南蛮秘話森右近丸
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著者名:国枝史郎 



「将軍義輝(よしてる)が弑(しい)された。三好長慶(ちょうけい)が殺された、松永弾正(だんじょう)も殺された。今は下克上の世の中だ。信長が義昭を将軍に立てた。しかし間もなく追って了(しま)った。その信長も弑されるだろう。恐ろしい下克上の世の中だ……明智光秀には反骨がある。羽柴秀吉は猿智慧に過ぎない。柴田勝家(かついえ)は思量に乏しい。世は容易に治まるまい……武田家は間もなく亡びるだろう。波多野秀治は滅亡した。尼子勝久は自刃した。上杉景勝(かげかつ)は兄を追った。荒木村重(むらしげ)は謀反した。法燈暗く石山城、本願寺も勢力を失うだろう。一向一揆も潰されるだろう、天台の座主(ざす)比叡山も、粉砕されるに相違ない。世は乱れる。世は乱れる! だが先(ま)ずそれも仕方がない、日本国内での争いだ。やがて、誰かが治めるだろう、恐ろしいのは外国(とつくに)だ! 恐ろしいのは異教徒だ! 憎むべきは吉利支丹(きりしたん)だ! ザビエル、ガゴー、フロエー、オルガンチノこれら切支丹の伴天連(ばてれん)共、教法に藉口(しゃこう)し耳目を眩し、人心を誘い邪法を用い、日本の国を覬覦(きゆ)している。唐寺が建った、南蛮寺が建った、それを許したのは信長だ! なぜ許したのだ! なぜ許したのだ! 危険だ、危険だ、非常に危険だ! 国威が落ちる、取り潰すがよい! 日本には日本の宗教がある、かんながらの道、神道だ! それを讃えろ、それを拝め!」
 ここは京都二条通、辻に佇んだ一人の女、凜々(りり)として説いている。年の頃は二十歳(はたち)ぐらい、その姿は巫女、胸に円鏡をかけている。頭髪(かみ)を束(つか)ねて背中に垂らし、手に白綿(しらゆう)を持っている。その容貌の美しさ、洵(まこと)に類稀である。眉長く顳□(こめかみ)まで続き、澄み切った眼は凄いまでに輝き、しかも犯しがたい威厳がある。その眼は時々微笑する。嬰児のような愛らしさがある。高すぎる程高い鼻。男のそれのように、肉太である。口やや大きく唇薄く、そこから綻(ほころ)びる歯の白さ、象牙のような光がある。秀た額、角度(かど)立った頤、頬骨低く耳厚く、頸足(えりあし)長く肩丸く、身長(せい)の高さ五尺七八寸、囲繞(とりま)いた群集に抽出(ぬきんで)ている。垢付かぬ肌の清らかさは、手にも足にも充分現われ、神々しくさえ思われる。男性の体格に女性の美、それを加えた風采である。
 だが何という大胆なんだろう! 夕暮時とは云うものの、織田信長の管理している、京都の町の辻に立ち、その信長を攻撃し、その治世を詈(ののし)るとは!
 驚いているのは群集である。
 市女(いちめ)笠の女、指抜(さしぬき)の若者、武士、町人、公卿の子息、二十人近くも囲繞いていたが、いずれも茫然(ぼんやり)と口をあけ、息を詰めて聞き澄ましている。反対をする者もない、同意を表する者もない。
 不思議な巫女の放胆な言葉に、気を奪われているのである。
「唐寺の謎こそ奇怪である」巫女はまたもや云い出した。
「唐寺の謎を解(と)くものはないか! 唸(うな)っているのだ、恐ろしいものが! 日本の国は買われるだろう、日本の国は属国となろう。解くものはないか、南蛮寺(なんばんじ)の謎! いや恐らくあるだろう、解くがいい解くがいい! 幸福が来る、解いた者へは! だが受難も来るだろう! だが受難を避けてはならない! どんなものにも受難はある。受難を恐れては仕事は出来ない……ここに集まった人達よ!」
 ここで俄(にわか)に巫女の言葉は嘲笑うような調子になった。
「どんなに妾(わたくし)が説きましても、皆様方には解(わか)りますまい。解っているのは日本で数人、信長公にこの妾に、香具師(こうぐし)の頭に弁才坊、そんなものでございましょう。さあ其の中の何者が、最後に得を取りますやら、ちょっと興味がございます。オヤオヤオヤ」と巫女の調子はここで一層揶揄的になった。
「馬に念仏申しても、利目(ききめ)がなさそうでございます。そこでおさらばと致しましょう。もう日も大分(だいぶ)暮れて来た。塒(ねぐら)へ帰ったら夜になろう。ご免下され、ご免下され」
 群集を分けて不思議な巫女はスタスタ北の方へ歩き出した。
 と、その時一人の若武士(わかざむらい)が先刻(さっき)から群集の中にまじり、巫女の様子をうかがっていたが、思わず呟いたものである。
「洛外(らくがい)北山に住んでいて、時々洛中(らくちゅう)に現われては、我君を詈り時世を諷する、不思議な巫女があるという、困った噂は聞いていたが、ははあさてはこの女だな。よしよし後をつけてみよう。場合によっては縛(から)め捕り、検断所の役人へ渡してやろう」
 そこで後を追っかけた。
 町を出外ずれると北野になる。大将軍から小北山、それから平野、衣笠山、その衣笠山まで来た時には、とっぷりと日も暮れてしまい、林の上に月が出た。巫女はズンズン歩いて行く。若武士もズンズン歩いて行く。



