名人地獄
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著者名:国枝史郎 

色は浅黒いが丸顔で、眼は大きく情熱的で、そうして処女らしく清浄な、すべてが初々(ういうい)しい娘であったが、手に茶受けの盆を捧(ささ)げ、にこやかに笑いながら座敷へ上がった。
「お茶をお上がりなさいませ」
「ああお茶かね、これは有難い。旨(うま)そうなお茶受けがありますな」
「土地の名物でございますの」
「ふうむ、なるほど、海苔煎餅(のりせんべい)」
 お品はいそいそと茶を注いだ。
 豪農というのではなかったが、お品の家は裕福であった。主人夫婦も人柄で、しかもなかなか侠気があり、銚子の五郎蔵とも親しくしていた。銀之丞が頼むと快く、すぐにはなれを貸したばかりか、万事親切に世話をした。ひとつは銀之丞が江戸で名高い、観世宗家の一族として、名流の子弟であるからでもあったが、主人嘉介が風流人で、茶の湯活花(いけばな)の心得などもあり、謡の味なども知っていたからであった。
 お品は一人子で十九歳、肉体労働をするところから、体は発達していたが、心持ちはほんのねんねえであった。一見銀之丞が好きになり、兄に仕える妹のように、絶えず銀之丞へつきまとった。
 そういう家庭に包まれながら、本職の謡を悠々と、研究するということは、彼にとっては理想的であった。それに彼にはこの土地が、ひどく心に叶(かな)っていた。漁師町であり農村であり、且つ港である銚子なる土地は、粗野ではあったが詩的であった。単純の間に複雑があり、「光」と「影」の交錯が、きわめて微妙に行われていた。もちろん、信州追分のような、高原的風光には乏しかったが、名に負う関東大平原の、一角を占めていることであるから、森や林や丘や耕地や、沼や川の風致には、いい尽くせない美があって、それが彼には好もしかった。
 それに何より嬉しかったのは、太平洋の荒浪が、岸の巌(いわお)にぶつかって、不断に鼓の音を立てる、その豪快な光景で、それを見るとしみじみと「男性美」の極致を感じるのであった。
 そこで彼は毎夜のように、獅子ヶ岩と呼ばれる岩の上へ行って、声の練磨をするのであった。
 彼は本来からいう時は、観世の家からは勘当され、また観世流の流派からは、破門をされた身分であった。でもし彼が凡人なら、そういう自家の境遇を、悲観せざるを得なかったろう。しかるに彼は悲観もせず、また絶望もしなかった。それは彼が天才の上に、一個文字通りの近代人だからで、真の芸術には門閥はないと、固く信じているからであった。
 とはいえ彼とて人間であり、殊には烈々たる情熱においては、人一倍強い芸術家のことで、父母のことや友人のことは、忘れる暇とてはないのであった。わけても親友の平手造酒の、その後の消息に関しては、絶えず心を配っていた。
 それに彼は生まれながら、都会人の素質を持っていて、江戸の華やかな色彩に対しては、あこがれの心を禁じ得なかった。
 ところが今日はからずも、江戸めいた美しい女の顔を、駕籠の中に見たばかりか、その女から笑い掛けられたのであった。
 彼の心が動揺し、それが態度に現われたのは、やむを得ないことであろう。

    紙つぶてに書かれた「あ」の一字

「どう遊ばして、銀之丞様」
 お品が不足そうに声をかけた。「考え込んでおりますのね」
「や、そんなように見えますかな」
「お菓子を半分食べかけたまま、手に持っておいでではありませんか」
「これはこれは、どうしたことだ」
「どうしたことでございますやら」
「おおわかった、これはこうだ」テレ隠しにわざと笑い、「あんまりお品さんが可愛いので、それで見とれていた次第さ」
「お気の毒様でございますこと」
「ナニ気の毒? なぜでござるな?」
「なぜと申してもあなた様のお目は、わたしの顔などご覧なされず、さっきからお庭の石燈籠ばかり、ご覧になっているではございませんか」
「いや、それには訳がある」
「なんの訳などございますものか」
「なかなかもってそうでない。すべて燈籠の据え方には、造庭上の故実があって、それがなかなかむずかしい」
「おやおや話がそれますこと」
「冷(ひや)かしてはいけないまずお聞き、ところでそこにある石燈籠、ちとその据え方が違っている」
「オヤさようでございますか」いつかお品はひき込まれてしまった。
「茶の湯、活花、造庭術、風雅の道というものは、皆これ仏教から来ているのだ」
「まあ、さようでございますか」
「ところが中頃その中へ、武術の道が加わって、大分作法がむずかしくなった」
「まあ、さようでございますか」お品は益□熱心になった。
「で、そこにある石燈籠だが、これはこの室(へや)と枝折戸(しおりど)との、真ん中に置くのが本格なのだ」
「どういう訳でございましょう?」
「門の外から室の様子を、見られまいための防禦物(ぼうぎょぶつ)だからで、横へ逸(そ)れては目的に合わぬ。ところがこれは逸れている。室の様子がまる見えだ」
「そういえばまる見えでございますね」
 お品はすっかり感心して、銀之丞の話に耳傾けた。
 それが銀之丞には面白かった。もちろん彼の説などは、拠(よ)りどころのない駄法螺(だぼら)なので、それをいかにももっともらしく、真顔(まがお)を作って話すというのは、どうやらお品に弱点を握られ、今にもそこへさわられそうなのが、気恥ずかしく思われたからであった。つまりいい加減の出鱈目(でたらめ)をいって、話を逸(そ)らそうとするのであった。
「だから」と銀之丞はいよいよ真面目(まじめ)に、「もしもここに敵があって、この部屋の主人を討とうとして、あの枝折戸の向こうから、鉄砲か矢を放したとしたら、ここの主人はひとたまりもなく、討たれてしまうに相違ない。すなわち防禦物の石燈籠が、横へ逸れているからだ」
「ほんにさようでございますね」
「しかるによって……」
 といよいよ図に乗り、喋舌(しゃべ)り続けようとした銀之丞は、にわかにこの時「あッ」と叫び、グイと右手を宙へ上げた。間髪を入れずとんで来たのは、紙を巻いたいしつぶて! さすがは武道にも勝れた彼、危いところで受けとめた。
「あれ」
 と驚くお品を制し、銀之丞は紙をクルクルと解いた。
 と、紙面にはただ一字「あ」という文字が記されてあった。

