名人地獄
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著者名:国枝史郎 

行って見たくてならなかった。そこで彼はソロソロと、南側の廊下を西にとり、お艶の部屋まで行って見た。そうしてそこから見渡される、西側の廊下を隙(す)かして見た。しかし誰もいなかった。で、今度は西側の廊下を、北の方へ歩いて行った。そうして丑松の部屋まで行った。そうしてそこから見渡される、北側の廊下を隙かして見た。と、驚くべき光景が、彼の眼前に展開されていた。一人の老人がうずくまっていた。一人の小男が種子ヶ島で、その老人を狙っていた。石壁から火光(ひかり)が射していた。……その老人が思いもよらず、玻璃窓の平八だと見て取った時、彼はドキリと胸を打った。そうして彼はクラクラとした。「それじゃ今まで玻璃窓めと、追いつ追われつしていたのか!」彼はブルッと身顫いした。
「江戸から追っかけて来たんだな! 恐ろしい奴だ。素早い奴だ!」彼は身の縮む思いがした。
「だが小男は何者だろう! そうして何のために種子ヶ島で玻璃窓を狙っているのだろう? 玻璃窓はなんにも知らないらしい。顔を抑えてうずくまっている。泣いてるのじゃあるまいかな? なんでもいい、いい気味だ! 殺されてしまえ! 消えてなくなれ!」
 彼は嬉しさにニタニタ笑った。と、そのとたんに彼の心へ、別の感情が湧き出した。「ああ、だがしかし玻璃窓めは、俺にとっちゃ好敵手だった。あいつの他にこの俺を、鼓賊だと睨んだものはねえ。あの玻璃窓に縛られるなら、俺も往生して眼をつぶる。その玻璃窓めが殺されようとしている。……うん、こいつあうっちゃっちゃ置けねえ! こいつあどうしても助けなけりゃあならねえ。あっ、引き金を締めやがった! いけねえいけねえ間に合わねえ! 畜生!」
 と怒鳴ると持っていた鼓を、種子ヶ島目掛けて投げ付けた。瞬間にド――ンと発砲された。
 それから起こった格闘は、真に劇的のものであった。
 少納言の鼓は種子ヶ島にあたり、鼓と種子ヶ島とは宙に飛んだ。で、鉄砲の狙いは外れた。玻璃窓の平八は飛び上がった。そうして丑松へ組み付いた。それを外した丑松は、逃げ場を失って北側の廊下を、西の方へ走って行った。そこへ飛び出したのが次郎吉であった。撲る、蹴る、掴み合う! やがて一人が「ウ――ン」と呻き、バッタリ仆れる音がした。二人の人間は立ち上がり、はじめて顔を見合わせた。
「玻璃窓の旦那、お久しぶりで」
「おっ、貴様は和泉屋次郎吉!」
「あぶないところでございましたなあ」
「それじゃ貴様が何かを投げて……」
「走って行っちゃ間に合わねえ。そこで鼓を投げやした」「ううん、そうして俺を助けた!」「へん、敵を愛せよだ!」「眼力たがわず和泉屋次郎吉、わりゃあやっぱり鼓賊だったな!」「だが鼓はこわれっちゃった」「捕(と)った!」というと平八は、次郎吉の手首をひっ掴んだ。
「見事捕る気か! さあ捕れ捕れ! だが命の恩人だぞ!」
「ううん」というと平八は、とらえた次郎吉の手を放した。
 森然(しん)と更けた夜の館、二人は凝然と突っ立っていた。

 一方こなた平手造酒は、次郎吉と別れるとその足で、出邸の一つへ走って行った。出邸には全く人気がなく、矢狭間(やざま)造りの窓から覗くと、内部は整然と片付けられていた。で、内へはいってみた。ここへ七人立てこもったなら、五十人ぐらいは防げようもしれぬと、そう思われるほど厳重をきわめた砦(とりで)のような構造であったが、しかしどこにも隠れ戸もなければ、地下へ通う穴もなかった。で、造酒はそこを出て、次の出邸へ行ってみた。そこも全く同じであった。構造は厳重ではあったけれど、人気というものがさらになかった。