 もうこの辺りは山である。鬱々と木立が繁っている。人家もなければ人気もない。夜の闇が四辺(あたり)を領している。ズンズン恐れず巫女が行く。着ている白衣(びゃくえ)が生白く見える。時々月光が木間を洩れ、肩のあたりを淡(うす)く照らす。
 鹿苑院(ろくおんいん)金閣寺、いつかその辺りも通ってしまった。だんだん山路が険しくなる。いよいよ木立が繁り増さり、気味の悪い夜鳥(よどり)の啼声がする。
 巫女はズンズン歩いて行く。
「一体どこまで行くのだろう?」若武士はいささか気味悪くなった。だが断念はしなかった。足音を忍んでつけて行く。
 一際こんもりした森林が、行手にあたって繁っている。ちょうどその前まで来た時であった。巫女は突然足を止め、グルリと振り返ったものである。
「若い綺麗なお侍さん、お見送り有難うございました。もう結構でございます。どうぞお帰り下さいまし。これから先は秘密境、迷路がたくさんございます。踏み込んだが最後帰れますまい」それから不意に叱るように云った。「犯してはならぬよ我等の領地を! 宏大な「処女造庭」境を!」
「おっ」と若武士は驚いたが、同時に怒りが湧き起こった。「何を女め! 不埒(ふらち)な巫女! 二条通りで我君の雑言、ご治世を詈ったそればかりか、拙者を捉えて子供扱い、許さぬぞよ。縛め捕る!」ヌッと一足踏み出した。
「捕ってごらんよ」とおちついた声、それで巫女はまた云った。「悪いことは云わぬよ。帰るがいい、お前が穢(きたな)い侍なら、北野あたりで殺しもしたろう、可愛い綺麗な侍だったから、ここまで送らせて来たのだよ。だが今夜はお帰りよ。そうして妾を覚えておいで、もう一度ぐらいは会うだろう、お帰りお帰り、さあ今夜は」
 馬鹿にしきった態度である。
 本当に怒った若い武士は、手捕りにしようと思ったのだろう、「観念!」と叫ぶと躍りかかった。
 それより早く、不思議な巫女は、サ――ッと後へ飛び退いたが、「お馬鹿ちゃんねえ」と云ったかと思うと、片手をヌーッと頭上へ上げた。キラキラ光る物がある。巨大な星でも捧げたようだ。カーッと烈しい青光る焔(ほのお)、そこから真直ぐに反射して、若い武士の眼を射た。魔法か? いやいやそうではない。胸にかけていた円鏡そいつを右手に捧げたのである。
 だがそれにしても不思議である、いかに月光が照らしたとは云え、そんな鏡がそんなにも強い、焔のような光芒をどうして反射したのだろう?
「あッ」と呻(うめ)いた若い武士は、二三歩背後(うしろ)へよろめいたが、ガックリ地面へ膝をついた。しかし勇気は衰えなかった。立ち上ると同時に太刀を抜き、
「妖婦!」と一躍(やく)切り込んだ。
「勇気があるねえ、いっそ可愛いよ。だが駄目だよ、お止めお止め」
 沈着(おちつ)き払った巫女の声が、同じ場所から聞こえてきた。いぜん鏡を捧げている。キラキラキラキラと反射する。それが若武士の眼を射る。どうにも切り込んで行けないのである。
 とはいえ若武士も勇士と見える。両眼瞑(つむ)ると感覚だ。柄を双手に握りしめ「ウン」とばかりに突き出した。
 だが何の手答えもない。ギョッとして眼を開いた眼の前に、十数本の松火(たいまつ)が、一列にタラタラと並んでいた。
 異様の扮装をした十数人の男が、美々(びび)しい一挺の輿(こし)を守り、若武士の眼前(めのまえ)にいるではないか。
 いつの間にどこから来たのだろう? 森の奥から来たらしい。町人でもなければ農夫でもない。庭師のような風俗である。そのくせ刀を差している。その立派な体格風貌、その点から云えば武士である。
 若武士などへは眼もくれず、巫女の前へ一斉に跪坐(ひざまず)いたが、「いざ姫君、お召し下さりませ」
「ご苦労」と家来に対するように、巫女は鷹揚に頷いたが、ユラリとばかりに輿に乗った。
「さようならよ、逢いましょうねえ、いずれは後日、ここの森で……綺麗で若くて勇しい、妾の好きなお侍さん」[#「妾の好きなお侍さん」」は底本では「妾の好きなお侍さん」。」]
 それから巫女は意味ありげに笑った。
「さあお遣りよ、急いで輿を!」
 松火で森を振り照らし、スタスタと奥へ行ってしまった。



 信長の居城安土(あづち)の城、そこから乗り出した小舟がある。
 春三月、桜花(おうか)の候、琵琶の湖水静かである。
 乗っているのは信長の寵臣、森右近丸(もりうこんまる)と云って二十一歳、秀でた眉、鋭い眼、それでいて非常に愛嬌がある。さぞ横顔がよいだろう、そう思われるような高い鼻、いわゆる皓歯(こうし)それを蔽て、軽く結ばれている唇は、紅を注したように艶がよい。笑うと左右にえくぼが出来る。色が白くて痩せぎすで、婦人を想わせるような姿勢ではあるが、武道鍛錬だということは、ガッシリ据わった腰つきや、物を見る眼の眼付で解(わか)る。だが動作は軽快で、物の云い方など率直で明るい。どこに一点の厭味もない。まずは武勇にして典雅なる、理想的若武士(わかざむらい)ということが出来よう。
 かの有名な森蘭丸(らんまる)。その蘭丸の従兄弟(いとこ)であり、そうして過ぐる夜衣笠山まで、巫女を追って行った若武士なのである。信長の大切の命を受け、京へ急(いそ)いでいるところであった。
 天正七年春の午前、湖水の水が膨らんでいる。水藻の花が咲いている。水鳥が元気よく泳いでいる。舟が通ると左右へ逃げる。だがすぐ仲よく一緒になる。よい天気だ、日本晴れだ、機嫌よく日光が射している。
 舟はズンズン駛(はし)って行く。軽舟(けいしゅう)行程半日にして、大津の宿まで行けるのである。
 矢走(やばせ)が見える、三井寺が見える、もう大津へはすぐである。
 とその時事件が起こった。どこからともなく一本の征矢(そや)が、ヒュ――ッと飛んで来たのである。舟の船首(へさき)へ突っ立った。
「あっ」と仰天する水夫(かこ)や従者、それを制した右近丸は、スルスルと近寄って眺めたが、
「ほほうこいつは矢文だわい」
 左様、それは矢文であった。矢羽根から二三寸下ったところに、畳んだ紙が巻き付けてある。
 矢を引き抜いた右近丸はクルクルと紙を解きほぐすと、スルスルと開いて見た。
「南蛮寺の謎手に入れんとする者信長公一人(いちにん)にては候(そうろう)まじ、我等といえども虎視耽々、尚その他にも数多く候」
 これが記された文字であった。
「成程」と呟いたが右近丸は些少(いささか)驚いた様子であった。「俺の用向きを知っていると見える。俺を嚇そうとしているらしい。これは用心をしなければならない。何者がどこから射たのだろう」四辺(あたり)を見廻したが解(わか)らなかった。たくさん舟が通っている。帆船もあれば漁船もある。商船(あきないぶね)も通っている。だがどの舟から射たものやら、少しも見当が付かなかった。
「さあ、舟遣れ、水夫(かこ)ども漕げ」
 そこで小舟は駛(はし)り出した。

 その同じ日の夕方のこと――ここは京都四条坊門、南蛮寺が巨然と聳えている。その周囲は四町四方、石垣の中に作られたは、紅毛ぶりの七堂伽藍。金銀を惜まぬ立派なものだ。
 夕(ゆうべ)の鐘が鳴っている。讃美歌の合唱が聞こえている。
 「アベ マリア! ……アベ マリア!」
 美しい神々しい清浄な声!
 ボーン! 梵鐘! 神秘的の音!
 それらが虚空へ消えて行く。
 この南蛮寺の傍らに、こんもり庭木にとりかこまれた、一軒の荒れた屋敷があった。
 この頃京都(みやこ)で評判の高い、多門兵衛(たもんひょうえ)という弁才坊(今日のいわゆる幇間(たいこもち))と、十八になる娘の民弥(たみや)、二人の住んでいる屋敷である。
 今日も二人は縁(えん)に腰かけ、さも仲よく話している。
 だが本当に多門兵衛という老人、そんな卑しい弁才坊だろうか?
 どうもそうとは思われない。深い智識を貯えたような、聡明で深味のあるその眼付、高貴の血統を暗示するような真直ぐで、正しい高い鼻、錠を下ろしたような緊張(ひきし)まった口、その豊かな垂頬から云っても、卑しい身分とは思われない。民弥の方もそうである。その大量な艶のよい髪、二重瞳の切長の眼、彫刻に見るような端麗な鼻梁、大きくもなければ小さくもない、充分調和のよい受口めいた口、結んでいても開いていても、無邪気な微笑が漂よっている。身長(せい)も高く肉附もよく、高尚な健康美に充たされている。行儀作法を備えているとともに、武術の心得もあるらしく、その「動き」にも無駄がない。
 親子であることには疑いない。万事二人はよく似ている。そうして二人ながら貧しいとみえ、粗末な衣裳を着ているが、しかし大変清らかである。



