剣侠
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著者名:国枝史郎 

木剣試合


 文政×年の初夏のことであった。
 杉浪之助(すぎなみのすけ)は宿を出て、両国をさして歩いて行った。
 本郷の台まで来たときである。榊原式部少輔(さかきばらしきぶしょうゆう)様のお屋敷があり、お長屋が軒を並べていた。
 と、
「エーイ」
「イヤー」
 という、鋭い掛声が聞こえてきた。
(はてな?)
 と、浪之助は足を止めた。
(凄いような掛声だが?)
 で、四辺(あたり)を見廻して見た。
 掛声はお長屋の一軒の、塀の内側から来たようであった。
 幸い節穴があったので、浪之助は覗いて見た。
 六十歳前後の老武士と、三十五六歳の壮年武士とが、植込の開けた芝生の上に下り立ち、互いに木剣を構えていた。
(こりゃアいけない)
 と浪之助は思った。
(まるでこりゃア段違いだ)
 老武士の構えも立派ではあったが、しかし要するに尋常で、構えから見てその伎倆(うで)も、せいぜいのところ免許ぐらい、しかるに一方壮年武士の方の伎倆は、どっちかというと武道不鍛練の、浪之助のようなものの眼から見ても、恐ろしいように思われる程に、思い切って勝れているのであった。
 それに浪之助には何となく、この二人の試合なるものが、単なる業(わざ)の比較ではなく、打物(うちもの)こそ木剣を用いておれ、恨みを含んだ真剣の決闘、そんなように思われてならなかった。
 豊かの頬、二重にくくれた頤、本来の老武士の人相は、円満であり寛容であるのに、額(ひたい)を癇癖(かんぺき)の筋でうねらせ、眼を怒りに血ばしらせている。
 これに反して壮年武士の方は、怒りの代わりに嘲りと憎みを、切長の眼、高薄い鼻、痩せた頬、蒼白い顔色、そういう顔に漂わせながら、焦心(あせ)る老武士を充分に焦心らせ、苦しめるだけ苦しめてやろうと、そう思ってでもいるように、ジワリジワリと迫り詰めていた。
(やるな)
 と浪之助の思った途端、壮年武士の木剣が、さながら水でも引くように、左り後ろへ斜めに引かれた。
 誘いの隙に相違なかった。
 それに老武士は乗ったらしい。
 一足踏み出すと真っ向へ下ろした。
 壮年武士は身を翻えしたが、横面を払うと見せて、無類の悪剣、老武士の痩せた細い足を、打ったら折れるに相違ない、それと知っていてその足を……打とうとしたきわどい一刹那に、
「あれ、お父(とう)様」という女の声が、息詰まるように聞こえてきた。
 正面に立っている屋敷の縁(えん)に、十八九の娘が立っていた。
 跣足(はだし)でその娘が駈け寄って来たのと、老武士が木剣を閃(ひら)めかせたのと、壮年武士が「参った」と叫び、構えていた木剣をダラリと下げ、苦笑いをして右の腕を、左の掌で揉んだのとが、その次に起こった出来事であった。
 浪之助も塀の節穴越しに、苦笑せざるを得なかった。
(若い武士が打たれるはずはない。わざと勝を譲ったんだ)
 そう思わざるを得なかった。
 浪之助は娘を見た。
 柘榴(ざくろ)の蕾を想わせるような、紅(あか)い小さな唇が、娘を初々しく気高くしていた。


「何だそのような未熟の腕でいながら、傲慢らしく振舞うとは」
 こう老武士の窘(たしな)めるような声が、浪之助の耳へ聞こえてきたので、老武士の方へ眼を移して見た。
 娘を横手へ立たせたまま、壮年武士と向かい合い、老武士は説いているのであった。
「たとえどのような伎倆(うで)があろうと、世間には名人達人がある、上越す者がどれほどでもある、増長慢になってはいけないのう」
 こう云った時には老武士の声は、穏やかになり親切そうになり、顔からも怒りがなくなっていた。
「第一わしのようなこんな老人に、もろく負けるようなそんな伎倆では、自慢しようも出来ないではないか。のう澄江(すみえ)、そうであろうがな」
「まあお父様そのようなこと……もうよろしいではござりませぬか……でも陣十郎様のお伎倆(うでまえ)は、お立派のように存ぜられますわ」
 藤と菖蒲(あやめ)をとりあわせた、長い袂の単衣(ひとえ)が似合って、□(ろう)たけて[#「□(ろう)たけて」は底本では「臈(ろう)たけて」]さえ見えるその娘は、とりなすようにそういうように云い、気の毒そうに壮年武士を見た。
 壮年武士の表情には、軽侮と傲慢とがあるばかりであった。
 しかし娘にそう云われた時、その表情を不意に消し、
「これは恐縮に存じます。……いや私の伎倆など、まだまだやくざでござりまして、まさしく小父様に右の籠手(こて)を、一本取られましてござります。……将来気をつけるでござりましょう」
「さようさようそれがよろしい、将来は気をつけ天狗にならず、ますます勉強するがよい。いやお前にそう出られて、わしはすっかり嬉しくなった。……では茶でものむとしようぞ。……陣十郎(じんじゅうろう)来い、澄江来い」
 好々爺の本性に帰ったらしく、こう云うと老武士は木剣を捨て、屋敷の方へ歩き出した。
「では陣十郎様、おいでなさりませ」
「は」と云ったが陣十郎様という武士は、何か心に済まないかのように、何か云い出そうとするかのように澄江の顔を凝視するばかりで、歩き出そうとはしなかった。
「澄江様。……澄江様」
「はい、何でございますか?」
「私の甲源一刀流、お父上の新影流より、劣って居るとお思い遊ばしますかな?」
「いいえ……でも……わたくしなどには……」
「お解(わか)りにならぬと仰せられる?」
「わかりませんでござります」
「わからぬものは剣道ばかりか……男の、男の、恋心なども……」
「……」澄江の眼には当惑らしい表情が出た。
「打とうと思えば小父様など、たった一打ち手間暇はいらぬ。……打たずにかえって打たれたは……澄江さま、貴方のためじゃ」
「…………」
 その時屋敷の縁の上から、
「おいで、こら、何をして居る」
 老武士が呼んで手を拍った。
「羊羹を切ったぞ。おいでおいで」
「はい」と云うと陣十郎へ背を向け、澄江はそっちへ小走った。
「ちと痛い」と右の手を揉み、
「あの老耄(おいぼれ)、フ、フ、何を……が、澄江には恩をかけた。……この手で……」
 と口の中で呟きながら、陣十郎という若い武士は、屋敷の方へそろそろと歩いた。


