銀三十枚
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著者名:国枝史郎 

「尼寺なものか、極楽だ! マリア・マグダレナは極楽へ飛んだ」
 私は大声で笑おうとした。が反対に胴顫いがした。
「だが、予定の行動を」
 私は踵を返そうとした。
「お神さんえ、どうぞ一文、よし、俺は乞食になろう!」
「もし」とその時呼ぶ声がした。
 側(そば)に小男が立っていた。
「へえへえ」と私は手を揉んだ。
「旦那様え、何かご用で?」
 乞食の稽古をやり出した。

17

「貴郎はここのご主人で?」
 その洋服の紳士は云った。
「へえへえ左様で、昔はね。今は立ん棒でございますよ」
 その紳士は微笑した。
「奥様からのお伝言(ことづけ)で。あるよい家が目つかりましたので、昨日(きのう)お移りなさいましたそうで。それで、お迎えに参りました」
「一体貴郎様はどういうお方で?」
「へい、タクシの運転手で」
「すぐ載っけろ! 馬鹿野郎!」
街(ちまた)に落つる物の音
雨にはあらで落葉なる
明るき蒼き瓦斯(ガス)の燈(ひ)に
さまよう物は残れる蛾
 廃頽詩人ヴェルレイヌ、卿(おんみ)だけだ! 知っている者は! 秋の呼吸(いぶき)を、落葉の心を、ひとり死に残った蛾の魂を。
 私のタクシは駛(はし)っていた。
 街路樹がその葉をこぼしていた。人々は外套を鎧っていた。寒そうに首をすっ込めていた。冬がそこまで歩いて来ていた。白無垢姿の冬であった。
「俺も長い間苦しんだなあ」
 クッションへ蹲(うずくま)って考えた。
「もう堪忍してくれないかなあ」
 私はじっと瞑目した。
「でなかったら葬ってくれ。落葉がいいよ、朴(ほう)の落葉が」
 私のタクシは駛っていた。
「泣けたらどんなにいいだろう」
 おずおず眼をあけて車外(そと)を覗いた。
 そこは賑かな広小路であった。冬物が飾り窓に並べられてあった。それを覗いている女があった。寒そうに髱(たぼ)[#ルビの「たぼ」は底本では「たば」]がそそけ立っていた。巨大な建物の前を過ぎた。明治銀行に相違なかった。地下室へ下りて行く夫婦連があった。食堂で珈琲(コーヒー)を啜るのだろう。また巨大な建物があった。旧伊藤呉服店であった。タクシはそこから右へ曲った。少し町が寂しくなった。タクシは大津町を駛って行った。私はまたも瞑目した。
 立派な屋敷の前へ来た。自動車から下りなければならなかった。厳めしい門が立っていた。黒板壁がかかっていた。
 運転手は一揖した。
「はい、お屋敷へ参りました」
 私は無言で表札を見上げた。一條寓と記されてあった。
 潜戸(くぐり)を開けて入って行った。玄関まで八間はあったろう。スベスベの石畳が敷き詰めてあった。しっとりと露が下りていた。高い松の植込みがあった。
「家賃にして三百円!」
 譫言(うわごと)のように呟いた。
 私は玄関の前に立った。
 と、障子がスーと開いた。
 妻か? いやいや知らない婦人が、恭しく手をついてかしこまっていた。
「旦那様お帰り遊ばしませ」
 女は島田に結っていた。
「……で、貴女は?」と私は訊いた。
 自動車の帰って行く音がした。
「はい、妾(わたくし)、小間使で」
 私はヌッと玄関を上った。
「うん。ところで山神(やまのかみ)は?」
 直ぐ左手に応接間があった。その扉(ドア)が開いていた。それは洋風の応接間であった。
「あの、お寝みでございます」
「伯爵夫人はお寝みか」
 私は応接間へ入って行った。
 一つの力に引き入れられたのであった。
 その応接間には見覚えがあった。
 佐伯準一郎氏の応接間であった。