    お艶と造酒一室に会す

 こうして順次四つの出邸を、平手造酒は訪ね廻った。その結果彼の得たところは、疲労とそうして空虚とであった。親友の観世銀之丞については、全く知ることが出来なかった。
「ふうむ、それでは本邸に、観世は隠されているのだな」こう考えると猶予(ゆうよ)ならず、彼は本邸へ走って行った。戸にさわるとすぐに開き、廊下が眼前に展開された。すなわち北側の廊下であった。正面に巨大な石壁があった。それについて西の方へ歩いた。と、廊下がそこで曲がった。西側の廊下が真(ま)っ直(す)ぐに、彼の足もとから延びていた。その廊下の一所に、三人の人影が集まっていた。一人は床の上に仆れているし、二人は向かい合って突っ立っていた。造酒はハッと胸を躍らした。しかしそれよりももう一つのことが、彼の心を引き付けた。それは石壁の一角が、扉のように口をあけ、そこから火光が洩れていることで、どうやら部屋でもあるらしい。
 つと造酒は踏み込んでみた。そこははたして部屋であった。かつていつぞや観世銀之丞が、偶然のことから呼び込まれた、赤格子九郎右衛門の部屋であった。しかしその頃とは異(ちが)っていた。金銀財宝珍器異類、夥(おびただ)しかったそれらのものが、今は一つも見られない。ガランとした灰色のだだっぴろい部屋が、味も素(そ)っ気(け)もなく広がっていた。そうして天井から飾り燈火が、明るい光を投げていた。その光に照されて、一人の女が浮き出ていた。女は床の上に仆れていた。そうして荒縄で縛られていた。口には猿轡(さるぐつわ)が嵌められていた。それは妖艶たる若い女で、他ならぬ九郎右衛門の娘であった。
 造酒は意外に驚きながらも、女の側へ走り寄り、縄を解き猿轡(さるぐつわ)を外した。するとお艶は飛び上がったが、扉の側へ飛んで行き、ガッチリ内側から鍵を掛けた。
「態(ざま)ア見やがれ丑松め!」あたかも凱歌(がいか)でも上げるように、男のような鋭い声で、こう彼女は叫んだが、そこで初めて造酒を眺め、気高い態度で一礼した。
「お娘(むすめ)ご、お怪我はなかったかな?」
 造酒はその美に打たれながら、こういう場合の紋切り型、女の安否を気遣った。
「あぶないところでございました。でも幸い何事も。……あれは丑松と申しまして、父の家来なのでございます。ずっと前から横恋慕をし、今日のような大事の瀬戸際(せとぎわ)に、こんな所へおびき出し、はずかしめようとしたのでございます。……失礼ながらあなた様は?」お艶は気が付いてこう訊いた。造酒はそれには返辞をせず、
「お見受けすればあなたには、どうやらこの家のお身内らしいが、しかとさようでござるかな?」
「ハイ、さようでございます。別荘の主人九郎右衛門の娘、艶と申す者でございます」「有難い!」と叫ぶと平手造酒はツカツカ二、三歩近寄ったが、「しからばお訊きしたい一義がござる。江戸の能役者観世銀之丞、当家に幽囚されおる筈、どこにいるかお明かしください!」勢い込んで詰め寄せた。
 と、お艶の眼の中へ、活々(いきいき)した光が宿ったが、
「仰せ通り銀之丞様は、当家においででございます」「おお、そうなくてはならぬ筈だ。で、今はどこにいるな? おおよそのところは解っている。地下にいるだろう、数十尺の地下に!」「ハイ」といったがニッコリと笑い、「ああそれではあなた様は、鞘に封じたあの方の文を、お拾いなされたのでございますね。それでここへあの方を、助けにおいでなされたので。……そうですあれは十日ほど前に、空洞内の土牢から、海へ投げたものでございます」「空洞内の土牢だと□ これ、なんのためにそんな所へ、あの観世を入れたのだ! お前では解らぬ主人を出せ! なんとかいったな九郎右衛門か、その九郎右衛門をここへ出せ!」造酒は威猛高(いたけだか)に怒号した。しかしお艶は恐れようともせず、水のように冷然と立っていた。

