十二神貝十郎手柄話
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著者名:国枝史郎 

「同心めいた二人の侍が、後からあわただしく追っかけて来て、館林のお殿様が仰せられた、『ままごと』と献上箱とは神田神保町の、十二神(オチフルイ)貝十郎の邸まで、予定を変えて運んで行くように、と、こう私達に、云いましたので、そこで私達はその通りにしました。と手下(あいつ)ら云うじゃアございませんか、……ところがお殿様に承われば、そんなご命令はなかったとの事、やくざな奴らでございますよ、私の手下ながらあいつらは! 肝心な二品を横取られてしまって」
 女勘助の手下達が、へまをやったことを女勘助が、館林様へ詫びているのであった。
「十二神(オチフルイ)貝十郎は与力の中では、風変わりの面白い奴だ。そこの邸へ運んで行ったのなら、まあそれでもよいだろう」
 館林様は案外平然と、怒りもせずにそんなように云った。
「今度の仕事には間接ではあるが、最初から十二神(オチフルイ)貝十郎が、関係をしていたのだからな」
「それはさようでございますとも」
 易者姿をした神道徳次郎が云った。
「田沼の邸前で私達が、ままごと狂女達を雨やどりしながら、何彼と噂をしているのを、あの貝十郎が少し離れた所から、同じように眺めておりまして、大分考えていた様子でしたから、何かやるなとこのように思い、外伝に云いつけて後をつけさせますと、山大という指物店へはいり、『ままごと』のことを訊ねましたそうで、外伝も後からはいって行って訊くと、一月の十五日に『ままごと』を一個、松本伊豆守へ納めるとのこと。……早速お殿様へお知らせすると、『ままごと』を奪ってすり換えろというお言葉、その結果が今夜になりましたので。……貝十郎というあの与力が、最初から関係していたものと、こう云えばこうも申せますとも」
「これは偶然からでありますが。……」女勘助が笑いながら云った。「私は女の姿をしていながら、美しい女が好きなので、水茶屋『東』のお品の顔を見たく、度々あの家へ行っているうちに、お品の顔がお篠に似ていることや、お品の情夫(まぶ)が旗本の伜の小糸新八郎だということや、お品が松本伊豆守に、引き上げられたということなどを知って、これはてっきり伊豆守から、献上箱の人形として、田沼のもとへ届けるなと感付き、気の毒だなあと思いました。ところが今夜その新八郎が、道を歩いておりましたので、言葉をかけて誘って、私達の後からつけて来させましたが、今頃どうしておりますことやら」
「田沼め、『ままごと』や献上箱を、邸の内でひらいて見て、どんな顔をすることか、その顔が見とうございます」
 こう云ったのは僧侶に扮した、鼠小僧外伝であった。
「ご馳走の代わりにむさい物が、しこたま詰められてあるのだからなあ」
 こう云ったのは、六部姿をした、火柱の夜叉丸その者であった。
「酒の代わりにあれなんだからなあ」
 こう云ったのは破落戸(ならずもの)に扮した、稲葉小僧新助であり、
「献上箱の中の人形が、飛んだ爺(おやじ)の人形なんだからなあ」
 こう云ったのは紫紐丹左衛門で、武骨な侍の姿をしていた。
「それより人形の持っている、あの書物を田沼が見た時、どんなに恐れおののくことか、それを私は知りたいような気がする」館林様はこう云いながら、盃を含んで微笑した。「田沼退治はこれからだ。次々に彼奴(きゃつ)を怯(おびや)かさなければならない。……だんだんに彼奴の罪悪を、彼奴と世間とへ暴露しなければならない。……暴露戦術というやつがある。大金持ちや権謀術数で、権勢を握っている為政者などを、亡ぼしたり改心させたりするには、一番恰好の戦術だ。一方では心胆を寒がらせ、一方では世間の正しい批評を、仰がせることに役立つのだからだ」

 田沼家へ行った『ままごと』の中には、何がはいっていたのであろうか?
 要するにむさい物であって、飲めも食べも出来ないものであった。では、献上箱にはいっていた物は? 田沼主殿頭その人を、さながらに作った人形であって、しかもその胸には短刀が刺してあり、手には斬奸状が持たされてあった。
 一、その方屋敷内の儀、格別の美麗を尽くし、衣食並びに翫木石に至るまでも、天下比類なき結構にて、居間長押(なげし)釘隠し等は、金銀無垢にて作り、これは銀座の者どもより、賄賂として取り候ものの由、不届き至極。
 二、諸大名官位の儀は、天聴へ奏達も有之(これあり)、至って重き儀に御座候処(そうろうところ)、金銀をもって賄賂すれば、容易く取り持ち、世話仕候不届き至極。
 三、近年詮挙進途の権家は、皆その方親族の者ばかりにて、その方の召使いの妾等を願望の媒(なかだち)となし、度々登城仕らせ、殊に数日逗留、その節莫大の金帛相い贈り、内外の親睦を結び置き候儀、不届き至極。
 四、諸事倹約と申す名目を立て、自己のみ奢り、上を虐げ、下を搾取す。不届き至極。
 等々と云ったような条目が、斬奸状には連らねてあった。

