仇討姉妹笠
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著者名:国枝史郎 

 その屋敷の一所に、蝋燭の燈が点っているのであった。
 四方を木々に囲まれながら、一宇の亭(ちん)が立っていて、陶器(すえもの)で造った円形の卓が、その中央に置かれてあり、その上に、太巻の蝋燭が、赤黄色く燃えているのであった。そうしてその燈に照らされながら、三つの顔が明るく浮き出していた。松浦頼母と弟の主馬之進――すなわちこの屋敷の主人公と、その主馬之進の妻の松女(まつじょ)との顔で、その三人は榻(とう)に腰かけ、卓の上の蝋燭の燈の下で、渦のように廻っている淀屋の独楽を、睨むようにして見守っていた。……
 独楽は勘兵衛が今日の宵の口に、主税とあやめとの住居から奪い、頼母に献じたその独楽で、この独楽を頼母は手に入れるや、部屋で即座に廻してみた。幾十回となく廻してみた。と、独楽の蓋にあたる箇所へ、次々に文字が現われて来た。
「淀」「荏原屋敷」「に有りて」「飛加藤の亜流」等々という文字が現われて来た。……でももうそれ以上は現われなかった。ではどうしてこんな深夜に、庭の亭の卓の上などで、改めて独楽を廻すのだろう?
 それは荏原屋敷の伝説からであった。
 伝説によるとこれらの亭は、荏原屋敷の祖先の高麗人が、高麗から持って来たものであり、それをここへ据え付ける場合にも、特にその卓の面は絶対に水平に、据えられたと云い伝えられていた。そういう意味からこの亭のことを、「水平の亭」と呼んで、遥かあなたに杉の木に囲まれた「閉扉(あけず)の館」などと共に、荏原屋敷の七不思議の中の、一つの不思議として数えられているのであった……

まだ解けぬ謎

「絶対に水平のあの卓の上で、淀屋の独楽をお廻しになったら、別の文字が現われはしますまいか」
 ふと気がついたというように、深夜になって頼母へそう云ったのは、主馬之進の妻の松女であった。
「なるほど、それではやってみよう」
 でも卓の上で廻しても、独楽の面へ現われる文字は、あれの他には何もなかった。
「駄目だのう」と頼母は云って、落胆したように顔を上げた。
「あれ以上に文字は現われないのであろうよ。……この独楽に現われたあれらの文字と、以前にわしの持っていた独楽へ現われた文字、それを一緒にして綴ってみようではないか。何らかの意味をなすかもしれない」
「それがよろしゅうございましょう」
 こう云ったのは主馬之進であった。主馬之進は頼母の弟だけに、頼母にその容貌は酷似していたが、俳優などに見られるような、厭らしいまでの色気があって、婦人(おんな)の愛情を掻き立てるだけの、強い魅力を持っていた。
「この独楽へ現われた文字といえば『淀』『荏原屋敷』『有りて』『「飛加藤の亜流』という十五文字だし、以前(まえ)にわしの持っていた独楽へ現われた文字は、『屋の財宝は』『代々』『守護す』『見る日は南』の十五文字じゃ。……で、わしは先刻(さっき)からこの三十文字を、いろいろに考えて綴り合わせてみたが、こう綴るのが正しいらしい……ともかくも意味をなすよ『淀屋の財宝は代々荏原屋敷に有りて、飛加藤の亜流守護す』と、なるのだからの」
「飛加藤の亜流とは何でしょう?」
 主馬之進の妻の松女が訊いた。
 彼女はもう四十を過ごしていた。でも美貌は失われていなかった。大旗本以上の豪族であるところの、荏原屋敷の主婦としての貫禄、それも体に備わっていた。あやめやお葉の母親だけあって、品位なども人に立ち勝っていた。が、蝋燭の燈に照らされると、さすが小鼻の左右に深い陰影(かげ)などがつき、全体に窶れが窺われ、それに眼などもおちつかないで、なにか良心に咎められている。――そんなようなところが感じられた。
「飛加藤の亜流と申すのはな」と、頼母は松女を見い見い云った。
「白昼に龕燈をともしなどして、奇行をして世間を歩き廻っている、隠者のような老人とのことで。……勘兵衛めがそう云いましたよ。今日も夕方この近くの野道で、怪しい行ないをいたしましたとかで……」
「その飛加藤の亜流とかいう老人が、代々財宝を守護するなどと、文字の上に現われました以上は、その老人を捕らえませねば……」
「左様、捕らえて糺明するのが、万全の策には相違ござらぬが、その飛加藤の亜流という老人、どこにいるのやらどこへ現われるのやら、とんと我らにしれませぬのでな」
「それより……」と主馬之進が口を出した。
「『見る日は南』という訳のわらぬ文句が、隠語の中にありまするが、何のことでございましょうな?」
「それがさ、わしにも解(わか)らぬのだよ」と頼母は当惑したように云った。
「この文句だけが独立して――他の文句と飛び離れて記されてあるので、何ともわしにも意味が解らぬ。……だがしかしそれだけに、この文句の意味が解けた時に、淀屋の財宝の真の在場所が、解るようにも思われる……」
「三つ目の淀屋の独楽を目つけ出し、隠語を探り知りました時、この文句の意味も自ずから解けると、そんなように思われまするが」
「そうだよそうだよわしもそう思う。が、三つ目の淀屋の独楽が、果たしてどこにあるものやら、とんとわしには解らぬのでのう」
 三人はここで黙ってしまった。
 屋敷の構内に古池でもあって、そこに鷭(ばん)でも住んでいるのだろう、その啼声と羽搏きとが聞こえた。
 と、ふいにこの時茂(しげみ)の陰から、「誰だ!」という誰何の声が聞こえた。
 三人はハッとして顔を見合わせた。と、すぐに悲鳴が聞こえ、つづいて物の仆れる音がした。三人は思わず立ち上った。
 するとこの亭を囲繞(とりま)いている木々の向こうから、この亭の人々を警護していた、飛田林覚兵衛と勘兵衛との声が、狼狽したらしく聞こえてきた。

