血ぬられた懐刀
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著者名:国枝史郎 

 九燿の星の紋所の付いた、懐刀をお紅は秋安に示して、そういうことを云ったりした。
 が、ともかくも五日十日と、その後無事に日が流れて、二人の恋は愈々益々、その密(こまやか)さを加えて行った。


不破小四郎の邸

「浮田鴨丸(うきたかもまる)めが不足している。ちょっと寂しい気持がする」
「まさかにあの晩に鴨丸めが、切り付けようとは思わなかった」
「性来鴨丸めは周章(あわて)者なのだ」
「それに北畠秋元めが、切り返そうとは思わなかった」
「それに第一秋元めは、どうして俺達の忍び込んだことを、感付いたものか合点がいかない」
「随分上手に忍び込んだのだが」
「のっそりと秋元が現われた時には、さすがに俺もギョッとしたよ」
「秋元め随分冴えた腕だの」
「一刀に鴨丸を斃したのだからな」
「仰天して俺達は逃げ出したが、いつまでもマゴマゴしていようものなら、やっぱり秋元に切られたかも知れない」
「切られないまでも捕らえられでもしたら、それこそ本当に目もあてられない」
「何と云ったところで若い娘を、引っ攫おうとしたのだからな」
「いぜん娘は北畠の邸に、身をかくしているということだ」
「外出などもしないそうだ」
「つまりは守られているのだろう」
 不破小四郎の邸の一間で、四五人の若い武士(さむらい)達が、雑然として話している。
 宵を過ごした初夏の夜で、衣笠(きぬがさ)山の方へでも翔(か)けるのであろう、杜鵑(ほととぎす)の声が聞こえてきた。
 小四郎は秀次(ひでつぐ)の寵臣である。邸なども豪奢である。銀燭などが立ててある。
 その銀燭を左手へ置いて、上座の円座に坐っているのは、邸の主人の小四郎で、前髪も剃らない若衆であったが、不愉快そうに苦り切っている。
「俺はな」と小四郎は云い出した。
「ひどくあの娘が好きなのだ。廻国風の娘がよ。で、どうしても手に入れなければならない。そこでお主達に頼んだのさ。是非あの娘を盗み出してくれとな。ところがお主達はやりそこなった。先刻(さっき)から話を聞いていれば、どうやら今後もお主達の手では、盗み出せそうにも思われない。あきらめてしまいえばいいのだが、変に俺にはあきらめられない。一体俺にしてもお主達にしても、普通(なみ)の女には飽きている。つまり上流の娘とか、ないしは遊女とかいうようなものには、もうすっかり飽きている。漁って漁って漁りぬいたからよ。で、土民の娘とか、地下侍の娘とか、そういう種類の女共に、ついつい引っ張られるというものさ。それお主達も知っている通り、萩野という地下侍の娘があった。そうしてそいつを手に入れた。いや随分面白かった。その手障(てざ)わりが違っていたからな。ところがどうだろうあの女を見てから――廻国風の娘のことだが――すっかり萩野に厭気がさし、薄情ではあったがつッ放してしまった。……で、そういう訳なのだ。そんなにも劇(はげ)しく廻国風の娘に、この俺は今捉えられている。ところが手に入れる手段がない。そこで俺は考えたのだ。ご主君にお縋りしようとな。関白殿下にお願いして、関白殿下のご威光を以て、あの娘を御殿へ引き上げるのさ。そうしてそれから改めて、殿下から俺が戴くのだ。これではいかな北畠家でも、何とも苦情は云えないだろう。名案と思うがどうだろうかな?」
 侫奸(ねいかん)の徒には侫奸の徒らしい、侫奸の策略があるものである。こう云って来て不破小四郎は、得意そうに、一座を身廻した。
「いやこれは素晴らしい妙案」
「さすがは聡明の不破殿だ、よい所へお気が附かれた」
 座に集まった一同の武士は、即座に同意をしてしまった。
「しかし」とこの時一人の武士が――栃木三四郎という若武士(わかざむらい)であったが――ちょっと不安そうに首を傾げたが、
「目下伏見から幸蔵主(こうぞうす)殿が、太閤殿下のお旨を帯して、聚楽(じゅらく)にご滞在なされて居られる。この際そのような振舞いをして、よろしいものでござろうかな?」
「いや大丈夫、大丈夫」
 こう云いながら手を振ったのは、桃ノ井紋哉(もんや)という若い武士であった。
「幸蔵主殿は私用とのことで、何も恐れるには及ばない。それに我君と幸蔵主殿とは、幼少の頃からのご懇親で、万事につけて聚楽のお為を、以前からお計らい下されて居られる。悪いようには覚し召すまい」
「いやいや一考する必要がある」
 こう意議[#「意議」はママ]をはさんだ武士があった。加嶋欽作(かしまきんさく)という若武士である。
「女ながらも幸蔵主殿は、太閤殿下の懐中(ふところ)刀で、智謀すぐれて居られるとのこと、なかなか油断は出来ますまい」
「それに」ともう一人が心配そうにした。山崎内膳(ないぜん)という若武士である。
「ご宿老の木村常陸介(ひたちのすけ)様が、幸蔵主殿のおいで以来、気鬱のように陰気になられた。その常陸介殿はどうかというに、智謀逞邁、誠忠無双、容易に物に動じないお方だ。そのお方が陰気になられたのだ。幸蔵主殿の聚楽参第は、単なる私用とは思われない」


聚楽第の秘密

 そもそも幸蔵主とは何者であろうか? 豊臣秀吉の大奥に仕えてそれの切り盛りをしているところの、いうところの老女であった。女ながらもずば抜けた知恵者で、一面権謀術数に富み、一面仁慈寛大であった。加藤清正や福島正則や、片桐且元(かたぎりかつもと)というような人さえ、幸蔵主には恩顧を蒙り、一目も二目も置いていた。秀吉さえも智謀を愛して、裏面の政治に関与させ、懐中刀として活用した。もう老年ではあったけれど、壮者をしのぐ、意気もあった。
 また秀次が孫七郎と宣(なの)って、三好法印浄閑(ほういんじょうかん)なるものの、実子として家にいた頃から、幸蔵主は秀次を知っていた。三好康長(やすなが)が秀次を養い、さらに秀吉が養子として、秀次を殊遇しはじめてから、幸蔵主は一層秀次に眼をかけ、よき注意を与えていた。で、幸蔵主は秀次にとっては、母とも乳母ともあたる人であった。
 ところで秀次は累進して、そうして秀吉の後を受けて、関白職に経上って、聚楽(じゅらく)の第(だい)の主人となって、権を揮うようになって以来、ようやく秀吉と不和になった。
 秀吉の謀将の石田三成や、増田長盛(ながもり)というような人と、気が合わなかったのが原因の一つで、秀吉の愛妾の淀君なるものが、実子秀頼(ひでより)を産んだところから、秀頼に家督をとらせたいと、淀君も思えば秀吉も思った。自然秀次が邪魔になる――というのが原因の第二でもあった。
 秀吉との不和は秀次にとっては、何よりも恐ろしいものであった。で、甘心を買おうとした。それを中にいて斡旋したのが他ならぬ老女の幸蔵主であった。
 その幸蔵主が忍ぶようにして、伏見の秀吉の居城からこの聚楽へ来たのであった。
 そうして何やら幸蔵主は、秀次に旨を含ませたらしい。
 どういう旨だか解(わか)らない。
 しかしどうやら秀次にとっては、快くない旨らしい。それには従おうとはしないのであった。
 そうして終日不機嫌であった。
 で、何となくここ数日、聚楽第の空気は険悪であった。
「ナーニ大丈夫だ大丈夫だ」
 不破小四郎は事もないように、さも不雑作にこう云ったが、自信がありそうに一同を見た。
「幸蔵主の姥がやって来て、殿下のご機嫌がよくなくて、終日終夜の乱痴気騒ぎで、上下が昏迷をしているのが、かえって俺には好都合なのさ。どさくさまぎれに申し上げて、殿下のお許しを受けるのさ。よろしい行(や)れ! と仰せられるであろうよ。どっちみち俺は明日か明後日、関白殿下のお使者として、北畠の邸へ出かけて行こう。承知(き)くも承知(き)かないもありはしない。関白殿下よりのご命令なのだ。娘を差し出すに相違ない。承知かない場合には攫って来る」
 間違いはないよと云うように、小四郎は額をこするようにしたが、果たして成功するであろうか?