 二月が来て春めいた。隅田川に沿った茶屋の奥の部屋で、お品と新八郎とが媾曳(あいび)きをしていた。
「お品、こいつを着けてやろうか」
 新八郎は鉄で作った、刺(とげ)のある不気味の貞操帯を揺すった。
「阿呆らしい」
 とお品は一蹴してしまった。
「そんなもの嫌いでございます」
「お品、こいつを冠せてやろうか」
 新八郎は驢馬仮面を撫でた。
「馬鹿らしい」
 とお品は一蹴してしまった。
「男に冠せるとようございますわ」
「御意(ぎょい)で」
 と男の新八郎は云った。
「こういう刑罰の道具類や、こういう節操保持の機械は、女から男へ進呈すべきものさ。……悪事は男がしているのだからなあ」
「浮世は逆さまでございますわね」
「御意で」
 と新八郎は早速応じた。
「浮世は逆さまでございますとも。そこで大変息苦しい。そこで当分貝十郎式に、韜晦(とうかい)して恋にでも耽るがよろしい」
「でも、勇気がございましたら。……」
「あ、待ってくれ、勇気なんてものは、館林様にお任せして置け。……勇気なんてものを持とうものなら、お前となんか交際(つきあ)う代わりに、ああいう六人の無頼漢どもと、交際(つきあ)わなければならないことになる……」
「では、勇気なんか、棄ててしまいましょう」
 あわててお品は勇気をすててしまった。
 で、二人は幸福なのであった。
 で、二人は平和なのであった。

    現妖鏡


        一

 浅草の境内で、薬売りの藤兵衛が喋舌(しゃべ)っていた。
「さあお立ち合いお聞きなされ。ここに素晴らしい薬がある。甲必丹(キャピタン)カランス様が和蘭(オランダ)の国から、わざわざ持って来た霊薬で、一粒飲めば神気が爽か! 二粒飲めば体力が増す。三粒四粒と毎日飲めば、女が一人では足りなくなる。つまり精力が逞(たくま)しくなるのだ。一月つづけて飲んで見なされ、妾を三人も囲いたくなる。生の活力、楽しみの泉、大きな事業を行う源! この薬に如(し)くものはない! 負けてやるから沢山お買い。十粒入りが一両とはどうだ! 何高い? 高いものか! 一粒十両でも安いくらいだ。とは云え大道商いだ、両という値は立てがたかろう。よろしいよろしい負けてやろう、十粒入りを一分にしてやろう。ナニこれでも高いというのか、どうも仕方がないもう少し負けよう、二十粒入り一朱とはどうだ! 何、何んだって、まだ高いって? これは呆れて物が云えない! 楽しみの泉のこの薬が、そうそう安くてたまるものか! とは云え大道商いだ、安く踏まれるのは仕方あるまい。同じ品物でも玄関構えの、ご大層もないお屋敷の中で、取り引きをする段になると、十倍百倍になる世の中だからなあ。とかく虚飾が勝つ時世だ、そういう時世での大道商い、踏み倒されるのは当然だろうて。そこでよろしい悟りをひらいて、ぐっと下値(げじき)に売ることにしよう。二十粒入り十文とはどうだ! もう負けないぞ買ったり買ったり! ……や、それはそうと大変なお方が、お立ち合いの中に雑(まじ)っておられる。日本橋の大町人、帯刀をさえも許されたお方、名は申さぬが屋号は柏屋、ただしご主人は逝くなられた筈だ! お気の毒にもお母様にも、二年前に逝くなられた筈だ! その柏屋の一人娘、これもお名前は云わぬ方がよかろう! ナーニ構うものか云ってしまえ! さようお島様と云われる筈だ! そのお島様が雑っておられる! 顔色がお悪い! ご病気だからだ! お眼が悲しげにすわっておられる! お心に悶えがあられるからだ! ……大家のお嬢様であられるのに、お供も連れられずたったお一人で、悪漢(わる)や誘拐師(かどわかし)がうろついている、夕暮れ時の盛り場などへ、どうしてお越しになったのか? 思案に余ったからであろう! 途方に暮れられたからであろう! ごもっとも様でご同情します! 奇病! 奇病! 何んとも云えない奇病に、取りつかれておいでなされるからだ。……そこで藤兵衛は申し上げます、浅草を出て品川まで、すぐにもお出かけなさいませ! 助けるお方が出て参りましょう! 途中に変わったことがあっても、行った先に変わったことがあっても、決して恐怖(おそれ)なさいますな、救いの前には艱難(かんなん)があり、安心の前には恐怖があるもので! さあさあお出かけなさいませ! 一人の立派なお武家様が、蔭身(かげみ)に添ってあなた様を、お守りなさるでございましょうよ」
 藤兵衛を取り巻いて二十人あまりの、閑そうな人間が立っていた。そういう人達に立ち雑って、お島がやはり立っていた。
 年は十九、美人であった。藤兵衛のお喋舌りが終えると一緒に、お島はフラフラと歩き出した、浅草の境内から誓願寺通りへ抜け、品川の方へ歩いて行く。神田の筋へ来た頃には、町へ灯火が点きはじめた。
 身長(せい)は高かったが痩せていた。苦痛のために痩せたものらしい。眼が眼窩の奥にあった。苦痛のために窪んだのであろう。瞳が曇って力なげであった。歩く足もとが定まらない。放心したように歩いて行く。――これがお島の姿であった。
 ふとお島は振り返って見た。と、一人の侍が、彼女の背後(うしろ)から歩いて来ていた。
(薬売りの言葉は嘘ではなかった)
 そう思ってお島は安心した。
(では一切あの男の言葉を、妾(わたし)は信用することにしよう)
 彼女は溺れかかっているのであった。藁(わら)をさえ掴まなければならないのであった。藤兵衛の言葉は藁と云ってよかった。
 ――どうして自分の身の上と、どうして自分の心の苦痛と、どうして自分の病気のこととを、あの薬売りは知っているのであろう? ……これが彼女には不思議であった。
 不思議ではあったがどうでもよかった。あの男が妾を救ってくれるのなら。で彼女は云われるままに、品川へ行こうとしているのであった。一人の立派なお武家様が、蔭身(かげみ)に添ってあなた様を、お守りなさるでございましょうと、こうあの薬売りの男が云った。
 侍が背後(うしろ)から従(つ)いて来ていた。その立派なお武家様なのであろう。彼女は今安心していた。

