剣侠
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著者名:国枝史郎 


 要介はポツポツ話し出した。
「源氏は東国を根拠とすべし。根拠とするには金が必要だ。これをもってここへ金を埋めて置く。この金を利用して根を張るべし。――といったような考えから、金を埋めたということだ。……その後この地武蔵において、いろいろさまざまの合戦が起こったが、埋めてあるその金を利用したものが、いつも勝ったということじゃ。ところがそのつど利用したものは、他の者に利用されまいとして、残った金を別の所へ、いつも埋め代えたということじゃ。……治承(じしょう)四年十月の候、源頼朝が府中の南、分倍河原(ぶばいがわら)に関八州の兵を、雲霞の如くに集めたが、その時の費用もその金であり、ずっと下って南北朝時代となり、元弘(げんこう)三年新田義貞卿が、北條高時を滅ぼすべく、鎌倉に兵を進めようとし、分倍河原に屯して、北條泰家と合戦したが、その時も義貞は源氏というところから、その金を利用したという事じゃ。正平(しょうへい)七年十二月十九日、新田義宗(よしむね)南軍を率い、足利尊氏を狩野河(こうのかわ)に討つべく、武蔵の国に入ったところ、尊氏すでに狩野河を発し、谷口から府中に入り、人見原(ひとみはら)にて激戦したが、義宗破れて入間川(いるまがわ)に退き、二十八日小手差原(こてさしはら)にて戦い、ふたたび破れて退いたが、この時は足利尊氏が、これも源氏というところから、その金を利用したということじゃ。更に下って足利時代に入り、鎌倉の公方足利成氏、管領上杉憲忠(のりただ)を殺した。憲忠の家臣長尾景晴(かげはる)、これを怒って手兵を率い、立川原で成氏と戦い、大いに成氏を破ったが、この時はその金を景晴が利用し、その後その金を用いた者で、史上有名の人物といえば、布衣(ふい)から起こって関八州を領した、彼の小田原(おだわら)の北條早雲(そううん)、武蔵七党の随一と云われた、立川宗恒(たてかわむねつね)、同恒成、足利学校の創立者、武人(ぶじん)で学者の上杉憲実(のりざね)。……ところがそれが時代が移って、豊臣氏となり当代となり――即ち徳川氏となってからは、その金を利用した誰もなく、金の埋没地も不明となり、わずかにこの地方秩父地方において『秩父の郡小川村、逸見様庭の桧の根、昔はあったということじゃ……』という、手毬唄に名残をとどめているばかりじゃ。……」
 ここまで云って来て要介は、不意に沈黙をしてしまった。
 じっと聞いていた浪之助の、緊張の度が加わった。
 源女のうたう不可解の歌が、金に関係あるということは、朧気ながらも感じていたが、そんな歴史上の合戦や人物に、深い関係があろうなどとは、夢にも想像しなかったからである。
(これは問題が大きいぞ)
 それだけに興味も加わって、固唾を呑むという心持! それでじっと待っていた。
 要介は語りついだ。
「あの歌の意味は簡単じゃ。今話した例の金が、武蔵秩父郡小川村の逸見(へんみ)家の庭にある桧の木の根元に、昔は埋めてあったそうさな。――という意味に他ならない。逸見家というのは云う迄もなく、逸見多四郎殿の家の事じゃ。……その逸見家は何者かというに、甲斐源氏(かいげんじ)の流を汲んだ、武州無双の名家で旧家、甲源一刀流の宗家だが、甲源の文字もそこから来ている。即ち甲斐源氏という意味なのじゃ」


 要介は語りつづけた。
「歌もそこ迄なら何でもないのじゃ。というのは普通の手毬歌として、秩父地方の人々は、昔から知っているのだからな。ところがどうだろう源女殿だけが、その後の文句を知っている『今は変わって千の馬、五百の馬の馬飼の……それから少し間が切れて――秣の山や底無しの、川の中地の岩窟の……という文句を知っている。そこへわしは眼をつけたのじゃ。頼義(よりよし)、義家が埋めたという金は、その後の歌にうたわれている境地に、今は埋めてあるのだろう。それにしても源女殿はどこでどうしてその後の歌を覚えたかとな。で源女殿へ訊いて見た。その返辞が洵(まこと)に妙じゃ。大森林や大渓谷や、大きな屋敷や大斜面や、そういう物のある山の奥の、たくさんの馬や馬飼のいる所へ、いつぞや妾(わたし)は行ったような気がする。そこでその歌を覚えたような気がする。でもハッキリとは覚えていない。勿論そこがどこであるかも知らない。――という曖昧の返辞なのだ。その上其方(そち)も知っている通り、源女殿は時々発作を起こす。……で、わしはいろいろの医者へ、源女殿の様態を診て貰ったところ、一人柳営お抱えの洋医、平賀杏里(きょうり)殿がこういうことを云われた。――非常に恐ろしい境地へ行き、非常に烈しい刺激を受け、精神的に大打撃を受け、その結果大熱を体に発し、一月とか二月とかの長い間、人事不省になっていた者は、その間のことはいうまでもなく、それ以前の事もある程度まで、全然忘却してしまうということが往々にあるが、源女殿の場合がそうらしい。が、源女殿をその境地へ、もう一度連れて行けば思い出すし、事実その境地へ行かずとも、その境地と酷似している境地へ、源女殿を置くことが出来たなら、忘却していた過去のことを、卒然と記憶に返すであろうと。……しかし源女殿をその境地へ、連れて行くということは出来難い。その境地が不明なのだから。同じような境地へ源女殿を置く。ということもむずかしい。どんな境地かということを、わしは確実に知らないのだから。……しかしわしはこう思った。あの歌の前半の歌われている、秩父地方へ出かけて行って、気長く源女殿をそこに住ませて、源女殿の様子を見守っていたら、何か暗示を得ようもしれないとな。そこでお連れして来たのだが。……しかるに源女殿のそういう秘密を、わしの外にもう一人、同じように知っている者がある。他でもない水品陣十郎じゃ」
 こう云って来て要介は、眉をひそめて沈黙した。
 剣鬼のような吸血鬼のような、陣十郎という男のことを、思い出すことの不愉快さ、それを露骨に現わさしたところの、それは気不味(まず)い[#「不味(まず)い」は底本では「不味(まずい)い」]沈黙であった。
 浪之助も陣十郎は嫌いであり、嫌い以上に恐ろしくもあり、口に出すことさえ厭であったが、しかし源女や要介が、どういう関係からあの吸血鬼と、知り合いになったかということについては、窺い知りたく思っていた。
 それがどうやら知れそうであった。
 そこで更に固唾を呑む気持で、要介の語るのを待ち構えた。


