銅銭会事変
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著者名:国枝史郎 

    女から切り出された別れ話

 天明六年のことであった。老中筆頭は田沼主殿頭(たぬまとのものかみ)、横暴をきわめたものであった。時世は全く廃頽期(はいたいき)に属し、下剋上の悪風潮が、あらゆる階級を毒していた。賄賂請託(わいろせいたく)が横行し、物価が非常に高かった。武士も町人も奢侈(おごり)に耽った。初鰹(はつがつお)一尾に一両を投じた。上野山下、浅草境内、両国広小路、芝の久保町、こういう盛り場が繁昌した。吉原、品川、千住(こつ)、新宿、こういう悪所が繋昌した。で悪人が跋扈(ばっこ)した。
 その悪人の物語。――
 梅が散り桜が咲いた。江戸は紅霞(こうか)に埋ずもれてしまった。鐘は上野か浅草か。紅霞の中からボーンと響く。こんな形容は既に古い。「鐘一つ売れぬ日はなし江戸の春」耽溺詩人其角(きかく)の句、まだこの方が精彩がある。とまれ江戸は湧き立っていた。人の葬式にさえ立ち騒ぐ、お祭りずきの江戸っ子であった。ましてや花が咲いたのであった。押すな押すなの人出であった。さあ江戸っ子よ飜筋斗(とんぼ)を切れ! おっとおっと花道じゃあねえ。往来でだ、真ん中でだ。ワーッ、ワーッという景気であった。

 その日情婦(おんな)から呼び出しが掛かった。若侍は出かけて行った。
 いつも決まって媾曳(あいびき)をする、両国広小路を横へ逸(そ)れた、半太夫茶屋へ足を向けた。
 女は先刻から待っていた。
 やがて酒肴が運び出され、愉快な酒宴が始められた。
 そうだいつもならこの酒宴は、非常に愉快な酒宴なのであった。
 この日に限って愉快でなかった。女の様子が変だからであった。ろくろく物さえいわなかった。下ばっかり俯向いていた。そうして時々溜息をした。
「おかしいなあ、どうしたんだろう?」若侍は気に掛かった。
 と、女が切り出した。別れてくれというのであった。
 これには若侍も面食らってしまった。で、しばらく黙っていた。
 不快な沈黙が拡がった。
「ふふん、そうか、別れようというのか」こう若侍は洞声(うつろごえ)で云った。
「余儀無い訳がございまして……」
 女の声も洞(うつろ)であった。
 また沈黙が拡がった。
「別れるというなら別れもしよう。だが理由(わけ)が解らないではな」
「どうぞ訊かないでくださいまし」女は膝を手で撫でた。
「どうもおれにはわからない。藪から棒の話だからな」若侍は嘲けるようにいった。相手を嘲けるというよりも、自分を嘲けるような声であった。「では今日が逢い終(じま)いか。ひどくさばさばした別れだな。いやその方がいいかもしれない。紋切り型で行く時は、泣いたり笑ったり手を取ったり、そうでなかったらお互いに、愛想吐(づ)かしをいい合ったり、色々の道具立てが入るのだが、手数がかかり時間がかかりその上後に未練が残り、恨み合ったり憎んだり、詰まらないことをしなければならない。そういうことはおれは嫌いだ。いっそ別れるならこの方がいい。女の方から切り出され、あっさりそれを承知する。アッハッハッ新しいではないか」
 決して厭味でいうのではなかった。それは顔色や眼色で知れた。本当にサラリとした心持ちから、そう若侍は言っているのであった。
「そうと話が決まったら、今日だけは気持ちよく飲ましてくれ」
 若侍は盃を出した。女は俯向いて泣いていた。
「おや、どうしたのだ、泣いているではないか。おれは虐(いじ)めた覚えはない。虐められたのはおれの方だ。虐めたお前が泣くなんて、どう考えても不合理だなあ」まさに唖然とした格好であった。「ははあ解った、こうなのだろう。あんまりおれが手っ取り早く、別れ話を諾(き)いたので、それでお前には飽気(あっけ)なく、やはり月並の別れのように、互いに泣き合おうというのだろう。だがそいつは少し古い。それもお前が娘なら、うん、初心(うぶ)の娘なら、そういう別れ方もいいだろう。ところがお前は娘とはいえ、浅草で名高い銀杏(いちょう)茶屋のお色、一枚絵にさえ描かれた女だ。男あしらいには慣れているはずだ。お止しよお止しよそんな古手はな。……おや、やっぱり泣いているね。いよいよ俺には解らなくなった。ははあなるほど、こうなのだろう。あんまり気前よく承知したので、気味が悪いとでもいうのだろう。そこでいわゆる化粧泣き、そいつで機嫌を取り結び、後に祟りのないように、首尾よく別れようというのだろう。もしそうならおれは怒る!」
 若侍は睨むようにした。


    恋敵は田沼主殿頭

「というのは他でもない。おれとお前とは二年越し、馴染(なじみ)を重ねた仲だのに、あんまり心持ちが判らなさ過ぎるからよ」いっている間にも若侍の顔には自嘲の色が浮かんでいた。「アッハッハッハッ違うかな。いや違ったらご勘弁、こいつ器用に謝(あや)まってしまう。とはいえそうでも取らなかったら、他にとりようはないじゃあないか。二人の間にはこれといって、気不味(きまず)いこともなかったのに別れ話を切り出され、しかも理由は訊くなという。ちょっと廻り気も起ころうってものさ」
 じっと女の様子を見た。女は顔を上げなかった。耳髱(みみたぶ)がブルブル顫(ふる)えていた。色がだんだん紅くなった。バッチリ噛み切る歯音がした。鬢の垂れ毛を噛み切ったらしい。
 若侍は徳利を取った。自分の盃へ注ごうとした。その手首を握るものがあった。焔(も)えるような女の手であった。
「わたしは買われて行くのです」女は突然ぶっ付けるようにいった。「それをあなたは暢気(のんき)らしく、笑ってばかりおいでなさる」
「何、買われて行く? 吉原へか?」
「女郎ならまだしもよござんす。妾(めかけ)に買われて行くのです」
「うむ、そうして行く先は?」
「はい、あなたの大嫌いな方」
「おれには厭な奴が沢山ある。人間はみんな嫌いだともいえる」
「一人あるではございませんか。とりわけあなたの嫌いな人が」
「なに、一人? うむ、いかにも。が、それは大物だ」
「そのお方でございます」
「老中筆頭田沼主殿頭!」
「はい、そうなのでございます」
「それをお前は承知したのか?」
「お養母様(かあさま)が大金を。……」
「うむ、田沼から受け取ったのだな?」
「妾(わたし)の何んにも知らないうちに。……用人とやらがやって来て。……」
 若侍は立ち上がった。だがまたすぐに坐ってしまった。
「よくある奴だ。珍らしくもない。ふん。金持ちの権勢家、業突張(ごうつくば)りの水茶屋養母、その犠牲になる若い娘、その娘の情夫(いろおとこ)。ちゃんと筋立てが出来てらあ、物語の筋にある奴よ。今までは草双紙で読んでいたが、今日身の上にめぐって来たまでさ。泣くな泣くな何を泣きゃあがる」

 翌日弓之助は軽装をして、三浦三崎へ出かけて行った。千五百石の安祥旗本、白旗小左衛門の次男であって、その時年齢二十三、神道無意流の大先生戸ヶ崎熊太郎の秘蔵弟子で、まだ皆伝にはなっていなかったが、免許はとうに通り越していた。武骨かというに武骨ではなく、柔弱に見えるほどの優男(やさおとこ)。そうして風流才子であった。彼は文学が非常に好きで、わけても万葉の和歌を愛した。で今度の三崎行も西行を気取っての歌行脚(うたあんぎゃ)であった。が、これは表面(おもてむき)で、お色と別れた寂しさを、まぎらそうというのが真相であった。途中で悠々一泊し、その翌日三崎へ着いた。半漁半農の三崎の宿は、人情も厚ければ風景もよかった。小松屋というのへ宿まることにした。海に面した旅籠屋であった。
「五、六日ご厄介になりますよ」「へえへえ、有難う存じます」
 その翌日から弓之助は、懐中硯(ふところすずり)と綴(つづ)り紙を持って、四辺(あたり)の風景を猟(あさ)り廻った。