    刎(は)ね橋と開けられた小門

 その翌日のことであったが、銀之丞が一人野をあるいていると、どこからともなくいしつぶてが、例のように飛んで来た。受け取って見ると紙が巻いてあった。そうして紙にはただ一字「い」という文字が書いてあった。
 最初のつぶてには「あ」と書いてあり、次のつぶてには「い」と書いてあった。二つ合わせると「あい」であった。「ハテ『あい』とはなんだろう?」思案せざるを得なかった。「これを漢字に当て嵌(は)めると『鮎(あい)』ともなれば『哀(あい)』ともなる。『間(あい)』ともなれば『挨(あい)』ともなる。そうかと思うと『靉(あい)』ともなる。いずれ何かの暗号ではあろうが、さて何んの暗号だろう? そうしていったい何者が、こんな悪戯(いたずら)をするのだろう?」
 考えてみれば気味が悪かった。とはいえ大剛(たいごう)の彼にとっては、恐怖の種とはなりそうもなかった。
 それはとにかく、銀之丞は、駕籠の中に見た女の俤(おもかげ)を、忘れることが出来なかった。
「女は確かに娘らしい。あの『主知らずの別荘」の、家族の一人に相違ない。それも決して女中などではなく、丑松の話したお嬢さんでもあろう」
 女色(じょしょく)に淡い彼ではあったが、不思議と心をそそられた。
 二度目の暗号を渡された日の、その翌晩のことであったが、彼はフラリと宿を出ると、別荘の方へ足を向けた。それは月影の美しい晩で、そぞろあるきには持って来いであった。少しあるくと町の外(はず)れで、すぐに耕地となっていた。その耕地を左右に見て、一本の野良道を先へ進んだ。土橋を渡るともう荒野で、地層は荒々しい岩石であったが、これは海岸に近いからであった。そういえば波の音がした。
 彼はズンズンあるいて行った。間もなく別荘の前へ出た。
 廻れば五町はたっぷりあろうか、そういう広大な地所の中に、別荘は寂然(せきぜん)と立っていた。三間巾の海水堀、高い厚い巌畳(がんじょう)な土塀、土塀の内側(うちがわ)の茂った喬木、昼間見てさえなかの様子は、見る事が出来ないといわれていた。
 夜はかなり更けていた。堀の水は鉛色に煙り、そとへ突き出した木々の枝葉で、土塀のあちこちには蔭影(かげ)がつき、風が吹くたびにそれが揺(ゆ)れた。前と左右は物寂しい荒野で、そうして背後(うしろ)は岩畳(いわだたみ)を隔てて、海に続いているらしい。
 人っ子一人通っていない。市(まち)の燈火(ともしび)は見えていたが、ここからは遙かに隔たっていた。別荘には一点の火光もなく、人のけはいさえしなかった。
 それは別荘というよりも、荒野の中の一つ家(や)であり、わすれ去られた古砦であり、人の住居(すまい)というよりも、死の古館(ふるやかた)といった方が、ふさわしいように思われた。すでに刎ね橋はひき上げられていた。
「何という寂しい構えだろう」
 呟きながら銀之丞は、堀に沿って右手へ廻った。すると意外にも眼の前に、刎ね橋が一筋かかっていた。そこは別荘の側面で、土塀には小門が作られてあったが、それへ通ずる刎ね橋であった。こういう場合おおかたの人は好奇心に捉われるものであった、で、彼も好奇心に駆られ、刎ね橋を向こうへ渡って行った。そうして小門へさわってみた。と、手に連れて音もなく、小門の戸が向こうへ開いた。
「おや」とばかり驚きの声を、思わず口から飛び出させたが、さらに一層の好奇心が、彼の心を駆り立てた。

    魔法使いの魔法の部屋か

 彼は小門をくぐったものである。
 あたりを見ると鬱蒼(うっそう)たる木立で、その木立のはるか彼方(あなた)に、一座の建物が立っていた、どうやら、別荘のおも屋らしい。さすがに彼もこれ以上、はいり込むには躊躇(ちゅうちょ)された。
「しかし」と彼は思案した。「何んというこれは不用心だ。賊でもはいったらどうするつもりだ。一つ注意をしてやろう」で、彼は進んで行った。やがて建物の戸口へ出た。
「ご免」と小声でまず訪(おとな)い、トントンと二つばかり戸を打った。と、何んたることであろう! その戸がまたも内側へ開き、闇の廊下が現われた。
「おや」とばかり驚きの声を、また出さざるを得なかった。しかし驚きはそれだけではなく、
「おはいり」
 というしわがれた声が、廊下の奥から聞こえて来た。
 これには銀之丞も度胆を抜かれた。でぼんやり佇(たたず)んでいた。するとまたもや同じ声がした。
「待っていたよ、はいるがいい」
 度胆を抜かれた銀之丞は、今度は極度の好奇心に、追い立てられざるを得なかった。
 彼は大胆にはいって行った。三十歩あまりもあるいた時、「ここだ!」という声が聞こえて来た。それは廊下の横からであった。見るとそこに開いた扉(と)があった。で、内(なか)へはいって行った。カッと明るい燈火(ともしび)の光が、真っ先に彼の眼を奪った。そのつぎに見えたのは一人の老人で、部屋の奥の方に腰かけていた。
「オイ若いの、戸を締めな」その老人はこういった。
 いわれるままに戸を閉じた。それから老人を観察した。身長(たけ)が非常に高かった。五尺七、八寸はあるらしい。肉付きもよく肥えてもいた。皮膚の色は銅色(あかがねいろ)でそれがいかにも健康らしかった。ただし頭髪(かみのけ)は真っ白で、ちょうど盛りの卯の花のようで、それを髷(まげ)に取り上げていた。銀(しろがね)のように輝くのは、明るい燈火(ともしび)の作用であろう。高い広い理智的な額、眼窩(がんか)が深く落ち込んでいるため、蔭影(かげ)を作っている鋭い眼……それは人間の眼というより、鋼鉄細工とでもいった方が、かえって当を得るようだ。美術的高い鼻、強い意志を現わした、固く結ばれた大きな口……顔全体に威厳があった。着ている衣裳も美術的であった。しかしそれは日本服ではなく、阿蘭陀風(オランダふう)の服であった。それも船員の服らしく、袖口と襟とに見るも瞬(まば)ゆい、金モールの飾りがついていた。手には変った特色もない。ただ手首がいかにも太く、そうして指がいかにも長く、船頭の手などに見るような、握力の強そうな手であった。さて最後に足であるが、足は最も特色的であった。というのは右の足が、膝の関節(つけね)からなくなっているので、つまり気の毒な跛足(びっこ)なのであった。でズボンも右の分は、左の分よりは短かかった。
 彼は長椅子に腰かけていた。その長椅子も日本の物ではなく、やはりオランダかイスパニヤか、その辺の物に相違なかった。長椅子には毛皮がかけられていた。それは見事な虎の皮で、玻璃製(はりせい)の義眼が燈火に反射し、キラキラ光る有様は、生ける虎の眼そっくりであった。毛皮の上には短銃があった。それとて日本の種子ヶ島ではなく、やはり舶来の品らしかった。
 部屋はかなり広かった。そうして老人を囲繞(いにょう)して、珍奇な器具類が飾られてあった。縅(おどし)の糸のやや古びた、源平時代の鎧甲(よろいかぶと)、宝石をちりばめた印度風(インドふう)の太刀、磨ぎ澄ました偃月刀(えんげつとう)、南洋産らしい鸚鵡(おうむ)の剥製、どこかの国の国王が、冠っていたらしい黄金の冠、黒檀の机、紫檀の台、奈良朝時代の雅楽衣裳、同じく太鼓、同じく笛、大飛出(おおとびで)、小飛出、般若(はんにゃ)、俊寛(しゅんかん)、少将、釈迦などの能の面、黄龍を刺繍(ぬい)した清国の国旗、牧溪(ぼくけい)筆らしい放馬の軸、応挙筆らしい大瀑布の屏風、高麗焼きの大花瓶、ゴブラン織の大絨毯、長い象牙に豺(さい)の角、孔雀(くじゃく)の羽根に白熊の毛皮、異国の貨幣を一杯に充たした、漆塗りの長方形の箱、宝石を充たした銀製の箱、さまざまの形の古代仏像、青銅製の大香炉、香を充たした香木の箱、南蛮人の丸木船模型、羅針盤と航海図、この頃珍らしい銀の時計、忍び用の龕燈提灯(がんどうぢょうちん)、忍術用の黒小袖、真鍮製(しんちゅうせい)の大砲模型、籠に入れられた麝香猫(じゃこうねこ)、エジプト産の人間の木乃伊(みいら)、薬を入れた大小黄袋(きぶくろ)、玻璃に載せられた朝鮮人参、オランダ文字の異国の書籍、水盤に入れられた真紅の小魚……もちろんいちいちそれらの物が、一巡見渡した銀之丞の眼に、理解されて映ったのではなかったけれど、しかし決して夢ではなく、まさしく「実在」として映ったのであった。