「今から十月ほど前であったよ」と、要介は話をつづけ出した。
「信濃方面へ旅をした。武術の修行というのではなく、例によっての風来坊、漫然と旅をしたまでだが沓掛(くつかけ)の宿で一夜泊まった。明月の夜であったので、わしは宿(やど)を出て宿(しゅく)を歩き、つい宿外れまでさまよって行った。と、歌声が聞こえてきた。云うまでも[#「云うまでも」は底本では「云までも」]なく例の歌さ。はてなと思って足を止めると、狂乱じみた若い女が、その歌をうたって歩いて来る。と、その後から一人の武士が、急ぎ足で追いついたが、やにわに女を蹴倒すと、踏む撲るの乱暴狼藉『汝(おのれ)逃げようとて逃がそうや』こう言っての乱暴狼藉! その瞬間女は正気づいたらしく、刎ね起きると拙者を認め、走り寄って縋りつき、お助け下されと申すのじゃ。心得たりと進み出て、月明で武士を見れば、以前樋口十郎左衛門殿方で、立合ったことのある水品陣十郎! 先方も拙者を認めたと見え、しかも形勢非なりと知ったか、『秋山殿でござったか、その女は源女と申し、発狂の女芸人、拙者故あって今日まで、保護を加えて参りましたが、お望みならば貴殿に譲る』と、このようなヘラズ口をきいたあげく、匆慌(そうこう)として立ち去ったので、源女殿を宿へ連れて参り、事情を詳しく訊いたところ、江戸両国の曲独楽の太夫、養母というものに悪婆あって長崎の異人に妾(めかけ)に出そうという。それを避けて旅へ出で、ある山国へ巡業したところ、大森林、大傾斜、百千頭も馬のいるところ、そういう所の大きな屋敷へ、どういう訳でか連れて行かれた。そうしてそこで恐ろしい目に逢い、妾(わたし)は正気を失ったらしい。正気づいて見れば陣十郎という男が、妾の側に附いていて、それ以来ずっとその男が、あらゆる圧迫と虐待とを加え、妾にその土地へ連れて行け、お前の謡う歌にある土地へ、連れて行けと云って強いに強い、爾来その男に諸々方々を、連れ歩かれたとこう云うのじゃ。……それからわしは源女殿を連れて、江戸へ帰って屋敷へ置いたが、そこは女芸人のことで、もう一度舞台に出たいという。そこで元の座へ出したところ、陣十郎に見付けられ、貴殿などとも知り合うようになった。……」
「よく解(わか)りましてござります」
 要介の長い話を聞き、浪之助はこれまでの疑問を融かした。
「と致しますと陣十郎も、例の黄金の伝説的秘密を、承知いたして居りまして、それを探り出そうと心掛け、源女を抑えて居りましたので……」
「さよう」と要介は頷いて云った「逸見多四郎殿の門弟として、秩父地方に永らく居た彼、黄金の秘密は知悉しているはずじゃ」
 この時部屋の外の廊下に、つつましい人の足音がし、
「ご免下され」という男の声がし、襖が開いて小紅屋の主人が、恭しくかしこまった顔を出し、
「逸見の殿様お越しにござります。へい」と云って頭を下げた。
 見れば主人の背後にあたって、威厳のある初老の立派な武士が、気軽にニコヤカに微笑しながら、部屋を覗くようにして立っていた。
「逸見多四郎参上いたしました」


「や、これは!」とさすがの要介も、郷士ながらも所の領主、松平大和守(やまとのかみ)には客分にあつかわれ、新羅(しんら)三郎義光(よしみつ)の後胤甲斐源氏の名門であり、剣を取らせては海内の名人、しかも家計は豊かであって、倉入り千俵と云われて居り、門弟の数大略(おおよそ)二千、そういう人物の逸見多四郎が、気軽にこのような旅籠屋などへ、それも留守の間に道場の看板、門の大札[#「大札」は底本では「大礼」]を外して行ったところの、要介を訪ねて来ようなどとは、要介本人思いもしなかったところへ、そのように気軽に訪ねて来られたので、さすがに驚いて立ち上った。
「これはこれは逸見先生、わざわざご来訪下されましたか。いざまずこれへ! これへ!」
「しからばご免」と仙台平の袴に、黒羽二重の衣裳羽織、威厳を保った多四郎は、静かに部屋の中へ入って来た。
 座が定(き)まってさて挨拶! という時に要介の機転、床の間に立ててあった例の門札を[#「門札を」は底本では「門礼を」]、恭しく抱えて持って来るや、前へ差し出しその前に坐り、
「実は其(それがし)先生お屋敷へ、本日参上いたしましたところ、江戸へ参ってご不在との御事。と、いつもの悪い癖が――酔興とでも申しましょうか、悪い癖がムラムラと起こりまして、少しく無礼とは存じましたが、門弟の方へ一応断わり、この大門札[#「門札」は底本では「門礼」]ひき外し、旅舎まで持参いたしました、がしかし決して粗末にはいたさず、床の間へ立てかけ見事の筆蹟を、打ち眺め居りましてござります。が、それにしてもこの門札を[#「門札を」は底本では「門礼を」]、ひき外し持参いたしましたればこそ、かかる旅舎などへ先生ほどのお方を、お招きすること出来ました次第、その術策的中(あた)りましてござるよ。ハッハッハッ」と笑ったが、それは爽かな笑いでもあった。
 と、多四郎もそれに合わせ、こだわらぬ爽かな笑い声を立てたが、
「その儀でござる、実は其(それがし)所用あって江戸へ参り、三日不在いたしまして、先刻帰宅いたしましたところ、ご高名の秋山先生が、不在中三回もお訪ね下され、三回目の本日門の札を[#「札を」は底本では「礼を」]、ひき外しお持ちかえりなされたとのこと、門弟の一人より承(うけたま)わり、三回のご来訪に恐縮いたし、留守を申し訳なく存じますと共に、その門弟へ申したような次第――、門札を[#「門札を」は底本では「門礼を」]外して持ち去った仁、秋山要介先生でよかった。他の仁ならこの多四郎、決して生かして置きませぬ。秋山要介先生でよかった。その秋山先生は、奇嬌洒脱の面白い方じゃ、いまだ一度もお目にかからぬが、勇ましいお噂は承って居る。五百石といえば堂々たる知行、その知行取りの剣道指南役の、嫡男の身に産れながら、家督を取らず浪人し、遊侠の徒と交際(まじわ)られ、権威に屈せず武威に恐れず、富に阿(おも)ねらず貧に恥じず、天空海濶に振舞われる当代での英傑であろう。門札を[#「門札を」は底本では「門礼を」]持って行かれたも、単なる風狂に相違ない。宿の小紅屋に居られるなら、早速参ってお目にかかろうとな。――そこで参上いたしたような次第、お目にかかれて幸甚でござった」
「杉氏どうじゃな」と要介は、浪之助の方へ声をかけた。


「人物は人物を見抜くと云ったが、どうじゃ杉氏、その通りであろう」
 こう云ったがさらに要介は、多四郎の方へ顔を向け、
「ここに居られるは杉浪之助殿某(それがし)の知己友人でござる。門札[#「門札」は底本では「門礼」]外して持ち参ったことを、ひどく心配いたしましたについて、いや拙者だからそれはよい、余人ならばよろしくないと云うことは逸見先生もご存知、人物は人物を見抜くものじゃと、今し方申して居りました所で、……杉氏何と思われるな?」
「ぼんやり致しましてござります」
 浪之助はこう云うと、恰も夢から醒めたように、眼を大きくして溜息を吐いた。
「鳳凰(ほうおう)と麒麟(きりん)! 鳳凰と麒麟! 名優同志の芝居のようで。見事のご対談でございますなあ」
 逸見多四郎がやって来た! さあ大変! 凄いことが起こるぞ! 激論! 無礼咎め! 切合い! 切合い! と、その瞬間思ったところ、事は全く反対となり、秋山先生で先ずよかった! ……ということになってしまい、十年の知己ででもあるかのように、笑い合い和み合い尊敬し合っている。で浪之助は恍惚(うっとり)として、両雄の対談を聞いていたのであった。
「酒だ」と要介は朗かに云った。
「頼みある兵(つわもの)の交際に、酒がなくては物足りぬ。酒だ! 飲もう! 浪之助殿、手を拍って女中をお呼び下され!」
「いや」と多四郎は手を振って止めた。
「酒も飲みましょう。がしかし、酒は場所を変えて飲みましょう」
「場所を変えて? はてどこへ?」
「拙者の屋敷で。……云うまでもござらぬ」
「要介のまかり在るこの屋敷、さてはお気に入らぬそうな」
「いやいや決して、そういう訳ではござらぬ。……が、最初にご貴殿において、お訪ね下されたのが拙者の屋敷、言って見れば先口で。……ではその方で飲むのが至当。……」
「ははあなるほど、それもそうじゃ」
「ということと存じましたれば、駕籠を釣らせてお宿の前まで、既に参って居りますので」
「それはそれはお手廻しのよいこと。……がしかし拙者といたしましては、ご貴殿のお屋敷におきましては、酒いただくより木刀をもって、剣道のご指南こそ望ましいのでござる」
「云うまでもござらぬ剣道の試合も、いたしますでござりましょう」
「その試合じゃが逸見先生、尋常の試合ではござらぬぞ」
「と申してまさかに真剣の……」
「なんのなんの真剣など。……実は賭試合がいたしたいので」
「ナニ賭試合? これは面妖! 市井の無頼の剣術使いどもが、生活(くらし)のために致すような、そのような下等の賭試合など……」
「賭る物が異(ちが)ってござる」
「なるほど。で、賭物は?」
「拙者においては赤尾の林蔵!」
「赤尾の林蔵を? 赤尾の林蔵を? ふうん!」と云ったが多四郎は、じっと要介の顔を見詰めた。