    銅銭会茶椀陣

 しかしよい歌は出来なかった。別れた女のことばかりが、胸のうちにこだわっていた。もちろん女と別れたことも、彼には随分寂しかったが、その女を取った者が、田沼主殿頭だということが、一層彼には心外であった。というのはほかでもない、彼の父なる小左衛門が、わずか式第の仕損(しそこな)いから主殿頭に睨まれて役付いていた鍵奉行から、失脚させられたという事が、数ヵ月前にあったからであった。
「側御用人の小身から、将軍家に胡麻(ごま)を磨り老中に上がって七万七千石、それで政治の執り方といえば上をくらまし下を搾取、ろくなことは一つもしない。憎い奴だ悪い奴だ」これが彼の心持ちであった。
「一向三崎も面白くないな。どれそろそろ帰ろうか」
 空の吟嚢を胸に抱き、弓之助は江戸へ引っ返した。
 最初の予定が五、六日、それを二日で切り上げたのであった。

 ある日弓之助は屋敷を出た。上野の方へ足を向けた。花の盛りは過ぎていたが、上野山下は景気立っていた。茶屋女が美しいので、近ごろ評判の一葉(は)茶屋で、弓之助は喉を濡らすことにした。
 女が渋茶を持って来た。ふと見ると弓之助の正面に、一人の老武士が腰かけていた。雪白の髪を総髪に結んだ、無髯(むぜん)童顔の威厳のある顔が、まず弓之助の眼を惹いた。左の眉毛の眉尻に、豌豆ほどの黒子(ほくろ)があった。
「はてな?」と弓之助は呟いた。武士の眼使いが変だからであった。顔を正面に向けながら、瞳だけをそっと眼角へ送り、じっと何かを見ているのであった。他人に気取られずに物を見る。――こういう見方で見ているのであった。「これはおかしい」と思いながら、老人の瞳の向いている方へ、弓之助はこっそり眼をやった。そっちに小座敷が出来ていた。そこに二人の町人がいた。その一人のやっている事が、弓之助の心をちょっとそそった。茶飲み茶椀と土瓶とで、変な芸当をしているのであった。茶椀の数は十個あった。しかし土瓶は一個しかなかった。その十個の茶飲み茶椀を、ある時はズラリと一列に並べある時はタラタラと二列に並べ、または方形にまたは弧形に、そうかと思うと向かい合わせたりした。そのつど土瓶の位置が変わった。非常に手早くやるのであった。いったい何をしているのだろう? そうやって遊んでいるのだろうか? 座敷の隅で、チビチビ酒を飲んでいた。見ているような見ていないような、不得要領な眼使いを一人の町人はして、茶椀の変化へ眼を付けていた。二人は懇意の仲とも見え、また全くの他人とも見えた。そういう不思議な茶椀の芸当が、しばらくの間繰り返された後、二人の町人は茶屋を出た。ややあって老武士が編笠を冠(かぶ)った。
「銅銭会の茶椀陣」こう老武士は呟くようにいった。それから茶屋を出て行った。
「銅銭会の茶椀陣」老人の言葉をなぞって見たが、弓之助には意味がわからなかった。しかし何んとなく心に掛かった。意味を確かめて見たかった。そこで老武士の後を追った。
 もうそれは夕暮れであった。花見帰りの人々が、ふざけながら往来を練っていた。老武士はズンズン歩いていった。足は谷中へ向いていた。この時代の谷中辺はただ一面の田畑であった。飛び飛びに藁葺(わらぶ)きの百姓家があった。ぼんやり春の月が出た。と一軒の屋敷があった。大名方の控え屋敷と見え、数寄(すき)の中にも厳(いか)めしい構え、黒板塀がめぐらしてあった。裏門の潜戸(くぐり)がギーと開いた。老武士の姿が吸いこまれた。
「いったい誰の屋敷だろう?」ここまで尾行(つけ)て来た弓之助は、しばらく佇んで眺めやった。少し離れて百姓家があった。そこで弓之助は訊いて見た。
「大岡様のお屋敷でございますよ」
「ああそうか、大岡様のな」
 弓之助は礼をいって足を返した。
「享保年間の名奉行、大岡越前守と来たひには、とても素晴らしい人傑だったが、子孫にはろくな物は出ないようだ。今の時代に大岡様がいたら、もっと市中は平和だろうに。……ナーニ案外駄目かもしれない。名君でなければ名臣を、活用することは出来ないからな。……それはそうと今の老人、大岡家のどういう人だろう? 非常な老年と思われるが、歩き方など若者のようだ。家老や用人ではないらしい。途方もなく威厳があったからな」


    北町奉行曲淵甲斐守

 彼の屋敷は本所にあった。
「お帰り遊ばせ」と若党がいった。
「ああ」と受けて部屋へはいった。小間使いが茶を淹(い)れて持って来た。
「お父様は?」と弓之助は訊いた。
「はい、ご書見でございます」
「お兄様は?」と彼は訊いた。
「はい、ご書見でございます」
「みんな勉強しているのだな。何んのために勉強するのだろう? 論語を読んでどうなるんだろう? どこかの世界で役立つかしら? どうもおれには疑問だよ。そんな事より行儀でも習って、頭の下げっ振りでも覚えるんだね。そうでなかったら幇間(ほうかん)でも呼んで、追従術(ついしょうじゅつ)を習うんだね。こいつの方がすぐ役立たあ。お菊お前はどう思うな?」
「若旦那様何をおっしゃるやら、ホッホッホッホッ、そんな事」小間使いのお菊は無意味に笑った。
「ホッホッホッホッそんな事か? なるほど、こいつも処世術だ。語尾を暈(ぼか)して胡麻化(ごまか)してしまう。偉いぞお菊、その呼吸だ。御台所(みだいどころ)に成れるかもしれねえ。俺はお前の弟子になろう、ひとつ俺を仕込んでくれ」
「厭でございますよ、若旦那様」小間使いのお菊は逃げてしまった。
 弓之助は寝ることにした。
「どぎった事はないものかしら? ひっくり返るような大事件がよ。俺はそいつへ食い下がってゆきたい。何んだか知らねえがおれの心には変てこな塊(かたまり)が出来ている。ともかくもこいつを吐き出したいものだ。つまり溜飲を下げるのさ」

 北町奉行曲淵甲斐守(まがりぶちかいのかみ)、列代町奉行のその中(うち)では、一流の中(うち)へ数えられる人物、弓之助にとっては叔父であった。
 その翌日のことであった、弓之助は叔父を訪問した。屋敷内が騒がしかった。与力が右往左往した。同心どもが出入りした。重大な事件でも起こったらしい。弓之助は叔母の部屋へ行った。
「叔母様、何か取り込みで?」
「おやこれは弓之助さんかい。何んだか妾(わたし)には解らないが、大変なことが起こったようだよ」
 弓之助には母がなかった。五年ほど前に逝(なくな)ってしまった。で、弓之助はこの叔母を、母のように、懐しんでいた。
「お茶でも淹(い)れよう、遊んでおいで。叔父さんも帰って来ようからね」
「ええ有難うございます」
 お茶を飲んで世間話をした。叔父は帰って来なかった。御殿へ詰め切りだということであった。夜になってようやく帰って来た。その顔色は蒼褪めていた。弓之助は叔父の部屋へ行った。
「毎日ご苦労に存じます」
「おお弓之助か、近ごろどうだ」こうはいったがいつものように、優しく扱かってはくれなかった。いわゆる心ここにあらず、何か全く別のことを、考えているような様子であった。
「これは大事件に相違ない」弓之助は直覚した。「何か大事件でも起こりましたので」顔色を見い見い訊いて見た。
「うん」と甲斐守は物憂そうにいった。「前古未曽有の大事件だ」
「いったいどんなことでございますな?」
「絶対秘密だ。いうことは出来ない」甲斐守は苦り切った。


    変な噂は聞かなかったかな?

