剣侠
[青空文庫|▼Menu|JUMP]
著者名:国枝史郎 


「高萩の、ちょっと待ってくれ」
 林蔵は正面から声をかけた。
「おお、これは赤尾のか、どうして今頃こんな所に?」
 猪之松はちょっと驚いたように、足を止めてそう云った。
「何さ昨夜(ゆうべ)上尾へ行って、陽気に騒ごうと思ったところ、馬大尽が山城屋に来ていて、表を閉めての多々羅遊び、そこでこっちはすっかり悄気(しょげ)、つまらねえ所へ上ってしまい、面白くもねえところから、夜の引き明けに飛び出して、野面の景色を見ていたってわけさ。……見ればお前さんも朝帰りらしいが、上尾へでも行ったのかえ」
「うむ」と猪之松は苦い顔をし、当惑らしくそう云ったが、
「実は俺らもその通り、上尾へ行って遊んだが、面白くもねえ待遇を受け、業を湧かしての帰り道さ。いやすっかり懲りてしまった」
「あんまり懲りてもいないようだが……そうしてどこへ上ったのかな?」
「楼(うち)か、楼は、ええと笹屋だ」
「へえ、こいつは面妖だな。俺らの上ったのも笹屋だが、お前さんの噂は聞かなかったぜ」
「はてな、それじゃア違ったかな」
「大違いの真ン中だろう。……まあそんなことはどうでもいい。そこで高萩の相談がある。聞けばお前さんは小川宿の、逸見(へんみ)多四郎先生の、直弟子で素晴らしい手並とのこと、以前から一度立合って、教えを受けたいと思っていた。ここで逢ったは何より幸い、あまり人通りも無さそうだから、迷惑だろうが立合ってくれ」
「ナニ立合え? ……剣術の試合か?」
「それも是非とも真剣で」
「真剣勝負?」
「命の遣り取り!」
「…………」
 猪之松は無言で眼を見張った。
 しかし心では考えた。
(お山との関係を知ったらしい。そのお山だがこっちから手を出し、横取りしたというのではない。向こうからお膳を据えたので、林蔵との関係は知っていたが、そこは売物買物だ。こだわらずに膳を食べたまでだ。とはいえ林蔵の身になってみれば、気持のいいことはあるまいよ。……そんなお山のことばかりでなく、従来縄張りの争いから、気持の悪いことばかりが、双方の間にあったはずだ。そこで林蔵はその葛藤を、今日一気に片付けようと、ていのいい真剣の試合に事寄せ、俺を討取ろうとするのだな)
 ただし猪之松は昨夜山城屋が、林蔵に戸閉めをくれた上、馬大尽が来ているなどと、嘘を云ったというようなことは、夢にも知ってはいなかった。というのは山城屋の若衆の、それは勝手のあつかいだったからで。猪之松はあの晩お山の頼みで、総仕舞いをしてやったばかりなのであった。
「どっちみち何時(いつ)かは俺と林蔵とは、命の遣り取りをしなければならねえ、そこ迄の事情に逼っている。と云ったところでこんな往来で、しかもこんな朝っぱらに、試合などに事寄せられて、勝負をするのは気色が悪い、ここは一先ず避けることにしよう」
 林蔵よりは年長であり、思慮も熟している猪之松だったので、そう腹を定めると笑顔を作って云った。


「いかにも俺は逸見(へんみ)先生から、剣術を仕込まれてはいるけれど、聞けばどうしてお前さんこそ、剣道にかけては鬼神と呼ばれる、秋山要介先生から、極意を授かっているとのこと。とても俺など敵いそうもない。まあまあ試合はお預けとしようよ」
「それじゃア何かな……」と林蔵は、少し急き込み進み出た。
「勝負はしねえとこういうのか?」
「そうさ、勝負は、いずれその中、盆蓙(ぼんござ)の上でするとしよう」
「ほほうそれじゃア博奕打は、盆蓙の上で勝ちさえすりゃア真剣勝負には及ばねえと、こうお前さんは云いなさるのか」
「まあそういったところだろう。無職渡世の俺らには、何より賽コロの勝負が大事、刃物三昧は二の次さ」
 猪之松は冷やかに云い放し、口をゆがめて嘲るように笑った。
 林蔵はいよいよ急き立ったが、グッと抑えてこれも嘲笑し、
「そうかお前さんがそういうふうなら、真剣勝負は止めにしよう。がその代り今日これから、高萩の猪之松は渡世に似合わず、刃物を恐れる卑怯者、赤尾林蔵の手並に怯え真剣勝負を拒断(ことわ)ったわと、関東一円触れ廻っても、決して苦情は云うまいぞよ」
 云いすてるとペッと唾を吐き、グルリと猪之松へ背中を向け、街道を赤尾村の方へ歩き出した。
「おい赤尾の、ちょっと待ちな」
 怒った猪之松の声がした。
「用か」と振り返った林蔵の前に、猪之松の抜いた長脇差が、白く真直に突きつけられていた。
「や、とうとう、それでも抜いたか!」
「そうさ、それまでこの猪之松に、真剣勝負を望むなら、俺も男だ引きはしねえ。気持よく相手になろうじゃねえか。……やいやい手前達……」と振返り、乾児達へ声をかけた。
「赤尾のと俺との真剣勝負、手を出しちゃアならねえぞ。もし俺が殺されたら、そうさな骨だけは拾ってくれ。……それから水品先生もだ……」
 こう云うと猪之松は編笠を冠った、浪人武士の方へ顔を向け、
「貴郎(あなた)も助太刀などなされずに、最後まで見ていておくんなせえ」
「心得てござる」と云いながら、その武士はゆるゆると編笠を脱いだ。
 鴫澤庄右衛門を討って取り、甲州へ一旦落ち延びたが、主水が敵討にやって来るであろう、燈台かえって下暗し、それに武州には甲州以上に、親しくしていた博徒があり、身上の治まらぬところから、破門はされたが剣道の師匠、逸見多四郎先生も居られる、かたがた都合がよかろうと、甲州から武州へ引っ返し、以前わけても世話になった高萩村の猪之松方に、賭場防として身を寄せた。それは水品陣十郎であった。
 脱いだ編笠を手に提げて、その陣十郎は立木に背をもたせ、
「お貸元同志の一騎討ち、またと見られぬ真剣勝負、とくと拝見いたしましょう。が、もし高萩の親分にもしものことがございましたら、きっと陣十郎林蔵殿を、生かしてお帰しはいたしませぬ」
 云い云い気味悪く白い眼で笑った。