母娘は逢ったが

「曲者だ!」
「追え!」
「それ向こうへ逃げたぞ!」
「斬られたのは近藤氏じゃ」
 こんな声が聞こえてきた。そうして覚兵衛と勘兵衛とが、閉扉(あけず)の館の方角をさして、走って行く足音が聞こえてきた。
「行ってみよう」と頼母は云って、榻から立ち上って歩き出した。
「それでは私も」と主馬之進も云って兄に続いて亭を出た。
 亭には一人松女だけが残った。
 松女は寂しそうに卓へ倚り、両の肘を卓の上へのせ、その上へ顔をうずめるようにし、何やら物思いに耽っていた。燃え尽きかけている蝋燭の燈が、白い細い頸(うなじ)の辺りへ、琥珀色の光を投げているのが、妙にこの女を佗しく見せた。
 といつの間に現われたものか、その松女のすぐの背後(うしろ)に、妖怪(もののけ)のような女の姿が、朦朧として佇んでいた。
 猿廻し姿のお葉であった。じっと松女を見詰めている。その様子が何となく松女を狙い、襲おうとでもしているような様子で……
 と、不意にお葉の片手が上り、松女の肩を抑えたかと思うと、
「お母様!」と忍び音に云った。
 松女はひどく驚いたらしく、顔を上げると、
「誰だえ□」と訊いた。
「お母様、わたしでございます」
「お母様だって? このわたしを! まアまアまア失礼な! 見ればみすぼらしい猿廻しらしいが、夜ふけに無断にこんな所へ来て、わたしに向かってお母様などと! ……怪しいお人だ、人を呼ぼうか!」
「お母様、お久しぶりねえ」
「…………」
「お別れしたのは十年前の、雪の積もった日でございましたが、……お母様もお変わりなさいましたこと。……でも妾(わたし)は、このお葉は、もっと変わりましてございます。……苦労したからでございましょうよ。……産みのお母様がご覽になっても、それと知れない程ですものねえ。……妾はお葉でございます……」
「お葉□」
 それは譫言(うわごと)のような、魘されているような声であった。よろめきながら立ち上り、よろめきながら前へ進み、松女は近々と顔を寄せた。
「ほんに……お前は……おお……お葉だ! お葉だ!」
 グラグラと体が傾ぎ、前のめりにのめったかと思うと、もう親娘(おやこ)は抱き合っていた。しばらくは二人のすすり泣きの声が、しずかな夜の中に震えて聞こえた。
「不孝者! お葉! だいそれた不孝者! 親を捨て家出をして! ……」
 やがて松女の感情の籠った、途切れ途切れの声が響いた。
「でも……それでも……とうとうお葉や、よく帰って来ておくれだったねえ。……どこへもやらない、どこへもやらない! 家に置きます。妾(わたし)の手許へ!」
「お母様!」と、お葉は烈しく云った。
「あのお部屋へ参ろうではございませんか!」
「何をお云いだ、え、お葉や! あのお部屋へとは、お葉やお葉や!」
「あのお部屋へ参ろうではございませんか。……あのお部屋へお母様をお連れして、懺悔と浄罪とをさせようため、十年ぶりにこのお葉は、帰って来たのでございます!」
「お葉、それでは、それではお前は?」
「知っておりました、知っておりました! 知っておればこそこのお葉は、この罪悪の巣におられず、家出をしたのでございます!」
「そんな……お前……いえいえそれは!」
「悪人! 姦婦! 八ツ裂きにしてやろうか! ……いえいえいえ、やっぱりお母様だ! ……わたしを、わたしを、いとしがり可愛がり、花簪(はなかんざし)を買って下されたり、抱いて寝させて下さいました、産みのお母様でございます! ……でも、おおおお、そのお母様が、あの建物で、あのお部屋で……」
「いいえ妾は……いいえこの手で……」
「存じております、何のお母様が、何の悪行をなさいましたものか! ……ただお母様はみすみすズルズルと、引き込まれただけでございます。……ですから妾は申しております。懺悔なされて下さりませと……」
「行けない、妾は、あの部屋へは! ……あの時以来十年もの間、雨戸を閉め切り開けたことのない、あの建物のあのお部屋なのだよ。……堪忍しておくれ、妾には行けない!」

恋と敵のあいだ

「おお、まアそれではあのお部屋は、十年間閉扉(あけず)の間か! ……さすが悪漢毒婦にも、罪業(つみ)を恐れる善根が、心の片隅に残っていたそうな。……ではあのお部屋にはあのお方の、いまだに浮かばれない修羅の妄執が、黴と湿気と闇とに包まれ、残っておることでございましょうよ。なにより幸い、なにより幸い、さあそのお部屋へお入りなされて、懺悔なさりませ、懺悔なさりませ! そうしてそれから妾(わたし)と共々、復讐の手段を講じましょう。……」
「復讐? お葉や、復讐とは?」
「わたしにとりましては実のお父様、お母様にとりましては最初の良人(おっと)の、先代の荏原屋敷の主人を殺した、当代の主人の主馬之進(しゅめのしん)を!」
「ヒエーッ、それでは主馬之進を!」
「お父様を殺した主馬之進を殺し、お父様の怨みを晴らすのさ。……さあお母様参りましょう!」
 お葉は、松女(まつじょ)の腕を握り、亭から外へ引き出した。
 この頃亭から少し離れた、閉扉の館の側(そば)の木立の陰に、主税(ちから)とあやめとが身体(からだ)をよせながら、地に腹這い呼吸(いき)を呑んでいた。
 主税が片手に握っているものは、血のしたたる抜身であった。
 それにしてもどうして主税やあやめや、お葉までが荏原屋敷へ、この夜忍び込んで来たのであろう?
 自分たちの持っていた淀屋の独楽は何者かに奪われてしまったけれど、藤八猿から得た独楽によって、幾行かの隠語(かくしことば)を知ることが出来た。
 そこで主税はその隠語を、以前(まえ)から知っている隠語と合わせて、何かの意味を探ろうとした。隠語はこのように綴られた。……「淀屋の財宝は代々荏原屋敷にありて飛加藤の亜流[#「亜流」は底本では「悪流」]守護す。見る日は南」と。「見る日は南」という意味は解(わか)らなかったが、その他の意味はよく解った。飛加藤の亜流[#「亜流」は底本では「悪流」]という老人のことも、お葉のくわしい説明によって解った。そうしてどっちみち淀屋の財宝が、荏原屋敷のどこかにあるということが、ハッキリ主税に感じられた。そこで主税は荏原屋敷へ忍び込んで、財宝の在場所を探りたいと思った。
 あやめはあやめで又思った。
(姉妹(きょうだい)二人が揃ったのだから、すぐにも荏原屋敷へ乗り込んで行って、主馬之進を殺して復讐したい。お父様の怨みを晴らしたい)
 双方の祈願(ねがい)が一緒になって、あやめとお葉と主税とは、この夜荏原屋敷へ忍び込んだのであった。
 さて三人忍び込んでみれば、天の助けというのでもあろうか、頼母がい、勘兵衛がいた。
(よし、それでは次々に、機をみて討って取ってやろう)
 木陰に隠れて機会(おり)を待った。
 と、構え内を警護していた、頼母の家来の覆面武士の一人に、見現わされて誰何された。主税はその覆面武士を、一刀の下に斬り仆した。と、大勢がこの方面へ走って来た。主税はあやめを引っ抱えて、木立の陰へ隠れたのであるが、どうしたのかお葉は一人離れて、亭の方へ忍んで行った。声をかけて止めようと思ったが、声をあげたら敵の者共に、隠れ場所を知られる不安があった。そこで二人は無言のまま見過ごし、ここに忍んでいるのであった。……
 二人の眼前にみえているものは、主税に斬り仆された覆面武士を囲んで、同僚の三人の覆面武士と、頼母と主馬之進と飛田林覚兵衛と、絞殺したはずの勘兵衛とが、佇んでいる姿であった。
 飛び出していって斬ってかかることは、二人にとっては何でもなかったが、敵は大勢であり味方は二人、返り討ちに遇う心配があった。機(おり)を見て別々に一人々々、討って取らなければならなかった。
 二人は呼吸(いき)を呑み潜んでいた。

