銅銭会事変
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著者名:国枝史郎 

「うむ、そうして腰の物は?」
「あの細身の蝋鞘の大小……」
「うむ、そうしてご定紋は?」
「はい丸に蔦(つた)の葉で」
 すると左伝次はヒョイと立った。
「お色殿ちょっとこっちへおいで」
 障子を開けると縁へ出た。
 午後の陽が中庭にあたっていた。
 お色は相手の気勢に引かれ、立ってその後へ従った。
 縁は廻廊をなしていた。その外れに離れ座敷があった。不思議なことには、昼だというのに、雨戸がピッタリ閉まっていた。離れ座敷の前までゆくと、左伝次は入り口の戸を開けた。最初の部屋は暗かった。間(あい)の襖をサラリと開けた。
 その部屋には燈火(ともしび)があった。行燈(あんどん)がボッと点っていた。


    途方もねえ目違いさ

 一人の武士が四筋の鎖で、がんじ搦(がら)みに搦(から)められていた。畳の上に転がっていた。それを五人の異形の男女が、真ん中にして囲繞(とりま)いていた。一人は僧侶一人は六部、一人は遊び人、一人は武士もう一人は振り袖の娘であった。娘は胡坐(あぐら)を掻いていた。そうして弓の折れを持っていた。
 左伝次とお色の姿を見ると彼らは一斉に顔を上げた。
 と、左伝次はお色へいった。
「お色殿、この方かね」搦められた武士を指さした。
 ヒョイとその武士が顔を上げた。お色はやにわに、縋(すが)り付いた。
「弓様! 弓様! お色でございます!」ひとしきり部屋の中は静かであった。白旗弓之助はお色を見た。
「お色ではないか、どうして来た」驚いたような声であった。
「神道の兄貴、どうしたんだい?」
 ややあって娘が――女勘助が、変な顔をして声を掛けた。
 すると左伝次は苦笑いをした。
「飛んだ人違いだ。偉いことをやった。おいおい早く鎖を解きねえ」
 鼠小僧外伝が、ガラガラと鎖を解き放した。と鎖は柱の中へ、手繰(たぐ)られたように飛び込んで行った。
「おい貴様達、謝まってしまえ。詳しい話はそれからだ」易学の大家加藤左伝次、本名神道徳次郎はピタリと畳へ端坐した。それから両手を膝の前へ突いた。
「いや、白旗弓之助様、とんだ粗忽(そこつ)を致しました。まずお許しくださいますよう」恐縮し切って辞儀をした。
「おいおい貴様達このお方はな、お旗本白旗小左衛門様の、ご次男にあたられる弓之助様だ、曲淵様の甥ごだよ」
「へえ」と五人は後へいざった。
「銅銭会員じゃあなかったのか?」火柱夜叉丸が眼を丸くした。
「うん、途方もねえ目違いさ」
「だが、それにしてはなんのために、昨夜(ゆうべ)ここへ忍んだんだろう?」女勘助が疑がわしそうにいった。
「そうだ、そいつがわからねえ」稲葉小僧新助がいった。
「おれはどうでもこのお侍は、銅銭会員だと思うがな」鼠小僧外伝がいった。「そうでなかったら責められないうちにそいつを弁解するはずだが」紫紐丹左衛門は腕を組んだ。
「本当にそうだ、そいつが解らねえ。そいつをハッキリいってさえくれたらおれたち殴るんじゃあなかったのに」弓の折れを指先で廻しながら、女勘助は眼を光らせた。
「いや、いずれその事については、白旗様からいい訳があろう。とにかくおれの見たところでは、銅銭会員じゃあなさそうだ」神道徳次郎はいい切った。
「さて白旗弓之助様、昨夜はどういう覚し召しで、ここへお忍びなされましたな?」
「それよりおれには聞きたいことがある。部屋の四隅の柱から、四本の鎖が飛び出して来たが、あれはなんという兵法だな?」これが弓之助の言葉であった。
 六人の者は眼を見合わせた。
「おい兄貴迂散(うさん)だぜ」女勘助が怒るようにいった。「肝腎のいい訳をしねえじゃあねえか」
「待て待て」と徳次郎は叱るように。
「宝山流の振り杖から、私が考案致しました。捕り方の一手でございますよ」
「あれにはおれも降参したよ」弓之助は妙な苦笑いをした。「人間が斬ってかかったのなら、大して引けも取らないが、どうもね、鎖じゃあ相手にならねえ。……そこでもう一つ訊くことがある。紙に書かれた『川大丁首』いったいこいつはどういう意味だ?」
「それがおわかりになりませんので?」徳次郎は、いくらか探るように訊いた。


