赤格子九郎右衛門の娘
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著者名:国枝史郎 

「なかなかもって左様なこと。……」
「拙者昔は町奉行でござった」
「よく存じて居ります」
「しからばご信用下されい」
「…………」
「厭と申されるか」と叱咤する。
「しからば宜しく」と鹿十郎は云った。無論止むを得ず、云ったのである。
「おおお任せ下さるとな。忝(かたじ)けのうござる忝けのうござる」
 つと卜翁は立ち上り奥の部屋へ引っ込んだ。
 鹿十郎も立ち上り玄関から裏の方へ廻って行った。
 離れ座敷をグルリと囲繞(とりま)き真黒に捕方が集まっている。しかも座敷の中からは三味線が長閑(のどか)に聞こえてくる。
 と、主屋から飛石づたいに卜翁の姿が現われた。
 卜翁は雨戸をトントンと打つ。
「お菊、俺(わし)じゃ、雨戸をあけい」
 三味線の音が急に止み、サラサラと衣擦れの音がした。と、雨戸が静かに引かれ颯と燈火(ひかり)が庭へ射した。
 つと卜翁は中へ入る。ふたたび雨戸は中からとざされ、そのまま寂然と静かになった。
 本條鹿十郎は聞耳を立て家内の様子を窺ったが何の物音も聞こえない。
「はてな」と小首を傾けた。
 その時、突然、家の中から、「あっ!」という女の悲鳴、つづいてドンと重い物が畳へ落ちる音がした。
「しまった!」と鹿十郎が呻いた時、雨戸が中からあけられた。
 そこへ立ったは卜翁である。
「本條氏、本條氏!」
「はっ」と云って鹿十郎、ツツ――と前へ進み出た。
「因果を含め観念させ、自首させようと致しましたる所、さすが女の心弱く、急に自害致しましたれば止むなく拙者首打ってござる。いざ首級(くび)お受け取り下されい」

 こういうことがあってから数日経ったある日のこと、瀬戸内海を堂々と一隻の親船が駛(はし)っていた。船首に描かれた三個の文字それは「毛剃丸」というのである。
 今、甲板に腹巻を着け陣羽織を着た美丈夫が日没の余光虹よりも美しい西の空を眺めながら感慨深く佇んでいたが、これぞ赤格子九郎右衛門の娘、お菊事本名お粂であった。
 船には無数の珍器宝物高貴の織物が積んである。その為船は船足重く喫水深く見えるのであった。
 支那の港香港を指して駸々と駛って行くのである。そうしてそこで、利益の多い貿易事業をするのであった。
 しかし、一旦首を討たれ死んだはずの赤格子の娘がどうして生きているのであろう?
 贋首を使ったからである。――それはお袖の首なのであった。
 自分の生命(いのち)を狙ったというに、贋首の計を使ってまで、何故卜翁は赤格子の娘お粂の生命を救ったのであろう?
 一つはお粂を愛していたため、そしてもう一つは女の身で、復讐を心掛けた健気(けなげ)さに感動したからだということである。
 さあれ、お粂はこの時以来フッツリ海賊の生活を捨、一躍立派な貿易商に一変したということである。




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