「ねえ民弥さん民弥さん、よい天気でございますねえ」
 こう云ったのは弁才坊で、自分の娘を呼びかけるのに、民弥さんとさんの字を付けている。ひどく言葉が砕けている。
「はいはい本当によいお天気で、春らしい陽気になりました。こんな日にお出かけになりましたら、お貰いもたくさんありましょうに、弁才坊さん弁才坊さん、町へお出かけなさりませ」
 民弥は民弥でこんなことを云っている。自分の父親を呼びかけるのに、弁才坊さんと云っている。
 だがこいつは常時(いつも)なのである。真実の親子でありながら、お友達のような調子なのである。とても二人ながら剽軽(ひょうきん)なのである。
「お貰いに行くのも結構ですが、今日は二人で遊びましょう。色々の花が咲きました、桜に山吹に小手毬(こてまり)草に木瓜(ぼけ)に杏(すもも)に木蘭(もくらん)に、海棠(かいどう)の花も咲きました」こう云ったのは弁才坊。
「ほんとにほんとにこのお庭は、お花で一杯でございます。往来さえ見えない程で」こう云ったのは民弥である。
「今日はお花見を致しましょう。お酒を一口戴きたいもので」
「お合憎様でございます。一合の酒さえございません」民弥は笑って相手にしない。
「ははあ、左様で、ではお茶でも」
「お茶もお合憎様でございます。久しく切れて居りますので」
「おやおやそいつは困りました。では白湯(さゆ)なりと戴きましょう」
「差し上げたくはございますが、お湯を沸かす焚物(たきもの)がございません」民弥はやっぱり相手にしない。
 これにはどうやら弁才坊も少しばかり吃驚(びっくり)したらしい。
「ははあ焚物もございませんので」
「明日の朝いただく御飯さえ、実はないのでございます」
「随分貧乏でございますな」
「今に始まりは致しません。昔から貧乏でございます」
「これはいかにも御尤(ごもっとも)、昔から貧乏でございます」こうは云ったが弁才坊は意味ありそうに云い続けた。「だが大丈夫でございますよ。苦の後には楽が来る、明日(あした)にでもなると百万両が、ころげ込むかも知れません」
「はいはい左様でございますとも。百万両は愚かのこと、大名になれるかも知れません」
「そうなった日の暁(あかつき)には、この弁才坊城を築き、兵を財(たくわ)え武器を調(ととの)え威張って威張って威張ります」
「そうなった日の暁には、この民弥さんも輿(こし)に乗り、多くの侍女を従えて、都大路(おおじ)を打たせます」
「どうやらそういう栄華の日が、すぐ間近く迫ったようで」
「結構なことでございます」
「これまでは苦労を致しました」
「ほんとにお気の毒でございました」
「いえいえ私(わたし)より民弥さんの方が、一層お気の毒でございました」
「何の何のどう致しまして、弁才坊様あなたの方が、一層ご苦労なさいました」
「苦は楽の種、苦は楽の種、アッハハハ楽になったら、この三年間の苦しみが、笑い話になりましょう」
「そうしたいものでございます」
「きっとなります。きっとなります」
「お父様!」とここで娘の民弥は俄(にわか)に調子を改めたが、四辺(あたり)を憚った鋭い声で「遂げられたのでございましょうか? 年月重ねられたご研究が?」
「うむ」とこれも弁才坊、がぜん態度を一変したが「民弥、遂げたぞ、ようやくのことで!」
「で、その旨信長公へ?」
「うむ、昨日(きのう)云ってやった!」
「では追っつけお使者が参り?」
「そうだ、この私(わし)の研究材料をお買い上げ下さるに相違ない」
「ああそうなったら私達は……」
「昔の身分に返(かえ)れるのだ」
 ここで親子は沈黙し、その眼と眼とを見合せた。
 まだ梵鐘が鳴っている。
 讃美歌の声も聞こえている。
 庭の桜が夕風に連れ、ホロホロホロホロと散ってくる。
 ヌッと立った弁才坊は、「民弥!」とじっと娘を見た。「秘密の一端明かせてやろう、部屋へおいで、来るがよい」
 縁(えん)を上って行く後から、従(つ)いて行ったのは娘の民弥で、二人家の内へ隠(かく)れた時、老桜の陰からスルスルと忍び出た一人の人物があった。



 人物と云っても少年である。年の頃は、十四五歳、刳袴(くくりばかま)に袖無を着、手に永々と糸を付けた幾個(いくつ)かの風船を持っている。狡猾らしい顔付である。だが動作は敏捷である。辻に立って風船を売り、生活(くらし)を立てている少年商人(あきゅうど)、だがそれにしても何のために、こっそり弁才坊の屋敷などへ、人目を憚り忍び込んだのだろう?
「うむ、あそこに窓がある、あそこから様子を見てやろう」
 呟(つぶや)くと木立を縫いながら、屋敷の横手に付いている小窓の下へ走り寄った。人差指へ唾を付け、窓の障子へ押え付けたのは、小穴を開ける為なのだろう。窓が高いので覗きにくい。
「困ったなア困ったなア」
 こんなことを云い出した。
「よし」と云うと一刎(は)ね刎ね、木間へスポリと飛び込んだかと思うと、苔蒸した石を抱えて来た。
「こいつを足場にしてやろう」
 そっと窓下へ石を置いたが、やがてその上へヒョイと乗ると、背延びをして小穴から覗き出した。
「ワーッ、有難(ありがて)え、よく見えらあ」
 それから熱心に覗き出した。
「ワーッ、姐ごめ、嘘は云わなかった。ほんとにほんとに弁才坊め、いろいろの機械を持ってやがる……ははああいつが設計図、ははああいつが測量機、ははああいつが鑿孔機(せんこうき)、うんとこさ書籍(ほん)も持っていやがる……オヤオヤオヤ人形もあらあ、やアいい加減爺(じじい)の癖に、あんな人形をいじっていやがる。待てよ待てよ、そうじゃアねえ。ありゃア娘の人形なんだろう。だって娘だっていい年じゃアないか。そうそう確か十八のはずだ。ええとそうして民弥と云ったっけ……おかしいなあ、おかしいや、弁才坊と民弥とが、人形を挿(はさ)んで話し込んでいるぜ。民弥め別嬪だなあ。家の姐ごよりずっと綺麗だ。俺(おい)らの姉さんならいいんだけれど、そうでないんだからつまんねえ。俺らの嫁さんにならねえかな。あっちの方が年上だから、どうもこいつも駄目らしい……え、何だって? 何か云ってるぜ! ……「この人形を大事にしろ」……ウフ、何でえ面白くもねえ、つまらねえ事を云っていやがる……え何だって何か云ってるぜ! ……『秘密の鍵は第三の壁』……何だか些少(ちっと)も解(わか)らねえ……何でもいいや、一切合切、みんな姐ごに話してやろう」
 こんなことを口の中で呟きながら、風船売の少年は、障子の穴から覗いている。
 日がだんだん暮れてきた。南蛮寺の鐘も今は止み、合唱の声も止んでしまった。
 庭木の陰が次第に濃くなり、夜が間近く迫ってきた。
 と、突然家の内から、「これ、誰だ。覗いているのは!」弁才坊の声がした。
「ワッ、いけねえ、目つかっちゃった」
 石から飛び下りた風船売の少年、庭木の陰へ隠れたが、その素早さというものは、人間よりも猿に近い。
 と内から窓があき、顔を出したは弁才坊で、グルグルと庭を見廻したが、神経質の眼付、ムッと結んだ口、道化た俤など少しもない。眼を付けたは窓下の石!
「石を足場にして覗いたな、さして高くもない窓だのに……とすると子供に相違ない。が、子供でも油断は出来ない……民弥々々!」と声をかけた。
「はい」と民弥が顔を出した。「近所の子供でございましょう。無邪気に覗いたのでございましょう」
 そういう民弥こそ無邪気であった。
「さあそいつが解らない」いぜん弁才坊は不安らしい。「私の探った秘密というものは、一通りならぬものだからな。いろいろの人間が狙っていよう」
「申す迄もございません」――だが民弥は苦にもしないらしい。
「で、ちょっとの油断も出来ない」
「物騒な浮世でございますから」だが民弥はやっぱり無邪気だ。
「全くどうも物騒だよ、北山辺りにも変な人間がいるし、洛中にも変な人間がいる」
「そうして諸方の国々では、今日も戦争、明日も戦争、恐ろしいことでございます」これだけは民弥も真剣であった。
「そればかりではない紅毛人までが、ユサユサ日本へやって来て、南蛮寺などを建立してしまった」弁才坊はひどく不満そうである。
「でもお父様」と娘の民弥は、どうしたものか微妙に笑った。
「その南蛮寺が建ったればこそ、お父様には今回のご研究が出来たのではございませんか」
「それはそうだよ」と云ったものの、やはり弁才坊は不満らしい。だがにわかに態度を変えた。
「どうやら宵も過ぎたらしい。さあさあ民弥さん寝るとしよう」剽軽の態度に帰ったのである。
「かしこまりました、弁才坊さん、おねんねすることに致しましょう」
 二人窓から引っ込んだが、つづいて雨戸が閉ざされた。後はシーンと静かである。
 とガサガサと庭木が揺れ、現われたのは先刻(さっき)の少年、「これからが俺の本役(ほんやく)さ」とまたもや窓へ近よったが、手を延ばすと窓を開け、そこから一つの風船を、家内(やない)へ飛ばせたものである。