「博徒ながらも林蔵は、拙者の剣道の弟子でござる」
 要介はそう云って意味ありそうに、多四郎の顔を熟視した。
「その林蔵をお賭になる。……では拙者は何者を?」
 いささか不安そうに多四郎は云って、これも要介を意味ありそうに見詰めた。
「高萩村の猪之松を、お賭下さらば本望でござる」
「彼は拙者の剣道の弟子……」
「で、彼をお賭け下され」
「賭けて勝負をして?」
「拙者が勝てば赤尾の林蔵を、関東一の貸元になすべく、高萩村の猪之松を、林蔵に臣事いたさせ下され」
「拙者が勝たば赤尾の林蔵を、高萩の猪之松に従わせ、猪之松をして関東一の……」
「大貸元にさせましょう」
「ははあそのための賭試合?」
「弟子は可愛いものでござる」
「なるほどな」と多四郎は云ったが、そのまま沈黙して考え込んでしまった。
 林蔵と猪之松とが常日頃から、勢力争いをしていることは、多四郎といえども知っていた。その争いが激甚となり、早晩力と力とをもって、正面衝突しなければなるまい――という所まで競り詰めて来ている。ということも伝聞していた。とはいえそのため秋山要介という、一大剣豪が現われて、師弟のつながりを縁にして、自分に試合を申し込み、その勝敗で二人の博徒の、勢力争いを解決しようなどと、そのような事件が起ころうなどとは、夢にも思いはしなかった。
(何ということだ!)と先ず思った。
(さてどうしたものだろう?)
 とは云え自分も弟子は可愛い、成ろうことなら林蔵を挫いて、猪之松を大貸元にしてやりたい。
(では)と思わざるを得なかった。
(では要介の申し込みに応じ、賭試合を行ない打ち勝ってやろう)
 腹が決まると堂々たるもので、逸見多四郎は毅然として云った。
「賭試合承知いたしてござる。しからば直ちに拙者屋敷に参り、道場においてお手合わせ、試合いたすでござりましょう」
「欣快」
 要介は立ち上った。
「杉氏、貴殿もおいでなされ」
 三人揃って部屋を出た。

 逸見多四郎家のここは道場。――
 竹刀(しない)ではない木刀であった。
 要介と多四郎とは構えていた。
 一本勝負!
 そう定められていた。
 二人ながら中段の構え!
 今、シ――ンと静かである。
 かかる試合に見物は無用と、通いの門弟も内門弟も、一切退けてのただ二人だけ! いや他に杉浪之助と、要介の訪問に応待に出た、先刻の若侍とが道場の隅に、つつましく控えて見守っていた。

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 見霞むばかりの大道場、高く造られある正面は、師範の控える席であり、それに向かって左の板壁には、竹刀(しない)、木刀、槍、薙刀(なぎなた)、面、胴、籠手の道具類が、棚に整然と置かれてあり、左の板壁には段位を分けた、漆塗りの名札がかけてあった。
 塵もとどめぬ板敷は、から拭きされて鏡のように光り、おりから羽目板の隙間から、横射しに射して来た日の光りが、そこへ琥珀色の棒縞を織り、その空間の光の圏内に、ポッと立っている幽かな塵埃(ほこり)は、薄い煙か紗のようであった。
 互いに中段に位取って動かぬ、要介と多四郎は広い道場の、中央に居るところから、道場の端に腰板を背にして、端座している浪之助から見ると、人形のように小さく見えた。
 おおよそ六尺の間隔を保ち、互いに切先を相手の眉間へ、ピタリと差し付けて構えたまま、容易に動こうとはしなかった。
 道具を着けず木刀にての試合に、まさに真剣の立合いと、何の異なるところもなく、赤樫蛤刃(あかがしはまぐりは)の木刀は、そのまま真(まこと)の剣であり、名人の打った一打ちが、急所へ入らば致命傷、命を落とすか不具(ふぐ)になるか、二者一つに定(き)まっていた。
 とはいえ互いに怨みあっての、遺恨の試合というのではなく、互いの門弟を引っ立てようための義理と人情とにからまった、名人と名人との試合であった。自然態度に品位があり、無理に勝とうの邪心がなく、闘志の中に礼譲を持った、すがすがしい理想的の試合であった。
 今の時間にして二十分、構えたままで動かなかった。
 掛声一つかけようとしない。
 掛声にも三通りある。
 追い込んだ場合に掛ける声。相手が撃って出ようとする、その機を挫(くじ)いて掛ける声、一打ち打って勝利を得、しかも相手がその後に出でて、撃って来ようとする機を制し、打たせぬために掛ける声。
 この三通りの掛声がある。
 しかるに二人のこの試合、追い込み得べき機会などなく、撃って出ようとするような、隙を互いに見せ合わず、まして一打ち打ち勝つという、そういうことなどは絶対になかった。
 で、二人ながら掛声もかけず、同じ位置で同じ構えで、とはいえ決して居附きはせず、腹と腹との業比べ、眼と眼との睨み合い、呼吸と呼吸との抑え合い、一方が切先を泳がせれば、他の一方がグッと挫き、一方が業をかけようとすれば、他の一方が先々ノ先で、しかも気をもって刎ね返す、……それが自ずと木刀に伝わり、二本の木刀は命ある如く、絶えず幽かにしかし鋭く、上下に動き左右に揺れていた。
 更に長い時が経った。
 と、要介の右の足が、さながら磐石をも蹴破るていの、烈しさと強さと力とをもって、しかもゆっくりと充分に粘り、ソロリとばかり前へ出て、左足がそれに続いた。
 瞬間多四郎の左足が、ソロリとばかり後へ下り、右足がそれに続いた。
 で 間だ! 静止した。
 長い間! ……しかし……次の瞬間……ドドドドッという足音が響いた。