18

 爾来私達はその家に住んだ。

 彼女は依然として出歩いた。あたかもそれが日課のように。
 彼女は入念にお化粧をした。あたかもそれが日課のように。
 毎朝牛乳で顔を洗った。
 とりわけ爪の手入れをした。これにはもっともの理由(わけ)があった。他がどんなに綺麗でも、爪に一点の斑点(しみ)があったら、貴族の婦人とは見えないからであった。
 彼女は耳髱(みみたぶ)に注意した。耳髱はいつもピンク色であった。それが彼女を若々しく見せた。
 彼女は踵に注意した。いつも円さと滑らかさと、花弁(はなびら)の色とを保っていた。
 耳の穴、鼻の穴に注意した。
 だが顔色は蒼白かった。それも彼女の好嗜からであった。血色のよい赦ら顔は、田舎者に間違えられる恐れがあった。都会の貴婦人というものは、蒼い顔でなければ面白くない。どうやら彼女は仏蘭西(フランス)あたりの、青色の白粉(おしろい)を使うらしい。
 臀部が目立って小さくなった。そうして腰が細くなった。彼女の姿勢は立ち勝って来た。
 肌が真珠色に艶めいて来た。それは冷たそうな艶であった。
 肌理(きめ)が絹のように細かくなった。
 きっと滑らかなことだろう。
 だが触れることは出来なかった。彼女がそれを断わるからであった。
 遥拝しなければならなかった。
 又その方がある意味から云って、私にとっても幸せであった。うっかり障(さわ)って手が辷って、転びでもしたら困るからであった。
「ああ彼女には洋装が似合う」
 ある時私はつくづく云った。決して揶揄的の讃辞ではなかった。
 その心配は無用であった。
 翌日洋装が届けられた。肌色と同じ真珠色であった。
 それを着て彼女は出かけようとした。
 チラリと私の顔を見た。瞼を二度ばかり叩いて見せた。
 命ずるような眼付きであった。
 私は周章(あわて)て腰(こし)をかがめた。
 裳裾(もすそ)を捧げようとしたのであった。ひどく気の利く小姓のように。
 その配慮は無用であった。
 今日流行(はやり)の洋装は、長い裳裾などはないからであった。股の見えるほど短かいはずだ。
 時々彼女は私へ云った。
「高尚(ノーブル)にね。高尚にね。貴郎(あなた)もどうぞ高尚にね」
 で私は腹の中で云った。
「まだこの女は成り切れない。そうさ貴族の夫人にはな! 『高尚(ノーブル)にね、高尚にね、どうぞ御前様貴郎様もね、高尚にお成り遊ばしませ!』こう云わなけりゃアイタに付かねえ」
 この心配も無用であった。彼女はほんとに翌日から、遊ばせ言葉を使うようになった。
 もう贋物には見えなかった。
 生れながらのおデコさえ、どうしたものか目立たなくなった。
 下手に嵌め込まれた義歯(いれば)さえ、どうしたものか目立たなくなった。
 歯並の立派な誰かの歯と、きっと換えっこしたのだろう。
 彼女の身長(せい)は高かった。それが一層高く見えた。爪立ち歩く様子もないが。――姿勢のよくなったためだろう。
 彼女は毎日美食をした。洋食! 洋食! 油っこい物!
 勿論私へも美食を進めた。私はあまり食べなかった。
 一日に幾度も衣裳を変えた。しかも正式に変えたのであった。これも貴婦人の習慣であった。
 そうして私へもそれを進めた。
 私は心でこう叫んだ。
「謀叛人の女が良人(おっと)を進め、同じ謀叛人にしようとしている! マクベス夫人の心持だ!」
 そうして私には感ぜられた、悲痛なマクベスの心持が。
 彼女は定(き)まって一人で外出(で)た。どんな事があってもこの私と、連れ立って歩こうとはしなかった。
 良人のあるということを、隠したがっているらしかった。
 家財道具が新調された。黒壇細工! 埋木(うもれぎ)細工!
 植木屋が庭の手入れに来た。鋏の音が庭に充ちた。
 大工が部屋の手入れに来た。鉋の音が部屋に充ちた。
 屋敷が次第に立派になった。
「そうさ、伽藍(がらん)がよくなければ、仏像に価値(ねうち)がつかないからな」
 ある夕方自動車が着いた。
 彼女は洋装で出かけて行った。
 私は玄関まで従(つ)いて行った。それ、例の小姓のように。
 自動車は自家用の大型物であった。
 自動車の中に紳士がいた。顎鬚を撫して笑っていた。この市の有名な市長であった。
「ははあ誘いに来たのだな。大方ホテルへでも行くのだろう。夜会だな、結構なことだ。……俺は書生部屋で豚でもつつこう」
 だが一体どうしたことだ? 一晩も泊まっては来ないではないか。
 どんなに遅くとも帰って来た。
「遠慮はいらない。泊まっておいでよ」
 私は心で云ったものである。
「大方の貴婦人というものは、時々紳士と泊まるものだ。それも鍛練の一つじゃないか。何の私が怒るものか。また怒り切れるものでもない。第一お前はいつの間にか、絶対に私を怒らせないように、上手に仕込んでしまったではないか」

