銀三十枚
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著者名:国枝史郎 

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「これはおかしい」と私は云った。
「銀三十枚の持主といえば、彼女以外にはありそうもない。そいつを請求出来る者は、佐伯準一郎氏の他にはない。だが佐伯氏は殺されている。誰が請求しているのだろう?」
 新聞の来るのが待たれるようになった。数日経った新聞に、同じような広告が掲げられてあった。
「銀三十枚の持主に告げる。銀三十枚を郵送せよ。報酬として二万円を与う」
「報酬金が倍になった」
 私の興味は加わった。
 数日経った新聞に、同じような広告が載っていた。
「銀三十枚の持主に告げる。十二使徒だけを郵送せよ。報酬として三万円を与う」
「十二使徒だけを送れという。深い意味があるらしい。だが私には解(わか)らない」
 数日経った新聞に、同じような記事が載せてあった。
「銀三十枚の持主に告げる。十二使徒だけを郵送せよ。報酬として五万円を与う」
「報酬金が五万円になった」
 私の興味は膨張した。
 と、また新聞へ広告が出た。
「銀三十枚の持主に告げる。貴女の住居を突き止めた。貴女は東区に住んで居る。十二使徒だけを郵送せよ。もはや報酬は与えない」
「これは不可(いけ)ない」と私は云った。
「この言葉には脅迫がある。さあ彼女はどうするだろう?」
 と、また新聞へ広告が出た。
「銀三十枚の持主に告げる。銀三十枚を郵送せよ。詐欺師の運命となるなかれ」
「これは恐ろしい脅迫だ!」
 私はじっと考え込んだ。
「だが真相はこれで解った。広告主が持主なのだ。貨幣の本(もと)の持主なのだ。それを盗んだのが佐伯氏だ。それで佐伯氏の放免を待ち受け、殺して貨幣を取ろうとしたのだ。殺すことには成功したが、取り返すことには失敗した。それは当然と云わなければならない。持っている人間が佐伯氏でなくて、全然別の彼女だったからな。そこでその人は賞を懸けて、貨幣すなわち銀三十枚を、取り返そうと試みたのだ。そうして一方手を尽くして、貨幣の持主を探したのだ。そうして彼女を目つけ出したのだ。……浮雲(あぶな)い浮雲い彼女は浮雲い!」
 私の心は動揺した。
「国際的詐欺師の佐伯氏でさえ、容易に殺した人間だ。彼女を殺すぐらい何でもなかろう」
 ポッと私の眼の前に、彼女の死骸が浮かんで来た。
「これはうっちゃっては置かれない」
 私は急いで下宿を出た。俥(くるま)に乗って駈け付けた。公園を横切り町へ出た。
 彼女の家へ駈け込んだ。
 彼女は書斎に腰かけていた。彼女の顔は蒼白であった。銀三十枚が卓(テーブル)の上にあった。
 私はツカツカと入って行った。
 フッと彼女は眼を上げた。ゾッとするような眼付きであった。
「もう不可(いけ)ない」と私は云った。
「返しておしまい! 返しておしまい!」
「売りましょう! 売りましょう! 白金(プラチナ)を!」
 ひっ叩くように彼女は云った。
「持っていなければいいのだわ」
 彼女はフラフラと書斎を出た。電話を掛ける声がした。
 貴金属商へでも掛けるのだろう。
 彼女は書斎へ帰って来た。私と向かって腰を掛けた。だが一言も云わなかった。時々ギリギリと歯軋りをした。
 貴金属商の遣(や)って来たのは、それから一時間の後であった。
 一枚の貨幣を投げ出した。ソロモンのマークの貨幣であった。
 商人は貨幣を一見した。
「これは贋金でございますよ」
「莫迦をお云い!」と彼女は呶鳴った。
「以前一枚売ったんですよ。二つと世界にない質のいい白金! こう云って大金で買ってくれたのに!」
「本物だったのでございましょう。貴女のお売りになった白金は。これは白金ではございません」
 商人の言葉は冷淡であった。
「いいのよいいのよそうかもしれない。たくさんあるのよ。白金はね。一枚ぐらいは贋金かもしれない。これはどう? この貨幣は?」
 彼女はもう一枚投げ出した。ダビデのマークの貨幣であった。
「これも贋金でございます」
 商人の答えは冷淡であった。
 私と彼女とは眼を見合わせた。
「ふん、そうかい。贋金かい、白金はたくさんあるんだよ。二枚ぐらいは贋もあろうさ」
 彼女は努めて冷静に云った。
「これはどうだろう! この貨幣は?」
 また一枚を投げ出した。使徒ポーロのマークの付いた、ぴかぴか光る貨幣であった。
「これは贋金じゃアあるまいね?」
 商人は手にさえ取らなかった。
「やはり贋金でございますよ」
「いいわ」と彼女は呻くように云った。
 革財布を逆さにした。全部の白金を吐き出した。
「幾枚あるの? 本物は?」