 猪之松が林蔵へ声をかけた。
「さあ乾児どもへも云い聞かせた。横から手出しはさせねえつもりだ。二人だけの太刀打ち勝負、遠慮なくどこからでも切り込んで来なせえ!」
 ピタリと正眼に太刀を構えた。
「さすがは高萩の見上げた態度、それでこそ男だ気持がいいや。……行くぞ――ッ」と叫ぶと赤尾の林蔵は、脇差を抜くとこれも正眼に、ピタリとばかりに引っ構えた。
 新影流と甲源一刀流、相正眼の厳重の構え、水も洩らさぬ身の固め、しばらくの間は位取ったばかりで身動き一つしなかった。
 と、この時上尾の宿から、旅仕度をした一人の武士と、その連れらしい一人の女とが、差し出たばかりの朝日を浴びて、急ぎ足で歩いて来た。
 鴫澤主水(しぎさわもんど)と澄江(すみえ)とであった。
 昨日見かけた編笠の武士が、敵水品陣十郎か否か、それを窃(ひそか)に確かめようと、上尾宿の旅籠桔梗屋を立って、高萩村へ行こうとして、今来かかった途中なのである。
「お兄様あれは?」と澄江は云って不安そうに指を差した。
 博徒風の人間が切り合ってい、数人の者がそれを見ている、そういう光景が行手に在り、鏘然その時一太刀合い、日光に白刃が火のように輝き、直ぐに引かれて又相正眼、二人が数間飛びすさり、動かずなった姿が見られた。
「切り合いだな」と主水は云った。
「博徒同志の切り合いらしい」
「かかりあいなどになりましては、大事持つ身迷惑千万、避けて行くことにいたしましょう」
「それがよかろう」と主水は云った。
「ではその辺りから横へ逸れて……お待ち」と不意に足を止め、主水はじっと一所を見詰めた。
「立木に背(せな)をもたせかけ、切り合いを見ている武士がいる。昨日見かけた編笠の武士だ!」
「まあ」と澄江は声をはずませ、主水へ躰を寄り添わせたが、
「あのお侍さんでございますか。……おお、まさしく水品陣十郎!」
「編笠を脱いだあの横顔、いかさま陣十郎に相違ない! ……妹!」
「お兄様! 天の賜物!」
「とうとう逢えた! さあ用意!」
「あい」と云うと懐中していた、長目の懐刀の紐を解いた。
 尋ねる親の敵の姿を目前にまざまざ見かけたのであった。思慮深い主水もいくらか上気し、敵陣十郎の周囲にいる博徒が、陣十郎に、味方をして、刃向って来ないものでもない、そういうことさえ思慮に入れず、討って取ろうの一心から、妹澄江と肩を並べ、陣十郎に向かって走りかかり、正面に立つと声をかけた。
「珍らしや水品陣十郎、我等兄妹を見忘れはしまい。よくぞ我父庄右衛門を、悪逆無道にも討ち果したな。復讐の念止みがたく、汝(おのれ)を尋ねて旅に出で、日を費すことここに三月、天運叶って汝を見出でた! いざ尋常に勝負に及べ!」

復讐乱闘


 声をかけられて陣十郎は、さすがに狼狽し顔色を変え、背にしている木立から素早く離れ、その木立を前に取り、しばらくは無言で主水兄妹を、幹越しに睨み息を詰めた。
 が、思案が定まったらしい、蒼白であった顔色へ、俄かに赤味を加えたが、
「おお汝らは鴫澤(しぎさわ)兄妹、何の見忘れてよかろうぞ、汝らの父親庄右衛門のために、堪忍ならぬ恥辱を受け、武士の面目討ち果し、立ち退いて来たこの拙者だ、何の見忘れてよかろうぞ。それにもかかわらずこの拙者を、敵呼ばわり片腹痛し、怨みといえば某(それがし)こそ、かえって汝らに持つ身なるわ! ……敵討とな、笑止千万! 逆怨みとは汝らのことよ! ……が、逆怨みしてこの拙者を、討ち取るとあらば討ち取られよう。とはいえ只では討ち取られない。いかにも尋常の勝負してくれよう。その上での命の遣り取り! あべこべに汝ら討って取られるなよ。……やあ高萩の兄弟衆、お聞き及び通りご覧の如く、こやつら二人逆怨みして、拙者を敵と云いがかり、理不尽にも討ち取ろうといたします。拙者は一人相手は二人、日頃の誼(よし)み兄弟分の情、何卒お助太刀下されい」
 卑怯にも黒白を逆に云い做らし[#「云い做らし」は底本では「云ひ做らし」]、思慮の浅い博徒を唆(そそ)り[#「唆(そそ)り」は底本では「唆(そそ)そり」]、主水兄妹を討ち取らせようと、そう陣十郎は誠しやかに叫んだ。
「合点だ、やれ!」と応じたのは猪之松の乾兒(こぶん)の角太郎であった。
「水品先生を敵と狙う! とんでもねえ奴らだ料ッてしまえ!」
「合点だ、やれ!」
「やれやれやれ!」
 八五郎、権六、〆松、峯吉、無法者の四人の乾兒達も、そう叫ぶと脇差を一斉に抜いた。
 親分猪之松と林蔵とが、二人ばかりの果し合いに、今も白刃を構えている[#「構えている」は底本では「構えるている」]、親分の命で手出しが出来ない、謂う所の脾肉の嘆! それを喞っていた折柄であった。切り合う相手が現われた。理非曲直(りひきょくちょく)は二の次である、血を見ることが出来、切り合うことが出来る、これだけでもう満足であった。
「やれやれ!」と喚きをあげながら、主水と澄江とを引っ包み、無二無三に切りかかった。
 主水は驚き怒ったが、妹澄江を背後に囲うと、
「やあ方々理不尽めさるな、我等は主君よりお許しを受け、免状までも頂戴致し、公に復讐に参ったものでござる! 怨敵は水品陣十郎、その陣十郎をお助けなさるとは、伊達衆にも似合わざる無道の振舞、お退き下され、ご見物下され!」
 必死の声でそう叫んだ。
 と、姦物陣十郎は、鷺を烏と云いくるめる侫弁、
「あいや方々偽(いつわり)でござるぞ、彼らの言葉をお信じ下さるな。免状を持った公の復讐何の何の偽りでござる。こやつら二人父の不覚が、身の破滅となり知行召し上げ、屋敷を放逐されたはず、人の噂で聞き及び居ります。所詮は浪人の窮餘の索、拙者を討ち取ってそれを功に、帰参願おうの手段でござる!」


「そうとさそうとさ!」
「それに相違ねえ」
「何でもいいから料ッてしまえ!」
 角太郎はじめ五人の博徒は、主水兄妹に切りかかった。
 こうなっては問答は無益、切り払って危難をまぬがれ、陣十郎に近寄って、討ち取るより他に策はなかった。
「理非を弁えぬ汝ら博徒、その儀なれば用捨はならぬ、切って切って切りまくり、五ツ屍を積んで見せる……妹よ、澄江よ、背を合わせて……」
「あい」と云うと妹澄江も、血相変えて一所懸命、懐刀逆手に真向に構え、背中を主水の背中に附けた。
「くたばれ、野郎!」とその瞬間、主水目掛けて躍りかかったは、剣法は知らぬが喧嘩には巧みの、切り合いには手練の角太郎であった。
 音! 鏘然、つづいて悲鳴!
 捲き落とされた脇差が、土煙立つ街道に落ち、肩を割られた角太郎が、足を空ざまに宙に上げ、
「切られた――ッ、畜生! ……畜生! 畜生! 畜生!」
 倒れてノタウチ這い廻り、はだけた胸を血で濡らした姿が、悲惨に醜く眺められた。
「ワ――ッ」と博徒どもは一度に退いた。
「妹、つづけ!」とその隙を狙い、開けた人垣から突き進み、陣十郎目掛けて主水は走った。
「陣十郎! 汝(おのれ)! ……尋常に勝負!」
 真向に刀を振り冠り、走り寄られて陣十郎は、既にこの時抜いていた刀を、これは中段に構えながら、主水の凄じい気勢に壓せられ、剣技はほとんど段違いの程度に、自身(おのれ)勝っては居りながら、ジタジタと後へ引き、しばらく姿勢を保ったが、敵わぬと知ったか何たる卑怯! 街道を逸れて耕地の方へ主水へ背を向け走り出した。
「逃がしてなろうか、汝(おのれ)陣十郎! 穢き振舞い、返せ、勝負!」
 主水は罵って後を追った。
 二十間あまりも追ったであろうか、
(妹は?)と気が付き振り返った。
 四人の博徒に取り囲まれ、切りかかる脇差を左右に反(か)わし、脱けつ潜りつしている澄江の姿が、街道の塵埃(ほこり)を通して見られた。
(南無三、妹を死なしてなろうか!)
「澄江ヨ――ッ」と呼ばわり引っ返したが、
「主水勝負!」と陣十郎の声が、刹那背後から聞こえてきた。
「心得たり!」と振り返った主水の、眼前を閃めく白刃の光!
「音!」
 鏘然!
 陣十郎と、はじめて主水は一合した。
 が、次の瞬間には、互いに飛び違い構えたが、敵(かな)わぬと知ったか復(また)も卑怯、陣十郎は走り出した。
「待て、汝、卑怯未練! 逃げようとて逃がそうや!」
 追っかけたが妹が気にかかり。
「澄江ヨ――ッ」と呼ばわり振り返った。