(どうにも変な試合だったよ)
 浪之助はそんなことを思いながら、両国の方へ歩いて行った。
(それにしてもちょっと美(い)い娘だった)
 こんなことをチラリと心の隅で思い、独り笑いをもらしたりした。
 年はまだ二十三歳、独身で浪人であった。
 親の代からの浪人で、その父は浪之進といい、信州高島(たかしま)の家臣であったが、故あって浪人となり、家族ともども江戸に出た。貨殖の才がある上に、信州人特有の倹約家(しまつや)で、金貸などをひそかにやり、たいして人にも怨まれないうちに、相当に貯めて家屋敷なども買い、町内の世話をして口を利き、武士ではあったが町人同然、大分評判のよくなった頃、五年ほど前にポックリ死に、母親はその後三年ほど生きたが、総領の娘を武家は厭、町家の相当の家柄の家へ、――という希望を叶えさせ、呉服問屋へ嫁入らせ、安心したところでコロリと死に、後には長男の浪之助ばかりが残った。当然彼が家督を取り、若い主人公になり済まし、現在に及んでいるのであるが、この浪之助豚児ではないが、さりとて一躍家名を揚げるような、一代の麒麟児でもなさそうで、剣道は一刀流を学んだが、まだ免許にはやや遠く、学問の方も当時の儒家、林信満(のぶます)に就(つ)いて学んだが、学者として立つには程遠かった。
 ところがこのごろになって浪之助は、何かドカーンと大きなことを、何かビシッと身に泌みるようなことを、是非経験したいものだと、そんなように思うようになった。なまぬるい生活がつづいたので、強い刺戟を求め出したと、そう解釈してよさそうである。
 袴無しの着流しで、蝋塗りの細身の大小を差し、白扇を胸の辺りでパチツカせ、青簾に釣忍(つりしのぶ)、そんなものが軒にチラチラ見える町通りを歩いて行った。
 浅草観世音へ参詣し、賽銭を投げて奥山を廻り、東両国の盛場へ来たときには、日が少し傾(かたむ)いていた。

娘太夫を巡って


 両国橋を本所の方へ渡ると、江戸一番の盛場となり、ことに細小路一帯には、丹波から連れて来た狐爺(きつねおやじ)とか、河童(かっぱ)の見世物とか和蘭陀眼鏡(おらんだめがね)とかそんないかがわしい見世物小屋があって、勤番武士とか、お上りさんとか、そういう低級の観客の趣味に、巧みに迎合させていた。講釈場もあれば水芸、曲独楽(きょくごま)、そんなものの定席もできていた。
 曲独楽の定席の前まで来て、浪之助はちょっと足を止めた。
 しばらく思案をしたようであったが、木戸銭を払って中へ入った。
 こんなものへ入って曲独楽を見て、口を開けて見とれるという程、悪趣味の彼ではないのであったが、以前にここの娘太夫で、美貌と業(わざ)の巧いのとで、一時両国の人気を攫った、本名お組(くみ)芸名源女(げんじょ)そういう女と妙な縁から、彼一流の恋をした。ところが今から一年ほど前に、不意にその女が居なくなった。悪御家人の悪足と一緒に、駆落ちしたのだという噂があったり、養母に悪いのがついていて長崎の異人へ妾(めかけ)に売ったのと、そんな噂があったりしたが、とにかく姿を消してしまった。浪之助は妙にその女には、かなりの執着を持っていて、姿を消されたその当座は、ちょっと寂しく感じたりし、もうその女がいなくなった以上、そんな曲独楽なんか見るものかと、爾来(じらい)よりつきもしなかったが、今日は彼の心の中に、昔なつかしい思いが萌(も)えた。そこで、木戸をくぐったのである。
 桟敷と土間もかなりの入りであった。
 舞台には華やかな牡丹燈籠が、二基がところ立ててあり、その背後(うしろ)には季節に適(かな)わせた、八橋の景が飾ってあり、その前に若い娘太夫が、薄紫熨斗目(のしめ)の振袖で、金糸銀糸の刺繍をした裃(かみしも)、福草履(ふくぞうり)を穿いたおきまりの姿で、巧みに縄をさばいていた。
「おや、ありゃア源女じゃアないか」
 驚いて浪之助は口の中で叫んだ。
 娘太夫は源女のお組、それに相違ないからであった。
 瓜実(うりざね)顔、富士額、薄い受口、切長の眼、源女に相違ないのであった。ただ思いなしか一年前より、痩せて衰(おとろ)えているようであった。
(舞い戻ってこの席へ出たものと見える)
 油然(ゆうぜん)と恋心が湧いて来た。
(逢って様子を聞きたいものだ)
 その時源女が昔ながらのとはいえ少し力の弱い声で、
「独楽(こま)は生独楽生きて廻る」と、口上を節づけて述べ出した。
「縄も生縄生きて動く。……小だめしは返り来の独楽、縄を離れても慕い、翻飜として飛び返る。ヤーハッ」と云ったかと思うと、右手の振袖が渦を巻き、瞬間縄が宙にほぐれ、差し渡し五寸もあるらしい、金蒔絵黒塗り銀心棒、朱色渦巻を胴に刻(ほ)った独楽が、唸(うな)りをなして舞い上り、しばらく宙に漂うように見えたが、あだかも生ける魂あって、すでに源女に手繰(たぐ)られている、絹、麻、髪を綯(な)いまぜて造った、鼠色に見える縄を目掛け追うかのように寄って来た。
 と、源女は右手を出した。
 その掌(てのひら)に独楽は止まった。
 グルリと掌を裏返した。
 逆(さか)さになったまま掌に吸いつき、独楽は森々(しんしん)と廻っている。
 どっと喝采が見物の中から起こった。
 しかしどうしたのかその一刹那、ポタリと独楽が、掌から落ち、源女は放心でもしたように、桟敷の一所を凝然と見詰めた。


 恐怖がその顔に現われている。
(どうしたんだろう?)と驚きながら、源女の見詰めている方角へ、浪之助も眼をやった。
(や)とこれも驚いた。
 そこに、桟敷に、見物にまじって、榊原式部少輔(しきぶしょうゆう)様のお長屋の庭で、老武士を相手に試合をしていた、陣十郎という壮年武士が、舞台を睨(にら)むように見ているではないか。
 単なる浪之助の思いなしばかりでなく、陣十郎の眼と源女の眼とは、互いに睨み合っているようであり、源女が独楽を掌から落とし、放心したように茫然としたのも、陣十郎の姿を認めたからであると、そんなように思われる節があった。
(二人の間には何かあるな)
 そんなように思われてならなかった。
「弘法にも筆のあやまり、名人の手からも水が洩れる、生独楽を落としました源女太夫のあやまり、やり直しは幾重にもご用捨……」
 床から独楽を拾い上げ、顫えを帯びた含み声で、こうテレ隠しのように口上を述べ、源女が芸を続け出したのは、それから直ぐのことであった。
 これがかえって愛嬌になったか、見物は湧きもしなかった。
 その後これといって失敗もなく、昔ながらに鮮かに、源女は独楽を自由自在に使った。
 一基の燈籠に独楽が投げ込まれるや、牡丹が花弁(はなびら)を開くように、燈籠は紙壁(しへき)を四方に開き、百目蝋燭(ろうそく)を露出させ、焔の先から水を吹き出し、つづいてもう一基の燈籠の中から、独楽が自ずと舞い上り、それを源女が手へ戻した途端、そのもう一基の燈籠も、紙壁を開き水を吹き出した。この最後の芸を終えて、悠々と源女が舞台から消えると、見物達は拍手を送った。
 浪之助は小屋を出て、裏木戸の方へ廻って行った。
「久しぶりだな、爺(とっ)つぁん」
 木戸口にいた爺(じい)さんへ、こう浪之助は声をかけた。
「へい」と木戸番の爺(おやじ)は云った。
「これは杉様で、お珍しい」
「たっしゃでいいな、一年ぶりだ」
「旦那様もおたっしゃのご様子で」
「源女が帰って出演(で)ているようだな」
「よくご存知で、ほんの昨今から」
「ちょっと源女に逢いたいのだが」
「さあさあどうぞ」と草履(ぞうり)を揃えた。
 心付を渡して草履を突っかけた。
「源女さんのお部屋は一番奥で」
「そうかい」と浪之助は歩いて行った。
 書割だの大道具だのが積み重ねてある、黴臭い薄暗い舞台裏を通り、並んでいる部屋々々の暖簾(のれん)の前を通り、一番奥の部屋の前へ立った。
 長い暖簾を掲げて入った。
 衣装籠(つづら)に寄りかかりながら、裃をさえ取ろうともせず、源女はグッタリと坐っていた。
「お組、わしだ」と浪之助は云った。
 と、源女は閉じていた眼を、さもだるそうに細目をあけたが、
「浪之助様。……存じて居りました」
 そう云ってまたも眼をとじた。
 衰弱していると云ってもよく、冷淡であると云ってもよい、極めて素気ない態度であった。
 立ったまま坐りもせず、そういう昔の恋人の、源女の様子を眺めながら、浪之助は意外さと寂しさと、多少の怒りとを心に感じた。


