仇討姉妹笠
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著者名:国枝史郎 

袖の中には?

 舞台には季節にふさわしい、夜桜の景がかざられてあった。
 奥に深々と見えているのは、祇園辺りの社殿(やしろ)であろう、朱の鳥居や春日燈籠などが、書割の花の間に見え隠れしていた。
 上から下げられてある桜の釣花の、紙細工の花弁が枝からもげて、時々舞台へ散ってくるのも、なかなか風情のある眺望(ながめ)であった。
 濃化粧の顔、高島田、金糸銀糸で刺繍(ぬいとり)をした肩衣(かたぎぬ)、そうして熨斗目(のしめ)の紫の振袖――そういう姿の女太夫の、曲独楽使いの浪速(なにわ)あやめが、いまその舞台に佇みながら、口上を述べているのであった。
「独楽のはじまりは唐の海螺弄(はいまわし)、すなわち海の螺貝(らがい)を採り、廻しましたのがそのはじまり、本朝に渡来いたしまして、大宮人のお気に召し、木作りとなって喜遊道具、十八種の中に数えられましたが、民間にはいってはいよいよますます、製法使法発達いたし、浪速の建部四国(たてべしこく)太夫が、わけても製法使法の達人、無双の名人にござりました。これより妾(わたし)の使いまする独楽は、その四国太夫の製法にかかわる、直径(さしわたし)一尺の孕(はらみ)独楽、用うる紐は一丈と八尺、麻に絹に女の髪を、綯(な)い交ぜにしたものにござります。……サッと投げてスッと引く、紐さばきを先ずご覧(ろう)じませ。……紐を放れた孕独楽が、さながら生ける魂あって、自在に動く神妙の働き、お眼とめてご覧じ下さりませ! ……東西々々」
 こういう声に連れて、楽屋の方からも東西々々という声が、さも景気よく聞こえてきた。
 すると、あやめは赤毛氈を掛けた、傍(かたえ)の台から大独楽を取上げ、それへ克明に紐を捲いたが、がぜん左肩を上へ上げ、独楽を持った右手を頭上にかざすと、独楽を宙へ投げ上げた。
 次の瞬間に見えたものは、翩翻と返って来た長紐と、鳥居の一所に静止して、キリキリ廻っている独楽とであった。
 そうしてその次に起こったことは、土間に桟敷に充ち充ちていた、老若男女の見物が、拍手喝采したことであった。
 しかし壮観(みもの)はそればかりではなく、すぐに続いて見事な業が、見物の眼を眩惑(くら)ました。
 あやめが黒地に金泥をもって、日輪を描き出した扇を開き、それをもって大独楽を受けたとたんに、その大独楽が左右に割れ、その中から幾個(いくつ)かの小独楽を産み出し、産み出された小独楽が石燈籠や鳥居や、社殿の家根(やね)などへ飛んで行き、そこで廻り出したことであった。
 また見物たちは喝采した。
 と、この時舞台に近い桟敷で、人々に交って見物していた二十五六歳の武士があったが、
「縹緻(きりょう)も佳(よ)いが芸(げい)も旨(うま)いわい」と口の中で呟いた。
 田安中納言家(たやすちゅうなごんけ)の近習役の、山岸主税(やまぎしちから)という武士であった。
 色白の細面、秀でた眉、高い鼻、いつも微笑しているような口、細味ではあるが睫毛が濃く、光こそ鋭く強かったが、でも涼しい朗かな眼――主税は稀に見る美青年であった。
 その主税の秀麗な姿が、曲独楽定席のこの小屋を出たのは、それから間もなくのことであり、小屋の前に延びている盛場の、西両国の広小路を、両国橋の方へ歩いて行くのが、群集の間に雑って見えた。
 もう夕暮ではあったけれど、ここは何という雑踏なのであろう。
 武士、町人、鳶ノ者、折助(おりすけ)、婢女(げじょ)、田舎者(おのぼりさん)、職人から医者、[#「医者、」は底本では「医者」]野幇間(のだいこ)、芸者(はおり)、茶屋女、女房子供――あらゆる社会(うきよ)の人々が、忙しそうに又長閑(のどか)そうに、往くさ来るさしているではないか。
 無理もない! 歓楽境なのだから。
 だから往来の片側には、屋台店が並んでおり、見世物小屋が立っており、幟(のぼり)や旗がはためいており、また反対の片側には、隅田川に添って土地名物の「梅本」だの「うれし野」だのというような、水茶屋が軒を並べていた。
 主税は橋の方へ足を進めた。
 橋の上まで来た時である、
「おや」と彼は呟いて、左の袖へ手を入れた。
「あ」と思わず声をあげた。
 袖の中には小独楽が入っていたからである。
(一体これはどうしたというのだ)
 独楽を掌(てのひら)の上へ載せ、体を欄干へもたせかけ、主税はぼんやり考え込んだ。
 が、ふと彼に考えられたことは、あやめが舞台から彼の袖の中へ、この独楽を投げ込んだということであった。
(あれほどの芸の持主なのだから、それくらいのことは出来るだろうが、それにしても何故に特に自分へこのようなことをしたのだろう?)
 これが不思議でならなかった。

怪しの浪人

 ふと心棒を指で摘み、何気なく一捻り捻ってみた。
「あ」と又も彼は言った。
 独楽は掌の上で廻っている。
 その独楽の心棒を中心にして、独楽の面に幾個(いくつ)かの文字が白く朦朧と現われたからである。
「淀」という字がハッキリと見えた。
 と、独楽は廻り切って倒れた。
 同時に文字も消えてしまった。
「変だ」と主税(ちから)は呟きながら、改めて独楽を取り上げて、眼に近付けて子細に見た。
 何の木で作られてある独楽なのか、作られてから幾年を経ているものか、それが上作なのか凡作なのか、何型に属する独楽なのか、そういう方面に関しては、彼は全く無知であった。が、そういう無知の彼にも、何となくこの独楽が凡作でなく、そうして制作されて以来、かなりの年月を経ていることが感じられてならなかった。
 この独楽は直径二寸ほどのもので、全身黒く塗られていて、面に無数の筋が入っていた。
 しかし、文字などは一字も書いてなかった。
「変だ」と同じことを呟きながら、なおも主税は独楽を見詰めていたが、また心棒を指で摘み、力を罩(こ)めて強く捻った。
 独楽は烈しく廻り出し、その面へ又文字を現わした。しかし不思議にも今度の文字は、さっきの文字とは違うようであった。
「淀」という文字などは見えなかった。
 その代わりかなりハッキリと「荏原(えばら)屋敷」という文字が現われて見えた。
「面の筋に細工があって、廻り方の強さ弱さによって、いろいろの文字を現わすらしい」
(そうするとこの独楽には秘密があるぞ)
 主税はにわかに興味を感じて来た。
 すると、その時背後から、
「お武家、珍しいものをお持ちだの」と錆のある声で言うものがあった。
 驚いて主税は振り返って見た。
 三十五六の浪人らしい武士が、微笑を含んで立っていた。
 髪を総髪の大束(おおたぶさ)に結び、素足に草履を穿いている。夕陽の色に照らされていながら、なお蒼白く感じられるほど、その顔色は白かった。左の眼に星の入っているのが、いよいよこの浪人を気味悪いものにしていた。
「珍らしいもの? ……何でござるな?」
 主税は独楽を掌に握り、何気なさそうに訊き返した。
「貴殿、手中に握っておられるもので」
「ははあこれで、独楽でござるか。アッハッハッ、子供騙しのようなもので」
「子供騙しと仰せられるなら、その品拙者に下さるまいか」
「…………」
「子供騙しではござるまい」
「…………」
「その品どちらで手に入れられましたかな?」
「ほんの偶然に……たった今しがた」
「ほほう偶然に……それも今しがた……それはそれはご運のよいことで……それに引き換え運の悪い者は、その品を手中に入れようとして、長の年月を旅から旅へ流浪いたしておりまするよ」
「…………」
「貴殿その品の何物であるかを、ではご存知ではござるまいな?」
「左様、とんと、がしかし、……」
「が、しかし、何でござるな?」
「不思議な独楽とは存じ申した」
「その通りで、不思議な独楽でござる」
「廻るにつれて、さまざまの文字が……」
「さようさよう現われまする。独楽の面へ現われまする。で、貴殿、それらの文字を、どの程度にまで読まれましたかな?」
「淀という文字を目つけてござる」
「淀? ははア、それだけでござるか?」
「いやその他に荏原屋敷という文字も」
「ナニ荏原屋敷? 荏原屋敷? ……ふうん左様か、荏原屋敷――いや、これは忝(かたじけ)のうござった」
 云い云い浪人は懐中へ手を入れ、古びた帳面を取り出したが、さらに腰の方へ手を廻し、そこから矢立を引き抜いて、何やら帳面へ書き入れた。