 甲斐守は深沈大度、喜怒容易に色に出さぬ、代表的の役人であった。今度に限ってその甲斐守が、まざまざ憂色を面(おもて)に現わし、前古未曽有の大事件で、絶対秘密というからには、よほどの事件に相違ない。弓之助の好奇心は膨れ上がった。しかし甲斐守の性質として、一旦いわぬといったからには、金輪際(こんりんざい)口を開かぬものと、諦めなければならなかった。そこで弓之助は一礼し、甲斐守の部屋を出ようとした。
「これ弓之助ちょっと待て、少し聞きたいことがある」甲斐守は急に止めた。
「はい、ご用でございますか」弓之助は座に直った。
「お前は随分道楽者で、盛り場や悪所を歩き廻るそうだな」
「おやおや何んだ、面白くもない。紋切り形の意見かい」弓之助は苦笑したが、
「これはどうも恐れ入ります。はい、さようでございますな。いくらかは道楽も致しますが、決して親や兄弟へは、迷惑などは掛けないつもりで」
「いやいや意見をするのではない。若いうちは遊ぶもよかろう。親父のようにかたくなでは、ろくな出世は出来ないからな。どうだ情婦(おんな)でも出来ているか」
「おやおやこいつは変梃(へんてこ)だぞ。妙な風向きになったものだ。叔父貴としては珍らしい。ははあわかった、手段だな。いわせて置いてとっちめる。ううんこいつに相違ない。町奉行なんか叔父に持つと、油断も隙も出来やあしない。甥に対してさえお白洲式の、訊問法を採るのだからな。構うものか、逆捻(さかねじ)を食わせろ」そこで弓之助はニヤニヤした。
「実はね、叔父さん、出来ましたので。茶汲み女ではありますが、どうしてどうして一枚絵にさえ出た、素晴らしい別嬪でございますよ。だがね、叔父さん、つい最近、縁を切られてしまいました」
「切られたというのは変ではないか、お前が縁を切ったんだろう。冗(むだ)なことをしたものだ」
「いいえそうじゃありません。女から引導(いんどう)を渡されたんで」
「ほほうそうか、それは偉い」
「偉い女でございますよ」
「いやいや偉いのはお前の方だ」
「叔父さん冷(ひや)かしちゃあいけません」
「冷かすものか、本当のことだ。遊びもそこまで行かなければ、堂に入ったとはいわれない」
「振られて帰る果報者。叔父さん、こいつをいっているんですね」
「いやいやそれとは意味が異う。男へ引導を渡すような女だ、いずれ鉄火に相違あるまい。そういう女をともかくも、占めたということは偉いではないか」
「これはどうも恐れ入りました」弓之助は変に気味悪くなった。「この叔父貴変梃だぜ。金仏のような風采でいてそれで消息には通じている。ははあ昔は遊んだな」
 その時甲斐守は一膝進めた。
「そこでお前に訊くことがある。盛り場ないし悪所などで近ごろ何か変わった噂を耳にしたことはなかったかな?」
「さあ、変わった噂というと?」
「銅銭会というようなことを」
「あっ、それなら聞きました。いや現在見たんです」
「ふうむ、そうか、知っているのか。……ひとつそいつを話してくれ」ピタリと甲斐守は坐り直した。
 そこで弓之助は昨日、上野山下一葉茶屋で、怪しい振る舞いをした町人のことと、老武士のこととを物語った。じっと聞いていた甲斐守は、一つ大きく頷いた。
「いやよいことを教えてくれた。ついては弓之助頼みがある。これから大至急谷中へ行き、大岡侯の下屋敷へ伺候し、その老体と面会し、もっと詳しく銅銭会のことを、聞き出して来てはくれまいかな」
「はい、よろしゅうございます。しかしはたしてその老人、会って話してくれましょうか」
「俺から書面をつけることにしよう」
「へえ、それでは叔父様は、その老人をご存知で?」こう弓之助は不思議そうに訊いた。


    銅銭会縁起録

「さよう」といったが曖昧(あいまい)であった。
「まず知っているとして置こう。あの老人は人物だ。徳川家の忠臣だ。しかし一面囚人(めしゅうど)なのだ。同時に徳川家の客分でもある。捨扶持(すてぶち)五千石をくれているはずだ。まずこのくらいにして置こう。書面が出来た。すぐ行ってくれ」
「はい、よろしゅうございます」
 書面の面には京師殿と、ただ三文字書かれてあった。
 書面を持って飛び出した。ポンと備え付けの駕籠に乗った。
「急いでやれ! 行く先は谷中!」
 深夜ゆえに掛け声はない。駕籠は一散に宙を飛んだ。やがて大岡家の表門へ着いた。
 トントントンと門を叩いた。「ご門番衆、ご門番衆」四方(あたり)を憚(はばか)って小声で呼んだ。
「かかる深夜に何用でござる」門の内から声がした。
「曲淵甲斐守(まがりぶちかいのかみ)の使者でござる。ただし、私用、潜戸(くぐり)を開けられい」
 で、潜戸がギーと開いた。それを潜って玄関へかかった。
「頼む。頼む」と二声呼んだ。
 と、小間使いが現われた。
「これを」と書面を差し出した。
 一旦小間使いは引っ込んだが、再び現われると慇懃(いんぎん)にいった。「さ、お通り遊ばしませ」
 十畳の部屋へ通された。間もなく現われたのは老人であった。
「白旗氏(しらはたうじ)のご子息だそうで。弓之助殿と仰せられるかな。……書面の趣き承知致した。しかし談話(はなし)では意を尽くさぬ。書物があるによってお持ちなされ」
 懐中から写本を取り出した。
「愚老、研究、書き止め置いたもの、甲斐守殿へお見せくだされ。……さて次に弓之助殿、昨日は一葉茶屋で会いましたな」
「ご老人、それではご存知で?」
「さて、あの時の茶椀陣、この意味だけは本にはない。よって貴殿にお話し致す。――貴人横奪、槐門(かいもん)周章。丙(ひのえ)より壬(みずのえ)、一所集合、牙城を屠(ほふ)る。急々如律令(きゅうきゅうにょりつれい)。――つまりこういう意味でござった。甲斐守殿へお伝えくだされ」
「して、茶椀陣とおっしゃるは?」
「うむ、茶椀陣か、それはこうだ。銅銭会の会員が、茶椀と土瓶の位置の変化で、互いの意思を伝える法」
「火急の場合、これでご免」
「謹慎の身の上、お見送り致さぬ」
 で弓之助は下屋敷を辞した。門を潜ると駕籠へ乗った。
 駕籠は一散に宙を飛んだ。
 間もなく甲斐守の屋敷へ着いた。門を潜り、玄関を抜け、叔父の部屋へ走り込んだ。
 依然肩衣(かたぎぬ)を着けたまま、甲斐守は坐っていた。
「おお弓之助か、どうであった?」
「まずこれを」と書物(かきもの)を出した。
「うむ、銅銭会縁起録」
「他に伝言(ことづて)でございます」
「うむ、そうか、どんなことだ?」
「先ほど、私お話し致しました、上野山下一葉茶屋で、一人の町人の行なった茶椀芸についてでございますが、あれは銅銭会の茶椀陣と申し、茶椀の変化によりまして、会員同士互いの意思を、伝え合うところの方法だそうで、あの時の茶椀陣の意味はといえば、貴人横奪、槐門周章。丙(ひのえ)より壬(みずのえ)、一所集合、牙城を屠る。急々如律令。……かような由にございます」
「ううむそうか、よく解った」甲斐守はじっと考え込んだ。「……貴人横奪? 貴人横奪? これはこの通りだ間違いない。いかにも貴人が横奪された。槐門周章? 槐門周章? 槐門というのは宰相の別名、当今の宰相は田沼殿、いかにもさよう田沼殿は、非常に周章(あわ)てておいでになる。だからこれにも間違いはない。丙より壬? 丙より壬? これがちょっと解らない」甲斐守は眼を閉じた。すると弓之助が何気なくいった。
「日柄のことではございませんかな。たしか一昨日(おとつい)が丙の日で」