        二

 京橋の中ほどまで来た時である、彼女はすっかり疲労(つか)れてしまった。こんなに歩いたことがないからである。彼女はだるそうに足を止めた。
 と、彼女の左側に、一挺の駕籠が下ろされた。そこで彼女は振り返って見た。侍が手を上げて駕籠を指している。で、彼女は安心して、駕籠の中へ身を入れた。
 こうしてお島を乗せた駕籠が、三月の月に照らされながら、品川の方へ揺れて行く後から、袴なしの羽織姿の、その立派な侍が、大して屈托もなさそうに、しかし前後に眼を配って、油断を見せずに従いて行った。
 芝まで行った時であった、そこの横町から一人の旅僧が、突然現われて駕籠へ寄ろうとした。
「これ!」と侍が声をかけた。
 旅僧はギョッとした様子であったが、何も云わずに後へ下がった。その間に駕籠と侍とは、先へズンズン進んで行った。
 と、また横町から無頼漢のような、一人の男が飛び出して来た。
「これ!」
 とたったそれだけであった。駕籠と侍とは先へ進んだ。しかしまたもや横町があって、そこの入り口へまで差しかかった時、一人の武士と売卜者(うらないしゃ)とが、駕籠の行く手を遮(さえぎ)るようにして、その入り口から走り出た。
「これ!」と侍は声をかけた。「駕籠へさわるな! 俺を知らぬか! ……思うに恐らく今度の事件には『館林様』はご関係あるまい! やり方があまりに惨忍に過ぎる!」
 武士と売卜者とは黙っていた。その間に駕籠と侍とは進んだ。その駕籠と侍との遠退くのを、四人の者は一つに塊(かた)まり、残念そうに見送ったが、
「どうも十二神(オチフルイ)に出られたのではね」売卜者風の神道徳次郎が云って、テレ切ったように額を撫でた。
「それにちゃあんと見抜いておる」こう云ったのは武士姿の、紫紐丹左衛門であった。「館林様がご関係ないとね」
「せっかく浅草から狙って来たんだが」鼠小僧の外伝が――旅僧の姿をした男が云った。「ねっからこれでは始まらない」
「諦めるより仕方がないよ」こう云ったのは無頼漢(ならずもの)風の、稲葉小僧新助であった。「相手が十二神(オチフルイ)とあるからには、六人かかったって歯が立たねえ。まして今は四人だからな」