    銅銭会縁起録内容

「随分考えたが解らなかった」弓之助はまたも苦笑をし、「そこにおいでの女勘助殿に、痛しめられている間中、その事ばかりを考えていたが、無学のおれには解らなかったよ」女勘助をジロリと見た。
 女勘助は横を向き、プッと口をとがらせた。
「それで初めてあなた様が、銅銭会員でないことが、ハッキリ証拠立てられました」徳次郎は一つ頷いたが、
「あれは隠語でございます。銅銭会の隠語なので。「順天行道」と申しますそうで。天に順(したが)って道を行なう。こういう意味だそうでございます。つまり彼らの標語なので。「関開路現(かんをひらきみちをあらわす)」こんな標語もございます。そうしてこれを隠語で記せば「並井足玉(へいせいそくぎょく)」となりますそうで」
「ははあなるほど、そうであったか。扁を取ったり旁(つくり)を取ったり、色々にして造った字だな。いかさまこれでは解らないはずだ」
「さてそこで白旗様、どうして昨夜はこの屋敷へ、忍び込まれたのでございますかな?」
 するとクルリと弓之助は、女勘助の方へ体を向けた。
「おい勘助、偉いことをやったな。森の中でよ、社の森で」
「えっ」と勘助は胸を反(そ)らせた。「へえ、お前さんご存知で?」
「あんまり見事な業(わざ)だったので、後からこっそり尾行(つけ)て来た奴さ」
「あっ、さようでございましたか」女勘助は手を拍った。「そこでこの屋敷へ忍び込んだので?」
「そうさ天明の六人男、そいつがみんな揃ったとあっては、ちょっと様子も見たいからな」「ああこれで胸に落ちた」こう紫紐丹左衛門がいった。

 北町奉行所の役宅であった。
 その一室に坐っているのは、奉行曲淵甲斐守であった。銅銭会縁起録が開かれたまま、膝の上に乗っていた。
「往昔(おうせき)福建省福州府、浦田(ほだ)県九連山山中に、少林寺と称する大寺あり。堂塔伽藍(がらん)樹間に聳え、人をして崇敬せしむるものあり。達尊爺々(たつそんやや)の創建せるも技一千数百年の星霜を経。僧侶数百の武に長じ、軍略剣法方術に達す。
 康□(こうき)帝の治世に西蔵(チベット)叛す。官軍ことごとく撃退さる。由(よ)って皇帝諸国に令し、賊滅するものを求めしむ。少林寺の豪僧百二十八人、招に応じて難に赴(おもむ)く。国境に至りて大いに戦い、敵国をして降を乞わしむ。皇帝喜び賞を与え僧を少林寺に帰さんとす。隆文耀(りゅうもんよう)、張近秋(ちょうきんしゅう)、二人の大官皇帝に讒(ざん)し、少林寺の僧を殺さしむ。
 兵を発して少林寺を焼く、蔡徳忠(さいとくちゅう)、方大洪(ほうたいこう)、馬超興(ばちょうこう)、胡徳帝(ことくてい)、李式開(りしきかい)の五人の僧、兵燹(へいせん)をのがれて諸国を流浪し同志を語らい復讐に努む。すなわち清朝を仆さんとするなり。この結社を三合会また一名銅銭会と称す」
 これがきわめて簡単な、銅銭会の縁起であって、今日に至るまでの紆余曲折が詳しく書物(ほん)には記されてあった。
「公所(大結社)」のことや「会員」のことや「入会式」のことや「誓詞」のことや「諸律法」のことや「十禁」の事や「十刑」の事や「会員証」のことや「造字(つくりじ)」のことや「隠語」のことや「符牒」のことや「事業」の事や「海外における活動」のことについても、かなり詳しく記されてあった。
 しかし、将軍家紛失に関しての、暗示らしいものは記されてなかった。
 とまれ非常な大結社で、支那の政治にも戦争にも、また外交の方面にも、偉大な潜勢力を持っていることが、記録によって窺(うかが)われた。のみならず印度(インド)や南洋にある、百万近くの支那人のうち、過半以上は会員として、働いていることも記されてあった。
 それと同時に会員のうちには、不良分子も潜在していて、悪いことをしているということも、支那人以外にも会員があって、気脈を通じているということも、相当詳しく記されてあった。