「お兄イ様ア――ッ」と答える澄江の声が聞こえ、つづいてワ――ッという悲鳴が聞こえ、その澄江に突かれたのであろう、一人の博徒が横腹を抑え、街道から耕地へ転がり落ちる姿と、散った博徒の間を突破し、こっちへ走って来る澄江の姿とが見えた。
「妹、見事! ……兄はここじゃ!」
 呼ばわった主水の背後から、
「勝負! 主水! 参るゾッ」という、陣十郎の声が聞こえた。
「参れッ」と叫んで振り返り、途端に日の光を叩き割り、切り込んで来た陣十郎の刀を、鍔際で受けて頭上に捧げ、皮を切らせて敵の肉を切る、入身捨身仏魔(いりみしゃしんぶつま)の剱! それで切り込んだ主水の刀を、何と無雑作に陣十郎は、受けもせず横に払い捨て、刀を引くと身を翻えし、またも一散に走り出した。
 策有って逃げると感付かぬ主水、
「またも逃げるか、未練の陣十郎! 遁さぬ、返せ、父の敵!」
 叫んで追い、追いつつ振り返り、
「妹ヨーッ、ここじゃ、兄はここじゃ! ……待て陣十郎、逃げるとは卑怯……妹ヨーッ」と十間二十間! 既に二町を街道から離れた。
 行手に巨大な薮があり、丘の如くに盛り上っていたが、その裾を巡って走って行く、陣十郎の後を追い、これも薮を向こうへ廻り、振り返っても街道は見えず、妹の姿も見えなくなった時、
「主水」と叫んで陣十郎が、自身(おのれ)と後へ引っ返して来、
「フ、フ、フ、不愍の痴者(しれもの)、ここまで誘き寄せられたか。……誘き寄せようため逃げた拙者、感付かぬとは扨々(さてさて)笑止、が、そこがこっちの付目、人目あっては嬲殺しは出来ぬ、今は二人だ、二人ばかりだ、逃がそうとて拙者は逃げぬ、逃げようとて汝(おのれ)逃がさぬ、薮を盾に人目を遮り、久しく血を吸わぬこの業物(わざもの)に、汝の血を吸わせてやる。……ゆるゆると殺す、次々に切る。……まず最初に右の手、つづいて左の手を切り落とす。つづいて足じゃ、最後に首じゃ! ……前代未聞の返り討ちに、汝逢ったと閻魔の庁で、威張って宣(なの)り[#「宣(なの)り」は底本では「宜(なの)り」]通れるよう、むごたらしくきっと殺してやる! ……さあこの構え、破らば破れッ」
 極悪非道の吸血鬼、変質性の惨虐の本性、今ぞ現わして陣十郎は、甲源一刀流上段の構え、左足を踏み出し太刀を振り冠り、左手の拳、柄頭の下から、憎々しく主水を横平に睨み、鍔際を握った右の手で、からかうように太刀を揺すぶった。
 勝れた業の恐ろしさよ! 振り冠られた刀身は、凍った電光のそれのように、中段に太刀を付けた主水の全身を、威嚇し圧して動かさなかった。
 八方へ心を配ったあげく、博徒一人をともかく切った。人一人切った心身の疲労(つかれ)、尋常一様のものではない。のみならず敵を追い二町の耕地を、刀を振り振り走って来た。その疲労とて一通りではない。主水は疲労に疲労ていた。そのあげくに向けられた悪剣!
 眩む眼! 勢(はず)む呼吸(いき)!


 博徒〆松(しめまつ)の横腹を、懐剣で一突き突いて倒し、散った博徒の間を突破し、陣十郎の後を追う、兄主水に追い付こうと、澄江は疲労に疲労た足で、耕地を一散に走ったが、懲りずに追い縋る博徒三人に、又も囲まれ切り込まれた。
「まだ来る気か!」と女ながらも、田宮流の小太刀を使っては、男勝りの手練の女丈夫、しかし獲物は懐剣であった、相手の脇差は受けられない、そこで飛び違い遣り違わせ、機を見て突きつ切りつして、
「お兄イ様ア――ッ」と呼ばわり呼ばわり、主水の後を追おうとした。
 と、気づいて主水の方を見た。
 主水の姿が見えなくなっていた。
 驚き、落胆し、放心しようとした。
 クラクラと眼が廻り、全身の力が一時に脱け、腕が烈しく動悸打ち、眼の先が暗くなった。
 たった先刻(さっき)まで陣十郎を追い追い、自分の名を呼んで力づけてくれた兄! その兄はどこへ行った? 陣十郎のために殺されたか? 広い耕地、飛々にある林……丘、大薮、畦、小川……遥か彼方には秩父連山! ……朝の日が野面にいっぱいに充ち、小鳥が四方に翔けている。……兄の姿も陣十郎の姿も、その野面のどこにも見えない。
「お兄イ様ア――ッ」と呼ばわった。
 木精(こだま)さえ返って来なかった。
 クラクラと眼眩み倒れようとした。
 そうでなくてさえ荒くれ男、数人を相手に闘ったあげく、一人を突いて倒していた。疲労困憊その極にあった。しかも今も切りかかって来ている。そこへ兄であり恋人であり、許婚(いいなずけ)でもある主水の姿が見えなくなってしまったのである。
 恐怖、不安、焦燥、落胆!
 フラフラと倒れかかった。
「くたばれ――ッ」とばかりそこを目掛け、博徒権六が切り込んだ。
 あやうく反わしたが躓(つまず)いて、澄江はドッと地に倒れた。
「しめた」と峯吉が切り下ろした。
 パ――ッ! 倒れた姿のままで、早速の気転土を掬い、澄江は峯吉の顔へ掛けた。
「ワッ」
 よろめき眼を抑え、引いたのに代って八五郎が、
「洒落臭え女郎!」と突いて来た。
 ゴロリ! 逆に八五郎の方へ、寝返りを打って片手を延ばし、八五郎の足の爪先を掴み、柔術の寝業、外へ捻った。
「痛え!」
 悲鳴して倒れた途端に、澄江は飛び起きフラフラと走り、
「お兄イ様ア――ッ」と悲しそうに呼んだ。
 が、これがほとんど最後の、彼女の懸命の努力であった。
 二間あまりも走ったが、不意に立ち止まるとブルブルと顫え、持っていた懐刀をポタリと落とし、あたかも腐木が倒れるように、澄江は地上へ俯向けに倒れた。
 意識が次第に失われて行く。
 その消えて行く意識の中へ、入って来る[#「入って来る」は底本では「入って來る」]博徒達の声といえば、
「殺すのは惜しい、担いで行け」