19

 それは初冬のある日であった。私は書斎の長椅子にころがり、氈(かも)にふかふかと包まれながら、とりとめのないことを考えていた。彼女はその日も留守であった。本当に「彼女」というこの言葉は、彼女にうってつけの言葉であった。彼女と私とは他人であった。……三人称で呼ぶべきであった。
「物質的には食傷している。精神的には空腹だ。これが現在の生活だ。変に跛者(びっこ)の生活だなア」
 私は氈を撫で廻した。
「この毛並の軟らかさ、朝鮮産の虎の皮、決して安くはなさそうだ。児玉町に住んでいた頃には、空想する事さえ許されなかった品だ。そいつにふかふかと包まれている。さて私よ。幸福かね?」
 そこで私は私へ答えた。
「悲しいことには幸福ではないよ」
 私は正面の壁を見た。勿論小品ではあったけれど、模写(コピイ)ではないマチスの本物が、似合の額縁に嵌められて、ちょうどいい位置に掛けられてあった。
「彼女が買って来た絵だろうか? それとも色眼の報酬として、某紳商(なにがししんしょう)の美術館から、かっぱらって来た絵だろうか? 本物のマチス、銀灰色の縁、狂いのない掲げ振り、よく調子が取れている。将しく彼女には審美眼がある。だが以前(むかし)の彼女には、すくなくともマチスに憧憬(あこが)れるような、そんな繊細な審美眼は、なかったように思われる。長足の進歩をしたものさなあ。もっとも驚くにはあたらない。彼女は伯爵夫人だからな」
 私はまたもや私へ云った。
「よろしい彼女は伯爵夫人だ。それはどうしても認めなければならない。ところでここに困ったことには、彼女が伯爵夫人なら、ともかくも良人たるこの私は、自然伯爵でなければならない。私よ、伯爵を引き受けるかね?」
 私は私へ云い返した。
「いいや私には荷が勝っているよ。けっきょく私は引き受けないよ。何故だと君は訊くのかい? 説明しよう。こういう訳だ。虹と宝石と香水と、こういう物に蔽われている、深い泥沼があったとしたら、誰だって住むのは厭じゃアないか。孑孑(ぼうふら)でない限りはね。ところで伯爵で居たかったら、そこに住まなければならないのだよ。と云うのは現在の生活が、その泥沼の生活だからさ」
 大して気の利いた譬喩でもなかった。
「まあさ、それはそれとして、彼女は伯爵夫人だのに、どうして料理人を雇わないのだろう?」
 私はこんな事を考え出した。
「二人の女中、一人の書生、五人ぐらしとは貧弱だなあ。夫人よ是非ともお雇いなさい。そうしたら私は献立を命ずる『安眠』という献立をね」
 私は安眠さえ得られなかった。

「助けて下さい! 助けて下さい!」
 依然として救いを求めていた。
 救ってくれるものがあるだろうか?
 あれば彼だ! 基督(キリスト)だ! だが現代の基督は、どんな姿で現われるだろう?
 私は漸時(だんだん)皮肉になった。私は漸時忍従的になった。だがいつも脅かされていた。
「きゃつは詐欺師だ、殺人犯ではない。五年か十年、刑期さえ終えたら、出獄するに相違ない。取りに来るぞ、銀三十枚! どうしたらいいのだ。返すことは出来ない! 彼女はその間に使ってしまうだろう」

 だが人間というものは、そのドン底まで追い詰められると、反動的勇気に駈られるものであった。ある日私は自分へ云った。
「基督を求めるには及ばない。他力本願は卑怯者の手段だ。自分のことは自分でするがいい」
 で私はすることにした。
 そこで私は「左様なら」と云った。
 直接彼女へ云ったのではなかった。泥沼の生活へ云ったのであった。
 そうして「左様なら」を実行した。大した勇気もいらなかった。ほんの簡単に実行された。
 何にも持たずに家出をし、お城近くの安下宿へ、私は下宿をしたのであった。
 お城の堀と石垣と、松との見える小さな部屋へ、私は体を落ちつけた。
 霧深い厳冬のことであった。
「彼女が驚こうが驚くまいが、私の知ったことではない。彼女が探そうが探すまいが。私の知ったことではない。とにかく私は彼女を捨た。私にとっては一飛躍だ」
 不思議と私の心の中は、ある平和が返って来た。ひどく苦しんだ人間だけが、感ずる事の出来る平和であった。
「ひょっとすると創作が出来るかもしれない」
 で私はペンを執って見た。楽にスラスラと書くことが出来た。思想と感情とが統一された。バラバラなものが纏まった。空想さえも湧いて来た。
「少しの努力をしさえしたら、昔の私になれるかもしれない。……書けさえすれば私はいいのだ」
 生活の上の不安はあった。しかし原稿が売れさえしたら、下宿代ぐらいは払えそうであった。
「贅沢な生活には懲りている。だからそれへの欲望はない。これは大変有難いことだ一つ一つ欲望を抑えて行って、うんと単純の生活をしよう」

