを惻々と、不愍に思わざるを得なかった。
 複雑極まる二人の旅心!
 しかし表面は二人ながら、朗かに笑い朗かに語り、宿りを重ねて行くのであった。
 さて、追分の宿へ着いた。
 四時煙を噴く浅間山の、山脈の裾に横たわっている宿場、参覲交代の大名衆が――北陸、西国、九州方の諸侯が、必ず通ることに定まっている宿、その追分は繁華な土地で、旅籠(はたご)には油屋角屋などという、なかば遊女屋を兼ねたような、堂々としたものがあり、名所には枡形があり、旧蹟には、石の風車ややらずの石碑や、そういうものがありもした。街道を一方へ辿って行けば、俚謡(うた)に詠まれている関所があり、更に一方へ辿って行けば、沓掛(くつかけ)の古風の駅(うまやじ)があった。
 旅籠には飯盛、青樓(ちゃや)にはさぼし、そういう名称の遊女がいて、
後供(あとども)は霞ひくなり加賀守(かがのかみ)
 加賀金沢百万石の大名、前田侯などお通りの節には、行列蜿蜒数里に渡り、その後供など霞むほどであったが、この追分には必ず泊まり、泊まれば宿中の遊女という遊女は召されて纏頭(はな)をいただいた。

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