 澄江を担いで三人の博徒が、高萩村の方へ走り出した時、街道へ二つの人影が現われ、指差ししながら話し合った。
 杉浪之助と藤作であった。
 今朝笹屋で眼をさまして聞くと、親分林蔵は少し前に、一人で帰ったということであった。そこで二人は少なからずテレて、急いで仕度(したく)をし出て来たところで、みれば博徒風の三人の男が、若い一人の女を担ぎ、耕地を走って行くところであった。
「この朝まだきに街道端で、女を誘拐(かどわか)すとは不埒千万、藤作殿嚇して取り返しましょうぞ」
「ようがす、やりましょう、途方もねえ奴らだ」
 二人は素早く追いついた。
「やい待て待て、こいつらア――ッ」
 まず藤作が声を上げた。
「女を誘拐(かどわか)すとは何事だ! ……ヨ――、汝(うぬ)らア高萩の、猪之松身内の八五郎、峯吉!」
「何だ何だ藤作か! チェッ、赤尾の百姓か!」
 峯吉が憎さげにそう叫んだ、
「百姓とは何だ、溝鼠。……杉さん、こいつらア猪之松の乾兒(こぶん)で……」
 それ以前から[#「それ以前から」は底本では「それ以然から」]杉浪之助は、担がれている女へ眼をつけたが、姿こそ旅装で変わってはいたが、いつぞやの夜、本郷の屋敷町で、危難を秋山要介と共に、救ってやった鴫澤(しぎさわ)家の娘、澄江であることに気がついた。
「やあ汝(おのれ)ら!」と浪之助は叫んだ。
「その女は拙者の知人、汝らに担がれ行くような、不束(ふつつか)のある身分の者ではない。……放せ! 置け! 汝等消えろ!」
「何を三ピン」と八五郎は怒鳴った。
「どこの二本差か知らねえが、俺らの獲物を横から来て、持って行こうとは気が強えや! ……問答は無益だ叩きのめせ!」
「よかろう、やれ!」と命知らず共、担いでいた澄江を抛り出すと、脇差を抜き無二無三に、浪之助と藤作とに切ってかかった。
「殺生ではあるがその儀なれば」
 刀を引き抜き浪之助は、ムーッとばかりに中段につけた。
 性来堕弱の彼ではあり、剣技にも勝れていない彼ではあったが、三カ月というもの秋山要介に従い義侠の精神を吹き込まれ、かつは新影流(しんかげりゅう)の教えを受けた。名人から受けた三カ月の教えは、やくざの師匠の三年に渡る、なまくらの教えより功果がある。今の浪之助というものは、昔の浪之助とは事変わり、気魄横逸勇気凜々、真に大丈夫の俤(おもかげ)があった。
 その浪之助に構えられたのである。
 博徒共は怖気を揮った。
 三人顔を見合わせたが、誰云うともなく、
「いけねえ」
「逃げろ!」
 三方に別れて逃げてしまった。
 と見て取った浪之助は、刀を鞘へ納めるのも忙しく、澄江の側へ走り寄り、地に膝突き抱き介(かか)え、
「澄江殿! 澄江殿!」と呼ばわった。が気が付き、
「これは不可(いけ)ない。気絶して居られる、では、よし」と、急所を抑え「やッ」と活だ!


「あッ」と澄江は声を上げ、息吹き返し眼を見開らき、茫然と空を眺めたが、
「お兄イ様ア――ッ」と恋しい人を、苦しい息で血を吐くように呼んだ。
「拙者でござるぞ、杉浪之助で! 気が付かれたか、拙者でござるぞ!」
 そう呼ぶ浪之助の顔を見詰め、しばらく澄江は不思議そうに、ただハッハッと荒い息をしたが、
「お、お――、貴郎(あなた)様は……いつぞやの晩……あやうい所を……」
「お助けいたした杉浪之助! 再度お助けいたしたは、よくよくの縁、ご安心なされ! それに致してもこの有様は?」
「は、はい、有難う存じます。ご恩は海山! ご恩は海山! ……お兄イ様ア――ッ」とまたも呼んだ。
「お兄イ様とな? 主水殿か? ……その主水殿、如何(いかが)なされた?」
「敵(かたき)……父上の……父上の敵……陣十郎に巡り逢い……切り合う間に兄上には、陣十郎に誘き出され! ……向こうへ、向こうへ、向こうへ行き……そのまま姿が見えずなり……お兄イ様ア――ッ」とまたも呼び、再び気絶したらしく、ぐったりとなりもたれかかった。
「おおそうか、さてはお二人、兄妹お二人敵討ちの旅に、お出でなされたと伝聞したが、その敵の水品陣十郎に、おおそうか、さてはここで、お出逢いなされて切り合ったのか。……それにしても無双の悪剣の使手、陣十郎と太刀打ちしては、主水殿に勝目はない。……その陣十郎に誘き出された? ……一大事! 捨てては置けぬ! ……とは云えどこへ? どこへ主水殿は?」
 向こうへ向こうへと云ったばかりで、どの方角へ行ったとも云わず、再度澄江は気絶してしまった。
「どこへ? どっちへ? 主水殿は?」
「杉さん……てっきり……高萩村だア!」
 それまで側(そば)に佇んで、気を揉んでいた藤作が叫んだ。
「このお女中を引っ担ぎ、連れて行こうとしたからにゃア、先刻(さっき)の奴らァ陣十郎とかいう、悪侍の一味でごわしょう。その先刻の奴らといえば、高萩村の猪之の乾兒で。ですから恐らく陣十郎って奴も猪之の家にいるのでござんしょう。ということであってみれば陣十郎とかいう悪侍、主水様とかいうお侍さんを、高萩村の方角へ……」
「いい考え、そうだろう。……では拙者はその方角へ……藤作殿頼む、澄江殿の介抱! ……」
「合点、ようがす、貴郎は早く……」
「うむ」と云うと股立取り上げ、大小の鍔際束に掴み、大薮のある方角とは、筋違いの方角高萩村の方へ、浪之助は耕地の土を蹴り、走った、走った一散に走った。
 この時上尾宿の方角から、馬大尽を迎えに出、慰労とあって猪之松により、乾兒共々上尾宿の、山城屋で猪之松に振舞われ、少し遅れてその山城屋を出た、高萩村に属している、四人の博労が酔いの覚めない足で、機嫌よくフラフラと歩いて来た。


 それへぶつかったのは八五郎であった。
 浪之助のために威嚇され、盲目滅法に逃げて来た、猪之松の乾兒の八五郎であった。
「いい所で逢った、さあ頼む。……事情は後でゆっくり話す。……今は頼む、加勢頼む。……玉を……女だ……女を一人……担いで行くんだ、一緒に来てくれ」
 息せき喋舌(しゃべ)る八五郎の言葉に、猟り立てられた四人の博労は、
「ようがす、やりやしょう、合点だ! ……誘拐(かどわかし)と来ちゃアこっちの領分、まして高萩のお身内衆のお頼み恐れるところはありゃアしねえ。それ行け、ワ――ッ」と走り出した。
 来て見れば先刻の侍は居らずに、藤作一人が途方に暮れたように、気絶している女の周囲を、独楽のようにグルグル廻っていた。
 そこへ押し寄せた五人の同勢、
「この女だ、それ担げ!」
 ムラムラと寄ったのに驚いた藤作、
「こいつらア……馬方め……八五郎もか! ……また来やがったか、汝(おのれ)懲りずに」
 喚いて脇差を引っこ抜き、振り舞わしたが多勢に無勢、すぐに脇差は叩き落とされ、それに博労の喧嘩上手、土を掬うとぶっ掛けた。
 口に入り眼に入った。
「ワ――ッ、畜生! 眼潰しとは卑怯な」
 倒れて這い廻る藤作を蹴り退け、澄江を担いで五人の者は、耕地を横切り、丘、森、林、畦や小川を飛び越え躍り越え、どことも知れず走り去った。

 大薮の陰に刀を構え、睨み合っている陣十郎と主水、二人の構えには変わりはなかった。
 上段に振り冠った陣十郎は、その刀を揺すぶり揺すぶり、命の遣り取りのこの際にも、大胆不敵悠々寛々一面相手の心を乱し、あせらせ焦心(じら)せ怒らせようと、憎々しく毒々しく喋舌りつづけた。
「さあさあ主水切り込んで来い。籠手を打て、右籠手を! と拙者は引っ外し、大きく右足を踏み出して、貴様の肩を叩き割る。……それとも諸手に力を集め、胸元へ突を入れて来てもいい。と拙者はあやなして反わし、あべこべに貴様の咽喉を刺す……が、貴様も多少はできる腕、思うにその時右足を引き、拙者の切先を右に抑え、更に左足を引くと共に、又切先を右に抑えよう。アッハハハ、畳水練、道場ばかりで試合をし、真に人間を殺したことのない、貴様如き惰弱の武士の、やり口といえば先ずそうだ。……そこで拙者はどうするか? ナーニそのつど逆を取り、左足を進め右足を進め、位詰めにしてグングン進み、貴様を追い詰め追い詰める。……追い詰めたあげくどうするか? さあそのあげくどうするか?」
 云い云い陣十郎は言葉通り、左足を進め左足を進め、一歩一歩ジリリ、ジリリと、主水を薮の方へ追い詰めて行った。
 主水は次第に後へ下った。
 飛び込もうとしても飛び込めず、切りかかろうとしても切りかかれない。
 業の相違、伎倆(うで)の差違、段違いの悲しさは、どうすることも出来ないのであった。


