銅銭会事変
著者名:国枝史郎
「二板橋の起原如何(いかん)?」
「少林寺焚焼(ふんしょう)され、五祖叛迷者に傷害(しょうがい)されんとするや、達尊爺々(たつそんやや)験を現わし、黄雲を変じて黄銅となし黒雲を変じて鉄となす」
こんな塩梅(あんばい)の言葉であった。はたして会員か会員でないかを、問答によって確かめたのであった。またも人影が産まれ出た。同じような陣形であった。門前で問答が行われた。続々人影が現われた。みんな門前へ集まって来た。そのつど問答が行われた。
銅銭会員三百人が、すっかり門前へ集まったのであった。
と、五、六人の人影が、スルスルと塀の上へ上って行った。音もなく門内へ飛び下りた。門を開けようとするのであろう。だが門は開かなかった。そうして物音もしなかった。人は帰って来なかった。何んの音沙汰もしなかった。
いつまでも寂然と静かであった。
十人の人影が塀を上った。それから向こうへ飛び下りた。何んの物音も聞こえなかった。そうして門は開かなかった。十人の者は帰って来なかった。何んの音沙汰もしなかった。いつまでも寂然と静かであった。
銅銭会員は動揺し出した。口を寄せ合って囁(ささや)いた。
「敵に用意があるらしい」不安そうに一人がいった。
「殺されたのか? 生擒(いけど)られたのか?」
「どうして声を立てないのだろう?」
彼らの団結は崩れかかった。右往左往に歩き出した。
「門を破れ。押し込んで行け」
「いや今夜は引っ返したがいい」
彼らの囁やきは葉擦れのようであった。
「あっ!」と一人が絶叫した。「あの人数は? 包囲された!」
まさしくそれに相違なかった。往来の前後に黒々と、数百の人数が屯(たむ)ろしていた。隅田川には人を乗せた、無数の小舟が浮かんでいた。露路という露路、小路という小路、ビッシリ人で一杯であった。捕り方の人数に相違なかった。騎馬の者、徒歩(かち)の者、……八州の捕り方が向かったのであった。
銅銭会員は一団となった。やがて十人ずつ分解された。そうして前後の捕り方に向かった。
こうして格闘が行われた。
全く無言の格闘であった。だがどういう理由からであろう?
官の方からいう時は、御用提燈(ごようちょうちん)を振り翳(かざ)したり、御用の声を響かせたりして、市民の眼を覚ますことを、極端に恐れ遠慮したからであった。捕り物の真相が伝わったなら、――すなわち将軍家紛失の、その真相が伝わったなら、どんな騒動が起こるかも知れない。それを非常に案じたからであった。
だがどうして銅銭会員は悲鳴呶号しなかったのであろう? それは彼らの「十禁」のうちに、こういうことがあるからであった。
「究極において悲鳴すべからず。これに叛(そむ)くものは九指を折らる」
九指とは九族の謂(いい)であった。
春の闇夜を数時間に渡って、無言の格闘が行われた。
その結果は意外であった。銅銭会員は全部死んだ。すなわちある者は舌を噛み、またある者は水に投じ、さらにある者は斬り死にをした。
将軍家柳営へ帰る
この間も屋敷の表門は、鎖(とざ)されたまま開かなかった。
捕り物がすっかり片付いた時、始めて門はひらかれた。
驚くべき光景がそこにあった。銅銭会員十六人が、髪縄(けなわ)で絞首されていた。髪縄の一端には分銅があり、他の一端は門の柱の、刳(えぐ)り穴の中に没していた。
十六人のうち三人が、辛うじて蘇生をすることが出来た。その三人の白状によって、事件の真相が明瞭になった。
その夜の暁千代田城内には、驚くべき愉快な出来事があった。いつもの将軍家の寝室に、紛失したはずの将軍家が、ひどく健康(じょうぶ)そうな顔色をして、グッスリ寝込んでいたものである。
眼を覚ますと家治はいった。
「おれはうんと書物(ほん)を読んだよ。実際浮世にはいい書物(ほん)があるなあ。はじめておれは眼が覚めたよ。さてこれからは改革だ。政治の改革、社会の改革、暮しいい浮世にしなければならない」
「しかし上様には今日まで、どこにおいででございましたな?」老中水野忠友が聞いた。