閉扉の館

「曲者を探せ!」という烈しい怒声が、頼母の口からほとばしったのは、それから間もなくのことであった。
 俄然武士たちは四方へ散った。そして二人の覆面武士が主税たちの方へ小走って来た。
「居たーッ」と一人の覆面武士が叫んだ。
 だがもうその次の瞬間には、躍り上った主税によって、斬り仆されてノタウッていた。
「汝(おのれ)!」ともう一人の覆面武士が、主税を目掛けて斬り込んで来た。
 そこを横からあやめが突いた。
 その武士の仆れるのを後に見捨て、
「主税様、こっちへ」と主税の手を引き、あやめは木立をくぐって走った。……
 案内を知っている自分の屋敷の、木立や茂や築山などの多い――障害物の多い構内であった。
 あやめは逃げるに苦心しなかった。木立をくぐり藪を巡り、建物の陰の方へあやめは走った。
 とうとう建物の裏側へ出た。二階づくりの古い建物は、杉の木立を周囲に持ち、月の光にも照らされず、黒い一塊のかたまりのように、静まり返って立っていた。
 それは閉扉(あけず)の館であった。
 と、建物の一方の角から、数人の武士が現われた。
 飛田林覚兵衛と頼母と家来の、五人ばかりの一団で、こちらへ走って来るらしかった。
 すると、つづいて背後(うしろ)の方から、大勢の喚く声が聞こえてきた。
 主税とあやめとは振り返って見た。
 十数人の姿が見えた。
 主馬之進と勘兵衛と、覆面の武士と屋敷の使僕(こもの)たちが、こっちへ走って来る姿であった。二人は腹背に敵を受け、進退まったく谷(きわ)まった。
 一方には十年間開いたことのない、閉扉の館が城壁のように、高く険しく立っている。そしてその反対側は古沼であった。
 泥の深さ底が知れず、しかも蛇(くちなわ)や蛭の類が、取りつくすことの出来ないほどに、住んでいると云われている、荏原屋敷七不思議の、その一つに数えられている、その恐ろしい古沼であった。
 逃げようにも逃げられない。
 敵を迎えて戦ったなら、大勢に無勢殺されるであろう。
(どうしよう)
(ここで死ぬのか)
(おお、みすみす返り討ちに遇うのか)
 その時何たる不思議であろう!
 閉扉の館の裏の門の扉が、内側から自ずとひらいたではないか!
 二人は夢中に駆け込んだ。
 すると、扉が内側から、又自ずと閉ざされたではないか。
 屋内は真の闇であった。

死ぬ運命の二人

 閉扉(あけず)の館の闇の部屋で、主税とあやめとが寄り添っている時、館の外側では頼母や主馬之進や覚兵衛や勘兵衛たちが集まって、ひそやかな声で話し合っていた。
「不思議だな、消えてしまった」
 抜いた刀をダラリと下げて、さも審しいというように、頼母はこう云って主馬之進を眺めた。主馬之進も抜き身をひっさげたまま、これも審しいというように、四方(あたり)を忙しく見廻したが、
「一方は閉扉の館、また一方は底なしの古沼、前と背後(うしろ)とからは我々や覚兵衛たちが、隙なく取り詰めて参りましたのに、主税もあやめも消えてなくなったように、姿をくらましてしまいましたとは? ……不思議を通りこして気味のわるいことで」
「沼へ落ちたのではございますまいか?」
 覚兵衛が横から口を出した。
「沼へ落ちたのなら水音がして、あっしたちにも聞こえるはずで」と勘兵衛が側(そば)から打ち消した。
「ところが水音なんか聞こえませんでしたよ。……天に昇ったか地にくぐったか、面妖な話ったらありゃアしない」
「主馬!」と頼母は決心したように云った。
「主税とあやめとの隠れ場所は、閉扉の館以外にはないと思うよ。彼奴(きゃつ)らなんとかしてこの戸をひらき、屋内(なか)へ入ったに相違ない。戸を破り我らも屋内へ入るとしよう! ……それでなくともこの閉扉の館へ、わしは入ろうと思っていたのだ。淀屋の財宝を手に入れようとして、長の年月この荏原屋敷を、隅から隅まで探したが、この館ばかりは探さなかった。其方(そち)や松女が厭がるからじゃ! が、今夜はどうあろうと、屋内へ入って探さなければならぬ」
「兄上! しかし、そればかりは……」と主馬之進は夜眼にも知られるほどに、顔色を変え胴顫いをし、
「ご勘弁を、平に、ご勘弁を!」
「覚兵衛、勘兵衛!」と頼母は叫んだ。
「この館の戸を破れ!」
「いけねえ、殿様ア――ッ」と勘兵衛は喚いた。
「そいつア不可(いけ)ねえ! あっしゃア恐い! ……先代の怨みの籠っている館だ! ……あっしも手伝ってやったんですからねえ!」
「臆病者揃いめ、汝(おのれ)らには頼まぬ! ……覚兵衛、館の戸を破れ!」
 飛田林覚兵衛はその声に応じ、閉扉の館の戸へ躍りかかった。
 が、戸は容易に開かなかった。
 先刻(さっき)は内側から自然と開いて、主税とあやめとを飲み込んだ戸が、今は容易に開かないのである。
「方々お手伝い下されい」
 覚兵衛はそう声をかけた。
 覆面をしている頼母の家来たちは、すぐに覚兵衛に手を貸して、館の戸を破りだした。
 この物音を耳にした時、屋内の闇に包まれていた主税とあやめとはハッとなった。
「主税様」とあやめは云った。
「頼母や主馬之進たちが戸を破って……」
「うむ、乱入いたすそうな。……そうなってはどうせ切り死に……」
「切り死に? ……敵(かたき)と、お父様の敵と……それでは返り討ちになりますのね。……構わない構わないどうなろうと! ……本望、わたしは、わたしは本望! ……主税様と二人で死ぬのなら……」

亡魂の招くところ

 たちまちふいに闇の部屋の中へ、一筋の薄赤い光が射した。
(あっ)と二人ながら驚いて、光の来た方へ眼をやった。
 奥の部屋を境している襖があって、その襖が細目に開いて、そっちの部屋にある燈火(ともしび)の光が、その隙間から射し込んで来たと、そう思われるような薄赤い光が、ぼっとこの部屋に射して来ていた。
「貴郎(あなた)!」とあやめは怯えた声で云った。
「あけずの館に燈火の光が! ……では誰かがいるのです! ……恐ろしい、おおどうしよう!」
 主税も恐怖を新規(あらた)にして、燈火の光を睨んだが、
「そういえば閉扉の館の戸が、内から自ずと開きましたのも、不思議なことの一つでござる。……そこへ燈火の光が射した! ……いかにも、さては、この古館には、何者か住んで居るものと見える! ……どっちみち助からぬ二人の命! ……敵の手にかかって殺されようと、怪しいものの手にかかって殺されようと、死ぬる命はひとつでござれば、怪しいものの正体を……」と主税はヌッと立ち上った。
「では妾(わたし)も」とあやめも立った。
 でも二人が隣部屋へ入った時には、薄赤い光は消えてしまった。
(さては心の迷いだったか)
(わたしたちの眼違いであったのかしら)
 二人は茫然と闇の中に、手を取り合って佇んだ。この間も戸を破る烈しい音が、二人の耳へ聞こえてきた。
 と、又も同じ光が、廊下をへだてている襖の隙から、幽かに薄赤く射して来た。
(さては廊下に!)
 あやめと主税とは、夢中のようにそっちへ走った。
 しかし廊下へ出た時には、その光は消えていた。
 が、廊下の一方の詰の、天井の方から同じ光が、気味悪く朦朧と射して来た。
 二階へ登る階段があって、その頂上から来るらしかった。
 二人はふたたび夢中の様で、階段を駈け上って二階へ登った。しかし二階へ上った時には、その光は消えていて、闇ばかりが二人の周囲(まわり)にあった。
 悪漢毒婦の毒手によって、無残に殺された男の怨恨(うらみ)が、十年もの間籠っているところの、ここはあけずの館であった。その館に持主の知れない薄赤い燈火の光が射して、あっちへ動きこっちへ移って、二人の男女を迷わせる! さては殺された先代の亡魂が、怨恨の執念から行なう業では? ……
 こう思えば思われる。
 これが二人を怯かしたのである。
「主税様階下(した)へ降りましょう。……もう妾(わたし)はこんな所には……こんな恐ろしい所には! ……それよりいっそ階下へ降りて、頼母たちと斬り合って、敵(かな)わぬまでも一太刀怨み、その上で死にましょう!」
 あやめは前歯を鳴らしながら云った。
「うむ」と主税も呻くように云った。
「亡魂などにたぶらかされ、うろついて生恥さらすより、斬り死にしましょう、斬り死にしましょう」
 階段の方へ足を向けた。
 すると、又も朦朧と、例の薄赤い燈火の光が、廊下の方から射して来た。
「あッ」
「又も、執念深い!」
 今は主税は恐怖よりも、烈しい怒りに駆り立てられ、猛然と廊下へ突き進んだ。
 その後からあやめも続いた。
 しかし、廊下には燈火はなく、堅く閉ざされてあるはずの雨戸の一枚が、細目に開けられてあるばかりであった。
 二人はその隙から戸外(そと)を見た。
 三階造りの頂上よりも高く、特殊に建てられてある閉扉の館の、高い高い二階から眺められる夜景は、随分美しいものであった。主屋をはじめ諸々の建物や、おおよその庭木は眼の下にあった。土塀なども勿論眼の下にあった。月は澄みきった空に漂い、その光は物象(もののかたち)を清く蒼白く、神々しい姿に照らしていた。