 追い詰められながらも妹のことを、主水は暇なく思っていた。
 多勢に一人、しかも女、どうしただろうどうしただろう? ……叫声がする! 悲鳴が聞こえる! ……殺されたのではあるまいか? ……背後(うしろ)は大薮、それに遮られて、俺の姿は見えないはずだ。案じていよう悶えていよう。……
 上段に冠っていた陣十郎の刀が、忽然中段に直ったのは、主水が全く薮の裾に追い詰められた時であった。
「さあ追い詰めた! さてこれから……」
 陣十郎はまた喋舌り出した。
「退くことはなるまい、切り込んで来い、親の敵のこの拙者だ、さあ討ち取れ、切り込んで来い!」
 主水の咽喉へ切先を差しつけ、左の拳を丹田より上、三寸の辺りにぴたりとつけ、しかも腹部より二握りを距て、刀を構えて静まり返り、今度こそ切るぞ! からかうのは止めだ! こう決心をしたらしく、肺腑を抉るような鋭い眼で、主水の眼を睨み詰めた。
 切先と眼とに圧せられ、主水はさながら蛇に魅入られた蛙、それかのように居縮んでしまった。同じく中段に構えていたが、刀身が次第に顫えを帯び、下へ下へと下ろうとする。ハッハッと呼吸が忙(せわ)しくなり、睨んでいる眼が霞もうとする。流るるは汗! 上るは血液!
 と、フーッと主水の精神が、体から外へ脱けるように思われ、心がにわかに恍惚(うっとり)となった。気負けの極に起こるところの、気死の手前の状態であった。
 が、その時陣十郎の刀が、さながら水の引くがように、スーッと静かに冷たく、左の方へ斜に引かれた。
 あぶない! 悪剣だ! 「逆ノ車」だ! 剣豪秋山要介さえ[#「さえ」は底本では「さへ」]、破りかねると嘆息した、陣十郎独得の「逆ノ車」だ! その序の業だ! あぶないあぶない! 釣り出されて踏み込んで行ったが最後刀が車に返って来る! が、それも序の釣手だ! その次に行なわれる大下手切り! こいつだけは受けられない、ダーッとドップリ胴へ入るだろう! と、完全の胴輪切り!
 その序の業が行なわれた。
 釣られた釣られた主水は釣られた! あッ、踏み出して切り込んだ。
 一閃!
 返った!
 陣十郎の刀が、軽く宙で車に返った!
 ハ――ッと主水! きわどく反わせたが……
 駄目だ!
 見よ!
 次の瞬間!
 さながら怒濤の寄せるが如く、刀を返しての大下手切りだ――ッ!
「ワッ」
 悲鳴!
 血煙!
 血煙!
 いやその間に、一髪の間に――大下手切りの行なわれる、前一髪の際どい間に……
□秩父の郡(こおり)、小川村、
逸見(へんみ)様庭の桧の根
 そういう女の歌声が、手近かの所から聞こえてきた。
「あッ」と陣十郎は刀を引き、タジタジ[#「タジタジ」は底本では「タヂタヂ」]と数歩背後へ下った。


 無心に歌をうたいながら、源女は大薮の中にいた。
 いつも時々起こる発作が、昨夜源女の身に起こった。そこでほとんど夢遊病患者のように、赤尾村の林蔵の家を脱け出し、どこをどう歩いたか自分でも知らず、この辺りまで彷徨(さまよ)って来、この大薮で一夜を明かし、たった今眼醒めたところであった。
 まだ彼女の精神は、朦朧としていて正気ではなかった。
 島田の髷が崩れ傾(かしが)り、細い白い頸(うなじ)にかかってい、友禅模様の派手な衣裳が、紫地の博多の帯ともども、着崩れて痛々しい。素足に赤い鼻緒の草履を、片っぽだけ突っかけている。夜露に濡れたため衣裳はしおたれ、茨や木の枝にところどころ裂かれ、手足も胸元も薮蚊に刺され、あちこち血さえ出していた。
 そういう源女は身を横倒しにし、草の上に延びていた。秋草の花――桔梗や女郎花や、葛の花などが寝ている源女の、枕元や足下に咲いていた。栗色の兎がずっと離れた、萩の根元に一匹いて、源女の方を窺っていた。
 彼女の頭上にあるものといえば、樺や、柏や、櫟(くぬぎ)や、櫨(はぜ)などの、灌木や喬木の枝や葉であり、それらに取り縋り巻いている、山葡萄や蔦や葛であり、そうしてそれらの緑を貫き、わずかに幽かに隙(す)けて見える、朝の晴れた空であった。
 薮を透して日の光が、深い黄味を帯びて射し込んで来ていて、地上の草や周囲(まわり)の木々へ、明暗の斑(ふち)を織っていた。
 無心――というよりいつもいつも、心に執拗にこびりついている歌、例の歌を唄ってしまうと、彼女は恍惚(うっとり)と考え出した。こういう場合に彼女の脳裡へ、幻影のように浮かんで来るのは、大森林、大渓谷、大きな屋敷、大傾斜面、五百頭千頭もの放馬の群、それを乗り廻し追い廻し、飼養している無数の人、そうしてあたかも酒顛童子のような、長髪赧顔の怪異の老人――等々々のそれであった。
 しかし彼女はそういう所が、どこにあるかは知らなかった。そうしてどうしてそういう光景が、浮き出して来るかも知らなかった。とはいえ彼女はそういう光景の場所の、どこであるかを確かめなければならない、そうして是非ともその光景の場所へ、どうしても自身行かなければならないと、そんなように熱心に思うのであった。がそれとて自分自身のために、その場所を知ろうとするのでもなく、又行こうとするのでもなく、自分の難儀を救ってくれた人秋山要介という人のために、知りたい行きたいと思うのであった。
 浮かんで来る幻影を追いながら、今も彼女は思っていた。
(行かなければならない、さあ行こう!)
 で、彼女は立ち上った。
□昔はあったということじゃ
昔はあったということじゃ
 又彼女は口ずさんだ。
 そうして大薮を分けながら、大薮の外へ出ようとした。
 その大薮の外側には、以前から彼女を狙っている吸血鬼水品陣十郎が、抜身を提げて立っているはずである。