 この間もお島を乗せた駕籠と、与力十二神(オチフルイ)貝十郎とは、品川の方へ進んで行った。品川の一角、高輪の台、海を見下ろした高台に、宏大な屋敷が立っていて、大門の左右に高張り提灯が、二棹(さお)威光を示していた。
 その前まで来ると駕籠が止まり、お島が駕籠から下ろされた。
「こっちへ」
 と貝十郎は声をかけたが、潜(くぐ)りの戸を軽く打ち、開くのを待って内へはいった。で、お島も内へはいった。大門から玄関へ行くまでの距離も、かなりあるように思われた。
 宏大な屋敷の証拠である。
 訪(おとな)うと小侍が現われた。
「拙者十二神(オチフルイ)貝十郎でござる」
 すると小侍はすぐに云った。
「は、お待ちかねでございます。どうぞずっと奥の部屋へ」
 そこで貝十郎はお島を従え、玄関を上がって奥へ通った。長い廊下や鈎手の廊下や、いくつかの座敷が二人を迎え、そうして二人を奥へ送った。
 広い裏庭が展開(ひら)けていて、木立や築山や泉水などがあり、泉水の水が木洩れの月光に、チロチロ一所光っていた。その裏庭の奥まったところに、別棟の一軒の建物があって、長い廊下でつながれていた。
「こっちへ」と貝十郎はまたも云って、お島の先に立って進んで行った。

        三

 その建物の内へはいり、座敷の様子を眺めた時、お島は異人館へ来たのかと思った。
 瓔珞(ようらく)を垂らした切子(きりこ)形の、ギヤマン細工の釣り灯籠(どうろう)が、一基天井から釣り下げられていたが、それの光に照らされながら、いろいろの器具、さまざまの織物、多種多様の道具類、ないしは珍らしい地図や模型、または金文字を表紙や背革へ、打ち出したところの沢山の書籍、かと思うと色の着いた石や金属、かと思うと気味の悪い人間の骸骨(がいこつ)、そう云ったものが整然と、座敷の四方に並べられてあり、壁には絵入りの額がかけてあり、柱には円錐形の鳥籠があって、人工で作ったそれのような、絢爛(けんらん)たる鳥が入れてあるからである。
 そうしてそれらの一切の物へは、いちいち札がつけてあった。硝子(ガラス)細工らしい長方形の器具が、天鵞絨(ビロード)のサックへ入れてあったが、それへ附けられた札の面には、テルモメートルと書かれてあり、四尺四方もあるらしい、黒塗りの箱の一所から、筒のようなものがはみ出しており、その先にレンズの嵌まっている器具には、ドンクルカームルと記された札が、その傍らに立ててあった。長さ五尺はあるらしい、太い竹筒を黒く塗ったような、二所ばかりに節のある器具――先へ行くに従って細くなり、その突端にレンズのある器具には、ルーブルと書いた札がつけてあった。
 そういう座敷の一所に、一人の侍が端坐して、それらの物を眺めていたが、貝十郎とお島とを見ると、気軽そうに挨拶をした。
「これはようこそ、まあまあお坐り」
「吉雄殿、お話しのお島という娘で」
 貝十郎はこう云ってから、お島の方へ声をかけた。
「大通辞の吉雄幸左衛門殿じゃ」
 お島は恭(うやうや)しく辞儀をした。それを幸左衛門は軽く受けたが、
「いかさま美しい娘ごじゃな。こういう娘ごの命を取ろうなどとは、いやとんでもない悪い奴らで。……が、もうご安心なさるがよい。今夜で危険はなくなりましょう」
「いつ見てもこの部屋は珍らしゅうござるな」
 貝十郎は見廻しながら云った。
「見物が多うございましょうな」
「さよう」と幸左衛門は微笑した。「応接に暇がないほどでござる」
「平賀源内殿、杉田玄伯殿など、相変わらず詰めかけて参りましょうな」
「あのご両人は熱心なもので。その他熱心の人々と云えば、前野良沢殿、大槻玄沢殿、桂川甫周殿、石川玄常殿、嶺春泰殿、桐山正哲殿、鳥山松園殿、中川淳庵殿、そういう人達でありましょうか。その人々の見物の仕方が、その人々の性格を現わし、なかなか面白うございます」
「ほほう、さようでございますかな。どんな見方を致しますので?」
「前野良沢殿、大槻玄沢殿、この人達と来た日には、物その物を根掘り葉掘り尋ね、その物の真核を掴もうとします」
「それは真面目の学究だからでござろう。あの人達にふさわしゅうござる。蘭医の中でもあのご両人は、蘭学の化物と云われているほどで」
「ところが平賀源内殿と来ると、ろくろく物を見ようともせず、ニヤリニヤリと笑ってばかりおられ、このような物ならこの源内にも、作り出すことが出来そうで――と云いたそうな様子をさえ、時々見せるのでございますよ」
「アッハッハッ、さようでござろう。平賀殿はいうところの山師、山師というのは利用更生家、新奇の才覚、工面をなして、諸侯に招かれれば諸侯を富まし、町人に呼ばれれば町人を富まし、その歩を取って自分も富む――と云う人間でありますからな。このような物を一眼見ると、それを利用してそれに類した物を、なるほどあの仁なら作られるでござろう。……それはそうとカランス殿には」
 貝十郎は改まって訊ねた。
「奥の部屋においででございます」
「では」と貝十郎は立ち上がった。「吉雄殿にもどうぞご一緒に」
「よろしゅうござる」と幸左衛門も立った。
 二人につづいてお島も立ち上がり、二人につづいて奥の部屋の方へ行った。
 お島に取ってはこの部屋も、この部屋にある諸□の器具も、五十年輩で威厳があって、それでいてどことなく日本人ばなれしている、吉雄幸左衛門という人物も、驚異には値(あたい)していたが、不思議と恐怖には値していなかった。
(この人達なら助けてくださるだろう)
 かえってそんなように思われたのである。