    京師殿と甲斐守

「恐らく今度の事件なるものは、日本における会員の、不良分子の所業(しわざ)であろうが、どういう径路で将軍家をどうして奪ったかわからない。どこに将軍家を隠しているか、それとも無慚に弑(しい)したか、これでは一向見当が付かない。……一人でもよいから銅銭会員をどうともして至急捕えたいものだ」
 甲斐守は沈吟した。
 その時近習がはいって来た。
「京師殿と仰せられるご老人が、お目にかかりたいと申しまして……」
「何、京師殿、それはそれは。叮嚀(ていねい)にここへお通し申せ」
 近習と引き違いにはいって来たのは、両国橋にいた老人であった。
「おおこれは京師殿」
「甲斐守殿、いつもご健勝で」
 二人は叮嚀に会釈した。
「さて」と京師殿は話し出した。「銅銭会の会員ども、今夜騒動を始めますぞ」
「何?」と甲斐守は膝を進めた。「銅銭会の会員がな? してどこで? どんな騒動を?」
「今夜五更花川戸に集まり、ある家を襲うということでござる。同勢おおかた三百人」
 両国橋での出来事を、かいつまんで京師殿は物語った。
「銅銭会員にご用ござらば、即刻大至急にご手配なされ、一網打尽になさるがよかろう」
「よい事をお聞かせくだされた。至急手配を致しましょう」
「何か柳営に大事件が、勃発したようでございますな」
「さよう、非常な大事件でござる。実は一昨夜上様が……」
「いやいや」と京師殿は手を振った。
「愚老は浮世を捨てた身分、直接柳営に関することは、どうぞお聞かせくださらぬよう」
「いかさまこれはごもっともでござる」
 そこで甲斐守は沈黙した。
 間もなく京師殿は飄然と去った。
 さてその夜のことであった。
 花川戸一帯を修羅場とし、奇怪な捕り物が行われた。
 歴史の表には記されてないが、柳営秘録には相当詳しく記されてあるに相違ない、この捕り物があったがため幕府の政治が一変し、奢侈(しゃし)下剋上(げこくじょう)[#ルビの「げこくじょう」は底本では「げこくじやう」]の風習が、勤倹質素尚武となり、幕府瓦壊の運命を、その後も長く持ちこたえたのであった。
 この捕り物での特徴は、捕られる方でも、捕る方でも、一言も言葉を掛け合わなかったことで、八百人あまりの大人数が、長い間格闘をしながらも、花川戸一帯の人達は、ほとんど知らずにおわってしまった。しかも内容の重大な点では、慶安年間由井正雪が、一味と計って徳川の社稷(しゃしょく)に、大鉄槌を下そうとした、それにも増したものであった。捕り方の人数六百人! この一事だけでも捕り物の、いかに大袈裟なものであり、いかに大事件であったかが、想像されるではあるまいか。一口にいえば銅銭会員と幕府の捕り方との格闘なのであった。
 その夜はどんよりと曇っていた。月もなければ星もなかった。家々では悉く戸を閉ざし、大江戸一円静まり返り燈火(ともしび)一つ見えなかった。
 と、闇から生まれたように、浅草花川戸の一所(ひとところ)に、十人の人影が現われた。一人の人間を真ん中に包み丸く塊(かた)まって進んで来た。一軒の屋敷の前まで来た。黒板塀がかかっていた。門がピッタリ閉ざされていた。屋根の上に仄々(ほのぼの)と、綿のようなものが集まっていたがどうやら八重桜の花らしい。
 その前で彼らは立ち止まった。
 とまた十人の一団が一人の人間を真ん中に包み、闇の中から産まれ出た。それが屋敷へ近付いて来た。先に現われた一団と後から現われた一団とは、屋敷の門前で一緒になった。互いに何か囁き合った。わけのわからない言葉であった。