    その後の観世銀之丞

「父はこの世にはおりません」やがてお艶が咽ぶようにいった。「父さえ活きておりましたら。……中風で斃れたのでございます。……つづいて母が死にました。そうしてそれ前に可愛い弟の六蔵が死んでしまいました。心臓で死んだのでございます。そうして母の死んだのは、悲しみ死になのでございます。……名に謳(うた)われた赤格子も、妾(わたし)一人を後に残し、死に絶えてしまったのでございます。永い年月苦心に苦心し、ようやく出来あがった黒船へも、乗ることが出来ずに死にましたので。……それはそうとあなた様は、平手造酒さまでございましょうね?」
 図星を指されて平手造酒は、思わず大きく眼を見開いた。
「お驚きになるには及びません」お艶は微笑を含んだが、「観世さまからこの日頃、お噂を承まわっておりました。それとそっくりでございます。それに鞘文(さやぶみ)をご覧になり、この『主知らずの別荘』へ、すぐに踏み込み遊ばすような、そういう勇気のあるお方は、平手様以外にはございません。……それはとにかく観世さまは、只今はご無事でございます。そうして現在は黒船の上に、妾達一統の頭領として、君臨しておられるのでございます。……いえいえ嘘ではございません。どうぞお聞きくださいまし。みんなお話し致しましょう。でも時間がございません。出帆しなければなりませんので。妾の行衛(ゆくえ)が知れないので、騒いでいることでございましょう。……それではほんの簡単に、申し上げることに致しましょう。……今年の秋の初め頃、妾達はこの地へ参りました。妾達の本当の国土といえば、南洋なのでございます。そうして妾はその南洋で成長したものでございます。ボルネオ、パプア、フィリッピン諸島に、とりまかれているセレベス海に、妾達の国土はございますので。どうして日本に参りましたかというに、父の財産がそっくりそのまま日本に残してございましたからで。それを南洋へ移したいために、やって参ったのでございます。……この地へ参ったその日のうちに、妾はあの観世様を愛するようになりました。どうぞおさげすみくださいますな。妾のような異国育ちのものは、愛とか恋とかいうようなことを、憚からず申すものでございますから。……するとある晩観世様が、別荘へ迷って参られました。そうして父と逢いました。そうして父の依頼を諾(き)かれ、この別荘へお止どまりくだされ、妾達を狙うある敵から、妾達を守ってくださるように、お約束が出来たのでございます。……どんなに妾が喜んだか、どうぞご推察くださいますよう。妾達二人はその時から、大変幸福になりました。妾達は恋の旨酒(うまざけ)に酔いしれたのでございます。けれどそういう幸福には、きっとわざわいがつきやすいもので、一人の恋仇が現われました。あの丑松でございます。丑松は父に讒(ざん)をかまえ、観世様を地の底の、造船工場へ追いやりました。――妾達の秘密を観世様が、探り知ったという罪条でね。で、それからの観世様は、多くの大工と同じように、暗い寒い空洞内で、働かなければなりませんでした。するとそのうち丑松は、また父にこんなことを申しました。それは観世様が二葉の図面を――ご禁制船の図面なので、それを妾達は地下の空洞で、拵えていたのでございますが、それをこっそり奪い取り、刀の鞘へ封じ込み、外海へ流したというのです。そうしてこれは事実でした。ほんとに観世様は二葉の地図を、海へ流したのでございます。幕臣である観世様としては、無理のないことと存じます。ご禁制船の建造は、謀反罪なのでございますもの。それをあばいて官に知らせるのは、当然なことなのでございますもの。でもそれは妾達にとり、特に父にとりましては、大打撃なのでございます。うっちゃって置くことはできません。処分しなければなりません。それでとうとう観世様を、妾達仲間の掟通りに、空洞内の土牢へ入れ、飢え死にさせることにいたしました。けれど観世様は死にませんでした。妾が毎日こっそりと、食物を差し入れたからでございます。……そのうちに船が出来上がり、つづいて父が死にました。そうして妾は申し上げましたように、一人ぼっちとなりました。するとそこへ付け込んで、丑松が口説くのでございます。妾は途方にくれました。その結果妾は観世様へお縋りしたのでございます。妾をお助けくださいまし。妾はあなたを愛しております。どうぞどうぞ丑松から、妾をお助けくださいまし。そうしてどうぞ妾達のために、頭領となってくださいまし。そうしてどうぞ妾達と一緒に、南洋へおいでくださいまし。美しい島でございます。椰子(やし)、橄欖(かんらん)、パプラ、バナナ、いちじくなどの珍らしい木々、獅子(しし)だの虎だの麒麟(きりん)だのの、見事な動物も住んでおります。妾の領地でございます。経営の手を待っております。男子一生の仕事として、これほど愉快で華々(はなばな)しいことは、他にあろうとは思われません。そこへ君臨してくださいましと。……すると最初観世様は、妾の恋をお疑いなされ、信じようとはなさいませんでした。でもとうとうお信じくだされ、やがてこのように仰せられました。『よし、お艶、俺は信じる。お前と一緒にその島へ行こう。俺は前から望んでいたのだ! 牢屋へはいるか海外へ行くか、この二つを選びたいとな! 俺は退屈で仕方なかったのだ。その退屈は慰められよう。さあ俺を牢から出せ。俺はお前達の大将となろう。そうしてお前を妻にしよう』――で、あの方は只今では、妾の良人(おっと)でございます。南洋へ参るのでございます」
 この時別荘の四方にあたって、鬨の声がドッと上がった。秋山要介の軍勢が、赤格子征めに取りかかったのであった。