 その風船はユラユラと部屋の中へ入って行った。
 さてその部屋の中であるが、弁才坊ただ一人、床を延べて伏せっていた。
 うとうと眠っているらしい。部屋の中には燈火(ともしび)がない。で、闇ばかりが領している。その闇の部屋をユラユラと、白い風船が漂っている。スーッと天井まで上ったかと思うと、スーッと下へ下って来る。妖怪(もののけ)のようにも思われるし、肉体から脱け出た魂のようでもある。
 しかし少年は何のために、そんな風船を飛ばせたのだろう? どんな役目をするために、風船は部屋の中へ入り込んだのだろう?
 だがそいつは風船が、弁才坊の真上まで、ユラユラユラユラとやって来た時、ハッキリ了解することが出来た。
 風船がパッと二つに割れ、闇の部屋の中へバラバラと、白粉(おしろい)のような粉を蒔き、それが寝ている弁才坊の顔へ、音もなく一面に降りかかるや否や、ムーッと弁才坊呻き声を上げ、両手を延ばすと苦しそうに、胸の辺りを掻き毟ったが、それもほんの僅かな間で、そのまま動かなくなったのである。
 と、どうやら風船には、糸でも付けてあったらしい、そうしてそれが手繰(たぐ)られたらしい、窓から戸外(そと)へ出てしまった。
 後はひっそりと静かである。
 コトンと窓も閉ざされてしまった。
 春の夜風が出たのだろう、花木の揺れる幽かな音が、サラサラサラサラと聞こえてくる。
 弁才坊は寝たままである。弁才坊は微動さえしない。
 だんだん夜が更けて行く。
 とまたコトンと窓が開き、一本子供の腕が出た。続いて子供の顔が出た。風船売の少年である。今まで窓の外に立ち、様子をうかがっていたらしい。
 と、窓から飛び込んで来た。例によって敏捷猿のようである。足音一つ立てようとはしない。窓から射し込む月の光で、部屋中薄蒼く暈(ぼ)かされている。
「さあてどの辺りにあるんだろう? 手っ取り早く探さなけりゃアならねえ」こんな事を呟いている。「隣部屋に寝ている民弥めに、眼を覚まされては大変だ」こんなことも呟いている。
 部屋の一所に書棚がある。で、書棚を探し出した。部屋の一所に机がある。で、机を探し出した。壁に図面が張り付けてある。それを素早く探り出した。部屋の一所に測量機がある。その周囲(まわり)を探し出した。部屋の一所に鑿孔機(せんこうき)がある。それを両手で探り出した。
「ないなあ、ないなあ、どうしたんだろう? どこに隠してあるんだろう? こんなに探しても目つからないなんて、どう考えたって箆棒だよ。もっとも途法もなく大事なもので、それこそうんとこさ値打のあるもので、いろいろの人が狙っているもので、そいつを一つさえ手に入れたら、大金持になれるんだそうだ。だからチョロッカにその辺りに、うっちゃってあろうとは思われないが、盗みにかけちゃ俺らは天才、その俺様が克明に、こうも手順よく探すのに、目つからないとは箆棒だよ。……何だこいつあ? 人形か?」
 部屋の片隅の卓の上に、二尺あまりの身長(たけ)を持った、人形が一つ置いてある。奈良朝時代の貴女風俗、そういう風俗をした人形である。
 ヒョイと取り上げた風船売の少年、ちょっと小首を傾げたが、そこはやっぱり子供である、小声で節を付けて唄い出した。
「可愛い可愛い人形さん、綺麗な綺麗な人形さん、物を仰有(おっしゃ)い、物を仰有い、貴郎(あなた)に焦れて居りまする。――などと喋舌(しゃべ)ると面白いんだがな。喋舌らないんだからつまらないよ。もっとも人形が喋舌り出したら、俺ら仰天して逃げ出すだろうが。……が、待てよ」
 と考え込んだ。
「そうだ先刻(さっき)がた弁才坊めが、こんなことを民弥へ云っていたっけ『この人形を大事にしろ』……とすると何か人形に、秘密があるのじゃアあるまいかな? もしも秘密があるとすると、あの秘密に相違ない」ここでまたもや考え込んだ。
「そうだそうだひょっとかするとこの人形のどの辺りかに、あいつが隠してあるのかもしれない。あの素晴らしい秘密の物が」
 で、少年は窓口へ行き、仔細に人形を調べ出した。人形は随分貫目がある。少年の手には持ち重りがする。顔は非常に美しい。眼などまるっきり活きているようだ。紅を塗られた口からは、今にも言葉が出そうである。着ている衣裳も高価なもので、唐来もののように思われる。
 だがこれといって変わった所もない、単純な人形に過ぎなかった。
「何だちっとも面白くもない、ただのありきたりの人形だアね」
 不平らしく呟いた風船売の少年、卓の上へ人形を返そうとした時、驚くべき一つの事件が起こった。