「うん、越中の屋敷にいたよ」
「ははあ松平越中守様の?」
「うん、そうだよ、越中の屋敷に」
「どうしてどこからお出(いで)になりました?」
「それがな、本当に変梃(へんてこ)だったよ。おれが後苑を歩いていると、素的な別嬪が手招きしたものさ。でおれは従(つ)いて行った。すると大奥と天主台の間に厳封をした井戸があろう。非常な場合に開くようにと、東照神君から遺言された井戸だ。そこまで行くとその別嬪が、蓋を取ってヒョイとはいった。オヤとおれは驚いて、井戸を覗くと縄梯子がある。井戸ではなくて間道だったのさ。こいつ面白いと思ったので梯子を伝わって下りたものさ。すると底に女がいた。それから五人の男がいた。六部と破落戸(ごろつき)と売卜者(ばいぼくしゃ)と、武士(さむらい)と坊主とがいたってわけだ。すぐにおれは取っ掴まってしまった。でおれは仰天して助けてくれーッと叫んだものさ。だがすぐ猿轡(さるぐつわ)を篏(は)められてしまった。そうしてとうとう引っ担がれてしまった。長い間横穴を走ったっけ。それでもとうとう外へ出たよ。駕籠が一挺置いてあった。いやどうもそれが穢(きたな)い駕籠でな、おれは産まれて初めて乗ったよ。下ろされた処(ところ)に屋敷があった。黒板塀に門があって、八重桜の花が咲いていたっけ。そこで休憩したものさ。一杯お茶を貰ったが、ひどく咽喉が乾いていたので、途方途徹もなくうまかった。そこでまた駕籠へ乗せられたものさ。今度は立派な駕籠だった。大名の乗る駕籠だった。そうして武士どもが三十人も、駕籠のまわりを警護してくれた。でようやく安心したものさ。着いた所が越中の屋敷だ。あの真面目(まじめ)の越中めが、いよいよ真面目の顔をして『上様ようこそ渡らせられました。いざいざ奥へお通り遊ばせ』こういった時にはおれは怒った。
『越中! お前の指金(さしがね)だな!』すると越中めこういいおった。『上様のお命をお助けしたく、お連れ致しましてございます』とな。そこでおれは怒鳴ってやった。『誰かこのおれを殺そうとするのか?』
『はい上様の寵臣が、ある結社を味方とし、上様を狙っておりますので』
『それでお前が助けたというのか?』
『毒を制するに毒をもってし、ある六人の悪漢を手なずけ、お連れ申しましてございます』――で、おれは黙ってしまった。そうして奥座敷へ通って行った。そこに彦太郎がいるじゃあないか。三河風土記を読んでくれた、近習の中山彦太郎がな。おれはすっかり喜んでしまった。風土記の続きが聞きたかったからさ。『おい彦太郎風土記を読め』おれは早速いったものさ。そこで彦太郎め読んでくれたよ」
嬉しい再会
「三河風土記ばかりではなかった。いろいろの書物(ほん)を読んでくれたよ。間々(あいだあいだ)間々には越中めが、世間話をしてくれたっけ。わしはすっかり吃驚(びっくり)してしまった。ひどく浮世はセチ辛いそうだな。町人や百姓や武士までが、わしを怨んでいるそうだな。うん、越中めがそういってたよ。わしは最初は疑がったが、しかししまいには信じてしまった。そこでおれは決心したよ。これまでおれを盲目(めくら)あつかいにした、悪い家来めを遠ざけて、越中を代わりに据えようとな。……で、ともかくもそんな塩梅(あんばい)で、今朝までおれは越中の屋敷で、暮らしていたというものさ。その今朝越中がこんなことをいった。『結社は退治られてしまいました。もはや安全でございます。お城へお帰り遊ばしませ』そこでまたもや駕籠へ乗り、以前の道を帰って来たのさ……。さあ改革だ! 建て直しだ。いい政事(まつりごと)をしなけりゃならない」
だが不幸にも家治将軍は、その後間もなく逝去(せいきょ)した。田沼主殿頭が薬師(くすし)をして、毒を盛らせたということであるが、真相は今にわからない。
しかし家治の遺志なるものは、幸い実行することが出来た。家治の死後電光石火に、幕府の改革が行われ、田沼主殿頭は失脚し、大封を削られて一万石の、小大名の身分に落とされてしまった。代わって出たのが松平越中守で、老中筆頭の位置に坐り、寛政の治を行うことになった。