    将軍家治誘拐さる

「おっ、なるほど、そうかもしれない。うむ、よいことを教えてくれた。いかにもこれは日柄のことだ丙から壬というからには、丙から数えて壬の日まで、すなわち七日間という意味だ。一所集合? 一所集合? これは読んで字のごとく某所へ集まれということだろう? 牙城を屠る? 牙城を屠る? 敵の本陣をつくという意味だ。急々如律令は添え言葉、たいして意味はないらしい……さてこれで字義は解った。貴人を横取りしたために、宰相田沼殿が周章(あわ)てている。七日の間に某所へ集まり、敵の本陣を突くという意味だ」
 甲斐守は沈吟した。
「解ったようで解らない。だがともかくも今度の事件が、銅銭会という秘密結社の、会員どもの所業(しわざ)であることは、どっちみち疑がいはなさそうだ」
「叔父様」と弓之助は窺うように、「貴人とおっしゃるのはどなたのことで?」
 甲斐守はジロリと見た。
「これはな、天下の一大事だ。本来ならば話すことは出来ぬ。これが世間へ知れようものなら、忽ち謀叛が起こるだろう。が、お前には功がある。特別をもって話して聞かせる。貴人というのは将軍家のことだ」
「えっ!」と弓之助は眼を□(みは)った。「それでは上様が何者かに?」
「一昨日の晩、盗み取られた」
「へえ」といったが弓之助は二の句を継ぐことが出来なかった。

 時の将軍家は家治(いはえる)であった。九代将軍家重の長子で、この事件の起こった時には、その年齢五十歳、普通の日本の歴史からいえば、暗愚の将となっている。しかしそうばかりでもなかったらしい。ただ余りに女性的で権臣を取って抑えることが出来ず、権臣のいうままになっていたらしい。少しも下情(かじょう)に通じなかった。権臣がそれを遮(さえぎ)るからであった。で彼は日本の国は、泰平のものと思っていた。彼は性、画を好んだ。そこで権臣は絵師を進め、彼をしてそれにばかり没頭せしめた。
 しかるに最近事件が起こった。近習山村彦太郎が、三河風土記を講読した。すると家治は慨嘆した。「俺は今までこんないい本が、世間にあろうとは思わなかった。もっと彦太郎読んでくれ」
 そこで彦太郎は陸続(りくぞく)と読んだ。それを怒ったのが権臣であった。すなわち田沼主殿頭であった。すぐ彦太郎を退けてしまった。
 しかし将軍家はそれ以来大分心が変わったらしい。やや田沼を疎(うと)むようになった。そうして下情に通じようとした。田沼はそれを遮ろうとした。しかし将軍は子供ではなかった。一旦覚えた智恵の味を忘れることは出来なかった。で将軍家と田沼との間が、どうも円滑に行かなくなった。五日ほど以前(まえ)のことであった。田沼は将軍家をそそのかし、上野へ微行で花見に行った、その帰り路のことであった。本郷の通りへ差しかかった。忽ち小柄が飛んで来た。が、幸い駕籠へ中(あた)った。小柄には毒が塗ってあった。そうして柄には彫刻(ほり)があった。銅銭会と彫られてあった。
 こうして一昨日の夜となった。その夜将軍家は近習も連れず、一人後苑(こうえん)を彷徨(さまよ)っていた。と、一人の非常な美人が、突然前へ現われた。見たことのない美人であった。大奥の女でないことは、その女の風俗で知れた。町娘風の振り袖姿、髪は島田に取り上げていた。
 女は先に立って歩いて行った。将軍家は後を追った。近習の一人がそれを見付け、すぐ後を追っかけた。御天主台と大奥との間、そこまで行くと二人の姿が――すなわち将軍家と女とが、掻き消すように消えてしまった、爾来消息がないのであった。


    弓之助感慨に耽る

 甲斐守はこう語った。
 弓之助は奇異の思いがした。
「これは陰謀でございますな。狐狸の所業(しわざ)ではありませんな。怪しいのはその女で、何者かの傀儡(かいらい)ではございますまいか?」
「うん俺もそう思う。振り袖姿のその女は、銅銭会の会員だろう」
「申すまでもありません。しかし私は銅銭会より、銅銭会をあやつっているある大きな人物が……」
「これ」と甲斐守は手で抑えた。「お前、田沼殿を疑がっているね」
「勢いそうなるではございませんか」
「が、ここに不思議なことには、今度の事件では田沼殿は、心の底から周章(あわ)てていられる」
「さては芝居がお上手と見える」
「いやおれの奉行眼から見ても、殿の周章(あわ)て方は本物だ。そこがおれには腑に落ちないのだ。……さて、よい物が手に入った。銅銭会縁起録、早速これから御殿へまいり、老中方にお眼に掛けよう」
 叔父の家を出た弓之助は、寂然(しん)と更けた深夜の江戸を屋敷の方へ帰って行った。考えざるを得なかった。
「田沼の所業に相違ない。将軍家に疎(うと)んぜられた。そこで将軍家をおびき出し、幽囚したか殺したか、どうかしたに相違ない。悪い奴だ、不忠者め! その上俺の情婦(おんな)を取り、うまいことをしやがった。
 公(おおやけ)の讐(あだ)、私の敵(あだ)、どうかしてとっちめてやりたいものだ。だが、どうにも証拠がない。是非とも証拠を握らなければならない。銅銭会とは何物だろう? 支那の結社だということだが、どういう性質の結社だろう? だがそいつは縁起録を見たら、容易に知ることが出来るかもしれない。明日もう一度叔父貴を訪ね、縁起録の内容を知らせて貰おう。とまれ田沼めと銅銭会とは、関係があるに相違ない。あるともあるとも大ありだ。銅銭会員を利用して、将軍家誘殺を試みたのだ。無理に将軍家を花見に誘い、毒塗り小柄で討ち取ろうとした。ところがそいつが失敗(しくじ)ったので、会員中の美人を利用し、大奥の庭へ入りこませ好色の将軍家を誘い出したのだ。容易なことでは大奥などへは、地下(じげ)の女ははいれないが、そこは田沼がついている。忍び込ませたに相違ない。だがしかし不思議だなあ。突然消えたというのだから」
 彼はブラブラ歩いて行った。
「田沼にいかに権勢があっても、深夜城門を開くことは、どんなことがあっても出来るものではない。だが城門を開かなかったら、城から外へ出ることは出来ない。それだのに突然消えたという。どうもこいつがわからないなあ」
 弓之助には不思議であった。
「もしかすると将軍家には、千代田城内のどの部屋かに、隠されているのではあるまいかな? お城には部屋が沢山ある。秘密の部屋だってあるだろう。どこかに隠されてはいないかな?」
 神田を過ぎて下谷へ出た。朧月(おぼろづき)が空にかかっていた。四辺(あたり)が白絹でも張ったように、微妙な色に暈(ぼ)かされていた。
「山村彦太郎が将軍家へ、風土記を講読したというが、結講な試みをしたものだ。そのため将軍家の眩まされた眼が、少しでも明いたということは、非常な成功といわなければならない。もっとも今度の大事件の、そもそもの発端というものは、その三河風土記の講読にあることは争われないが、決してそれを責めることは出来ない、聞けば山村彦太郎は、賢人松平越中守様に、私淑しているということだが、ひょっとかすると越中守様の、何んとはなしの指金(さしがね)によりて、そんなことをしたのではあるまいかな」