庭上の人影

 間もなく死ぬ運命の二人ではあったが、この美しい夜の景色には、うっとりとせざるを得なかった。
 ふいにあやめが驚喜の声をあげた。
「まア梯子が! ここに梯子が!」
 いかさま廊下の欄干ごしに、一筋の梯子が懸かっていて、それが地にまで達していた。
 それはあたかも二人の者に対して、この梯子をつたわって逃げ出すがよいと、そう教えてでもいるようであった。
「いかにも梯子が! ……天の与え! ……それにしても何者がこのようなことを!」
 主税も驚喜の声で叫んだ。
「不思議といえば不思議千万! ……いやいや不思議といえばこればかりではない! ……閉扉(あけず)の館の戸が開いたのも、燈火の光が現われて、われわれを二階へみちびいたのも、釘づけにされてある館の雨戸が、このように一枚だけ外されてあるのも、一切ことごとく不思議でござる」
「きっと誰かが……お父様の霊が、……わたしたちの運命をお憐れみ下されて、それで様々の不思議を現わし、救って下さるのでございましょうよ。……さあ主税様、この梯子をつたわり、ともかくも戸外へ! ともかくも戸外へ!」
「まず其方(そなた)から。あやめよ先に!」
「あい」とあやめは褄をかかげ、梯子の桟へ足をかけた。
「あッ、しばらく、あやめよお待ち! ……何者かこっちへ! 何者かこっちへ!」
 見れば月光が蒼白く明るい、眼の前の庭を二つの人影が、組みつほぐれつ、追いつ追われつしながら、梯子の裾の方へ走って来ていた。
 二人は素早く雨戸の陰へかくれ、顔だけ出して窺った。
 夜眼ではあり遠眼だったので、庭上の人影の何者であるかが、主税にもあやめにもわからなかったが、でもそれはお葉と松女なのであった。
「さあお母様あの館で――十年戸をあけないあけずの館で、懺悔浄罪なさりませ! ……あの館のあの二階で、御寝なされていたお父様の臥所へ、古沼から捕った毒虫を追い込み、それに噛せてお父様を殺した……罪悪の巣の館の二階で、懺悔なさりませ懺悔なさりませ!」
 母の松女の両手を掴み、引きずるようにして導きながら、お葉は館の方へ走るのであった。
 行くまいともがく松女の姿は、捻れ捩れ痛々しかった。
「お葉やお葉や堪忍しておくれ、あそこへばかりは妾(わたし)は行けない! ……この年月、十年もの間、もう妾は毎日々々、心の苛責に苦しんで、後悔ばかりしていたのだよ。……それを、残酷な、娘の身で、あのような所へお母様を追い込み! ……それにあそこは、あの館は、扉も雨戸も鎹(かすがい)や太い釘で、厳しく隙なく止めに止めて、めったに開かないようにしてあるのだよ。……いいえいいえ女の力などでは、戸をあけることなど出来ないのだよ。……行っても無駄です! お葉やお葉や!」
 しかし二人が閉扉の館の、裾の辺りまで走りついた時、二人ながら「あッ」と声をあげた。
 二階の雨戸が開いており、梯子がかかっているからであった。
「あッあッ雨戸が開いている! ……十年このかた開けたことのない、閉扉の館の雨戸が雨戸が! それに梯子がかかっているとは!」
 松女は梯子の根元の土へ、恐怖で、ベッタリ仆れてしまった。
 その母親の側(そば)に突っ立ち、これも意外の出来事のために、一瞬間放心したお葉がいた。
 しかし直ぐお葉は躍り上って叫んだ。
「これこそお父様のお導き! お父様の霊のお導き! ……妻よここへ来て懺悔せよと、怒りながらも愛しておられる、お父様の霊魂が招いておる証拠! ……そうでなくて何でそうも厳重に、十年とざされていた閉扉の館の、雨戸が自然と開きましょうや! ……梯子までかけられてありましょうや!」
 母親の手をひっ掴み、お葉は梯子へ足をかけた。
「お母様!」と松女を引き立て、
「さあ一緒に、一緒に参って、お父様にお逢いいたしましょう! いまだに浮かばれずに迷っておられる、悲しい悲しいお父様の亡魂に!」

月下の殺人

「お葉かえ!」とその途端に、二階から女の声がかかった。
 お葉は無言で二階を見上げた。
 欄干から半身をのり出して、あやめが下を見下ろしている。
「あッ、お姉様! どうしてそこには?」
 しかしあやめはそれには答えず、松女の姿へじっと眼をつけ、
「お葉やお葉や、そこにいるのは?」
「お母様よ! お姉様!」
「お母様だって? 良人(おっと)殺しの!」
「…………」
「良人殺しの松女という女かえ!」
「…………」
「よくノメノメとここへは来られたねえ」
「いいえお姉様」とお葉は叫んだ。
「わたしがお母様をここまで連れて……」
「お前がお母様を? 何のために?」
「お父様を殺したあのお部屋へ、お母様をお連れして懺悔させようと……」
「その悪女、懺悔するかえ?」
「あやめや!」とはじめて松女は叫んだ。
 連続して起こる意外の出来事に、今にも発狂しようとして、やっと正気を保っている松女が、嗄(しゃが)れた声で叫んだのである。
「あやめや……お前までが……この屋敷へ! ……いいえいいえ生みの家へ……おおおお帰っておいでだったのか! ……あやめや、あんまりな、あんまりな言葉! ……悪女とは! 懺悔するかえとは! ……わたしは、あれから、毎日々々、涙の乾く暇もないほどに、後悔して後悔して……」
「お黙り!」と絹でも引裂くような声が、――あやめの声が遮った。
「わたしは先刻(さっき)から雨戸の隙から、お前さんたちの様子を見ていたのだよ。……お葉がお前さんを引っ張って、この二階へ連れて来ようとするのに、お前さんは行くまいと拒んでいたじゃアないか……ほんとうに後悔しているなら、日夜二階の部屋へ来て、香でも焚いて唱名して、お父様の菩提を葬えばよいのだ! ……それを行くまいとして拒むのは、……」
「あやめや、それも恐ろしいからだよ。……あのお方の怨みが恐ろしく、わたしの罪業が恐ろしく、その館が恐ろしく……」
「おおそうとも、恐ろしいとも! この館は今も恐ろしいのだ! ……恐ろしいのも色々だが、今のこの館の恐ろしさは、又もやむごたらしい人殺しが、行なわれようとしていることさ!」
「また人殺しが? 誰が、誰を?」
「お前さんの良人の主馬之進と、主馬之進の兄の松浦頼母とが、たくさんの眷族をかたらって、わたしとわたしの恋しい人とを、この館へとりこめて、これから殺そうとしているのさ。……お聞き、聞こえるだろう、戸をこわしている音が! ……館の裏の戸をぶちこわして、この館へ乱入し、わたしたちを殺そうとしているのさ! ……あッ、しめた! いいことがある! ……お葉やお葉やその女を捉え、ここへおよこし、引きずり上げておくれ! 人質にするのだよその女を! ……もう大丈夫だ、殺されっこはない。その女を人質に取っておいたら、いかな主馬之進や頼母でも、わたしたちを殺すことは出来ないだろうよ。……」
 松女の腕を捉(と)り引きずり引きずり、梯子を上るお葉の姿が、すぐに月光に照らされて見えた。
 松女を中へ取り籠めて、あやめとお葉と主税とが、刀や短刀を抜きそばめ、闇の二階の部屋の中に、息を殺して突立ったのは、それから間もなくのことであった。
 裏戸の破られた音が聞こえた。
 乱入して来る足音が聞こえた。
 間もなく階段を駈け上る、数人の足音が聞こえてきた。
「よし降り口に待ちかまえていて……」と、主税は云いすて三人を残し、階段の降り口へ突進して行った。
 頼母の家来の一人の武士が、いつの間に用意したか弓張提燈をかかげて、階段を駆け上り姿を現わした。
 その脳天を真上から、主税は一刀に斬りつけた。
 わッという悲鳴を響かせながら、武士は階段からころがり落ちた。
「居たぞ!」
「二階だ!」
「用心して進め!」
 声々が階下から聞こえてきた。