20

 性慾の方も抑えることが出来た。
 私は長い間彼女のために「性のお預け」を食わされていた。いつの間にかそれが慣い性になった。それにもう一つ率直に云えば、私は異性に懲々(こりごり)していた。
「彼女のことを忘れなければならない!」
 これも困難ではなさそうであった。しかし努力と月日との、助けを借りなければならなかった。
 まずまず平和と云ってよかった。
 一人ぼっちの生活は、こうして静かに流れて行って、体も徐々に恢復した。神経も次第に強くなった。事件以前の私よりもかえって健康になれそうであった。
 規則正しい生活をした。早く起きて早く寝た。慣れるとそれにさえ興味が持てた。貧弱な下宿の食膳をさえ、三度々々食べることにした。慣れるとそれにさえ美味を覚えた。
 こっそり町を散歩した。精々珈琲店(カフェ)へ寄るぐらいであった。酒も煙草(たばこ)も廃(や)めてしまった。で、珈琲店では曹達(ソウダ)水を飲んだ。
「文字通りの清教徒さ」
 私は聖書を読むようになった。昔とは全然(まるで)異って見えた。こんな言葉が身に滲みた。
「貧しき者は福(さいわい)なり」「哀(かなし)む者は福なり」「柔和なる者は福なり」「矜恤(あわれみ)する者は福なり」「平和(やわらぎ)を求むる者は福なり」
「不思議だなあ」と私は云った。
「事件以前の私だったら、卑屈な去勢的言葉として、一笑に付してしまっただろうに、今の私にはそうは取れない」
「不思議ではない」と私は云った。
「苦しみ悩んだ基督の思想は、苦しんだ者でなければ解(わか)らない」
 そうして尚も私は云った。
「これは平凡な解釈だ。だが平凡でもいいではないか」
 私は一種の法悦を感じた。
「容易に私は動揺されまい」
 こんなようにさえ思うようになった。
 そうしてそれは本当であった。
 ある朝私は自分の部屋で、紅茶を淹(い)れて飲んでいた。
 私の前に新聞があった。一つの記事が眼を引いた。
「佐伯準一郎放免さる。理由は証拠不充分」
 私は動揺されなかった。しかし、
「さぞ彼女は驚いたろうなあ」と、彼女を愍(あわ)れむ心持は動いた。
 で私は呟いた。
「彼女よ。うまく切り抜けてくれ」
 決して皮肉でも何でもなかった。私は心から願ったのであった。彼女を憎む感情などは、いつの間にか私からなくなっていた。それとは反対に愍れみの情が、私の心に芽生えていた。
 翌日(あくるひ)私は散歩した。二月上旬の曇った日で、町には人出が少なかった。公園の方へ歩いて行った。公園にも人はいなかった。花壇にも花は咲いていなかった。ただ冬薔薇が二三輪、寒そうに花弁を顫わせていた。
 私はロハ台に腰を下ろした。佐伯氏と逢ったロハ台であった。音楽堂が正面にあり、裸体(はだか)の柱が灰色に見えた。
 と、誰か私の横へ、こっそり腰かける気勢(けはい)がした。プンと葉巻の匂いがした。私はぼんやりと考えていた。
「少しお痩せになりましたね」
 こう云う声が聞こえてきた。私はそっちへ顔を向けた。一人の紳士が微笑していた。毛皮の外套を纏っていた。それは佐伯準一郎氏であった。
「これはしばらく」と私は云った。
 私は動揺されなかった。ただまじまじと相手を見た。佐伯氏は変わってはいなかった。脂肪質の赧ら顔は、昔ながらに健康(たっしゃ)そうであった。永い未決の生活などを、経て来た人とは見えなかった。
「ただ今奥様とお逢いして来ました」
 相変わらず慇懃の態度で云った。
「今はちょうどその帰りで」
「ああ左様でございますか」
「貴郎(あなた)この頃お留守だそうで」
「ええ」と私は微笑した。
 急に佐伯氏は黙り込んだ。林の方をじっと見た。そっちから人影が現われた。それは逞(たくま)しい外人であった。
 不意に佐伯氏は立ち上った。それからひどく早口に云った。