    奇妙な老人の奇妙な話

「いったいこの部屋は何んだろう? この老人は何者だろう?」銀之丞は茫然と、驚き呆れて佇んでいた。
 と、老人が声をかけた。
「待っていたのだ。よく来てくれた。ところでお前は本人かな? それともお前は代理かな?」
 いうまでもなくこの言葉は、銀之丞にはわからなかった。すると老人がまたいった。
「本人なら市之丞と呼ぼう。もし代理なら別の名で呼ぼう。黙っていてはわからない」
「いや」と銀之丞はようやくいった。「市之丞ではございません。そんな者ではございません。……」
「ふん、それなら代理だな。それは困った。代理は困る」
「全然話が違います。……刎ね橋が下ろされてありましたので……」
「そうさ、お前を迎えるために、わざわざ下ろして置いたのだ」
「いえ、それに小門の戸も……」
「いうまでもない、開けて置いたよ。それは最初からの約束だからな」
「……それでうかうか参りましたので」
「ナニうかうか? 不用心な奴だ」
「と、いいますのもその不用心を、ご注意しようと存じましてな。……」
「うん、それがいい、お互いにな。不用心は禁物だ。……で、お前は代理なのだな? やむを得ない、我慢しよう。……で、お前の名は何んというな?」
「さよう、拙者は銀之丞……」
「ナニ銀之丞? よく似た名だな。市之丞代理銀之丞か。なるほど、これは代理らしい。よろしい、話を進めよう」
「しばらく、しばらく。お待ちください!」
「えい、あわてるな! 臆病者め! ははあ、お前は恐れているな。いやそれなら大丈夫だ。家族の者は遠避けてある。そこで話を進めよう。だがその前にいうことがある、なぜお前達は俺を嚇した! あんな手紙を何故よこした! 何故この俺を強迫した!」
「俺は知らない!」と銀之丞は、とうとう怒って怒鳴りつけた。「人違いだよ、人違いなのだ」
「ナニ人違いだ? 莫迦をいえ! 今さら何んだ! 卑怯な奴だ! だがマアそれは過ぎ去ったことだ。蒸し返しても仕方がない。しかし俺はいっとくがな、以後強迫は一切止めろ! そんな事には驚かないからな。もちろん本当にもしないのさ。だがいうだけはいった方がいい。そう思って返辞はやった。何んのこの俺が決闘を恐れる! アッハハハ、莫迦な話だ。しかし話がつくものなら、そんな厭な血など見ずと、そうだ平和の談笑裡に、話し合った方がいいからな。で、返辞はやったのさ。そうして俺から指定した通り、ちゃんと小門も開けて置いたのさ。それでも感心に時間通りに来たな。よろしい、よろしい、それはよろしい。ふん、やっぱりお前達も、血を見るのは厭だと見える。あたりめえだ、誰だって厭だ。お互い命は大事だからな。粗末にしては勿体(もったい)ないからな。……よろしい、それでは話を進めよう。さて、お前達の要求だが、あれは全然問題にならない。あの要求は暴というものだ。まるっきり筋道が立っていない。いわば場違いというものだ。それに時効にもかかっている。オイ、大将、そうじゃないかな! だからあれは肯(き)くことはならぬ! とこうにべもなくいい切ったでは、お前達にしても納まりがつくまい。俺にしても気の毒だ。今夜の会見も無意味になる。後に怨みが残ろうもしれぬ。それではどうも面白くない。そこで少しく色気をつけよう。といってお前達に怖じ恐れて、妥協すると思うと間違うぞ! なんのお前達を恐れるものか! 昔ながらの九郎右衛門だ」

    胸に向けられた短銃の口

「俺には一切恐怖はない。恐怖を知らない人間なのだ。それはお前達も知ってるだろう。人の命を取ることなどは、屁とも思わぬ人間なのだからな。だから、それだから、そこを狙って、……いやいやそれはどうでもいい。お互い気取りや示威運動や、威嚇というような詰まらないものは、封じてしまわなければならないのだからな。……つまりお前達の境遇が――どうやら大分貧しいらしいな――それがおれには気の毒なので、そこで一片の慈悲心から、恵みを垂れるという意味で、俺の財産の幾分かを、分けてやろうとこう思うのだ。よいか、解ったか、解ったかな? アッハハハ、それにしてもだ、お前達の要求は大きかったな。みんなよこせというのだからな。それが正当だというのだからな。オイ大将よく聞くがいい。俺は正直な人間だ。決して仲間など裏切りはしない。嘘もなければ偽(いつわ)りもない。で分配はどこから見ても、一点の不公平もなかったのだ。三人ながら同じように、同じタカに分け合ったのだ。それを俺は上手に利用し、あるが上にもなお蓄(た)めた。それだのに一人藤九郎ばかりは、無考(むかんが)えにも使い果たしてしまった。そうして恐ろしく貧乏して貧乏の中に死んでしまった。それを伜の市之丞めが、何をどこから聞き込んだものか、俺だけ一人余分に取ったの、藤九郎を殺したのは俺だのと、それこそ途方もないいいがかりをつけ、あげくのはてには強迫して俺から財産を取ろうとする! 莫迦な話だ、とんでもないことだ! ……ところで俺の財産だが、大部分この部屋に集めてある。いやこれで一切だ。この外には一文もない。金につもったら大したものだ。五万や八万はあるだろう。で俺はこの中(うち)を、半分だけお前達にくれてやろう。勿体ないが仕方がない。昔の仲間の伜のことだ、貧乏させても置けないからな。……俺のいうことはこれで終えた。代理のお前ではわかるまい。帰って市之丞にいうがいい。そうして急いで返答しろ。どうだ、不足はあるまいがな。……や! 貴様どうしたんだ! 何をぼんやりしているんだ! おや、こいつめが、聞いていないな! いったい貴様は何者だ!」
 老人は突然怒号した。ようやく相手の若者が、怪しいものに見えて来たらしい。
「おれは観世銀之丞だ。おれは江戸の能役者だ」
 銀之丞はひややかにいった。老人の話しでその老人が、善人ではないということを、早くも直感したからであった。「気の毒だが人違いだ」
「ナニ観世だと? 能役者だと?」
 見る見る老人の眼の中へ、凄まじい殺気が現われた。つとその手が毛皮の上の、短銃の方へ延びて行った。
「では貴様は、あいつらではないのか? 市之丞の代理ではなかったのか?」
「その市之丞とかいう男、見たこともなければ聞いたこともない」
「しかし、しかし、それにしても、どうしてここへはいって来た?」
「それはもうさっきいった筈だ。小門が開いていたからよ」
「だが、指定した、こんな時刻に……」
「俺の知ったことではない。恐らくそれは暗合だろう」
「では、いよいよ人違いだな!」
「うん、そうだ、気の毒ながら」
「それだのに貴様は俺の話しを、黙ってしまいまで聞いてしまったな!」
「むやみとお前が話すからよ。俺は幾度もとめた筈だ」
「ふうむ、なるほど」と呻くようにいうと、九郎右衛門は眼を据えた。短銃を持った右の手がソロリソロリと上へ上がった。
「では、貴様は、生かしては帰せぬ!」
「そうか」と銀之丞は冷淡に「よかろう、一発ドンとやれ」
 ピッタリ短銃の筒口が、銀之丞の胸へ向けられた。絶息しそうな沈黙が、分を刻み秒を刻んだ。