 と云うのは突然人形が、鋭い高い金属性の声で、次のようにハッキリ叫んだのである。
「南蛮寺の謎は胎内の……」
 それだけであった! たった一声!
 よし一声であろうとも、確かに人形は叫んだのである。しかも驚くべき大きな声で。
 風船売の少年が、どんなに吃驚仰天したか、想像に余ると云ってよい。自分が泥棒だということも、忍び込んだ身だということも、何も彼も忘れて声を上げた。
「ワーッ、いけねえ、化物だあ!」
 この結果は悪かった。隣部屋に寝ていた娘の民弥(たみや)が、声に驚いて眼覚めたのである。
「どうなされましたお父様」
 まずこう呼ぶ声が聞こえてきた。つづいて起き上る気勢(けはい)がした。こっちの部屋へ来るらしい。
「いよいよいけねえ、逃げろ逃げろ!」
 人形を卓の上へ抛り出すと、窓へ飛びついた風船売の少年、ヒラリと外へ飛び出した。
 と、それと引違いに、部屋へ現われたのは娘の民弥で、開けてある窓へ眼をつけたが、「まあお父様の不用心なことは。窓をあけたままで寝ておいでなさる。その上寝言など仰有(おっしゃ)って」娘らしく明るく笑ったが、例の道化た調子となった。
「弁才坊さん弁才坊さん、民弥さんを嚇してはいけません。『ワーッ、いけねえ、化物だあ……』などと仰有ってはいけません。さあさあお眼覚めなさりませ。さあさあお話し致しましょう」佇んだまま見下ろしたが、窓から射し込む月光に照らされ、寝ている父の寝姿が、何となく異様に見えたらしい。「おや」と云うと跪坐(ひざまず)いた。
「お父様!」と声をかけ、額へ指をふれて見た。「あっ!」と叫びを上げたのは、父の額が水のように、冷々(ひやひや)と冷(ひ)えていたからである。
「お父様!」と物狂わしく、もう一度叫ぶと両手を延ばし、父の体を抱き上げた。脈もなければ温気もない、全身すでに硬直している。父はこの世の人ではなかった。父は死んでいるのであった。
 これが気弱の娘なら、取り乱したに相違ない。泣き喚いたに相違ない。気絶ぐらいはしただろう。しかし民弥は強かった。眼から涙を流しながらも、しっかり奥歯を噛みしめていた。ブルブル全身を顫わせながらも、気の遠くなるのを我慢した。
 しばらく心をしずめたのである。
「誰が、どうして、何の為に、お父様のお命を絶ったのだろう?」
 ズーッと部屋の中を見廻してみた。
「窓が一杯に開いている。用心深いお父様、開けたままお寝になるはずはない。誰かが開けたに相違ない。その誰かが下手人なのだ。……部屋の中が乱暴に取り散らしてある。どうやら何かを探したらしい。とするとあれだ! 唐寺の謎!」
 父の殺された原因は、これでどうやら解ってきた。
「お父様が苦心して研究された、唐寺の謎の材料を、盗み取ろうとしたものが、お父様のお命を絶ったのだ」
 そこで死骸を調べ出した。切り傷もなければ突き傷もない。絞め殺された跟跡(あと)もない。
「ああ妾には解(わか)らない」
 ハッキリ解っていることは、可愛がってくれたお父様が、死んでしまったということであった。一人の父! 一人の娘! 母もなければ兄弟もない。親戚(みより)もなければ知己(しりびと)もない。で、お父様の死んだ今は、民弥は文字通り一人ぼっちであった。その上生活(くらし)は貧しかった。明日の食物さえないのである。
 どうするだろう? 可哀そうな民弥?
「お父様!」と叫ぶと新しく涙、澪すと同時に泣き倒れた。
 どんなに民弥が気丈でも、その程度には限りがある。泣き倒れたのは当然と云えよう。父の冷たい額の上へ、熱で燃えるような額を宛て、民弥はいつ迄もいつ迄も泣く。
 どんどん春の夜は更けていく。咽び泣く民弥の声ばかりが、その春の夜へ糸を引く。泣き死んでしまうのではないだろうか? いつ迄もいつ迄もいつ迄も泣く。
 だがこのとき、庭の方から、厳かに呼びかける声がして、それが悲しめる民弥の心を、一瞬の間に慰めた。
「悲しめる者よ、救われなければならない。……民弥よ民弥よ嘆くには及ばぬ。……父の死骸は南蛮寺へ葬れ!」
 それはこういう声であった。
 窓の向こうに人影がある。月光の中に立っている。輪廓だけが朦朧と見える。痩せてはいるが身長(たけ)高く、黒の法衣を纏っている。日本の僧侶の法衣ではない。吉利支丹(きりしたん)僧侶の法衣である。胸に何物か輝いている。銀の十字架が月光を吸い、キラキラ輝いているらしい。非常な老人と思われる。肩に白髪が渦巻いている。胸に白髯(はくぜん)が戦(そよ)いでいる。
「ああ貴郎(あなた)様はオルガンチノ僧正!」
 その神々しさに打たれたのだろう、民弥は思わず合掌したが、ちょうどこの頃京は八条四ツ塚の辺りの一軒の家で、風変わりの二人の男女によって、こんな会話が交わされていた。



「随分遅いな、猿若は」
 こう云ったのは男である。四十格好、大兵肥満、顔はというにかなり凄い。高い段鼻、二重顎、巨大な出眼、酷薄らしい口、荒い頬髯(ほほひげ)を逆立てている。その上額に向こう傷がある。これが人相を険悪に見せる。広袖(ひろそで)を着、胸を寛(くつろ)げ、頬肘を突いて寝ころんでいる。一見香具師(やし)の親方である。
「そりゃアお前さん遅いはずさ、あれだけの仕事をするんだからね」
 こう云ったのは女である。二十八九か三十か、ざっとその辺りの年格好、いやらしく仇(あだ)っぽい美人である。柄小さく、痩せぎすである。で顔なども細長い。棘のように険しくて高い鼻、小柄の刃先とでも云いたげな、鋭い光ある切長の眼、唇は薄く病的に赤く、髪を束ねて頸(うなじ)へ落とし、キュッと簪(かんざし)で止めてある。額は狭く富士形である。その顔色に至っては白さを通り越して寧ろ蒼く、これも広袖を纏(まと)っている。一見香具師の女親方、膝を崩してベッタリと、男の前に坐っている。
 男の名は猪右衛門(ししえもん)、そうして女の名は玄女(げんじょ)である。
 夫婦ではなくて、相棒だ。
 家は玄女の家である。
「全く仕事の性質から云えば、かなりむずかしい仕事だからな、うまく仕遂(しと)げて来ればいいが、早く結果を聞きたいものさ」こう云ったのは猪右衛門、「まごまごすると夜が明ける。宵の口から出て行って、いまだに帰って来ないなんて、どうもいつものあいつらしくないよ。やりそこなって恥かしくなって、どこかへ逃げたんじゃアあるまいかな」不安だという様子である。
「そんな心配はご無用さ」
 玄女には自信があるらしい。
「百人二百人乾児(こぶん)もあるが、度胸からいっても技倆(うで)からいっても、猿若以上の奴はないよ。年といったらやっとこさ十五、それでいて仕事は一人前さ」
「だが相手の大将も、尋常の奴じゃアないんだからな」やっぱり猪右衛門は不安らしい。
「そりゃア云う迄もありゃアしないよ。昔は一国一城の主、しかも西洋の学問に、精通している人間だからね」
「だからよ、猿若やりそこない、とっ捕まりゃアしないかな」
「なあに妾(わたし)から云わせると、相手がそういう偉者(えらもの)だから、かえって猿若成功し、帰って来るだろうと思うのさ」玄女には心配がなさそうである。
「へえおかしいね、何故だろう?」猪右衛門には解(わか)らないらしい。
「だってお前さんそうじゃアないか、相手がそういう偉者だから、なまじっか大人(おとな)などを差し向けると、すぐ気取られて用心され、それこそ失敗しようじゃアないか」
「うん、成程、そりゃアそうだ」今度はどうやら猪右衛門にも、胸に落ちたらしい様子であった。
 二人しばらく無言である。
 部屋の片隅に檻がある。幾匹かの猿が眠っている。彼等の商売の道具である。壁に人形が掛けてある。やっぱり商売の道具である。いろいろの能面、いろいろの武器、いろいろの衣裳、いろいろの鳴物、部屋のあちこちに取り散らしてある。いずれも商売道具である。紙燭(ししょく)が明るく燈(とも)っている。その光に照らされて、そういう色々の商売道具が、あるいは光りあるいは煙り、あるいは暈(ぼ)かされている様が、凄味にも見えれば剽軽(ひょうきん)にも見える。
 コン、コン、コンと山羊の咳がした。庭に檻でも出来ていて、そこに山羊が飼ってあって、それが咳をしているのだろう。
 だが何より面白いのは、隣部屋から聞こえてくる、いろいろの香具師の口上の、その稽古の声であった。
「耳の垢(あか)取りましょう、耳の垢!」
「独楽は元来天竺(てんじく)の産、日本へ渡って幾千年、神代時代よりございます。さあさあご覧、独楽廻し!」
「これは万歳と申しまして、鶴は千年の寿(よわい)を延べ、亀は万年(まんねん)を経(ふ)るとかや、それに則った万歳楽(まんざいらく)、ご覧なされい、ご覧なされい」
「仰々(そもそも)神楽(かぐら)の始まりは……」
「これは都に名も高き、白拍子(しらびょうし)喜瀬河(きせがわ)に候[#「候」は底本では「侯」]なり……」
「ヤンレ憐れは籠の鳥、昔ありけり片輪者……」
 ――などと云う声が聞こえてくる。
 隣に香具師の稽古場があって、玄女の率(ひき)いている乾児(こぶん)たちが、それの稽古をしているのらしい。
「それはそうと、ねえお前さん」
 玄女は猪右衛門へ話しかけた。
「例の恐ろしい粉薬(こぐすり)だが、どこからお前さん手に入れたのさ?」