21

「私は大変急いで居ります。くだくだしい事は申しますまい。いずれ奥様がお話ししましょう。……さて例の銀三十枚、あれを頂戴に上ったのでした。しかし奥様にお目にかかり、私の考えは変わりました。……進呈することに致しました。いえ貴郎にではありません。貴郎の奥様へ差し上げたので。……奥様は大変お美しい。そうして大変大胆です。何と申したらよろしいか。とにかく私は退治られました。色々の婦人にも接しましたが、奥様のようなご婦人には、お目にかかったことはございません。……で、私は申し上げます。ちっともご心配はいりませんとね。銀三十枚と私とは、今日限り縁が切れました。あれは貴郎方お二人の物です。もしもこれ迄あの金のために、ご苦労なされたと致しましても、今後はご無用に願います。……全く立派なご婦人ですなア。……今度こそ私は間違いなく、日本の国を立ち去ります。ご機嫌よろしゅう。ご機嫌よろしゅう」
 ロハ台を離れて大股に、町の方へ歩いて行った。
 と、二人の外人が、その後を追うように歩いて行った。
 噴水の向こうに隠れてしまった。
 私はロハ台から離れなかった。だが私は呟いた。
「ひとつ彼女を祝福しに行こう」
 それでもロハ台から離れなかった。
「大金が彼女の懐中(ふところ)へ入った。そのため私は行くのではない。……だが確かめて見たいものだ」
 私は公園を横切った。町へ姿を現わした。それから電車道を突っ切った。
 こうして彼女の家の前へ立った。門を入り玄関へかかった。
「案内を乞うにも及ぶまい」――で私は上って行った。
 書斎の扉(ドア)が開いていた。
 大きく茫然と眼を見開き、――白昼に夢を見ているような、特殊な顔を窓の方へ向け、彼女が寝椅子に腰かけていた。
 私は書斎へ入って行った。彼女の横へ腰を掛けた。しばらくの間黙っていた。
 沈黙が部屋を占領した。
 黙っていることは出来なかった。私は厳粛に彼女へ訊いた。
「話しておくれ。ねどうぞ。信じていいのかね、あの人の言葉を? 私はあの人に逢ったのだよ」
 だが彼女は黙っていた。ただ弛そうに身を動かした。非常に疲労(つかれ)ているらしかった。
 私は厳粛にもう一度訊いた。
「あの高価な白金(プラチナ)は、お前の物になったんだね。それを信じていいのだね?」
 すると彼女は頷いた。それから私の手を取った。彼女の両手は熱かった。そうして劇しく顫えていた。彼女の咽喉が音を立てた。どうやら固唾を飲んだらしい。
 私はその手を静かに放し、書斎を抜けて玄関へ出た。
「やっぱりいけない。この家は」
 私は門から外へ出た。
「彼女は一層悪くなった。……嬉しさに心を取り乱している。そいつが移ってはたまらない」

 依然として下宿で暮らすことにした。
 その翌日のことであった。
 何気なく私は夕刊を見た。
「佐伯準一郎惨殺さる。自動車の中にて。……原因不明」
 こういう記事が書いてあった。
「少し事件は悪化したな」
 さすがに私は竦然とした。
「彼女の仕業(しわざ)ではあるまいか?」
 ふと私はこう思った。
「昨日の佐伯氏のあの言葉は、どうも私には疑わしい。あれだけ高価の白金を、ああ早速にくれるはずがない。一度はくれると云ったものの、考え直して惜しくなり、取り返しに行ったのではあるまいか?」
 私は理詰めに考えて見た。
「銀三十枚を取り返すため、佐伯氏が彼女を訪問する。彼女はそれを返すまいとする。必然的に衝突が起こる。それが嵩ずれば兇行となる。彼女の性質なら遣りかねない」
 翌日の新聞が心待たれた。
 だが翌日の新聞には、下手人のことは書いてなかった。
「では彼女ではないのかしら?」
 私は幾分ホッとした。
「彼女に平和があるように」
 それでも私は気になった。二三日新聞を注意して読んだ。原因も下手人も不明らしかった。それについては書いてなかった。間もなく新聞から記事が消えた。
「これを流行語で云う時は、事件は迷宮に入りにけりさ。……だが大変結構だ」
 これも決して皮肉ではなかった。もしも彼女が下手人なら、一緒に住んでいたこの私も、必然的に渦中に入れられ、現在の穏かな生活を、破壊されるに相違ない。それは私の望みでなかった。それにもう一つ何と云っても、彼女は私の妻であった。その女の身に不幸のあるのは、私としては苦しかった。
 事件は迷宮に入った方がよかった。
 穏かな日が流れて行った。
 だが十日とは続かなかった。次のような広告が新聞へ出た。
「銀三十枚の持主へ告げる。△△新聞社迄郵送せよ。報酬として一万円を与う」