23

 商人は一渡り眼を通した。上唇を綻ばせた。
「みんな贋金でございますよ」
「お帰り!」と彼女は呶鳴り付けた。
 商人は冷笑して帰って行った。
「いえあいつは廻し者よ! 例の悪党の広告主、ええ、そいつの廻し者よ! 贋金だ贋金だと嘘を吐き、かっさらって行こうとしたんだわ! そんな古手に乗るものか! 電話ではいけない、行って来ましょう。行って店員を引っ張って来ましょう。信用のある金属商の、鑑定に達した店員をね」
 彼女は書斎を飛び出した。電話をかける声がした。タクシを呼んでいるらしい。
 間もなくタクシがやって来た。
 彼女は乗って出て行った。
 私は黙然と腰掛けていた。
「彼女はひょっとすると狂人(きちがい)になるぞ」
 私はしばらく待っていた。
「この家には用はないはずだ。一応の忠告! それだけでいいのだ。聞くか聞かないかは彼女にある。……贋金であろうと本物であろうと、私には大して関係はない」
 で、私は下宿へ帰った。

 数日経った新聞に、次のような広告が掲げてあった。
「銀二十九枚の送主に告げる。貴女は非常に聡明であった。イスカリオテのユダを残し、後を郵送してよこしたことは、我等をして首肯せしめ微笑せしめた。安心せよ。危害を加えず」
「ついに彼女は郵送したと見える。イスカリオテのユダの付いた、一枚の貨幣を送らなかったのは、以前売ったからに相違ない」
 とにかく私はホッとした。
「だが彼女は貧乏になった。もうあの家には住めないかもしれない」
 ある日私はこっそりと、彼女の家の方へ行って見た。家には貸家札が張ってあった。
「予想通りだ」と私は云った。
「流浪の旅へでも出たのだろう」
 私は安心と寂しさを感じた。彼女とは永遠に逢えないだろう。こう思われたからであった。
 間もなく春が訪れて来た。
 やがて晩春初夏となった。
 彼女に目つかる心配はなかった。自由に散歩をすることが出来た。事の過ぎ去った後において、その事のあった遺跡を尋ね、思い出に耽るということは、作家には好もしいことであった。で私は公園へ行き、首を釣りかけた木へ触れたり、佐伯氏と逢ったロハ台に、腰を掛けて考えたりした。
 菖蒲(あやめ)の花の咲く季節、苺が八百屋へ出る季節、この季節を私は愛する。
 だんだん私は健康になった。

 ある日久しぶりでK博士を訊ねた。
 博士は有名な法医学者で、そうして探偵小説家であった。
 その日も書斎で物を書いていた。
 私はそこで話し込んだ。
 と、博士が不意に云った。
「汎猶太(はんユダヤ)主義の秘密結社、フリーメーソンリイの会員達が、大分日本へ入り込みましたね」
「ああ左様でございますか」
「倫敦(ロンドン)タイムスで見たのですが、彼等の大切な秘密文書を、ある日本人に盗まれたので、それを取り返しに来たのだそうです」
 私はちょっと興味を持った。