「知っていたとは? ……何を知って?」
「桟敷にお居でなされましたことを」
 眼をとじたまま云うのであった。
「では舞台で観ていたのか」
「ええ」と源女は眼をあけた。
「浪之助様がお居でになる。――そう思って見て居りました」
「ふむ」と浪之助は鼻で云った。
「ただそれだけか。え、お組」
「…………」
「一年ぶりで逢った二人だ。浪之助様がお居でになると、ただそう思って見ていただけか」
 少し愚痴とは思ったが、そう云わざるを得なかった。
 なるほど二人の往昔(そのかみ)の仲は、死ぬの生きるの夫婦(いっしょ)になろうのと、そういったような深い烈しい、燃え立つような仲ではなかった。とはいえ双方好き合い愛し合った。恋であったことには疑いなく、しかも争いをしたのでもなく、談合づくで別れたのでもなく、恋は続いていたのであった。そうだ、続いていたのであった。それだのに女は一言も云わず、別れましょうとも切れましょうとも、何とも云わずに姿を消し、今日迄消息(たより)しなかったのである。さて、ところで、今逢った。と、そのような冷淡なのである。
 愚痴も厭味も浪之助としては、云い出さないではいられないではないか。
 で、そう云って睨むように見詰めた。
「それにさ、いかに心持が、わしから冷やかになっているにしても、坐れとぐらい何故云ってくれぬ」
 いかさま浪之助はまだ立っていた。
 これには源女も済まなく思ったか、
「どうぞ」と云うと水玉を散らした、友禅の坐蒲団を押しやった。
 坐ったが心が充たされず、尚浪之助は白い眼で、源女の顔をまじまじと見た。
 源女は又も眼を閉じて、衣装籠(つづら)に身をもたせていた。
 眼の縁辺りが薄く隈取られ、小鼻の左右に溝が出来、見れば意外に憔悴もしてい、病んででもいるように疲(や)せて[#「疲(や)せて」はママ]もいた。
(ひどく苦労をしたらしい)
 そう思うと浪之助の心持が和(なご)み、女を憐れむ情愛が、胸に暖かく流れて来た。
「お組、いままでどこにいたのだ?」
「旅に……旅に……諸方の旅に」
「旅を稼いでいたというのか?」
「いいえ。……でも……ええ旅に。……」
 言葉が濁り曖昧であった。
「旅はいずこを……どの方面を?」
「どこと云って、ただあちらこちらを」
「ふむ。……一座を作って?」
「いいえ、一人で……でも時々は……一座を作っても居りました」
 やはり言葉が濁るのであった。
「なぜそれにしても旅へ出ますと、わしに話してはくれなかったのだ」
「…………」
 源女は返辞(へんじ)をしなかった。
 睫毛が顫え唇の左右が、痙攣をしたばかりであった。
 窓から西陽が射し込んで来て、衣桁にかけてある着替えの衣装の、派手な模様を照らしていた。
 二三度入り口の暖簾をかかげて、一座の者らしい男や女やが、顔を差し込んで覗いたが、訳あるらしい二人の様子を見ると、入ろうともせず行ってしまった。
「陣十郎という武士を知っているかな?」
 話を転じて浪之助は云った。
 と、源女は首をもたげた。


「陣十郎! ……陣十郎! ……水品(みずしな)陣十郎! ……あなたこそどうしてあの男を!」
 そう云うと源女はのしかかるように、衣装籠から身を乗り出した。
 恐怖と憎悪とがあからさまに、パッと見開いた眼にあった。
 凄じいと云ってもいいような、相手の態度に圧せられて、浪之助はかえってたじろいだ。
 「いやわしはただほんの……それも偶然先刻(さっき)方……榊原様のお長屋で……試合をしていたのを通りかかって……だがその男が桟敷にいたので……」
「ただそれだけでございますか」
 源女は安心したように、そう云うと躰をグッタリとさせ、衣装籠へまた寄りかかった。
 そうして眼を閉じ黙ってしまったが、やがて浪之助へ云うというより、自分自身へ云うように、譫言(うわごと)のように呟いた。
「陣十郎、水品陣十郎……何と云おう、悪鬼と云おうか……あの男のためにまア妾(わたし)は……これまでどんなに、まあどんなに……苦しめられ苦しめられたことか! ……騙(だま)され賺(す)かされ怯(おび)やかされ、旅でさんざん苦しめられた。……こんなにしたのはあの男だ。妾をこんなに、こんなにしたのは! ……病人に、白痴に、片輪者に! ……先生、お助け下さりませ! ……でも妾はどうあろうと、あれをどうともして思い出さなけりゃア……でもお許し下さりませ、思い出せないのでございます」
 不意に源女は節をつけて、歌うように云い出した。
「ちちぶのこおり
おがわむら
へみさまにわの
ひのきのね
むかしはあったということじゃ
いまはかわってせんのうま
ごひゃくのうまのうまかいの
、、、、
、、、、
、、、、
まぐさのやまや
そこなしの
かわのなかじのいわむろの
 ……さあその後は何といったかしら? ……思い出せない思い出せない。……そうしてあそこはどこだったかしら? ……山に谷に森に林に、岩屋に盆地に沼に川に、そうして滝があったかもしれない。
 大きなお屋敷もあったはずだが。……そうしてまるで酒顛童子(しゅてんどうじ)のような、恐ろしいお爺さんがいたはずだが。……思い出せない、思い出せない。……」
 顔を上向け宙へ眼をやり、額に汗をにじませて、何か思い出を辿るように、何かを思い出そうとするように、源女は譫言(うわごと)のように云うのであった。
 癲癇の発作の起こる前の、痴呆状態とでも云うべきであろうか、そういう源女の顔も姿も、いつもとは異(ちが)って別人のように見えた。
 浪之助は魘(おそ)われたようにゾッとした。
 と、不意に前のめりに、源女は畳へ突っ伏した。
 精根をすっかり疲労(つかれ)させられたらしい。
「お組」と仰天していざり寄り浪之助は抱き起こした。
「しっかりおし、心をたしかに!」
 その時背後から声がかかった。
「源女殿いつもの病気でござるか」
 驚いて浪之助は振り返って見た。
 いつ来たものか三十五六の武士が、眉をひそめながら立っていた。