    助太刀をしてくださるまいか

 と、ピストルがソロソロと、下へ下へと下ろされた。
「そんな筈はない。能役者ではあるまい」
「何故な?」と銀之丞は平然ときいた。
「素晴らしい度胸だ。能役者ではあるまい」
「嘘はいわぬ。能役者だ」
「そうか」
 と九郎右衛門は考えながら、
「無論剣道は学んだろうな?」
「うん、いささか、千葉道場でな」
「ははあ、千葉家で、それで解った」
 九郎右衛門は眼をとじた。どうやら考えに耽るらしい。と、パッと眼を開けると、にわかに言葉を慇懃(いんぎん)にしたが、
「いかがでござろう今夜のこと、他言ご無用に願いたいが」
 そこで銀之丞も言葉を改め、
「そこもと、それが希望なら……」
「希望でござる、是非願いたい」
「よろしゅうござる。申しますまい」
 二人はまたも沈黙した。
「さて、改めてお願いがござる」一句一句噛みしめるように、九郎右衛門はいい出した。「何んとお聞き済みくださるまいか」
「お話の筋によりましては。……」
「いかさまこれはごもっとも」
 九郎右衛門はまた眼をとじ、じっと思案に耽ったが、
「私、昔は悪人でござった。しかし今は善人でござる。……とこう申したばかりでは、あるいはご信用くださるまいが、今後ご交際くださらば、自然お解りにもなりましょう。ところが先刻不用意の間にうっかりお耳に入れました通り、私には敵がござる」
「どうやらそんなご様子でござるな」
「それがなかなか強敵でござる」
「それに人数も多いようでござるな」
「しかし恐ろしいはただ一人、金子市之丞と申しましてな、非常な小太刀の名人でござる」
「ふうむ、なるほど、さようでござるかな」
「それが徒党を引率して、最近襲撃して参る筈、ナニ私が壮健なら、ビクともすることではござらぬが、何を申すにも不具の躰、実は閉口しておるのでござる。そのため使者(つかい)を遣(つか)わして、今晩参って話し合うよう、その市之丞まで申し入れましたところ、その者は来ずに代りとして、あなたがお見えになられたような次第、もうこうなっては平和の間に折り合うことは不可能でござる。是が非でも戦わねばならぬ。ところで味方はおおかた召使い、太刀取る術さえ知らぬ手合い、戦えばわれらの敗けでござる。お願いと申すはここのこと、何んと助太刀してくださるまいか。侠気あるご仁と見受けましたれば、折り入ってお願い致すのでござる」
「ははあ、なるほど、よくわかってござる」
 銀之丞は腕をくんだ。「さてこれはどうしたものだ。自分は能役者で剣客ではない。それに当分剣の方は、封じることにきめている。それに見たところこの老人、善人とはいうがアテにはならぬ。その上相手の市之丞というは、小太刀の名人だということである。うかうか助太刀して切られでもしたら、莫迦(ばか)を見る上に外聞も悪い。これは一層断わった方がいいな。……だが両刀を手挾(たばさ)む身分だ、見込んで頼むといわれては、どうも没義道(もぎどう)に突っ放すことは出来ぬ。どうもこれは困ったぞ。……いや待てよ、この老人には、美しい娘があった筈だ。こんなことから親しくなり、恋でもうまく醸(かも)されようものなら、こいつとんだ儲けものだ。といって誘惑するのではないが、だが美人と話すのは、決して悪いものではない。第一生活に退屈しない。よしきた、一番ひき受けてやれ」
 そこで彼は元気よくいった。
「よろしゅうござる、助太刀しましょう」

    厳重を極めた邸の様子

「もうこうなりゃア謡なんか、どうなろうとままのかわだ。面白いのは恋愛だ! 恋よ恋よ何んて素敵だ!」
 これが銀之丞の心境であった。
 つまり彼は九郎右衛門の娘、お艶(つや)というのと恋仲になり、楽しい身の上となったのであった。
 だがしかし恋の描写は、もう少し後に譲ることにしよう。

 助太刀の依頼に応じてからの、観世銀之丞というものは、九郎右衛門の別荘へ、夜昼となく詰めかけた。
 彼の眼に映った別荘は、まことに奇妙なものであった。まずその構造からいう時はきわめて斬新奇異なもので、宅地の真ん中と思われる辺に、平屋造りの建物があった。一番広大な建物で、城でいうと本丸であった。ここには九郎右衛門の肉親と、その護衛者とが住んでいた。その建物の真ん中に、一つの大きな部屋があった。九郎右衛門の居間であった。あらゆる珍奇な器具類が、隙間もなく飾ってあった。すなわち過ぐる夜偶然のことから、銀之丞がこの家を訪れた時、呼び込まれたところの部屋であった。その部屋は四方厚い壁で、襖や障子は一本もなく、壁の四隅に扉を持った、四つの出入り口が出来ていた。そうして四つのその口からは、四つの部屋へ行くことが出来た。
 さてその四つの部屋であるが、東南にある一室には、九郎右衛門の病身の妻、お妙(たえ)というのが住んでいた。またその反対の西南の部屋には、娘のお艶が住んでいた。さらに東北の一室には、これも病身の伜の六蔵が、床についたままで住んでいた。最後の西北の一室には、別荘番の丑松と、護衛の男達が雑居していた。
 以上五つの部屋によって、本邸の一郭は形作られていたが、それら部屋部屋の間には、共通の警鐘(けいしょう)が設けられてあって、異変のあった場合には、知らせ合うことになっていた。
 この本邸を囲むようにして、独立した四つの建物があった。城でいうと出丸に当たった。これも低い平屋づくりで、本邸と比べては粗末であったが、しかし牢固(ろうこ)という点では、むしろ本邸に勝っていた。四つとも同じような建て方で、その特色とするところは、矢狭間(やざま)づくりの窓のあることと、四筋の長い廻廊をもって、本邸と通じていることとであった。そうして本邸との間には、共通の警鐘が設けられてあった。
 別荘の人達はこれらの建物を、四つの出邸(でやしき)と呼んでいた。この四つの出邸には、いずれも屈強な男達が、三十人余りもこもっていた。すなわち警護の者どもであった。
 なおこの他にも厩舎(うまごや)とかないしは納屋とか番小屋とか細々(こまごま)しい建物は設けられていたが目ぼしい物は見当たらなかった……構内を囲んだ堅固な土塀。土塀の外側の深い堀。堀にかけられた四筋の刎ね橋。そうして邸内至る所に、喬木が林のように立っていた。南にあるのが表門で、北にあるのが裏門であった。その裏門を半町ほど行くと、大洋の浪岩を噛む、岩石峨々(がが)たる海岸であり、海岸から見下ろした足もとには、小さな入江が出来ていた。入江の上に突き出しているのが、象ヶ鼻という大磐石(だいばんじゃく)であった。