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「それが大変探偵的なのです」
 博士はいくらか小声になった。
「少し詳しく話しましょう。実は私は趣味として、フリーメーソンリイの内情を、調べたことがありましたのでね。今お話しした秘密文書ですが、紙に書かれてはいないのだそうです。三十枚の白金(プラチナ)貨幣、その紋章のどの辺りかに、巧妙な図案式文字をもって彫み込んであるのだということです。ところで貨幣の紋章ですが、旧約聖書と新約聖書、その中に出て来る人物を、三十人だけ選択し、打ち出してあるということです。基督(キリスト)はじめ十二使徒などは、勿論入っているのですね。その中とりわけ大事なのは、ユダを抜かした十一人の使徒を、打ち出した所の貨幣だそうです。だがまあこれはいいとして、面白いのはその貨幣が、一枚を抜かして二十九枚は、白金ではなくて贋金なのだそうです。つまり勿体を付けるために、白金のようには作ってあるものの、中味は鉛か何かなのですね。ところが盗んだ日本人ですが、そんなこととは夢にも知らず、本物の素晴らしい白金だと、こう思って盗んで来たらしいのです」
「ははあ」と私は微笑して云った。
「本物の白金の貨幣というのは、ユダを紋章に打ち出した、その貨幣ではないでしょうか」
「おや、どうしてご存知です」
 博士はさもさも驚いたように、
「仰せの通りそうなのですよ」
「だがどうしてその貨幣だけを、本物の白金で作ったのでしょう?」
「つまりフリーメーソンリイは、虚無思想家の集りなんです。で彼等の守護(まもり)本尊は、イスカリオテのユダなんですね。本尊を贋金で作っては、どうもちょっと勿体ない、こういう意味からそれだけを、非常に高価な白金で、作ったのだということです。だが真偽は知りませんよ、伝説的の話ですから」
 私はそこで考えた。私の経験した物語を、博士の耳に入れようかしらと。……だが私は止めることにした。自慢の出来る物語ではなし、又その物語を語ることによって、消え去った不幸な私の妻を、辱しめる事を欲しなかったから。
 それからしばらく世間話をして、私は博士の邸を辞した。
 私には一つの疑問があった。
「すくなくも彼女はユダだけは、本物の白金だということを、心得ていて売ったのかしら? それとも偶然その貨幣を……」
「そんな事はどうでもいい」と私はすぐに打ち消した。
「一切過ぎ去ったことではないか。どうあろうと関係(かかわり)はない」

 下宿生活が不便になった。
「郊外へ小さな家でも借り、自炊生活でもやることにしよう」
 私は借家を探し出した。
 児玉町の方へ行って見て、旧居の前へ差しかかった。もう人が入っていた。これは当然なことであった。私には何となく懐しかった。しばらく佇んで見廻した。
「おや」と私は思わず云った。
 表札に私の名が書かれてあった。私の文字で一條弘と。
「おかしいなあ、どうしたんだろう?」
 格子の内側に障子があり、障子には硝子(ガラス)が嵌め込んであった。ちょっと不作法とは思ったが、家の中を覗いて見た。
「おや」と私はまた云った。
 見覚えのある長火鉢の横に、見覚えのある一人の女が、寂しそうにちんまりとかしこまり、縫物をしているではないか。人の気勢(けはい)を感じたのであろう、女はフッと顔を上げた。
「粂子!」と私は声を上げた。
 と、女はスッと立った。私は無意識に表戸を開けた。
 彼女は土間に立っていた。
 私は胸に重さを感じた。彼女の顔がそこにあった。私は両肩を締め付けられた。彼女の腕が締め付けたのであった。
 彼女の口から啜り泣きが洩れた。
「妾(わたし)は信じて居りましたのよ。きっときっといらっしゃるとね。ええ帰っていらっしゃるとね。……待っていたのでございますわ。……信じて下さいよ。ねえ妾を! 妾は純潔でございますの」
 彼女は眼を上げて私を見た。で、私も彼女を見た。
「その眼がその眼である限りは、彼女の純潔は信じてよい」
 そういう眼を彼女は持っていた。昔ながらに、依然として。