        四

 一本の蝋燭(ろうそく)がともっていて、その火を映した巨大な鏡が、部屋の正面の壁にあり、蝋燭の立ててある台の側に、長髪、碧眼、長身肥大、袍(ガウン)をまとった紅毛人が、椅子に腰かけて読書をしてい、それらの物の以外には、ほとんどこれという器具調度はない――と云う部屋は蝋燭の火と、それを映している鏡の反射とで、他界的と云おうか夢幻的と云おうか、そう云ったような言葉をもって、形容しなければならないような、微妙な暗さに色彩(いろど)られている。
 お島と貝十郎と幸左衛門とが、はいって行ったところの奥の部屋は、そう云ったような部屋であった。
 すぐにお島は恍惚(うっとり)となった。その部屋の光景に魅せられたのである。
 紅毛人は立ち上がったが、お島の顔を射るように見た。それから幸左衛門へ何やら云った。異国の言葉で云ったので、一言もお島には解らなかった。
 幸左衛門が異国の言葉で、紅毛人へ何か答えた。それからお島へ囁(ささや)くように云った。
「和蘭(オランダ)の甲必丹(キャピタン)カランス殿じゃ。このお方がお前様を助けてくださる」
 そこでお島は頭を下げ、真心(まごころ)からオドオドとお礼を云った。
「カランス様有難う存じます。どうぞよろしくお願いいたします」
 もちろん日本語で云ったのであるから、カランスには意味は解らなかったが、お島の態度のつつましさが、その好感を招いたらしく、彼は頷いて微笑をした。と、その時貝十郎が、お島の耳もとで囁いた。
「そなたの苦しい境遇と、そなたの不思議な病気につき、私は探って知ったのだ。いや探らせて知ったのだ。その結果を吉雄殿に話し、吉雄殿からカランス殿に話し、カランス殿の力によって、そなたの身の上に振りかかっている、危難を助けていただくことにした。……あの薬売りの藤兵衛という男に、ああいうことを云わせたのも、この十二神(オチフルイ)貝十郎なのだ。安心して一切を委(まか)せるがよい。と云うのはこれからこの部屋の中へ、そなたの胆を奪うような、奇怪な出来事が起こるからだ。驚いて気絶などしないように」
「はい有難う存じます。厚くお礼を申し上げます」
 ――で、お島はまた辞儀をした。もうこの頃は今の時間にして、午前の一時を過ごしていた。お島に病気が起こる頃であった。見ればカランスは両手をもって、大きな黒布(くろぬの)を持っていた。あのスペインの闘牛師が、闘牛に向かって赤い布を、冠せようとして構え込む、ちょうどあのような構え方で、黒布を持ち構えているのであった。と、そういうカランスが、幸左衛門へ向かって云った。それを幸左衛門が通訳した。
「お島殿、カランス殿が仰せられる、鏡を一心にご覧なされと」
「はい」と素直にお島は云って、鏡の面を凝視した。鏡は朦朧(もうろう)と霞んでいた。煙りが凝っていると形容してもよく、朝の湖水の一片が、張り付いていると形容してもよかった。
 物を写してはいなかった。四人立っているその四人の、誰もが写っていなかった。立っている位置のかげんからではあるが、蝋燭も写ってはいなかった。光は受けてはいたけれど、形を写していないのである。しかし間もなくその鏡面へ、仄(ほの)かに物の形が写った。
(妾(わたし)が病気になる時刻が来た)
 そうお島が思った時に、物の形が鏡へ写り出したのである。ぼんやりと見えていた物の形が、次第にハッキリとなって来た。それは立派な部屋であった。
 その部屋に三人の男女がいた。一人は白衣を着た修験者であり、一人は島田に髪を結った、美しい若い小間使いであり、一人は四十を過ごしたらしい、デップリと肥えた男であって、大店(おおだな)の旦那とでも云いたいような、人品と骨柄とを備えていた。
「あッ」とお島は声を上げた。
「妾の……小梅の……寮のお部屋だわ! ……お菊と、叔父様と大日坊とがおられる!」
 その時鏡中に変化が起こった。三人の間に机があったが、その上に一個の人形が、大切そうに立てられたのである。

