名人地獄
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著者名:国枝史郎 

「お前の兄が何者かに、深い怨みでも受けていて、そやつに殺されはしないかと……」
「飛んでもないことでございます。何んのそんなことがございますものか。兄は善人でございます。よい人間でございます。私と異(ちが)って穏(おとな)しくもあり、宿の人達には誰彼となく、可愛がられておりました。……だが、ここにたった一つ……」
「うむ、たった一つ、どうしたな?」
「心配なことがございました」
「恋であろう? お北との恋!」
「おお、それではお武家様には、そんなことまでご存知で?」
「その恋が悪かったのだ」
「ではやっぱり私の兄は……あの女郎のお北めに?」
「無論お北も同腹だが、真の殺し手は他にある」
「それじゃ兄はどいつかに、殺されたのでござんすかえ?」
 甚内はワナワナ顫え出した。
「助けてやろうと我々二人、すぐに後を追っかけたが、一足違いで間に合わなかった」
「嘘だ嘘だ! 殺されるものか!」
「凄いような美男の武士……」
「凄いような美男の武士?」思わず甚内は鸚鵡返(おうむがえ)した。
「定紋は剣酸漿(けんかたばみ)だ。……」
「定紋は剣酸漿!」
「お北の新しい恋男だ。……」
「ううむ、そいつが殺したんだな!」
「その名を富士甚内といった」
「それじゃそいつが敵(かたき)だね!」
「おおそうだ、尋ね出して討て!」
「お武家!」
 というと甚内は、侍の袂(たもと)を引っ掴んだ。
「う、う、嘘じゃあるめえな□」
「嘘をいって何んになる!」
「う、う、嘘じゃあるめえな□」
「…………」
「嘘じゃねえ、嘘じゃねえ、ああ嘘じゃなさそうだ!」
 ガックリ甚内は首を垂れたが、しばらくは顔を上げようともしない。
 この間も船は帆駛(ほばし)って行った。名残(なごり)の夕筒(ゆうづつ)も次第にさめ、海は漸次(だんだん)暗くなった。帆にぶつかる風の音も、夜に入るにしたがって、次第にその音を高めて来た。

    敵(かたき)が討ちとうござります

 と、甚内は顔を上げた。
「お武家様」といった声には、強い決心がこもっていた。「よく教えてくださいました。厚くお礼を申します。いえもう兄はおっしゃる通り、殺されたに相違ございますまい。可哀そうな兄でございます。死んでも死に切れはしますまい。また私と致しましても、諦めることは出来ません。その侍とお北とを、地を掘っても探し出し、殺してやりとうございます。ハイ、敵(かたき)が討ちたいので。……そこでお尋ね致しますが、そいつら二人は今もなお、追分にいるのでございましょうか?」
「いや」と侍は気の毒そうに、「甚三を殺したその晩に、二人ながら立ち退(の)いた」
「それはそうでございましょうな。人を一人殺したからには、その土地にはおられますまい。じゃそいつらは行方不明(ゆくえふめい)で?」
「さよう、行方(ゆきがた)は不明だな」
「それは残念でございますなあ」見る見る甚内は打ち悄(しお)れた。
 しかし侍は元気付けるように、「恐らくは江戸にいようと思う」
「え、江戸におりましょうか?」
「江戸は浮世の掃き溜(だめ)だ。無数の人間が渦巻いている。善人もいれば悪人もいる。心掛けある悪党はそういう所へ隠れるものだ」「へえ、さようでございますかな」「また自然の順序からいっても、まず江戸から探すべきだ」「へえ、さようでございますかな」「で、江戸から探してかかれ」
「ハイ、有難う存じます。それではお言葉に従いまして、江戸を探すことに致します」
 侍はにわかに気遣(きづか)わしそうに、
「ところで剣道は出来るのか?」
「え?」と甚内は訊き返した。
「剣術だよ。人を切る業(わざ)だ」
「ああ剣術でございますか。いえ、やったことはございません」
「ははあ、少しも出来ないのか。それはどうも心もとない。……おおそうだいいことがある。お前江戸へ参ったら、千葉先生をお訪ね致せ。神田お玉ヶ池においでなさる、日本一の大先生だ。よく事情をお話し致し、是非お力を乞うようしろ。先生は尋常なお方ではない。堂々たる大丈夫だ。場合によっては先生ご自身、助太刀をしてくださるかもしれない」
「何から何まで有難いことで。そういう訳でございましたら、何を置いても千葉先生とやらを、お訪ね致すでございましょう」甚内は嬉しそうに頭を下げた。
「それがよい、是非訪ねろ。……そこでお前に頼みがある。千葉先生におあいしたら、一つこのように伝言(ことづけ)てくれ。大馬鹿者の観世銀之丞も、あの晩以来改心し、真人間になりました。そうして自分の本職を、いよいよ練磨致すため、犬吠崎へ参りました。岸へ打ち寄せる大海の濤(なみ)、それへ向かって声を練り、二年三年のその後には、あっぱれ日本一の芸術家となり、再度お目にかかります。その時までは剣の方は、一切手にも触れませぬと、こう先生へ申し上げてくれ」
「やあ、それじゃあなた様は、観世様でございましたか?」さも驚いたというように、甚内は声を筒抜かせた。
「さよう、わしは観世だが、お前わしを知っているかな?」
「知っているどころじゃございません。本陣油屋でお調べになった、あの素敵もねえ鼓の手を、どんなにか喜んで死んだ兄は、お聞きしたか知れません」
「そういわれれば思い出す」銀之丞はその顔へ、寂しい笑いを浮かべたが、「おれが鼓を調べさえすれば、甚三も追分を唄ったものだ。おれと競争でもするようにな。……もうその追分も聞く事は出来ぬ」
 いつかすっかり夕陽が消え、星が点々と産まれ出た。風は次第に勢いを強め、帆の鳴る音も凄くなった。