    弓之助の社会観

 弓之助は上野へ差しかかった。
「越中守はお偉い方だ。ああいう方が廟堂に立ち、政治をとってくだされたなら、日本の国も救われるのだが、そういう事も出来ないかして、いまだに枢機(すうき)に列せられない。現代政治のとり方は、庚申堂(こうしんどう)に建ててある、三猿の石碑(いしふみ)そっくりだ。見ざる聞かざるいわざるだ。将軍家よ見てはいけない。人民どもよ見てはいけない。将軍家よ聞いてはいけない。人民どもよ聞いてはいけない。将軍家よいってはいけない。人民どもよいってはいけない。一口にいえば上をも下をも木偶坊(でくのぼう)に仕立てようとしているのだがこいつは非常に危険だ。聞かせまいとすれば聞きたがる。いわせまいとすればいいたがる。見せまいとすれば見たがるものだ。圧迫するということは、いつの場合でもよくはない。圧迫、圧迫、さて圧迫! その次に起こるものは爆発だ。この爆発は恐ろしい。一切の物を破壊しようとする。いっそうそれより処士横議、自由に見させ自由にいわせ、自由に聞かせた方がいいではないか。遙かにその方が安全だ。琉(は)け口を作ってやるのだからな。……ところでここはどこだろう?」
 そこは浅草馬道であった。
「お色め、今頃どうしているだろう? まだ妾(めかけ)にはゆくまいな。ちょっと様子を見たいものだ。別れた、女の様子を見る。未練と人はいうだろう。だが幸い人気(ひとけ)がない。おりから深夜で月ばかりだ。月に見られたって恥ずかしいものか。しかも春の朧月、被衣(かつぎ)を、冠っておいでなさる」
 観音堂の方へ歩いて行った。昼は賑やかな境内も、人影一つ見えなかった。家々の戸は閉ざされていた。屋根が水でも浴びたように、銀鼠色に光っていた。巨大な公孫樹(いちょう)が立っていた。その根もとに茶店があった。すなわちお色の住居(いえ)であった。犬が門を守っていた。と尾を振って走って来た。よく見慣れている弓之助だからで、懐しそうにじゃれついた。「おおよしよし」と頭を撫でた。「犬の方がよっぽど人間らしい。さて何かやりたいが、小判をやってもし方がねえ。その他には何んにもないお気の毒だがくれることは出来ねえ。……お色め、今ごろいい気持ちで、グッスリ眠っているだろう。そう思うといい気持ちはしねえ。間もなく田沼の皺くちゃ爺に、乳房を自由にされるんだろう。こいつは一層いい気持ちがしねえ。だがひょっとするとおれの事を案じて眼覚めているかもしれねえ。こいつはちょっといい気持ちだ。まずなるたけならいい方へ考えた方がよさそうだ。少なくも気休めにはなるからな」
 観音堂の裏手へ廻った。花川戸の方へ歩いて行った。どこもかしこも寝静まっていた。家々がまるで廃墟のように見えた。隅田に添って両国の方へ歩いた。一方は大河一方は家並、その家並が一所切れてこんもりとした森があった。社(やしろ)でも祀ってあるらしい。
「どれ、神様でも拝むとするか」森の中へはいって行った。はたして社が祀ってあった。その拝殿へ腰を掛けた。一つ大きく呼吸(いき)づいた。もう一度大きく呼吸づこうとした。中途で彼は止めてしまった。
「実際現代は息苦しい。重い石が冠さっている。勇気のある者は憤怒(いきどおり)をもって、その重い石を刎ね退けるがいい。勇気のある者は笑ってはいけない! 肉体的にいう時は、笑ったとたんに筋が弛む。精神的にいう時は、笑ったとたんに心が弛む。弛むということは油断ということだ。その油断に付け込んで飛び込んで来るのが、妥協性だ。妥協、うやむや、去勢、萎縮、そこで小粋な姿(なり)をして、天下は泰平でございます。浮世は結構でございます。皆さん愉快にやりましょう。粋(おつ)でげすな。大通でげすな。なあァんて事になってしまう。そうやって謳(うた)っているうちに、それよこせやれよこせ、洗いざらい持って行かれる。ヘッヘッヘッヘッヘッこれはこれは、いつの間に貧乏になったんだろう? などと驚いても追っ付かない。だから決して笑ってはいけない。いつもうんと怒っているがいい。……だがこいつは勇士の態度だ。利口者には別の道がある。行儀作法を覚えることよ。お辞儀を上手にすることよ。お太鼓をうまく叩くことよ。お手拍子喝采を習うことよ。それで権勢家に取り入るのよ。そうして重用されるのよ。さてそれからジワジワと、自分の考えは権勢家に伝え、その権勢家の力を藉(か)りて、もって実行に現わすのよ」
 また感慨に耽り出した。


    舁ぎ込まれた一丁の駕籠

 と、その時一丁の駕籠が、森の中へ担ぎ込まれた。
「こんな深夜にこんな所へ、担ぎ込まれるとは不思議千万、何か様子があるらしい」弓之助は社の背後(うしろ)へ隠れた。
「おお先棒もうよかろう」「おっと合点、さあ下ろせ」
 駕舁きはトンと駕籠を下ろした。それから額の汗を拭いた。それからヒソヒソと囁(ささや)き合った。
「おい姐(ねえ)さん、用があるんだ、ちょっくら駕籠から出ておくんなせえ」後棒の方がこういった。
「あい」と可愛らしい声がした。「もう着いたのでございますか」中から垂れが上げられた。「おやここは森の中、駕舁きさん、厭ですねえ。気味が悪いじゃあありませんか。どうぞ冗談なさらずに着ける所へ着けておくんなさい」言葉の調子が町娘らしい。
「まあ姐さん、急(せき)なさんな。着ける所は眼の先だ。がその前にご相談、厭でも諾(き)いて貰わなけりゃあならねえ」こういったのは先棒であった。「おお後棒、もうよかろう。お前からじっくりいい聞かせてやんねえ」両膝を立ててうずくまり、腰の辺(あた)りを探ったのは、煙管(きせる)でも取り出そうとするのだろう。
 先棒は及び腰をして覗き込んだ。
「のう姐さん、もうおおかた、見当は着いているだろう。いかにも俺(おい)らは駕舁きだ。が、問屋場に腰掛けていて、いちいちお客様のお出でを待って、飛び出すような玉じゃあねえ。もうちっとばかり荒っぽい方だ。俺(おい)らは石地蔵の六といい、仲間は土鼠(もぐら)の源太といって、大した悪事もやらねえが、コソコソ泥棒、掻っ払い、誘拐(かどわか)しぐらいはやろうってものさ、さてそこでお前さんだが、品川から駕籠に乗んなすった時おりから深夜(よふけ)、女身一人、出歩こうとは大胆だが情夫(おとこ)にあいたいの一心から、家を抜け出して来たんだな、こう目星を付けたってものさ。で、先棒がいう事には、何も男の所まで、担いで行くにゃああたるめえ、大の男が二人まで、ここに揃っているのだからな。なるほど縹緻(きりょう)は悪かろう、肌だって荒いに違(ちげ)えねえ。いうまでもなく情夫(おとこ)の方が、やんわりと当るに違えねえ。だがそいつあ勘弁して貰い、厭でもあろうが俺(おい)ら二人を、亭主に持ってはくれまいか、ちょっくら相談ぶって見ようてな。もっとも厭だといったところでおいそれと、聞く俺らじゃあねえ。よくねえ奴らに魅入られたと、こう思って器用に往生しねえ」
「おおおお六やどうしたものだ。そう強面(こわもて)に嚇(おど)すものじゃねえ。相手は娘だジワジワとやんな」先棒の源太はかがんだまま、駕籠の中を覗き込んだ。
「ナアーニ姐さん心配しなさんな。外見はちょっと恐(こわ)らしいが、これも案外親切ものでね。お前さんさえ諾(うん)といったらそれこそ二人で可愛がって、堪能させるのは受け合いだ。が二人とも飽きっぽいんで、さんざっぱら可愛がったそのあげくには、千住(こつ)か、品川か、新宿で、稼いで貰わなけりゃあならねえかも知れねえ。だがマアそいつは後のことだ。差し詰めここで決めてえのは、素直に俺らの女房になるか、それとも強情に首を振るか、二つに一つだ。返辞をしねえ」
 駕籠の中からは返辞がなかった。どうやら顫えてでもいるらしい。と、ようやく声がした。
「まあそれじゃああなた方は、悪いお方でござんしたか」