巨人と怪人

 その日からちょうど二日経った。
 ここは聚楽の奥庭である。おりから深夜で月はあったが、植え込みが茂っているために、月の光が遮られている。
 一宇の亭(ちん)が立っていて、縁の一所が月光に濡れて、水のように蒼白く暈けていた。
 そこに腰をかけている武士がある。
 思案にあまったというように、胸の辺りへ腕を組んで、じっと足許を見詰めている。
 木の間をとおして聚楽第の、宏壮な主殿(おもや)が見えていたが、今夜も酒宴と思われて、陽気な声が聞こえてくる。間毎々々(まごとまごと)に点もされた燈(ひ)が、不夜城のようにも明るく見える。
「どうしたのだろう、遅いではないか」
 縁に腰をかけた大兵の武士は、誰かを待ってでもいると見えて、ふとこう口に出して呟いた。
 と、その呟きに呼ばれたかのように、巨大な蘇鉄の根元を巡って、小兵の武士があらわれた。
「木村殿かな? 常陸(ひたち)殿かな」
「おお五右衛門か、待ちかねていたよ」
「約束の時刻よりは早いつもりだ」
 云い云い静かに歩み寄って、縁へ腰をかけた常陸介と、押し並ぶように腰かけたのは、無徳道人(むとくどうじん)事石川五右衛門であった。
 ちょいと五右衛門は主殿(おもや)の方を見たが、
「相変わらず今夜も盛んだの」
「うん」と云ったものの常陸介の声には、憂わしい不安な響きがあった。
「あの有様だから困るのだ」
「そうさ、あれでは困るだろう」
 で、沈黙が二人へ来た。
「ところで五右衛門結果はどうだ?」
 ややあって常陸介がこう訊(たず)ねた。
「うむ、ともかくも一通りは探った」
 五右衛門の声には笑殺(しょうさつ)がある。
「ただの私用ではないのだよ」
「俺もそうだろうとは感付いていたが、幸蔵主の態度が不明なのでな」
「あれは秀吉の懐中(ふところ)刀さ」
「が、我君にも忠実のはずだ」
「しかしそれは私情だよ。大事に処せば私情などは、古沓(ふるぐつ)のように捨てしまう」
「お互いそれには相違ないさ。……で、幸蔵主が我君を連れて伏見の城へ行こうとするのは、やはり太閤の指し金かな?」
「そうだ秀吉の指し金なのだ」
「伏見へ召してどうするのだろうな?」
「まず詰腹でも切らせるだろうよ」
「詰腹。……ふうむ。……そうかも知れない。……」
 常陸介にもそういうことは、以前から心にあったものと見えて、そう云われても驚かなかった。しかし苦悶は感じたらしい。俯向いて足許を睨んでいる。五右衛門もしばらくは物を云わない。で、この境地はひそやかであった。
 それと反対の趣をなして、明るい華やかな笑い声が、主殿の方から聞こえてきた。
「五右衛門」と常陸介は呼びかけた。
「ひとつ詳しく話してくれ、伏見はどんな様子なのだ」
「詳しく話せと云ったところで、これと云って詳しく話すところもないが。だがマア探っただけを話して見よう。……お前から依頼(たのみ)を受けたので、その足で直ぐに伏見へ行って、城中へ忍んだというものさ。秀吉め天下に敵がないというので、安心しきっているのだろう。城のかためなんか隙だらけだった。で、奥御殿へ行くことが出来た。それでもさすがに宿直(とのい)の部屋には、仙石(せんごく)権兵衛だの薄田隼人(すすきだはやと)だのが、肩や肘を張って詰めていたよ、しかしそいつの話と来ては、お話にも何にもならなかった。女の話ばかりしているのだからな。ところで秀吉はどうかといえば、例の淀君めを相手にして、これもやはりたわいないことを、話していたというものさ。と、声が聞こえてきた。
『……幸蔵主に胸を[#「胸を」はママ]含ましておいた。大方うまくやるだろう。……そう心にかけないがよい。……実子は俺だって可愛いいからの……』
 秀吉が淀君へ云ったのさ。すると淀めが笑い出したっけ。――これだけ聞けば用はない。で城から抜け出したが、その時つくづく思ったものだ。ナニ秀吉の寝首などは、掻こうと思えば掻けるものだとな。……秀吉だと云ったって人間だ、油断もあれば隙もあるとな。……それから俺は念のために、石田治部(ちぶ)めの屋敷へ忍んだ。するとどうだろう増田長盛(ながもり)めが、ちゃんと遣って来ているではないか。
『幸蔵主殿の甘言を以て秀次君をおびき出し、城中で詰腹を切らせましょう』
『いやいや我君のお眼に入れては、血縁のある伯父姪[#「姪」はママ]でござる。いっそ途中の伏見街道で、お腹を召さすがよろしかろう』
 これが二人の話なのだ。――これだけ耳にすれば用はない。で俺は直ぐに抜け出したのだが、道々俺は考えたよ。大胆不敵の話だとな。何故というに他でもない。とにかく天下の関白職を、まるで鶏でも絞めるように、無雑作に殺すことに決めているからさ。そうしてにわかに恐ろしくなった。やはり秀吉は偉い奴だ。やろうと思えばどんなことでもやる。とても普通の人間ではない。隙だらけと思っていた伏見の城が、恐ろしいものにも思われて来た。今度忍んだら遣(や)られるだろう――そんなようにも思ったものさ」
 黙って聞いていた木村常陸介は、五右衛門の話が終えてからも、いぜんとして沈黙をつづけていた。
 で、境地はひそやかである。
 それだけに聚楽の主殿における、夜宴の賑かさが気味悪く聞こえる。
 と、卒然と常陸介は云った。
「五右衛門もう一度忍んでくれ」
「もう一度伏見城を探れと云うのか?」
「秀吉の寝首を掻いてくれ」
「…………」
 またも沈黙がやって来た。
 二人ながら黙っている。


忍び込んだ武士は?