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 奔流のように突き進む要介!
 追われて後へ退く多四郎!
 ドドドドッという二人の足音!
 見よ、その速さ、その鋭さ!
 あッ、多四郎は道場の端、板壁へまで追い詰められ、背中を板壁へあてたまま、もう退けない立ち縮んだ。
 その正面へ宛然(さながら)巨岩、立ちふさがったは要介であった。
 勝負あった!
 勝ちは要介!
 非ず、見よ、次の瞬間、多四郎の胸大きく波打ち、双肩渦高く盛り上ると見るや、ヌッと一足前へ出た。
 と、一足要介は下った。
 多四郎は二足ヌッと出た。
 要介は退いた。
 全く同じだ!
 ドドドドッという足音!
 突き進むは多四郎、退くは要介、たちまちにして形勢は一変し、今は要介押し返され、道場の破目板を背に負った。
 で、静止!
 しばらくの間!
 二本の剣が――木刀が、空を細かく細かく細かく、細かく細かく刻んでいる。
 多四郎勝ちか?
 追い詰め了(りょう)したか?
 否!
 ソロリと一足下った。
 追って要介が一足出た。
 粘りつ、ゆっくりと、鷺足さながら、ソロリ、ソロリ、ソロリ、ソロリと、二人は道場の中央まで出て来た。
 何ぞ変らざる姿勢と形勢と!
 全く以前と同じように、二人中段に構えたまま、見霞むばかりの大道場の、真中の辺りに人形のように小さく、寂然と立ち向かっているではないか。
 さすがに二人の面上には、流るる汗顎までしたたり、血上って顔色朱の如く、呼吸は荒くはずんでいた。
 窒息的なこの光景!
 なおつづく勝負であった。
 試合はつづけられて行かなければならない。
 が、忽然そのおりから、
□秩父の郡(こおり)
小川村
逸見様庭の
桧の根
昔はあったということじゃ
 と、女の歌声が道場の外、庭の方から聞こえてきた。
「しばらく!」と途端に叫んだ要介、二間あまりスルスルと下ると、木刀を下げ耳を澄ました。
「…………」
 審かしそうに体を斜めに、しかし獲物は残心に、油断なく構えた逸見多四郎、
「いかがなされた、秋山氏?」
「あの歌声は? ……歌声の主は?」
「ここに控え居る東馬共々、数日前に、絹川において、某(それがし)釣魚(ちょうぎょ)いたせし際、古船に乗って正体失い、流れ来たった女がござった[#「ござった」は底本では「ごさった」]。……助けて屋敷へ連れ参ったが、ただ今の歌の主でござる」

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「名は? 源女! お組の源女! ……と申しはいたしませぬか?」
「よくご存知、その通りじゃ」
「やっぱりそうか! そうでござったか! ……有難し、まさしく天の賜物! ……その女こそこの要介仔細ござって久しい前より、保護を加え養い居る者、過日上尾の街道附近で、見失い失望いたし居りましたが、貴殿お助け下されたか。……源女拙者にお渡し下され」
「ならぬ!」と多四郎ニベもなく云った。
「源女決して渡すことならぬ!」
「理由は? 理由は? 逸見氏?」
「理由は歌じゃ、源女の歌う歌じゃ!」
「…………」
「今は変わって千の馬、五百の馬の馬飼の……後にも数句ござったが、この歌を歌う源女という女子、拙者必要、必要でござる!」
「なるほど」と要介は頷いて云った。
「貴殿のお家に、逸見家に、因縁最も深き歌、その歌をうたう源女という女、なるほど必要ござろうのう……伝説にある埋もれたる黄金、それを掘り出すには屈竟の手蔓……」
「では貴殿におかれても?」
「御意、さればこそ源女をこれ迄……」
「と知ってはいよいよ源女という女子(おなご)、お渡しいたすことなりませぬ」
「さりながら本来拙者が保護して……」
「過ぐる日まではな。がその後、見失いましたは縁無き證拠。……助けて拙者手に入れたからは、今は拙者のものでござる」
「源女を手蔓に埋もれし黄金を、では貴殿にはお探しなさるお気か?」
「その通り、云うまでもござらぬ」
「では拙者の競争相手!」
「止むを得ませぬ、因縁でござろう」
「二重に怨みを結びましたな!」
「ナニ怨みを? 二重に怨みを?」
「今は怨みと申してよかろう! ……一つは門弟に関する怨み、その二は源女に関する怨み!」
「それとても止むを得ぬ儀」
「用心なされ逸見氏、拙者必ず源女を手に入れ、埋もれし黄金も手に入れましょう」
「出来ましたなら、おやりなされい!」
「用心なされ逸見氏、源女を手に入れ埋もれし黄金を、探し出だそうと企て居る者、二人以外にもござる程に!」
「二人以外に? 誰じゃそ奴?」
「貴殿の門弟、水品陣十郎!」
「おお陣十郎! おお彼奴(きゃつ)か! ……弟子ながらも稀代の使い手、しかも悪剣『逆ノ車』の、創始者にして恐ろしい奴。……彼奴の悪剣を破る業、見出だそうとこの日頃苦心していたが、彼奴が彼奴が源女と黄金を……」
「逸見氏、お暇申す」
「勝負は? 秋山氏、今日の勝負は?」
「アッハハ、後日真剣で!」

因果な恋


 高萩村の村外れに、秩父香具師(やし)の部落があり、「刃ノ郷(やいばのごう)」と称していた。三十軒ほどの人家があり、女や子供や老人などを入れ、百五十人ほどの半農半香具師が、一致団結して住んでいた。
 郷に一朝事が起こり、合図(しらせ)の竹法螺がボーッと鳴ると、一切の仕事を差し置いて、集まるということになっていた。
 弁三爺さんという香具師の家は、この郷の片隅にあった。
 茅葺の屋根、槇の生垣、小広い前庭と裏の庭、主屋、物置、納屋等々、一般の農家と変わりのない家作、――ただし床ノ間に鳥銃一挺、そうして壁に半弓一張、そういう武器が懸けてあるのは、本来が野士といって武士の名残――わけても秩父香具師は源氏の正統、悪源太義平から来ていると、自他共に信じているそれだけあって、普通の農家と異(ちが)っていた。
 秋山要介と逸見多四郎とが、多四郎の道場で、木刀を交した、その日から数日経過したある日の、こころよく晴れた綺麗な午後、ここの庭に柿の葉が散っていた。
 その葉の散るのをうるさそうに払って、お妻が庭へ入って来た。
「いい天気ね、弁三爺さん」
 母屋の縁側に円座を敷き、その上に坐って憂鬱の顔をし、膏薬を練っていた弁三爺さんは、そう云われてお妻の顔を見た。
「よいお天気でございますとも……へい、さようで、よいお天気で」
 ――そこで又ムッツリと家伝の膏薬を、節立った手で練り出した。
 お妻は眉をひそめて見せたが、
「日和が続いていい気持だのに、爺つぁんはいつも不機嫌そうね」
「へい、不機嫌でございますとも、倅が江戸へ出て行ったまま、帰って来ないのでございますからな」
「またそれをお云いなのかえ。ナーニそのうち帰って来るよ」とは云ったものの殺された倅、弁太郎が何で帰るものかと、心の中で思っているのであった。
(あの人を殺したのは陣十郎だし、殺すように進めたのは妾だったっけ)
 こう思えばさすがに厭な気がした。
 まだお妻がそんな邯鄲師(かんたんし)などにならず、この郷に平凡にくらしていた頃から、弁太郎はひどくお妻を恋し、つけつ廻しつして口説いたものであった。その後お妻は故郷を出て、今のような身の上になってしまった。と、ヒョッコリ[#「ヒョッコリ」は底本では「ヒョッコり」]弁太郎が、膏薬売となって江戸へ出て来、バッタリお妻と顔を合わせた。爾来弁太郎は附き纏い、長い間の恋を遂げようとし、お妻の現在の身分も探ぐり、恋遂げさせねば官に訴え、女邯鄲師として縄目の恥を、与えようなどと脅迫さえした。お妻は内心セセラ笑ったが、うるさいから眠らせてしまおうよ、こう思って情夫の陣十郎へケシカケ、一夜お茶ノ水へ引っ張り出し、一刀に切らせてしまったのであった。
 杉浪之助が源女の小屋から、自宅へ帰る途中(みちすが)らに見た、香具師の死骸は弁太郎なのであった。
「爺つぁん、主水さんのご機嫌はどう?」お妻は話を横へそらせた。