    振り袖姿に島田髷

「さあね、大して善人じゃあねえ。だがこいつもご時世のためだ。こんな事でもしなかったら、酒も飲めず、魚(とと)も食えず、美婦(たぼ)も自由(まま)にゃあ出来ねえってものよ。恨むなら田沼様を恨むがいい」
「厭だと妾(わたし)が首を振ったら?」「二人で手籠めにするばかりさ」「もしも妾が声を立てたら?」「猿轡(さるぐつわ)をはめちまう。だがもし下手にジタバタすると、喉笛に手先がかかるかもしれねえ。そうなったらお陀仏だ」「それじゃあ妾は殺されるの?」「可哀そうだがその辺だ」「死んじゃあ随分つまらないわね」「あたりめえだあ、何をいやがる」
 女の声はここで途絶えた。
「それじゃあ妾はどんなことをしても、遁(の)がれることは出来ないんだね。仕方がないから自由(まま)になろうよ」
「へえ、そうかい、こいつあ偉い。ひどく判りのいい姐(ねえ)さんだ」
「だがねえ」と女の声がした。「見ればあなた方はお二人さん、妾の体はただ一つ、二人の亭主を持つなんて、いくら何んでも恥ずかしいよ。どうぞ二人で籤(くじ)でも引いて、勝った方へ、体をまかせようじゃないか」
「なるほどなあ、こいつあ理だ。六ヤイ手前どう思う」
「そうよなあ」と気のない声で「俺(おい)らがきっと勝つのなら、籤を引いてもよいけれどな」
「そいつあこっちでいうことだ。おいどうする引くか厭か?」「どうも仕方がねえ引くとしよう。せっかく姐さんのいうことだ。逆らっちゃあ悪かろう」「よしそれじゃあ松葉籤(まつばくじ)だ。長い松葉を引いた方が姐さんの花婿とこう決めよう」
 源太は頭上へ手を延ばし、松の枝から葉を抜いた。
「さあ出来た。引いたり引いたり」「で、どちらが長いんだい?」「冗談いうな、あたぼうめ、そいつを教えてなるものか。ふふん、そうよなあ、こっちかも知れねえ」「へん、その手に乗るものか。こいつだ、こいつに違えねえ」
 六蔵は松葉をヒョイと抜いた。
「あっ、いけねえ、短けえや!」
「だからよ、いわねえ事じゃねえ、こっちを引けといったんだ」
 源太は駕籠へ飛びかかった。「おお姐さん、婿は決まった」駕籠へ腕を差し込んだ。「恥ずかしがるにゃあ及ばねえ、ニッコリ笑って出て来ねえ」
 グイと引いた手に連れて、若い娘がヨロヨロと出た。頭上を蔽うた森の木の梢をもれて、月が射した。板高く結った島田髷、それに懸けられた金奴(きんやっこ)、頸細く肩低く、腰の辺りは煙っていた。紅色(べにいろ)勝った振り袖が、ばったりと地へ垂れそうであった。
「可愛いねえ、お前さんかえ、源さんや。花婿や」キリキリと腕を首へ巻いた。「さあ行こうよ、お宿へね」源太をグイと引き付けた。
「痛え痛え恐ろしい力だ。まあ待ってくれ、呼吸(いき)が詰まる」源太は手足をバタバタさせた。
「意気地(いくじ)がないねえ、どうしたんだよ。やわい[#「どうしたんだよ。やわい」は底本では「どうしたんだよ。やわい]じゃあないかえ、お前さんの体は。ホッ、ホッ、ホッ、ホッ、手頼(たよ)りないねえ」源太の首へ巻いた手を、グーッと胸へ引き寄せた。
「む――」と源太は唸ったが、ビリビリと手足を痙攣(けいれん)させた。と、グンニャリと首を垂れた。
 手を放し、足を上げ、ポンと娘は源太を蹴った。一団の火焔の燃え立ったのは、脛に纏った緋の蹴出(けだ)しだ。
「化物(ばけもの)だあァ!」と叫ぶ声がした。石地蔵の六が叫んだのであった。
 息杖を握ると飛び込んで来た。と、娘は入り身になり、六蔵の右腕をひっ掴んだ。と、カラリと息杖が落ちた。「ワ――ッ」と六蔵は悲鳴を上げた。とたんにドンと地響きがした。六蔵の体が地の上へ潰された蟇(がま)のようにヘタバった。寂然(しん)と後は静かであった。常夜燈の灯がまばたいた。ギー、ギーと櫓を漕ぐ音が、河の方から聞こえて来た。


    怪しの家怪しの人々

 クルリと娘は拝殿へ向いた。ポンポンと二つ柏手(かしわで)を打った。それからしとやかに褄(つま)を取った。と、境内を出て行った。
 社の蔭に身を隠し、様子を見ていた弓之助は、胆を潰さざるを、得なかった。
「素晴らしい女もあるものだ。どういう素性の女だろう? ……待てよ、島田に大振り袖! ……ううむ、何んだか思いあたるなあ。一番後を尾行(つけ)て見よう」
 数間を隔てて後を追った。浅草河岸を花川戸の方へ、引っ返さざるを得なかった。女はズンズン歩いて行った。月の光を避けるように、家の軒下を伝って歩いた。遠くで犬が吠えていた。人の子一人通らなかった。隅田川から仄白(ほのしろ)い物が、一団ムラムラと飛び上がった。が、すぐ水面へ消えてしまった。それは鴎(かもめ)の群れらしかった。女は急に立ち止まった。そこに一軒の屋敷があった。グルリと黒塀が取りまいていた。一本の八重桜の老木が、門の内側から塀越しに、往来の方へ差し出ていた。満開の花は綿のように白く団々と塊(かた)まっていた。女は前後を見廻した。つと弓之助は家蔭に隠れた。女は門の潜り戸へ、ピッタリ身体をくっ付けた。それから指先で戸を叩いた。と、中から声がした。
「おい誰だ。名を宣(なの)れ」
「俺だよ、俺だよ、勘助だよ」
「うむそうか、女勘助か」
 ギ――と潜り戸があけられた。女の姿は吸い込まれた。八重桜の花がポタポタと散った。
 弓之助は思わず首を傾(かし)げた。「何んとかいったっけな、女勘助? ……では有名な賊ではないか」
 その時往来の反対(むこう)の方から、一つの人影が近付いて来た。月光が肩にこぼれていた。浪士風の大男であった。大髻(おおたぶさ)に黒紋付き、袴無しの着流しであった。しずしずこっちへ近寄って来た。例の家の前まで来た。と、潜り戸へ体を寄せた。それから指でトントンと叩いた。
「何人でござるな、お宣(なの)りくだされ」すぐに中から声がした。
「紫紐(むらさきひも)丹左衛門」
 すると潜り戸がギーと開いた。浪士の姿は中へ消えた。同時に潜り戸が閉ざされた。
 とまた一つの人影が、ポッツリ月光に浮き出した。博徒風の小男であった。心持ち前へ首を傾げ、足先を見ながら歩いて来た。急に人影は立ち止まった。例の屋敷の門前であった。ツと人影は潜り戸へ寄った。同じことが繰り返された。指先で潜り戸をトントンと打った。
「誰だ誰だ、名をいいねえ」
「新助だよ、早く開けろ」
「稲葉の兄貴か、はいりねえ」
 潜り戸が開き人影が消え、ふたたび潜り戸がとざされた。
 その後はしばらく静かであった。
 またもその時足音がした。足駄と草鞋(わらじ)との音であった。忽ち二つの人影が、弓之助の前へ現われた。その一人は旅僧であった。手甲(てっこう)、脚絆(きゃはん)、阿弥陀笠(あみだがさ)、ずんぐりと肥えた大坊主であった。もう一人の方は六部であった。負蔓(おいずる)を背中にしょっていた。白の行衣を纏っていた。一本歯の足駄を穿いていた。弓之助の前を通り過ぎ、例の屋敷の門前まで行った。ちょっと二人は囁き合った。ツと旅僧が潜り戸へ寄った。指でトントンと戸を打った。すぐに中から声がした。
「かかる深夜に何人でござるな?」
「鼠小僧外伝だよ」
 つづいて六部が忍ぶようにいった。
「俺は火柱夜叉丸(ひばしらやしゃまる)だ」
 例によって潜り戸が、ギ――と開いた。二人の姿は吸い込まれた。ゴトンと鈍い音がした。どうやら閂(かんぬき)を下ろしたらしい。サラサラサラサラと風が渡った。ポタポタと八重桜の花が落ちた。そのほかには音もなかった。