 石川五右衛門は浪人であった。学者でもあるし茶人でもあるし、伊賀流の忍(しのび)もよくするし、侠気もあれば気概もあったが、放浪性に富んでいて、物に飽き易くて辛抱がなくて、則(のり)に附くことが出来なかった。二三の大名が才幹を愛して、召しかかえたこともあったけれど、朋輩との中が円満にゆかない。
 で、すぐに浪人をした。それを知った木村常陸介(ひたちのすけ)は、何かの用に立つこともあろうと、莫大な捨扶持を施して、ここ二三年養って置いた。
 すると五右衛門のことである、常陸介を主人と崇(あが)むべきを、友人のように思ってしまって、対等の交際(つきあい)をやり出した。
 大概の人物なら怒ったであろう、ところが常陸介は大人物であった。そのようなことは意にもかけずに、同じように対等の交際をした。これが五右衛門には嬉しかったらしい。知己を得たような気持がした。で、非常に感激をして、この人のためなら死んでもよいと、そんなようにさえ思うようになった。
 で、今度も常陸介から、伏見城の様子を探ってくれと、こう頼まれたのに直ぐに応じて、その役目を果たしたのであった。
 ところがもう一度伏見城へ忍んで、秀吉の寝首を掻いてくれという。――これには豪快な石川五右衛門も、考え込まざるを得なかった。
 で、即答をすることが出来ない。腕を組んだまま黙っている。
 が、木村常陸介が、低くはあったが凄愴の口調で、次のようなことを云ったがために、五右衛門は困難な常陸介の頼みを、むしろ勇んで引き受けた。
 次のように常陸介は云ったのである。
「お前ばかりを死なせはしないよ。俺もおっつけ死ぬことになろう。……お前の企(くわだて)が破れたならば、捕らえられてお前は殺されるだろう。……そうしてそれが聚楽第の、没落の原因となるだろう。――太閤ほどの人物だ、聚楽からの刺客だと察するからさ。……で伏見と聚楽とは、戦いをひらくことになろう。秀次公におかれては、島津や細川へ金子を貢いで、誼(よしみ)を通じて居るとはいっても、いざ戦いとなった日には、伏見方へ従(つ)くに相違ない。勝敗の数は知れて居る。聚楽第は亡ぼされて、秀次公には自害されよう。従って俺も腹を切る。お前の後を追うことになる……がもしお前の企が、成功をした場合には、天下はそれこそ聚楽第の、秀次公のものとなる。で今度の企はのるかそるかの企なのだ。するとお前は云うかもしれない、そういう危険な企を、どういう理由でやるのか? と、で、俺は答えることにしよう。どうやら我君秀次公には、幸蔵主の甘言に乗せられて、太閤との不和をなだめるために、伏見の城へ出かけて行かれて、太閤のご機嫌を取られるらしい。その結果はどうなるか? お前の云った通りになる。伏見城で詰腹を切らせられるか、ないしは途中で殺されるだろう。……それが俺には残念なのだ、同じくその身を失うにしても、太閤ほどの人傑を、向こうへ廻して戦って、華々しくご最後を遂げさせたいのだ。……で、道は二つしかない。太閤を守備よく弑(しい)するか、そうでなかったら戦うかだ。で、お前に俺は頼む。もう一度伏見城へ忍んでくれ、太閤の寝首を掻いてくれ、やりそこなったら死んでくれ!」
「わかった」と云うと五右衛門は、縁からユラリと腰を上げた。
「末代までも名が残ろうよ。太閤の寝首を掻いたなら! よしんば失敗をしたところで……」
 云いすてると石川五右衛門は、木立を廻って立ち去った。
 その足音が消えた時に、木村常陸介も立ち上ったが、思案にくれながら歩き出した。
「どうともして我君秀次公を、危険きわまる伏見の城へ、参第せぬようお諌めしなければならない」
 行手に築山が聳えている。
 裾を巡って先へ進む。
 と、泉水が堪えられていた。
 廻って主殿(おもや)の方へ進んで行く。
「はてな」と呟いて佇んだのは、厳しい聚楽第の石垣の上から、武士姿の一つの人影が庭へ飛び下りたがためである。
「これは怪しい、何者であろう?」
 常陸は首を傾げたが、
「伏見方の間者ではあるまいか?」
 自分が五右衛門を刺客として、伏見城へやったおりからである。
 伏見方の間者ではあるまいかと、ふと考えたのは当然といえよう。
「よしよし後をつけてやろう」
 で、足音を盗むようにして、常陸介は後をつけた。
 曲者は顔を包んでいる。どうやら年は若いらしい。心が急(せ)いてでもいると見えて、走るがように歩いて行く。主殿の方へ行くのである。
「ああこれは間者ではない。ましていわんや刺客などではない。歩き方や態度で自ずとわかる。これは決して悪者ではない。とは云え聚楽第の武士ではない。おかしいなあ何者だろう」
 心掛けの深い常陸介ではあったが、これ以上は知ることは出来なかった。


瞬間四人を討って取る

 曲者は先へ進んで行く。常陸介はつけて行く。次第に主殿へ近づいて行く。
 と、その主殿の方角から、四五人の武士が話しながら、あべこべにこっちへ歩いて来た。
「不破氏、不破氏、小四郎殿、そう憤慨をなさらないがよろしい。何も主命でござるからな」
 一人の声が、なだめるように云った。
「さようさよう何も主命で」
 相槌を打つ声が直ぐにした。
「それにさ、あれくらいの女なら、この世間にはいくらでもござる。あの女はあのまま差し上げなされ。そうしてその代わりにご愛妾の一人を、頂戴なさるがよろしかろう」
「その方がいい、その方がいい」
 また相槌を打つ声がした。
「たかが廻国にやって来て、京へ止まった田舎娘でござる。そのような女に未練をもたれて、殿下のご機嫌を取り損なったら、これほどつまらないことはない。おあきらめなされ、おあきらめなされ」
「さようさようおあきらめなされ」
 四人目の声も相槌を打つ。
 が、そういう取りなしに答えて、怨みと憤りに充ちたような、狂気じみた声が聞こえてきた。
「いやいやせっかくのご忠告ではあるが、某(それがし)においてはあきらめられん。……あまりと云えば[#「云えば」は底本では「云へば」]横暴でござる! 某より殿下へお願いしたところ、よかろうよかろう好きな女があるなら、余が懇望だと申して連れて来い。その上で其方(そち)にくれてやろう。――で、某は使者という格で、北畠家へ押して行き、あのお紅(べに)を引き上げて来た。……と、どうだろう殿下においては、これは以外に美しい。側室(そばめ)の一人に加えよう。こう仰せられて手放そうとはされぬ。某を前に据えて置いて、お紅に無理強いに酌などさせる。寝所へ連れて行こうとされる。誰も彼も笑って眺めている。其のためにあつかおうとはしない! 無体なのは殿下のやり口だ! 庶民に対してはともかくも、臣下の某に対しての、やり口としては余りにひどい! もはや某は聚楽(じゅらく)へは仕えぬ。ご奉公も今日限り。浪人をする浪人をする!」
 不破小四郎を取り囲んで、朽木(くちき)三四郎、加島欽哉(きんや)、山崎内膳(ないぜん)、桃ノ井紋哉(もんや)、四人の若武士(ざむらい)が話しながら、こっちへ歩いて来るのであった。
 ところで彼らの話によれば、気の毒なことにはお紅という娘は、北畠家から奪い取られて、今、聚楽第にいるらしい。では主殿(おもや)での夜遊の宴の、その中にも入っていることであろう。
 不破小四郎と四人の武士とは、云いつのりながらなだめながら、次第にこっちへ近寄って来る。
 と、一所に木立があって、そこの前までやって来た時に、飜然と飛び出した人影があった。同時に月光を横に裂いて、蒼白く閃めくものがあった。と、すぐに悲鳴が起こって、朽木三四郎がぶっ仆れた。すなわち木立から飛び出して来た、覆面姿の侍が、先に立って歩いて来た朽木三四郎を、抜き打ちに切って斃したのである。
「曲者!」と叫んだのは加島欽哉で、太刀柄へ右手をグッと掛けたが、引き抜くことは出来なかった。三四郎を斃した覆面の武士が、間髪を入れないで閃めかした太刀に、左肩を胸まで割られたからである。
「曲者!」とまたも同音に叫んで、山崎内膳と桃ノ井紋哉とが、左右から同時に切り込んで行った。が、それとても無駄であった。片膝を敷いた覆面の武士が、横へ払った太刀につれて、まず内膳が腰車にかけられ、ノッと立ち上った覆面の武士の、鋭い突きに桃ノ井紋哉が、胸を突かれて斃れたからである。
 四人を瞬間に打って取った、覆面の武士の腕の冴えには、形容に絶した凄いものがあった。
 と、その武士がツと進んだ。
「小四郎! 不破! 極悪人め! よくもお紅殿を奪ったな! 某こそは北畠秋安! 怨みを晴らしにやって来た。お紅殿を取り返しにやって来た! 観念!」
 とばかり切り込んだ。
「出合え! 曲者!」と叫んだが、不破小四郎は見苦しくも、主殿をさして逃げ出した。
「逃げるか! 卑怯! 何で遁そう!」
 四人を切った血刀を、頭上に振り冠った秋安は、すぐに小四郎を追っかけた。
 と、その眼前へ大兵の武士が、遮るようにして現われたが、威厳のあるドッシリとした沈着の声で、
「北畠殿と仰せられるか、まずお待ちなさるよう。某事は木村常陸介、子細は見届け承わってござる。悪いようには計らいますまい」
 こう云うと手を上げて制するようにした。