「あのお方もご機嫌が悪そうで」
 弁三はそう云って俯向いて、物憂そうに膏薬を練った。
「出て行きたそうなご様子はないかえ?」
「出て行きたそうでございますなあ」
「出て行かしちゃアいけないよ」
「というお前さんの云いつけだから、せいぜい用心しては居りますがね」
「行かせたらあたしゃア承知しないよ」
 剃刀(かみそり)のような眼でジロリと見た。
「手に合わなけりゃア仕方がねえ、ボーッと竹法螺吹くばかりだ」
「と、村中の出口々々が、固められるから大丈夫だねえ。でもそういった大袈裟なこと、あたしゃアしたくはないのだよ」
「ご尤(もっと)もさまでございます」
「どれご機嫌を見て来よう」
 腰かけていた縁から立って、お妻は裏の方へ廻って行った。
(凄い女になったものさな)
 お妻の後を見送りながら、そう弁三爺さんは思った。
 以前この郷に居た時分は、度胸こそあったが可愛いい無邪気な綺麗な娘っ子に過ぎなくて、この家などへもノベツに来て、お爺さんお爺さんと懐かしがってくれたお妻、それがどうだろう陣十郎とかいう浪人者と手をたずさえて、今度やって来た彼女を見れば、縹緻も上ったがそれより何より、人間がすっかり異(ちが)ってしまっていて、腕には刺青眼には殺気、心には毒を貯えていて、人殺しぐらいしかねまじい姐御、だいそれた女になっているではないか。
(陣十郎とかいうお侍さん、随分怖そうなお侍さんだが、あんな人の眼をこっそり盗んで、鴫澤主水(しぎさわもんど)とかいうお侍さんを、こんな所へ隠匿(かくま)うなんて……血腥さい[#「血腥さい」は底本では「血醒さい」]事件でも起こらなけりゃアいいが)
 これを思うと弁三爺さんは、不安で恐ろしくてならなかった。
 数日前のことであった、そのお侍さんを駕籠に乗せて、宵にこっそりやって来て、
「このお侍さんを隠匿っておくれ、村の者へも陣十郎さんへも、誰にも秘密(ないしょ)で隠匿っておくれ、昔馴染みのお前さんのとこより、他には隠し場所がないんだからねえ」
 こうお妻が余儀なげに云った。
 見ればどうやらお侍さんは、半分死んででもいるように、気息奄々憔衰していた。
「へい、それではともかくも……」
 こう云って弁三は引き受けた。
 と、翌日から毎日のように、お妻はやって来て介抱した。
(どういう素性のお侍さんなのかな?)
(お妻さんとの関係はどうなんだろう?)
 解(わか)らなかったが不安であった。
 婆さんには死に別れ、たった一人の倅の弁太郎は江戸に出たまま帰って来ない。ただでさえ不安で小寂しいところへ、そんなお侍さんをあずかったのである。
 弁三爺さんは憂鬱であった。
 黙々と膏薬を練って行く。
 ヒョイと生垣の向こうを見た。
「あッ」と思わず声をあげた。
 陣十郎が蒼白い顔を、気味悪く歪めて生垣越しに、じっとこっちを見ているではないか。
(さあ大変! さあ事だ!)


「おい」と陣十郎は小声で呼んだ。
「おい爺(とっ)つぁん、ちょっと来てくんな」
 生垣越しに小手招きした。
 裏の座敷にはお妻がいるはずだ。
「へい」とも返辞が出来なかった。
 顫えの起こった痩せた体を、で弁三はヒョロヒョロと立たせ、庭下駄を穿くのもやっとこさで、陣十郎の方へ小走って行った。
 生垣を出ると村道である。
 と、陣十郎がしゃがみ込んだので、向かい合って弁三もしゃがみ込み、
「へ、へい、これは水品様……」
「爺つぁん、お妻が来たようだね」
「オ、お妻さんが……へい……いいえ」
「へい、いいえとはおかしいな。へいなのか、いいえなのか?」
「へい……いいえ……いいえなので」
「とすると俺の眼違いかな」
「………」
「恰好がお妻に似ていたが……」
「…………」
「ナーニの、俺ら家を出てよ、親分の家へ行こうとすると、鼻っ先を女が行くじゃアないか。滅法粋な後ろ姿さ。悪くねえなア誰だろうと、よくよく見ると俺の女房さ。アッ、ハッハッそうだったか、女房とあっては珍しくねえ、と思ったがうちの女房ども、どちらへお出かけかとつけて来ると、お前の家へ入ったというものさ」
「へ、へい、さようで、それはそれは……」
「それはそれはでなくて、これはこれはさ。これはこれはとばかり驚いて、しばらく立って見ていたが、裏の方へ廻って行ったので、爺つぁんお前をよんだわけさ」
「へ、へい、さようでございますかな」
「裏にゃア何があるんだい?」
「へい、庭と生垣と……」
「それから雪隠と座敷とだろう」
「へい、裏座敷はございます」
「その座敷にだが居る奴はだれだ!」
「ワーッ! ……いいえ、どなた様も……」
「居ねえ所へ行ったのかよ」
「ナ、何でございますかな?」
「誰もいねえ裏座敷へ、俺の女房は入って行ったのか?」
「…………」
「犬か!」
「へ?」
「雄の犬か!」
「滅相もない」
「じゃア何だ!」
「…………」
「云わねえな、利いていると見える、お妻のくらわせた鼻薬が……」
「水品様、まあそんな……そんな卑しい弁三では……」
「ないというのか、こりゃア面白い、媾曳宿(あいびきやど)に座敷を貸して、鼻薬を貰わねえ上品な爺(おやじ)――あるというならこりゃア面白い! 貰った貰った鼻薬は貰った。そこでひし隠しに隠しているのだ! ……ヨーシそれならこっちの鼻薬、うんと利くやつを飲ませてやる」
 トンと刀の柄を叩いた。
「鍛えは関、銘は孫六、随分人を切ったから、二所ばかり刃こぼれがある、抜いて口からズーッと腹まで! ……」
 ヌッと陣十郎は立ち上り、グッと鯉口を指で切った。


 古びた畳、煤けた天井、雨もりの跡のある茶色の襖。裏座敷は薄暗く貧しそうであった。
 江戸土産の錦絵を張った、枕屏風を横に立てて、褥(しとね)の上に坐っているのは、蒼い頬、削けた顎、こればかりは熱を持って光っている眼、そういう姿の主水であった。
「心身とも恢復いたしました。もう大丈夫でございます」
 そんな姿でありながら、そうして声など力がないくせに、そう主水は元気ありそうに云った。
「そろそろ発足いたしませねば……」
「さあご恢復なさいましたかしら」
 高過ぎる程高い鼻、これだけが欠点といえば欠点と云え、その他は仇っぽくて美しい顔へ、意味ありそうな微笑を浮かべ、流眄(ながしめ)に主水を眺めながら、前に坐っているお妻は云った。
「ご恢復とあってはお父様の敵(かたき)、お討ちにならねばなりませんのねえ」
「はいそれに誘拐(かどわか)されました妹の、行方を尋ね取り戻さねば……」
「そうそう、そうでございましたわねえ」
 お妻はまたも微笑したが、
「そのお妹御の澄江(すみえ)様、まことは実のお妹御ではなく、お許婚(いいなずけ)の方でございましたのね」
 そう云った時お妻の眼へ、嫉妬(ねた)ましさを雑えた冷笑のようなものが、影のようにチラリと射した。
「はい」と主水は素直に云った。
「とはいえ永らく兄妹として、同じ家に育って参りましたから、やはり実の妹のように……」
「さあどんなものでございましょうか」
 云い云い髪へ手をやって、簪(かんざし)で鬢の横を掻いた。
「お許婚の方をお連れになり、敵討の旅枕、ホ、ホ、ホ、お芝居のようで、いっそお羨(うらやま)しゅうございますこと……」
 主水は不快な顔をしたが、グッと抑えてさりげなく、
「その妹儀あれ以来、どこへ連れられ行かれましたか……思えば不愍……どうでも探して……」
「不愍は妾もでございますよ」
 お妻の口調が邪見になり、疳を亢ぶらせた調子となった。
「人の心もご存知なく……妾の前でお許婚の、お噂ばかり不愍とやら、探そうとやら何とやら、お気の強いことでございます」
 グッと手を延ばすと膝の前にあった、冷えた渋茶の茶碗を取り、一口に飲んでカチリと置いた。
「妾の心もご存知なく!」
 西陽が障子に射していて、時々そこへ鳥影がさした。
 生垣の向こう、手近の野良で、耕しながらの娘であろう、野良歌うたうのが聞こえてきた。
□背戸(せと)を出たればナー
よいお月夜で
様(さま)の頬冠(ほおかむ)ナー
白々と
 二人はしばらく黙っていた。
 と、不意に怨ずるように、お妻が熱のある声で云った。
「ただに酔興で貴郎様を、何であの時お助けしましょうぞ。……その後もここにお隠匿(かくま)いし、何の酔興でご介抱しましょう。……心に想いがあるからでござんす」