    風雨を貫く謡(うたい)の声

「オーイ甚内!」と呼ぶ声がした。「しけが来るぞヨー、帆を下ろせヨー」
「オーイ」と甚内はすぐ応じた。それから銀之丞へ会釈したが、「しけが来るようでございます。ちょっとご免を被ります」
 いい捨てクルリと身を翻(ひるが)えすと、兄の死を痛み悲しんでいた、もう今までの甚内ではない。熟練をした勇敢な、風浪と戦うかこであった。
 帆綱を握るとグイと引いた。ギーギーという音がして、左右に帆柱が揺(うご)いたかと思うと、張り切った帆が弛んで来た。
「ヨイショヨイショ、ヨイショヨイショ!」
 掛け声と共に手繰(たぐ)り下ろした。
 星が消えたと見る間もなく、ザーッと雨が落として来た。篠突(しのつ)くような暴雨であった。雨脚(あまあし)が乱れて濛気(もうき)となり、その濛気が船を包み、一寸先も見えなくなった。轟々(ごうごう)という凄じい音は、巻立ち狂う波の音で、キキー、キキーと物悲しい、咽(むせ)ぶような物の音は、船の軋(きし)む音であった。空を仰げば黒雲湧き立ち、電光さえも加わった。凄じい暴風雨となったのであった。
「ヨイショヨイショ! ヨイショヨイショ!」
 その荒涼たる光景の中から、十数人のかこの声ばかりが、雄々しく勇ましく響いて来た。
 乗客は悉く胴の間に隠れ、不安に胸を躍らしていた。ただ一人銀之丞ばかりが、船のへさきに突っ立っていた。
「ああいいな。勇ましいな」彼は呟いたものである。「自然の威力に比べては、何んて人間はちっぽけなんだろう? だがいやいやそうでもないな、かこはどうだ! あの姿は!」
 銀之丞は武者揮いをした。
「自然の威力を突き破ろうと、ぶつかって行くあの力! 恐ろしい運命にヒタと見入り、刃向かって行くあの態度! これが本当の人間だな! ふさぎの虫も糸瓜(へちま)もない! あるものは力ばかりだ! いいな、実にいい、生き甲斐があるな!」
 嵐は益□吹き募り、雨はいよいよ量を増した。所は名に負う九十九里ヶ浜、日本近海での難場であった。四辺(あたり)は暗く浪は黒く、時々白いものの閃めくのは、砕けた浪の穂頭(ほがしら)であった。
「ヨイショヨイショ! ヨイショヨイショ!」
 かこどもの呼ぶ掛け声は、益□勇敢に響き渡った。しかし人力には限りがあり、自然の暴力は無限であった。
 かこは次第に弱って来た。船がグルグルと廻り出した。
「もういけねえ! もういけねえ!」
 悲鳴の声が聞こえて来た。
 真っ黒の大浪がうねりをなし、小山のように寄せたかと思うと、船はキリキリと舞い上がった。
「助けてくれえ!」
 と叫ぶのは、胴の間にいる乗客達であった。
 と、この時、朗々たる、謡(うたい)の声が聞こえて来た。
 神か鬼神かこの中にあって、悠々と謡をうたうとは! 暴風暴雨を貫いて、その声は鮮かに聞こえ渡った。
「誰だ誰だ謡をうたうのは!」
「偉(えれ)えお方だ! 偉えお方だ!」
「偉えお方が乗っておいでになる! 船は助かるぞ助かるぞ!」
「ヨイショヨイショ! ヨイショヨイショ!」
 ふたたびかこの声は盛り返した。その声々に抽(ぬき)んでて、謡の声はなおつづいた。
 船が銚子へ着いたのは、その翌日のことであった。

    「主知らずの別荘」の別荘番

「オイオイ若いの。オイ若いの」
□かくばかり経高く見ゆる世の中に、羨ましくも澄む月の、出汐をいざや汲もうよ……
「オイオイ若いの。オイ若いの」
□影はずかしき我が姿、忍び車を引く汐の……
「うなっては困る。うなっては困る」
「誰もうなってはいないではないか」
「お前の事だ。うなっては困る」
「おれは何もうなってはいない」
「今までうなっていたじゃないか」
□おもしろや、馴れても須磨の夕まぐれ、あまの呼び声かすかにて……
「あれ、いけねえ、またうなり出した」
□沖に小さき漁(いさ)り舟の、影幽(かす)かなる月の顔……
「やりきれねえなあ、うなっていやがら」
□仮りの姿や友千鳥、野分(のわき)汐風いずれも実(げ)に、かかる所の秋なりけり、あら心すごの夜すがらやな……
「オイオイ若いの。困るじゃねえか」
「なんだ貴様。まだいたのか」
「お前がうなっているからよ」
「解らない奴だ。うなるとは何んだ。これはな謡をうたっているのだ」
「ははあ、そいつが謡ってものか」
「めったに聞けない名人の謡だ。後学のために謹聴しろ」
「あれ、あんなことをいっていやがる。自分で自分を名人だっていやがる」
「アッハッハッハッそれが悪いか」
「なんと自惚(うぬぼ)れの強いわろだ」
「アッハッハッハッ、自惚れに見えるか。……さて、もう一度聞かせてやるかな」
「オットオットそいつあいけねえ。勘弁してくんな、おれが叱られる」
「おかしな奴だな。誰に叱られる?」
「旦那によ、旦那殿によ」
「なぜ叱られる。何んの理由で?」
「やかましいからよ。うなるのでな」
「ははあ、それでは謡のことか」
「うん、そうとも、他に何がある」
「我がままな奴だな。こういってやれ。ここは銚子獅子ヶ岩、向こうは荒海太平洋だ。あたり近所に人家はない。謡おうとうなろうと勝手だとな。その旦ツクにいってやれ」
「うんにゃ、駄目だ。おれが叱られる」
「よかろう。勝手に叱られるさ」
「おれが困るよ。だから頼む。……第一声が透(とお)り過ぎらあ。洞間声(どうまごえ)[#「洞間声」はママ]っていう奴だからな」
「洞間声[#「洞間声」はママ]だって? こいつは助からぬ。アッハッハッハッ、いや面白い」
「面白くはねえよ。面白いものか。叱られて何んの面白いものか」
「よっぽど解らずやの旦那だな」
「フン、何んとでもいうがいいや」
「いったい誰だ? お前の旦那は?」
「お金持ちだよ。大金持ちだ」
「金があっても趣味がなければ、馬や牛と大差ないな」

    厳重を極めた別荘普請

「だがお前の主人というのは、いったいどこに住んでるのか?」
「お前さんそいつを知らねえのか」
「知らないとも、知る訳がない」
「だが、やしきは知ってる筈だ」
「お前の主人のやしきをな?」
「うんそうさ、有名だからな」
「いいや、おれはちっとも知らない」
「そんな筈はねえ、きっと知ってる」
「おかしいな。おれは知らないよ」
「獅子ヶ岩から半町北だ」
「獅子ヶ岩から半町北と?」
「近来(ちかごろ)普請に取りかかったやしきだ」
「や、それじゃ『主(ぬし)知らずの別荘』か?」
「そうれ、ちゃアんと知ってるでねえか」
「その別荘なら知ってるとも」
「それがおれの主人の巣だ」
「ふうん、そうか。やっと解った」
「随分有名な邸(やしき)だろうが?」
「銚子中で評判の邸だ」
「それがおれの主人の邸だ」
「そこでお前にきくことがある。何んと思ってあんな普請をした?」
「あんな普請とはどんな普請だ?」
「まるで砦(とりで)の構えではないか」
「…………」
「厚い石垣、高い土塀、たとえ大砲を打ちかけても、壊れそうもない厳重な門、海水をたたえた深い堀、上げ下げ自由な鉄の釣り橋、え、オイまるで砦じゃないか」
「おれの知ったことじゃねえ」
「で、主人はいつ来たのだ?」
「うん、主人はずっと以前(まえ)からよ……そうさ今から二月ほど前から、こっそりあそこへ来ているんだ」
「ほほう、そうか、それは知らなかった」
「ところが他のご家族達も、二、三日中には越して来るのだ」
「それで家族は多いのか?」
「うん、奥様とお嬢様と、坊様と召使い達だ」
「では『主知らずの別荘』が、いよいよ主を迎えた訳だな」
「そうかもしれねえ。うん、そうだ」
「ところで主人の身分は何んだ?」
「主人の身分か? 主人の身分はな……いやおれは何んにも知らねえ」
「ははあ隠(かく)すつもりだな」
「おれは何んにも知らねえよ」
「で、お嬢様は別嬪(べっぴん)かな?」
「おれは何んにも知らねえよ」
「いよいよ隠すつもりだな」
「おれはちっとばかりしゃべり過ぎたからな」
「ところでお前は何者だな?」
「おれは何んにも知らねえよ」
「ふざけちゃいけない、馬鹿なことをいうな」
「ああおれか、別荘番だよ」
「うん、そうか、別荘番か。『主知らずの別荘』の別荘番だな」
「別荘番の丑松(うしまつ)ってんだ」
「噂は以前から聞いていたよ」
「おれは銚子では名高いんだからな」
「そうだ、お前は名高いよ。『主知らずの別荘』と同じにな」
「ところでお前さん、何者だね?」
「おれか、おれは能役者だ」
「ああ役者か、何んだ詰まらねえ」
「口の悪い奴だ。詰まらねえとは何んだ」