 彼女の態度が一変し、バンプ型の女になったのには、大した意味はなかったのであった。そういう振舞いをすることによって、彼女は精神を大胆にし、そうして容貌を妖艶にし、そうして動作を高尚にし、それを武器として大詐欺師に対向(あた)り、大詐欺師をして屈伏せしめ、白金(プラチナ)三十枚を詐欺師の手から、巻き上げようとしたのであった。
 そうとも知らずに煩悶した私は、要するに馬鹿者に過ぎなかったのであった。
 で、結果はどうだったかというに、彼女の勝利に帰したのであった。
 これは当然と云わなければならない。敵を瞞ますには味方を計れ、こういう考えからしたことではあろうが、ともかくも良人(おっと)の私をして、一度は死をさえ覚悟させたほど、深刻な放縦な行動をとって、心身を鍛えた彼女であった、たかが詐欺師なんかに負けるはずはなかった。
 佐伯準一郎氏は恭しく、銀三十枚を彼女に献じた。
 そうしてその帰路不幸にも、フリーメーソンリイの会員に、暗殺されてしまったのであった。――佐伯氏を追って行った二人の外人、あれが下手人に相違あるまい。

25

 私達は一緒に住むことになった。
 最初のうちは変なものであった。何となくチグハグの心持であった。だがそのうちに慣れて来た。
 次第に二人は幸福になった。
 彼女は昔の彼女になった。相変わらず私をあやしたりした。剽軽なことを云ったりした。
「今日は風が吹きますのよ。冬のように寒い風がね。まきまきするのよ、まきまきをね」
 襟巻を巻けというのであった。
「たあたを穿くのよ。ね、たあたを」
 足袋を穿けというのであった。
 ある時私はこう云って訊いた。
「誰かと公園で媾曳をしたね。刑事が淫売婦だと云っていたよ」
「え、したのよ。県知事さんと」
 大変サッパリした返辞であった。――それだから私には安心であった。
「お前は知っていて売ったのかい? ユダの紋章のある貨幣だけは、すくなくも本物の白金(プラチナ)だと」
「いいえ」と彼女は笑いながら云った。
「あのユダという人間が、一番厭らしい顔付きでしょう、それで妾売ったのよ」
「なるほど」と私は胸に落ちた。
「そうだすくなくもイスカリオテのユダは、女や小供には喜ばれない、そういう顔の持主だ」
 私達二人は平和であった。
 しかし私は時々思った。
「キッスぐらいは許したかもしれない」
 だが直ぐ私は思い返した。
「いいではないかキッスぐらいは、私だってこれまでいろいろの女に、随分唇を触れたではないか」
 穏かに時が流れて行った。
 ここに一つ残念なことには――だが良人たる私にとっては、かえってひどく安心な事には、――彼女の容色がにわかに落ちた。
 それは苦労をしたからであった。
 いつも重荷を担いでいる、田舎の百姓の女達が、早くその美を失うように、彼女も重荷[#「重荷」は底本では「荷重」]を担いだため、俄然縹緻(きりょう)を落としてしまった。
 精神的にしろ肉体的にしろ、あんまり重荷を担ぐことは、不為(ふため)のように思われる。
 私も随分苦労をした。
 年より白髪の多いのは、重荷を担いだ為であった。
 彼女のおデコが目立って来た。下手な義歯が目立って来た。身長(せい)も高くはなくなった。
 だがそれも結構ではないか。
 美しい妻を持っていることは、胆汁質でない良人にとっては、決して幸福ではないのだから。
 だが勿論将来といえども、いろいろ彼女は失敗を演じて、私を苦しめるに相違ない。
 だが恐らく「伯爵ゴッコ」をして、苦しめるようなことはないだろう。
 真夏が来、真夏が去った。[#底本ではここで改段]
 二人の生活には変わりがなかった。

 何でもないことだが云い落とした。
 佐伯準一郎氏の旧宅へ、何のために彼女は越したのだろう?
 やはりそれも佐伯氏を、威嚇するための策だったそうな。




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