    慶安以来の大捕り物

「背(うしろ)に幾多(いくた)の宝玉ありや?」
「一百八」
「途上虎あり、いかにして来たれる?」
「我すでに地神に請えり、全国通過を許されたり」
「汝橋を過ぎたるや否や?」
「我過ぎたり矣(い)」
「いずれの橋ぞ?」
「二板(はん)の橋」
「これすなわち二板橋、何ゆえに二板の橋というや?」
「明末(みんまつ)に清(しん)これを毀(こぼ)ち、なおいまだ修せられず」
「何んの木の橋ぞ?」
「否々これ樹板にあらず、左は黄銅、右は鉄板」
「誰かこれを造れるものぞ?」
「朱開、及び朱光の徒」
「二板橋の起原如何(いかん)?」
「少林寺焚焼(ふんしょう)され、五祖叛迷者に傷害(しょうがい)されんとするや、達尊爺々(たつそんやや)験を現わし、黄雲を変じて黄銅となし黒雲を変じて鉄となす」
 こんな塩梅(あんばい)の言葉であった。はたして会員か会員でないかを、問答によって確かめたのであった。またも人影が産まれ出た。同じような陣形であった。門前で問答が行われた。続々人影が現われた。みんな門前へ集まって来た。そのつど問答が行われた。
 銅銭会員三百人が、すっかり門前へ集まったのであった。
 と、五、六人の人影が、スルスルと塀の上へ上って行った。音もなく門内へ飛び下りた。門を開けようとするのであろう。だが門は開かなかった。そうして物音もしなかった。人は帰って来なかった。何んの音沙汰もしなかった。
 いつまでも寂然と静かであった。
 十人の人影が塀を上った。それから向こうへ飛び下りた。何んの物音も聞こえなかった。そうして門は開かなかった。十人の者は帰って来なかった。何んの音沙汰もしなかった。いつまでも寂然と静かであった。
 銅銭会員は動揺し出した。口を寄せ合って囁(ささや)いた。
「敵に用意があるらしい」不安そうに一人がいった。
「殺されたのか? 生擒(いけど)られたのか?」
「どうして声を立てないのだろう?」
 彼らの団結は崩れかかった。右往左往に歩き出した。
「門を破れ。押し込んで行け」
「いや今夜は引っ返したがいい」
 彼らの囁やきは葉擦れのようであった。
「あっ!」と一人が絶叫した。「あの人数は? 包囲された!」
 まさしくそれに相違なかった。往来の前後に黒々と、数百の人数が屯(たむ)ろしていた。隅田川には人を乗せた、無数の小舟が浮かんでいた。露路という露路、小路という小路、ビッシリ人で一杯であった。捕り方の人数に相違なかった。騎馬の者、徒歩(かち)の者、……八州の捕り方が向かったのであった。
 銅銭会員は一団となった。やがて十人ずつ分解された。そうして前後の捕り方に向かった。
 こうして格闘が行われた。
 全く無言の格闘であった。だがどういう理由からであろう?
 官の方からいう時は、御用提燈(ごようちょうちん)を振り翳(かざ)したり、御用の声を響かせたりして、市民の眼を覚ますことを、極端に恐れ遠慮したからであった。捕り物の真相が伝わったなら、――すなわち将軍家紛失の、その真相が伝わったなら、どんな騒動が起こるかも知れない。それを非常に案じたからであった。
 だがどうして銅銭会員は悲鳴呶号しなかったのであろう? それは彼らの「十禁」のうちに、こういうことがあるからであった。
「究極において悲鳴すべからず。これに叛(そむ)くものは九指を折らる」
 九指とは九族の謂(いい)であった。
 春の闇夜を数時間に渡って、無言の格闘が行われた。
 その結果は意外であった。銅銭会員は全部死んだ。すなわちある者は舌を噛み、またある者は水に投じ、さらにある者は斬り死にをした。