    観世銀之丞人数をくばる

「人数は全部で五十人、このうち女が十人いる。非戦闘員としてはぶかなければならない。九郎右衛門殿と六蔵殿とは、不具と病人だからこれも駄目だ。正味働けるのは三十八人だが、このうちはたして幾人が武術の心得があるだろう?」
 それを調べるのが先決問題であった。で、ある日銀之丞は、それらの者どもを庭に集めて、剣術の試合をさせて見た。準太、卓三、千吉、松次郎、そうして丑松の五人だけは、どうやら眼鼻がついていた。
「俺を加えて六人だけは、普通に働けると認めていい。よし、それではこの連中を、ひとつ上手に配置してやろう」
 そこで銀之丞は命令した。
「準太は八人の仲間(ちゅうげん)をつれ東南の出邸(でやしき)を守るがいい。卓三も八人の仲間をつれ東北の出邸を守るがいい。千吉も松次郎も八人ずつつれて、西北と西南の出邸とを、やはり厳重に守るがいい。俺と丑松とは二人だけで、邸の警護にあたることにしよう。……敵の人数は多くつもって、百人内外だということである。味方よりはすこし多い。しかし味方には別荘がある。この厳重な別荘は、優に百人を防ぐに足りる。で油断さえしなかったら、味方が勝つにきまっている。ところで夜間の警戒だが、各自(めいめい)の組から一人ずつ、屈強の者を選び出して、交替に邸内を廻ることにしよう。そうして変事のあったつど、警鐘を鳴らして知らせることにしよう。どうだ、異存はあるまいな?」
「なんの異存なぞございましょう」
 こうして邸内はその時以来、厳重に固められることとなった。
 親しく一緒に暮らして見て、九郎右衛門という人物がはじめの考えとは色々の点で、銀之丞には異(ちが)って見えた。彼には最初九郎右衛門が、足こそ気の毒な不具ではあるが、体はたっしゃのように思われた。ところが九郎右衛門は病弱であった。肥えているのが悪いのであり、血色のよいのがよくないのであった。彼は今日の病名でいえば、動脈硬化症の末期なのであった。いやそれよりもっと悪く、すでに中風の初期なのであった。
 それから銀之丞は九郎右衛門を、最初悪人だと睨んだものであった。しかしそれも異っているらしい。なかなか立派な人物らしい。敢為冒険(かんいぼうけん)の精神にとんだ、一個堂々たる大丈夫らしい。そうして珍奇な器具類や、莫大もない財産は、壮年時代の冒険によって、作ったもののように思われた。とはいえどういう冒険をして、それらの財産を作ったものかは、九郎右衛門が話さないので、銀之丞には解らなかった。
 それからもう一つ重大なことを、銀之丞は耳にした。というのは他でもない、九郎右衛門の財産なるものが、予想にも増して豪富なもので、別荘にあるところの財産の如きは、全財産から比べれば、百分の一にも足りないという、そういう驚くべき事実であって、そうしてそれを明かしたのは、別荘番の丑松であった。
「……つまりそいつをふんだくろうとして、市之丞めとその徒党が、ここへ攻め込んで来るんでさあ。が、そいつは見つかりッこはねえ。何せ別荘にはないんだからね。それこそ途方もねえ素晴らしいところに、しっかり蔵(しま)ってあるんだからね」
 その丑松はこの邸では、かなり重用の位置にいた。九郎右衛門も丑松だけには、どうやら一目置いているらしかった。年は三十とはいっているけれど、一見すると五十ぐらいに見え、身長(たけ)といえば四尺そこそこ、そうして醜いみつくちであった。
 彼はいつも象ヶ鼻の上から、入江ばかりを見下ろしていた。
 この家で一番の不幸者は、お艶の弟の六蔵であった。それは重い心臓病で、死は時間の問題であった。それに次いで不幸なのは、六蔵達の母であった。良人(おっと)の強い意志のもとに、長年の間圧迫され、精も根も尽きたというように、いつもオドオドして暮らしていた。

    妖艶たる九郎右衛門の娘

 この中にあってお艶ばかりは、太陽のように輝いていた。美しい縹緻(きりょう)はその母から、大胆な性質はその父から、いずれも程よく遺伝されていた。そうして彼女の美しさは、清楚ではなくて艶麗であった。もし一歩を誤れば、妖婦になり兼ねない素質があった。肉付き豊かなそのからだは、雪というより象牙のようで、白く滑らかに沢(つや)を持っていた。涼しい切れ長の情熱的の眼、いつも潤おっている紅い唇、厚味を持った高い鼻、笑うたびに靨(えくぼ)の出る、ムッチリとした厚手の頬……そうして声には魅力があって、聞く人の心を掻きむしった。
 いつぞや駕籠から顔を出し、ニッと銀之丞へ笑いかけたのは、このお艶に他ならない。
 そうして丑松をそそのかし、例の「あ」と「い」の紙飛礫(かみつぶて)を、投げさせたのも彼女であった。彼女にいわせるとその「あい」は、「愛」の符牒だということであった。つまり彼女は銀之丞に、一目惚れをしたのであった。そうしてそういう芝居染みた、大胆不敵な口説き方をして、思う男を厭応なしに、引き付けようとしたのであった。
 ところが人々の噂によると、その美しいお艶に対し、醜いみつくちの丑松が、恋しているということであった。これはもちろん銀之丞の心を、少なからず暗くはしたけれど、しかし信じようとはしなかった。「まさか」と彼は思うのであった。
 銀之丞ほどの人物も、お艶の美しさには勝てなかった。近代的の人間だけに、お艶のような変り種には、一層心を引き付けられた。強烈な刺戟、爛(ただ)れた美、苦痛にともなう陶酔的快楽! そういう物にあこがれる彼には、お艶のような妖婦型の女は、何よりも好もしい相手であった。
 で、彼は文字通り、恋の奴隷となり下がってしまった。
 やがて初冬がおとずれて来た。岸に打つ浪が音を高め、沖から吹いて来る潮風が、肌を刺すように寒くなった。銚子港の寂れる季節が、だんだん近寄って来たのであった。
 敵は襲って来なかった。で別荘は平和であった。無為(むい)の日がドンドンたって行った。
 とはいえその間怪しいことが、全然なかったとはいわれなかった。ある朝、どこから投げ込んだものか、一通の手紙が東側の、出邸の畔(ほとり)に落ちていた。書かれた文字は簡単で、「図面を渡せ」とあるばかりであった。でもちろん銀之丞には、なんのことだかわからなかった。だがしかし九郎右衛門には、恐らくその意味がわかったのであろう、さっとばかりに顔色を変えた。それから数日たった時、またも手紙が投げ込まれた。「鍵を渡せ」というのであった。
「いよいよ敵が逼(せま)って来た。警戒警戒、警戒しなければならない」
 九郎右衛門はこういった。しかしその後は変ったこともなく、またも無為に日が経った。と、またもや一通の手紙が邸の内に落ちていた。
「観世銀之丞よ。早く立ち去れ」
 こうその手紙には書いてあった。
 これには銀之丞も仰天したが、しかし恐れはしなかった。
「うん、面白い、張り合いがある」かえってこんなように思ったものであった。
 変な様子をした二、三人の者が、邸の周囲をさまよったり、夜陰堀の中へ石を投げたり、突然大勢の笑い声が、明け方の夢を驚かしたり、そういったような細々しい変事は、幾度となく起こっては消えた。
 だが攻めては来なかった。で、邸内の人々は、次第にそれに慣れて来た。だんだん油断をするようになった。
 お艶とそうして銀之丞との恋は、この間にも進歩した。
 ところで二人のその恋を、快く思わない人間が、邸の内に一人あった。醜い例の丑松で、彼は内々蔭へまわっては、二人の悪口をいうらしかった。しかし恋する二人にとっては、そんなことは苦にもならず、問題にしようともしなかった。
 こうしてまた日が経って、やがて初雪が降るようになった。