さまよう娘

 この頃植木師の一隊が、植木車を数台囲み、荏原屋敷の土塀の外側を、山の手の方へ進んでいた。車には植木が一本もなかった。
 どこかのお屋敷へ植木を植えて、車をすっかり空にして、自分たちの本拠の秩父の山中へ、今帰って行く途中らしい。
 二十人に近い植木師たちは、例によって袖無しに伊賀袴を穿き、山岡頭巾をかむった姿で、粛々として歩いていた。
 その中に一人女がいた。意外にもそれはお八重であった。
 やはり袖無しを着、伊賀袴を穿き、山岡頭巾をかむっている。
 肩を落とし、首を垂れ、悄々(しおしお)として歩いて行く姿は、憐れに寂しく悲しそうであった。それにしてもどうして植木師などの中に、彼女、お八重はいるのであろう?
 松浦頼母の一味によって、田安様お屋敷の構内で、お八重もあのとおり迫害されたが、でも辛うじて構内から遁れた。すると、そこに屯(たむろ)していたのが、十数人の植木師たちであった。
 彼女は植木師たちに助けを乞うた。植木師たちは承知して、彼女に彼らの衣裳を着せ、追って来た頼母の家来たちの眼を、巧みにくらませて隠してくれた。
 それからというもの彼女はその姿で、植木師たちと一緒に住み、植木師たちと一緒に出歩き、恋人主税の行方を探し、今日までくらして来たのであった。
 主税もお葉もその姉のあやめも、無事に田安邸から遁れ出たという、そういう消息は人伝てに聞いたが、どこに主税が居ることやら、それはいまだに解らなかった。
 植木師たちの本拠は秩父にあったが、秩父から直接植木を運んで、諸家へ植え込みはしないのであった。
 まず秩父から運んで来て、本門寺つづきの丘や谷に、その植木をとりこにして置き――そこが秩父の出店なのであるが――そこから次々に植木を運んで、諸家へ納めるようにしているのであった。ところがとりこにして置いたたくさんの植木が、今日ですっかり片付いてしまった。
 そこで彼らは本拠の秩父へ、今夜帰って行くことにし、今歩いているのであった。……
(わたしには他に行くところはない。わたしも秩父へ行くことにしよう)
 お八重はこう悲しく心に決めて、彼らと一緒に歩いているのであった。
(主税様はどこにどうしておられるやら。……)
 思われるのは恋人のことであった。
 ほとんど江戸中残るところなく、主税の行方を探したのであったが、けっきょく知ることが出来なかった。
 秩父山中へ行ってしまったら、――又、江戸へでる機会はあるにしても、秩父山中にいる間は、主税を探すことは出来ないわけであって、探すことさえ出来ないのであるから、まして逢うことは絶対に出来ない。
 このことが彼女には悲しいのであった。
(いっそ江戸へ残ろうかしら?)
 でも一人江戸へ残ったところで、生活(くら)して行くことは出来そうもなかった。
 奉公をすれば奉公先の屋敷へ、体をしばられなければならないし、と云ってまさかに門付などになって、人の家の門へなどは立てそうもなかった。
(わたしには主税様は諦められない)
 月光が霜のように地面を明るめ、彼女の影や植木師たちの影を、長く細く曳いていた。
 荏原屋敷の土塀に添って、なお一行は歩いていた。
 と、土塀を抜きん出て、植込がこんもり茂っていたが、その植込の葉の陰から、何物か躍り出して宙を飛び、お八重の肩へ飛び移った。
「あれッ」とさすがに驚いて、お八重は悲鳴をあげ飛び上ったが、そのお八重の足許の地面へ、お八重の肩から飛び下りた物が、赤いちゃんちゃんこを着た小猿だったので、お八重は驚きを繰り返して叫んだ。
「まア、お前は藤八じゃアないかえ!」
 さよう、それはお葉の飼猿、お八重もよく知っている藤八猿であった。