    堂々浮かび出た赤格子の巨船

 お艶はニコヤカに微笑したが、
「あれは敵でございます。妾達の敵でございます。あの人達の征めて来ることは、解っていたのでございます。父が活きてさえおりましたら、蹴散らしてしまうでございましょう。妾は嫌いでございます。血を見るのが嫌いなので。そうして妾の恋しいお方も、お嫌いなのでございます。で、別荘はあの人達に明け渡してやるつもりでございます。決して逃げるのではございません。大きなものへ向かうために、小さいものを見棄てますので。あの人達にも神様のめぐみが、どうぞどうぞありますよう。そうして、あなた、平手様には、さらにさらにもっともっと、神様のおめぐみがございますように! 妾はクリスチャンでございます。そうして只今は観世様も。――あなたの厚いご友情は、観世様へ伝えるでございましょう。どんなにかお喜びでございましょう。……もう行かなければなりません。待ちかねていることでございましょう。……ごめんください平手さま! さようならでございます。神の恩寵(おんちょう)あなたにありますよう。……一間ほどお下がりくださいまし。それではあぶのうございます。……ああそれからもう一つ、船出をご覧遊ばしたいなら、別荘の北、海の岸、象ヶ鼻へお駈けつけくださいまし。岩は人工でございます。開閉自由でございます。大きな湾がありますので。この別荘は湾の上に、造られてあるのでございます。父が造ったのでございます。父は科学者でございました。どんなことでも出来ましたので。……いよいよお別れでございます」
 再びドッと鬨の声! 館へ乱入する足の音! 石壁を破壊する槌(かけや)の音!
「さようならよ! さようならよ!」
 叫びながらお艶は手を上げて、石壁の一点へ指を触れた。と、お艶の足の下、一間四方の石床が、音もなくスーと下へ下がった。今日のエレベーター、そういう仕掛けがあったのであった。その時洞然と音を立てて、さすが堅固の石壁も、槌(かけや)に砕かれて飛び散った。ムラムラと込み入る賊の群、それと引き違いに飛び出した造酒、敵と間違えて追い縋る賊を、刀を抜いて切り払い、象ヶ鼻へ走って行った。