22

「これはおかしい」と私は云った。
「銀三十枚の持主といえば、彼女以外にはありそうもない。そいつを請求出来る者は、佐伯準一郎氏の他にはない。だが佐伯氏は殺されている。誰が請求しているのだろう?」
 新聞の来るのが待たれるようになった。数日経った新聞に、同じような広告が掲げられてあった。
「銀三十枚の持主に告げる。銀三十枚を郵送せよ。報酬として二万円を与う」
「報酬金が倍になった」
 私の興味は加わった。
 数日経った新聞に、同じような広告が載っていた。
「銀三十枚の持主に告げる。十二使徒だけを郵送せよ。報酬として三万円を与う」
「十二使徒だけを送れという。深い意味があるらしい。だが私には解(わか)らない」
 数日経った新聞に、同じような記事が載せてあった。
「銀三十枚の持主に告げる。十二使徒だけを郵送せよ。報酬として五万円を与う」
「報酬金が五万円になった」
 私の興味は膨張した。
 と、また新聞へ広告が出た。
「銀三十枚の持主に告げる。貴女の住居を突き止めた。貴女は東区に住んで居る。十二使徒だけを郵送せよ。もはや報酬は与えない」
「これは不可(いけ)ない」と私は云った。
「この言葉には脅迫がある。さあ彼女はどうするだろう?」
 と、また新聞へ広告が出た。
「銀三十枚の持主に告げる。銀三十枚を郵送せよ。詐欺師の運命となるなかれ」
「これは恐ろしい脅迫だ!」
 私はじっと考え込んだ。
「だが真相はこれで解った。広告主が持主なのだ。貨幣の本(もと)の持主なのだ。それを盗んだのが佐伯氏だ。それで佐伯氏の放免を待ち受け、殺して貨幣を取ろうとしたのだ。殺すことには成功したが、取り返すことには失敗した。それは当然と云わなければならない。持っている人間が佐伯氏でなくて、全然別の彼女だったからな。そこでその人は賞を懸けて、貨幣すなわち銀三十枚を、取り返そうと試みたのだ。そうして一方手を尽くして、貨幣の持主を探したのだ。そうして彼女を目つけ出したのだ。……浮雲(あぶな)い浮雲い彼女は浮雲い!」
 私の心は動揺した。
「国際的詐欺師の佐伯氏でさえ、容易に殺した人間だ。彼女を殺すぐらい何でもなかろう」
 ポッと私の眼の前に、彼女の死骸が浮かんで来た。
「これはうっちゃっては置かれない」
 私は急いで下宿を出た。俥(くるま)に乗って駈け付けた。公園を横切り町へ出た。
 彼女の家へ駈け込んだ。
 彼女は書斎に腰かけていた。彼女の顔は蒼白であった。銀三十枚が卓(テーブル)の上にあった。
 私はツカツカと入って行った。
 フッと彼女は眼を上げた。ゾッとするような眼付きであった。
「もう不可(いけ)ない」と私は云った。
「返しておしまい! 返しておしまい!」
「売りましょう! 売りましょう! 白金(プラチナ)を!」
 ひっ叩くように彼女は云った。
「持っていなければいいのだわ」
 彼女はフラフラと書斎を出た。電話を掛ける声がした。
 貴金属商へでも掛けるのだろう。
 彼女は書斎へ帰って来た。私と向かって腰を掛けた。だが一言も云わなかった。時々ギリギリと歯軋りをした。
 貴金属商の遣(や)って来たのは、それから一時間の後であった。
 一枚の貨幣を投げ出した。ソロモンのマークの貨幣であった。
 商人は貨幣を一見した。
「これは贋金でございますよ」
「莫迦をお云い!」と彼女は呶鳴った。
「以前一枚売ったんですよ。二つと世界にない質のいい白金! こう云って大金で買ってくれたのに!」
「本物だったのでございましょう。貴女のお売りになった白金は。これは白金ではございません」
 商人の言葉は冷淡であった。
「いいのよいいのよそうかもしれない。たくさんあるのよ。白金はね。一枚ぐらいは贋金かもしれない。これはどう? この貨幣は?」
 彼女はもう一枚投げ出した。ダビデのマークの貨幣であった。
「これも贋金でございます」
 商人の答えは冷淡であった。
 私と彼女とは眼を見合わせた。
「ふん、そうかい。贋金かい、白金はたくさんあるんだよ。二枚ぐらいは贋もあろうさ」
 彼女は努めて冷静に云った。
「これはどうだろう! この貨幣は?」
 また一枚を投げ出した。使徒ポーロのマークの付いた、ぴかぴか光る貨幣であった。
「これは贋金じゃアあるまいね?」
 商人は手にさえ取らなかった。
「やはり贋金でございますよ」
「いいわ」と彼女は呻くように云った。
 革財布を逆さにした。全部の白金を吐き出した。
「幾枚あるの? 本物は?」

23

 商人は一渡り眼を通した。上唇を綻ばせた。
「みんな贋金でございますよ」
「お帰り!」と彼女は呶鳴り付けた。
 商人は冷笑して帰って行った。
「いえあいつは廻し者よ! 例の悪党の広告主、ええ、そいつの廻し者よ! 贋金だ贋金だと嘘を吐き、かっさらって行こうとしたんだわ! そんな古手に乗るものか! 電話ではいけない、行って来ましょう。行って店員を引っ張って来ましょう。信用のある金属商の、鑑定に達した店員をね」
 彼女は書斎を飛び出した。電話をかける声がした。タクシを呼んでいるらしい。
 間もなくタクシがやって来た。
 彼女は乗って出て行った。
 私は黙然と腰掛けていた。
「彼女はひょっとすると狂人(きちがい)になるぞ」
 私はしばらく待っていた。
「この家には用はないはずだ。一応の忠告! それだけでいいのだ。聞くか聞かないかは彼女にある。……贋金であろうと本物であろうと、私には大して関係はない」
 で、私は下宿へ帰った。