睨み合い

「さてお武家」と浪人は言った。
「その独楽を拙者にお譲り下されい」
「なりませぬな、お断りする」
 はじめて主税はハッキリと言った。
「貴殿のお話承(うけたま)わらぬ以前(まえ)なら、お譲りしたかは知れませぬが、承わった現在においては、お譲りすることなりませぬ」
「ははあさては拙者の話によって……」
「さよう、興味を覚えてござる」
「興味ばかりではござるまい」
「さよう、価値をも知ってござる」
「独楽についての価値と興味とをな」
「さようさよう、その通りで」
「そうすると拙者の言動は、藪蛇になったというわけでござるかな」
「お気の毒さまながらその通りで」
「そこで貴殿にお訪(たず)ねしますが、この拙者という人間こそ、その独楽を手中に入れようとして、永年尋ねておりました者と、ご推量されたでござりましょうな」
「さよう、推量いたしてござる」
「よいご推量、その通りでござる。……そこであからさまにお話しいたすが、その独楽を手中に入れようとする者、拙者一人だけではないのでござるよ。……拙者には幾人か同志がござってな、それらの者が永の年月、その独楽を手中に入れようとして、あらゆる苦労をいたしておるのでござる」
「さようでござるか、それはそれは」
「以前は大阪にありましたもので、それがほんの最近になって、江戸へ入ったとある方面よりの情報。そこで我ら同志と共々、今回江戸へ参りましたので」
「さようでござるか、それはそれは」
「八方探しましたが目つかりませなんだ」
「…………」
「しかるにその独楽の価値も知らず、秘密も知らぬご貴殿が、大した苦労もなされずに、楽々と手中へ入れられたという」
「好運とでも申しましょうよ」
「さあ、好運が好運のままで、いつまでも続けばよろしいが」
「…………」
「貴殿」と浪人は威嚇(おどか)すように言った。
「拙者か、拙者の同志かが、必ずその独楽を貴殿の手より……」
「無礼な! 奪うと仰せられるか!」
「奪いますとも、命を殺(あや)めても!」
「ナニ、命を殺めても?」
「貴殿の命を殺めても」
「威嚇(おどかし)かな。怖いのう」
「アッハッハッ、そうでもござるまい。怖いのうと仰せられながら、一向怖くはなさそうなご様子。いや貴殿もしっかりものらしい。……ご藩士かな? ご直参かな? 拙者などとは事変わり、ご浪人などではなさそうじゃ。……衣装持物もお立派であるし。……いや、そのうち、我らにおいて、貴殿のご身分もご姓名も、探り知るでござりましょうよ。……ところでお尋ねしたい一儀がござる。……曲独楽使いの女太夫、浪速(なにわ)あやめと申す女と、貴殿ご懇意ではござりませぬかな?」
 言われて主税(ちから)はにやりとしたが、
「存じませぬな、とんと存ぜぬ」
「ついそこの曲独楽の定席へ、最近に現われた太夫なので」
「さような女、存じませぬな」
「嘘言わっしゃい!」と忍び音ではあったが、鋭い声で浪人は言った。
「貴殿、その独楽を、浪速あやめより、奪い取ったに相違ない!」
「黙れ!」と主税は怒って呶鳴った。
「奪ったとは何だ、無礼千万! 拙者は武士だ、女芸人風情より……」
「奪ったでなければ貰ったか!」
「こやつ、いよいよ……汝(おのれ)、一刀に!」
「切ろうとて切られぬわい。アッハッハッ、切られぬわい。……が、騒ぐはお互いに愚、愚というよりはお互いに損、そこで穏やかにまた話じゃ。……否」というとその浪人は、しばらくじっと考えたが、
「口を酸くして説いたところで、しょせん貴殿には拙者の手などへ、みすみすその独楽お渡し下さるまいよ、……そこで、今日はこれでお別れいたす。……だが、貴殿に申し上げておくが、その独楽貴殿のお手にあるということを、拙者この眼で見た以上、拙者か拙者の同志かが、早晩必ず貴殿のお手より、その独楽を当方へ奪い取るでござろう。――ということを申し上げておく」
 言いすてると浪人は主税へ背を向け、夕陽が消えて宵が迫っているのに、なおも人通りの多い往来(とおり)を、本所の方へ歩いて行った。