 額広く眉太く、眼は鳳眼(ほうがん)といって気高く鋭く、それでいて愛嬌があり、鼻はあくまで高かったが、鼻梁が太いので険しくなく、仁中(じんちゅう)の深いのは徳のある証拠、唇は薄くなく厚くない。程よいけれど、大形であった。色が白く頬が豊かで、顎も角ばらず円味づいていた。身長は五尺五六寸もあろうか、肉付は逞(たくま)しくあったけれど贅肉なしに引きしまっている。髪は総髪の大髻(おおたぶさ)で、髻(もとどり)の紐は濃紫(こむらさき)であった。黒の紋付に同じ羽織、白博多の帯をしめ、無反(むぞり)に近い長めの大小の、柄を白糸で巻いたのを差し、わざと袴をつけていないのは、無造作で磊落で瀟洒の性質をさながらに現わしていると云ってよろしく白博多の帯と映り合って、羽織の紐が髻と同じ、濃紫であるのは高尚であった。
 そういう武士が立っていた。
 と見てとって浪之助は、思わず「あッ」と声を上げ、抱えていた源女を放したかと思うと、四五尺がところ後へ辷(すべ)り、膝へ手を置いてかしこまってしまった。
 武士の何者かを知っているからであった。
 川越の城主三十五万石、松平大和守の家臣であって、知行は堂々たる五百石、新影流の剣道指南、秋山要左衛門の子息であり、侠骨凌々たるところから、博徒赤尾の磯五郎を助け、縄張出入などに関係したあげく、わざと勘当されて浪人となり、江戸へいでて技を磨き、根岸御行(みゆき)の松に道場を設け、新影流を教授して居り、年齢は男盛りの三十五、それでいて新影流は無双の達人、神刀無念流の戸ヶ崎熊太郎や、甲源一刀流の辺見(へんみ)多四郎や、小野派一刀流の浅利又七郎や、北辰一刀流の千葉周作等、前後して輩出した名人達と、伯仲(はくちゅう)[#ルビの「はくちゅう」は底本では「はちゅう」]の間にあったという、そういう達人の秋山要介正勝(あきやまようすけまさかつ)! 武士は実にその人なのであった。
 勿論浪之助はかつてこれ迄、秋山要介と話したこともなく、教えを受けたこともなかったのであるが、それほどの高名の剣豪であった、江戸に住居する武士という武士は、要介を知らない者はなく、そういう意味で、浪之助も、諸方で遥拝して知っていたのであった。
 そういう要介が現われたのである、かしこまったのは当然といえよう。
 かしこまった浪之助の様子を見ると、要介はかえって気の毒そうに、微笑を浮かべ会釈をしたが、さりとて別に何とも云わず、仆(たお)れている源女へ近寄って行き、片膝つくと手を延ばし、源女の背を撫でながら云った。
「源女殿、要介じゃ。いつもの発作が起こられたか」
 そう云った声が通じたと見える、源女は顔を上げて要介を見たが、
「先生!」とやにわに縋りついた。
「陣十郎が! 水品陣十郎が!」
「陣十郎が? どうなされた?」
「桟敷にいました! 妾(わたし)につき纏い!」
「…………」
 要介の顔色もにわかに変わった。
「彼、悪鬼、江戸まで来たか!」
「先生!」
「大丈夫」と要介は云った、
「ついて居る、わしが、大丈夫じゃ」
「はい……先生! ……でも妾は! ……恐ろしい、恐ろしい、恐ろしい!」
「自分で自分を苦しめてはいけない。……自分で自分を恐れさせてはいけない。……秋山要介が付いて居る」

剣鬼と剣聖


 俺の長くいる場所ではない、こう思って浪之助がその部屋を出たのは、それから間もなくのことであった。
 書割や大道具の積んである間を、裏木戸の方へ歩いて行った。
 と、何かなしにゾッとした。
 で四辺(あたり)を見廻して見た。
 書割が積んであるその横手の、薄暗い一所に水品陣十郎が、刺すような眼をしてこちらを見ていた。
「あ」と浪之助は自分ながら馬鹿な、と云うよりも臆病千万な、恐怖に似たような声をあげ、足を釘づけにしてしまった。
 陣十郎という男の身の周囲(まわり)を、殺気といおうか妖気といおうか、陰森としたものが取り巻いていて近寄るものを萎縮させる。
 ――そんなように一瞬思われもした。
(馬鹿な)と自分で自分を嘲けり、浪之助は足を運んだ。
 とはいえ陣十郎の前を通る時も、通り過ぎた時も恐ろしかった、不意に切り付けられはしないだろうかと、そんなように思われてならなかった[#「ならなかった」は底本では「なからなかった」]。
 その浪之助が小石川富坂町の、自分の屋敷へ戻ろうとして、お茶の水の辺りを歩いていたのは、初夜をとうに過ごしていた頃で、源女(げんじょ)の小屋を出ても気にかかることや、愉快でないことが心にあったので、その心を紛らそうとして、贔屓にしている小料理屋で、時刻を過ごしたからであった。
 お組(くみ)はどうしたというのだろう? 病気には相違なさそうだが、何という変な病気なんだろう。秋山要介というような、余りにも有名な人物と、非常に親しくしているようだが、どこでどうしてそうなったのか? 水品陣十郎という悪鬼のような男、あの男もお組や秋山要介と、深い関係があるようだが、その関係はどんなんだろう?
(どっちみち今日は変な日だった)
 浪之助はそんなことを思いながら、まだ酔っている熱い頬を、夜に入って青葉の匂いを増した、さわやかな風に吹かせながら、樹木多く人家無く、これが江戸内かと疑われるほど、寂しい凄いお茶の水の境地を、微吟しながら歩いて行った。
 遅く出た月が空にあったが、樹木が繁っているために、木洩れの月光がそこここへ、光の斑(ふち)を置いているばかりで、あたりはほとんど闇であった。
 不意に行手で閃めくものがあり、悲鳴がそれに続いて聞こえた。
 ギョッとして浪之助は足を止めた。
(切られたらしい)と直感された。
(横へ逸れて行ってしまおうか)
 ふとそんな気も起こったが、町人とは違い武士であった。
(卑怯な)と思い返して走って行った。
 香具師(やし)――それも膏薬売らしい、膏薬箱を胸へかけた男が、右の胴から血を流し、その血の中に埋もれて居り、そうした死骸を見下ろしながら、一人の武士がその前に佇み、一人の女がその横にいて、血刀を懐紙で拭っているという、凄惨無慈悲の光景が、巨大な棒のように射して来ている木洩れの月光に照らされて、浪之助の眼に映った。
 フーッと気が遠くなりそうであった。
 そう、浪之助はもう少しで、気を失って仆(たお)れそうになった。
「貴殿のおいでを待っていました」
 水品陣十郎がそう云った。


 血刀を女に拭わせている武士、それは水品陣十郎であった。
「拙者水品陣十郎と申す、浪人でござる、お見知り置き下され」
 現在人を殺して置いて、本名を宣(なの)る膽の太さ、あらためて浪之助の怯えている心を、底の方から怯やかした。
「はあ」とばかり浪之助は云った。
 それ以上は云うこともなく、そう云った声さえ顫えていた。
「……ソ、その者は? ……その死骸は?」
 さすがにそれだけは浪之助も訊いた。
「拙者ただ今討ち果したものじゃ」
「はあ。……さようで……何の咎で?」
「裏切りいたした手下ゆえ」
「はあ」
「憎むべきは裏切り者。……言行一致せざる奴。……」
「はあ」
「失礼ながら貴殿のご姓名は?」
「ス、杉浪之助。……」
「杉浪之助殿。……お住居(すまい)は?」
「小石川富坂町。……」
「源女の小屋で今日午後、お眼にかかったことご存知か?」
「サ、さよう。……存じ居ります」
「源女の部屋へ行かれましたな?」
「…………」
「貴殿と源女との関係は?」
「これと云って、何もござらぬ。……一年前に、ただちょっと……」
「さようか」と陣十郎は疑わしそうに、刀の切先のようにギラギラ光る、氷のように底冷たい眼を、じっと浪之助の顔へ注いだが、
「秋山要介殿源女の部屋へ、今日参って居られたが、貴殿と秋山殿との関係は?」
「何でもござらぬ、ただ今日、はじめてあそこでお逢いしたまでで。……」
「しかと左様か。偽りはござるまいな」
「何の偽り。……真実でござる」
 まるで吟味でも受けているようだ。――浪之助はにわかに不快になり、自分の如何にも生地のないことに、腹立たしさを感じはしたが、蛇に魅入られた蛙(かわず)とでも云おうか、陣十郎という男に見詰められていると、手も足も出ないような恐怖感に、身も魂も襲われるのであった。
 女に血潮(ちのり)を充分に拭わせ、やがて陣十郎は悠々と、刀を鞘に納めたが、
「拙者貴殿に悪いことは申さぬ、深い因縁がないとあれば、いよいよもって幸いでござる、源女とも秋山要介とも今後決して関係つけなさるな」
「はあ。……しかし……それは……何故に。……」
「さようさ、拙者が好まぬ故」
「…………」
 何という図太い我儘だろう。何という押強(おしつよ)い要求だろう。――そうは思ったが浪之助は、それに反抗して否と云い切るだけの、力を持つことが出来なかった。
 で、じっと黙っていた。
「わけても源女と関係なされては不可(いけ)ない。……いかがでござる、よろしゅうござるか」
「…………」
「よろしい、承知なされたそうな。……念のため貴殿にお訊(たず)ねいたすが、貴殿、源女の歌う不思議な歌を、耳にしたことござるかな?」
 こう云って探るように睨むように見た。
(あの歌のことだな)と浪之助は思った。