廊下を渡る雪燈の火

 現われた武士は誰あろう、聚楽第(じゅらくだい)における第一の智謀で、かつは誠忠無双であって、しかも身分は宿老であって、その上性質は寛仁大度、この人一人があるがために、秀次の生命は保たれて居り、聚楽の生命も保たれて居ると、世評一般に云われて居るところの、木村常陸介と耳にするや、逸(はや)り切っていた北畠秋安も、足を止めざるを得なかった。
 で、ダラリと刀を下げて、常陸介を見守った。
「さて」と云うと常陸介は、一層物憂しい口調になったが、なだめるように説き出した。
「貴殿のお父上秋元殿は、高朗としたお人柄で、某(それがし)も平素より尊敬いたし居ります。ご子息の貴殿のお噂も、兼々承わって居りました。清廉潔白でおわすとのこと、これまた敬意を払っていました。……ただ今立ち聞きいたしましたところ、お紅殿とやら申される女子を、不破小四郎が理不尽にも、関白殿下のお旨と申して、聚楽の第へ連れて参り、それを怒られてご貴殿には、この厳重の聚楽第へ、潜入して四人を討って取り、なお小四郎を討ち取った上、更に主殿(おもや)へ切り入って、お紅殿を奪回なされようとのご様子。……小四郎の不義は申すも憎く、関白殿下のなされ方も、よろしくないことと存じます。しかし」
 とここまで云って来て、木村常陸介は叱るようにつづけた。
「聚楽第には強者(つわもの)もござる。貴殿お一人に荒らされるほどの、不用心のことは致して居らぬ! あまりに自己をお頼みなさるな! またそれほどにも聚楽第を、力弱きものとお思いなさるな!」
 しかしまたもや優しくなり、慰めるような口調となった。
「余計なことは申しますまい。某をお信じなさりませ。某必ずお紅殿を、無垢の処女(おとめ)として聚楽第から、貴殿にお返し致しましょう、安心して一先ずお引き取り下され、……四人の武士を討たれたことも、某秘密に取り行ない、貴殿にご迷惑のかからぬよう、葬むることにいたしましょう」
 こう云われてみれば秋安には、押して云うべきことはなかった。なるほど主殿へ切り入ったならば、討って取られることであろう。決死の覚悟で来たのではあったが、殺されるのを望んでいるのではない。それにお紅を処女のままで、返してくれるというのである。苦情を云うべき筋はない。しかも言葉を誓ったのは、他ならぬ木村常陸介である。充分に信頼してよかった。
 で、ひき上げることにした。
「ご芳志忝(かたじ)けのう存じます。ではお言葉に従いまして、立ち返ることにいたしましょう。つきましてはきっとお紅殿を……」
「大丈夫でござる、お案じなさるな」
「は」と恭しく一礼して、木立をくぐって北畠秋安は、忍びやかに後へ引き返した。
 しかし十足とは歩かない中に、一つの恐ろしい事件が起こった。
 酒宴をひらいている主殿の樓の、明るい華やかな笑声を縫って、悲痛極まる女の声が、一声けたたましく聞こえたかと思うと、一所の襖が仆されて、女の姿がよろめき出たが、欄干へ体をもたせかけると、そのままグッタリと動かなくなり、つづいて何物かが女の手から、秋安の足許へ投げられた。
 秋安は驚いて小腰を屈め、投げられた物を取り上げて見た。
「九燿の紋の付いた懐刀だ! 血にぬれている、血にぬれている! ああお紅殿は自害なされた! 常陸介殿!」
 と、飛びかかるようにしたが、
「お紅殿は自害を致しましたぞ!」
「うむ」と云うと木村常陸介は、腕をしっかりと胸へ組んだが、しばらくの間は黙っている。
 と、グイと顔を上げたが、樓上の女の死骸を見た。四五人の人影が現われて、欄干に仆れている女の死骸を、屋内へ運んで行こうとしている。
 と、木村常陸介は、にわかに頭を巡らしたが、主殿と並んで立っている、一宇の奇形な建物を見た。その建物と主殿とを繋いで、長い廻廊が出来ていたが、その廻廊に青い燈火(ひ)が、一点ユラユラと揺れながら、建物の方へ進んで行く。一人の侍女(こしもと)が雪洞(ぼんぼり)をささげて、廻廊を進んで行くのであった。いやいやその女一人だけではなくて、その後につづいて四五人の侍女が、群像のように固まって、建物の方へ進んでいた。
「なるほど」と呟いたのは常陸介であった。秋安の方へ顔を向けたが、
「誓った言葉に背きはしませぬ。処女(おとめ)のままの娘として、お紅殿をお返しいたしましょう。お信じなされ、お信じなされ」
 そういう言葉には確信らしいものが、さも重々しく籠もってもいた。