闇に降る刃

 その浪人の背後(うしろ)姿を、主税はしばらく見送ったが、
(変な男だ)と口の中で呟き、やがて自分も人波を分け、浅草の方へ歩き出した。
 歩きながら袖の中の独楽を、主税はしっかりと握りしめ、
 ――あの浪人をはじめとして、同志だという多数の人々が、永年この独楽を探していたという。ではこの独楽には尋常(ひととおり)ならない、価値と秘密があるのだろう。よし、では、急いで家へ帰って、根気よく独楽を廻すことによって、独楽の面へ現われる文字を集め、その秘密を解き価値を発見(みつ)けてやろう。――興味をもってこう思った。
(駕籠にでも乗って行こうかしら?)
(いや)と彼は思い返した。
(暗い所へでも差しかかった時、あの浪人か浪人の同志にでも、突然抜身を刺し込まれたら、駕籠では防ぎようがないからな。……先刻(さっき)の浪人の剣幕では、それくらいのことはやりかねない)
 用心しいしい歩くことに決めた。
 平川町を通り堀田町を通った。
 右手に定火消の長屋があり、左手に岡部だの小泉だの、三上だのという旗本屋敷のある、御用地近くまで歩いて来た時には、夜も多少更けていた。
 御用地を抜ければ田安御門で、それを通れば自分の屋敷へ行けた。それで、主税は安堵の思いをしながら、御用地の方へ足を向けた。
 しかし、小泉の土塀を巡って、左の方へ曲がろうとした時、
「居たぞ!」「捕らえろ!」「斬ってしまえ!」と言う、荒々しい男の声が聞こえ、瞬間数人の武士が殺到して来た。
(出たな!)と主税は刹那に感じ、真先に切り込んで来た武士を反(かわ)し、横から切り込んで来た武士の鳩尾(みぞおち)へ、拳で一つあてみをくれ、この勢いに驚いて、三人の武士が後へ退いた隙に、はじめて刀を引っこ抜き、正眼に構えて身を固めた。
 すると、その時一人の武士が、主税を透かして見るようにしたが、
「や、貴殿は山岸氏ではないか」と驚いたように声をかけた。
 主税も驚いて透かして見たが、
「何だ貴公、鷲見(すみ)ではないか」
「さようさよう鷲見与四郎(よしろう)じゃ」
 それは同じ田安家の家臣で、主税とは友人の関係にある、近習役の鷲見与四郎であった。
 見ればその他の武士たちも、ことごとく同家中の同僚であった。
 主税は唖然として眉をひそめたが、
「呆れた話じゃ、どうしたというのだ」
「申し訳ない、人違いなのじゃ」
 言い言い与四郎は小鬢を掻いた。
「承知の通りのお館の盗難、そこで拙者ら相談いたし、盗人をひっ捕らえようといたしてな、今夜もお館を中心にして、四方を見廻っていたところ、猿廻しめに邂逅いたした」
「猿廻し? 猿廻しとは?」
「長屋の女小供の噂によれば、この頃若い猿廻しめが、しげしげお長屋へやって来て、猿を廻して銭を乞うそうじゃ」
「そこで、怪しいと認めたのじゃな」
「いかにも、怪しいと認めたのじゃ。……その怪しい猿廻しめに、ついそこで逢ったので、ひっ捕らえようとしたところ、逃げ出しおって行方不明よ」
「なに逃げ出した? それなら怪しい」
「……そこへ貴殿が土塀を巡って、突然姿をあらわしたので……」
「猿まわしと見誤ったというのか?」
「その通りじゃ、いやはやどうも」
「拙者猿は持っていない」
「御意で、いやはや、アッハッハッ」
「そそっかしいにも程があるな」
「程があるとも、一言もない、怪我なかったが幸いじゃ」
「すんでに貴公を斬るところだった。これから貴公たちどうするつもりじゃ」
「剛腹[#「剛腹」はママ]じゃ。このままではのう。……そこでこの辺りをもう一度探して……」
「人違いをして叩っ切られるか」
「まさか、そうそうは、アッハッハッ。……貴殿も一緒に探さぬかな」
「厭なことじゃ。ご免蒙ろう。……今日拙者は非番なのでな、そこで両国へ行ったところ、あそこへ行くと妙なもので、田舎者(おのぼりさん)のような気持になる。それで拙者もその気になって、曲独楽の定席へ飛び込んだものよ。すると、そこに綺麗な女太夫がいて……」
「ははあ、その美形を呼び出して、船宿でか? ……こいつがこいつが!」
「何の馬鹿らしいそのようなこと。……もう女には飽きている身じゃ。……ただその美しい女太夫から、珍らしい物を貰うたので、これから緩々(ゆるゆる)屋敷へ帰って、その物を味わおうとこういうのじゃ。……ご免」と主税は歩き出した。

猿廻し

 歩きながら考えた。
 何故この頃お館には、金子などには眼をくれず、器物ばかりを狙って盗む、ああいう盗難があるのだろう? それも一度ならずも二度三度、頻々としてあるのだろう?
(ある何物かを手に入れようとして、それに関係のありそうな器物を、狙いうちにして盗んでいるようだ。……そのある物とは何だろう?)
 これまで盗まれた器物について、彼は記憶を辿ってみた。
 蒔絵の文庫、青銅の香爐、明兆(みんちょう)の仏書、利休の茶柄杓、世阿弥筆の謠の本……等々高価の物ばかりであった。
(盗難も盗難だがこのために、お館の中が不安になり、お互い同士疑い合うようになり、憂鬱の気の漂うことが、どうにもこうにもやりきれない)
 こう主税は思うのであった。
(お互い同士疑い合うのも、理の当然ということが出来る。お館の中に内通者があって、外の盗賊と連絡取ればこそ、ああいう盗みが出来るのだからなア。……そこで内通者は誰だろうかと、お互い同士疑い合うのさ)
 主税はこんなことを考えながら、御用地の辺りまで歩いて来た。
 御用地なので空地ではあるが、木も雑草も繁っており、石材なども置いてあり、祠なども立っており、水溜や池などもある。そういう林であり藪地なのであった。
 と、その林の奥の方から、キ――ッという猿の啼声が、物悲しそうに聞こえてきた。
(おや)と主税は足を止めた。
(いかに藪地であろうとも、猿など住んでいるはずはない。……では話の猿廻しが?)
 そこで主税は堰を飛び越え、御用地の奥の方へ分け入った。草の露が足をぬらし、木の枝が顔を払ったりした。
 また猿の啼声が聞こえてきた。
 で、主税は突き進んだ。
 すると、果たして一人の猿廻しが、猿を膝の上へ抱き上げて、祠の裾の辺りへうずくまり、編笠をかむった顔を俯向けて、木洩れの月光に肩の辺りを明るめ、寂しそうにしているのが見えた。
「猿廻し!」と声をかけ、突然主税はその前へ立った。
「用がある、拙者と一緒に参れ!」
「あッ」と猿廻しは飛び上ったが、木の間をくぐって逃げようとした。
「待て!」
 主税は足を飛ばせ、素早くその前へ走って行き、左右に両手を開いて叫んだ。
「逃げようとて逃がしはせぬ、無理に逃げればぶった斬るぞ!」
「…………」
 しかし無言で猿廻しは、両手で猿を頭上に捧げたが、バッとばかりに投げつけた。
 キ――ッと猿は宙で啼き、主税の顔へ飛びついて来た。
「馬鹿者!」
 怒号して拳を固め、猿を地上へ叩き落とし、主税は猛然と躍りかかった。
 だが、何と猿廻しの素早いことか、こんもり盛り上っている山査子(さんざし)の叢(むら)の、丘のように高い裾を巡って、もう彼方(むこう)へ走っていた。
 すぐに姿が見えなくなった。
(きゃつこそ猿だ! なんという敏捷(すばしっこ)さ!)
 主税は一面感心もし、また一面怒りを感じ、憮然として佇んだが、気がついて地上へ眼をやった。
 叩き落とした猿のことが、ちょっと気がかりになったからである。
 木洩れの月光が銀箔のような斑(ふ)を、枯草ばかりで青草のない、まだ春なかばの地面のあちこちに、露を光らせて敷いていて、ぼっと地面は明るかったが、猿の姿は見えなかった。
(たしかこの辺りへ叩き落としたはずだが)
 主税は地面へ顔を持って行った。
「あ」
 声に出して思わず言った。
 小独楽が一個(ひとつ)落ちているではないか。
 主税は袖を探ってみた。
 袖の中にも小独楽はあった。
(では別の独楽なのだな)
 地上の独楽を拾い上げ、主税は眼に近く持って来た。その独楽は大きさから形から、袖の中の独楽と同じであった。
「では」と呟いて左の掌の上で、主税は独楽を捻って廻し、月光の中へ掌を差し出し、廻る独楽の面をじっと見詰めた。
 しかし、独楽の面には、なんらの文字も現われなかった。
(この独楽には細工はないとみえる)
 いささか失望を感じながら、廻り止んだ独楽をつまみ上げ、なお仔細(こまか)く調べてみた。
 すると、独楽の面の手触りが何となく違うように思われた。
(はてな?)と主税は指に力を罩(こ)め、その面を強く左の方へ擦った。