奇怪な邂逅

 藤八猿が居るからには、持主のお葉がいなければならない。――とお八重はそう思った。お葉に逢って訊ねたならば、恋人主税のその後の消息(ようす)を、耳にすることが出来るかもしれない。――
(このお屋敷の土塀を越して、藤八猿は来たはずだった!)
 裾にまつわる藤八猿を、自由に裾にまつわらせながら、お八重は荏原屋敷の土塀を見上げた。土塀を高くぬきん出て、繁った植込の枝や葉が建物の姿を隠している。
(人声や物音がするようだが?)
(何か間違いでも起こったのかしら?)
(それとも妾(わたし)の空耳かしら?)
 なおもお八重は聞き澄ました。物音は間断なく聞こえてくる。
 主税の消息(ようす)を知っているお葉が、居るかもしれない屋敷の構内から、不穏な物音の聞こえるということは、お八重にとっては心配であった。
(妾、屋敷内へ入って行ってみようか?)
 でもどこから入れるだろう? 土塀を乗り越したら入れるかもしれない。
 けれどそんなことをしているうちに、植木師の一隊は彼女を見捨て秩父山中へ行ってしまうにちがいない。
 現に彼女が思案に余って、土塀を眺めて佇んでいる間に、植木師の一隊は彼女から離れて、一町も先の方を歩いているのだから。……
(どうしよう? どうしたらよかろう?)
 地団太を踏みたい心持で、彼女は同じ所に立っていた。
 でも、間もなく彼女の姿が、土塀に上って行くのが見えた。
 恋人の消息が知れるかも知れない。――この魅力が荏原屋敷へ、彼女をとうとう引き入れたのであった。
 月光に照らされたお八重の姿が、閉扉(あけず)の館の前に現われたのは、それから間もなくのことであった。
 高い二階建ての館の二階へ、地上から梯子がかかってい、閉ざされている鎧のような雨戸が、一枚だけ開いている。そうして館の裏側と、館の屋内から人声や物音が、間断なく聞こえてくるようであった。
(やはり何か事件が起こっているのだよ)
 お八重は二階を見上げながら、しばらく茫然(ぼんやり)と佇んでいた。
 すると、あけられてある雨戸の隙から、薄赤い燈火(ともしび)の光が射し、つづいて人影が現われた。龕燈を持った老人で、それは「飛加藤の亜流」であった。
 飛加藤の亜流は雨戸の隙から出て、梯子をソロソロと降り出した。
 飛加藤の亜流が地へ下り立ち、お八重と顔を合わせた時、お八重の口から迸しり出たのは、「叔父様!」という言葉であった。
「姪か、お八重か、苦労したようだのう」
 飛加藤の亜流はこう云って、空いている片手を前へ出した。
 お八重はその手へ縋りついたが、
「叔父様、どうしてこのような所に……」
「わしは飛加藤の亜流なのだよ、どのような所へでも入り込まれるよ。……お前の父親、わしの実兄の、東海林自得斎(しょうじじとくさい)が極重悪木を利用し、自由に人が殺せるようにのう。……それにしてもわし達兄弟は、何という変わった兄弟であろう。徳川によって滅ぼされた、小西摂津守の遺臣として、徳川家に怨みを抱いていることは、わしも兄上も同じなのではあるが、兄上は魔神の世界に住んで、悪木を作り人を殺し――田安中納言家をはじめとし、徳川家に縁ある人々を殺し、主家の怨を晴らそうとしているのに、わしは一念頓悟して、誠の教の庭に住み、真実(まこと)の人間を目つけ出そうとして、乞食のように歩き廻っている。……わが兄ながら惨忍な、実の娘を間者として、田安家の大奥へ住み込ませ、淀屋の独楽を奪わせようとは……」
「まあ叔父様、そのようなことまで……」
「わしは飛加藤の亜流なのだよ、どのようなことでも知っている……」
「では、叔父様には、淀屋の独楽の――三個(みっつ)あるという淀屋の独楽の、その所在(ありばしょ)もご存知なので?」
「一個(ひとつ)は頼母が持っておる。お前を苦しめた松浦頼母が。もう一つは主税が持っておる、お前が愛している山岸主税が。……が、最後の一つはのう」
「最後の一個は? 叔父様どこに?」
「それは云えぬ、今は云えぬ! ……勿論わしは知っているが」

聞こえる歌声

「では叔父様、独楽にまつわる、淀屋の財宝の所在も?」
「淀屋の財宝を守護する者こそ、この飛加藤の亜流なのだよ」
「…………」
「この荏原屋敷の先代の主人は、わしの教の弟子なのじゃ。そうして淀屋の財宝は、この荏原屋敷に隠されてあるのじゃ。淀屋の財宝の所在について、わしの知っているのは当然であろう」
「…………」
「おいで、お八重」と飛加藤の亜流は云って、館を巡って歩き出した。
「眼には眼をもって、歯には歯をもって……因果応報の恐ろしさを、若いお前に見せてあげよう」
 お八重は飛加藤の亜流の後から、胸を踊らせながら従(つ)いて行った。

 この頃館の裏口では、頼母と主馬之進とが不安そうに、破壊された戸口から屋内(なか)を覗きながら、聞こえてくる物音に耳を澄ましていた。
 そこへ屋内から走り出して来たのは、飛田林覚兵衛(とんだばやしかくべえ)であった。
「大変なことになりましてございます。主税(ちから)めどうして手に入れましたものか、主馬之進(しゅめのしん)殿のご内儀を捕虜(とりこ)とし、左様人質といたしまして、その人質を盾となし、二階座敷に攻勢をとり、階段を上る我らの味方を、斬り落とし斬り落としいたしまする」
 大息吐いて注進する後から、お喋舌(しゃべ)りの勘兵衛(かんべえ)が飛出して来て、
「坂本様も宇津木殿も、斬り仆されましてございます。とてもこいつア敵(かな)いませんや。向こうにゃア奥様という人質があって、こっちが無鉄砲に斬り込んで行きゃア、奥様に大怪我させるんですからねえ」とこれも大息吐いて呶鳴り立てた。
「ナニ家内が捕虜にされた□」とさすがの主馬之進も仰天したらしく、
「それは一大事うち捨ては置けない! ……方々お続き下されい!」と屋内へ夢中で駈け込んだ。
「では拙者も」と、それにつづいて覚兵衛が屋内に駈け込めば、
「それじゃアあっしももう一度」と勘兵衛も意気込んで駈け込んだ。
(夫婦の情愛は別のものだな)と後に残った頼母は呟き、戸口から屋内を覗き込んだ。
(臆病者の主馬ではあるが、女房が敵の手に捕らえられたと聞くや、阿修羅のように飛び込んで行きおった。……ところで俺(わし)はどうしたものかな?)
 頼母にとっては松女(まつじょ)の命などより、淀屋の財宝の方が大切なのであった。主税やあやめなどを討ってとるより、独楽の秘密を解くことの方が、遥かに遥かに大切なのであった。
 で、危険な屋内などへは、入って行く気にはなれないのであった。
 太刀音、掛け声、悲鳴などが、いよいよ烈しく聞こえてはきたが、頼母ばかりはなお門口に立っていた。
 するとその時老人の声が、どこからともなく聞こえてきた。しかもそれは歌声であった。
(はてな?)と頼母は聞き耳を立てた。
□真昼頃、見る日は南、背後(うしろ)北、左は東、右は西なり
 歌の文句はこうであった。
 そうしてその歌声は林の奥の、古沼の方から聞こえてくる。
「見る日は南と云ったようだな」と頼母は思わず声に出して云った。
(見る日は南というこの言葉は、独楽の隠語の中に有ったはずだ。その言葉を詠み込んだ歌を歌うからには、その歌の意味を知っていなければならない)
 頼母は歌の聞こえた方へ、足を空にして走って行った。
 歌の主を引っ捕らえ、歌の意味を質(ただ)そうと思ったからである。
 歌声は林に囲繞された大古沼の方から聞こえてきた。
 頼母は林の中へ走り込んだ。
 でも林の中には人影はなく、落葉松(からまつ)だの糸杉だの山桜だの、栗の木だの槇の木だのが繁りに繁り、月光を遮ぎり月光を澪し、萱だの芒だのいら草だのの、生い茂り乱れもつれ合っている地面へ、水銀のような光の斑を置き、長年積もり腐敗した落葉が、悪臭を発しているばかりであった。

秘密は解けたり!