酒乱の関白

 ちょうどこの頃主殿(おもや)の樓の、華麗を極めた大広間で、関白秀次が喚いていた。
「女は死んだか、自害したか、ワッ、ハッ、ハッ、それもよかろう。死にたい奴は死ぬがよい。殺してくれなら殺してもやろう。たかが卑しい女一人だ! 切ろうと縊(くび)ろうと俺のままよ! これこれ死骸を片付けろ! 目障りだ目障りだ持って行け! ……さあさあ酒だ! 酌をせい! 今夜は徹夜で飲み明かす。お前達も飲め、俺も飲む」
 蒼白の顔色、充血した眼、釣り上った眉、歯を剥いた口、これが関白たる貴人であろうか? そんなようにも思われるほどに、すさみにすさんだ容貌である。髪を茶筌に取り上げて、練絹の小袖を纏っている。盃を握った右の手が、ブルブルと恐ろしく顫えている。癇をつのらせている証拠である。
 金泥銀泥で塗り立てられた、絢爛を極めた盃盤が、無数に立てられた銀燭に照らされ、蒔絵をクッキリと浮き出している。朱色に塗られた長柄の銚子が、次から次と運ばれて来る。床の間には黄金の香炉があって、催情的の香の煙が、太い紐のように立っている。
「お那々(なな)、謡え! 幸若(こうわか)、舞え! 伴作(ばんさく)々々鼓を調べろ!」
 またも秀次は喚き出した。
「……何を恐れる! 天下人だぞ! 何を遠慮する、関白だ! 一天四界俺の物だ! 何を怯える、石田、増田に! 巷の童(わらべ)どもが悪口を云わば、用捨はいらない、切ってすてろ! 妻妾の数三十余人! それがどうした、少ないくらいだ! まだまだ美人を集めて見せる! 俺を殺生関白だという! 殺生ならぬ人間がどこにある! 政治に暗く人心離反し衆人俺を笑うという! 伏見の爺(おやじ)が悪いからだ! 爺が政治を執っているからだ。で俺は飾り物だ! 虚器を擁しているばかりだ! 不平もあろう、淫蕩にもなろう、残忍にもなろう、酷薄にもなろう! しかも関白をやめさせようとする。淀君の子を立てようとする。で、俺を迫害する! 僻むのは当然だ当然だ! ……騒げ、はしゃげ、謡え、舞え! 京都の柔弱兒を驚かせてやれ! 注げ! 酒だ! イスパニアの酒だ! ……安南(あんなん)、交趾(こうし)から献上した、紅玉(ルビー)色をした酒を注げ! バタニア胡椒を酒へ入れろ! さぞ舌ざわりがよいだろう。酔が烈しく廻るだろう。……ソレソレこぼれた酒がこぼれた! スラスの懸布で拭くがいい。……鳥銃をもて、鳥銃をもて、往来の奴を撃ってやろう。象眼入の鳥銃がいい! 暹羅(しゃむ)から献じたあいつがいい。……沈香で部屋をくゆらせろ、伽羅で部屋をくゆらせろ! 龍涎香で部屋をくゆらせろ!」
 金銀で飾った脇息に倚って、秀次はのべつに喚き立てる。
 座に列なっている妻妾や侍女(こしもと)や、近習役や茶道衆や、幸若太夫の面々は、顔を見合わせて黙っている。
 たった今女が死んだのである。懐刀で自害をしたのである。で、すっかり怯かされている。その上に例の酒乱が出て、秀次の態度が兇暴になった。果たしてどうなることだろう? で、黙っているのである。
 狩野永徳の唐獅子の屏風、海北友松(うみきたゆうしょう)の牡丹絵の襖、定家俊成(ていかしゅんぜい)の肉筆色紙を張り交ぜにした黒檀縁の衝立、天井は銀箔で塗られて居り、柱は珊瑚で飾られて居る。そういう華美の大広間も秀次の喚く兇暴の声で、ビリビリ顫えるばかりである。
 と、秀次は眼を据えたが、一人の侍女へ視線を止めた。
「これこれ其方(そち)は何というぞ」
「妾(わたくし)は千浪(ちなみ)と申します」
 オドオド顫えながら答えたのは、秀次の愛妾葛葉(くずは)の方が、この頃になって召しかかえた、十七の処女(おぼこ)らしい侍女であった。
「千浪というか、よい名だよい名だ。参れ参れここへ参れ!」


愛妾の死

 淫蕩とそうして兇暴の光を、その眼の中へ漂わせながら、こう秀次に呼びかけられて、千浪はいよいよ顫え出した。
「はい」と云ったものの近寄ろうとはしない。あべこべに葛葉の背後(うしろ)へ隠れて、体を縮めるばかりであった。
「何も恐れることはない。取って食おうとは云っていない。可愛がってやろうと云っているのだ。参れ! 厭かな? 厭なことはあるまい」
 秀次はヒョロヒョロと立ち上ったが、千浪の方へ歩き出した。
 と、そういう様子を見て、血相を変えた女がある。他ならぬ愛妾葛葉の方で、かばうように千浪を蔽うたが、
「許しておやり遊ばしませ。まだこの子はほんの処女(おぼこ)で、可哀そうな子にござります」
 しかし葛葉の顔にあるものは、決して同情や愛憐ではなくて、むしろ自分の寵愛を、侍女(こしもと)の千浪に横取られることを、恐れて案じているところの、妾(めかけ)らしい嫉妬の情であった。
「ナニ処女、ははあそうか」
 秀次はカラカラと笑ったが、
「一層よいの、処女に限る。……其方(そち)は幾年(いくつ)だ? 二十九だったかな。年から云っても盛りは過ぎた。もう俺には興味はない。……代りに千浪をよこすがよい」
 秀次はなおもヒョロヒョロと進む。
 あれ! というように声を上げて、千浪が立って逃げ出したところを、飛びかかって秀次は小脇に抱いた。
「もがけもがけ、あばれろあばれろ、そのつどお前の軟かい肌が、俺の体へぶつかるばかりだ! 小鳥よ、捕らえた! 可愛い色鳥!」
 ズルズルと引き立てて行こうとした。
 その秀次の両の足を、しっかりと抱いた者があった。やはり葛葉の方である。
 冷やかに秀次は睨んだが、
「嫉妬か!」
「上様!」
「邪魔をするか!」
「はなしておやり遊ばしませ」
「其方(そち)こそ放せ! 手を放せ!」
「上様、お慈悲にござります」
「ふん」といかにも憎々しく、秀次は鼻を鳴らしたが
「先刻(さっき)自害をした女のように其方も自害をしたいそうな」
「いっそお手にかけて下さりませ」
「望みか!」と云うと秀次は、ドンと片足を持ち上げたが、ウンとばかりに蹴仆した。
 と、悶絶をする声がした、胸を蹴られた葛葉の方は裾を乱して伏し転んだ。
 一瞬間のざわめきの起こったのは、座に侍(はべ)っていた妻妾や近習が、一時に動揺したからであった。その動揺が静まると、反動的の静けさが、大広間一杯に拡がった。
「今夜はこれで二人死んだ。おそらくまだまだ殺されるだろう。殺せ殺せ、目茶苦茶に殺せ! 聚楽の栄華も先が知れている」
 こう呟いた者があったが、刺繍(ぬいとり)の肩衣に前髪立の、眼のさめるような美少年であった。美童は不破伴作(ふわばんさく)であった。
 狂人じみた目付きをして、秀次は大広間を見廻したが、
「目障りになる! 片付けろ! 死骸は厭だ! 井戸へでも沈めろ!」
 それから千浪を引きずったが、
「今夜の伽(とぎ)だ! 嬉しそうに笑え!」
 で、襖を開けようとした。
 と、その襖が向こうから開いて、
「孫七郎様」と云う声が聞こえてきた。優しくて穏かではあったけれど、威厳のある老女の声であった。
 つと立ちいでた人物がある。
 円頂黒衣鼠色の衣裳、手に珠数をつまぐっている。眉長く鼻秀で、額は広く頤は厳しい。澄んではいるが鋭い眼、頬に無数の皺はあるが、かえって顔を高貴にしている。
 これこそ女傑幸蔵主(こうぞうす)であった。
「相変わらずのお悪戯(いた)でござりますか」
 あたかも子供でもあしらうように、こう秀次に云いかけたが、咎めるような調子はなくて、なだめるような調子があった。そうしてそれが大広間の殺気と、秀次の兇暴の心持とを、平和な甘いものにした。
「幸蔵主の姥か」と鼻白んだように、秀次は千浪の手を放したが、
「俺(わし)はな心が寂しいのだよ」
 云い云い元の座へ押し坐った。
 と、幸蔵主も膝を揃えて、秀次の前へ坐ったが、手を上げると大広間を撫でるようにした。立ち去れという所作なのである。
 これで助かったというように、座に並んでいた妻妾達が近習の武士達と立ち上って、一整に姿をかくした後には秀次と幸蔵主ばかりが残された。