不思議な老人

「おおそうか、蓋なのか」と、擦ったに連れて独楽の面が弛み、心棒を中心にして持ち上ったので、そう主税(ちから)は呟いてすぐにその蓋を抜いてみた。
 独楽の中は空洞(うつろ)になっていて畳んだ紙が入れてあった。
 何か書いてあるようである。
 そこで、紙を延ばしてみた。
三十三、四十八、二十九、二十四、二十二、四十五、四十八、四、三十五
 と書いてあった。
(何だつまらない)と主税は呟き、紙を丸めて捨ようとしたが、
(いや待てよ、隠語(かくしことば)かもしれない)
 ふとこんなように思われたので、またその紙へ眼を落とし、書かれてある数字を口の中で読んだ。
 それから指を折って数え出した。
 かなり長い間うち案じた。
「そうか!」と声に出して呟いた時には、主税の顔は硬ばっていた。
(ふうん、やはりそうだったのか、……しかし一体何者なのであろう?)
 思いあたることがあると見えて、主税はグッと眼を据えて、空の一所へ視線をやった。
 と、その視線の遥かかなたの、木立の間から一点の火光(ひかり)が、薄赤い色に輝いて見えた。
 その火はユラユラと揺れたようであったが、やがて宙にとどまって、もう揺れようとはしなかった。
(こんな夜更けに御用地などで、火を点(と)もすものがあろうとは?)
 重ね重ね起こる変わった事件に、今では主税は当惑したが、しかし好奇心は失われないばかりか、かえって一層増して来た。
(何者であるか見届けてやろう)
 新規に得た独楽を袖の中へ入れ、足を早めて火光の見える方へ、木立をくぐり藪を巡って進んだ。
 火光から数間のこなたまで来た時、その火光が龕燈の光であり、その龕燈は藪を背にした、栗の木の枝にかけられてある。――ということが見てとられた。
 だがその他には何があったか?
 その火の光に朦朧と照らされ、袖無を着、伊賀袴を穿いた、白髪白髯の老人と、筒袖を着、伊賀袴を穿いた、十五六歳の美少年とが、草の上に坐っていた。
 いやその他にも居るものがあった。
 例の猿廻しと例の猿とが同じく草の上に坐っていた。
(汝(おのれ)!)と主税は心から怒った。
(汝、猿廻しめ、人もなげな! 遠く逃げ延びて隠れればこそ、このような手近い所にいて、火まで燈して平然としているとは! 見おれ[#「見おれ」は底本では「見をれ」]、こやつ、どうしてくれるか!)
 突き進んで躍りかかろうとした。しかし足が言うことをきかなかった。
 と云って足が麻痺したのではなく、眼の前にある光景が、変に異様であり妖しくもあり、厳かでさえあることによって、彼の心が妙に臆(おく)れ、進むことが出来なくなったのである。
(しばらく様子を見てやろう)
 木の根元にうずくまり、息を詰めて窺った。
 老人は何やら云っているようであった。
 白い顎鬚が上下に動き、そのつど肩まで垂れている髪が、これは左右に揺れるのが見えた。
 どうやら老人は猿廻しに向かって、熱心に話しているらしかった。
 しかし距離が遠かったので、声は聞こえてこなかった。
 主税はそれがもどかしかったので、地を這いながら先へ進み、腐ちた大木の倒れている陰へ、体を伏せて聞耳を立てた。
「……大丈夫じゃ、心配おしでない、猿めの打撲傷(うちみ)など直ぐにも癒る」
 こういう老人の声が聞こえ、
「躄者(いざり)さえ立つことが出来るのじゃからのう。――もう打撲傷は癒っているかもしれない。……これこれ小猿よ立ってごらん」
 言葉に連れて地に倒れていた猿が、毬のように飛び上り、宙で二三度翻筋斗(もんどり)を打ったが、やがて地に坐り手を膝へ置いた。
「ね、ごらん」と老人は云った。
「あの通りじゃ、すっかり癒った。……いや誠心(まごころ)で祈りさえしたら、一本の稲から無数の穂が出て、花を咲かせて実りさえするよ」
 その時猿廻しは編笠を脱いで、恭しく辞儀(おじぎ)をした。
 その猿廻しの顔を見て、主税は思わず、
「あッ」と叫んだ。それは女であるからであった。しかも両国の曲独楽使いの、女太夫のあやめであった。

隠語を解く

 曲独楽使いの浪速(なにわ)あやめが、女猿廻しになっている! これは山岸主税(ちから)にとっては、全く驚異といわざるを得なかった。
 しかも同一のその女が、自分へ二つの独楽をくれた。
 そうしてその独楽には二つながら、秘密らしいものがからまっている。
(よし)と主税は決心した。
(女猿廻しを引っとらえ、秘密の内容を問いただしてやろう)
 そこで、主税は立ち上った。
 するとその瞬間に龕燈が消えて、いままで明るかった反動として、四辺(あたり)がすっかり闇となった。
 主税の眼が闇に慣れて、木洩れの月光だけで林の中のようすが、朧気ながらも見えるようになった時には、女猿廻しの姿も、美童の姿も猿の姿も、眼前から消えてなくなっていた。

 その翌日のことである、田安家の奥家老松浦頼母(まつうらたのも)は、中納言家のご前へ出で、
「お館様これを」とこう言上して、一葉の紙片を差し出した。
 泉水に水が落ちていて、その背後(うしろ)に築山があり、築山をめぐって桜の老樹が、花を渦高く咲かせており、その下を将軍家より頂戴したところの、丹頂の鶴が徘徊している――そういう中庭の風景を、脇息に倚って眺めていた田安中納言はその紙片を、無言で取上げ熟視された。
 一杯に数字が書いてあった。
「これは何だ?」と、中納言家は訊かれた。
「隠語とのことにござります」
「…………」
「昨夜近習の山岸主税こと、怪しき女猿廻しを、ご用地にて発見いたし、取り抑えようといたしましたところ、女猿廻しには逃げられましたが、その者独楽を落としました由にて、とりあえず独楽を調べましたところ、この紙片が籠められておりましたとか……これがその独楽にござります」
 頼母は懐中から独楽を出した。
 中納言家はそれを手にとられたが、
「これは奥の秘蔵の独楽じゃ」
「奥方様ご秘蔵の独楽?」
「うん、わしには見覚えがある、これは奥の秘蔵の独楽じゃ。……それにしても怪しい猿廻しとは?」
「近頃、ひんぴんたるお館の盗難、それにどうやら関係あるらしく……」
「隠語の意味わかっておるかな?」
「主税儀(こと)解きましてござります」
「最初に『三十三』と記してあるが?」
「『こ』という意味の由にござります」
「『こ』という意味? どうしてそうなる?」
「いろは四十八文字の三十三番目が『こ』の字にあたるからと申しますことで」
「ははアなるほど」
「山岸主税申しますには、おおよそ簡単の隠語の種本は、いろは四十八文字にござりますそうで、それを上より数えたり、又、下より数えたりしまして、隠語としますそうにござります」
「すると二番目に『四十八』とあるが、これは『ん』の隠語だな」
「御意の通りにござります」
「三番目に『二十九』とあるが、……これは『や』の隠語だな」
「御意の通りにござります」
「その次にあるは『二十四』だから、言うまでもなく『う』の字の隠語、その次の『二十二』は『ら』の字の隠語、その次の『四十五』は『も』の字の隠語、『四十八』は『ん』の字の隠語、『四』は『に』の字の隠語、『三十五』は『て』の字の隠語。……これで全部終えたことになるが、この全部を寄せ集めれば……」
「こんやうらもんにて――となりまする」
「今夜裏門にて――いかにもそうなる」
「事件が昨夜のことにござりますれば、今夜とあるは昨夜のこと。で、昨夜館の裏門にて、何事かありましたと解釈すべきで……」
「なるほどな。……で、何事が?」
「山岸主税の申しまするには、お館の中に居る女の内通者が、外界(そと)の賊と気脈を通じ、昨夜裏門にて密会し……」
「館の中に居る女の内通者とは?」
「その数字の書体、女文字とのことで」
「うむ、そうらしい、わしもそう見た」
「それにただ今うかがいますれば、その独楽は奥方様の御秘蔵の品とか……さすれば奥方様の腰元あたりに、賊との内通者がありまして、そのような隠語を認めまして、その独楽の中へ密封し、ひそかに門外へ投げ出し、その外界の同類の手に渡し、昨夜両人裏門にて逢い……」
「なるほど」
「内通者がお館より掠めました品を、その同類の手に渡したか……あるいは今夜の悪事などにつき、ひそかに手筈を定めましたか……」
「うむ」と云うと中納言家には、眉の辺りに憂色を浮かべ、眼を半眼にして考え込まれた。