    将軍家柳営へ帰る

 この間も屋敷の表門は、鎖(とざ)されたまま開かなかった。
 捕り物がすっかり片付いた時、始めて門はひらかれた。
 驚くべき光景がそこにあった。銅銭会員十六人が、髪縄(けなわ)で絞首されていた。髪縄の一端には分銅があり、他の一端は門の柱の、刳(えぐ)り穴の中に没していた。
 十六人のうち三人が、辛うじて蘇生をすることが出来た。その三人の白状によって、事件の真相が明瞭になった。
 その夜の暁千代田城内には、驚くべき愉快な出来事があった。いつもの将軍家の寝室に、紛失したはずの将軍家が、ひどく健康(じょうぶ)そうな顔色をして、グッスリ寝込んでいたものである。
 眼を覚ますと家治はいった。
「おれはうんと書物(ほん)を読んだよ。実際浮世にはいい書物(ほん)があるなあ。はじめておれは眼が覚めたよ。さてこれからは改革だ。政治の改革、社会の改革、暮しいい浮世にしなければならない」
「しかし上様には今日まで、どこにおいででございましたな?」老中水野忠友が聞いた。
「うん、越中の屋敷にいたよ」
「ははあ松平越中守様の?」
「うん、そうだよ、越中の屋敷に」
「どうしてどこからお出(いで)になりました?」
「それがな、本当に変梃(へんてこ)だったよ。おれが後苑を歩いていると、素的な別嬪が手招きしたものさ。でおれは従(つ)いて行った。すると大奥と天主台の間に厳封をした井戸があろう。非常な場合に開くようにと、東照神君から遺言された井戸だ。そこまで行くとその別嬪が、蓋を取ってヒョイとはいった。オヤとおれは驚いて、井戸を覗くと縄梯子がある。井戸ではなくて間道だったのさ。こいつ面白いと思ったので梯子を伝わって下りたものさ。すると底に女がいた。それから五人の男がいた。六部と破落戸(ごろつき)と売卜者(ばいぼくしゃ)と、武士(さむらい)と坊主とがいたってわけだ。すぐにおれは取っ掴まってしまった。でおれは仰天して助けてくれーッと叫んだものさ。だがすぐ猿轡(さるぐつわ)を篏(は)められてしまった。そうしてとうとう引っ担がれてしまった。長い間横穴を走ったっけ。それでもとうとう外へ出たよ。駕籠が一挺置いてあった。いやどうもそれが穢(きたな)い駕籠でな、おれは産まれて初めて乗ったよ。下ろされた処(ところ)に屋敷があった。黒板塀に門があって、八重桜の花が咲いていたっけ。そこで休憩したものさ。一杯お茶を貰ったが、ひどく咽喉が乾いていたので、途方途徹もなくうまかった。そこでまた駕籠へ乗せられたものさ。今度は立派な駕籠だった。大名の乗る駕籠だった。そうして武士どもが三十人も、駕籠のまわりを警護してくれた。でようやく安心したものさ。着いた所が越中の屋敷だ。あの真面目(まじめ)の越中めが、いよいよ真面目の顔をして『上様ようこそ渡らせられました。いざいざ奥へお通り遊ばせ』こういった時にはおれは怒った。
『越中! お前の指金(さしがね)だな!』すると越中めこういいおった。『上様のお命をお助けしたく、お連れ致しましてございます』とな。そこでおれは怒鳴ってやった。『誰かこのおれを殺そうとするのか?』
『はい上様の寵臣が、ある結社を味方とし、上様を狙っておりますので』
『それでお前が助けたというのか?』
『毒を制するに毒をもってし、ある六人の悪漢を手なずけ、お連れ申しましてございます』――で、おれは黙ってしまった。そうして奥座敷へ通って行った。そこに彦太郎がいるじゃあないか。三河風土記を読んでくれた、近習の中山彦太郎がな。おれはすっかり喜んでしまった。風土記の続きが聞きたかったからさ。『おい彦太郎風土記を読め』おれは早速いったものさ。そこで彦太郎め読んでくれたよ」


    嬉しい再会

「三河風土記ばかりではなかった。いろいろの書物(ほん)を読んでくれたよ。間々(あいだあいだ)間々には越中めが、世間話をしてくれたっけ。わしはすっかり吃驚(びっくり)してしまった。ひどく浮世はセチ辛いそうだな。町人や百姓や武士までが、わしを怨んでいるそうだな。うん、越中めがそういってたよ。わしは最初は疑がったが、しかししまいには信じてしまった。そこでおれは決心したよ。これまでおれを盲目(めくら)あつかいにした、悪い家来めを遠ざけて、越中を代わりに据えようとな。……で、ともかくもそんな塩梅(あんばい)で、今朝までおれは越中の屋敷で、暮らしていたというものさ。その今朝越中がこんなことをいった。『結社は退治られてしまいました。もはや安全でございます。お城へお帰り遊ばしませ』そこでまたもや駕籠へ乗り、以前の道を帰って来たのさ……。さあ改革だ! 建て直しだ。いい政事(まつりごと)をしなけりゃならない」
 だが不幸にも家治将軍は、その後間もなく逝去(せいきょ)した。田沼主殿頭が薬師(くすし)をして、毒を盛らせたということであるが、真相は今にわからない。
 しかし家治の遺志なるものは、幸い実行することが出来た。家治の死後電光石火に、幕府の改革が行われ、田沼主殿頭は失脚し、大封を削られて一万石の、小大名の身分に落とされてしまった。代わって出たのが松平越中守で、老中筆頭の位置に坐り、寛政の治を行うことになった。

