銅銭会事変
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■暇つぶし何某■

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著者名:国枝史郎 

    女から切り出された別れ話

 天明六年のことであった。老中筆頭は田沼主殿頭(たぬまとのものかみ)、横暴をきわめたものであった。時世は全く廃頽期(はいたいき)に属し、下剋上の悪風潮が、あらゆる階級を毒していた。賄賂請託(わいろせいたく)が横行し、物価が非常に高かった。武士も町人も奢侈(おごり)に耽った。初鰹(はつがつお)一尾に一両を投じた。上野山下、浅草境内、両国広小路、芝の久保町、こういう盛り場が繁昌した。吉原、品川、千住(こつ)、新宿、こういう悪所が繋昌した。で悪人が跋扈(ばっこ)した。
 その悪人の物語。――
 梅が散り桜が咲いた。江戸は紅霞(こうか)に埋ずもれてしまった。鐘は上野か浅草か。紅霞の中からボーンと響く。こんな形容は既に古い。「鐘一つ売れぬ日はなし江戸の春」耽溺詩人其角(きかく)の句、まだこの方が精彩がある。とまれ江戸は湧き立っていた。人の葬式にさえ立ち騒ぐ、お祭りずきの江戸っ子であった。ましてや花が咲いたのであった。押すな押すなの人出であった。さあ江戸っ子よ飜筋斗(とんぼ)を切れ! おっとおっと花道じゃあねえ。往来でだ、真ん中でだ。ワーッ、ワーッという景気であった。

 その日情婦(おんな)から呼び出しが掛かった。若侍は出かけて行った。
 いつも決まって媾曳(あいびき)をする、両国広小路を横へ逸(そ)れた、半太夫茶屋へ足を向けた。
 女は先刻から待っていた。
 やがて酒肴が運び出され、愉快な酒宴が始められた。
 そうだいつもならこの酒宴は、非常に愉快な酒宴なのであった。
 この日に限って愉快でなかった。女の様子が変だからであった。ろくろく物さえいわなかった。下ばっかり俯向いていた。そうして時々溜息をした。
「おかしいなあ、どうしたんだろう?」若侍は気に掛かった。
 と、女が切り出した。別れてくれというのであった。
 これには若侍も面食らってしまった。で、しばらく黙っていた。
 不快な沈黙が拡がった。
「ふふん、そうか、別れようというのか」こう若侍は洞声(うつろごえ)で云った。
「余儀無い訳がございまして……」
 女の声も洞(うつろ)であった。
 また沈黙が拡がった。
「別れるというなら別れもしよう。だが理由(わけ)が解らないではな」
「どうぞ訊かないでくださいまし」女は膝を手で撫でた。
「どうもおれにはわからない。藪から棒の話だからな」若侍は嘲けるようにいった。相手を嘲けるというよりも、自分を嘲けるような声であった。「では今日が逢い終(じま)いか。ひどくさばさばした別れだな。いやその方がいいかもしれない。紋切り型で行く時は、泣いたり笑ったり手を取ったり、そうでなかったらお互いに、愛想吐(づ)かしをいい合ったり、色々の道具立てが入るのだが、手数がかかり時間がかかりその上後に未練が残り、恨み合ったり憎んだり、詰まらないことをしなければならない。そういうことはおれは嫌いだ。いっそ別れるならこの方がいい。女の方から切り出され、あっさりそれを承知する。アッハッハッ新しいではないか」
 決して厭味でいうのではなかった。それは顔色や眼色で知れた。本当にサラリとした心持ちから、そう若侍は言っているのであった。
「そうと話が決まったら、今日だけは気持ちよく飲ましてくれ」
 若侍は盃を出した。女は俯向いて泣いていた。
「おや、どうしたのだ、泣いているではないか。おれは虐(いじ)めた覚えはない。虐められたのはおれの方だ。虐めたお前が泣くなんて、どう考えても不合理だなあ」まさに唖然とした格好であった。「ははあ解った、こうなのだろう。あんまりおれが手っ取り早く、別れ話を諾(き)いたので、それでお前には飽気(あっけ)なく、やはり月並の別れのように、互いに泣き合おうというのだろう。だがそいつは少し古い。それもお前が娘なら、うん、初心(うぶ)の娘なら、そういう別れ方もいいだろう。ところがお前は娘とはいえ、浅草で名高い銀杏(いちょう)茶屋のお色、一枚絵にさえ描かれた女だ。男あしらいには慣れているはずだ。お止しよお止しよそんな古手はな。……おや、やっぱり泣いているね。いよいよ俺には解らなくなった。ははあなるほど、こうなのだろう。あんまり気前よく承知したので、気味が悪いとでもいうのだろう。そこでいわゆる化粧泣き、そいつで機嫌を取り結び、後に祟りのないように、首尾よく別れようというのだろう。もしそうならおれは怒る!」
 若侍は睨むようにした。