腰元の死

「頼母」
 ややあって中納言家は口を開いた。
「これはいかにもお前の言う通り、館の中に内通者があるらしい。そうでなくてあのような品物ばかりが、次々に奪われるはずはない。……ところで頼母、盗まれた品だが、あれらの品を其方(そち)はどう思うな?」
「お大切の品物と存じまする」
「大切の由緒存じおるか?」
「…………」
「盗まれた品のことごとくは、柳営より下されたものなのじゃ」
「…………」
「我家のご先祖宗武(むねたけ)卿が、お父上にしてその時の将軍家(うえさま)、すなわち八代の吉宗(よしむね)将軍家から、家宝にせよと賜わった利休の茶杓子をはじめとし、従来盗まれた品々といえば、その後代々の我家の主人が、代々の将軍家から賜わったものばかりじゃ」
「…………」
「それでわしはいたく心配しておるのじゃ。将軍家より賜わった品であるが故に、いつなんどき柳営からお沙汰があって、上覧の旨仰せらるるやもしれぬ。その時ないとは言われない。盗まれたなどと申したら……」
「お家の瑕瑾(きず)にござります」
「それも一品ででもあろうことか、幾品となく盗まれたなどとあっては……」
「家事不取り締りとして重いお咎め……」
「拝領の品であるが故に、他に遣わしたとは言われない」
「御意の通りにござります」
「頼母!」と沈痛の中納言家は言われた。
「この盗難の背後には、我家を呪い我家を滅ぼそうとする、[#「滅ぼそうとする、」は底本では「滅ぼそうとする。」]恐ろしい陰謀(たくらみ)があるらしいぞ!」
「お館様!」と頼母も顔色を変え、五十を過ごした白い鬢の辺りを、神経質的に震わせた。
 中納言家はこの時四十歳であったが、宗武卿以来聡明の血が伝わり、代々英主を出したが、当中納言家もその選に漏れず、聡明にして闊達であり、それが風貌にも現われていて鳳眼隆鼻高雅であった。
 でも今は高雅のその顔に、苦悶の色があらわれていた。
「とにかく、内通者を至急見現わさねばならぬ」
「御意で。しかしいかがいたしまして?」
「これは奥に取り計らわせよう」
「奥方様にでござりまするか」
「うむ」と中納言家が言われた時、庭の築山の背後から女の悲鳴らしい声が聞こえ、つづいてけたたましい叫び声が聞こえ、すぐに庭番らしい小侍が、こなたへ走って来る姿が見えた。
「ご免」と頼母は一揖してから、ツカツカと縁側へ出て行ったが、
「これ源兵衛何事じゃ□」と庭番の小侍へ声をかけた。
 小侍は走り寄るなり、地面へ坐り手をつかえたが、
「お腰元楓殿が築山の背後にて、頓死いたしましてござります」
「ナニ□」
 頼母は胸を反らせ、
「楓殿が頓死□ 頓死とは?」
「奥方様のお吩咐(いいつけ)とかで、三人の腰元衆お庭へ出てまいられ、桜の花お手折り遊ばされ、お引き上げなさろうとされました際、その中の楓殿不意に苦悶され、そのまま卒倒なされましたが、もうその時には呼吸(いき)がなく……」
「お館様!」と頼母は振り返った。
「履物を出せ、行ってみよう」
 中納言家には立って来られた。
「それでは余りお軽々しく……」
「よい、行ってみよう、履物を出せ」
 庭番の揃えた履物を穿き、中納言家には庭へ出られた。
 もちろん頼母は後からつづいた。
 庭番の源兵衛に案内され、築山の背後へ行った時には、苦しさに身悶えしたからであろう、髪を乱し、胸をはだけた、美しい十九の腰元楓が、横倒しに倒れて死んでいる側(そば)に、二人の腰元が当惑し恐怖し泣きぬれて立っていた。

第二の犠牲

 手折った桜の枝が地に落ちていて、花が屍(しがい)の辺りに散り敷いているのが、憐れさの風情を添えていた。
 中納言家は傷(いた)わしそうに、楓(かえで)の死骸を見下ろしていたが、
「玄達(げんたつ)を呼んでともかくも手当てを」
 こう頼母に囁くように云い、四辺(あたり)を仔細に見廻したが、ふと審しそうに呟かれた。
「この頃に庭を手入れしたと見えるな」
 頼母は庭番の源兵衛へ、奥医師の玄達を連れて来るように吩咐(いいつ)け、それから中納言家へ頭を下げ、
「数日前に庭師を入れまして、樹木の植込み手入れ刈込み、庭石の置き換えなどいたさせました」
「そうらしいの、様子が変わっている」
 改めて中納言家は四辺を見廻された。
 桜の老樹や若木に雑って、棕櫚だの梅だの松だの楓だの、竹だの青桐だのが、趣深く、布置整然と植込まれてい、その間に珍奇な庭石が、春の陽に面を照らしながら、暖かそうに据えられてあった。
 ずっとあなたに椿の林があって、その中に亭が立っていた。
 間もなく幾人かの侍臣と共に、奥医師玄達が小走って来た。大奥の腰元や老女たちも、その後から狼狽(あわて)て走って来た。
 玄達はすぐに死骸の側(そば)へかがみ仔細に死骸を調べ出した。
「駄目か?」と中納言家は小声で訊かれた。
「全く絶望にござります」
 玄達も小声で答えた。
「死因は何か?」
「さあその儀――いまだ不明にござりまする。……腹中の食物など調べましたなら……」
「では、外傷らしいものはないのだな」
「はい、いささかも……外傷らしいものは」
「ともかくも死骸を奥へ運んで、外科医宗沢とも相談し、是非死因を確かめるよう」
「かしこまりましてござります」
 やがて楓の死骸は侍臣たちによって、館の方へ運ばれた。
「不思議だのう」と呟きながら、なお中納言家は佇んでおられた。
 その間には侍臣や腰元たちは、楓を殺した敵らしいものが、どこかその辺りに隠れていないかと、それを探そうとでもするかのように、木立の間や岩の陰や、椿の林などへ分け入った。
 広いといっても庭であり、植込みが繁っているといっても、たかが庭の植込みであって、怪しい者など隠れていようものなら、すぐにも発見されなければならなかった。
 何者も隠れていなかったらしく、人々はポツポツと戻って来た。
 と、不意に人々の間から、絹を裂くような女の悲鳴が聞こえた。
 老女と一緒に来た腰元の中の一人、萩枝(はぎえ)という二十一の小肥りの女が、両手で空を掴みながら、クルリと体を回転し、そのまま地上へ転がったのである。
 狼狽して人々は飛び退いた。
 その人の垣に囲まれたまま、萩枝は地上を転がり廻り、胸を掻き髪を□り、
「苦しい! 麻痺(しびれ)る! ……助けて助けて!」と嗄(しゃが)れた声で叫んだが、見る見る顔から血の気が消え、やがて延びて動かなくなった。