青葉の季節が訪ずれて来た。
半太夫茶屋の四畳半で、愉快な媾曳(あいびき)が行われていた。
弓之助とお色との媾曳(あいびき)であった。
「おいお色、おい女丈夫、お前は命の恩人だぜ」
「そう思ったら邪魔にせずに、精々(せいぜい)これから可愛がるといいわ」
「あの時お前が来なかろうものなら、女勘助っていう奴に、おれはそれこそ殺されたかもしれねえ」
「ご身分を宣(なの)ればよござんしたに」
「莫迦め、そんなことは出来るものか、がんじ搦(がら)みにされたんだからなあ。おめおめ生け捕りにされた身で、名前や素姓が明されるものか」
「ほんとにそれはそうですわねえ」お色は胸に落ちたらしい。
金魚売りの声が表を通った。燕のさえずりが空で聞こえた。
「六人の奴らどうしたかな?」
ふと弓之助は壊しそうにいった。「江戸にはいないということだが」
「泥棒なんて厭ですわねえ」お色は眉間へ皺を寄せた。
「それもご治世が悪かったからさ。人間いよいよ食えなくなると、どんな事でもやるものだからな」
ちょっと弓之助は感慨に耽った。
「ご治世は変わったじゃあありませんか。越中守様がお乗り出しになり」
「有難いことには変わったね。これから暮らしよくなるだろう。ところでどうだいお前の心は」
「何がさ?」
とお色は怪訝(けげん)そうに訊いた。
「変わったかよ? 変わらないかよ?」
「そうねえ」
とお色は物憂そうにいった。「あなた、お役附きになったんでしょう?」
「越中守様のお引き立てでね」
「権式張らなければいけないわねえ」
「へえ、そうかな、どうしてだい?」
「お役人様じゃあありませんか」
「ほほうお役人というものは、権式張らなけりゃあいけないのかえ」
「みんな威張るじゃあありませんか」
「よし来た、それじゃあおれも威張ろう」
「では、妾(わたし)はさようならよ」
「おっと、おっと、どういう訳だ?」
「妾威張る人嫌いだからよ」
「俺が」と弓之助はゴロリと左寝の肘を後脳へ宛(あ)てた。「威張れるような人間なら、もっと早く役附いていたよ」
「どうしてでしょう? 解らないわ」
「一方で威張る人間は、それ一方では諂(へつら)うからさ」
「ああそうね、それはそうだわ」
「おれの何より有難いのは、生地(きじ)で仕えられるということさ。越中守様の下でなら、お太鼓を叩く必要もなければ怒ってばかりいる必要もない。楽に呼吸(いき)を吐けるというものさ」
この意味はお色にはわからなかった。
「お色、久しぶりで何か弾けよ」
「ええ」といって三味線を取った。「あら厭だ糸が切れたわ」
「三の糸だろう、薄情の証拠だ」
「お気の毒さま、一の糸よ」
「それじゃあいよいよ嬶(かかあ)になれる」
「ゾッとするわ! 田沼の爺(じじい)!」
「何さ、田沼のその位置へ、俺が坐ろうというやつよ」
「まあ」といって三味線を置いた。
「大して嬉しくもなさそうだな」
「瞞(だま)すと妾狂人(きちがい)になるわ!」
二人はそこで寄り添おうとした。有難い事には野暮天(やぼてん)ではなかった。寄り添う代わりに坐り直した。と、お色がスッと立った。裏の障子を引き開けた。眼の前に隅田が流れていた。行き交う船! 夕焼け水!
「ああ私にはあの水が……」湯のようだと彼女はいおうとした。だがそういわなかった。「ああまるで火のようだわ」こう彼女はいったものである。
間もなく季節は真夏に入ろう。恋だって火のように燃えるだろう。だがその次には秋が来よう。結構ではないか実を結ぶ季節だ。
京師殿とは何者であろう? 結局疑問の人物であった。あの有名な天一坊事件、その張本の山内伊賀介、その後身ではあるまいか? 非常な学者だというところから、特に助命して大岡家に預け、幕府執政の機関とし、捨扶持(すてぶち)をくれていたのかもしれない。伊賀介の元の主人といえば、京師の公卿の九条殿であった。
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