 ここは絶壁象ヶ鼻、太平洋の荒浪が、岩にぶつかり逆巻いていた。と、ゴーゴーと音がした。蝶つがいで出来た大扉が、あたかも左右にひらくように、今、岩が濤(なみ)を分け、グ――と左右へ口をあけた。と、濛々(もうもう)たる黒煙り。つづいて黒船の大船首。胴が悠々と現われた。一本煙突(チムニイ)二本マスト、和船洋風取りまぜた、それは山のような巨船であった。船首に篝(かがり)が燃えていた。その横手に一人の武士が、牀几に端然と腰かけていた。他ならぬ観世銀之丞であった。その傍らにお艶がいた。と、象ヶ鼻の岩上から、
「観世!」と呼ぶ声が聞こえて来た。平手造酒の声であった。闇にまぎれて立っているのだ。銀之丞は牀几から立ち上がった。
「おお平手!」と彼はいった。「おさらばだ、機嫌よく暮らせ!」
「航海の無事を祈るばかりだ!」
「有難う! お礼をいう! 遠く別れても友情は変らぬ!」「お互い愉快に活きようではないか!」
「新天地! 新天地! それが俺を迎えている! 生活は力だ! 俺は知った!」「ふさぎの虫など起こすなよ!」「過去の亡霊! 大丈夫!」「おさらばだ! おさらばだ!」
「平手様、さようなら!」お艶の声が聞こえて来た。
「お艶どの、さようなら!」
 船は沖へ駛(はし)って行った。
 間もなく大砲の音がした。森田屋の賊船が襲ったのであった。それを二発の大砲で、苦もなく追っ払ってしまったのであった。
 恋の船、新生活の船、銀之丞とお艶の黒船は、明けなんとする暁近(あけちか)い海を、地平線下へ消えて行った。

    因果応報悪人の死

 物語りは三月経過する。
 桜の花が咲き出した。春が江戸へ訪ずれて来た。この物語りの最初の日から、ちょうど一年が過ぎ去った。「今の世や猫も杓子(しゃくし)も花見笠」の、そういう麗かの陽気となった。隅田川には都鳥(みやこどり)が浮かび、梅若塚には菜の花が手向(たむ)けられ、竹屋の渡しでは船頭が、酔っぱらいながら棹(さお)さしていた。
 一閑斎の小梅の寮へは、相変らず人が寄って来た。ある日久しぶりで訪ねて来たのは、玻璃窓の郡上平八であった。
「これはこれは珍しい。それでも生きていたのかえ」「裾を見な、足があるから。へ、これでも幽霊じゃないのさ」皮肉な二老人は逢うと早々、双方で皮肉をいい合うのであった。「一局囲(かこ)もうかね、一年ぶりだ」「心得た。負かしてやろう」「きつい鼻息だ、悲鳴をあげるなよ」
 パチリパチリと打ち出した。最初の一局は一閑斎が勝ち、次の一局は平八が勝った。で一服(ぷく)ということになった。
「そこでちょっとおききするが、もう鼓賊はお手に入れたかな?」ニヤニヤ笑いながら一閑斎は訊いた。もちろんいやがらせの意味であった。
「うむ」といったが平八は、不快な顔もしなかった。「さよう実は捕えたがな、捕えてみれば我が子なり。……恩愛の糸がからまっていて、どうにもならなかったという訳さ」「へえ、本当に捕えたのか? ふうむ、どこで捕えたな?」「銚子だよ、去年の冬」「で、鼓賊の素性はえ?」「それだ」いうと平八は、会心の笑みを浮かべたが、「わしの眼力は狂わなかった。鼠小僧と同一人だった」「ふうん、そいつあほんとかね?」一閑斎は眼を見張った。
「嘘をいってなんになる。ほんとだよ、信じていい。……だがどうしてもショビケなかったのさ。しかしその時約束した。『天運尽きたと知った時は、わしの手から自首しろ』とな。『あっしの娑婆も永かあねえ。その時はきっと旦那の手で、送られることに致しましょう』こうあいつもいったものだ。それでおれは待ってるのさ。……ところでどうだこの二、三ヵ月、鼓賊の噂を聞かないだろうな?」「さようさよう、ちっとも聞かない」「それは鼓がこわれてしまって、もう用に立たないからだ。投げた拍子にこわれたのさ。そうしてそのためこのわしは、命びろいをしたというものさ。いや全く世の中は、なにが幸いになるか解りゃしない」感慨深そうに平八はいった。もちろんそれがどういう意味だか、一閑斎にはわからなかった。しかし平八は日頃から、嘘をいわない人物であった。で一閑斎は平八の言葉を、是認せざるを得なかった。
 そこへ下男の八蔵が、眼の色を変えて飛んで来た。「旦那様、大変でございますよ。あの綺麗な浪人の内儀が、しごきを梁(はり)へ引っかけて、縊(くび)れているじゃありませんか」
「おっ、ほんとか、そりゃあ大変だ!」一閑斎は仰天した。
「郡上氏、行ってみましょう」あわてて庭下駄を突っかけた。二人がその家へ行った時には、見物が黒山のようにたかっていた。病(や)みほうけても美しい。油屋お北の死骸(なきがら)は、赤いしごきを首に纏(まと)い、なるほど梁(はり)から下がっていた。
 壁に無数の落書きがあった。「ゆるしてください。恐ろしい」「馬子甚三」「信濃追分」「南無幽霊頓証菩提」「もう、わたしは生きてはいられない」「あの人、あの人、あの人、あの人」
 意味のわからない落書きであった。
 検死の結果は自害となった。乱心して死んだということになった。ただしどうして乱心したかは、誰も知ることは出来なかった。
「春になると自殺者が多い」平八は憮然として呟いた。
「いい女だったのに惜しいことをした」こういって一閑斎は苦笑したが、「亭主の浪人はどうしたかな?」
 その浪人は殺されていた。それの解ったのは翌朝のことで、隅田堤の桜の幹へ、五寸釘の手裏剣で、両眼と咽喉(のど)とを縫いつけられていた。
 奇抜といおうか惨酷といおうか、その不思議な殺され方は、江戸市中の評判となった。
「いったい誰が殺したのだろう?」人々はこういって噂した。
 もちろん甚内が殺したのであった。兄の敵の富士甚内を、浅間甚内が殺したのであった。