(ちちぶのこおり、おがわむら、へみさまにわのひのきのね)
 この歌のことだなとすぐ思った。
 しかし聞いたとそう云ったら、どんな目に逢わされるか知れたものではない、こう思ったので浪之助は、
「いや」と簡単に否定した。
「聞かない、よろしい。それは結構。……そこで貴殿に申し上げて置く、今後決して聞いてはならぬ。よしんば例え聞くことがあっても、決してその意味を解いてはならぬ。……よろしゅうござるか、浪之助殿」
「よろしゅうござる」と浪之助は云った、仕方がないから云ったのであって、その実彼はそういわれたため、かえってその歌に含まれている意味を、解いてやろうと決心したくらいであった。
 こういう問答をしているうちにも、今は血刀を拭い終えて、陣十郎の横手に佇んで、爪楊枝を噛みながら、二人の問答を上の空のように、平然と聞き流している、女の姿を観察した。
 三十がらみの年恰好で、櫛巻に髪を結んで居り、絞りの単衣に黒繻子(くろじゅす)の帯、塗りの駒下駄を穿いている。腰の辺りに得も云われない、毒々しい迄の色気があった。顔は整いすぎるほど整っていたが、鼻がひときわ高かったので、ここで一点ぶちこわしていた。毒婦型に嵌まった凄艶の女! そう云えば足りる女であった。
 パチリと女は腕(かいな)を打った。どうやら藪蚊が刺したらしい。左の腕の肩まで捲った。月光に浮いて見えたのは、ベッタリ刻られた刺青(いれずみ)であった。
(凄いな)と浪之助はヒヤリとした。
(陣十郎とはいい取り合わせだ)
「念の為に申し上げて置く」
 重々しい。ねっとりとした。威嚇的の声で、陣十郎がその時云った。
「貴殿拙者に食言いたせば、ここに斃れているこの男のような、悲惨な運命となりましょう。よろしゅうござるかな、浪之助殿」
 云い云い指で膏薬売をさした。
「…………」
 無言でゴックリと唾を飲んで、ただ浪之助は頷いて見せた。
「よろしい、では、お別れいたす。……お妻(つま)行こう」
「あい、行きましょう」
 月光の圏内から遁れ出て、二人は闇に消えてしまった。

 小間使に下女に老婆に老僕に若党の五人を召使に持ち、広い庭を持った立派な屋敷に、気儘に生活(くらし)ている浪之助の身分は、なかなか悪くないと云ってよかろう。
 翌日は昼頃までグッスリと寝、起きると物臭さそうに顔を洗い、小綺麗な小間使お里の給仕で、朝昼兼帯の食事をし、青簾(あおすだれ)を背後に縁へ出て、百合と蝦夷菊との咲いている花壇を、浪之助はぼんやり眺めながら、昨日(きのう)一日に起伏した事件を、どう統一したらよかろうかと、一つは暇、一つは興味、一つは自分の将来に、多少関係あるところから、ムッツリ思案しているところへ、
「旦那様、ご来客でございます」と、小間使が知らせて来た。
「誰だ?」と浪之助はうるさそうに云った。
「秋山要介様と仰せられました」


 泉水築山などのよく見える、風通しのよい上等の客間へ、秋山要介を慇懃に通し、茶菓を備え歓待し、これほどの高名の人物によって、訪問されたことの喜びやら、恐縮やら、光栄やらを感謝しいしい、浪之助が謹ましく応対したのは、それから間もなくのことであった。
 貴殿と源女との以前の関係を、昨日源女より承(うけたま)わった。そうして昨日水品陣十郎が、どこやらのお長屋の庭において、誰やらと試合をしていたのを、貴殿御覧になられたと、そう源女に仰せられたそうな、そのお長屋がどこにあるか、それをお知らせにあずかりたく、拙者参上いたしたのでござると磊落な調子で要介は云った。
「陣十郎の現在の住居を、是非とも承知いたしたいので」
 こう要介は附け加えた。
「本郷の榊原式部少輔(さかきばらしきぶしょうゆう)様の、お長屋の一軒でございました」と、浪之助はあの時見た一部始終を話した。
「何人のお長屋でござりましたかな?」
「さあそれは、うっかり致しまして、確かめませんでござりましたが、よろしくば私ご案内いたし」
「忝(かたじ)けのう[#「忝(かたじ)けのう」は底本では「恭(かたじ)けのう」]ござる、では遠慮なく、夕景にでもなりましたら、散策かたがたご同行を願い……」
「かしこまりましてござります。……ところで……」と浪之助は言葉を改め、昨夜お茶の水の寂しい境地で、その水品陣十郎に逢い、一種の脅迫を受けたことを話した。
 じっと聞いていた要介は、次第にその眉をひそめたが、
「彼の兇悪まだ止まぬと見える。……まことに恐るべきは彼の悪剣……」と独言のように呟いた。
「先生、悪剣と申しますは?」と、浪之助は探るように訊いた。
 要介はしばらく沈黙したまま、泉水の鯉が時々刎ねて、水面へ姿を現わして、そのつど霧のような飛沫を上げ、岸に咲いている紫陽花(あじさい)の花が、その飛沫に濡れたのか、陽に艶めいて見えるさわやかな景へ、鋭い瞳を注いでいたが、
「柳生流の『車ノ返シ』甲源一刀流の『下手ノ切』この二法を並用したらしい、彼独特の剣技でござる」
 こう云って浪之助を正面から見詰めた。
 その眼をまぶしそうに外しながら、
「しかし先生などの腕前からすれば、陣十郎の腕前など……」
「なかなか以って、そうはいかぬ。……一年前に上州間庭(まにわ)、樋口十郎左衛門殿の道場において、偶然彼と逢いましてな、懇望されて立合いましたが……」
「勝負は?」
「相打ち」
「…………」
「見事に足を。……」
「足を?」
「さよう。払われました」
「…………」
「拙者は面を取りましたが」
 浪之助は黙ってしまった。
 当代剣豪十人を選んで、日本の代表的人物としたら、当然その中に入るべき人物、秋山要介正勝ほどの人が、相打ちになったというからは、彼水品陣十郎という男、伎倆(うで)は伍格(ごかく)と見なければならない。
(そんなに出来る男なのかなア)
 嘘のように思われてならなかった。