 主水は当惑と多少の不快、そういう感情をチラリと見せた。
 が、お妻はそんなようにされても、手を引くような女ではなく、
「あの際お助けしなかろうものなら、陣十郎が立ち戻り、正気を失っている貴郎様を、討ち取ったことでござりましょうよ。……恩にかけるではござりませぬが、かけてもよいはずの妾(わたし)の手柄、没義道(もぎどう)になされずにねえ主水様……」
「あなた様のお心持、よう解っては居りまするが、……そうしてお助け下されました、ご恩の程も身にしみじみと有難く存じては居りまするが……」
 そう、主水はお妻の云う通り、あの日陣十郎を追って行き、疲労困憊極まって、鎮守の森で気絶した時、お妻の助けを得なかったなら、後にて聞けば陣十郎が、森へ立ち戻って来たとはいうし、その陣十郎のために刃の錆とされ、今に命は無かったろう。だからお妻は命の恩人と、心から感謝はしているのであり、そのお妻が来る度毎に、それとなく、いやいや、時には露骨に、自分に対して恋慕の情を、暗示したり告げたり訴えたりした。でお妻が自分を助けた意味も、とうに解ってはいるのであった。
 さりとてそのため何でお妻と、不義であり不倫であり背徳である関係、それに入ることが出来ようぞ!
「主水様」とお妻は云った。
「あなた様にはまだこの妾(わたし)が陣十郎の寵女(おもいもの)、陣十郎の情婦(いろおんな)、それゆえ心許されぬと、お思い遊ばして居られますのね」
 下から顔を覗かせて、主水の顔色を窺った。
「いかにも」と主水は苦しそうに云った。
「それを思わずに居られましょうか。……討ち取らねばならぬ父の敵(かたき)! 陣十郎の寵女、お妻殿がそれだと知りましては、心許されぬはともかくも、何で貴女(あなた)様のお志に……」
「従うことなりませぬか」
「不倶戴天の[#「不倶戴天の」は底本では「不具戴天の」]敵の情婦に……」
「では何でおめおめ助けられました」
「助けられたは知らぬ間のこと……」
「では何で介抱されました……」
 答えることが出来なかった。思われるはただ機を失した! 機を失したということであった。
 助けられたその翌日、訊ねられるままにお妻に対し、主水は姓名から素性から、その日の出来事から敵討のことから、敵の名さえ打ち明けた。
 と、お妻は驚いたように、主水の顔を見詰めたが、やがて自分が陣十郎の情婦、お妻であることを打ち明けた。
 これを聞いた時の主水の驚き!
 同時に思ったことといえば、
(助けられなければよかったものを!)
 ――というそういうことであり、直ぐにも立ち退こうということであった。


(直ぐに立ち退いたらよかったものを)
 今も主水(もんど)はこう思っている。
 立ち退こうとその時云いはした。
 と、お妻が止めて云った。
「ここは高麗郡(こまごおり)の高萩村、博徒の縄張は猪之松という男、陣十郎の親分でござんす。十町とは歩けなさるまい、そのように弱っているお体で、うかうか外へ出ようものなら、手近に陣十郎は居りまするし、猪之松親分の乾兒(こぶん)も居り、貴郎(あなた)様にはすぐに露見、捕らえられて嬲り殺し! ……ご発足など出来ますものか」
 しかし主水としては敵の情婦に、介抱なんどされること、一分立たずと思われたので、無理にも立とうと云い張った。
 と、お妻は嘲笑うように云った。
「ここは『刃ノ郷(やいばのごう)』と申し、高萩村でも別趣の土地、秩父香具師の里でござんす。住民一致して居りまして、事ある時には竹法螺を吹く。と、人々出で合って、村の入口出口を固め、入る者を拒み出る人を遮る。妾(わたし)もこの郷の女香具師の一人、いいえ貴郎様は発足(た)たせませぬ! 無理にお発足ちと有仰(おっしゃ)るなら、竹法螺吹いて止めるでござんしょう」
 もう発足つことは出来なかった。
 こうして今日まで心ならずも、介抱を受けて来たのであって、無理に受けさせられた介抱ではあるが、敵の情婦と知りながら、介抱を受けたには相違なく、で、それを口にされては、返す言葉がないのであった。
(直ぐに立ち退けばよかったのだ! 機を失した! 機を失した!)
 このことばかりが口惜まれるのであった。
 二人はしばらく黙ったままで――主水は俯向いて膝を見詰め、お妻はそういう主水の横顔を、むさぼるように見守っていた。
「それにいたしましても何と云ってよいか、あなたにとりましてはこの主水。敵の片割ともいうべきを、そのようにお慕い下さるとは……」
 途切れ途切れの言葉つきで、やがて主水はそんなように云った。
「さよう、敵の片割でござる。あなたの愛人水品陣十郎を、敵と狙う拙者故……」
「悪縁なのでござりましょうよ」
 そうお妻も言葉を詰らせ、ともすると途切れそうな言葉つきで云った。
「因果な恋なのでござりましょうよ……あの日、あの時、鎮守の森で、死んだかのように可哀そうに、憐れなご様子で草を褥(しとね)に、倒れておいでなさいましたお姿、それを見ました時どうしたものか、妾はそれこそ産れてはじめての、――本当の恋なのでございましょうねえ……そういう思いにとらえられ……まあ恥かしい同じ仲間の、たくさんの郷の人達が、側にいたのに臆面もなく、あたしゃアこのお方をご介抱するよと、ここへお連れして参りましたが……因果の恋なのでござりましょうねえ。……それにもう一つには妾にとりまして、あの水品陣十郎という男、本当の恋しい男でなく、愛する男でもありませぬ故と……そうも思われるのでござります」