    駕籠から覗いた美しい女

「姓名の儀は何んていうね?」
「姓名の儀はとおいでなすったな。姓名は観世銀之丞」
「ほほん、銀之丞か。役者らしい名だ。詰めていうと銀公だな。そうじゃアねえ、銀的だ」
「口の悪い奴だ。いよいよ口が悪い。が、まあ銀公でも銀的でもいい」
「お前さん、この土地へはいつ来たね?」
「二十日ほどまえだ。それがどうしたな」
「あッ、やっと思い出した。そうそうお前さんはお品(しな)の婿だね」
「お品の婿だって。何んのことだ?」
「隠したって駄目だ。評判だからな」
「そうか、何んにしても有難い」
「厭な野郎だな、礼をいっていやがる」
「めでたそうな話だからよ」
「だってお前さん評判だぜ。お品の所へ江戸の役者が、入(い)り婿(むこ)となって来たってな」
「お品の家の離れ座敷を、たしかにおれは借りているよ」
「ソーレ見たか、泥を吐きおった」
「そうしてお品はいい娘だ」
「甘え野郎だ、惚気(のろけ)ていやがる」
「銚子小町だということだな」
「鼻持ちがならねえ、いろきちげえ!」
「だが、銚子の小町娘も、田の草を取ったり網を干したり、野良馬の手綱をひいたりしたでは、こいつどうも色消しだな」
「そいつはどうも仕方がねえ。この辺は半農半漁だからな。よっぽどいい所の娘っ子でも、漁にも出れば作もするよ」
「それはそうだ、御意(ぎょい)の通りだ。そうして実はお品にしてからが、その網干しの姿とか、ないしは草取りの姿の方が、ちんと澄ました姿より、よっぽど可愛く見えるからな」
「おやまたかい。また惚気(のろけ)かい」
「どれ、そろそろ帰ろうかな、お品の顔でも見に帰るか」
「変な野郎だ。どう考えても変だ」
 観世銀之丞と丑松とはこんな塩梅(あんばい)に親しくなった。

「銀之丞さま、銀之丞さま!」
 お品が往来で呼んでいた。
「オイ何んだい、お品さん」
「出てごらんなさいよ、通りますよ」
 そこで銀之丞は離れ座敷から、往来の方へ出て行った。
 お品や、お品の両親や、近所の人達が道側(みちばた)に立って、南の方を眺めていた。
 とそっちから行列が、だんだんこっちへ近寄って来た。馬が五頭駕籠が十挺、それから小荷駄を背に負った、十数人の人夫達で、外ならぬ「別荘」の家族連であった。今移転(ひっこ)して来たのであろう。
「ねえ、随分大勢じゃないか」「そうさね、随分大勢だね」「荷物だって沢山じゃないか」「そうさ随分沢山だなあ」「どんな人達だか見たいものだね」「お生憎様(あいにくさま)、駕籠が閉じている」「これでマア別荘も賑やかになるね」「化物屋敷でなくなるわけさ」「それにしても妙だったね。十年このかたあの別荘には主人(ぬし)って者がなかったんだからね」「ところが主人(ぬし)が来るとなると、この通り大仰だ」「きっと主人はお金持ちで、あっちにもこっちにも別荘があるので、こんな辺鄙(へんぴ)な別荘なんか、今まで忘れていたのかもしれない」「それにしてもおかしいじゃないか、あの厳重な普請の仕方は」「ちょうど敵にでも攻められるのを、防ぐとでもいったような構えだね」「黙って黙って、ソレお通りだ」
 そこへ行列がやって来た。
 すると三番目の駕籠の戸が、コトンと内から開けられて、美しい女の顔が覗いた。

    そそられた銀之丞の心

 銀之丞は何気なくそっちを見た。
 女の視線と銀之丞の視線が、偶然一つに結ばれた。と、女はどうしたものか、幽(かす)かではあるがニッと笑った。「おや」と銀之丞は思いながらも、その笑いにひき込まれて、思わず彼もニッと笑った。
 と、駕籠の戸がポンと閉じ、そのまま行列は行き過ぎた。
 はなれへ戻って来た銀之丞は、空想せざるを得なかった。
「悪くはないな、笑ってくれたんだ! だがいったいあの女は、おれをまえから知っていたのかしら? そんな訳はない知ってる筈はない。……とにかく非常な別嬪(べっぴん)だった。さて、恋が初まるかな。こんな事から恋が初まる? あり得べからざる事でもない」
 その時庭の飛び石を渡り、お品がはなれへ近寄って来た。色は浅黒いが丸顔で、眼は大きく情熱的で、そうして処女らしく清浄な、すべてが初々(ういうい)しい娘であったが、手に茶受けの盆を捧(ささ)げ、にこやかに笑いながら座敷へ上がった。
「お茶をお上がりなさいませ」
「ああお茶かね、これは有難い。旨(うま)そうなお茶受けがありますな」
「土地の名物でございますの」
「ふうむ、なるほど、海苔煎餅(のりせんべい)」
 お品はいそいそと茶を注いだ。
 豪農というのではなかったが、お品の家は裕福であった。主人夫婦も人柄で、しかもなかなか侠気があり、銚子の五郎蔵とも親しくしていた。銀之丞が頼むと快く、すぐにはなれを貸したばかりか、万事親切に世話をした。ひとつは銀之丞が江戸で名高い、観世宗家の一族として、名流の子弟であるからでもあったが、主人嘉介が風流人で、茶の湯活花(いけばな)の心得などもあり、謡の味なども知っていたからであった。
 お品は一人子で十九歳、肉体労働をするところから、体は発達していたが、心持ちはほんのねんねえであった。一見銀之丞が好きになり、兄に仕える妹のように、絶えず銀之丞へつきまとった。
 そういう家庭に包まれながら、本職の謡を悠々と、研究するということは、彼にとっては理想的であった。それに彼にはこの土地が、ひどく心に叶(かな)っていた。漁師町であり農村であり、且つ港である銚子なる土地は、粗野ではあったが詩的であった。単純の間に複雑があり、「光」と「影」の交錯が、きわめて微妙に行われていた。もちろん、信州追分のような、高原的風光には乏しかったが、名に負う関東大平原の、一角を占めていることであるから、森や林や丘や耕地や、沼や川の風致には、いい尽くせない美があって、それが彼には好もしかった。
 それに何より嬉しかったのは、太平洋の荒浪が、岸の巌(いわお)にぶつかって、不断に鼓の音を立てる、その豪快な光景で、それを見るとしみじみと「男性美」の極致を感じるのであった。
 そこで彼は毎夜のように、獅子ヶ岩と呼ばれる岩の上へ行って、声の練磨をするのであった。
 彼は本来からいう時は、観世の家からは勘当され、また観世流の流派からは、破門をされた身分であった。でもし彼が凡人なら、そういう自家の境遇を、悲観せざるを得なかったろう。しかるに彼は悲観もせず、また絶望もしなかった。それは彼が天才の上に、一個文字通りの近代人だからで、真の芸術には門閥はないと、固く信じているからであった。
 とはいえ彼とて人間であり、殊には烈々たる情熱においては、人一倍強い芸術家のことで、父母のことや友人のことは、忘れる暇とてはないのであった。わけても親友の平手造酒の、その後の消息に関しては、絶えず心を配っていた。
 それに彼は生まれながら、都会人の素質を持っていて、江戸の華やかな色彩に対しては、あこがれの心を禁じ得なかった。
 ところが今日はからずも、江戸めいた美しい女の顔を、駕籠の中に見たばかりか、その女から笑い掛けられたのであった。
 彼の心が動揺し、それが態度に現われたのは、やむを得ないことであろう。