 用意して置いた酒肴を出した。
「はじめて参ったのにこのご歓待、要介少なからず恐縮に存ずる」
 こう云いながらも遠慮せず、悠々と盃を重ねる態度が、明朗であり闊達であり、先輩も後輩も無視していて、真に磊落であり洒落であって、しかも本来が五百石取りの、先(まず)は大身の家柄の、御曹司である品位は落とさず、浪之助には慕わしくてならなかった。
「陣十郎のその悪剣、何と申す名称でござりますか?」
 浪之助はそう訊いて見た。
「逆の車と申しておりましたよ。勿論邪道の悪剣ゆえ、正当の名称はござらぬが、彼自身勝手に附けたものと見えます。……まずこう中段に太刀を構える」
 こう云いながら要介は、白扇を取るとグッと構えた。一尺足らずの獲物ながら、名人の構えた扇であった、浪之助にはその扇が、差しつけられた白刃より凄く、要介の躰(からだ)がそれの背後に、悉皆(すっかり)隠れたかのように思われた。
「と、こうグ――と左斜に、太刀を静かに引くのでござる」
 云い云い要介は扇を引いて見せた。
「さながら水の引くが如く。……云う迄もなく誘いの隙じゃ。……誘いの隙じゃと知りながらも、百人が百人それに乗り、一歩踏み出すか打ち込むかする。……と、その機先を素早く制し……柳生の業(わざ)車ノ返シ、そいつでこう一旦返す」
 扇をクルリと下返しに返した。
「ハッと相手が動揺した途端、間髪を入れず下手ノ切、甲源一刀流の下手ノ切……」
 こう云うと要介は左膝の辺りまで、扇を引き付けて八双に構え、すぐに刎ね返して掬い切りをした。
「こいつで来るのじゃ、さようこいつで。……下れば足、上れば胴、もう一段上れば顎へ来る……必ずやられる、必ず切られる」
「しかしそのように解って居りますれば、その術を破る方法が、いくらもあるように存ぜられますが」
「それが無い、こいつが業じゃ。……分解して云えば今のようではあるが、分解も何も差し許さず、講釈も何も超越して、序破急を一時に行なうと云おうか、天地人三才を同時にやると云おうか、疾風迅雷無二無三、敵ながら天晴(あっぱ)れと褒めたくなるほどの、真に神妙な早業で、しかも充分のネバリをもって、石火の如くに行なわれては、ほとんど防ぐに術が無い」
「はあ」と浪之助は溜息をした。
「恐ろしい業でござりまするな」
「恐ろしい業じゃ、恐ろしい悪剣じゃ。……爾来拙者苦心に苦心し、あの悪剣を破ろうものと、考案工夫をいたしおるが……」
「考案おつきになりませぬか?」
「彼のあの時の太刀さばきが、いまだに眼先にチラツイていて、退きませぬよ、消えませぬよ」
「はあ」とまたも浪之助は、溜息せざるを得なかった。
 それにしても昨夜お茶の水で、陣十郎に脅迫された時、反抗しないでよいことをした、変に反抗でもしようものなら、逆ノ車でズンと一刀に、切り仆されてしまったことだろう。
 浪之助にはそう思われた。
 二人は盃を重ねて行った。
 いつか夕暮となっていて、庭の若竹の葉末辺りに、螢の光が淡く燈(とも)されていた。


 酒に意外に時を費し、二人が屋敷から立ち出でたのは、相当夜の更けた頃であった。
「あまり早く出かけて行って、その屋敷のあたりをまいまいし、陣十郎に目付けられでもしたら、面白くないことになる、おそい方がよろしゅうござる」と、要介はそう云ってかえってよろこんだ。
 家にいる時も外へ出てからも、どういう因縁から源女のお組などと、先生にはお懇意(ちかづき)[#ルビの「ちかづき」は底本では「ちかずき」]になりましたか? お組のうたった不思議な歌の意味、あれはどうなのでござります? 何が故に水品陣十郎は、先生やお組を狙うのですかと、浪之助はいろいろ要介に対して、訊きたいことがあったけれど、一つは昨夜陣十郎によって、そういうことに触れてはならぬと、威嚇されたのが身に泌みてい、一つは要介その人も、そういうことに触れられることを、好んでいないように思われたので、つい浪之助は訊きそびれてしまった。
 こうして本郷の榊原様の、お屋敷地辺りまでやって来た。
 屋敷町は更けるに早く、ほとんど人の通りなどなく、家々の門は差し固められ、甍(いらか)が今夜も明かな月夜、その月光に照らされて、水に濡れたように見えるばかりであった。
「先生、このお屋敷でございます」と、浪之助はお長屋の一軒の前で立った。
 二百石取りか三百石取りか、相当立派な知行取りの、お長屋であることは構えで知れた。
 板塀が高くかかってい、その上に植込みの槇や朴が、葉を茂らせてかかってい、その葉がこれも月の光に燻銀(いぶしぎん)のように薄光っていた。
「表門の方へ廻って見ましょう」
 こう云って要介が先に立ち、二三間歩みを運んだ時、消魂(けたたま)しい叫声が邸内から聞こえ、突然横手の木戸が開き、人影が道へ躍り出た。
 一人の武士が白刃を下げ、空いている片手に一人の女を、横抱きにして引っ抱えてい、それを追ってもう一人の武士が、これも白刃を提(ひっさ)げて、跣足(はだし)のまま追って出て来た。
「汝(おのれ)! ……待て! ……極重悪人」
 追って出た若い武士の叫びであった。
「お兄様! ……お兄様!」
 抱えられている娘は悲鳴をあげた。
「陣十郎だ!」とその瞬間、要介は叫んで足を返した。
 娘を抱えている武士が紛う方もない、水品陣十郎であるからであった。
 陣十郎は躊躇したらしく、一瞬間立ち止まった。
 背後(うしろ)から若い武士が追って来る、行手には二人の武士がいる。何方(どこ)へ走ろうかと躊躇したらしい。
 そこへ追いついた若い武士は、
「父上の敵(かたき)、くたばれ悪漢!」
 声諸共切り込んだ。
「切れ――ッ」と差し出したのは娘の躰(からだ)!
「あッ」とばかりあやうくも、白刃を三寸の宙で止め。
「人楯とは汝(おのれ)卑怯者!」
「お兄様お兄様妾(わたし)もろとも、陣十郎を切ってお父様の敵を!」
 叫ぶ娘の澄江(すみえ)をグッと、再び抱え込んだ陣十郎は、二人の武士に向い威嚇的に、白刃を振り廻し叱咤した。
「退け! 邪魔するな! 致さば切るぞ」
 駆け抜けようとするその前へ、両手を拡げて要介は立った。