        五

 事件は過去へ帰らなければならない。
 隅田川の畔(ほとり)、小梅の里に、風雅と豪奢(ごうしゃ)とを兼ね備えた、柏屋の寮が立っていた。一人娘のお島というのが、乳母や小間使いに守られて、寂しく清く住んでいた。
 父母に逝(い)かれた孤児であった。が、日本橋の店の方は、古い番頭や手代達によって、順調に経営されていた。お島が柏屋の戸主であった。しかし女であり未婚であり、年若であるところから、叔父の勘三が後見をしていた。
 寮に住居をしているのは、父母に逝かれた悲しさから、気欝の性になったのを、癒(いや)そうとしてに他ならなかった。
 ところが今から一月ほど前から、彼女は不思議な病気となった。真夜中になると唐突にも、胸に痛みを覚えるのである。それも尋常の痛みではなくて、鋭い刃物か針のようなもので、心臓をえぐられるか刺されるかのような、そう云った烈しい痛みなのである。そういう病気を得て以来、彼女は見る見る衰弱した。いろいろの医者にも診て貰ったが、病気の原因(もと)は解らなかった。
 そういう病気の起こる前に、叔父勘三の指金(さしがね)で、お菊という女を小間使いに雇った。美しい若い勝ち気な女で、人もなげに振る舞うこともあったが、それだけ万事に気が付いて、浮世の表裏をよく知っている女、そう云った女に異存はなかった。
「よいお前の話し相手になろう」
 お菊のことをお島へこう勘三は云った。
 しかし事実はそうではなくて、そのお菊の話し相手になるのは、かえって叔父の勘三なのであった。お菊が小間使いにはいって以来、勘三はしげしげこの寮へ来て、お菊を側へ引きつけて、ふざけたり酒の酌をさせたりした。噂によるとお菊と勘三とは、以前から知っている仲であって、それでお菊を小間使いとして、この寮へ入れたのだということであった。いわば勘三はお菊という女を、名義だけをお島の小間使いとし、事実は自分の妾として、この寮へ引き入れたということになる。そのお菊はどうかというに、これは勘三をむしろ嫌って、お島へ好意を寄せていた。姉のように優しい慈愛の眼で、よくお島を見守ったりした。で、お島もお菊に対して、好感を持たざるを得なかった。いやいやむしろ好感以上の、同性の恋というような、ああ云った特殊の感情をさえ、お島は持たざるを得なかった。もっともそれをそそったのは、小間使いのお菊ではあったけれど。
 ある時などは二人の女が、お島の部屋で物も云わず、互いにその手を握り合って、互いに頬を寄せ合って、うっとりとしているようなことがあった。同性ではあるが二人の肌が、着物を通して触れ合って、その接触から来る温(あたた)かみを、味わい合っていると云いたげであった。
 お島の憂欝を祈祷(きとう)によって、快癒させようと心掛けて、大日坊という修験者を、この寮へ出入りさせて、祈祷させるように取り計らったのは、お菊が小間使いとして住み込んで、十日ほど経ってからのことであった。云い出したのは勘三であった。お菊は好まない様子であった。それだのに勘三はある日のこと、お菊に向かってこんなことを云った。
「お前が大日坊を勧めたのじゃアないか。何んだ、それだのに今になって」
 大日坊は物々しい、白の行衣などを一着して、隔日ぐらいにやって来て、お島の前で祈祷をした。
 と、どうだろう、娘のお島は、そういう祈祷が始まった頃から、例の奇病に取りつかれてしまった。しかし勘三も大日坊も云った。
「病気の癒(なお)りかけというものは、かえって苦しみを増すもので、その胸の痛みもやがて癒ろう。それと一緒に気欝性も、綺麗に癒ってしまうだろう」と。
 しかしお島のその奇病は、いよいよ勢力を逞しゅうして、お島は眼に見えてやつれて行った。ところがある日この寮へ、一人の酒屋のご用聞きが来た。出入りの杉屋という酒屋があったが、そこへ来たご用聞きだということである。
「これからは私がご用をききに来ます。どうぞ精々ご贔屓(ひいき)に。へい、私は仙介という者で」
 などお三どんや仲働きや、庭掃きの爺やにまで愛嬌を振り撤いた。三十がらみの小粋な男で、道楽のあげくにそんな身分に、おっこちたといいたそうなところがあった。
「ご用聞きには惜しいわね」などとお三どんは仙介のことを、仲働きへ噂したりして、仙介の評判は来た日から良かった。がしかしお菊だけは、その仙介を胡散(うさん)そうに見た。
「あの男の眼付き、気に食わないよ。それにさ、手の指が白すぎるよ。食わせもののご用聞きだよ」などと云って警戒した。
 こうして今日の日の前日になった。
 この日も大日坊はやって来て、お島の前で祈祷したが、それが終えると奥へ行き、勘三とお菊と三人で、何やらヒソヒソ話し出した。それから酒になったようである。
「大日坊、今日は泊まっておいで」
 などという勘三の声が聞こえた。
「そうねえ、大日坊さん泊まって行くがいいよ」
 お菊の声も聞こえたが、何んとなく不安そうな声であった。
「姉ちゃん、お庭へ行って遊びましょうよ」
 こういう間にお島の部屋では、お島にとっては姪(めい)にあたる、八歳のお京という可愛らしい娘が、お島に向かって甘えていた。