    紙つぶてに書かれた「あ」の一字

「どう遊ばして、銀之丞様」
 お品が不足そうに声をかけた。「考え込んでおりますのね」
「や、そんなように見えますかな」
「お菓子を半分食べかけたまま、手に持っておいでではありませんか」
「これはこれは、どうしたことだ」
「どうしたことでございますやら」
「おおわかった、これはこうだ」テレ隠しにわざと笑い、「あんまりお品さんが可愛いので、それで見とれていた次第さ」
「お気の毒様でございますこと」
「ナニ気の毒? なぜでござるな?」
「なぜと申してもあなた様のお目は、わたしの顔などご覧なされず、さっきからお庭の石燈籠ばかり、ご覧になっているではございませんか」
「いや、それには訳がある」
「なんの訳などございますものか」
「なかなかもってそうでない。すべて燈籠の据え方には、造庭上の故実があって、それがなかなかむずかしい」
「おやおや話がそれますこと」
「冷(ひや)かしてはいけないまずお聞き、ところでそこにある石燈籠、ちとその据え方が違っている」
「オヤさようでございますか」いつかお品はひき込まれてしまった。
「茶の湯、活花、造庭術、風雅の道というものは、皆これ仏教から来ているのだ」
「まあ、さようでございますか」
「ところが中頃その中へ、武術の道が加わって、大分作法がむずかしくなった」
「まあ、さようでございますか」お品は益□熱心になった。
「で、そこにある石燈籠だが、これはこの室(へや)と枝折戸(しおりど)との、真ん中に置くのが本格なのだ」
「どういう訳でございましょう?」
「門の外から室の様子を、見られまいための防禦物(ぼうぎょぶつ)だからで、横へ逸(そ)れては目的に合わぬ。ところがこれは逸れている。室の様子がまる見えだ」
「そういえばまる見えでございますね」
 お品はすっかり感心して、銀之丞の話に耳傾けた。
 それが銀之丞には面白かった。もちろん彼の説などは、拠(よ)りどころのない駄法螺(だぼら)なので、それをいかにももっともらしく、真顔(まがお)を作って話すというのは、どうやらお品に弱点を握られ、今にもそこへさわられそうなのが、気恥ずかしく思われたからであった。つまりいい加減の出鱈目(でたらめ)をいって、話を逸(そ)らそうとするのであった。
「だから」と銀之丞はいよいよ真面目(まじめ)に、「もしもここに敵があって、この部屋の主人を討とうとして、あの枝折戸の向こうから、鉄砲か矢を放したとしたら、ここの主人はひとたまりもなく、討たれてしまうに相違ない。すなわち防禦物の石燈籠が、横へ逸れているからだ」
「ほんにさようでございますね」
「しかるによって……」
 といよいよ図に乗り、喋舌(しゃべ)り続けようとした銀之丞は、にわかにこの時「あッ」と叫び、グイと右手を宙へ上げた。間髪を入れずとんで来たのは、紙を巻いたいしつぶて! さすがは武道にも勝れた彼、危いところで受けとめた。
「あれ」
 と驚くお品を制し、銀之丞は紙をクルクルと解いた。
 と、紙面にはただ一字「あ」という文字が記されてあった。

    刎(は)ね橋と開けられた小門

 その翌日のことであったが、銀之丞が一人野をあるいていると、どこからともなくいしつぶてが、例のように飛んで来た。受け取って見ると紙が巻いてあった。そうして紙にはただ一字「い」という文字が書いてあった。
 最初のつぶてには「あ」と書いてあり、次のつぶてには「い」と書いてあった。二つ合わせると「あい」であった。「ハテ『あい』とはなんだろう?」思案せざるを得なかった。「これを漢字に当て嵌(は)めると『鮎(あい)』ともなれば『哀(あい)』ともなる。『間(あい)』ともなれば『挨(あい)』ともなる。そうかと思うと『靉(あい)』ともなる。いずれ何かの暗号ではあろうが、さて何んの暗号だろう? そうしていったい何者が、こんな悪戯(いたずら)をするのだろう?」
 考えてみれば気味が悪かった。とはいえ大剛(たいごう)の彼にとっては、恐怖の種とはなりそうもなかった。
 それはとにかく、銀之丞は、駕籠の中に見た女の俤(おもかげ)を、忘れることが出来なかった。
「女は確かに娘らしい。あの『主知らずの別荘」の、家族の一人に相違ない。それも決して女中などではなく、丑松の話したお嬢さんでもあろう」
 女色(じょしょく)に淡い彼ではあったが、不思議と心をそそられた。
 二度目の暗号を渡された日の、その翌晩のことであったが、彼はフラリと宿を出ると、別荘の方へ足を向けた。それは月影の美しい晩で、そぞろあるきには持って来いであった。少しあるくと町の外(はず)れで、すぐに耕地となっていた。その耕地を左右に見て、一本の野良道を先へ進んだ。土橋を渡るともう荒野で、地層は荒々しい岩石であったが、これは海岸に近いからであった。そういえば波の音がした。
 彼はズンズンあるいて行った。間もなく別荘の前へ出た。
 廻れば五町はたっぷりあろうか、そういう広大な地所の中に、別荘は寂然(せきぜん)と立っていた。三間巾の海水堀、高い厚い巌畳(がんじょう)な土塀、土塀の内側(うちがわ)の茂った喬木、昼間見てさえなかの様子は、見る事が出来ないといわれていた。
 夜はかなり更けていた。堀の水は鉛色に煙り、そとへ突き出した木々の枝葉で、土塀のあちこちには蔭影(かげ)がつき、風が吹くたびにそれが揺(ゆ)れた。前と左右は物寂しい荒野で、そうして背後(うしろ)は岩畳(いわだたみ)を隔てて、海に続いているらしい。
 人っ子一人通っていない。市(まち)の燈火(ともしび)は見えていたが、ここからは遙かに隔たっていた。別荘には一点の火光もなく、人のけはいさえしなかった。
 それは別荘というよりも、荒野の中の一つ家(や)であり、わすれ去られた古砦であり、人の住居(すまい)というよりも、死の古館(ふるやかた)といった方が、ふさわしいように思われた。すでに刎ね橋はひき上げられていた。
「何という寂しい構えだろう」
 呟きながら銀之丞は、堀に沿って右手へ廻った。すると意外にも眼の前に、刎ね橋が一筋かかっていた。そこは別荘の側面で、土塀には小門が作られてあったが、それへ通ずる刎ね橋であった。こういう場合おおかたの人は好奇心に捉われるものであった、で、彼も好奇心に駆られ、刎ね橋を向こうへ渡って行った。そうして小門へさわってみた。と、手に連れて音もなく、小門の戸が向こうへ開いた。
「おや」とばかり驚きの声を、思わず口から飛び出させたが、さらに一層の好奇心が、彼の心を駆り立てた。