「眼(まなこ)眩(くら)んだか水品陣十郎! 拙者が見えぬか秋山要介だ!」
「なに秋山?」とタジタジ[#「タジタジ」は底本では「タヂタヂ」]としたが、
「いかにも秋山! ウ――ム南無三!」
「事情は知らぬが日頃の悪業、邪は汝(おのれ)にあるは必定! ここは通さぬ、組み止めるぞ! ……」
 途端に背後の若い武士が叫んだ。
「我々兄妹はこの家の者、榊原家の家臣でござって、拙者は鴫澤主水(しぎさわもんど)と申し、妹儀は澄江と申す。それなる男はいささかの縁辺(しるべ)、最近我が家の寄宿者(かかりうど)となり、我等養い居りましたるところ、わずかのことよりたった今し方、われらが父庄右衛門を殺し、ご覧のとおり妹を誘拐(かどわか)し、遁れようといたし居りまする。承わりますればご貴殿には、ご高名の秋山先生との御事、助太刀お願いいたしまする」
「心得てござる」と要介は云った。
「そうなくとも水品陣十郎に対し、拙者従来確執ござる。討って取らねばならぬ奴、まして貴殿ご兄妹の敵(かたき)とありましては、いよいよもって見遁し難い。……助太刀たしかに承知いたした。……貴殿そなたより切ってかかられよ。拙者組み止めお引き渡す。……浪之助殿、貴殿も共々」
「承知しました」と浪之助も云って、本来は小胆である彼ではあったが、傍らには要介が居ることではあり、そうでなくてもこういう場に臨めば、そこは武士で義侠の血も湧き、勇気も勃然と起こるものであり、やにわに刀を引き抜いた。
 腹背敵を受けたばかりか、その中の一人は剣聖ともいうべき、秋山要介正勝であった。剣鬼のような水品陣十郎も、進退谷(きわ)まったと知ったらしい、突立ったまま居縮んだが、抱えていた澄江を地へ下すと、肩を片足でグッと踏みつけ、大上段に刀を振り冠り、
「秋山氏か、久々に御意得た。いかにも貴殿の云われるとおり、拙者と貴殿とは敵(かたき)同志、と云うよりも競争相手、討つか討たれるか行く道は一つ、しょせんは命の遣り取りする間、ここで逢ったも因縁でござろう、勝負承知、逃げ隠れはしない。……主水、主水、鴫澤主水、汝(おのれ)に対しても云い分はない、いかにもこの方汝の父親、庄右衛門を武士の意地で、今し方切ってすてたは確かだ、親の敵に相違ない善悪正邪を論じたなら、五分の理屈はこっちにもある。が、云うまい理屈は嫌いだ! 悪人に徹底しようぞ。ワッハッハッ、拙者は悪人! 悪人なるが故に義理はいらぬ。そこで恋しい女があれば、理不尽であろうと奪って逃げる。そこで澄江を奪ったのよ。悪人であれば人情は無益、こっちの命のあぶない瀬戸際、そうなっては恋女も情婦もない、人質、人楯、生ける贄(にえ)、土足にかけてこの有様だ! かかれ秋山、かかれ主水!、一寸と動かば振り冠った刀、澄江の上に落ちかかるぞよ!」
 悪人の本性を如実に現わし、左右に向かってこう喚くや、月光にドギツク振り冠った刀を、上げつ下げつ切る真似をして、陣十郎は心よげに笑った。
 切歯はしたが澄江の命があぶない、要介も主水もかかりかね、足ずりをして躊躇(ためら)った。


 が、その時澄江が叫んだ。
「躊躇はご無用妾(わたし)を殺して、陣十郎をお討取り下さりませ。……まずこの如く!」と繊手(せんしゅ)を揮った。
「ワッ」と陣十郎が途端に叫び、飛び退くと刀を肩に担ぎ、不覚にも一方へよろめいた。
 そこを目掛けて、
「二つになれ!」と、切り込んだは主水の刀であった。
 音!
 鏘然と一合鳴った。
 陣十郎が払ったのである。
 と見て取って翻然と、要介は無手で躍りかかった。
 剣光!
 斜に一流れした。
 陣十郎の横なぐりだ。
 が、何の要介が、切られてなろうか飛び違った。
 そこを二度目に切り込んだ主水!
 またも鏘然と音がして、陣十郎の払った刀の、切先が延びて主水の股へ!
「あッ」
 主水が地に仆れた。
「お兄様!」と簪(かんざし)を逆手に、それで陣十郎の足の甲を突き、機先を制した澄江が叫び、地を這って主水へ近寄った。
「今は憎さが!」と吼えながら、何という残虐陣十郎は、澄江の背を拝み打ち!
 切ろうとした一刹那風を切って、浪之助の投げた石飛礫(つぶて)が、陣十郎の額へ来た。
「チェーッ」
 片手で払い落とした隙を、ドッとあてた躰(たい)にあたり!
 要介の精妙の躰あたりを食らい、もんどり打って二間の彼方(かなた)へ、毬のように飛ばされた陣十郎! とはいえ彼も鍛えた躰だ、飛燕の軽さ飛び起きるや、這い廻っている主水の傍を、矢のように駈け抜けて一散に脱兎!
「待て!」と要介は追っかけたが、
「浪之助殿、貴殿は居残り、主水殿と澄江殿を介抱なされい!」
「かしこまりました」
「頼む」と云いすて、要介は韋駄天追っかけたが、この辺りの地理に詳しい彼、陣十郎はどこへ行ったものか露路か小路へ逃げ込んだらしい、既に姿は見えなかった。
 が、この頃から物音に驚き、お長屋の窓や潜門(くぐり)が開き、人々が顔を出し、
「どうしたのだ?」
「火事か?」
「盗賊か?」
 などと、口々に罵った。
 要介はそこで、大音に叫んだ。
「悪漢、鴫澤家に禍(わざわい)いたし、この界隈に隠れ居ります。お出合い下されお探し下され」
「行け」「探せ」と人々は叫び、追っ取り刀で走り出して来た。
「向こうだ」
「いや、こっちでござろう」
 四方の露地や小路に駆け込み、あそこかここかと探し廻った。
 次から次、屋敷から屋敷へと、この騒動はすぐに伝波し、家中の武士、夜廻りの者、若党、仲間などが獲物を携え、ここの一画を包囲して、陣十郎を狩り立てた。


 向こうでも人声がし、こちらでも人声がした。疑心暗鬼から味方同志を、敵と間違え声を上げたり、「居たぞ」と叫んで追って行き、それが知り合いの同僚だったので、ドッと笑う声がした。
 いつの間にか敵は一人ではなく、大勢であるように誤伝されたらしく、あそこの露路に五人居ましたぞ、勘兵衛殿のお長屋の塀に添って、三人抜刀して居りましたぞなどと、不安そうに云い合ったりした。
 辻を人影の走って行くのが見えたり、屋敷の庭の松の木などに登って、様子を窺っている人影なども見えた。
 と一つの人影が、月光を避けて家の塀の陰を、それからそれと伝わって、この一画から遁れ出て、下谷(したや)の方へ行こうとするらしく、ぞろぞろと歩いて行くのが見えた。
 ほかならぬ水品陣十郎であった。
 髻(もとどり)が千切れてバラバラになった髪を、かき上げもせず額にかけ、庄右衛門を切った血刀を、袖の下へ隠しながら、跣足(はだし)のままで歩いていた。
 辻を左へ曲がった途端、
「出た――」
「やれ!」
 剣光! 足音!
 五人の武士が殺到して来た。
「…………」
 無言でサ――ッ。
「ギャ――ッ」
「ワッ」
 仆れた。
 生死は知らず二人の武士は仆れ、三人の武士は一散に逃げた。
 そうしてここの地点から、陣十郎の姿も消えていて、霜の下りたような月光の中に、のたうっている二人の負傷者(ておい)が、地面を延びつ縮みつしていた。
 中山右近次と伊丹佐重郎、その両家に挟まれた、黒(くろ)い細い露路の中を、この頃陣十郎は歩いていた。
 さすがの彼も疲労したらしく、時々よろめいたり立ち止まったりした。
 丁字形の辻へ出た。
 左右前後をうかがってから、右の方へ歩いて行った。
 と、一人の夜廻りらしい男が、六尺棒をひっさげて、石材の積んである暗い陰から、鷺足をして忍び出て、陣十郎の後を追った。
 足を払おうとしたのであろう、そろそろと六尺棒を横に構え、膝を折り敷くとヒュ――ッと、一揮! 瞬間にもう一つの人影が、これは材木の立てかけてある陰から、小鬼のように躍り出た。
「ワッ」
 クルクルと六尺棒が、宙に刎ね上って旋回し、夜廻りは足を空にして、丸太のようにぶっ仆れた。
 陣十郎ははじめて驚き、前へ二間ほど速(そく)に飛び、そこでヒラリと振り返って見た。
 一人の男が地に仆れてい、その傍らに一人の女が、血にぬれた匕首(あいくち)を片手に持ち、片手で衣装の裾をかかげ、月光に白々と顔を浮かせ、その顔を気味悪く微笑させ、陣十郎の方を見詰めていた。
「陣十郎さん、あぶなかったねえ」
「誰だ。……や、貴様はお妻」
「情婦(いろ)を忘れちゃ仕方がないよ」
「うむ。……しかし……どうしたんだ」
「そいつアこっちで云うことさ。……一体こいつアどうしたんだえ」
「どうしたと云って……やり損なったのよ」
「そうらしいね、そうらしいよ。……それにしてもヤキが廻ったねえ」