能弁の幸蔵主

 しばらく幸蔵主は秀次の顔を、まじろぎもせずに見ていたが、いかにもいたわしさに堪えないように、いたわるように話しかけた。
「妾(わたし)が聚楽(じゅらく)へ参りましてこの方、繰返し繰返し申しましたが、まだご決心が付きませぬそうな。よくないことでござりますよ。早うご決心をなさりませ。伏見へおでかけなさりませ。そうしてご弁解なさりませ。太閤殿下と貴郎(あなた)様とは、血縁の伯父姪[#「姪」はママ]ではございませぬか。親しくお二人がお逢いなされて、穏かにお話をなさいましたら、疑いは自然と解けましょう。ご謀反を巧まれたというのではなし、ただ少しご身分柄として、ご醉興の程度が過ぎるという、それだけのお咎めではござりませぬか。恐ろしいことなどはござりませぬ。何の何の恐ろしいことなどが。……本来このような場合には、伏見からお呼びのない前に、貴郎様から参られて、お咎めの故以(いわれ)のないということを、お申しひらきなさるのが、本当なのでござりますよ。しかるに今回はあべこべとなって、伏見から参れとのご諚があっても、貴郎様には参られようともなされぬ。これではいかな太閤様でも、ご立腹なされるでござりましょう。と、……云いましても今のところでは、太閤様のご立腹とて、大したものではござりませぬ。お逢いしてお詫びをなされましたら、直ぐにも融けるでござりましょう。決してご心配には及びませぬ。が、只今の機会を逃がして、伏見へおでかけなされぬようなら、それこそ一大事になりましょう。あの治部(ちぶ)様や長盛(ながもり)様が、あの巧弁で讒言などして、太閤様のご聡明を、眩まさないものでもござりませぬ。そうして貴郎様のお嫌いの、淀様などがそこへつけ込み、姦策を巡らさないものでもなく、何やら彼やらの中傷が入って、今度こそ本当に太閤様のお心持が貴郎様から離れて、貴郎様をお憎みなされようも知れぬ。が、是非ともこの機会に、伏見へおいでなさりませ。……あるいは貴郎様におかれましては、秀頼公(ひでよりぎみ)に太閤様が、豊臣の筋目や関白職を、お譲りなさろうと覚し召して、それで貴郎様を伏見へ呼び寄せ、殺すのではあるまいかと、ご懸念遊ばすかも知れませぬが、何の何の太閤様が、そのようなお腹の小さいことを、どうしてお企てなさりましょう。そのご心配には及びませぬよ……」
 と、ここまで云って来て幸蔵主は、繊細微妙な笑い方をしたが、
「お疑いさえ晴れましたら、貴郎様には直ぐにもご帰洛、ここ聚楽第の主として、いぜんとして一ノ人関白職、どのような栄華にでも耽けられます」
 この言葉が何よりも秀次の心を、強く烈しく打ったようであった。
「幸蔵主の姥!」とじっとなったが、
「伏見へ参ってお詫びさえしたら、俺は聚楽へ帰られようかな? 現在の位置に居られようかな?」
「妾をお信じなさりませ。孫七郎様の昔から、膝へ掻き上げてご介抱をした、この幸蔵主ではござりませぬか。今はお偉い関白様でも、妾の眼から見ますれば、可愛らしい和兒(わこ)様でござります。そういう可愛らしい和兒様に何で嘘など申しましょう」
「行こう行こう、伏見へ行こう!」
 子供のように他愛なく、こう秀次は甘えるように云った。
「俺にもお前は懐かしい。母者人(ははじゃびと)のような気持がする。俺はお前の云う通りになろう」
「ようご決心なされました」
「伏見へ行こう! 明日にも行こう」
 秀次は決心をしたのである。
 と、幸蔵主の眼の中へ、憐愍の情がチラツイたが、直ぐにさり気なく消してしまった。
 二人はしばらく無言であった。
 と、聚楽第の一所から、人が斬られでもしたような、悲鳴が一声聞こえてきた。
 不意に立ち上った幸蔵主は、スルスルと、欄干の側(そば)へ行った。で、悲鳴のした方を見た。
 主殿(おもや)と廻廊でつながれている奇形な建物の方角から、どうやら悲鳴は聞こえたらしい。
 で、そっちへ眼をやったが、
「今夜はこれで三人斬られた。……それにしても奇形な建物は、何を入れて置く建物なのであろう?」


この部屋は?

 奇形な建物の内部の一間で、老婆が喋舌(しゃべ)りながら歩いている。
「最初は誰も彼もがんばりますよ。でもこの部屋へ押し入れられて、ものの五日と経たないうちに、大概は往生をしますよ。そうして今度は自分の方から、懇願をするようになりますよ。お側へ行かせて下さいましと。……だからお前様におかせられましても、もうもうそれこそ間違いなく、この部屋をお出し下さいまし、関白様のご寝所へ、お連れなすって下さいまし、男の肌、男の匂い、男の力、男の意志(こころ)、それが欲しゅうござりますと、有仰(おっしゃ)ることでござりましょうよ。まあまあ出来るだけご随意に、強情をお張りなさりませ。強情が強ければ強いほど、要求も強くなりましょう。……そうしてお前様の要求が、強まれば強まるほど、関白様は喜ばれますので。……お前様は飛び付いて行きましょう。関白様は引っ抱えましょう。……それから幸福になりますので。はいはい、関白様もお前様も! ……これまで一度の間違いもなく、そうなったのでございますよ。ほんとにこれまで幾十人の娘が、この部屋の中へ入れられて、そうして愛慾の餓鬼となって、飛び出して行ったことでござりましょう。……でもお気の毒でござります。この部屋へ入って出て行って、愛慾を遂げた娘たちは、愛慾を遂げたその後では、九分九厘狂人になりました。一時に遂げた歓楽の力が、その人達を疲労させて、そうさせたのでござりましょう。……たしかお紅(べに)殿と有仰いましたな、お紅殿遠慮はいりませぬ。ご馳走をお食べなさりませ。風呂へお入りなさりませ、香水をお浴びなさりませ。床へお伏せりなさりませ。そうしてお眠りなさりませ。今夜が過ぎて明日にでもなったら、効験が現われるでござりましょう。……それでは妾(わたし)は他のお部屋の、他の女の人達を、見廻って来ることにいたしましょう」
 六十あまりの老婆である、脂肪肥りに肥っている。胡麻塩の髪の毛、刺のような鼻、おち窪んだ眼、皮肉な口、それが老婆の風采である。
 部屋の朦朧とした光に照らされ、妖怪じみて立っている。
 その部屋の様の艶妖なことよ! そうして異国じみていることよ!
 部屋の一所に浴槽があって、淡黄色の清らかな湯が、滑石の浴槽の縁をあふれて、床へダブダブとこぼれている。その傍らの壁の高所(たかみ)に、銀製の漏斗(じょうご)型の管があって、そこから香水の霧水沫(しぶき)が、絶間なく部屋へ吹き出している。が、浴槽は呂宋(ルソン)織りらしい、男女痴遊の浮模様のある、垂布(タピー)の向う側にあるところから、ハッキリ見ることは出来なかった。更に部屋の一所に、一人寝の寝台が置いてあった。張られてあるのは天鵞※(びろうど)[#「糸+戊」、510-下-23]であって、深紅の色をなしていた。が、尋常の寝台ではなく、一度その中へ寝ようものなら、リズムをもって上下へ動き、寝ている人の愛慾を、自然にそそるように出来ていた。寝部屋の天井に描かれてあるのは、曲線ばかりの模様であった。
 …………
 そういう連想を見る人の心へ、起こさせるように出来ていた。
 が、その部屋もバタビヤ織りらしい、これも深紅の垂布によって、入口を蔽われているがために、ハッキリと見ることは出来なかった。
 お紅の坐っている部屋のつくりには、これといって特異なものはなかった。
 ただ天井から下っている、珊瑚と鋼玉と爐眼石とで、要所要所を鏤められた、朝顔型のアレジヤ龕が、朝顔型に琥珀色の光を、床の上へ一ぱいに投げていた、それの光に照らされて、幾個(いくつ)かの異国的の食器の類が、各自(めいめい)の持っている色と形とを、いよいよ美しく見せて居るのが、いちじるしい特色ということが出来る。
 尖形のギアマンの水注がある。そうしてその色は紫である。盛られているのは水だろうか? 喇嘛僧(らまそう)形の薬壺がある。そうしてその色は漆黒である。どのような薬が入っているのであろう? 錫製の椀には獣肉が盛られ、南京産らしい陶器の皿には、野菜と魚肉とが盛られてある。
 そういう器類を前にして、坐っているお紅の姿というものは、むごたらしいまでに取り乱していた。髪はほどけて顔へかかり、裾は乱れて脛(はぎ)を現わし、襟はひらけて乳房を見せ、一方の袖が引き千切れて、二の腕があらわに現われている。その腕を烈しく握られたからであろう、一所黒痣が出来ている。