 青葉の季節が訪ずれて来た。
 半太夫茶屋の四畳半で、愉快な媾曳(あいびき)が行われていた。
 弓之助とお色との媾曳(あいびき)であった。
「おいお色、おい女丈夫、お前は命の恩人だぜ」
「そう思ったら邪魔にせずに、精々(せいぜい)これから可愛がるといいわ」
「あの時お前が来なかろうものなら、女勘助っていう奴に、おれはそれこそ殺されたかもしれねえ」
「ご身分を宣(なの)ればよござんしたに」
「莫迦め、そんなことは出来るものか、がんじ搦(がら)みにされたんだからなあ。おめおめ生け捕りにされた身で、名前や素姓が明されるものか」
「ほんとにそれはそうですわねえ」お色は胸に落ちたらしい。
 金魚売りの声が表を通った。燕のさえずりが空で聞こえた。
「六人の奴らどうしたかな?」
 ふと弓之助は壊しそうにいった。「江戸にはいないということだが」
「泥棒なんて厭ですわねえ」お色は眉間へ皺を寄せた。
「それもご治世が悪かったからさ。人間いよいよ食えなくなると、どんな事でもやるものだからな」
 ちょっと弓之助は感慨に耽った。
「ご治世は変わったじゃあありませんか。越中守様がお乗り出しになり」
「有難いことには変わったね。これから暮らしよくなるだろう。ところでどうだいお前の心は」
「何がさ?」
 とお色は怪訝(けげん)そうに訊いた。
「変わったかよ? 変わらないかよ?」
「そうねえ」
 とお色は物憂そうにいった。「あなた、お役附きになったんでしょう?」
「越中守様のお引き立てでね」
「権式張らなければいけないわねえ」
「へえ、そうかな、どうしてだい?」
「お役人様じゃあありませんか」
「ほほうお役人というものは、権式張らなけりゃあいけないのかえ」
「みんな威張るじゃあありませんか」
「よし来た、それじゃあおれも威張ろう」
「では、妾(わたし)はさようならよ」
「おっと、おっと、どういう訳だ?」
「妾威張る人嫌いだからよ」
「俺が」と弓之助はゴロリと左寝の肘を後脳へ宛(あ)てた。「威張れるような人間なら、もっと早く役附いていたよ」
「どうしてでしょう? 解らないわ」
「一方で威張る人間は、それ一方では諂(へつら)うからさ」
「ああそうね、それはそうだわ」
「おれの何より有難いのは、生地(きじ)で仕えられるということさ。越中守様の下でなら、お太鼓を叩く必要もなければ怒ってばかりいる必要もない。楽に呼吸(いき)を吐けるというものさ」
 この意味はお色にはわからなかった。
「お色、久しぶりで何か弾けよ」
「ええ」といって三味線を取った。「あら厭だ糸が切れたわ」
「三の糸だろう、薄情の証拠だ」
「お気の毒さま、一の糸よ」
「それじゃあいよいよ嬶(かかあ)になれる」
「ゾッとするわ! 田沼の爺(じじい)!」
「何さ、田沼のその位置へ、俺が坐ろうというやつよ」
「まあ」といって三味線を置いた。
「大して嬉しくもなさそうだな」
「瞞(だま)すと妾狂人(きちがい)になるわ!」
 二人はそこで寄り添おうとした。有難い事には野暮天(やぼてん)ではなかった。寄り添う代わりに坐り直した。と、お色がスッと立った。裏の障子を引き開けた。眼の前に隅田が流れていた。行き交う船! 夕焼け水!
「ああ私にはあの水が……」湯のようだと彼女はいおうとした。だがそういわなかった。「ああまるで火のようだわ」こう彼女はいったものである。
 間もなく季節は真夏に入ろう。恋だって火のように燃えるだろう。だがその次には秋が来よう。結構ではないか実を結ぶ季節だ。

 京師殿とは何者であろう? 結局疑問の人物であった。あの有名な天一坊事件、その張本の山内伊賀介、その後身ではあるまいか? 非常な学者だというところから、特に助命して大岡家に預け、幕府執政の機関とし、捨扶持(すてぶち)をくれていたのかもしれない。伊賀介の元の主人といえば、京師の公卿の九条殿であった。




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