 この日の宵のことであった。山岸主税(ちから)は両国広小路の、例の曲独楽の定席小屋の、裏木戸口に佇んで、太夫元の勘兵衛という四十五六の男と、当惑しながら話していた。
「ではもうあやめは居ないというのか」
「へい、この小屋にはおりません」
「つまり席を退いたのだな」
「と云うことになりましょうね」
 どうにも云うことが曖昧であった。
 それに何とこの辺りは、暗くそうして寂しいことか。
 裏木戸に面した反対側は、小借長屋らしく思われたが、どうやら空店になっているらしく、ビッシリ雨戸がとざされていて、火影一筋洩れて来なかった。
 洞窟の穴かのように、長方形に空いている木戸口にも、燈(ひ)というものは点(つ)いていなかった。しかし、遥かの小屋の奥から、ぼんやり蝋燭の光が射して来ていて、眼の窪んだ、鼻の尖った、頬骨の立った悪相の持主の、勘兵衛という男を厭らしい存在として、照らし出してはいるのであった。
「昨日(きのう)まではこの小屋に出ていたはずだが、いつあやめは席を退いたのだ?」
 こう主税は又訊いた。
「退いたとも何とも申しちゃアいません。ただ彼女(あいつ)今日はいないので」
「一体あやめはどこに住んでいるのだ?」
「さあそいつは……そいつはどうも……それより一体貴郎(あなた)様は、どうして何のために彼女を訪ねて、わざわざおいでなすったんで?」
 かえって怪訝そうに勘兵衛は訊いた。

第三の犠牲

 主税(ちから)があやめを訪ねて来たのは、何と思って自分へ独楽をくれたのか? どうして猿廻しなどに身をやつしていたのか? その事情を訊こうと思ったからであった。
 昼の中に来るのが至当なのであったが、昼の中彼は屋敷へ籠って――お館へは病気を云い立てて休み――例の独楽を廻しに廻し、現われて来る文字を寄せ集め、秘密を知るべく努力した。
 しかし、結果は徒労(むだ)だった。
 というのは、その後に現われて来た文字は「に有りて」という四つの文字と「飛加藤の亜流」という訳のわからない、六つの文字に過ぎなかったからで……
 そこで彼は夕方駕籠を飛ばせて、ここへ訪ねて来たのであった。そうしてあやめに逢いたいと言った。
 すると勘兵衛という男が出て来て、極めて曖昧な言葉と態度で、あやめは居ないというのである。
「少し尋ねたい仔細(こと)があってな」
 主税はこっちでも曖昧味を現わし、
「それで訪ねて参ったのだが、居ないとあっては止むを得ぬの。どれ、それでは帰るとしようか」
「ま、旦那様ちょっとお待ちなすって」
 勘兵衛の方が周章(あわて)て止めた。
「実は彼女(あいつ)がいなくなったのであっしはすっかり参っていますので。何せ金箱でございますからな。へい大事な太夫なので。……それであっしも小屋の者も、大騒ぎをして探していますので」
「しかし宿所(やど)には居るのだろう?」
「それが貴郎様、居ないんで」
「宿所にもいない、ふうんそうか。一体宿所はどこなのだ?」
「へい、宿所は……さあ宿所は……神田辺りなのでございますが……それはどうでもよいとして、宿所にもいず小屋へも来ない。昨夜(ゆうべ)ポカンと消えてしまったんで」
「ふうん、昨夜消えてしまった。……猿廻しに身をやつして消えてしまったのではあるまいかな」
「え、何だって? 猿廻しにだって?」
 勘兵衛はあっけにとられたように、
「旦那、そりゃア一体何のことで?」
(しまった)と主税は後悔した。
(云わでものことを口走ってしまった)
 主税は口を噤んで横をむいた。
「こいつア変だ! 変ですねえ旦那! ……旦那何か知ってますね!」と勘兵衛はにわかにかさにかかり、
「あやめの阿魔(あま)が消えてしまった途端に、これまで縁のなかったお侍さんが、ヒョッコリ訪ねておいでなすって、根掘り葉掘りあやめのことをお訊きになる。その後で猿廻しに身をやつしてなんて、変なことを仰せになる! ……旦那、お前さんあの阿魔を、あやめの阿魔をおびき出し……」
「黙れ!」と主税は一喝した。
「黙っておればこやつ無礼! 拙者を誘拐(かどわか)しか何かのように……」
「おお誘拐しだとも、誘拐しでなくて何だ! あやめの阿魔を誘拐して、彼女の持っている秘密を奪い、一儲けしようとするのだろう! ……が、そうならお気の毒だ! 彼女はそんな秘密などより、荏原(えばら)屋敷の奴原を……」
「荏原屋敷だと□ おおその荏原屋敷とは……」
「そうれ、そうれ、そうれどうだ! 荏原屋敷まで知っている汝(おのれ)、どうでも平記帳面の侍じゃアねえ! 食わせ者だア――食わせものだア――ッ……わーッ」
 と、これはどうしたことだろう。にわかに勘兵衛は悲鳴を上げ、両手で咽喉の辺りを掻き□ったかと思うと、前のめりにバッタリと地へ倒れた。
「どうした勘兵衛!」と主税は驚き、介抱しようとして屈み込んだ。
 その主税の眼の前の地上を、小蛇らしいものが一蜒りしたが、空店(あきだな)の雨戸の隙の方へ消えた。
 息絶えたらしい勘兵衛の体は、もう延びたまま動かなかった。
「どうしたどうした!」
「勘兵衛の声だったぞ」と小屋の中から人声がし、幾人かの人間がドヤドヤと、木戸口の方へ来るらしかった。
(巻添えを食ってはたまらない)
 こう思った主税が身を飜えして、この露路から走り出したのは、それから間もなくのことであった。