10
 後(あと)へ下った陣十郎は、刀を下段にダラリと下げ、それでも眼では油断なく、主水の眼を睨みつけ、歌主の在所(ありか)がどこであるかと、瞬間それについて考えた。
 周囲(あたり)には大薮があるばかりで、その他は展開(ひら)けた耕地であり、耕地には人影は見えなかった。
 声から云っても歌の性質(たち)から云っても、歌ったのは源女に相違ない。
 が、源女などはどこにもいない。
(さては自分の空耳かな?)
 それにしても余りに明かに、歌声は聞こえてきたではないか。
 源女だ源女だ歌ったのは源女だ!
 かつて一旦手に入れて、薬籠の物にしはしたが、その持っている一大秘密を、まだ発見しないうちに秋山要介に横取りされた女! お組の源女に相違ない!
 探して探して探し廻ったあげく、江戸は両国の曲独楽の席で、ゆくりなくも発見した。が、その直後に起こった事件――鴫澤庄右衛門を討ち果したことから、江戸にいられず旅に出たため、源女のその後の消息については、確かめることが出来なかった。
 その源女の歌声が、こんな所で聞こえたのであった。
(どうしたことだ? どうしたことだ?)
 不思議なことと云わなければならない。
(あの女を再び手に入れることが出来て、あの歌の意味を解くことが出来たら!)
 その時こそ運命が――解いた人の運命が、俄然とばかり一変し、栄耀栄華を尽くすことが出来、至極の歓楽を享けることが出来る!
(どうでもあの女を手に入れなければ!)
 だが彼女はどこにいるのだ?
 分を秒に割った短い間だ! 時間にして短いそういう間に、陣十郎の脳裡に起伏したのは、実にそういう考えであった。
 その間彼は放心状態にあった。
 何で主水が見逃がそうぞ!
 一気に盛り返した勇を揮い、奮然として切り込んだ。
 またも鏘然太刀音がした。
 放心状態にあったとはいえ、剣鬼さながらの陣十郎であった。何のムザムザ切られようぞ!
 受けて一合!
 つづいて飛び退いた、飛び退いた時にはもう正気だ! 正気以上に冴え切っていた。
(こやつを一気に片付けて、源女の在所(ありか)を突き止めなければならない!)
「ヤ――ッ!」と掛けた物凄い掛声!
 つづけて「ヤヤ――ッ、ヤヤ――ッ、ヤヤ――ッ!」
 先々の先の手一杯! さながら有段者が初心者を相手に、稽古をつけるそれの如く、主水が撃とう切ろう突こうと、心組む心を未前[#「未前」はママ]に察し、その先その先その先と出て、追い立て切り立て突き立て進んだ。
 またもや主水は薮際まで詰められ、眼眩みながら薮の裾を、右手へわずか廻り込もうとした時、天運尽きたか木の根に躓(つまず)き、横倒れにドッと倒れた。
「くたばれ!」
 シ――ンと切り下した!

11
 シ――ンと切り下ろした陣十郎の刀が、仆れている主水を拝み打ちに、眉間から鼻柱まで割りつけようとした途端、日の光を貫いて小柄が一本、陣十郎の咽喉へ飛んで来た。
「あッ」と思わず声を上げ、胸を反らせた陣十郎は、あやうく難を免れたが、小柄の投げられた方角を見た。
 十数間のかなたから、一人の武士が走って来る。
「む!……秋山! ……秋山要介!」
 いかにも走って来るその武士は、今朝になって眼醒めて見れば、昨夜から発作を起こしていた源女が、どこへ行ったものか姿が見えず、それを案じて探すために、林蔵の家を立ち出で、ここまでやって来た秋山要介であり、見れば宿意ある水品陣十郎が、これも因縁(ゆかり)ある鴫澤主水を、まさに討って取ろうとしていた。間隔は遠い、間に合わない。そこで小柄を投げたのであった。
 小柄を投げて陣十郎の兇刃を、制して置いて秋山要介、飛燕の如く飛び込んで来た。
 が、陣十郎もただ者ではない、主水を相手に戦って、既に躰は疲労(つかれ)ていた。そこへ剣豪秋山要介に新規の力で出られては、百に一つの勝目はない。――と見て取るや刀を引き、鞘にも納めず下げたままで、耕地を一散に走って逃げた。
 と、瞬間飛び起きたは、無念残念返り討ちだと、一刹那覚悟して仆れていた主水で、
「秋山先生、お礼は後刻! ……汝、待て――ッ、水品陣十郎! ……遁してなろうか、父の敵!」と、身体綿の如く疲労して居り、剣技も陣十郎と比較しては、数段も劣って居り、追っかけ追い詰め戦ったところで、あるいは返り討ちになろうもしれないと、そういう不安もありながら、みすみす父の敵に逢い、巡り合って刀を交したのに、そうしてその敵が逃げて行くのに、そうして一旦逃がしてしまったなら、いつふたたび巡り逢えるやら不明と思えば追わずにいられなかった。
 で、主水は刀を振り振り、陣十郎を追いかけた。
「待たれい! 主水殿、鴫澤氏!」
 追いついてよしんば戦ったところで、陣十郎に主水が勝つはずはない、返り討ちは見たようなものだ――と知っている秋山要介は、驚いて大音に呼び止めた。
「長追いなさるな! お引き返しなされ! またの機会をお待ちなされ」
 しかし何のそれを聞こう! 主水はよろめきよろめきながら、走り走り走って行く。
(尋常の敵を討つのではなく、親の敵(かたき)を討つのであった。子とあってみれば返り討ちも承知で、追いかけ戦うのが本当であろう)
 気がついた秋山要介は、孝子(こうし)に犬死させたくない、ヨーシ、追いついて後見(うしろみ)してやろう! 助太刀してやろうと決心し、袴の股立取り上げた途端、
「セ、先生、秋山先生!」と、背後から息せき呼ぶ声がし、やにわに袖を掴まれた。
「誰だ!」と怒鳴って顔を見た。
 林蔵の乾兒の藤作であった。

12
「おお藤作、どうしたのだ?」
「タ、大変で……オ、親分が!」
「なに親分が? 林蔵がか?」
「へい、林蔵親分が、カ、街道で、あそこの街道で……タ、高萩の猪之松と……」
「うむ、高萩の猪之松と[#「猪之松と」は底本では「猪の松と」]?」
「ハ、果し合いだい、果し合いだい!」
「む――」と呻くと振り返り、要介は街道の方角を見た。
 旅人や百姓の群であろう、遠巻にして街道に屯し、じっと一所を見ている光景が、要介の眼に鮮かに見えた。彼等の見ている一所で、林蔵は怨ある猪之松と、果し合いをしているのであろう。要介も以前から林蔵と猪之松とが、勢力争い激甚であり、一度は雌雄を決するていの、真剣の切り合いをやるべきことを、いろいろの事情から知っていた。
(これはうっちゃって置かれない。林蔵を見殺しにすることは出来ない。聞けば高萩の猪之松は、逸見(へんみ)多四郎から教えを受け、甲源一刀流では使い手とのこと、林蔵といえどもこの拙者が、新影流は十分仕込んで置いた。負ける気遣いもあるまいが、もしも負れば師匠たる拙者の、恥にならないものでもない。林蔵と猪之松との果し合い、考えようによれば逸見多四郎と、この秋山要介との、果し合いと云うことにもなる。これはうっちゃっては置かれない)
「行こう、藤作!」と叫んだが、
(主水氏は?)とこれも気になり、走って行った方へ眼をやった。
 広い耕地をよろめきよろめき、陣十郎の後を追い、なお主水は走っていた。
(一人で行ったら返り討ち、陣十郎に討たれるであろう。……惜しい武士! 気の毒な武士! ……どうでも助太刀してやらねば……)
 ――が、そっちへ身を挺したら、林蔵はどういう運命になるか?
(どうしたら可(よ)いか? どうしたものだ?)
 知らぬ藤作は急き立てた。
「先生、早く、行っておくんなせえ! ……云いたいことはたくさんあるんで……第一女が誘拐(かどわか)されたんで……若い女が、綺麗な女が……誘拐した野郎は猪之松の乾兒と、その相棒の馬方なんで……最初(はな)は俺らと杉さんとで……へい、そうで浪之助さんとで、その女を助けたんですが……逃げた八五郎め馬方を連れて、盛り返して来てその女を……その時浪之助さんは留守だったんで……いやいやそんなこと! ……行っておくんなせえ、さあ先生! 親分が大変なんだ猪之松の野郎と! ……」
(行かなければならない!)と要介も思った。
(鴫澤氏は赤の他人、少くも縁は極めて薄い。林蔵の方は俺の弟子、しかも現在この俺は、林蔵の家に世話になっている。深い縁がある、他人ではない。……その林蔵を見殺しには出来ない! 行こう! しかし、そうだしかし、主水殿もお気の毒な! では、せめて言葉の助太刀!)
 そこで要介は主水の方に向かい、大音をもって呼びかけた。