        六

 お島は寂しいところから、一つは姪のお京の家が、貧しい生活をしているところから、お京を寮へ引き取って、玩具(おもちゃ)の人形でも愛するようにして、ずっと以前から育てて来た。お京は愛くるしい性質で、悪戯(いたずら)もしたがその悪戯さえ、可愛らしく見えるという性(たち)であった。
「姉ちゃんお庭へ行って遊びましょうよ」
 しかしお島は黙っていた。いつもよりは今日は気持ちが悪く、返辞をするのさえ大儀だからであった。
「姉ちゃんお庭へ行って遊びましょうよ」
 お京はなおもせがんだが、お島が返辞をしないので、つまらなそうに部屋を出て、一人で庭の方へ行こうとした。と、奥から賑やかな、人々の笑い声が聞こえて来た。お京へ子供らしい好奇心が起こって、奥の方へはいって行った。
 酒盛りをしている次の部屋が勘三の常時(いつも)いる部屋であって、高価な調度などが飾り立ててあった。その部屋までお京がはいって行った時、彼女の心を惹く物があった。手文庫の抽斗(ひきだし)が半ば開いていて、人形の顔が見えていたのである。
「まあ」
 と彼女は嬉しそうに云って、抽斗からそっと人形を取り出し、部屋を出て庭へ走り出た。庭には午後の日があたっていて、遊ぶによくポカポカと暖かかった。
 山吹がこんもりと咲いていて、その叢(くさむら)の周囲(まわり)には青み出した芝生が、茵(しとね)のように展べられていた。山吹の背後(うしろ)には牡丹桜が重たそうに花を冠っていた。お京は芝生へ坐り込んだが、人形を膝の上へ大事そうに乗せると、しばらく熱心にもてあそんだ。
 それは縫いぐるみの人形であって、派手な振り袖が着せてあった。大きさはおよそ五寸ぐらいで、顔は十八、九の女の顔であった。
 そうやってしばらくもてあそんでいたが、そこは子供のことであった、やがて飽きると抛(ほう)り出して、何やら流行唄(はやりうた)をうたい出した。と、その時一人の男が、こっそりとこっちへ近寄って来た。今まで勝手口でお三どんを相手に、油を売っていた仙介であった。
「おやおやこれはお嬢さんで、……日向(ひなた)ぼっこでございますかな」
 こんなことを云いながら近寄って来たが、抛り出されてある人形を見ると、すぐに取り上げてじっと見た。
「…………」
 何んとも云いはしなかったが、仙介の眼の光ったことは! とにわかに「痛い!」と云った。
 見れば仙介の拇指(おやゆび)から、血がポッツリと吹き出している。人形の胎内に針があって、強く握った時それの先が、拇指の一所を刺したものと見える。
「そうか!」と仙介は思いあたったように云った。
「これですっかり見当が付いた!」
 どうしようかと云ったように、一瞬仙介は考え込んだが、チラリとお京へ眼を移してから、素早く人形を懐中しようとした。が、その時植え込みの背後(うしろ)から、
「お嬢様!」
 と呼ぶ声が聞こえて来たので、あわてて仙介は人形を取り出し、お京の膝の上へ投げるように置き、庭を横切って姿を消した。それと引き違いに姿を現わしたのは、他ならぬ小間使いのお菊であった。
 仙介の後を見送り見送り、お京の側までやって来たが、お京の膝の上の人形を見ると、ギョッとしたように眼を躍らせ、すぐに取り上げて袖の中へ引き入れ、つかつかと家の方へ走って行った。

        七

 十二神(オチフルイ)貝十郎の邸の玄関へ、同心の佃三弥と連れ立ち、仙介が姿を現わしたのは、それから間もなくのことであり、二人の姿が邸の中へ消え、やがて邸から現われたのも、それから間もなくのことであり、十二神貝十郎がそれと続いて、邸から出て駕籠に乗り、品川にある和蘭(オランダ)客屋を、訪ねたのも間もなくのことであった。
 こうしてこの日は暮れてしまった。