さながら人魚

 お紅の心は乱れていた。思い乱れているのである。今日一日の出来事が、夢かのように思われてならない。
 ――秀次公の使者として、不破小四郎がやって来たこと、聚楽第(じゅらくだい)へやるまいと北畠一家が、最初はげしく争ったこと、とうとう聚楽第へ連れて来られて、眼を奪うような華やかさと、胆を冷すに足るような、荒淫な夜遊にぶつかったこと、秀次が自分を抱えたこと、それに対して抗ったこと、でもズルズルと引きずられたこと、その時懐刀の落ちたこと……最後に気絶をしたことなど……
「ここはどういう部屋なのであろう?」
 お紅は四辺(あたり)を見廻して見た。
 いつか老婆は立ち去ったと見えて部屋には誰もいなかった。
「まるで異国へでも来たようだよ」
 見る物が驚きの種であった。
「正気づいた時にはこの部屋にいた。変なお婆さんが何か云った。一言も妾(わたし)には解(わか)らなかった」
 お紅は空腹を感じて来た。人が気絶から醒めた時には、空腹を感じるものである。
「妾に下された食物なのであろう。では妾は遠慮なく食べよう」
 で、お紅は手を延ばして、順々に食物を食べて行った。
「ああ妾は咽喉(のど)が乾いた。水注の水を飲むことにしよう」
 で、咽喉を潤(うる)おした。
 しかしお紅は知らなかった。それらの食物や水の中に、愛慾をそそる××質が――麝香(じゃこう)とか、芫花(けんか)とか、禹余糧(うよりょう)とか陽起石(ようきせき)とか、狗背(くはい)とか、馬兜鈴(ばとれい)とか、漏蘆(ろろ)などというそういう××質が、雑ぜられてあるということを。
 ただお紅は飲食をしたため、にわかに体が活々となり、元気づいて来たということと、恍惚(うっとり)とした甘い気持が、心に湧いたということを、感ずることが出来たまでであった。
「体が汗にぬれている。妾は風呂へ入ることにしよう」
 で、お紅は立ち上ったが、念のために部屋の中を見廻してみた。
 が、誰も見ていない。
 で、そろそろと帯を解いて。一枚々々衣装を脱ぐ、花の蕾が萼から花弁と、――一枚々々、一枚々々と――だんだんほぐれて行くようである。
 と、雌蕊が現われた。処女の肉体が一糸も纏わず、白く艶々とむき出されたのである。
 余りに清浄であるがために、たとえ誰かが見ていたとしても、何らの邪心さえ起こさなかったであろう。そんなにもお紅の裸体の姿は、清らかで美しいものであった。そうしてお紅のその裸身が、呂宋(ルソン)織りの垂布(タピー)を左右にひらいて、浴槽の部屋へ消えた後には、脱ぎ捨られた紅紫の衣装が、散った花のように残されていた。
 そうしてその頃にはお紅の裸身は、浴槽の中に埋もれていた。例えることが許されるなら、浴槽の中の緑色の湯は、紺碧をなした潮であり、それに埋もれている裸体のお紅は、若い美しい人魚でもあろうか?
 まさしく人魚に相違なかった。乳房から上を、潮から乗り出し、肩の上へ黒髪を懸けいている。快く閉ざした眼の瞼の、上気して薄紅く艶めかしいことは! ポッカリと唇を無心にあけて、前歯の一部分を現わしている。それがやはり艶かしい。
 と、お紅は立ち上ったが、浴槽を出ると蹣跚(よろめ)くように、香水管の下まで行って、起立したまま静まった。裸体から滴がしたたり落ちる。裸体を香水の霧が蔽う。斑(ふ)のない大理石の彫像を、繭から出たばかりの生絹が、眼にも入らない細さをもって、十重に二十重に引っ包み、暈しているのではあるまいかと、そんなようにも見え做される。
 だがお紅は知らなかった。浴槽の緑の湯の中に、熏陸(くんりく)、烏薬(うやく)、水銀郎(すいぎんろう)等の、××質が入れてあったことを。
 そうしてさらに知らなかった。管から吹き出している香水の中に、馬牙硝(ばがしょう)、大腹子(たいふくし)、杜仲(とちゅう)などの、同じく××的香料が、まぜられてあったということを。
 いつまでもお紅は陶然として、香水の霧に巻かれている。
 しかしそれから体を拭って、垂布をくぐって前房へ出て、そうしていぜんとして一糸も纏わず、バタビヤ織りの垂布をひらいて、寝部屋の中へよろめき込み、寝台へ体を横仆えて、桃色の薄布を一枚だけ懸けて、ウトウトと眠りに入った頃から、身内の血潮が騒ぎ立ち、…………、…………、追っかけ追っかけ上ぼって行くのを、堪えることが出来なかった。


漁色の動物

「ああ妾(わたし)はどうしたんだろう? こんな気持になったことは、それこそ産れて初めてだよ」
 薄衣(うすぎぬ)の下で身もだえをした。桃色の薄衣が裸休に準じて、蠱惑的の襞を作っている。胸の辺りが果物のように、両個ムッチリ盛り上っていたが、乳房がその下にあるからであった。下腹部の辺りが円錐形に円(まる)く、その上を蔽うている薄衣の面が、ピンと張り切って弛みのないのは、食物を充分に食べたがために、事実お腹が弾力をもって、張り切っているがためであろう。延ばされた左右の脚の間が、少し開らけていると見える。そこへ掛けられた薄衣の面が、深い窪味をこしらえている。薄衣は咽喉までかかっていたが、その薄衣から抽(ぬきで)たところの、顔の表情というものは、形容しがたく艶麗であった。と、その顔を抑えようとしてか、薄衣の縁から両腕を延ばし、肘から湾のように丸く曲げたが、直ぐに掌(てのひら)で顔を抑えた。と、脇下の可愛らしい窪味が、きわだって黒く見て取れた。
 烈しく喘いでいるらしい。胸から胴から下腹部から、延ばされた二本の脚の方へ、蜒(うねり)のようなものが伝わって行く。のた打っている爬虫類さながらである。
 そういうお紅を載せているところの、天鵞※(びろうど)[#「糸+戊」、513-下-12]張りの異国風の寝椅子は、先刻(さっき)から絶間のないリズムをもって、上へ下へと揺れている。
 お紅の心へ萌したものは、異性恋しさの心持であった。
 その異性の対象は、最初は北畠秋安であった。
「妾(わたし)…………! 妾を…………!」
 で、若々しい健康らしい、秋安の肉体を描いてみた。
「妾はあのお方と約束をした。行末夫婦(めおと)になりましょうと。……おいで下され! おいで下され! そうして妾を愛撫して下され!」
 次第に心が恍惚として来る。全身が鞣めされ麻痺されて来る。処女(おとめ)心が失われようとする。
「ああ妾には誰でもいい」
 不健全で好色で惨忍な、秀次の顔が浮かんで来た。
 と、秀次に…………甦って来た。ちっとも穢わしく思われない。ちっとも厭らしく思われない。今は全く反対であった。…………希(ねが)っていた。
 だがその次に浮かんで来たのは、不破小四郎の姿であった。
「今直ぐ妾へ来て下さるなら、……………!」
 美しくはあったが上品ではなかった。――そういう不破小四郎の顔が、お紅には上品に見えさえした。
「ああ妾はあの人にだって…………!」
 寝台がリズミカルに揺れている。
 お紅の全身は汗ばんで来た。呼吸が…………。薄衣の下の肉体が…………。
 で、この寝部屋の寝台の上に、…………裸形の女は、決してお紅ではないのであった。単なる漁色的の動物であった。つつましい清浄なお紅という処女は、ほんの少し前に消えたのである。
 しかし漁色の動物は、お紅一人ではないのであった。
 あの近東の回教国の、密房に則って作ったところの、この奇形な建物の内には、同じような部屋が幾個(いくつ)かあって、その部屋々々には漁色狂の女が、無数に籠められて居るらしい。その証拠には四方八方から、極めて遠々しくはあったけれど、…………を柱へでも投げつけるらしい、物の音などが聞こえてきた。
 みだらな唄声なども聞こえてくる。
 だがお紅には聞こえなかった。
 掻きむしられるような…………が、身心をメラメラと焼き立てる。その…………を消し止めようと、お紅は夢中で争っている。
 しかし絶対に勝ち難かった。次第々々に負けて来た。とうとうお紅は打ちのめされた。
「妾は…………! 最初に来た人へ!」
 桃色の薄衣を退(の)けようとする。そうしてお紅は立ち上ろうとした。そうしてお紅は叫ぼうとした。
「お婆さんお婆さん出して下さい! そうでなかったら連れて来て下さい!」
 で、お紅は泣き出した。
 で、もし誰か異性の一人が、ここの寝部屋へ入り込んだならば、お紅は…………。…………を失うであろう。
 そうして今やそういう異性が、奇形な建物の出入口の前へ、ひそかに姿を現わした。
 他ならぬ不破小四郎であった。
 出入口の前に扉がある。内部が厳重にとざされている。その前に立った小四郎は、四辺(あたり)を憚ったひそやかな声で、
「姥はいるか、四塚の姥は!」
 こう呼びかけて聞き耳を立てた。