    ガラガラと飛び出した四筋の鎖

 闇に佇んだ弓之助は、考え込まざるを得なかった。「女勘助、紫紐丹左衛門、稲葉小僧新助、火柱夜叉丸、それからもう一人鼠小僧外伝、これへ神道徳次郎を入れれば、江戸市中から東海道、京大坂まで名に響いた、いわゆる天明の六人男だ。ううむ偉い者が集まったぞ。ははあそれではこの屋敷は、彼奴(きゃつ)ら盗賊の集会所だな。いやよいことを嗅ぎ付けた。叔父へ早速知らせてやろう。一網打尽、根断やしにしてやれ」
 スルスルと彼は家蔭を出た。
「いやいや待て待て、考え物だ。これから叔父貴の屋敷へ行き、事情を語っているうちには、夜が明けて朝になる。せっかくの獲物が逃げようもしれぬ。逃がしてしまってはもったいない。ちょっとこいつは困ったなあ」彼ははたと当惑した。
「気にかかるのは女勘助だ。島田髷に大振り袖、美人の装いをしていたが、大奥の後苑へ現われて、上様を誘拐したという、その女も島田髷、振り袖姿だということである。……関係(つながり)があるのではあるまいかな? ……いよいよ此奴(こやつ)は逃がせねえ。うむそうだ踏み込んでやろう。有名(なうて)の悪漢(わるもの)であろうとも、たかの知れた盗賊だ。掛かって来たら切って捨て、女勘助一人だけでも、是非とも手擒(てどり)にしてやろう」
 彼は剣道には自信があった。それに彼は冒険児であった。胸に出来ている塊(かたまり)を、吐き出したいという願いもあった。どぎった事をやってみたい。こういう望みも持っていた。
 彼は潜り戸へ身を寄せた。それから彼らの真似をして、指でトントンと戸を打った。中は森閑と静かであった。人のいるような気勢もなかった。彼は塀へ手を掛けた。ヒラリと上へ飛び上がった。腹這いになって窺(うかが)った。眼の下に小広い前庭(にわ)があり、植え込みが飛び飛びに出来ていた。その奥の方に主屋があった。どこにも人影は見えなかった。で弓之助は飛び下りた。植え込みの蔭へ身を隠し、さらに様子を窺った。やはりさらに人気(ひとけ)はなかった。玄関の方へ寄って行った。戸の合わせ目へ耳をあて、家内の様子を窺った。無住の寺のように寂しかった。試みに片戸を引いてみた。意外にも、スルリと横へ開いた。「これは」と弓之助は吃驚(びっくり)した。「いやこれはありそうなことだ。泥棒の巣窟(すみか)へ泥棒が忍び込む気遣いはないからな、それで用心しないのだろう」彼は中へはいって行った。玄関の間は六畳らしく燈火(ともしび)がないので暗かった。隣室と仕切った襖があった。その襖へ体を付けた。それからソロソロと引き開けた。その部屋もやはり暗かった。十畳あまりの部屋らしかった。隣室と仕切った襖があった。その襖をソロソロと開けた。燈火(ともしび)がなくて暗かった。全体が手広い屋敷らしかった。しかも人影は皆無であった。どの部屋にも燈火がなかった。一つの部屋の障子を開けた。そこに一筋の廻廊があった。その突きあたりに別軒(べつむね)[#ルビの「べつむね」は底本では「べねむね」]があった。離れ座敷に相違ない。廻廊伝いにそっちへ行った。雨戸がピッタリ締まっていた。その雨戸をそっと開けた。仄明(ほのあか)るい十畳の部屋があった。隣り部屋から漏れる燈が部屋を明るくしているのであった。弓之助はその部屋へはいった。隣り部屋の様子を窺った。やはり誰もいないらしい。思い切って襖を開けた。はたして人はいなかった。机が一脚置いてあった。そうしてその上に紙があった。紙には文字が記されてあった。

川大丁首(せんだいていしゅ)

 こう書いてあった。
「はてな、どういう意味だろう?」
 で、弓之助は首を傾げた。突然ガチャンと音がした。部屋の片隅の柱の中から、鎖が一筋弧を描き弓之助の方へ飛んで来た。右手を上げて打ち払った。キリキリと手首へまきついた。「しまった!」と呻いたそのとたん、反対側の部屋の隅、そこの柱の中央から、またもや鎖が飛び出して来た。キリキリと左手へまきついた。またもや鎖の音がした。もう一本の柱から、同じように鎖が飛び出して来た。それが弓之助の胴をまいた。ともう一本の柱から、またもや鎖が飛び出して来た。それが弓之助の足をまいた。四筋の鎖にまき縮(すく)められ、弓之助はバッタリ畳へ仆れた。身動きすることさえ出来なかった。
 だが屋敷内は静かであった。咳(しわぶき)一つ聞こえなかった。行燈(あんどん)の燈(ひ)は光の輪を、天井へボンヤリ投げていた。どうやら風が出たらしい、裏庭で木の揺れる音がした。……いつまで経っても静かであった。人の出て来る気勢もなかった。
「どうもこいつは驚いたなあ」心が静まるに従って、弓之助の心は自嘲的になった。「人間を相手に切り合うなら、こんな不覚は取らないのだが、鎖を相手じゃあ仕方がない。……これは何んという戦法だろう? とにかくうまいことを考えついたものだ。敵ながらも感心感心。……といって感心していると、どんな酷(ひど)い目に合うかもしれない。さてこれからどうしたものだ。どうかして鎖を解きたいものだ」
 彼は体を蜒(うね)らせた。鎖が肉へ食い込んだ。