「お妻殿!」とやや鋭く、やや怒った言葉つきで、咎めるように主水は云った。
「いかに拙者に恋慕の情をお運びになるあなたとはいえ、現在の恋人をあからさまに、恋せぬなどと仰せらるるは……そういうお心持でござるなら、拙者に飽きた暁には、又他の情夫に同じように、拙者の悪口を仰せられましょう……頼み甲斐なき薄情! ……」
「いいえ、何の、主水様、それには訳が、たくさん訳が……」
 あわてて云ったもののそれ以上、お妻は云うことは出来なかった。
 自分が女賊で、女邯鄲師(おんなかんたんし)で、平塚の宿の一夜泊り、その明け方に同宿の武士、陣十郎の胴巻を探り、奪おうとして陣十郎のため、かえって取って押えられ、それを悪縁に爾来ずっと、情夫情婦の仲となり今日まで続いて居るなどとは、さすが悪女の彼女としても、口へ出すことが出来なくて、自分はこの郷の香具師の娘、陣十郎に誘惑され、情婦となって江戸や甲州を、連れ廻されたとそんなように、主水には話して置いたのであった。
 女邯鄲師としての悪事の手證を、押えられたための情夫情婦、それゆえ本当の恋ではないと、こう云い訳出来ぬ以上は、そう主水に咎められても、どう弁解しようもなく、お妻は口籠ってしまったのであった。
 が、お妻はニッと笑い、もっともらしくやがて云った。
「妾の前に陣十郎には、情婦(おんな)があったのでござります。江戸両国の女芸人、独楽廻しの源女という女、これが情婦でござりまして、諸所方々を連れ歩いたと、現在の情婦の妾の前で、手柄かのように物語るばかりか、貴郎(あなた)様のお許婚(いいなずけ)の澄江様にも……」
「澄江にも! うむ、陣十郎め!」
「横恋慕の手をのばし……」
「いかにも……悪虐! ……陣十郎……」
「あの夜澄江様を誘拐(かどわか)し、しかも妾という人間を、下谷の料亭常磐などに[#「常磐などに」は底本では「常盤などに」]待たせ……さて首尾よく澄江様を、連れ出すことが出来ましたら、妾を秋の扇と捨て、澄江様を妾の代わりに……」
「何の彼如き鬼畜の痴者に、妹を、妹を渡してなろうか?」
「そういう男でござります。そういう男の陣十郎を、何で妾ひとりだけが……先が先ならこっちもこっち……主水様! 今は貴郎様へ!」
「それにいたしても、妹澄江は……」
「お許婚の澄江様は……」
「上尾街道のあの修羅場で、馬方博徒数名の者に、担がれ行かれたと人の噂……」
「人の噂で聞きましたなア……さあそのお許婚の澄江様……澄江様のお噂さえ出れば、眼の色変えてお騒ぎになられる」
「妹であれば当然至極!」
「可愛い可愛いお許婚なりゃ、脳乱[#「脳乱」はママ]遊ばすもごもっとも? ホ、ホ、ホ、その澄江様、どうで担いだ人間が、馬方博徒のあぶれ者なら? ……」
 しかしその時表の庭の、方角にあたって云い争う、男の声が聞こえてきた。
「や、あの声は?」
「おおあの声は」
 二人ながら森(しん)と耳を澄ました。

 陣十郎は弁三を突きのけ、村道から境の生垣を越え、表の庭へ入って行った。
「云い古されたセリフだが、俺の遣る金鼻薬は、小判じゃアねえドスだ延金だアッハハ、驚いたか望みならば――ズバッと抜いて、先刻も云った口から腹まで、差し込んでやろうどうだ、どうだ?」
 なお止める弁三を突きまくり、陣十郎はグングン歩いた。


「ままにしやアがれ!」
 不意に弁三は、年は取っても秩父香具師――兇暴の香具師の本性を現わし、猛然と吼え競い立った。
「裏座敷にゃア誰もいねえ! とこう一旦云ったからにゃア、俺も秩父香具師の弁三だ、あくまでも居ねえで通して見せる! 汝(うぬ)は何だ、え汝は? 馬の骨か牛の骨か、どこの者とも素性の知れねえ、痩せ浪人の身分をもって『刃ノ郷』の俺らの仲間、お妻ッ娘と馴れ合ったのさえ、胸糞悪く思っているのにここら辺りを立ち廻り、博徒の用心棒、自慢にもならねえヤクザの身を、変にひけらかせて大口を叩き、先祖代々素性正しく、定住している俺達へ、主人かのように振る舞い居る! ナニ刀だ! 抜いて切るって! おお面白い切られよう、が手前が切る前に、こっちもこっちで手前の体へ」
 喚くと陣十郎へ背中を向け、庭を突っ切り縁へ駈け上り、座敷へ飛び込むと床の間にある、鳥銃を抱えて走り出で、縁に突っ立ち狙いを定めた。
「秩父の山にゃア熊や狼が、ソロソロ冬も近付いて来た、餌がねえと吼えながら、ウロウロ歩いているだろう。狙い撃ちにして撃ち殺し、熊なら胸を裂き肝を取り、皮を剥いで足に敷く、秩父香具師の役得だア。手練れた鉄砲にゃア狂いはねえ! 野郎来やがれ、切り込んで来い! 定九郎じゃアねえが二ツ弾、胸にくらって血へどを吐き、汝それ前にくたばるぞよ! 来やアがれ――ッ」とまくし立て、まくし立てながらも手に入った早業、いつか火縄に火を付けていた。
「待て待て爺(おやじ)」と周章狼狽、陣十郎は胆を冷し、生垣の際まで後退った。
「気が短いぞ、コレ待て待て! ……鉄砲か、ウーン、こいつ敵(かな)わぬ……」
 まさか撃つまい嚇しであろう、そうは思っても気味が悪く、見ればいやいや嚇しばかりでなく、こっちを睨んでいる弁三の眼に、憎悪と憤怒と敵愾心とが、火のように燃えていた。
 ゾッと感ずるものがあった。
(いつぞやお妻に聞いたことがあった、いつぞやお茶ノ水の森の中で、お妻に頼まれて殺生ながら、叩っ切って殺した弁太郎という男、秩父香具師の膏薬売、弁三という老人の、失った一人の倅であると! おおそうだったこの弁三が、殺した弁太郎の父親だった。……下手人が俺だということなど、まさかに知っては居るまいが、親子の血がさせる不思議の業、この世には数々ある、何となく弁三爺の心に、俺を憎しむ心持が、深く涌いていないものでもない。もしそうなら撃つぞ本当に!)
 ゾッと感ずるものがあった。
 そこでいよいよ後退りし、小門の方へ後ざまに辿り、
「解った、よし裏座敷には、誰もいない、犬さえ居ない! よし解った、そうともそうとも! ……誰がいるものか、居ない居ない! ……居れば! 居れば悪いが……それもよろしい、居ない居ない! ……そこで帰る、撃つな撃つな! ええ何だ鉄砲なんど……恐ろしいものか、ちと怖いが……馬鹿!」と一喝! がその時には、既に村道へ遁れ出ていた。