光消えぬ矣簒奪星

 と、扉の向こう側から、老婆の声が聞こえてきた。
「四塚の姥はこの妾(わたし)で。……何かご用でもござりますかな?」
 嘲笑っているような声である。
「俺(わし)はな、小四郎だ、不破小四郎だ」
「お声で大概判(わか)りますよ。小四郎様でござりましょうとも」
 嘲笑っているような声である。
「姥か、お願いだ、扉をあけてくれ」
 するといよいよ嘲笑いの声を、四塚の姥は扉の中で立てたが、
「これはこれは何を有仰(おっしゃ)るやら、聚楽第(じゅらくだい)のお侍でありながら、聚楽第の掟をご存知ないそうな。この密房は男禁制、開けることではござりませぬよ」
「何を、莫迦な、そんなことぐらい、この小四郎が知らないものか。知っていればこそ頼むのだ。是非この扉をあけてくれ。そうしてお紅に逢わせてくれ。……お紅という娘はいるだろうな?」
「ハイハイおいででござりますよ。今頃はねんねでござりましょう。いいご機嫌でな。夢中でな」
「お紅は俺の女なのだよ。それを殿下が横取ったのだよ。いやいや横取ろうとしているのだよ。で、この密房へ入れたのさ。……だがお紅は俺のものだ。渡してくれ、渡してくれ!」
 懇願的の声となった。
「あの娘は本当に美(い)い女だ。聚楽中にもないくらいだ。で、ご愛妾の一人が死んだ。お前も知って居る京極のお方だ。今日まで殿下のご寵愛を、一人占めにして占めていられた方だ、そのお方が懐刀で自害された。お紅の懐中(ふところ)から転び出た刀で、まるでお紅が殺したようなものだ。いや事実殺したのだ。お紅を嫉妬して死んだのだからな。お紅がご愛妾になろうものなら、寵愛を失うと思ったからさ。……そんなにも綺麗なお紅なのだ。俺だって恋しく思うではないか。頼む、あけてくれ、扉をあけてくれ!」
 更にそれから誘惑するように。
「が、勿論頼むには、頼むだけのことはするつもりだ……殿下から拝領の生絹をやろう、殿下から拝領の羅紗布をやろう、殿下から拝領の紋唐革をやろう。もしお前が欲しいというなら、刺繍した黒天鵞※(ビロード)[#「糸+戊」、515-下-18]をくれてやる。黄金をやろう、背負いきれないほどの黄金を!」
 どうやら最後のこの言葉は、四塚の姥をまどわしたらしい。
 しばらくの間は黙っていたが、諂うように声をかけた。
「黄金を下さると有仰るので?」
「やるよやるよ、背負いきれないほどやるよ」
「まあまあ左様でござりますか、考えることにいたしましょう。妾はすっかり老い枯ちて居ります。この女部屋の宰領役さえ、わずらわしいものになりました。どうぞ閑静な土地へ参って、安楽なくらしをいたしたいもので。それにはお宝が入用(い)りますので。……貴郎(あなた)様がそれを下さるという。有難いことでござりますよ。ではこの扉をあけましょう。ご自身にお入りなさりませ。ご自身に寝部屋へ参られませ」
 すぐにカチカチと音がした。どうやら錠でもあけるらしい。
「有難い有難い礼を云うぞ。そうしたら俺はお紅を連れ出し、遠く他国へ行くことにしよう。そうしてそこで一緒に住む」
 やがてギーという音がした。
 と、扉が一方へあいて、先刻(さっき)方お紅の部屋に在って、お紅に因果を含めていた、老婆が顔をつき出した。すなわち四塚の姥である。
「お入りなされ」
「もう占(し)めたぞ!」
 だがその時どうしたのであろうか、四塚の姥は、
「あッ」と云ったが、ビ――ンと扉をとじてしまった。
 主殿(おもや)とつながれている廻廊を、一つの人影が辷るように、こっちに近寄って来たからである。
「小四郎!」
「おッ、ご宿老様!」
「不忠者!」
 か――ッと一太刀!
 悲鳴が起こって骸が斃れた。
 幸蔵主(こうぞうす)が樓上で耳にしたのは、この小四郎の悲鳴なのであった。
「四塚の姥! 扉をあけろ。……うむ、開けたか、顔を出せ。……お紅という娘が居るはずだ。丁寧にあつかって連れて参れ」
「かしこまりましてござります」
 密房の扉があけられている。
 砂金色の燈火(ともしび)が隙から射して、廊下を明るく照らしている。
 血刀を下げて突っ立っているのは、宿老の木村常陸介であった。
 足許に死骸が転がっている。一刀で仕止められた小四郎の死骸で、肩から胸まで割られている。
 切口から流れた血が溜まって、廊下へ深紅の敷物でも、一枚厚く敷いたようであった。
「聚楽の乱脈はこの有様だ。とうてい長い生命(いのち)ではあるまい。……頼むは五右衛門ばかりだが……」
 懐紙で血刀をゆるゆるとぬぐい、鞘へ納めた木村常陸介は、廻廊の欄干へ体をもたせ、奥庭の木立の頂き越しに、伏見の方の空を見た。
「これは不可(いけ)ない、仕損じたらしい」
 公孫樹(いちょう)の大木の真上にあたって、五帝星座がかかっていて、玄中星が輝いていたが、一ツの簒奪星が流星となって、玄中星を横切ろうとした。
 が、そこまで届かないうちに、消えてなくなってしまったからである。
「可哀そうに五右衛門は捕らえられたらしい」


一年後の花園の森


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