    魔法使いの魔法の部屋か

 彼は小門をくぐったものである。
 あたりを見ると鬱蒼(うっそう)たる木立で、その木立のはるか彼方(あなた)に、一座の建物が立っていた、どうやら、別荘のおも屋らしい。さすがに彼もこれ以上、はいり込むには躊躇(ちゅうちょ)された。
「しかし」と彼は思案した。「何んというこれは不用心だ。賊でもはいったらどうするつもりだ。一つ注意をしてやろう」で、彼は進んで行った。やがて建物の戸口へ出た。
「ご免」と小声でまず訪(おとな)い、トントンと二つばかり戸を打った。と、何んたることであろう! その戸がまたも内側へ開き、闇の廊下が現われた。
「おや」とばかり驚きの声を、また出さざるを得なかった。しかし驚きはそれだけではなく、
「おはいり」
 というしわがれた声が、廊下の奥から聞こえて来た。
 これには銀之丞も度胆を抜かれた。でぼんやり佇(たたず)んでいた。するとまたもや同じ声がした。
「待っていたよ、はいるがいい」
 度胆を抜かれた銀之丞は、今度は極度の好奇心に、追い立てられざるを得なかった。
 彼は大胆にはいって行った。三十歩あまりもあるいた時、「ここだ!」という声が聞こえて来た。それは廊下の横からであった。見るとそこに開いた扉(と)があった。で、内(なか)へはいって行った。カッと明るい燈火(ともしび)の光が、真っ先に彼の眼を奪った。そのつぎに見えたのは一人の老人で、部屋の奥の方に腰かけていた。
「オイ若いの、戸を締めな」その老人はこういった。
 いわれるままに戸を閉じた。それから老人を観察した。身長(たけ)が非常に高かった。五尺七、八寸はあるらしい。肉付きもよく肥えてもいた。皮膚の色は銅色(あかがねいろ)でそれがいかにも健康らしかった。ただし頭髪(かみのけ)は真っ白で、ちょうど盛りの卯の花のようで、それを髷(まげ)に取り上げていた。銀(しろがね)のように輝くのは、明るい燈火(ともしび)の作用であろう。高い広い理智的な額、眼窩(がんか)が深く落ち込んでいるため、蔭影(かげ)を作っている鋭い眼……それは人間の眼というより、鋼鉄細工とでもいった方が、かえって当を得るようだ。美術的高い鼻、強い意志を現わした、固く結ばれた大きな口……顔全体に威厳があった。着ている衣裳も美術的であった。しかしそれは日本服ではなく、阿蘭陀風(オランダふう)の服であった。それも船員の服らしく、袖口と襟とに見るも瞬(まば)ゆい、金モールの飾りがついていた。手には変った特色もない。ただ手首がいかにも太く、そうして指がいかにも長く、船頭の手などに見るような、握力の強そうな手であった。さて最後に足であるが、足は最も特色的であった。というのは右の足が、膝の関節(つけね)からなくなっているので、つまり気の毒な跛足(びっこ)なのであった。でズボンも右の分は、左の分よりは短かかった。
 彼は長椅子に腰かけていた。その長椅子も日本の物ではなく、やはりオランダかイスパニヤか、その辺の物に相違なかった。長椅子には毛皮がかけられていた。それは見事な虎の皮で、玻璃製(はりせい)の義眼が燈火に反射し、キラキラ光る有様は、生ける虎の眼そっくりであった。毛皮の上には短銃があった。それとて日本の種子ヶ島ではなく、やはり舶来の品らしかった。
 部屋はかなり広かった。そうして老人を囲繞(いにょう)して、珍奇な器具類が飾られてあった。縅(おどし)の糸のやや古びた、源平時代の鎧甲(よろいかぶと)、宝石をちりばめた印度風(インドふう)の太刀、磨ぎ澄ました偃月刀(えんげつとう)、南洋産らしい鸚鵡(おうむ)の剥製、どこかの国の国王が、冠っていたらしい黄金の冠、黒檀の机、紫檀の台、奈良朝時代の雅楽衣裳、同じく太鼓、同じく笛、大飛出(おおとびで)、小飛出、般若(はんにゃ)、俊寛(しゅんかん)、少将、釈迦などの能の面、黄龍を刺繍(ぬい)した清国の国旗、牧溪(ぼくけい)筆らしい放馬の軸、応挙筆らしい大瀑布の屏風、高麗焼きの大花瓶、ゴブラン織の大絨毯、長い象牙に豺(さい)の角、孔雀(くじゃく)の羽根に白熊の毛皮、異国の貨幣を一杯に充たした、漆塗りの長方形の箱、宝石を充たした銀製の箱、さまざまの形の古代仏像、青銅製の大香炉、香を充たした香木の箱、南蛮人の丸木船模型、羅針盤と航海図、この頃珍らしい銀の時計、忍び用の龕燈提灯(がんどうぢょうちん)、忍術用の黒小袖、真鍮製(しんちゅうせい)の大砲模型、籠に入れられた麝香猫(じゃこうねこ)、エジプト産の人間の木乃伊(みいら)、薬を入れた大小黄袋(きぶくろ)、玻璃に載せられた朝鮮人参、オランダ文字の異国の書籍、水盤に入れられた真紅の小魚……もちろんいちいちそれらの物が、一巡見渡した銀之丞の眼に、理解されて映ったのではなかったけれど、しかし決して夢ではなく、まさしく「実在」として映ったのであった。

    奇妙な老人の奇妙な話

「いったいこの部屋は何んだろう? この老人は何者だろう?」銀之丞は茫然と、驚き呆れて佇んでいた。
 と、老人が声をかけた。
「待っていたのだ。よく来てくれた。ところでお前は本人かな? それともお前は代理かな?」
 いうまでもなくこの言葉は、銀之丞にはわからなかった。すると老人がまたいった。
「本人なら市之丞と呼ぼう。もし代理なら別の名で呼ぼう。黙っていてはわからない」
「いや」と銀之丞はようやくいった。「市之丞ではございません。そんな者ではございません。……」
「ふん、それなら代理だな。それは困った。代理は困る」
「全然話が違います。……刎ね橋が下ろされてありましたので……」
「そうさ、お前を迎えるために、わざわざ下ろして置いたのだ」
「いえ、それに小門の戸も……」
「いうまでもない、開けて置いたよ。それは最初からの約束だからな」
「……それでうかうか参りましたので」
「ナニうかうか? 不用心な奴だ」
「と、いいますのもその不用心を、ご注意しようと存じましてな。……」
「うん、それがいい、お互いにな。不用心は禁物だ。……で、お前は代理なのだな? やむを得ない、我慢しよう。……で、お前の名は何んというな?」
「さよう、拙者は銀之丞……」
「ナニ銀之丞? よく似た名だな。市之丞代理銀之丞か。なるほど、これは代理らしい。よろしい、話を進めよう」
「しばらく、しばらく。お待ちください!」
「えい、あわてるな! 臆病者め! ははあ、お前は恐れているな。いやそれなら大丈夫だ。家族の者は遠避けてある。そこで話を進めよう。だがその前にいうことがある、なぜお前達は俺を嚇した! あんな手紙を何故よこした! 何故この俺を強迫した!」
「俺は知らない!」と銀之丞は、とうとう怒って怒鳴りつけた。「人違いだよ、人違いなのだ」
「ナニ人違いだ? 莫迦をいえ! 今さら何んだ! 卑怯な奴だ! だがマアそれは過ぎ去ったことだ。蒸し返しても仕方がない。しかし俺はいっとくがな、以後強迫は一切止めろ! そんな事には驚かないからな。もちろん本当にもしないのさ。だがいうだけはいった方がいい。そう思って返辞はやった。何んのこの俺が決闘を恐れる! アッハハハ、莫迦な話だ。しかし話がつくものなら、そんな厭な血など見ずと、そうだ平和の談笑裡に、話し合った方がいいからな。で、返辞はやったのさ。そうして俺から指定した通り、ちゃんと小門も開けて置いたのさ。それでも感心に時間通りに来たな。よろしい、よろしい、それはよろしい。ふん、やっぱりお前達も、血を見るのは厭だと見える。あたりめえだ、誰だって厭だ。お互い命は大事だからな。粗末にしては勿体(もったい)ないからな。……よろしい、それでは話を進めよう。さて、お前達の要求だが、あれは全然問題にならない。あの要求は暴というものだ。まるっきり筋道が立っていない。いわば場違いというものだ。それに時効にもかかっている。オイ、大将、そうじゃないかな! だからあれは肯(き)くことはならぬ! とこうにべもなくいい切ったでは、お前達にしても納まりがつくまい。俺にしても気の毒だ。今夜の会見も無意味になる。後に怨みが残ろうもしれぬ。それではどうも面白くない。そこで少しく色気をつけよう。といってお前達に怖じ恐れて、妥協すると思うと間違うぞ! なんのお前達を恐れるものか! 昔ながらの九郎右衛門だ」