10
「ヤキが廻ったと、莫迦を云うな、人間時々しくじることもある。……それはそうとお前はどうして?」
「ここへ来たかというのかえ。……下谷の常磐(ときわ)で待ち合わそうと、お前と約束はしたけれど、気になったので見に来ると……」
「この騒動で驚いたか」
「それで物陰にかくれていると、この夜廻りが六尺棒でお前の足を払おうとしたので……」
「飛び出してグッサリ横ッ腹をか」
「とんだ殺生をしてしまったのさ」
「お蔭で俺は助かった」
「わたしゃアお前の命の恩人、これから粗末にしなさんな」
「と早速恩にかけか」
「かけてもよかろう礼を云いな」
「いずれゆっくりと云うとしよう」
「そのゆっくりが不可(いけ)ないねえ」
「そうだ、ゆっくりは禁物だ。……どうともして早くここを遁れ。……しかし八方取りまかれてしまった」
「いいことがある、姿を変えな」
「姿を変えろ? どうするのだ?」
「夜廻りの野郎の衣装を剥ぎ……」
「成程こいつア妙案だ」
 物陰にズルズルと夜廻りの躰を、陣十郎は引っ込んで、自分も物陰へ隠れたが、出て来た時には陣十郎の姿は、武士から夜廻りに変わっていた。大小は脇腹へ呑んだと見え、鍔の形だけふくらんで見えた。
「さてこうやって頬冠りをし、お前という女と手を取り合ったら、ドサクサまぎれの駈落者と、こう見られまいものでもないの」
「あたしゃアちょっと役不足さ」
「贅を云うな。……さあ行こう」
 歩き出したところへ四五人の武士が、警(いまし)め合いながら近寄って来た。
「待て」
「へい」
「何者だ」
「ごらんの通りで……お見遁しを」
「うふ、そうか、おっこち同志か」
「へい」
「行け」
「ごめんなすって」
「これ、待て待て」
「何でございます」
「物騒な殺人者(ひとごろし)が立ち廻っているぞ。用心をして行くがいい」
「――へい、ご親切に、ありがたいことで。……」

 三月が経ち初秋となった。
 甲州方面から武州へ入るには、大菩薩峠を越し丹波川に添い、青梅(おうめ)から扇町谷(おおぎまちや)、高萩村(たかはぎむら)から阪戸宿(さかどじゅく)、高阪宿と辿って行くのをもって、まず順当としてよかった。
 この道筋を辿りながら、一人の若い武士と一人の娘とが、旅やつれしながら歩いていた。
 鴫澤主水(しぎさわもんど)と澄江(すみえ)とであった。
 父の敵水品陣十郎を目つけ、討ち取って復讐しようという、敵討ちの旅なのであった。
 主水と陣十郎との関係は?
 従々兄弟(またいとこ)という薄いものであって、あの時からおおよそ三カ月ほど前に、飄然と鴫澤家へ訪ねて来て話を聞いて見れば、成程そんな親戚もあったと、ようやく記憶に甦えったくらいで、世話する義理などないのであったが、寛大で慈悲深い庄右衛門は、そういうことにはこだわらず、陣十郎の懇願にまかせ、家へ寄食させて世話を見てやった。

敵討の旅


 これが大変悪かった。
 はじめのうちは陣十郎も、猫を冠って神妙にしていたが、次第に本性を現わして、出ては飲み、飲んでは酔って帰り、酔って帰っては武芸の自慢をし、庄右衛門や主水の剣法を、児戯に等しいと嘲ったり、不頼漢(ならずもの)らしい風儀の悪い男女をしげしげ邸へ出入させたり、そのうち娘の澄江に対して横恋慕の魔手を出しはじめた。
 澄江は庄右衛門の実の娘ではなく、一人子の主水と配妻(めあ)わす目的で、幼児から養って来た娘であり、この頃庄右衛門は隠居届けを出し、主水と澄江とを婚礼させ、主水を代わりに御前へ出そうと、心組んでいた折柄だったので、陣十郎の横恋慕は、家内一般から顰蹙された。
 自然冷遇されるようになった。
 冷遇されるに従って、いよいよ陣十郎は柄を悪くし、ますます庄右衛門や主水の剣法を、口穢く罵った。そこでとうとう腹に据えかね、あの日庄右衛門は庭へ下り立ち、陣十郎と立ち合った。立ち合って見て庄右衛門は、広言以上に陣十郎の剣法が、物凄いものであることを知り、内心胆を冷やしたが、娘の澄江が仲に入ったため、意外にも陣十郎から勝を譲られた。しかし庄右衛門は考えた。この恐るべき悪剣法者を、このまま屋敷にとめ置いては、我家のためになるまいと。そこでその日茶を飲みながら、それとなく退去を命じてしまった。
 これが陣十郎の身にこたえた。
 彼としては勝をゆずったのであるから、今後は厚遇されるであろう、そうして勝をゆずったのは、澄江が出現したからで、澄江のためにゆずったのである。だから今後はおそらく澄江も、自分に好意を持つだろうと、そんなように考えていたところ、事は全然反対となった。
 そこで小人の退怨(さかうらみ)! そういう次第ならと悪心を亢ぶらせ、翌夜不意に庄右衛門を襲い、寝所でこれを切り斃し、悲鳴に驚いて出て来た澄江を、得たりとばかりに引っ抱え、これも物音に驚いて、出て来た主水をあしらいあしらい、戸外(そと)へ走り出て遁れようとした。
 と、意外な助太刀が出た。
 秋山要介や浪之助であった。
 そこで澄江を手放したあげく、身を持て遁れ行方(ゆくえ)不明となった。
 こうなって見れば主水としては、なすべき事は一つしかなかった。
 敵討(かたきうち)!
 そう、これだけであった。
 父の葬式(そうしき)を出してしまうと、すぐに敵討のお許しを乞うた。
「よく仕(つかまつ)れ」と闊達豪放の主君、榊原式部少輔(さかきばらしきぶしょうゆう)様は早速に許し、浪人中も特別を以て、庄右衛門従来の知行高を、主水に取らせるという有難き御諚、首尾よく本望遂げた上は、家督相続知行安堵という添言葉さえ賜った。
「お兄様妾(わたくし)も是非にお供を」
 いよいよ旅へ出るという間際になって、こう澄江が云い出した。
「お父上が陣十郎に討たれました。その原因の一半は、妾にあるのでござりますから」
 こう澄江は主張するのであった。
「女を連れての敵討の旅、それはなるまい」と主水は拒んだ。
「主君への聞こえ、藩中の思惑、柔弱らしくて心苦しい」
 こう云って主水は承知しなかった。

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