    恋文を書く銀杏茶屋のお色

「痛え痛え、おお痛え。滅多に体は動かせねえ。莫迦にしていらあ、何んということだ。仕方がねえから穏(おとな)しくしていよう。……だがそれにしても泥棒どもは、どこに何をしているのだろう? 姿を見せないとは皮肉じゃあないか。ひどく薄っ気味が悪いなあ。これじゃあどうも喧嘩にもならねえ。……考えたって仕方がねえ。もがくとかえってひどい目を見る。おちついて待つより仕方がねえ、うんそうだ、こんな時には、何かで心を紛らせるがいい。紙に書かれた『川大丁首』よしこの意味を解いてやろう」そこで彼は考え出した。だがどうにもわからなかった。「こんな熟字ってあるものじゃねえ。川は川だし大は大さ。丁は丁だし首は首だ。音で読めば川大丁首(せんだいていしゅ)。川大にして丁(わかもの)の首? こう読んだって始まらねえ。……こいつ恐らく隠語なんだろう」
 依然屋敷は静かであった。

 銀杏茶屋のお色は奥の部屋で、袖垣をして恋文(ふみ)を書いていた。まだ春の日は午前であった。店の客も少なかった。部屋の中は明るかった。春陽が丸窓へ射していた。小鳥の影が二三度映った。彼女は大分ご機嫌であった。顔の紐が解けていた。頬にこっぽりした笑靨(えくぼ)が出来うっかり指で突こうものなら指先が嵌(は)まり込んで抜けそうもなかった。彼女はひどく嬉しいのであった。千代田城中に大事件が起こり、田沼主殿頭が狼狽し、お色を妾(めかけ)にすることなど、とても出来まいということを――もちろんハッキリといったのではないが、とにかくそういう意味のことを、田沼の家の用人から、今朝方知らせがあったからであったのみならず、養母に渡したところの、手附けの金は手附け流れ、返すに及ばぬということであった。で、養母もご機嫌であった。そこでお色はこの事情を、恋しい男の弓之助へ告げ、今日いつもの半太夫茶屋で、逢おうと巧(たく)んでいるのであった。
「恋しい恋しい」という文字や「嬉しい嬉しい」という文字も、目茶目茶に恋文(ふみ)へ書き込んだ。
「あらあらかしく、お色より、恋しい恋しい弓様へ」こう結んで筆を置いた。封筒へ入れて封じ目をし、さも大事そうに懐中(ふところ)へ入れた。それから他行(よそゆ)きの衣裳を着、それから店へ出て行った。
「ちょっとお母さん出て来てよ」
「さあさあどこへなといらっしゃい」長火鉢の前へ片膝を立て、お誂え通りの長煙管、莨(たばこ)を喫(ふ)かしていた養母のお兼(かね)は、黒い歯茎で笑ってみせた。「おやおや大変おめかしだね。ふふん、さてはあの人と……」
「いらざるお世話、よござんすよ」
「観音様へ参詣しお賽銭ぐらいは上げるだろうね」
「おや、そいつは本当だね」
 いい捨ててお色は戸外へ出た。プーッと春風が鬢を吹いた。で彼女は鬢を押さえた。プーッと春風が裾を吹いた。今度は前を抑えなければならない。「風さえ妾(わたし)を嬲(なぶ)っているよ」彼女はそこでニッコリとした。鳩がポッポと啼いていた。彼女の周囲へ集まって来た。
「厭だねえこの鳩は、邪魔じゃないか歩くのにさ」
 御堂の前で掌を合わせた。帯の間から銭入れを抜き、賽銭箱へお宝を投げた。
「どうも有難う、観音様。みんなあなたのご利益よ」
 で彼女は歩いて行った。
「何て今日はいい日なんだろう。みんな妾(わたし)に笑いかけているよ。何だか知らないが有難うよ」
 往来の人が囁(ささや)き合った。
「あれが評判のお色だよ」「どうでえどうでえ綺麗だなあ」「今日は取りわけ美しいぜ」
「はいはい皆さん有難うよ」彼女は笑って口の中でいった。
「でもね、皆さんお生憎(あいにく)さまよ、見せる人はほかにあるんですよ」


    逢ってくれない弓之助

 走り使いの喜介の家は、二丁目の露路の奥にあった。お色は煤けた格子戸を開けた。
「ちょいと喜介どん、頼まれて頂戴」
 菊石面(あばたづら)の四十男、喜介がヒョイと顔を出した。「へいへいこれはお色さん」
「これをね」とお色は恋文(ふみ)を出した。「いつもの方の所へね。……これが駕籠賃、これが使い賃、これが向こうのお屋敷の、若党さんへの心付け」
「これはこれはいつもながら。……お気の付くことでございます。……そこで益□ご繁昌」
「冗(むだ)をいわずと早くおいでな」
 喜介は門を飛び出した。お色は両国を渡って行った。「春の海終日(ひねもす)のたりのたり哉(かな)」……「海」を「河」に置き代えよう。「春の河終日のたりのたり哉」まさに隅田がそうであった。おりから水は上げ潮で河幅一杯に満々と、妊婦の腹のように膨れていた。荷足、帆船、櫂小船(かいこぶね)、水の面(おもて)にちらばっていた。両岸の家並が水に映り、そこだけ影がついていた。
「いい景色、嬉しいわね」お色は恍惚(うっとり)と河を見た。「まるでお湯のように見えるじゃあないの」――嬉しい時には何も彼も、水さえ湯のように見えるものであった。「おや都鳥が浮いているよ。可愛いわねえ、有難うよ」またお色は礼をいった。嬉しい時には有難く、有難い時には礼をいう。これは大変自然であった。そこでお色は橋を越した。まだ広小路は午前(おひるまえ)のことであんまり人が出ていなかった。それがまたお色には嬉しかった。芝居、見世物の小屋掛けからは、稽古囃しが聞こえて来た。
 横へ外(そ)れると半太夫茶屋で、ヒラリと渋染めの暖簾(のれん)を潜った。
「おやお色さん、早々と」女将(おかみ)が驚いて顔を長くした。眉を落とした中年増(ちゅうどしま)唇から真っ白い歯を見せた。
「さあお通り。……後からだろうね?」
 ヒョイと母指(おやゆび)を出して見せた。
「私今日は嬉しいのよ」お色はトンと店へ上がった。
「そうだろうね。嬉しそうだよ」
「うんとご馳走を食べるよ」
「家(うち)の肴で間に合うかしら」
「そうして今日は三味線をひくわ」
「一の糸でも切るがいいよ。身受けされるっていうじゃあないか」
「その身受けが助かったのよ」
 いつもの部屋へ通って行った。ちんまりと坐って考え込んだ。
「私あの人を嘗(な)め殺してやるわ」
 恐ろしいことを考え出した。
「逢い戻り! いいわねえ」――いいことばかりが考えられた。「初めてあの人と逢うようだわ」自分で自分の胸を抱いた。ちょうどあの人に抱かれたように。「だが何んだか心配だわ」今度は少し心配になった。「あの人何んておっしゃるだろう」これはちょっと問題であった。「のっけに私はこういうわ。もういいのよ。済んだのよ。お妾(めかけ)に行かなくってもいいのだわ」するとあの人おっしゃるかも知れない。「お色、大変気の毒だが、おれには他に情婦(おんな)が出来たよ」……厭だわねえ、困っちまうわ。彼女は本当に困ったように部屋の中をウロウロ見た。「おやこの部屋は四畳半だわ」毎々通る部屋だのに、彼女は初めて気が附いたらしい。「ああでもないと四畳半! いいわねえ。嬉しいわ」嬉しい方へ考えることにした。
「でも随分待たせるわねえ」
 まだ十分しか待たないのに。
 床に海棠(かいどう)がいけてあった。春山の半折(はんせつ)が懸かっていた。残鶯(ざんおう)の啼音(なきね)が聞こえて来た。次の部屋で足音がした。
「いらっしゃったか、やっとのこと」彼女は急いで居住居を直した。だが足音は引っ返した。
「莫迦にしているよ。人違いだわ」彼女はだんだん不機嫌になった。

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