    胸に向けられた短銃の口

「俺には一切恐怖はない。恐怖を知らない人間なのだ。それはお前達も知ってるだろう。人の命を取ることなどは、屁とも思わぬ人間なのだからな。だから、それだから、そこを狙って、……いやいやそれはどうでもいい。お互い気取りや示威運動や、威嚇というような詰まらないものは、封じてしまわなければならないのだからな。……つまりお前達の境遇が――どうやら大分貧しいらしいな――それがおれには気の毒なので、そこで一片の慈悲心から、恵みを垂れるという意味で、俺の財産の幾分かを、分けてやろうとこう思うのだ。よいか、解ったか、解ったかな? アッハハハ、それにしてもだ、お前達の要求は大きかったな。みんなよこせというのだからな。それが正当だというのだからな。オイ大将よく聞くがいい。俺は正直な人間だ。決して仲間など裏切りはしない。嘘もなければ偽(いつわ)りもない。で分配はどこから見ても、一点の不公平もなかったのだ。三人ながら同じように、同じタカに分け合ったのだ。それを俺は上手に利用し、あるが上にもなお蓄(た)めた。それだのに一人藤九郎ばかりは、無考(むかんが)えにも使い果たしてしまった。そうして恐ろしく貧乏して貧乏の中に死んでしまった。それを伜の市之丞めが、何をどこから聞き込んだものか、俺だけ一人余分に取ったの、藤九郎を殺したのは俺だのと、それこそ途方もないいいがかりをつけ、あげくのはてには強迫して俺から財産を取ろうとする! 莫迦な話だ、とんでもないことだ! ……ところで俺の財産だが、大部分この部屋に集めてある。いやこれで一切だ。この外には一文もない。金につもったら大したものだ。五万や八万はあるだろう。で俺はこの中(うち)を、半分だけお前達にくれてやろう。勿体ないが仕方がない。昔の仲間の伜のことだ、貧乏させても置けないからな。……俺のいうことはこれで終えた。代理のお前ではわかるまい。帰って市之丞にいうがいい。そうして急いで返答しろ。どうだ、不足はあるまいがな。……や! 貴様どうしたんだ! 何をぼんやりしているんだ! おや、こいつめが、聞いていないな! いったい貴様は何者だ!」
 老人は突然怒号した。ようやく相手の若者が、怪しいものに見えて来たらしい。
「おれは観世銀之丞だ。おれは江戸の能役者だ」
 銀之丞はひややかにいった。老人の話しでその老人が、善人ではないということを、早くも直感したからであった。「気の毒だが人違いだ」
「ナニ観世だと? 能役者だと?」
 見る見る老人の眼の中へ、凄まじい殺気が現われた。つとその手が毛皮の上の、短銃の方へ延びて行った。
「では貴様は、あいつらではないのか? 市之丞の代理ではなかったのか?」
「その市之丞とかいう男、見たこともなければ聞いたこともない」
「しかし、しかし、それにしても、どうしてここへはいって来た?」
「それはもうさっきいった筈だ。小門が開いていたからよ」
「だが、指定した、こんな時刻に……」
「俺の知ったことではない。恐らくそれは暗合だろう」
「では、いよいよ人違いだな!」
「うん、そうだ、気の毒ながら」
「それだのに貴様は俺の話しを、黙ってしまいまで聞いてしまったな!」
「むやみとお前が話すからよ。俺は幾度もとめた筈だ」
「ふうむ、なるほど」と呻くようにいうと、九郎右衛門は眼を据えた。短銃を持った右の手がソロリソロリと上へ上がった。
「では、貴様は、生かしては帰せぬ!」
「そうか」と銀之丞は冷淡に「よかろう、一発ドンとやれ」
 ピッタリ短銃の筒口が、銀之丞の胸へ向けられた。絶息しそうな沈黙が、分を刻み秒を刻んだ。

    助太刀をしてくださるまいか

 と、ピストルがソロソロと、下へ下へと下ろされた。
「そんな筈はない。能役者ではあるまい」
「何故な?」と銀之丞は平然ときいた。
「素晴らしい度胸だ。能役者ではあるまい」
「嘘はいわぬ。能役者だ」
「そうか」
 と九郎右衛門は考えながら、
「無論剣道は学んだろうな?」
「うん、いささか、千葉道場でな」
「ははあ、千葉家で、それで解った」
 九郎右衛門は眼をとじた。どうやら考えに耽るらしい。と、パッと眼を開けると、にわかに言葉を慇懃(いんぎん)にしたが、
「いかがでござろう今夜のこと、他言ご無用に願いたいが」
 そこで銀之丞も言葉を改め、
「そこもと、それが希望なら……」
「希望でござる、是非願いたい」
「よろしゅうござる。申しますまい」
 二人はまたも沈黙した。
「さて、改めてお願いがござる」一句一句噛みしめるように、九郎右衛門はいい出した。「何んとお聞き済みくださるまいか」
「お話の筋によりましては。……」
「いかさまこれはごもっとも」
 九郎右衛門はまた眼をとじ、じっと思案に耽ったが、
「私、昔は悪人でござった。しかし今は善人でござる。……とこう申したばかりでは、あるいはご信用くださるまいが、今後ご交際くださらば、自然お解りにもなりましょう。ところが先刻不用意の間にうっかりお耳に入れました通り、私には敵がござる」
「どうやらそんなご様子でござるな」
「それがなかなか強敵でござる」
「それに人数も多いようでござるな」
「しかし恐ろしいはただ一人、金子市之丞と申しましてな、非常な小太刀の名人でござる」
「ふうむ、なるほど、さようでござるかな」
「それが徒党を引率して、最近襲撃して参る筈、ナニ私が壮健なら、ビクともすることではござらぬが、何を申すにも不具の躰、実は閉口しておるのでござる。そのため使者(つかい)を遣(つか)わして、今晩参って話し合うよう、その市之丞まで申し入れましたところ、その者は来ずに代りとして、あなたがお見えになられたような次第、もうこうなっては平和の間に折り合うことは不可能でござる。是が非でも戦わねばならぬ。ところで味方はおおかた召使い、太刀取る術さえ知らぬ手合い、戦えばわれらの敗けでござる。お願いと申すはここのこと、何んと助太刀してくださるまいか。侠気あるご仁と見受けましたれば、折り入ってお願い致すのでござる」
「ははあ、なるほど、よくわかってござる」
 銀之丞は腕をくんだ。「さてこれはどうしたものだ。自分は能役者で剣客ではない。それに当分剣の方は、封じることにきめている。それに見たところこの老人、善人とはいうがアテにはならぬ。その上相手の市之丞というは、小太刀の名人だということである。うかうか助太刀して切られでもしたら、莫迦(ばか)を見る上に外聞も悪い。これは一層断わった方がいいな。……だが両刀を手挾(たばさ)む身分だ、見込んで頼むといわれては、どうも没義道(もぎどう)に突っ放すことは出来ぬ。どうもこれは困ったぞ。……いや待てよ、この老人には、美しい娘があった筈だ。こんなことから親しくなり、恋でもうまく醸(かも)されようものなら、こいつとんだ儲けものだ。といって誘惑するのではないが、だが美人と話すのは、決して悪いものではない。第一生活に退屈しない。よしきた、一番ひき受けてやれ」
 そこで彼は元気よくいった。
「よろしゅうござる、助太刀しましょう」