    深い深い水の底で重々しく開いた扉の音

 そのうちだんだん銀之丞に、ある疑問が湧くようになった。
「それにしてもゆうちょうな敵ではないか。いつ攻めて来るのだろう? それに邸内の人達も、変に最近ダレて来た。全体が一向真剣でない」
 一つの疑いは二つの疑いを呼ぶ。
「邸内の構造も不思議なものだ。どうもなんとなく気味がわるい。そういえば主人の九郎右衛門にも、変に隠すようなところがある。それに素晴らしい珍器異具、どうも少々異国的に過ぎる。若い時代の冒険によって、蒐集(しゅうしゅう)したのだといわれてみれば、そんなようにも思われるが、しかしそれにしても怪しいところがある。……わけても最も怪しいのは、象ヶ鼻という大磐石だ。決して人を近寄らせない。そうしていつも丑松めが、恐ろしい様子をして頑張っている」
 こう思って来ると何から何まで、怪しいもののように思われてならない。
「そういえば娘のお艶の恋も、大胆なようでよそよそしい」
 しまいには恋をまで疑うようになった。
「よし、ひとつ心を入れ替え、邸内の様子を探ることにしよう。」
 彼は態度を一変させた。この時までは全力を挙げて、邸のために尽くしたものであった。その時以来はそれとはあべこべに、自分をすっかり邸から放し、第三者として観察することにした。
 するとはたして心得ぬことが、続々として起こって来た。例えば深夜こっそりと、邸内多数の人間が、象ヶ鼻の方へ出て行ったり、ある夜の如きは燈火を点けない、大型の一隻の帆船が、どこからともなく現われて来て、象ヶ鼻の真下の小さい入江へ、こっそり碇(いかり)を下ろしたりした。
「怪しい怪しい」
 と、銀之丞は、いよいよその眼をそばだてた。
 しかしこれらはよい方であった。そのうちとうとう銀之丞は、恐ろしいことを発見した。
 というのは他でもない。四つの出邸を繋いでいる廊下が、十字形をなしていることであった。
「おおこれは十字架の形だ!」
 つづいて連想されたのは、ご禁制吉利支丹(キリシタン)のことであった。
「ううむ、それではこの邸は、邪教の巣窟ではあるまいか」
 さすがの彼もゾッとした。
「これは大変だ。逃げなければならない」
 しかし逃げることは出来なかった。
 出邸にこもった数十人の者が、夜も昼も警戒していた。
「ああこれこそ自縄自縛だ。出邸に人数を配ったのは、他でもないこの俺だ。その人数に見張られるとは、なんという矛盾したことだろう」
 止どまっていることは破滅であった。しかし脱出は不可能であった。ではいったいどうしたらいいのか?

 銀之丞の様子の変ったことに、彼らが気づかない筈がない。
 ある夜丑松と九郎右衛門とが、九郎右衛門の部屋で囁(ささや)いていた。
 何をいったい囁き合ったのか? 何をいったい相談したのか? それは誰にもわからなかった。とはいえ、いずれ恐ろしいことが、囁きかわされたに相違ない。その証拠にはその夜以来、銀之丞の姿が見えなくなった。空へ消えたのか地へ潜ったのか、忽然姿が消えてしまった。
 しかも邸内誰一人として、それを怪しんだものがない。もっとも彼らはその夜遅く、金属製の大きな戸が、深い深い水の底で、重々しく開くような音を聞いた。
 が、誰一人それについて、噂しようともしなかった。
 で、邸内は平和であった。無為(むい)に日数が経って行った。
 全く不思議な邸ではある。
 だが銀之丞はどうしたのだろう? いずれは恐ろしい運命が、彼を見舞ったに相違ない。はたして生きているだろうか? それとも死んでしまっただろうか? 死んだとしたら殺されたのであろう。
 可哀そうな彼の運命よ!
 だが私の物語は、ここから江戸へ移らなければならない。

    家斉(いえなり)将軍と中野碩翁(せきおう)

赤い格子に黒い船
ちかごろお江戸は恐ろしい

 こういう唄が流行(はや)り出した。
 十数年前にはやった唄で、それがまたもやはやり出したのであった。
 恐ろしい勢いで流行し、柳営にまで聞こえるようになった。
 時の将軍は家斉(いえなり)であったが、ひどくこの唄を気にかけた。
「不祥の唄だ、どうかしなければならない」
 こう侍臣に洩らしさえした。侍臣達はみんな不思議に思った。名に負う将軍家斉公ときては、風流人としての通り者であった。どんなはやり唄がはやろうと、気にかけるようなお方ではない。ところがそれを気にかけるのであった。
「珍らしいことだ。不思議だな」こう思わざるを得なかった。
 ある日お気に入りの中野碩翁(なかのせきおう)が、ご機嫌うかがいに伺候した。
「おお播磨か、機嫌はどうだな」将軍の方から機嫌をきいた。
「変ったこともございませんな」
 碩翁の方でも友人づきあいであった。
 この二人の仲のよさは、当時有名なものであった。というのも碩翁の養女が、将軍晩年の愛妾だからで、もっとも碩翁その人も一個変った人物ではあった。才智があって大胆で、直言をして憚らない。そうして非常な風流人で、六芸十能に達していた。だから家斉とはうまがあった。で二人の関係は主従というよりも友達であった。
 身分は九千石の旗本で、たいしたものではなかったが、その権勢に至っては、老中も若年寄もクソを喰らえで、まして諸藩の大名など、その眼中になかったものである。
 したがって随分わがままもした。市井の無頼漢(ぶらいかん)を贔屓(ひいき)にしたり、諸芸人を近づけたりした。いわゆる一種の時代の子で、形を変えた大久保彦左衛門、まずそういった人物であった。
 賄賂(わいろ)も取れば請託(せいたく)も受けた。その代わり自分でも施しをした。顕職を得たいと思う者が、押すな押すなの有様で、彼の門を潜ったそうだ。
 悪さにかけても人一倍、善事にかけても人一倍、これが彼の真骨頭であった。恐れられ、憚られ、憎まれもした。とまれ清濁併せ飲むていの、大物であったことは疑いない。
「お前、聞いたろうな、あの唄を」家斉は早速いい出した。
「お前あいつをどう思うな?」
「厄介(やっかい)な唄でございますな」碩翁はこうはいったものの、厄介らしい様子もない。
「十数年前にはやった唄だ」
「そんな噂でございますな」
「海賊赤格子をうたった唄だ」
「ははあさようでございますかな」碩翁はちゃんと知っているくせに、知らないような様子をした。これが老獪なところであった。家斉をしていわせようとするのだ。
「そうだよ赤格子を唄った唄だよ。あの海賊めがばっこした、十数年前にはやった唄だ」
「海賊の上に邪教徒だったそうで」
「うん、そうだ、吉利支丹だったよ」
「ただし噂によりますと、なかなか大豪(だいごう)の人間だったそうで」
「それに随分と学問もあった。吉利支丹的の学問がな」
「つまり魔法でございますかな」
「いいや、違う、その反対だ」
「反対というと? ハテ何んでしょうな?」
「実際的の学問なのさ。うん、そうだ科学とかいった」
「科学? 科学? こいつ解らないぞ」
「建築術なんかうまかったそうだ」
「建築術? これは解る」
「それから色々の造船術」
「造船術? これもわかる」
「それから色々の製薬術」
「製薬術? これもわかる」
「大砲の製造、火薬の製造、そういう物もうまかったそうだ」
「恐ろしい奴でございますな」
「学問があって大豪で、それで海賊というのだから、随分ととらえるには手古摺(てこず)ったものだ」
「それはさようでございましょうとも」
「その上神出鬼没と来ている」
「さすがは名誉の海賊で」
「何しろ船が別製だからな」
「自家製造の船なのでしょうな」
「うん、そうだ、だから困ったのさ。……その上、いつも日本ばかりにはいない」
「ははあ、海外を荒らすので」
「支那、朝鮮、南洋諸島……」
「痛快な人間でございますな」
「海賊係りの役人どもも、これには全く手古摺ったものだ」
「それでもとうとう大坂表で、とらえられたそうでございますな」
「大坂の役人めえらいことをしたよ」
「どうやら万事大坂の方が、手っ取り早いようでございますな」
「莫迦(ばか)をいえ、そんなことはない」
 家斉はここで厭な顔をした。
「で、さすがの大海賊も、処刑されたのでございますな」
「ところが」と家斉は声をひそめ、「それがそうでないのだよ」
「それは不思議でございますな」これは碩翁にも意外であった。
「もっとも訴訟の面(おもて)では、処刑されたことになっている」
「では、事実は異いますので」
「きゃつは今でも生きている筈だ」
「とんと合点がいきませんな」
「というのは外でもない。命乞いをした人間がある」
「しかし、さような大海賊を。……」いよいよ碩翁には意外であった。
「いや、さような海賊なればこそ、命乞いをしたのだよ」
「とんと合点がいきませんな」
「とまれきゃつは生きている筈だ」