「あああいつか」とニヤニヤ笑い、猪右衛門は得意らしく話し出した。「南蛮寺すなわち唐寺だが、そこから俺ら盗み出したのさ」
「へえ、なるほど、唐寺からね」
「十日ばかり前のことだったよ。俺ら信者に化け込んで、南蛮寺へ入り込んだというものさ。礼拝なんかには用はない、そこで寺内のご見物だ、ズンズン奥の方へ入って行くと、一つへんてこの部屋があった。いろいろの機械が置いてある、二人の坊主が話している。鼠のような獣がいる。と、どうだろう坊主の一人が、罐の中から粉薬を出して、鼠のような獣へ、ちょいとそいつを嗅がしたじゃアないか。するとコロリと斃(くたば)ったってものさ、鼠のような獣がな。恐ろしい恐ろしい恐ろしい魔法! 吉利支丹(きりしたん)の魔法に相違ない! こう最初には思ったが、直ぐその後で感付いたものさ、ナーニあいつは毒薬だとな。そこで盗もうと決めっちゃった[#「決めっちゃった」はママ]のさ。そうして隙をうかがって、うまうま盗んだというものさ」
「大成功、褒めてあげるよ」玄女は図々しく笑ったが、「でもそいつを風船へ仕込み、弁才坊殺しを巧んだのは、この妾だからね、威張ってもよかろう」
「いいともいいとも、威張るがいいや。だが成功不成功は、猿若が帰って見なけりゃアね」
「ナーニきっと成功だよ」
「うまく秘密を盗んだかしら?」
「あいつのことだよ、やりそこないはないさ」
 恐ろしい話を平然と、二人の男女は話している。
 と、猪右衛門はニヤニヤした。
「うまくいったら大金持になれる」
 すると玄女もニコツイたが、
「そうなった日には妾なんか、こんな商売はしていないよ」
「俺だってそうさ、香具師(やし)なんかしない。大きな御殿を押し建ててやるさ」
「つまらないことを云ってるよ」
「アッハハ、つまらないかな」
 苦く笑ったが猪右衛門はにわかに聞耳を引き立てた。
「どうやら帰って来たらしい」
 なるほどその時門(かど)の戸が、ギーッと開くような音がした。
「おや本当だね、帰ったようだよ」
 二人同時に起き上った時、部屋へ駈け込んで来た少年がある。例の風船売の少年である。
「おお猿若か、どうだった?」先ず訊(たず)ねたのは猪右衛門。
「どうだもこうだもありゃッしないよ、うまくいったに相違ないさ」引き取ったのは玄女である。
「そうだろうね、え、猿若?」
「待ったり」と云うと猿若少年、走って来たための息切れだろう、苦しそうに二つ三つ大息を吐き、胸を叩いたがベッタリと坐った。それから喋舌(しゃべ)り出したものである。
「まずこうだ、聞きな聞きな、『秘密の鍵は第三の壁』『この人形を大事にしろ』弁才坊めが云っていたってものさ。ああそうだよ民弥にね。綺麗な綺麗な娘によ。全くあいつア別嬪だなあ。姐ごなんかよりゃアずっといいや。……ええとそれから風船だ、飛ばして置いて引いたってものさ、云う迄もないや、糸をだよ。するとパッチリ二つに割れ、パラパラこぼれたのは毒薬だ。と、ムーッと弁才坊……」
「そうかそうか、斃(くたば)ったのか?」こう訊いたのは猪右衛門。
「云うにゃ及ぶだ」と早熟(ませ)た口調、猿若はズンズン云い続ける。「で、窓から忍び込み……」
「偉い偉い、探したんだね」今度は玄女が褒めそやす。
「そうともそうとも探したのさ。目に付いたは人形だ」
「人形なんかどうでもいい、手に入れたかな、唐寺の謎?」
 猪右衛門短気に声をかける。
「急くな急くな」と猿若少年、例によって早熟た大人の口調、そいつで構わず云い続けた。
「驚いちゃアいけねえ、喋舌ったのさ。うんにゃうんにゃ呶鳴(どな)ったのさ。喚(わめ)いたと云った方が中(あた)っている。『唐寺の謎は胎内の……』――人間じゃアねえ人形だ! 人形がそう云って喚いたのさ。すると隣室(となり)から民弥さんの声だ。『どうなさいました、お父様』――つまりなんだな、目を覚ましたのさ。『ワーッ、いけねえ、化物だあ!』『いよいよいけねえ、逃げろ逃げろ!』――スタコラ逃げて来たってものさ。ああ驚いた、腹も空いた、一杯おくれよ、ねえご飯を」
「ご飯は上げるが唐寺の謎は?」訳がわからないと云うように、訊き返したのは玄女である。
「唐寺の謎? 俺ら知らねえ」
「馬鹿め!」と立ち上る猪右衛門。
 そいつを止めたのは玄女であった。
「まあまあお待ちよ、怒りなさんな。それだけ働きゃアいいじゃアないか。それにさ随分いろいろの為になる言葉を聞いて来たじゃアないか。『秘密の鍵は第三の壁』『この人形を大事にしろ』『唐寺の謎は胎内の……』――ね、どうだい面白いじゃアないか。ひとつ二人で考えてみよう。三つの言葉をくっ付けたら、唐寺の謎だって解けるかも知れない」
 玄女は考えに分け入ったが、その間も春の夜が更け、次第に暁(あけ)に近付いた。
 そうして全然(すっかり)夜が明けた時、一人の立派な若武士が、弁才坊の家を訪れた。他ならぬ森右近丸であった。

10[#「10」は縦中横]