 数日経った新聞に、次のような広告が掲げてあった。
「銀二十九枚の送主に告げる。貴女は非常に聡明であった。イスカリオテのユダを残し、後を郵送してよこしたことは、我等をして首肯せしめ微笑せしめた。安心せよ。危害を加えず」
「ついに彼女は郵送したと見える。イスカリオテのユダの付いた、一枚の貨幣を送らなかったのは、以前売ったからに相違ない」
 とにかく私はホッとした。
「だが彼女は貧乏になった。もうあの家には住めないかもしれない」
 ある日私はこっそりと、彼女の家の方へ行って見た。家には貸家札が張ってあった。
「予想通りだ」と私は云った。
「流浪の旅へでも出たのだろう」
 私は安心と寂しさを感じた。彼女とは永遠に逢えないだろう。こう思われたからであった。
 間もなく春が訪れて来た。
 やがて晩春初夏となった。
 彼女に目つかる心配はなかった。自由に散歩をすることが出来た。事の過ぎ去った後において、その事のあった遺跡を尋ね、思い出に耽るということは、作家には好もしいことであった。で私は公園へ行き、首を釣りかけた木へ触れたり、佐伯氏と逢ったロハ台に、腰を掛けて考えたりした。
 菖蒲(あやめ)の花の咲く季節、苺が八百屋へ出る季節、この季節を私は愛する。
 だんだん私は健康になった。

 ある日久しぶりでK博士を訊ねた。
 博士は有名な法医学者で、そうして探偵小説家であった。
 その日も書斎で物を書いていた。
 私はそこで話し込んだ。
 と、博士が不意に云った。
「汎猶太(はんユダヤ)主義の秘密結社、フリーメーソンリイの会員達が、大分日本へ入り込みましたね」
「ああ左様でございますか」
「倫敦(ロンドン)タイムスで見たのですが、彼等の大切な秘密文書を、ある日本人に盗まれたので、それを取り返しに来たのだそうです」
 私はちょっと興味を持った。

24

「それが大変探偵的なのです」
 博士はいくらか小声になった。
「少し詳しく話しましょう。実は私は趣味として、フリーメーソンリイの内情を、調べたことがありましたのでね。今お話しした秘密文書ですが、紙に書かれてはいないのだそうです。三十枚の白金(プラチナ)貨幣、その紋章のどの辺りかに、巧妙な図案式文字をもって彫み込んであるのだということです。ところで貨幣の紋章ですが、旧約聖書と新約聖書、その中に出て来る人物を、三十人だけ選択し、打ち出してあるということです。基督(キリスト)はじめ十二使徒などは、勿論入っているのですね。その中とりわけ大事なのは、ユダを抜かした十一人の使徒を、打ち出した所の貨幣だそうです。だがまあこれはいいとして、面白いのはその貨幣が、一枚を抜かして二十九枚は、白金ではなくて贋金なのだそうです。つまり勿体を付けるために、白金のようには作ってあるものの、中味は鉛か何かなのですね。ところが盗んだ日本人ですが、そんなこととは夢にも知らず、本物の素晴らしい白金だと、こう思って盗んで来たらしいのです」
「ははあ」と私は微笑して云った。
「本物の白金の貨幣というのは、ユダを紋章に打ち出した、その貨幣ではないでしょうか」
「おや、どうしてご存知です」
 博士はさもさも驚いたように、
「仰せの通りそうなのですよ」
「だがどうしてその貨幣だけを、本物の白金で作ったのでしょう?」
「つまりフリーメーソンリイは、虚無思想家の集りなんです。で彼等の守護(まもり)本尊は、イスカリオテのユダなんですね。本尊を贋金で作っては、どうもちょっと勿体ない、こういう意味からそれだけを、非常に高価な白金で、作ったのだということです。だが真偽は知りませんよ、伝説的の話ですから」
 私はそこで考えた。私の経験した物語を、博士の耳に入れようかしらと。……だが私は止めることにした。自慢の出来る物語ではなし、又その物語を語ることによって、消え去った不幸な私の妻を、辱しめる事を欲しなかったから。
 それからしばらく世間話をして、私は博士の邸を辞した。
 私には一つの疑問があった。
「すくなくも彼女はユダだけは、本物の白金だということを、心得ていて売ったのかしら? それとも偶然その貨幣を……」
「そんな事はどうでもいい」と私はすぐに打ち消した。
「一切過ぎ去ったことではないか。どうあろうと関係(かかわり)はない」