    文庫から出した秘密状

「恐ろしいことでございますな」
「ただし南洋にいる筈だ。いや、いなければならない筈だ」
「ははあ、南洋にでございますか」
「国内に置いては危険だからな」
「申すまでもございません」
「しかるにきゃつめ、最近に至って、日本へ帰って来たらしい」
「どうしてお解りでございますな」
「赤い格子に黒い船……こういう唄がはやっているからよ。……それにこの頃犬吠付近で、よく荷船が襲われるそうだ」
「それは事実でございます」
「だから、俺は、そう睨んだのさ」
「こまったことでございますな」
「どうでもこれはうっちゃっては置けぬ」
「なんとか致さねばなりますまい」
「きゃつがこの世に生きているについては、この家斉、責任がある」
「これはこれはどうしたことで」碩翁すっかり面喰らった。
「きゃつの命を助けたのは、他でもない、このおれだ」
「あなた様が? これはこれは!」
「おれはその頃は野心があった。海外に対する野心がな。で、きゃつを助けたのさ。その素晴らしい科学の力、その素晴らしい海外の知識、それをムザムザ亡ぼすのが、おれにはどうにも惜しかったからな」
「これはごもっともでございます」
「で、南洋へ追いやったのさ、ただし、その時約束をした」
 手文庫をあけて取り出したのは、文字を書いた紙であった。
「これがきゃつの書いたものだ」
「ははあ、なんでございますな?」
「民間でいう書証文(かきしょうもん)だ」
「妙なものでございますな」
「これをきゃつに見せてやりたい」
「何かの役に立ちますので」
「きゃつがほんとうの勇士なら、赤面するに相違ない。そうして日本を立ち去るだろう」
「手渡すことに致しましょう」
「だが、どうして手渡したものか」
「きゃつの根拠を突き止めるのが、先決問題かと存じます」
「だが、どうして突き止めたものか」
「海賊係りを督励(とくれい)し……」
「駄目だよ、駄目だよ、そんなことは」
 駄々っ子のように首を振った。
「まさか海賊の張本へ、俺から物を渡すのに、幕府の有司は使えないではないか」
「これはいかにもごもっともで」
「どうだ、民間にはあるまいかな?」
「は、なんでございますか?」
「忍びの術の名人とか、それに類した人物よ」
 碩翁はしばらく考えたが、ポンと一つ手を拍(う)った。
「幸い一人ございます」
「おおあるか、何者だな?」
「郡上平八と申しまして、与力あがりにございます」
「うん、そうか、名人かな」
「探索にかけては当代一人、あだ名を玻璃窓と申します」
「ナニ、玻璃窓? どういう意味だ?」
「ハイ、見とおしの別名で」
「見とおしだから玻璃窓か、なるほど、これは名人らしい」
「命ずることに致しましょう」
「俺からとあっては大仰になる。お前の名義で頼んでくれ」
「その点如才(じょさい)はございません」
 やがて碩翁は退出した。
 退出はしたが碩翁は、少なからず肝をひやした。いかに我がままが通り相場とはいえ、国家を毒する大賊を、将軍たるものが助けたとあっては、上(かみ)ご一人に対しても、下(しも)万民に対しても、申し訳の立たない曲事であった。
「これが世間へ洩れようものなら、どんな大事が起ころうもしれぬ。早く手当をしなければならない」――で倉皇(そうこう)として家へ帰った。

    ようやくわかった切り髪の女

「旦那お家でござんすかえ」
 ご用聞きの松五郎が、こういいながら訪ねて来たのは、その同じ日の午後のことであった。「おお小松屋か、こっちへはいれ。……どうだ、大分寒くなったな」
 玻璃窓の平八は炬燵の上で、市中図面を見ていたが、物憂そうに声をかけた。
「へい、有難う存じます。ではご免を蒙(こうむ)りまして。おや何かお調べ物で?」
「ナーニ江戸の図面だよ。俺(わし)も近頃は暇だからな、所在なさに見ているやつさ」
「お暇は結構でございますな」「やむを得ない暇なのさ」「やむを得ないはいけませんな」
 すると平八は苦笑したが、「俺もこの頃はヤキが廻ったよ。どうも一向元気がない」「いよいよもっていけませんな」「と、いうのもあの事件以来(から)だ」「鼓賊からでございますかな?」
 すると平八は頷いたが、「こう目星が外れては、俺もねっから値打ちがないよ」
「実はね、旦那。その事について、よい耳をお聞かせにあがったんで」小松屋松五郎は膝を進めた。
「ふうん、そうかい、そいつは有難いね」
「旦那、目星がつきましたよ。切り髪女の目星がね」
「ほほう、そいつは耳よりだな」平八の顔は輝いた。「で、もちろん小屋者だろうな?」
「へい、両国の女役者で」
「そいつは少し変じゃないか。両国橋の小屋者なら、とうに悉皆(しっかい)洗ってしまった筈だ」
「ところが最近別の一座が、新規に掛かったのでございますよ」
「ううむ、そうか、そいつは知らなかった」
「旦那としてはちょっと迂濶(うかつ)だ」
「まさに迂濶だ、一言もない。それというのもこの事件では、気を腐らせていたからさ。……ひとつ詳しく話してくれ」
「ところが旦那、詳しいところは、まだわかっていませんので。実はこうなのでございますよ。……それもきのうのひるすぎですが、ちょっと野暮用がありましてね、両国を通ったと覚し召せ。ふと眼についた看板がある。わっちはおやと思いやした。その芸題(げだい)が面白いので、『名人地獄』とこういうのですよ……わっちはそこで猶予(ゆうよ)なく、木戸を潜って覗いたものです。あッとまたそこで驚ろかされました。何んとその筋が大変物なので。そっくり鼓賊じゃありませんか」
「ナニ鼓賊? 鼓賊がどうした?」平八はグッと眼を据えた。
「へい、そっくり鼓賊なので、いや全く驚きやした」「頼む、筋立てて話してくれ」「順を追って申しましょう。序幕は信州追分宿、そこに旅籠(はたご)がございます。何んとかいったっけ、うん油屋だ。その油屋に江戸の武士が、二人泊まっているのですね。その一人が能役者で、そうして鼓(つづみ)の名人なので。すると隣室に商人がいます。すなわち鼓賊の張本なので」「ふうん、なるほど。それからどうした?」「いろいろ事件があった後で、鼓を盗むのでございますよ。そこで幕が締まります」「ふうん、なるほど、それからどうした?」「で、また幕がひらきます。すると大江戸の夜景色で」「まだるっこいな。それからどうした?」「さあそれからは話し悪(にく)い」松五郎は妙にこだわった。
「どうしたんだ? 何が話しにくい。気取らずにサッサと話してくれ」「ようがす、思い切って話しましょう。つまりなんだ、その鼓賊と、あるやくざな与力あがりとが、競争するのでございますな。ところでいつも与力あがりの方が、カスばかり食わされるのでございますよ。それがまた途方もなく面白いので」「なるほど、そいつは面白そうだな」
 こうはいったが平八は、苦く笑わざるを得なかった。