 信長の居城安土の城、そこから船で乗り出したのは、昨日(きのう)の昼のことであった。琵琶湖を渡って大津へ着き、大津から京都へ入ったのは、昨日の夜のことであり、明けるを待って従者(ずさ)もつれず、一人でこうやって訪ねて来たのは、密命を持っているからであった。
 庭に佇むと右近丸はまず見廻したものである。
「春の花が妍(けん)を競っている。随分たくさん花木がある。いかにも風流児の住みそうな境地だ。だがそれにしてもこの屋敷は、何と荒れているのだろう。廃屋(あばらや)と云っても云い過ぎではない。世が世なら伊勢の一名族、北畠氏の傍流の主人(あるじ)、多門兵衛尉教之(たもんひょうえのじょうのりゆき)殿、その人の住まわれる屋敷だのに。……貧しい生活(くらし)をして居られると見える」
 深い感慨に耽ったようである。
 玄関とも云えない玄関へ立ち、「ご免下され」と声をかけた。
「はい」と女の声がして、現われたのは民弥(たみや)であった。
 恭しく一礼した右近丸。
「私ことは織田家の家臣、森右近丸と申す者、弁才坊殿にお目にかかりたく、まかりこしましてござります。何とぞお取次下さいますよう」
 粗末な衣裳は着ているが、又お化粧もしていないが、自然と備わった品位と美貌、案内に出たこの娘、稗女(はしため)などとは思われない、民弥という娘があるということだ、その娘ごに相違あるまい――こう思ったので右近丸は、こう丁寧に云い入れたのである。
「ようこそお越し下されました。織田様お使者おいでに就(つ)き、父に於きましても昨日(きのう)以来、お待ち致しましてござります。然(しか)るに……」
 と云うと娘の民弥は三指をついて端然と坐り、頸(うなじ)を低く垂れていたが、静かに顔を振り上げた。
「一夜の違い、残念にも、お目にかかれぬ身の上に、成り果てましてござります」
「ははあ」と云ったが右近丸には、どうやら意味が解(わか)らないらしい。「それは又何故でござりますな?」
「逝去(なくな)りましてござります」
「死(なく)なられた□ 誰が□」と右近丸。
「父、多門兵衛尉」
「真実かな□」一歩進んだ。
「真実! 昨夜! 弑(しい)せられ!」
「何!」と叫んだが右近丸は、心から吃驚(びっくり)したらしい。「弑せられたと仰有(おっしゃ)るか□ そうして誰に□ 何者に□」
「下手人不明にござります」
「ム――」と云ったが右近丸は思わず腕を組んでしまった。
 朝風に桜が散っている。老鶯が茂みで啼いている。
 それを背景にして玄関には、父を失い手頼(たよ)りのない、美しい民弥が頸垂(うなだ)れている。その前に右近丸が立っている。若くて凜々しい右近丸が。
 まさに一幅の絵巻物だ。
 さてその日から数日経った。
「物買いましょう、お払い物を買いましょう」
 こういう触声(ふれごえ)を立てながら、京を歩いている男があった。他ならぬ香具師(やし)の猪右衛門(ししえもん)である。古道具買(こどうぐか)いに身をやつし、ノサノサ歩いているのである。
 足を止めたのは南蛮寺の裏手、民弥の家の前であった。
「家財道具やお払い物、高く買います高く買います」一段と声を張り上げて、こう呼びながら眼を光らせ、民弥の家を覗き込んだ。

11[#「11」は縦中横]

 民弥の家の一つの室(へや)では二人の男女が話していた。
 その一人は民弥であり、もう一人は右近丸であった。
 父を失い孤児(みなしご)となった、民弥の身の上を気の毒がり、右近丸は見舞いに来たのである。しかし勿論一方では、殺された不幸の弁才坊が、生前研究した唐寺の謎の、研究材料を探し出し、主君信長公の命令通り、高価の金で買い求めようと、そうも考えて来たのであった。
 窓から昼の陽が射し込んでいる。室(へや)が明るく輝いている。生前の弁才坊の研究室であり、また殺された室でもあった。秘密を保とうためなのだろう、四方板壁でかこまれた、紅毛振の室である。その一方に扉がある。紅毛振の扉である。扉と向かい合った一方の壁には、巨大な書棚が据えてある。書棚には本が積んである。巻軸もあれば帙入(ちついれ)もある。西班牙(スペイン)文字の本もある。いずれも貴重な珍書らしい。扉を背にして左の壁に、穿いているのが窓である。扉を背にして右の壁に、懸けてあるのは製図である。室の広さ十五畳敷ぐらい、そこに置かれてある器物といえば、測量機、鑿孔機(さくこうき)、机、卓、牀几(しょうぎ)というような類である。窓から投げ込まれる春の陽に、それらのものが艶々と光り、また陰影(かげ)を印(つ)けている。
 極めて異国趣味の室である。
 牀几に腰かけた二人の男女、民弥(たみや)とそうして右近丸(うこんまる)、清浄な処女と凜々しい若武士(わかざむらい)、この対照は美しい。
「秘密の鍵は第三の壁、こう確かに弁才坊殿には、仰せられたのでございますな?」いずれ話の続きだろう、こう訊いたのは右近丸。
「はい、さようでございます」こう答えたのは民弥である。直ぐに後を云いつづけた。「弑(しい)せられる日の夕暮方、父が申しましてございます。秘密の一端明かせてやろう、室へおいで、来るがよいと……で、この室へ参りましたところ、父が申しましてございます。『秘密の鍵は第三の壁』それから更に申しました。『この人形を大事にしろ』ただそれだけでございました。どうやら父と致しましては、もっともっと何か詳しいことを、話したかったのでございましょう、そう申してからもしばらくの間考え込んで居りましたが、その中(うち)日が暮れて宵となり、そこの窓から何者か――近所の子供だとは存じますが、覗いているのを目つけますと、フッツリ黙り込んでしまいました。あの時子供さえ覗かなかったら、きっときっとお父様は、もっともっと詳しいお話を、お話し下されたことと思われます。詳しく聞いてさえ居りましたら、研究材料の有場所など、直ぐにも知ることが出来ますのに、ほんとに惜しいことをいたしました。憎らしいは子供でございます。つまらないはお父様でございます。ほんとにつまらないお父様! そんな子供の立聞などに、神経を立てなければようございましたのに。ほんとにつまらないお父様!」
 民弥はこんなことを云い出した。「ほんとにつまらないお父様だ」などと……これでは死んだ自分の父を、攻撃(せ)めているようなものである。しかも民弥の云い方には、楽天的の所がある。また快活な所がある。父の死んだということを、悲しんでいるような様子がない。道化てさえもいるのである。一体どうしたというのだろう? 民弥はそんな不孝者なのだろうか? いやいやそうとは思われない。民弥と父の弁才坊とは、真実の親子でありながら、まるで仲のよいお友達のように、道化た軽口ばかり利き合っていた。それが全然習慣となって、父の逝くなった今日でも、そんなに快活で楽天的で、道化てさえもいるのだろうか? もしそうなら民弥という娘は、不真面目な女といわなければならない。否々そうでもなさそうである。では何かその間に、云われぬ秘密がなければならない。どっちみち民弥の言葉や態度には、道化たところがあるのであった。
 そういう民弥の様子に対し、森右近丸は不審を打った。しかし不審は打ったもののメソメソ泣かれたり悲しまれたり、訴えられたりするよりは、却って気持はよいのであった。「勿論心中では悲しみもし、又嘆いてもいるのだろうが、非常にしっかりした性質なので、努めて抑え付けているのだろう。そうして故意(わざ)と快活に、そうして故意と道化たように、振舞っているに相違ない。ではこっちもその意(つもり)で、それに調子を合わせて行こう」――これが右近丸の心持であった。
 で右近丸は云ったものである。
「いや全く弁才坊殿は、つまらないお方でございましたよ。訳のわからない暗号のような、変な謎語を残しただけで、死んでしまったのでございますからな。……先ずそれはそれとして、せっかく残された二つの謎語、うっちゃって置く事も出来ますまい。解いてみることにいたしましょう。ひょっとするとこの謎語に、唐寺の謎を解き明かせた、研究材料の有場所が語られてあるかもしれません」
 で右近丸は考え込んだ。

12[#「12」は縦中横]