    厳重を極めた邸の様子

「もうこうなりゃア謡なんか、どうなろうとままのかわだ。面白いのは恋愛だ! 恋よ恋よ何んて素敵だ!」
 これが銀之丞の心境であった。
 つまり彼は九郎右衛門の娘、お艶(つや)というのと恋仲になり、楽しい身の上となったのであった。
 だがしかし恋の描写は、もう少し後に譲ることにしよう。

 助太刀の依頼に応じてからの、観世銀之丞というものは、九郎右衛門の別荘へ、夜昼となく詰めかけた。
 彼の眼に映った別荘は、まことに奇妙なものであった。まずその構造からいう時はきわめて斬新奇異なもので、宅地の真ん中と思われる辺に、平屋造りの建物があった。一番広大な建物で、城でいうと本丸であった。ここには九郎右衛門の肉親と、その護衛者とが住んでいた。その建物の真ん中に、一つの大きな部屋があった。九郎右衛門の居間であった。あらゆる珍奇な器具類が、隙間もなく飾ってあった。すなわち過ぐる夜偶然のことから、銀之丞がこの家を訪れた時、呼び込まれたところの部屋であった。その部屋は四方厚い壁で、襖や障子は一本もなく、壁の四隅に扉を持った、四つの出入り口が出来ていた。そうして四つのその口からは、四つの部屋へ行くことが出来た。
 さてその四つの部屋であるが、東南にある一室には、九郎右衛門の病身の妻、お妙(たえ)というのが住んでいた。またその反対の西南の部屋には、娘のお艶が住んでいた。さらに東北の一室には、これも病身の伜の六蔵が、床についたままで住んでいた。最後の西北の一室には、別荘番の丑松と、護衛の男達が雑居していた。
 以上五つの部屋によって、本邸の一郭は形作られていたが、それら部屋部屋の間には、共通の警鐘(けいしょう)が設けられてあって、異変のあった場合には、知らせ合うことになっていた。
 この本邸を囲むようにして、独立した四つの建物があった。城でいうと出丸に当たった。これも低い平屋づくりで、本邸と比べては粗末であったが、しかし牢固(ろうこ)という点では、むしろ本邸に勝っていた。四つとも同じような建て方で、その特色とするところは、矢狭間(やざま)づくりの窓のあることと、四筋の長い廻廊をもって、本邸と通じていることとであった。そうして本邸との間には、共通の警鐘が設けられてあった。
 別荘の人達はこれらの建物を、四つの出邸(でやしき)と呼んでいた。この四つの出邸には、いずれも屈強な男達が、三十人余りもこもっていた。すなわち警護の者どもであった。
 なおこの他にも厩舎(うまごや)とかないしは納屋とか番小屋とか細々(こまごま)しい建物は設けられていたが目ぼしい物は見当たらなかった……構内を囲んだ堅固な土塀。土塀の外側の深い堀。堀にかけられた四筋の刎ね橋。そうして邸内至る所に、喬木が林のように立っていた。南にあるのが表門で、北にあるのが裏門であった。その裏門を半町ほど行くと、大洋の浪岩を噛む、岩石峨々(がが)たる海岸であり、海岸から見下ろした足もとには、小さな入江が出来ていた。入江の上に突き出しているのが、象ヶ鼻という大磐石(だいばんじゃく)であった。

    観世銀之丞人数をくばる

「人数は全部で五十人、このうち女が十人いる。非戦闘員としてはぶかなければならない。九郎右衛門殿と六蔵殿とは、不具と病人だからこれも駄目だ。正味働けるのは三十八人だが、このうちはたして幾人が武術の心得があるだろう?」
 それを調べるのが先決問題であった。で、ある日銀之丞は、それらの者どもを庭に集めて、剣術の試合をさせて見た。準太、卓三、千吉、松次郎、そうして丑松の五人だけは、どうやら眼鼻がついていた。
「俺を加えて六人だけは、普通に働けると認めていい。よし、それではこの連中を、ひとつ上手に配置してやろう」
 そこで銀之丞は命令した。
「準太は八人の仲間(ちゅうげん)をつれ東南の出邸(でやしき)を守るがいい。卓三も八人の仲間をつれ東北の出邸を守るがいい。千吉も松次郎も八人ずつつれて、西北と西南の出邸とを、やはり厳重に守るがいい。俺と丑松とは二人だけで、邸の警護にあたることにしよう。……敵の人数は多くつもって、百人内外だということである。味方よりはすこし多い。しかし味方には別荘がある。この厳重な別荘は、優に百人を防ぐに足りる。で油断さえしなかったら、味方が勝つにきまっている。ところで夜間の警戒だが、各自(めいめい)の組から一人ずつ、屈強の者を選び出して、交替に邸内を廻ることにしよう。そうして変事のあったつど、警鐘を鳴らして知らせることにしよう。どうだ、異存はあるまいな?」
「なんの異存なぞございましょう」
 こうして邸内はその時以来、厳重に固められることとなった。
 親しく一緒に暮らして見て、九郎右衛門という人物がはじめの考えとは色々の点で、銀之丞には異(ちが)って見えた。彼には最初九郎右衛門が、足こそ気の毒な不具ではあるが、体はたっしゃのように思われた。ところが九郎右衛門は病弱であった。肥えているのが悪いのであり、血色のよいのがよくないのであった。彼は今日の病名でいえば、動脈硬化症の末期なのであった。いやそれよりもっと悪く、すでに中風の初期なのであった。
 それから銀之丞は九郎右衛門を、最初悪人だと睨んだものであった。しかしそれも異っているらしい。なかなか立派な人物らしい。敢為冒険(かんいぼうけん)の精神にとんだ、一個堂々たる大丈夫らしい。そうして珍奇な器具類や、莫大もない財産は、壮年時代の冒険によって、作ったもののように思われた。とはいえどういう冒険をして、それらの財産を作ったものかは、九郎右衛門が話さないので、銀之丞には解らなかった。
 それからもう一つ重大なことを、銀之丞は耳にした。というのは他でもない、九郎右衛門の財産なるものが、予想にも増して豪富なもので、別荘にあるところの財産の如きは、全財産から比べれば、百分の一にも足りないという、そういう驚くべき事実であって、そうしてそれを明かしたのは、別荘番の丑松であった。
「……つまりそいつをふんだくろうとして、市之丞めとその徒党が、ここへ攻め込んで来るんでさあ。が、そいつは見つかりッこはねえ。何せ別荘にはないんだからね。それこそ途方もねえ素晴らしいところに、しっかり蔵(しま)ってあるんだからね」
 その丑松はこの邸では、かなり重用の位置にいた。九郎右衛門も丑松だけには、どうやら一目置いているらしかった。年は三十とはいっているけれど、一見すると五十ぐらいに見え、身長(たけ)といえば四尺そこそこ、そうして醜いみつくちであった。
 彼はいつも象ヶ鼻の上から、入江ばかりを見下ろしていた。
 この家で一番の不幸者は、お艶の弟の六蔵であった。それは重い心臓病で、死は時間の問題であった。それに次いで不幸なのは、六蔵達の母であった。良人(おっと)の強い意志のもとに、長年の間圧迫され、精も根も尽きたというように、いつもオドオドして暮らしていた。