    恋敵は田沼主殿頭

「というのは他でもない。おれとお前とは二年越し、馴染(なじみ)を重ねた仲だのに、あんまり心持ちが判らなさ過ぎるからよ」いっている間にも若侍の顔には自嘲の色が浮かんでいた。「アッハッハッハッ違うかな。いや違ったらご勘弁、こいつ器用に謝(あや)まってしまう。とはいえそうでも取らなかったら、他にとりようはないじゃあないか。二人の間にはこれといって、気不味(きまず)いこともなかったのに別れ話を切り出され、しかも理由は訊くなという。ちょっと廻り気も起ころうってものさ」
 じっと女の様子を見た。女は顔を上げなかった。耳髱(みみたぶ)がブルブル顫(ふる)えていた。色がだんだん紅くなった。バッチリ噛み切る歯音がした。鬢の垂れ毛を噛み切ったらしい。
 若侍は徳利を取った。自分の盃へ注ごうとした。その手首を握るものがあった。焔(も)えるような女の手であった。
「わたしは買われて行くのです」女は突然ぶっ付けるようにいった。「それをあなたは暢気(のんき)らしく、笑ってばかりおいでなさる」
「何、買われて行く? 吉原へか?」
「女郎ならまだしもよござんす。妾(めかけ)に買われて行くのです」
「うむ、そうして行く先は?」
「はい、あなたの大嫌いな方」
「おれには厭な奴が沢山ある。人間はみんな嫌いだともいえる」
「一人あるではございませんか。とりわけあなたの嫌いな人が」
「なに、一人? うむ、いかにも。が、それは大物だ」
「そのお方でございます」
「老中筆頭田沼主殿頭!」
「はい、そうなのでございます」
「それをお前は承知したのか?」
「お養母様(かあさま)が大金を。……」
「うむ、田沼から受け取ったのだな?」
「妾(わたし)の何んにも知らないうちに。……用人とやらがやって来て。……」
 若侍は立ち上がった。だがまたすぐに坐ってしまった。
「よくある奴だ。珍らしくもない。ふん。金持ちの権勢家、業突張(ごうつくば)りの水茶屋養母、その犠牲になる若い娘、その娘の情夫(いろおとこ)。ちゃんと筋立てが出来てらあ、物語の筋にある奴よ。今までは草双紙で読んでいたが、今日身の上にめぐって来たまでさ。泣くな泣くな何を泣きゃあがる」