 下宿生活が不便になった。
「郊外へ小さな家でも借り、自炊生活でもやることにしよう」
 私は借家を探し出した。
 児玉町の方へ行って見て、旧居の前へ差しかかった。もう人が入っていた。これは当然なことであった。私には何となく懐しかった。しばらく佇んで見廻した。
「おや」と私は思わず云った。
 表札に私の名が書かれてあった。私の文字で一條弘と。
「おかしいなあ、どうしたんだろう?」
 格子の内側に障子があり、障子には硝子(ガラス)が嵌め込んであった。ちょっと不作法とは思ったが、家の中を覗いて見た。
「おや」と私はまた云った。
 見覚えのある長火鉢の横に、見覚えのある一人の女が、寂しそうにちんまりとかしこまり、縫物をしているではないか。人の気勢(けはい)を感じたのであろう、女はフッと顔を上げた。
「粂子!」と私は声を上げた。
 と、女はスッと立った。私は無意識に表戸を開けた。
 彼女は土間に立っていた。
 私は胸に重さを感じた。彼女の顔がそこにあった。私は両肩を締め付けられた。彼女の腕が締め付けたのであった。
 彼女の口から啜り泣きが洩れた。
「妾(わたし)は信じて居りましたのよ。きっときっといらっしゃるとね。ええ帰っていらっしゃるとね。……待っていたのでございますわ。……信じて下さいよ。ねえ妾を! 妾は純潔でございますの」
 彼女は眼を上げて私を見た。で、私も彼女を見た。
「その眼がその眼である限りは、彼女の純潔は信じてよい」
 そういう眼を彼女は持っていた。昔ながらに、依然として。

 彼女の態度が一変し、バンプ型の女になったのには、大した意味はなかったのであった。そういう振舞いをすることによって、彼女は精神を大胆にし、そうして容貌を妖艶にし、そうして動作を高尚にし、それを武器として大詐欺師に対向(あた)り、大詐欺師をして屈伏せしめ、白金(プラチナ)三十枚を詐欺師の手から、巻き上げようとしたのであった。
 そうとも知らずに煩悶した私は、要するに馬鹿者に過ぎなかったのであった。
 で、結果はどうだったかというに、彼女の勝利に帰したのであった。
 これは当然と云わなければならない。敵を瞞ますには味方を計れ、こういう考えからしたことではあろうが、ともかくも良人(おっと)の私をして、一度は死をさえ覚悟させたほど、深刻な放縦な行動をとって、心身を鍛えた彼女であった、たかが詐欺師なんかに負けるはずはなかった。
 佐伯準一郎氏は恭しく、銀三十枚を彼女に献じた。
 そうしてその帰路不幸にも、フリーメーソンリイの会員に、暗殺されてしまったのであった。――佐伯氏を追って行った二人の外人、あれが下手人に相違あるまい。

25

 私達は一緒に住むことになった。
 最初のうちは変なものであった。何となくチグハグの心持であった。だがそのうちに慣れて来た。
 次第に二人は幸福になった。
 彼女は昔の彼女になった。相変わらず私をあやしたりした。剽軽なことを云ったりした。
「今日は風が吹きますのよ。冬のように寒い風がね。まきまきするのよ、まきまきをね」
 襟巻を巻けというのであった。
「たあたを穿くのよ。ね、たあたを」
 足袋を穿けというのであった。
 ある時私はこう云って訊いた。
「誰かと公園で媾曳をしたね。刑事が淫売婦だと云っていたよ」
「え、したのよ。県知事さんと」
 大変サッパリした返辞であった。――それだから私には安心であった。
「お前は知っていて売ったのかい? ユダの紋章のある貨幣だけは、すくなくも本物の白金(プラチナ)だと」
「いいえ」と彼女は笑いながら云った。
「あのユダという人間が、一番厭らしい顔付きでしょう、それで妾売ったのよ」
「なるほど」と私は胸に落ちた。
「そうだすくなくもイスカリオテのユダは、女や小供には喜ばれない、そういう顔の持主だ」
 私達二人は平和であった。
 しかし私は時々思った。
「キッスぐらいは許したかもしれない」
 だが直ぐ私は思い返した。
「いいではないかキッスぐらいは、私だってこれまでいろいろの女に、随分唇を触れたではないか」
 穏かに時が流れて行った。
 ここに一つ残念なことには――だが良人たる私にとっては、かえってひどく安心な事には、――彼女の容色がにわかに落ちた。
 それは苦労をしたからであった。
 いつも重荷を担いでいる、田舎の百姓の女達が、早くその美を失うように、彼女も重荷[#「重荷」は底本では「荷重」]を担いだため、俄然縹緻(きりょう)を落としてしまった。
 精神的にしろ肉体的にしろ、あんまり重荷を担ぐことは、不為(ふため)のように思われる。
 私も随分苦労をした。
 年より白髪の多いのは、重荷を担いだ為であった。
 彼女のおデコが目立って来た。下手な義歯が目立って来た。身長(せい)も高くはなくなった。
 だがそれも結構ではないか。
 美しい妻を持っていることは、胆汁質でない良人にとっては、決して幸福ではないのだから。
 だが勿論将来といえども、いろいろ彼女は失敗を演じて、私を苦しめるに相違ない。
 だが恐らく「伯爵ゴッコ」をして、苦しめるようなことはないだろう。
 真夏が来、真夏が去った。[#底本ではここで改段]
 二人の生活には変わりがなかった。

 何でもないことだが云い落とした。
 佐伯準一郎氏の旧宅へ、何のために彼女は越したのだろう?
 やはりそれも佐伯氏を、威嚇するための策だったそうな。




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