    妖艶たる九郎右衛門の娘

 この中にあってお艶ばかりは、太陽のように輝いていた。美しい縹緻(きりょう)はその母から、大胆な性質はその父から、いずれも程よく遺伝されていた。そうして彼女の美しさは、清楚ではなくて艶麗であった。もし一歩を誤れば、妖婦になり兼ねない素質があった。肉付き豊かなそのからだは、雪というより象牙のようで、白く滑らかに沢(つや)を持っていた。涼しい切れ長の情熱的の眼、いつも潤おっている紅い唇、厚味を持った高い鼻、笑うたびに靨(えくぼ)の出る、ムッチリとした厚手の頬……そうして声には魅力があって、聞く人の心を掻きむしった。
 いつぞや駕籠から顔を出し、ニッと銀之丞へ笑いかけたのは、このお艶に他ならない。
 そうして丑松をそそのかし、例の「あ」と「い」の紙飛礫(かみつぶて)を、投げさせたのも彼女であった。彼女にいわせるとその「あい」は、「愛」の符牒だということであった。つまり彼女は銀之丞に、一目惚れをしたのであった。そうしてそういう芝居染みた、大胆不敵な口説き方をして、思う男を厭応なしに、引き付けようとしたのであった。
 ところが人々の噂によると、その美しいお艶に対し、醜いみつくちの丑松が、恋しているということであった。これはもちろん銀之丞の心を、少なからず暗くはしたけれど、しかし信じようとはしなかった。「まさか」と彼は思うのであった。
 銀之丞ほどの人物も、お艶の美しさには勝てなかった。近代的の人間だけに、お艶のような変り種には、一層心を引き付けられた。強烈な刺戟、爛(ただ)れた美、苦痛にともなう陶酔的快楽! そういう物にあこがれる彼には、お艶のような妖婦型の女は、何よりも好もしい相手であった。
 で、彼は文字通り、恋の奴隷となり下がってしまった。
 やがて初冬がおとずれて来た。岸に打つ浪が音を高め、沖から吹いて来る潮風が、肌を刺すように寒くなった。銚子港の寂れる季節が、だんだん近寄って来たのであった。
 敵は襲って来なかった。で別荘は平和であった。無為(むい)の日がドンドンたって行った。
 とはいえその間怪しいことが、全然なかったとはいわれなかった。ある朝、どこから投げ込んだものか、一通の手紙が東側の、出邸の畔(ほとり)に落ちていた。書かれた文字は簡単で、「図面を渡せ」とあるばかりであった。でもちろん銀之丞には、なんのことだかわからなかった。だがしかし九郎右衛門には、恐らくその意味がわかったのであろう、さっとばかりに顔色を変えた。それから数日たった時、またも手紙が投げ込まれた。「鍵を渡せ」というのであった。
「いよいよ敵が逼(せま)って来た。警戒警戒、警戒しなければならない」
 九郎右衛門はこういった。しかしその後は変ったこともなく、またも無為に日が経った。と、またもや一通の手紙が邸の内に落ちていた。
「観世銀之丞よ。早く立ち去れ」
 こうその手紙には書いてあった。
 これには銀之丞も仰天したが、しかし恐れはしなかった。
「うん、面白い、張り合いがある」かえってこんなように思ったものであった。
 変な様子をした二、三人の者が、邸の周囲をさまよったり、夜陰堀の中へ石を投げたり、突然大勢の笑い声が、明け方の夢を驚かしたり、そういったような細々しい変事は、幾度となく起こっては消えた。
 だが攻めては来なかった。で、邸内の人々は、次第にそれに慣れて来た。だんだん油断をするようになった。
 お艶とそうして銀之丞との恋は、この間にも進歩した。
 ところで二人のその恋を、快く思わない人間が、邸の内に一人あった。醜い例の丑松で、彼は内々蔭へまわっては、二人の悪口をいうらしかった。しかし恋する二人にとっては、そんなことは苦にもならず、問題にしようともしなかった。
 こうしてまた日が経って、やがて初雪が降るようになった。

    深い深い水の底で重々しく開いた扉の音

 そのうちだんだん銀之丞に、ある疑問が湧くようになった。
「それにしてもゆうちょうな敵ではないか。いつ攻めて来るのだろう? それに邸内の人達も、変に最近ダレて来た。全体が一向真剣でない」
 一つの疑いは二つの疑いを呼ぶ。
「邸内の構造も不思議なものだ。どうもなんとなく気味がわるい。そういえば主人の九郎右衛門にも、変に隠すようなところがある。それに素晴らしい珍器異具、どうも少々異国的に過ぎる。若い時代の冒険によって、蒐集(しゅうしゅう)したのだといわれてみれば、そんなようにも思われるが、しかしそれにしても怪しいところがある。……わけても最も怪しいのは、象ヶ鼻という大磐石だ。決して人を近寄らせない。そうしていつも丑松めが、恐ろしい様子をして頑張っている」
 こう思って来ると何から何まで、怪しいもののように思われてならない。
「そういえば娘のお艶の恋も、大胆なようでよそよそしい」
 しまいには恋をまで疑うようになった。
「よし、ひとつ心を入れ替え、邸内の様子を探ることにしよう。」
 彼は態度を一変させた。この時までは全力を挙げて、邸のために尽くしたものであった。その時以来はそれとはあべこべに、自分をすっかり邸から放し、第三者として観察することにした。
 するとはたして心得ぬことが、続々として起こって来た。例えば深夜こっそりと、邸内多数の人間が、象ヶ鼻の方へ出て行ったり、ある夜の如きは燈火を点けない、大型の一隻の帆船が、どこからともなく現われて来て、象ヶ鼻の真下の小さい入江へ、こっそり碇(いかり)を下ろしたりした。
「怪しい怪しい」
 と、銀之丞は、いよいよその眼をそばだてた。
 しかしこれらはよい方であった。そのうちとうとう銀之丞は、恐ろしいことを発見した。
 というのは他でもない。四つの出邸を繋いでいる廊下が、十字形をなしていることであった。
「おおこれは十字架の形だ!」
 つづいて連想されたのは、ご禁制吉利支丹(キリシタン)のことであった。
「ううむ、それではこの邸は、邪教の巣窟ではあるまいか」
 さすがの彼もゾッとした。
「これは大変だ。逃げなければならない」
 しかし逃げることは出来なかった。
 出邸にこもった数十人の者が、夜も昼も警戒していた。
「ああこれこそ自縄自縛だ。出邸に人数を配ったのは、他でもないこの俺だ。その人数に見張られるとは、なんという矛盾したことだろう」
 止どまっていることは破滅であった。しかし脱出は不可能であった。ではいったいどうしたらいいのか?

 銀之丞の様子の変ったことに、彼らが気づかない筈がない。
 ある夜丑松と九郎右衛門とが、九郎右衛門の部屋で囁(ささや)いていた。
 何をいったい囁き合ったのか? 何をいったい相談したのか? それは誰にもわからなかった。とはいえ、いずれ恐ろしいことが、囁きかわされたに相違ない。その証拠にはその夜以来、銀之丞の姿が見えなくなった。空へ消えたのか地へ潜ったのか、忽然姿が消えてしまった。

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