生贄の女


 同じその日のことである。――
 高萩村の博徒の親分、猪之松の家は賑わっていた。
 馬大尽事井上嘉門様を、ご招待して大盤振舞いをする――というので賑わっているのであった。
 博徒とはいっても大親分、猪之松の家は堂々たるもので、先はお屋敷と云ってよく、土蔵二棟に離座敷、裏庭などは数奇(すき)を凝らした一流の料亭のそれのようであり、屋敷の周囲には土塀さえ巡らし、所の名主甚兵衛様より、屋敷は立派だと云われていた。内緒も裕福で有名であったが、これは金方が附いているからで、その金方が井上嘉門様だと、多くの人々は噂して居、噂は単なる噂ばかりでなく、事実それに相違なかった。
 猪之松という人間が、博徒のようになく人品高尚で、態度も上品で悠然としてい、お殿様めいたところがあり――だからどこか物々しく、厭味の所はあったけれど、起居動作はおちついている、行儀作法も法に叶っている、貴人の前へ出したところで、見劣りがしないところから、自然上流との交際が出来、そこで井上嘉門などという、大金持の大旦那に、愛顧され贔屓にされるのであった。
 金方の井上嘉門様を、ご招待するというのであるから、その物々しさも一通りでなく、上尾宿からは茶屋女の、気の利いたところを幾人か呼び、酒肴給仕に従わせ、村からも渋皮の剥けた娘――村嬢(そんじょう)の美(よ)いところを幾人か連れて来、酒宴の席へ侍らせたり、これも上尾の宿から呼んだ、常磐津(ときわず)の[#「常磐津(ときわず)の」は底本では「常盤津(ときわず)の」]女師匠や、折から同じ宿にかかっていた、江戸の芝居の役者の中、綺麗な女形の色若衆を、無理に頼んで三人ほど来させ、舞など舞わせる寸法にしてあった。
 田舎の料理は食われない――と云ったところで上尾も田舎、とは云え勿論高萩村より、いくらか都会というところから、料理は上尾からことごとく取った。
 兄弟分はいうまでもなく、主立った乾児幾十人となく、入れ代わり立ち代わり伺候して[#「伺候して」は底本では「仕候して」]、嘉門様からお流れ頂戴、お盃をいただいたりした。
 嘉門は午後(ひる)からやって来て、今は夜、夜になっても、仲々去らず、去らせようともせず、奥の座敷の酒宴の席は、涌き立つように賑わってい、高張を二張り門に立てて、砂を敷き盛砂さえした、玄関――さよう猪之松の家は、格子づくりというような、町家づくりのそれでなく、大門構え玄関附、そういった武家風の屋敷であったが、その玄関を夜になった今も、間断なく客が出入りして、ここも随分賑かであり、裏へ廻ると料理場、お勝手、ここは一層の賑かさで、その上素晴らしい好景気で、四斗樽が二つも抜いてあり、酒好きの手合いは遠慮会釈なく、冷をあおっては大口を叩き、立働きの女衆へ、洒落冗談を並べていた。
 陽気で派手でお祭り気分で、ワーッといったような雰囲気であった。
 その勝手元へ姿を現わしたのは、浮かない顔をした陣十郎であった。
「これはいらっしゃい水品先生、こんなに遅くどうしたんですい?」
 こう云って声をかけたのは、猪之松にとっては一の乾分――上尾街道で浪之助などに追われ、逃げ廻る弱者の峯吉ではなく――角力上り閂(かんぬき)峰吉であった。
「遅いか早いかそんなことは知らぬ。陽気だな、これは結構」どこかで飲んで来たらしく、陣十郎は酔っていたが、凄い据わった血走った眼で、ジロジロ四辺(あたり)を見廻わしながら、上ろうともせず随分邪魔な、上框(あがりかまち)へデンと腰かけ、片足を膝の上へヒョイとのっけ、楊子で前歯をせせり出した。


(ご機嫌が悪いぞ、あぶないあぶない)
 酒癖の悪いのを承知の一同、あぶないあぶないと警戒するように、互いに顔を見合わせたが、こんな時にはご自慢の情婦(おんな)――お妻を褒めるに越したことはないと、唐子の音吉というお先ッ走りの乾児が、
「姐御、どっこい、奥様だったっけ、奥様お見えになりませんが、一体全体どうしたんで、こんな時にこそご出張を願って、あの綺麗で粋なご様子で、お座敷の方を手伝っていただき、愛嬌を振り蒔いていただけば、嘉門様だって大喜び、親分だって大恭悦、ということになるんですがねえ。それが昼から夜にかけて、一度もお見えにならねえなんて……一体全体奥様は……」
「奥様? ふん、誰のことだ!」
 ギラリと陣十郎は音吉を睨み、
「奥様、ふふん、どいつのことだ!」
「どいつッて、そりゃ、お妻さんのこと……」
「枕探し! ……あいつのことか!」
「え? 何ですって、こいつアひでえや」
 ヒヤリとして音吉は首を縮めた。
 勿論音吉をはじめとして、乾児一同お妻のことを、どうせ只者じゃアありゃアしない。枕探し、女邯鄲師(かんたんし)、そんなようには薄々のところ、実は推していたようなものの、亭主――情夫――陣十郎の口から、今のようにあからさまに云われては、ヒヤリとせざるを得なかった。
「何を云うんですい、水品先生」
「何とは何だ、これ何とは! ……枕探しだから枕探し、こう云ったに何が悪い。いずれは亭主の寝首を掻く奴! ……そんな女でも奥様か!」
「ワ――ッ、不可(いけ)ねえ、何を仰有るんで、……奥様で悪かったら奥方様……」
「出ろ! 貴様! 前へ出ろ!」
 勝手元一杯に漲っていた、明るい燈火(ひ)がカッと一瞬間、一所へ集まり閃めいた。
 見れば陣十郎の右の手に、抜かれた白刃が持たれていた。
 バタバタと女達は奥の方へ逃げた。
「アッハハハ」と陣十郎は、不意に気味悪く笑い出した。
「ある時には関の孫六、ある時には三条小鍛冶、ある時には波の平! 時と場合でこの刀、素晴らしい銘をつけられるが、ナーニ本性は越前直安(ただやす)、二流どころの刀なのさ。……が、切れるぞ、俺が切れば! ……千里の駒も乗手がヤクザで、手綱さばきが悪かろうものなら、駄馬ほどにも役立たぬ。……名刀であろうとナマクラが持てば、刀までがナマクラになる。……それに反して名人が持てば、切れるぞ切れるぞ――ズンと切れる! ……嘘と思わば切って見せる! ……どいつでもいい前へ出ろ!」
 云い云い四方を睨み廻した。
 山毛戸(やまかいど)の源太郎、中新田の源七、玉川の権太郎、閂峰吉、錚々(そうそう)たる猪之松の乾児達が、首を揃えて集まってはいたが、狂人(きちがい)に刃物のそれよりも悪く、酒乱の陣十郎に抜身を持たれ、振り廻されようとしているのであった。首を縮め帆立尻(ほたてじり)をし、ジリジリと[#「ジリジリと」は底本では「ヂリヂリと」]後へ退(さが)りながら、息を呑み眼を見張り、素破(すわ)と云わば飛んで逃げようと、用心をして構えていた。


「アッハハハ」
 と陣十郎は、また気味の悪い笑声を立てた。
「切る奴は他にある、汝(おのれ)らは切らぬ、安心せい……鴫澤主水(しぎさわもんど)を探し出し、ただ一刀に返り討ち! 婦(おんな)、お妻を引きずり出し、主水ともども二太刀で為止(しと)める。……久しく血を吸わぬ越前直安、間もなく存分に血を吸わせてやるぞ!」
 燈火(ともしび)に反射してテラテラ光る、ネットリとした刀身を、じっと睨んで呟くように云ったが、
「汝ら解るか男の心が? 己を殺そうとして付け廻している、敵(かたき)を持っている男の心が」
 乾児達の方を振り返った。
「へい」と云ったのは閂峰吉で、
「さぞまア気味の悪いことで、いやアなものでございましょうなあ」
「討たれまいとして逃げ廻る。いやなものだぞ、いやなものだぞ」
「いやアなものでござりましょうなあ」
「が、一面快い」
「…………」
「討て、小童(こわっぱ)、探し出して討て! が俺は逃げて逃げて、決して汝には討たれてやらぬ。……こう決心して逃げ廻る心、快いぞ快いぞ」
「そんなものでございますかなあ」
「とはいえ厭アな気持のものだ。討つ方の心は一所懸命、命を捨ててかかっている。討たれる方は討たれまいとして、命を惜しんで逃げ廻る。心組みが全く別だ。討つ方には用心はいらぬ。討とう討とうと一向だ。討たれる方は用心ばかりだ。
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