 考え込んでいた右近丸が、ヒョイと牀几(しょうぎ)から立ち上り、室(へや)の真中へ出て行ったのは、やや経ってからの後の事であった。
 と右近丸は云い出した。
「第三の壁という言葉の意味、どうやら解(わか)ったようでございますよ。物の方角を現わすに、東西南北という言葉があります。そこでこの室(へや)の真中に立ち、東西南北を調べてみましょう。そうして東西南北を、一二三四に宛て嵌めてみましょう」ここで右近丸は片手を上げ、一方の壁を指さした。「そっちが東にあたります。で、そっちにあるその壁を、第一の壁といたしましょう」右近丸はグルリと振り返えり、反対の壁を指さした。「そっちが西にあたります。で、そっちにあるその壁を、第二の壁といたしましょう」ここで右近丸は身を翻えし、書棚のある壁を指さした。「そっちが南にあたります。で、そっちにあるその壁を、第三の壁といたしましょう。即(すなわ)ち」と云うと右近丸は、民弥へ向かって笑いかけた。「書棚の置いてある南側の壁が、第三の壁でございます」
 こう云われたので娘の民弥はなるほどとばかり頷いた。
「よいお考えでございますこと、大方(おおかた)その通りでございましょう。ではその壁の。……その書棚の……書棚の中の書物(ほん)のどこかに、唐寺の謎を解き明かせた、研究材料の有場所が、記されてあるかもしれません」
「さよう即ち秘密の鍵が、隠くされてあるかもしれません。どれ」と云うと右近丸は、ツカツカ書棚の前へ行き、一渡り書物を眺めてみた。が書物の数は非常に多く、いずれも整然と並べてあり、一々取り上げて調べていた日には、手数がかかって遣りきれそうもなかった。だがその中の一冊の書物が、特に右近丸の眼を引いた。何の変わったところもない、帙入(ちついれ)の書物ではあったけれど、その書物だけが奇妙にも、逆さに置かれてあるのであった。即ち裏表紙を上へ向けて、特に置かれてあるのであった。
「はてな?」と呟いた右近丸ツトその書物を取り上げたが、まず帙(ちつ)からスルリと抜き出し、それからパラパラと翻(めく)ってみた。と、どうだろう、何にも書いてない。全体がただの白紙なのである。――と思ったのは間違いで、書物の真中(まんなか)と思われる辺りに、次のような仮名文字が記されてあった。
「くぐつ、てんせい、しとう、きようだ」
 何のことだか解(わか)らない。どういう意味だか解らない。呪文のような文句である。
「おかしいなあ、何のことだろう?」
 文字を見詰めて右近丸は、しばらく熟慮したけれど、意味をとることは出来なかった。
 で、そのまま書物を閉じ、帙へ入れると書棚へ返し、それから改めて卓(たく)の上の、人形を取り上げて調べたが、奈良朝時代の風俗をした、貴女人形だというばかりで、これと云って変わったところもない。
 悉皆目算は外れたのである。
 失望をした右近丸は、佇んだまま考えている。
 同じように失望した娘の民弥は、これも佇んで考えている。
 唐寺の鐘の鳴る頃である。夕の祈りをする頃である。永い春の日も暮れかかってきた。
「明日また参るでございます」
 別れを告げた右近丸が、民弥の屋敷を立ち出でたのは、それから間もなくのことであった。心にかかるは謎語であった。
「『くぐつ、てんせい、しとう、きようだ』……何のことだろう? 何のことだろう?」
 南蛮寺の横を歩いて行く。
 森右近丸が帰ってしまうと、やっぱり民弥は寂しかった。そこで一人で牀几(しょうぎ)に腰かけ、窓から呆然(ぼんやり)と外を眺め、行末のことなどを考えた。
 窓外の春は酣(たけなわ)であった。桜はなかば散ってはいたが、山吹の花は咲きはじめていた。紫蘭(しらん)の花が咲いている。矢車の花が咲いている。九輪草(りんそう)[#ルビの「りんそう」は底本では「りんさう」]が咲いている。そこへ夕陽が射している。啼いているのは老鶯である。と、駒鳥の啼声もした。
 それらの物を蔽うようにして、高々と空に聳えているのは、南蛮寺の塔であった。夕陽を纏っているからであろう、塔の頂が光っている。
「これからどうしたらいいだろう?」ふと民弥は呟いた。「お父様は南蛮寺へお送りした。だからその方の心配はない。でもお父様がおいでなされない以上、誰も稼いでくれ手はない。妾(わたし)のお家は貧乏だ。食べるものにさえ事欠いている。どうしてこれから食べて行こう? 妾が町へ出て行って物乞いしなければならないかしら? でも妾は恥かしい。妾にはそんな事出来はしない。でも稼がなければ食べられない。お裁縫でもしようかしら? でも頼み手があるだろうか? ……南蛮寺の謎を解き明かせた、研究材料さえ目つかれば、安土に居られる信長卿が、高価にお買い取り下さると、右近丸様は仰有(おっしゃ)ったけれど、何時になったら研究材料が目付かるものやら見当がつかない。……これから毎日右近丸様が、お訪ね下さるとはいうけれど、生活(くらし)のことまでご相談は出来ない。ああどうしたらいいだろう?」
 民弥はこれからの生活について心を傷めているのであった。
 その民弥の苦しい心を、見抜いて現われて出たかのように、窓からヒョッコリ顔を出したのは、古道具買に身を□(やつ)した、香具師(やし)の親方猪右衛門(ししえもん)であった。
 ジロジロ室(へや)の中を覗いたが、声を張り上げると云ったものである。
「家財道具やお払い物、高く買います高く買います」諂(へつら)うように笑ったが「これはこれはお嬢様、綺麗な人形がございますな。お売り下さい買いましょう。小判一枚に青差一本、それで買うことに致しましょう」ここでヒョッコリとお辞儀をしたが、その眼では卓の上の人形を、じっと睨んでいるのであった。

13[#「13」は縦中横]

 小判一枚に青差一本! これは実際民弥(たみや)にとっては、大変もない誘惑であった。それだけの金が今あったら、相当永く生活(くらす)ことが出来る。そこで民弥は考えた。
「この人形を大事にしろ!」こうお父様は仰有ったけれど、どういう意味だか解(わか)らない。元々あれは妾(わたし)の物だ。逝くなった妾のお母様が、妾に買って下されたものだ。それを中頃お父様が、どうしたものかお取り上げになった。そうしてどうやら人形のどこかへ、何か細工をなされたようだ。でも真逆(まさか)に人形の中に、南蛮寺の謎を解き明かせた秘密の研究材料など、隠してあろうとは思われない。売っても大事はないだろう。第一背に腹は代えられない。よしやどんなに人形が大事なものであろうとも、食べられなければ売らなければならない。売ってしまおう売ってしまおう。そうして当座の中(うち)だけでも、生活を楽にすることにしよう。
 そこで、民弥は切り出した。
「大事な人形ではございますが、小判一枚に青差一本、それでお買い取り下さるなら、お売りすることに致しましょう」
 すると猪右衛門は頷いたが、やがてこんなことを云い出した。
「実はな」と薄っぺらな能弁である。「こういう訳でございますよ。ナーニ商売の道から云えば、奈良朝時代の貴女人形、大した値打もありませんので。精々がところ青差二本……ぐらいな物だと思いますので。ところが小判を一枚はずみ、そこへ青差を一本付け、相場違いの大高値で、譲っていただこうというのには、他に目的がありますからで。と云うのは人形のその中に、南蛮寺の謎を解き明かせた……オットドッコイ口が辷(すべ)った。ナニサナニサそうではない。つまり人形がよいからで。と云うのはそいつが喋舌(しゃべ)るからで。さようでございます。人形がね。何と喋舌るかと云いますと、『唐寺の謎は胎内の』オットいけねえ、軽はずみな、またまた口が辷ってしまった。アッハハハ馬鹿な話で、何のお嬢様、人形などが、何の物など云いましょう。
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