    名人地獄! 名人地獄!

「ふん、それからどうしたな?」平八は先をうながした。
「……で、おおかた筋といえば、そういったものでございますがね、どうもつくりがあくどいので。へへへへ、全くあくどいや」「なんだい、いったいつくりとは?」「へい役者のつくりなので」
「役者のつくりがどうしたんだ?」「こればっかりは申されません。旦那ご自分でごらんなすって」
 小松屋松五郎はこういうと、何かひどく気の毒そうに、クックックッと含み笑いをした。
「で、座頭(ざがしら)は何んというんだ?」
「阪東米八といいますので」
「そいつが切り髪の女なのか?」「へい、さようでございます。滅法(めっぽう)仇(あだ)っぽい美(い)い女で、阪東しゅうかの弟子だそうです」
「鬘(かつら)を着けていたひにゃア、切り髪なんかわかるまいに、どうしてお前は探ったな?」「いえ、そいつはこうなので、見物の中に見巧者がいて、噂をしたのでございますよ」「ほほう、なるほど、どんな噂だな?」「なんでも今年の春のこと、旦那というのに髪を切られ、世間に顔向けが出来ないので、それでずっと休んでいたのが、今度旦那から金を取り、自分が座頭で一座を作り、打って出たのだとこういうので」「これは筋道が立っているな。いかさまこいつはいい耳で、知らせてくれて有難い。ゆっくり茶でも飲んで行きな」
 一つ二つ世間話があって、やがて松五郎は帰って行った。その後から平八も、仕度(したく)をして家を出た。
 さすがの玻璃窓の平八も、鼓賊ばかりには手古摺っていた。鼓の音を目あてとして、尋ねあぐんだそのあげく、うまく池ノ端で探りあてたはいいが、湯島天神へ追い込んで、さていよいよ捉えてみると、何んのことだ観世銀之丞! それ以来方針を一変し、髪を切られた小屋者はないかと、その方面から探ることにしたが、ねっから目星しい獲物もなかった。で、すっかり悄気(しょげ)返り、「鼓賊はどうでも俺の苦手だ。ひどい間違いのないうちに、手を引いた方がよさそうだ」などと思いあぐんでいたところであった。
 で、松五郎の話にも、大して気乗りしてはいないのであった。「どうせアブレるに違いない、今度アブレたらそれを機会に、一切探索にはたずさわるまい。頭を丸めて法衣を着て、高野山へでも登ってやろう。ああああ浮世は面白くねえ」
 こんなことを思いながら、彼はポツポツ歩いて行った。
 阪東米八の掛け小屋は、かなり立派で大きかった。絵看板も美しく、「名人地獄」と記した文字も、躍り出しそうに元気がよい。
 しばらく見ていた平八は、木戸を潜って内へはいった。
 ギッシリ見物が詰まっていた。そうして幕が開いていた。上野山下池ノ端、美しい夜景が展開されていた。と、一人の人物が、鼓を打ちながら現われた。縦縞の結城紬(ゆうきつむぎ)、商人じみた風采であった。
「ははあこいつが鼓賊だな」
 平八は口の中で呟いた。と、もう一人の人物が、それを追いながら走り出た。古ぼけた紋服、古ぼけた袴、年の頃は五十四、五、皺の寄った痩せた顔、郡上平八そっくりであった。
「ううん、さてはこいつだな、松五郎めがいいにくそうに、あくどいつくりだといったのは! いかにもこれはあくど過ぎる。だが、それにしても不思議だな。どうして俺と鼓賊とが、あの晩湯島と池ノ端とで、追いつ追われつしたことを、この役者達は知っているのだろう? これではまるでこの俺を、からかっているとしか思われない」
 奥歯を噛みしめ、こぶしを握り、平八はブルブル身ぶるいをした。
 と、その時、鼓の音が、一きわ高く打ち込まれた。

    さすがの玻璃窓行きづまる

 聞き覚えある鼓であった。忘れられようとしても忘れない、例の鼓の音であった。
 ポンポンポン! ポンポンポン!
 あたかも彼を嘲笑うように、舞台一杯に鳴り渡った。
「これはいけない」と平八は、思わず耳を手で抑えた。「こんな筈はない。こんな筈はない。こんなところで、あの鼓が、こんなにおおっぴらに鳴る筈がない! どうかしている、俺の耳は!」
 いやいや決して彼の耳が、どうかしているのではないのであった。間違いもなくあの鼓が、元気よく鳴り渡っているのであった。
 もう見ているに耐えられなかった。で、平八は小屋を出た。これは実際彼にとっては、予期以上の痛事(いたごと)であった。
 打ち拉(ひし)がれた平八は、両国橋の方へ辿って行った。雪催(ゆきもよ)いの寒い風が、ピューッと河から吹き上がった。「おお寒い」と呟いたとたん、彼の理性が回復された。橋の欄干へ体をもたせ、河面へじっと眼をやりながら、彼は考えをまとめようとした。
「何んでもない事だ、何んでもない事だ」彼は自分へいい聞かせた。「あらゆる浮世の出来事は、成るようにして成ったものだ。不合理のものは一つもない。よし、一つ考えてみよう。……最初に鼓を聞いたのは、今年の春の雪の夜で、そうしてその場に落ちていたのは、鬘下地の切り髪であった。で、切り髪と鼓とは、深い関係がなければならない。さて、ところで、鼓の音を、二度目に俺が聞いたのは、池ノ端の界隈であった。そうしてその時は鼓賊めが、確かに鼓を打っていた筈だ。しかしいよいよとらえてみれば、能役者観世銀之丞であった。ううむ、こいつが判らない」
 ここまで考えて来て平八は、行きづまらざるを得なかった。
 彼の考えを押し詰めて行けば、能役者観世銀之丞が、鼓賊でなければならなかった。
「いやいや断じてそんなことはない」
 ぼやけた声でこういうと、彼はトボトボとあるき出した。彼はスッカリまいってしまった。精も根も尽きてしまった。

 その日も暮れて夜となった時、彼は自宅へ帰って来た。
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