 翌日弓之助は軽装をして、三浦三崎へ出かけて行った。千五百石の安祥旗本、白旗小左衛門の次男であって、その時年齢二十三、神道無意流の大先生戸ヶ崎熊太郎の秘蔵弟子で、まだ皆伝にはなっていなかったが、免許はとうに通り越していた。武骨かというに武骨ではなく、柔弱に見えるほどの優男(やさおとこ)。そうして風流才子であった。彼は文学が非常に好きで、わけても万葉の和歌を愛した。で今度の三崎行も西行を気取っての歌行脚(うたあんぎゃ)であった。が、これは表面(おもてむき)で、お色と別れた寂しさを、まぎらそうというのが真相であった。途中で悠々一泊し、その翌日三崎へ着いた。半漁半農の三崎の宿は、人情も厚ければ風景もよかった。小松屋というのへ宿まることにした。海に面した旅籠屋であった。
「五、六日ご厄介になりますよ」「へえへえ、有難う存じます」
 その翌日から弓之助は、懐中硯(ふところすずり)と綴(つづ)り紙を持って、四辺(あたり)の風景を猟(あさ)り廻った。


    銅銭会茶椀陣

 しかしよい歌は出来なかった。別れた女のことばかりが、胸のうちにこだわっていた。もちろん女と別れたことも、彼には随分寂しかったが、その女を取った者が、田沼主殿頭だということが、一層彼には心外であった。というのはほかでもない、彼の父なる小左衛門が、わずか式第の仕損(しそこな)いから主殿頭に睨まれて役付いていた鍵奉行から、失脚させられたという事が、数ヵ月前にあったからであった。
「側御用人の小身から、将軍家に胡麻(ごま)を磨り老中に上がって七万七千石、それで政治の執り方といえば上をくらまし下を搾取、ろくなことは一つもしない。憎い奴だ悪い奴だ」これが彼の心持ちであった。
「一向三崎も面白くないな。どれそろそろ帰ろうか」
 空の吟嚢を胸に抱き、弓之助は江戸へ引っ返した。
 最初の予定が五、六日、それを二日で切り上げたのであった。

 ある日弓之助は屋敷を出た。上野の方へ足を向けた。花の盛りは過ぎていたが、上野山下は景気立っていた。茶屋女が美しいので、近ごろ評判の一葉(は)茶屋で、弓之助は喉を濡らすことにした。
 女が渋茶を持って来た。ふと見ると弓之助の正面に、一人の老武士が腰かけていた。雪白の髪を総髪に結んだ、無髯(むぜん)童顔の威厳のある顔が、まず弓之助の眼を惹いた。左の眉毛の眉尻に、豌豆ほどの黒子(ほくろ)があった。
「はてな?」と弓之助は呟いた。武士の眼使いが変だからであった。顔を正面に向けながら、瞳だけをそっと眼角へ送り、じっと何かを見ているのであった。他人に気取られずに物を見る。――こういう見方で見ているのであった。「これはおかしい」と思いながら、老人の瞳の向いている方へ、弓之助はこっそり眼をやった。そっちに小座敷が出来ていた。そこに二人の町人がいた。その一人のやっている事が、弓之助の心をちょっとそそった。茶飲み茶椀と土瓶とで、変な芸当をしているのであった。茶椀の数は十個あった。しかし土瓶は一個しかなかった。その十個の茶飲み茶椀を、ある時はズラリと一列に並べある時はタラタラと二列に並べ、または方形にまたは弧形に、そうかと思うと向かい合わせたりした。そのつど土瓶の位置が変わった。非常に手早くやるのであった。いったい何をしているのだろう? そうやって遊んでいるのだろうか? 座敷の隅で、チビチビ酒を飲んでいた。見ているような見ていないような、不得要領な眼使いを一人の町人はして、茶椀の変化へ眼を付けていた。二人は懇意の仲とも見え、また全くの他人とも見えた。そういう不思議な茶椀の芸当が、しばらくの間繰り返された後、二人の町人は茶屋を出た。ややあって老武士が編笠を冠(かぶ)った。
「銅銭会の茶椀陣」こう老武士は呟くようにいった。それから茶屋を出て行った。
「銅銭会の茶椀陣」老人の言葉をなぞって見たが、弓之助には意味がわからなかった。しかし何んとなく心に掛かった。意味を確かめて見たかった。そこで老武士の後を追った。
 もうそれは夕暮れであった。
◇ピンチです!◇
★暇つぶし何某★

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