13
「鴫澤(しぎさわ)氏、主水殿! 敵水品陣十郎を追い詰め、見事に復讐をお遂げなされ! 拙者、要介、秋山要介、貴殿の身辺に引き添って、貴殿あやうしと見て取るや、出でて、必ずお助太刀いたす! ……心丈夫にお持ちなされい! ……これで可(よ)い、さあ行こう!」
 街道目掛けて走り出した時、
□今は変わって千の馬
五百の馬の馬飼の
 と、聞き覚えある源女の声で、手近で歌うのが聞こえてきた。
「や、……歌声! ……源女の歌声!」
 要介は足を釘づけにした。
 探していた源女の歌声が、手近の所から聞こえてきたのであった。足を止めたのは当然といえよう。
「源女殿! お組殿!」
 思わず大声で呼ばわって、要介は四辺(あたり)を忙(せわ)しく見た。
 丘、小山とでも云いたいほどに、うず高く聳えている薮以外には、打ち開けた耕地ばかりで、眼を遮る何物もなかった。
(不思議だな、どうしたことだ。……歌声は空耳であったのか?)
 陣十郎の感じたようなことを、要介も感ぜざるを得なかった。
「先生、どうしたんですい、行っておくんなせえ」
 要介に足を止められて、胆を潰した藤作が怒鳴った。
「第一先生がこんな方角へ、トッ走って来たのが間違いだ。俺ら向こうで見ていたんで。すると先生の姿が見えた。しめた、先生がやって来た、林蔵親分に味方して、猪之松を叩っ切って下さるだろう。――と思ったら勘違いで、こんな薮陰へ来てしまった。そこで俺ら迎えに来たんだが、その俺らと来たひには、ミジメさったら[#「ミジメさったら」は底本では「ミヂメさったら」]ありゃアしない。馬方に土をぶっかけられたんで。と云うのも杉さんがいなかったんで。その杉さんはどうしたかというに、誘拐(かどわか)された女の兄さんて奴が――そうそう主水とか云ったっけ、そいつが陣十郎とかいう悪侍に、オビキ出されて高萩村の方へ行った。とその女が云ったんで、こいつ大変と杉さんがね、高萩村の方へ追って行ったんで。――が、まあ可(い)いやそんな事ア。よくねえなア親分の身の上だ、まごまごしていると猪之松の野郎に……あッどうしたんだ見物の奴らア……」
 いかさま街道や耕地に屯し、果し合いを見ていた百姓や旅人が、この時にわかに動揺したのが、要介の眼にもよく見えた。が、すぐに動揺は止んで、また人達は静かになった。緊張し固くなって見ているらしい。
 突嗟に要介は思案を定めた。
(ここら辺りに源女がいるなら、薮の中にでもいるのであろう。正気でないと云ったところで、直ぐに死ぬような気遣いはない。……林蔵と猪之松との果し合い、これは一刻を争わなければならない。よしそっちへ行くことにしよう。……が、しかし念のために……)
 そこで要介はまたも大音に、薮に向かって声をかけた。
「源女殿、要介お迎えに参った。どこへもおいでなさるなよ! ……」

14
 街道では林蔵と猪之松とが、遠巻きに見物の群を置き、どちらも負けられない侠客(おとこ)と侠客との試合それも真剣の果し合いの、白刃を互いに構えていた。
 かなり時間は経過していたが、わずか二太刀合わせたばかりで、おおよそ二間を距てた距離で、相正眼に脇差をつけ、睨み合っているばかりであった。
 猪之松には乾兒や水品陣十郎の間に、何か事件が起こったらしく、耕地で右往左往したり、逃げる奴倒れる奴、そういう行動が感ぜられたが、訊ねることも見ることもできず、あつかうこともできなかった。傍目一つしようものなら、その間に林蔵に切り込まれるからであった。
 林蔵といえどもそうであった、乾兒の藤作の声がしたり、杉浪之助の声がして、何か騒動を起こしているようであったが、どうすることも出来なかった。相手の猪之松の剣の技、己と伯仲の間にあり寸分の油断さえ出来ないからであった。
 が、そういう周囲の騒ぎも、今は全く静まっていた。数間を離れて百姓や旅人、そういう人々の見物の群が、円陣を作って見守っているばかりで、気味悪いばかりに寂静(ひっそり)としていた。
 二本の刀が山形をなし、朝の黄味深い日の光の中で、微動しながら浮いている。
 二人ながら感じていた。――
(ただ目茶々々に刀を振り廻して、相手を切って斃せばよいという、そういう果し合いは演ぜられない。男と男だ、人も見ている。後日の取沙汰も恐ろしい。討つものなら立派に討とう! 討たれるものなら立派に討たれよう!)
 二人ながら心身疲労していた。
 気疲労(つかれ)! 気疲労! 恐ろしい気疲労!
 技が勝れているだけに、伎倆(うで)が伯仲であるだけに、その気疲労も甚だしいのであった。
 向かい合っていた二本の刀の、その切先がやがて徐々に、双方から寄って来た。
 見よ二人ながら踏み出している右足の爪先が蝮を作り、地を刻んで一寸二寸と、相手に向かって進むではないか。
 ぢ――ン[#「ぢ――ン」はママ]!
 音は立たなかった。
 が、ぢ――ン[#「ぢ――ン」はママ]と音立つように、互いの切先が触れ合った。
 しかしそのまま二本の刀身は、一度に水のように後へ引き、その間隔が六歩ほどとなった。
 そうしてそのまま静止した。
 静止したまま山形をなし、山形をなしたまま微動した。
 薄くポ――ッと刀と刀の間に、立ち昇っているのは塵埃(ほこり)であった。
 二人の刻んだ足のためにポ――ッと立った塵埃であった。
 間、
 長い間。
 天地寂寥。
 が、俄然二本の刀が、宙で烈しくもつれ合った。
 閃光! 太刀音! 鏘然! 鍔鳴り!
 で、Xの形となって、二本の刀は交叉され、わずかに左右に又前後に、揺れつ縒れつ押し押されつ、粘ったままで放れなかった。

15
 鍔競り合い!
 眼と眼との食い合い!
 そうだ、林蔵と猪之松との眼が、交叉された刀の間を通し、互いに食い合い睨み合っている。
 鍔競り合いの恐ろしさは、競り合いから離れる一刹那にあった。胴を輪切るか真っ向を割り付けるか、伎倆(うで)の如何(いかん)、躰形(たいけい)の如何、呼吸の緩急によって変化縦横! が、どっちみち恐ろしい。
 林蔵も猪之松も一所懸命、相手の呼吸を計っていた。
 と、交叉された刀の間へ、黒く塗られた刀の鞘が、忍びやかに差し込まれた。
「?」
「?」
 鞘がゆるゆると上へ上った。二本の白刃を持ち上げるのである。と、威厳ある声がした。
「勝負待て! 刀を引け! 仲裁役は秋山要介!」
 声と同時に刀の鞘が、二本の刀身を左右に分けた。
 二間の距離を保ちながら、尚、残心、刀を構え、睨み合っている林蔵と猪之松、その間に鞘ぐるみ抜いた太刀を提げて、ノビノビと立ったのは秋山要介で、まず穏かに林蔵へ云った。
「刀を鞘へ納めるがよい」
 それから猪之松の方へ顔を向け、
「以前一二度お見かけいたした。高萩村の猪之松殿か、拙者秋山要介でござる。刀を納め下されい」
 しばらくの間寂然としていた。
 やがて刀の鞘に収まる、鍔鳴りの音が二つ聞こえた。