    浅間甚内復讐を語る

 どんな具合に巡り会い、どんな塩梅(あんばい)に立ち合って、兄の敵を討ったかについては、彼は恩師たる千葉周作へ、次のように話したということである。
「……とうとう本望をとげました。先生のお蔭でございます。一生忘れはいたしません。兄もどんなにか草葉の蔭で、喜んでいることでございましょう。おそらく修羅(しゅら)の妄執(もうしゅう)も、これで晴れたことでございましょう。……では、どうして敵と出会い、どんな具合に討ち止めたか、お話しすることに致します。なかばは偶然でございました。そうして後の半分は妹のおかげでございます。……追分をうたい、市中を流し、敵を目付けておりますうち、ふと隅田の片ほとり、小梅の里のみすぼらしい家に、お北によく似た若い女を、見掛けたことがございました。でもそれはたった一度だけで、後はいつもその家は、雨戸がしまっておりましたので、見かけることは出来ませんでした。それでも気になるところから、毎夜のようにそのあたりを、彷徨(さまよ)ったものでございます。そのうち秋が冬となり、年が明けて春となり、昨夜となったのでございますが、いつもの通りお霜を連れて、信濃追分をうたいながら、隅田の方へ参りました。そうしてその家の前に立ち、しばらく様子をうかがってから、堤を歩いて行きました。と、ご承知のようによい月夜で、おりから桜は満開ではあり、つい私はよい気持ちになり、次々にうたいながら歩いて行きますと、後の方から何者か、つけて来るではございませんか。ふと振り返って見ましたが、それらしい人の影もない。不思議なことと思いながら、また歩いて行きますと、やっぱり足音が致します。春の月夜にうかれ出た。狐か狸のいたずらであろうと、そのまま歩いて参りますと、ピタピタピタピタと足音が、近付いて来るではございませんか。で、振り返ってみましたところ、山岡頭巾で顔を包んだ、一人の武士が一間の背後(うしろ)に、追い逼っているではございませんか。ハッと思ったものでございます。と、いうのはその武士が、刀の柄をシッカリと、握っていたからでございます」