白刃に囲まれて

 この時代(ころ)のお茶の水といえば、樹木と藪地と渓谷(たに)と川とで、形成(かたちづく)られた別天地で、都会の中の森林地帯であった。
 昼間こそ人々は往(ゆ)き来したが、夜になるとほとんどだれも通らず、ただひたすら先を急いで迂回することをいとう人ばかりが、恐々(こわごわ)ながらもこの境地(とち)を、走るようにしてとおるばかりであった。
 そのお茶の水の森林地帯へ、山岸主税が通りかかったのは、亥(い)の刻を過ごした頃であった。
 あやめが行方不明となった、勘兵衛という太夫元が、何者かに頓死させられた、この二つの意外な事件によって、さすがの彼も心を痛め、この時まであてなく江戸の市中を、さまよい歩いていたのであった。
(荏原屋敷とは何だろう?)
 このことが彼の気になっていた。
 独楽の隠語の中にもこの字があった。勘兵衛という男もこの言葉を云った。そうしてあやめという曲独楽使いも、この屋敷に関係があるらしい。
(荏原郡(えばらごおり)の馬込の郷に、そういう屋敷があるということは、以前チラリと耳にはしたが)
 しかし、それとて非常に古い屋敷――大昔から一貫した正しい血統を伝えたところの、珍らしい旧家だということばかりを、人づてに聞いたばかりであった。
(がしかしこうなってみれば、その屋敷の何物かを調べてみよう)
 主税はそんなように考えた。
 独楽のことも勿論気にかかっていた。
 ――どれほどあの独楽を廻してみたところで、これまでに現われた隠語以外に、新しい隠語が現われそうにもない。そうしてこれまでの隠語だけでは、何の秘密をも知ることは出来ない。どうやらこれは隠語を隠した独楽は、あれ以外にも幾個(いくつ)かあるらしく、それらの独楽を悉皆(みんな)集めて全部(すっかり)の隠語を知った時、はじめて秘密が解けるものらしい。
(とすると大変な仕事だわい)
 そう思わざるを得なかった。
 しかし何より主税の心を、憂鬱に抑えているものは、頻々とあるお館の盗難と、猿廻しに変装したあやめとが、密接の関係にあることで、今日あやめを小屋へ訪ねたのも、その真相を探ろうためなのであった。
(猿廻しから得た独楽と隠語と、お館の中に内通者ありという、自分の意見とを松浦殿へ、今朝方早く差し上げたが、その結果女の内通者が、お館の中で見付かったかしら?)
 考えながら主税は歩いて行った。
 腐ちた大木が倒れていたり、水溜りに月光が映っていたり、藪の陰から狐らしい獣が、突然走り出て道を遮ったりした。
 不意に女の声が聞こえた。
「あぶない! 気をおつけ! 背後(うしろ)から!」
 瞬間に主税は地へ仆れた。
「あッ」
 その主税の体へ躓(つまず)[#ルビの「つまず」は底本では「つまづ」]き、背後から切り込んで来た一人の武士が、こう叫んで主税のからだ越しにドッとばかりに向こうへ仆れた。
 疾風迅雷も物かわと、二人目の武士が左横から、なお仆れている主税を目掛け、拝み討ちに切り付けた。
「わ、わ、わ、わ――ッ」とその武士は喚いた。脇腹から血を吹き出しているのが、木洩れの月光に黒く見えた。
 その武士が足を空ざまにして、丸太ん棒のように仆れた時には、とうに飛び起き、飛び起きざまに引き抜き、引き抜いた瞬間には敵を斬っていた、小野派一刀流では無双の使い手の、山岸主税は返り血を浴びずに、そこに聳えていた大楠木の幹を、背負うようにして立っていた。
 が、それにしても何と大勢の武士に、主税は取巻かれていることか!
 数間を距てて十数人の人影が、抜身をギラギラ光らせながら、静まり返っているではないか。
(何物だろう?)と主税は思った。
 しかし、問さえ発っせられなかった。
 前から二人、左右から一人ずつ、四人の武士が殺到して来た。
(死中活!)
 主税は躍り出で、前の一人の真向を割り、返す刀で右から来た一人の、肩を胸まで斬り下げた。
 とは云え、その次の瞬間には、主税は二本の白刃の下に、身をさらさざるを得なかった。
 しかし、辛うじてひとりの武士の、真向へ来た刀を巻き落とした。
 でも、もう一人の武士の刀を、左肩に受けなければならなかった。
(やられた!)
 しかし何たる奇跡か! その武士は刀をポタリと落とし、その手が首の辺りを掻きむしり、前のめりにドッと地上へ倒れた。
 勘兵衛の死に態と同じであった。
 その時であった側(そば)の大藪の陰から、女の声が聞こえてきた。
「助太刀してあげてよ、ね、助太刀して!」
「参るぞーッ」という怒りの大音が、その時女の声を蔽うたが、一人の武士が大鷲さながらに、主税を目掛けて襲いかかった。
 悄然たる太刀音がし、二本の刀が鍔迫り合いとなり、交叉された二本の白刃が、粘りをもって右に左に前に後ろに捻じ合った。
 主税は刀の間から、相手の顔を凝視した。
 両国橋で逢った浪人武士であった。

解けた独楽の秘密

「やあ汝(おのれ)は!」と主税は叫んだ。
「両国橋で逢った浪人者!」
「そうよ」と浪人も即座に答えた。
「貴殿が手に入れた淀屋の独楽を、譲り受けようと掛け合った者よ。……隠すにもあたらぬ宣(なの)ってやろう、浪速(なにわ)の浪人飛田林覚兵衛(とんだばやしかくべえ)! ……さてその時拙者は申した、貴殿の命を殺(あや)めても、淀屋の独楽を拙者が取ると! ……その期が今こそめぐって来たのじゃ!」
「淀屋の独楽とは? 淀屋の独楽とは?」
「どうせ汝(おのれ)は死んで行く奴、秘密を教えても大事あるまい、そこで秘密を教えてやる。……浪速の豪商淀屋辰五郎、百万にも余る巨富を積み、栄耀栄華を極めたが、元禄年間官(かみ)のお咎めを受け、家財一切を没収されたこと、汝といえども伝え聞いていよう。……しかるに辰五郎、事の起こる前、ひそかに家財の大半を分け、絶対秘密の場所へ隠し、その隠し場所を三個(みっつ)の独楽へ……とここまで申したら、万事推量出来るであろう。……汝が手に入れたあの独楽こそ、淀屋の独楽の一つなのじゃ。……今後汝によって三つの独楽を、それからそれと手に入れられ、独楽に記されてある隠語を解かれ、淀屋の巨財の隠し場所を知られ、巨財を汝に探し出されては、長年その独楽の行方を尋ね、淀屋の巨財を手に入れようと、苦心いたしおる我らにとっては、一大事とも一大事! そこで汝をこの場において殺し、汝の屋敷に潜入し、独楽をこっちへ奪い取るのだ!」
 二本の刀を交叉させ、鍔と鍔とを迫り合わせ、顔と顔とをひたと付けながら、覚兵衛はそう云うとグーッと押した。
 それをやんわりと受けながら、主税は二歩ばかり後へ下った。
 すると今度は山岸主税が、押手に出でてジリジリ[#「ジリジリ」は底本では「ヂリヂリ」]と進んだ。
 二人の眼と眼とは暗い中で、さながら燠のように燃えている。
 鍔迫り合いの危険さは、体の放れる一刹那にあった。遅れれば斬られ、逸(はや)まれば突かれる。さりとて焦躁(あせ)れば息切れを起こして、結局斃されてしまうのであった。
 いぜんとして二人は迫り合っている。
 そういう二人を中へ囲んで、飛田林覚兵衛の一味の者は、抜身を構え位い取りをし、隙があったら躍り込み、主税を討って取ろうものと、気息を呑んで機を待っていた。
 と、あらかじめの計画だったらしい、
「やれ」と大音に叫ぶと共に、覚兵衛は烈しい体あたりをくれ、くれると同時に引く水のように、サーッと自身後へ引き、すぐに飜然と横へ飛んだ。
 主税は体あたりをあてられて、思わずタジタジ[#「タジタジ」は底本では「タヂタヂ」]と後へ下ったが、踏み止まろうとした一瞬間に、相手に後へ引かれたため、体が延び足が進み、あたかも覚兵衛を追うかのように、覚兵衛の一味の屯している中へ、一文字に突き入った。
「しめた!」
「斬れ!」
「火に入る夏の虫!」
「わッはッはッ、斬れ、斬れ、斬れ!」
 嘲笑(あざけり)、罵声(ののしり)、憎悪(にくしみ)の声の中に、縦横に上下に走る稲妻! それかのように十数本の白刃が、主税の周囲(まわり)で閃いた。
 二声ばかり悲鳴が起こった。
 バラバラと囲みが解けて散った。
 乱れた髪、乱れた衣裳、敵の返り血を浴びて紅斑々! そういう姿の山岸主税は、血刀高々と頭上に捧げ、樫の木かのように立っている。
 が、彼の足許には、死骸が二つころがっていた。
 一人を取り囲んで十数人が、斬ろう突こうとしたところで、味方同士が邪魔となって、斬ることも突くことも出来ないものである。
 そこを狙って敵二人まで、主税は討って取ったらしい。
 地団太踏んで口惜しがったのは、飛田林覚兵衛であった。
「云い甲斐ない方々!」と杉の老木が、桶ほどの太さに立っている、その根元に突立ちながら、
「相手は一人、鬼神であろうと、討って取るに何の手間暇! ……もう一度引っつつんで斬り立てなされ! ……見られい彼奴(きゃつ)め心身疲れ、人心地とてない有様! 今が機会じゃ、ソレ斬り立てられい!」
 覚兵衛の言葉は事実であった。
 先刻(さっき)よりの乱闘に肉体(からだ)も精神(こころ)も疲労(つかれ)果てたらしい山岸主税は、立ってはいたが右へ左へ、ヒョロヒョロ、ヒョロヒョロとよろめいて、今にも仆れそうに見受けられた。