 そうして林の一方には、周囲五町もある大古沼が、葦だの萱だのに岸を茂らせ、水面に浮藻や落葉を浮かべ、曇った鏡のように月光に光り、楕円形に広がっていた。そうして沼の中央に在る、岩で出来ている小さい島の、岩の頂にある小さい祠が、鳥の形に見えていた。
 でも人影はどこにもなかった。失望して頼母は佇んだ。
 と、又もや歌声が、行手の方から聞こえてきた。
(さてはむこうか)と頼母は喜び、跫音(あしおと)を忍ばせてそっちへ走った。
 茨と灌木と蔓草とで出来た、小丘のような藪があったが、その藪の向こう側から、男女の話し声が聞こえてきた。
(さては?)と頼母は胸をドキつかせ、藪の横から向こう側を覗いた。
 一人の娘と一人の老人とが、草に坐りながら話していた。
 老人は白髪白髯の、神々しいような人物であったが、しかしそれは一向見知らない人物であった。しかし、女の方はお八重であった。田安中納言家の腰元で、そうして自分が想いを懸けた、その美しいお八重であった。
(これは一体どうしたことだ。こんな深夜にこんな所に、お八重などがいようとは?)
 夢に夢見る心持で、頼母は一刹那ぼんやりしてしまった。
 しかし、老人の膝の側(そば)に、龕燈が一個(ひとつ)置いてあり、その龕燈の光に照らされ、淀屋の独楽に相違ない独楽が、地上に廻っているのを眼に入れると、頼母は俄然正気づいた。
(独楽がある! 淀屋の独楽が! 三つ目の独楽に相違ない!)
 この時老人が話し出した。
「ね、この独楽へ現われる文字は『真昼頃』という三つの文字と『背後(うしろ)北、左は東、右は西なり』という、十一文字(もじ)の外(ほか)にはない。……もう一つの独楽に現われて来るところの『見る日は南』という五つの文字へ、この独楽へ現われた文字を差し加えると「真昼頃、見る日は南、背後北、左は東、右は西なり」という、一首の和歌になるのだよ。……そうしてこの和歌は古歌の一つで、方角を教えた和歌なのさ。広野か海などをさまよって、不幸にも方角を失った際、それが真昼であったなら、先ず太陽を見るがよい。太陽は南にかかっているであろう。だから背後は北にあたり、左は東、右は西にあたる。――ただこういう意味なのだよ」
「でも、そんな和歌が淀屋の財宝と、どんな関係があるのでございます?」と好奇心で眼を輝かせながら、お八重は息をはずませて訊いた。
「淀屋の財宝の所在(ありばしょ)が、この和歌の中に詠まれているのだよ。……太陽を仰いでいる人間の位置は、東西南北の中央にある。その人間の位置にあたる所に、淀屋の財宝が隠されてあるのさ」
「ではどこかの中央に?」
「この屋敷の中央に?」
「この屋敷の中央とは?」
「荏原屋敷は大昔においては、沼を中央にして作られていたものさ」
「まア、では、財宝は古沼の中に?」
「沼の中央は岩の小島なのさ」
「まア、では、沼の小島の内に?」
「小島の中央は祠なのだ」
「では淀屋の財宝は祠の中に隠されてあるのね」
「そうだ」と老人は感慨深そうに云った。
「そうしてそのことを知っている者は、荏原屋敷の先代の主人と、この飛加藤の亜流だけなのさ。そうしてそのことを記してあったのは、三つの淀屋の独楽だけだったのさ。その独楽は以前には三つながら、荏原屋敷にあったのさ。ところがいつの間にか三つながら、荏原屋敷から失われてしまった。だがその中の一つだけは、ずっとわしが持っていた。……それにしても淀屋の独楽を巡って、幾十人の者が長の年月、悲劇や喜劇を起こしたことか。……でも、いよいよ淀屋の独楽が、一所に集まる時期が来た。……お八重、わしに従(つ)いておいで。淀屋の財宝の莫大な額を、親しくお前の眼に見せてあげよう」
 地上の独楽を懐中に納め、龕燈を取り上げて飛加藤の亜流は、やおら草から立ち上った。
 お八重もつづいて立ち上ったが、
「でも叔父様、船もないのに、沼を渡って、どうして小島へ……」

因果応報

「ナーニ、わしは飛加藤の亜流だよ。どんなことでも出来る人間だよ。そうしてわしに従(つ)いてさえ来れば、お前もどんなことでも出来るのだよ。……沼を渡って行くことなども……」
 二人は沼の方へ歩いて行った。
 藪の陰に佇んで、見聞きしていた頼母は太い息を吐き、
「さてはそういう事情だったのか」と声に出して呟いた。
(淀屋の独楽の隠語は解けた。淀屋の財宝の在場所も知れた)
 このことは頼母には有り難かったが、飛加藤の亜流とお八重とが揃って、財宝の所在地へ行くということが、どうにも不安でならなかった。
(財宝を二人に持ち出されては、これまでの苦心も水の泡だ)
 こう思われるからであった。
(俺も沼の中の島へ行こう)
 ――頼母は飛加藤の亜流の後を追い、沼の方へ小走った。
 頼母が沼の縁へ行きついた時、彼の眼に不思議な光景が見えた。
 月光に薄光っている沼の上を、飛加藤の亜流という老人が、植木師風のお八重を連れ、まるで平地でも歩くように、悠々と歩いて行くのであった。重なっていた浮藻が左右に別れ、水に浮いて眠っていた鴨の群が、これも左右に別れるのさえ見えた。
(水も泥も深い沼だのに、どうして歩いて行けるのだろう?)
 超自然的の行動ではなくて、水中に堤防が作られていて、陸からはそれが見えなかったが、飛加藤の亜流には解(わか)っていたので、それを渡って行ったまでである。しかし頼母には解っていなかったので、呆然佇んで見ていたが、
(そうだ、飛加藤の亜流には、出来ないことはないはずだった。水を渡ることなど何でもないのだろう。……飛加藤の亜流にさえ従(つ)いて行けば、こっちの身も沼を渡れるだろう)
 頼母は沼の中へ入って行った。
 しかし数間とは歩けなかった。水が首まで彼を呑んだ。蛭、長虫が彼を目指し、四方八方から泳ぎ寄って来た。
「助けてくれーッ」と悲鳴を上げ、頼母は岸へ帰ろうとした。
 しかし深い泥が彼の足を捉え、彼を底の方へ引き込んだ。
 突然彼の姿が見えなくなり、彼の姿の消えた辺りへ、泡と渦巻とが現われた。
 と、ふいにその水面へ、一つの独楽が浮かび上った。頼母の持っていた独楽であって、水底に沈んだ彼の懐中から、水の面へ現われたのであった。独楽にも長虫はからみ付いていた。そうしてその虫は島を指して泳いだ。飛加藤の亜流とお八重との姿が、その島の岸に立っていた。そっちへ独楽は引かれて行く。

 閉扉(あけず)の館の二階では、なお血闘が行なわれていた。頼母の家来の数名の者が、死骸となって転がっていた。
 髪を乱し襟を拡げ、返り血を浴びた主税がその間に立ち、血にぬれた刀を中段に構え、開いている雨戸から射し込んでいる月光(ひかり)に、姿を仄かに見せていた。
 その背後(うしろ)に息を呑み、あやめとお葉とが立っていた。二人の女の持っている刀も、ヌラヌラと血にぬれていた。そうして二人の女の裾には、ほとんど正気を失ったところの、松女が倒れて蠢いていた。
 階段の下からは罵る声や怒声が、怯かすように聞こえてくる。
 しかし登っては来なかった。
 これ迄に登って行った者一人として、帰って来る者がないからであった。決死の主税に一人のこらず、二階で討って取られたからであった。
 しかしにわかにその階下から、主馬之進の声が聞こえてきた。
「お松、お松、お松は二階か! 心配するな、俺が行く!」
 つづいて勘兵衛の声が聞こえる。
「旦那、あぶねえ、まアお待ちなすって! ……とてもあぶねえ、うかつには行けねえ! ……行くなら皆で、みんなで行きやしょう! ……覚兵衛殿、覚兵衛殿、あんたが真先に!」
 しかし飛田林覚兵衛の声は、それに対して何とも答えなかった。
「お松、お松!」と主馬之進の声が、また悲痛に聞こえてきた。
「すぐ行くぞよ、しっかりしてくれ!」
「勘兵衛放せ、えい馬鹿者!」
 つづいて階段を駆け上る音がし、階段口を睨んでいる主税の眼に、主馬之進の狂気じみた姿が映った。
「…………」