 この頃源女は大薮を出て、唐黍(とうもろこし)畑の向こうを歩いていた。
(行かなければ不可(いけ)ない、さあ行こう)
 こう思いながら歩いていた。
 何者(だれ)か向こうで呼んでいる。そんなように彼女には思われるのであった。
 畦を越し桑畑を越した。そうして丘を向こうへ越した。もう背後を振り返って見ても、街道も大薮も見えないだろう。
 大渓谷、大傾斜、大森林、五百頭千頭の馬、無数の馬飼、宏大な屋敷――そういうものの存在している所へ、行かなければならない行かなければならない! ……そう思って彼女は歩いて行く。
 崩れた髪、乱れた衣裳、彼女の姿は狂女そっくりであった。発作の止まない間中は、狂女と云ってもいいのであった。
 長い小高い堤があった。
 よじ上って歩いて行った。
 向こう側の斜面には茅や蘆が、生い茂り風に靡いている、三間巾ぐらいの川があり、水がゆるゆると流れていた。
「あッ」
 源女は足を踏み辷らせ、ズルズルと斜面を川の方へ落ちた。パッと葦切が数羽飛び立ち、烈しい声で啼いて去った。と、蘆を不意に分けて、古船が一隻辷り出た。源女がその中に倒れている。
 纜綱(もやいづな)を切らした古船は、源女を乗せたまま流れて行く。
 源女は微動さえしなかった。

各自の運命


 高萩村に近い森の中まで、陣十郎を追って来た鴫澤主水(しぎさわもんど)は、心身全く疲労し尽くし、ほとんど人心地を覚えなかった。
 抜身を地に突き体を支えたが、それにも堪えられずクタクタ倒れた。
 とうに陣十郎は見失っていた。
 その失望も手伝っていた。
(残念、逸した、敵を逸した!)
(が、飽くまでも探し出して、……)
 立ち上ろうと努力した。
 が、躰はいうことをきかず、のみならず精神さえ朦朧となった。
 こうして杉や桧や槇や、楢などの喬木に蔽われて、その奥に朱の褪せた鳥居を持ち、その奥に稲荷の祠を持ち、日の光も通して来ず、で薄暗い風景の中に、雀や鶸(ひわ)や山雀(やまがら)や山鳩の、啼声ばかりが繁く聞こえる、鎮守の森に包まれて、気絶して倒れた主水の姿が、みじめに痛々しく眺められた。
 色づいた[#「色づいた」は底本では「色ずいた」]病葉(わくらば)が微風にあおられ体の上へ落ちて来たりした。
 かなり長い間しずかであった。
 と、その時人声がし、間もなく十数人の男女の者が、森の中へ現われた。
 変わった風俗の連中であった。
 赤い頭巾に赤い袖無、そんなものを着けている若い男もあれば、亀甲模様のたっつけを穿き、胸に大形の人形箱をかけた、そういう中年の男もあり、紫の手甲に紫の脚絆、三味線を抱えた女もあり、浅黄の股引、茶無地の筒袖、そういう姿の肩の上へ、猿をとまらせた老人などもあった。
 それらはいずれも旅装であった。
 秩父香具師(やし)の一団なのである。
 平素は自分の家にいて、百姓もやれば杣夫(そま)もやり、猟師もやれば川狩もやるが、どこかに大きな祭礼があって、市(たかまち)が立って盛んだと聞くと、早速香具師に早変りして、出かけて行って儲けて来、家へ帰れば以前通り、百姓や杣夫として生活するという――普通の十三香具師とは別派の、秩父香具師の一団であった。
 この日もどこかの市を目掛け親しい者だけで組をつくり、出かけて行くところらしい。
 その中に一人旅装ではなく、髪は櫛巻きに銀簪一本、茜の小弁慶の単衣(ひとえ)を着た、若い女がまじっていた。
 陣十郎の情婦のお妻であった。
「姐御、お前さんも行くといいんだがな」
 一人の男がこう云って、そそのかすようにお妻を見た。
「そうさねえそうやって、お前さんたちが揃って出かけて行くのを見ると、一緒に行きたいような気持がするよ」
 まんざらお世辞でもなさそうに、お妻はそう云って薄笑いをした。
「陣十郎さんばかりが男じゃアなし、他に男だってあろうじゃアないか。そうそういつもへばり付いてばかりいずに、俺らと旅へ出るのもいいぜ」
 こうもう一人の男が云った。
「あたしを旅へしょびいて行くほどの、好い男がどこかにいるかしら、お前さん達のお仲間の中にさ」
 云い云い、お妻は又薄笑いをして、香具師達を見廻した。
「俺じゃア駄目かな、え、俺じゃア」と、猿廻しが顔を出した。


「十年若けりゃア物になるが」
 お妻はむしろ朗かに笑った。
 お妻は秩父の産れであり、秩父香具師の一人であった。が、ずっと若い頃に、草深い故郷に見切りをつけ、広い世界へ出て行って、香具師などというケチなものよりもっと烈しい、もっと罪の深い、そうしてもっと度胸の入る、凄い商売へ入り込んでしまった。
 女邯鄲師(おんなかんたんし)[#ルビの「おんなかんたんし」は底本では「おんんなかんたんし」]――それになってしまった。
 道中や温泉場などで親しくなり、同じ旅籠(はたご)へ一緒に泊り、情を通じてたらすもあり、好きな男で無い場合には、すかし、あやなし、たぶらかして、油断を窺って有金から持物、それらを持って逃げてしまう、平ったく云えば枕探し、女賊になってしまったのである。
 陣十郎の情婦になったのも、平塚の宿で泊まり合わせ、枕探しをしようとしたところ、陣十郎のために取って抑えられた、それが因縁になったのであった。
 その女邯鄲師のお妻であるが、今度陣十郎と連立って、産れ故郷へ帰って来た。と、今朝高萩の村道を、懐かしい昔の仲間達が――すなわち秩父香具師達が、旅装束(よそおい)で通って行った。知った顔も幾個かあった。で、あまりの懐かしさに、冗談云い云いこんな森まで、連立って一緒に来たのであった。
「おや」と不意にお妻は云って、急に足を一所で止めた。
「こんなところに人間が死んでいるよ」
 行手の杉の木の根下の草に、抜身を持った武士が倒れている。
「ほんに、可哀そうに、死んでらあ。……しかも若いお侍さんだ」
 香具師達は云って近寄って行った。
 お妻はその前にしゃがみ込み、その武士の額へ手をやったが、
「冷えちゃアいない、暖(あった)かいよ」
 いそいで脉所(みゃくどころ)を握ったが、
「大丈夫、生きてるよ」
「じゃア気絶というやつだな」
 一人の香具師が心得顔に云った。
「そうさ、気絶をしているのさ。抜身を持っているところを見ると、きっと誰かと切り合ったんだねえ。……どこも切られちゃアいない。……気負け気疲労(きつかれ)[#「気疲労(きつかれ)」は底本では「気疲労(きつかれ)れ」]で倒れたんだよ」
 云い云いお妻は覗き込んだが、
「ご覧よ随分好男子(いいおとこ)じゃアないか」
「チェーッ」と誰かが舌打ちをした。
「姐御いい加減にしてくんな。どこの馬の骨か知れねえ奴に、それも死に損ない殺され損ないに。気をくばるなんて嬉しくなさ過ぎらあ」
「まあそういったものでもないよ。……第一随分可愛そうじゃアないか。……それにさ、ご覧よ、この蒼白い顔を……唇の色だけが赤くてねえ。……ゾッとするほど綺麗だよ。……」
「色狂人! ……行こう行こう!」
「行きゃアがれ、碌で無し! ……妾アこの人を介抱するよ」
 お妻は主水の枕元へ、ペタペタと坐ってなお覗き込んだ。


 その同じ日のことであった。
 絹川という里川の岸で、一人の武士が魚を釣っていた。
 四十五六の年齢で、広い額、秀でた鼻、鋭いけれど暖かい眼、そういう顔の武士であった。立派な身分であると見え、衣裳などは寧ろ質素であったが、體に威があり品があった。
 傍らに籃(びく)が置いてあったが、魚は一匹もいなかった。

次ページ
ページジャンプ
青空文庫の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
作品情報参照
mixiチェック!
Twitterに投稿
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶし青空文庫

Size:344 KB

担当:undef