愛する人を

「そうだ!」「やれ!」と覚兵衛の一味が、さながら逆浪の寄せるように、主税(ちから)を目掛けて寄せた時、遥かあなたの木間から、薄赤い一点の火の光が、鬼火のように不意に現われて、こなたへユラユラと寄って来た。
「南無三宝! 方々待たれい! 火の光が見える、何者か来る! 目つけられては一大事! 残念ながら一まず引こう! 味方の死人負傷者(ておい)を片付け、退散々々方々退散」と杉の根元にいる覚兵衛が、狼狽した声でそう叫んだ。
 いかにも訓練が行き届いていた。その声に応じて十数人の、飛田林覚兵衛の一味達は、仆れている死人や負傷者を抱え、林を分け藪を巡り、いずこへともなく走り去った。
 で、その後には気味の悪いような、静寂(しずけさ)ばかりがこの境地に残った。
 常磐木(ときわぎ)――杉や松や柏や、榎、桧などの間に立ち雑って、仄白い花を咲かせていた桜の花がひとしきり、花弁(はなびら)を瀧のように零したのは、逃げて行く際に覚兵衛の一味が、それらの木々にぶつかったからであろう。
 と、俄然主税の体が、刀をしっかりと握ったまま腐木(くちき)のように地に仆れた。斬られて死んで斃れたのではなかった。
 心身まったく疲労(つかれ)果て、気絶をして仆れたのである。
 そういう主税の仆れている体へ、降りかかっているのは落花であり、そういう主税の方へ寄って来るのは薄赤い燈の光であった。
 そうして薄赤いその燈の光は、昨夜御用地の林の中で、老人と少年と女猿廻しとが、かかげていたところの龕燈の火と、全く同じ光であった。その龕燈の燈が近づいて来る。ではあの老人と少年と、女猿廻しとがその燈と共に、近付いて来るものと解さなければならない。
 でもにわかにその龕燈の燈は、大藪の辺りから横に逸れ、やがて大藪の陰へかくれ、ふたたび姿を現わさなかった。
 そこで又この境地はひっそりとなり、鋭い切先の一所を、ギラギラ月光に光らせた抜身を、いまだにしっかり握っている主税が、干鱈のように仆れているばかりであった。
 時がだんだんに経って行った。
 やがて、主税は気絶から覚めた。
 誰か自分を呼んでいるようである。
 そうして、自分の後脳の下に、暖かい柔らかい枕があった。
 主税はぼんやり眼を開けて見た。
 自分の顔のすぐの真上に、自分の顔へ蔽いかぶさるように、星のような眼と、高い鼻と、薄くはあるが大型の口と、そういう道具の女の顔が、周囲(まわり)を黒の楕円形で仕切って、浮いているのが見て取られた。
 お高祖頭巾で顔を包んだ、浪速(なにわ)あやめの顔であった。
(あやめがどうしてこんな所に?)
 気力は恢復してはいなかったが、意識は返っていた主税はこう思って、口に出してそれを云おうとした。
 でも言葉は出せなかった。それ程に衰弱しているのであった。眼を開けていることも出来なくなった。そこで彼は眼を閉じた。
 そう、主税に膝枕をさせ、介抱している女はあやめであった。鼠小紋の小袖に小柳繻子の帯、紫の半襟というその風俗は、女太夫というよりも、町家の若女房という風であり、お高祖頭巾で顔を包んでいるので、謎を持った秘密の女めいても見えた。
「山岸様、山岸主税様! お気が付かれたそうな、まア嬉しい! 山岸様々々々!」とあやめはいかにも嬉しそうに、自分の顔を主税の顔へ近づけ、情熱的の声で云った。
「それに致しましても何て妾(わたし)は、申し訳のないこといたしましたことか! どうぞお許しなすって下さいまし。……ほんの妾の悪戯(いたずら)[#ルビの「いたずら」は底本では「いたづら」]心から、差しあげた独楽が原因となって、こんな恐ろしいことになるなんて。……それはあの独楽には何か秘密が、――深い秘密のあるということは、妾にも感づいてはおりましたが、でもそのためにあなた様へ、あの独楽を上げたのではごさいません。……ほんの妾の出来心から。……それもあなた様がお可愛らしかったから。……まあ厭な、なんて妾は……」
 これがもし昼間であろうものなら、彼女の頬に赤味が注し、恥らいでその眼が潤んだことを、見てとることが出来たであろう。

勘兵衛や武士を殺した者は?

 あやめがあの独楽を手に入れたのは、浪速高津(なにわこうづ)[#ルビの「なにわこうづ」は底本では「なにわこうず」]の古物商からであった。それも孕独楽(はらみごま)一揃いとして、普通に買入れたのに過ぎなかった。その親独楽も十個の子独楽も、名工四国太夫の製作にかかわる、名品であるということは、彼女にもよく解(わか)っていた。そうして子独楽の中の一個(ひとつ)だけが、廻すとその面へ文字を現わすことをも彼女はよく解っていた。
 すると、或日一人の武士が、飛田林覚兵衛(とんだばやしかくべえ)と宣(なの)りながら、彼女の許へ訪ねて来て、孕独楽を譲ってくれるようにと云った。しかしあやめは商売道具だから、独楽は譲れないと断った。すると覚兵衛は子独楽の一つ、文字を現わす子独楽を譲ってくれるようにと云い、莫大な金高を切り出した。それであやめはその子独楽が、尋常の品でないことを知った。それにその子独楽一つだけを譲れば、孕独楽は後家独楽になってしまう。そこであやめは断った。
 しかし、覚兵衛は断念しないで、その後もあやめを付け廻し、或いは嚇し或いは透かし[#「透かし」はママ]て、その子独楽を手中に入れようとした。それがあやめの疳に障り、感情的にその子独楽を、覚兵衛には譲るまいと決心した。と同時にその子独楽が、あやめには荷厄介の物に思われて来た。その中あやめは縁があって、江戸の両国へ出ることになった。
 そこで浪速から江戸へ来た。するとどうだろう飛田林覚兵衛も、江戸へ追っかけて来たではないか。
 こうして昨日(きのう)の昼席となった。
 舞台で孕独楽を使っていると、間近の桟敷で美貌の若武士が――すなわち山岸主税なのであるが、熱心に芸当を見物していた。ところが同じその桟敷に、飛田林覚兵衛もいて、いかにも子独楽が欲しそうに、眼を据えて見物していた。
(可愛らしいお方)と主税に対しては思い、(小面憎い奴)と覚兵衛に対しては感じ、この二つの心持から、あやめは悪戯(いたずら)[#ルビの「いたずら」は底本では「いたづら」]をしてしまったのである。
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