人々の運命

(来たな!)と主税は雀躍(こおどり)したが、相手を身近く引寄せようとして、かえって部屋の隅へ退いた。
「あなた!」とさながら巾(きぬ)を裂くような声で、倒れている松女が叫んだのは、主馬之進が階段を上り尽くし、二階へ現われた時であった。
「お松!」と叫んで蹣跚(よろめき)々々、主馬之進はお松の方へ走り寄った。
「…………」
「…………」
 が、その瞬間あやめとお葉とが、左右から飛鳥のように躍りかかり、
「お父様の敵(かたき)!」とあやめは叫び、脇差で主馬之進の胸を突くと、
「お父様の敵!」とお葉も叫び、主馬之進の脇腹を匕首(あいくち)で刺した。
 グタグタと主馬之進は仆たれが、必死の声を絞って叫んだ。
「ま、待ってくれ! 少し待ってくれ! どうせ殺されて死んでゆく俺(わし)、殺されるのは恐れないが、それ前にお松へ云いたいことがある! それも懺悔だ、お松へのお礼だ! ……おおおおお松、よくまアこれまで、貞女を保ってくらして来たなア。……俺と夫婦にはなったものの、拒んで拒んで拒みとおして、俺とは一度の枕も交わさず、よくまア貞操(みさお)を立て通したものだ! ……そのため俺はどんなに怒り、どんなに苦しみ苦しんだことか! ……しかし今になって考えてみれば、けっきょくお前が偉かったのだ! ……俺はただ名ばかりの良人(おっと)として、荏原屋敷の格と財産とを、今日まで守護して来たばかりだった。……」
「主馬之進殿オーッ」
 松女は松女で、主馬之進へ取り縋り、
「あなたが御兄上の頼母様ともども、わたくしの家へ接近なされ、先代の主人わたくしの良人と、何くれとなく懇意になされ、やがては荏原屋敷の家政へまで、立ち入るようになりましたので、苦々しく思っておりましたところ、わたくし良人の申しますには『わしはもう長の病気、余命わずかと覚悟しておる。わがなき後はこの大家族の、荏原屋敷を切り廻してゆくこと、女のお前ではとうてい出来ない。幸い主馬之進殿そなたに対し、愛情を感じておるらしく、それに主馬之進殿の兄上は、田安家の奥家老で権勢家、かたがた都合がよいによって、俺(わし)の死んだ後は主馬之進殿と、夫婦になって荏原屋敷を守れ』と……その時妾(わたし)はどんなに悲しく『いいえ妾はあなたの妻、あなたがおなくなりなさいました後は、有髪の尼の心持で、あなた様のご冥福をお祈りし』『それでは屋敷は滅びるぞ! 先祖に対して相済まぬ!』『では妾は形ばかり主馬之進様の妻となり……』こうして妾は良人の死後……」
「その御先代の死態だが……」
 いよいよ迫る死の息の下で、主馬之進は云いついだ。
「変死、怪死、他殺の死と、人々によって噂され、それに相違なかったが、しかし決してこの主馬之進が、手をくだして殺したのでもなく、他人(ひと)にすすめて殺したのでもない! ……わしの僕(しもべ)のあの勘兵衛、わしがこの家へ住み込ませたが、性来まことにかるはずみの男、勝手にわしの心持を……わしが先代のこの屋敷の主人の、死ぬのを希望(のぞ)んでいるものと推し、古沼から毒ある長虫を捕り、先代の病床へ投げ込んで……」
 しかしこれ以上断末魔の彼には、言葉を出すことが出来なくなったらしい、両手で虚空を握むかと見えたが、体をのばして動かなくなった。
「あやめよ、お葉よ、二人の娘よ!」と、これは精神の過労から、死相を呈して来た松女は叫んだ。
「お前たちの母は、荏原屋敷の主婦は、おおおお決してお前たちの、思い込んでいたような悪女でないこと……お解(わか)りかお解りか! ……なき良人の遺言を守って、家のためにこの身を苦しめ……でも、もう妾は生きていたくない! ……可哀そうな主馬様の後を追い……」
「お母様アーッ」
「お母様アーッ」
 意外の事の真相に、心を顛動させた二人の娘は、左右から母へすがりついた。
「そうとは知らずお母様を怨み……」
「そうとは知らず主馬之進殿を殺し……」
「わたしたちこそどうしよう!」
「お母様アーッ」
「主馬之進様アーッ」
「いやいや」と、本当に最後の息で、主馬之進は言葉を発した。
「やっぱりわしは殺されていい男……荏原屋敷を横領し、隠されてある淀屋の財宝を、ウ、奪おう、ト、取ろうと……殺されていい身じゃ殺されていい身じゃ」
 まったく息が絶えてしまった。
 途端に松女もガックリとなった。
 この時階段の上り口から、勘兵衛の狼狽した喚き声が聞こえた。
「不可(いけ)ねえ、殺(やら)れた、旦那が殺れた! ……オ、奥様も死んだらしいわ――ッ」
 バタバタと階段から駈け下りる音が、けたたましく聞こえてきた。
 しかし、その音は中途で止んで、呻き声が聞こえてきた。見れば階段の中央の辺りに、勘兵衛の体が延びていた。
 紐が首に捲き付いている。
 そうしてその紐は手繰(たぐ)られて、勘兵衛の体は階段を辷って、二階の方へ上って行った。紐を手繰っているのはあやめであった。
「古沼から蝮を捕らえて来て、この座敷へ投げ入れて、直々お父様を殺した汝(おのれ)! 今度こそ遁さぬくたばれくたばれ!」
 勘兵衛の体が二階へ上るや、あやめは勘兵衛に引導を渡し、脇差で勘兵衛の咽喉をえぐった。
 ある時は主馬之進の若党となり、ある時は見世物の太夫元となり、ある時は荏原屋敷の僕(しもべ)となり、又ある時は松浦頼母の用心棒めいた家来となって、悪事をつくした執念深い、一面道化た勘兵衛も、今度こそ本当に殺されたのであった。

 なお階下(した)にいる敵(かたき)の輩下を、討って取ろうと主税[#「主税」は底本では「主悦」]やあやめ達が、二階から階下へ駈け下りるや、飛田林覚兵衛が先ず逃走し、その他の者共一人残らず、屋敷から逃げ出し姿を消してしまった。
 こうして今までは修羅の巷として、叫喚と悲鳴とで充たされていた屋敷は、静寂の場と化してしまった。わけてもあけずの館の二階は、無数の死骸を抱いたまま凄じい静かさに包まれていた。
 と、その部屋へ雨戸の隙から、子供のような物が飛び込んで来た。
 それは藤八猿であった。
 乱闘の際に懐中(ふところ)から落とした、主税[#「主税」は底本では「主悦」]の持っていた淀屋の独楽が、部屋の片隅にころがっているのへ、その藤八猿は眼を付けると、それを抱いて部屋を飛び出し、雨戸の隙から庭へ下り、さらに林の中へ走り込んだ。
 でも古沼の縁まで来た時、その独楽にも飽きたと見え、沼を目掛けて投げ込んだ。
 と独楽は自ずと動いて、小島の方へ進んで行った。飛加藤の亜流が超自然の力で、独楽を島の方へ招いたのでもあろうか。いややはり長虫が巻き付いていて、島の方へ泳いで行ったからである。


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