    光風霽月大団円

「『ははあこいつが噂に高い、辻斬り強盗の張本だな』と、私は突嗟(とっさ)に思いましたが、よい気持ちはいたしませんでした。で、自然と右の手が、懐中へ忍ばせた手裏剣へ、つと走ったものでございます。すると突然妹のお霜が、千切れるような声を上げ、私の袖をグイグイと、三度引くではございませんか! 『うん』と私は呻きました。合図だったからでございます。……富士甚内を目っけたら、三度袖を引くようにと、教え込んで置いたからでございます。素早(すばや)くこいつが敵かと、躍り立った一刹那(せつな)『亡霊追分、正体見た! 二つになれ!』とその武士が、サッと斬り込んで参りました。その太刀風の物凄さ、なんで私に避けられましょう。真っ二つにされた筈でございます。ワッ、やられた! と叫びながら、足もとを見ると妹のお霜が、真(ま)っ向(こう)から胸板まで、切り割られて仆れておりました。身代りになったのでございます。私をかばう一心から、飛び込んで来たのでございます。可哀そうなことをいたしました。でも妹はああいう片輪(かたわ)、なまじ活きておりますより、死んだ方がよかったかもしれません。いえいえそんなことはございません。やっぱり活きておりましたら、何彼(なにか)につけて頼みにもなり、嬉しいことも楽しいことも、分け合うことが出来ますのに。……可哀そうなことをいたしました。もう取り返しがつきません。でも妹が死んでくれたため、私は敵(かたき)の第一の太刀を、避けることが出来ました。そうして敵が第二の太刀を、私に向けて来ました時には、もう私は二間のあなたに、飛びしさっていたのでございます。もうこうなればこっちのもの、ビューッと繰り出した釘手裏剣、狙いたがわず敵の右眼へ、叩き込んだものでございます。これは全く敵にとっては、予期しなかったことでございましょう。アッと叫ぶとヨロヨロと、桜の老木へ寄りかかりました。そこを狙ってもう一本、左眼へぶち込んだものでございます。これで勝負はつきました。敵は盲目(めくら)になりましたので。そこで初めて私は、宣(なの)りを上げたものでございます。『富士甚内よっく聞け、俺は汝(おのれ)に殺された馬方甚三の実の弟、追分産まれの浅間甚内だ! 兄の敵妹の仇、思い知ったかこん畜生め! 口惜しくば立ち上がってかかって来い! どうだどうだ富士甚内!』……敵は身顫いをいたしました。動くことは出来ません。そこで私は止どめとして三本目の釘を投げつけて、咽喉(のど)を貫いたのでございます。それから妹を肩へかけ、帰って参ったのでございます。……聞けばお北もあの家で、首を縊(くく)ったと申すこと。因果応報なのでございましょう。恨みはこれで晴れました。ああいい気持ちでございます。でも寂しゅうございます。一人ぼっちでございますもの。……お手数恐縮ではございますが、どうか私を召し連れて、お上(かみ)へお訴えくださいますよう。人殺しをしたのでございます。兄の敵とはいいながら、武士を殺したのでございます。おしおきになりとうございます」
 周作が甚内を召し連れて、西町奉行[#「西町奉行」はママ]へ訴えたのは、その翌日のことであった。
 そこで奉行は取り調べた。敵討(かたきう)ちに相違なく、それに相手の富士甚内は、辻斬りの張本というところから、甚内はかえって賞美され、なんのお咎めも蒙らなかった。
 喜んだのは周作で、甚内を屋敷へ引き取るや、今後の方針を訊ねてみた。
「追分へ帰りとう存じます。故郷はよい所でございます。兄の墓場もございますし、妹お霜も同じ土地へ、葬ってやりとう存じます。そうして私は追分で、兄の代りに馬を追い、馬子で暮らしとう存じます」
 これが甚内の意志であった。
 そこで周作もそれに同じ、諸方から集まった同情金へ、さらに周作が金を足し、門弟達にも餞別を出させ、三百両の大金とし、これを甚内へ送ることにした。
 江戸で需(もと)めた馬の前輪(まえわ)へ、妹お霜の骨をつけ、
信州出た時ゃ涙で出たが
今じゃ信州の風もいや
 それとは反対の心持ち――その信州の風を慕い、江戸を立ってふるさとの、追分宿へ向かったのは、それから一月の後であった。
 こうして江戸の人々は、信州本場の追分を、永久聞くことが出来なくなったが、その代り恐ろしい辻斬りからは、首尾よく遁(の)がれることが出来た。で、私の物語りも、この辺で幕を下ろすことにしよう。




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