 さて、いよいよ今日の日である。昨日から泊まり込んでいた大日坊は、この日もお島に祈祷をした。お島の衰弱はいちじるしく、放心状態になっていた。しかも心ではどうともして、この苦しみから遁(の)がれ出たいものと、あえぐがように願っていた。祈祷が終えると部屋から脱け出し、夢心地のように庭へ出たが、庭を脱けると当てもなく、両国の方へ歩いて行った。
(寮は妾(わたし)にはまるで地獄だ。あそこの空気は息苦しい。あそこの空気は寂しくて凄い。賑やかで楽に呼吸のつける、どこかへ妾は行ってしまいたい)
 彼女はこういう心持ちで歩いた。そういう彼女を寮の近くから、後を尾けて来た侍があったが、他ならぬ十二神(オチフルイ)貝十郎であった。
(どうぞして誰にも悟られないように、あの娘を連れ出そうと思っていたところ、幸い自分から脱け出して来た。さてこれからどうしたものだ)
 貝十郎は思案しいしい、お島の後から尾(つ)けて行った。
 両国を渡り浅草へはいり、お島が薬売りの藤兵衛の剽軽(ひょうきん)の口上を放心的態度で、聞きながら佇(たたず)んでいるのを見ると、貝十郎は頷いた。
(一つ暗示を与えてやろう。ああいう娘には暗示がかかる。藤兵衛を利用して暗示をかけてやろう)
 喋舌っている藤兵衛の背後(うしろ)に廻って、貝十郎が藤兵衛の耳へ、立ち合いの群集に気づかれないように、囁きかけたのはそれからであり、藤兵衛がお島へお島のことを、話しかけたのもそれからであった。

 ここで事件は和蘭(オランダ)客屋の、奥の部屋へ帰って行かなければならない。鏡へお菊と大日坊と勘三との姿が写っていて、お島ににせた人形が、机の上に置いてあった。
 三人は何やら云い争い出した。勘三が最も多く喋舌り、大日坊へ何かを強いているようであった。それをお菊が悩ましそうに、熱心に止めている様子であった。そういう二人の間に立って、大日坊は当惑している様子であったが、やがて何やらお菊に向かって、訓(さと)すがように説き出した。その三人であるが、話し合っている間じゅう、机の上の人形の方へ、たえず瞳を注いでいた。
 そういう光景が黒塗り蒔絵の、額縁を持った大鏡の中で、芝居ででもあるかのように、ハッキリと写っているのである。
 大日坊はお菊を説き伏せたようであった。お菊を説き伏せた大日坊は、やおら人形へ近よると、鋭く人形を凝視した。手に戒刀を握っている。と、その戒刀が頭上へ上がった。思う間もなく切り下ろされた、と、その瞬間鏡中の世界を、佇んで見ていたお島の体へ、頭上からフワリと布が冠(かぶ)された。
 甲必丹(キャピタン)カランスが背後から、手に持っていた黒布(くろぬの)を、その瞬間に冠せたのであった。
「あれ!」
 とお島は意外だったので、黒布(くろぬの)の中で声を上げた。しかしその次の瞬間には、黒布(くろぬの)は既に取り去られていた。お島は鏡中の世界を見た。三人の男女が審(いぶか)しそうに、人形を取り上げて調べている。戒刀で人形を切ろうとしたのらしい。しかるに人形が切れなかったので、驚いているという様子であった。人形が机の上へ置かれた。また大日坊は戒刀を振り上げた。
 その戒刀が鏡の中で、白く横の方へ流れた時、またもお島は背後から、黒い布で全身を包まれた、が、その刹那(せつな)迂濶千万にも、お島は髪を崩すまいとして、片手で黒布を上へ揚げた。その拍子に指の先が布から出た。
「痛い!」とお島は悲鳴を上げた。
 布が体から取り去られた時、お島の右の手の中指の先から、血が掌の方へ流れていた。切り傷がそこについている。と、鏡中の世界の人は、またも人形を取り上げて、奇怪至極だというように、その人形を調べ出した。人形の左の手の中指に、どうやら傷でもついたらしく、そこを三人は調べ出した。
 またもや人形は机の上へ置かれ、またもや大日坊は戒刀を振り冠った。そうしてまたもやお島の全身が、黒布(くろぬの)によって蔽(おお)われた。しかしその布が取り去られた時、お島の体には異変はなかったが、鏡中の人々には異変があった。戒刀が折れて折れた先が、勘三の咽喉を貫いていた。

        八

 この頃小梅の柏屋の寮を、取り囲んでいる人影があった。目明し、橋場の仙右衛門が、同心佃三弥に指揮され、乾児(こぶん)十二人と一緒になって、捕り物をすべく囲んだのであった。
 不意に深夜の静寂を破り、男の悲鳴が家の中から聞こえ、つづいて騒がしい人声が起こり、つづいて雨戸を蹴開く音がし、すぐに男女の人影が、裏木戸の方へ走って来た。
「御用!」
「何を!」
「勘助御用だ!」
「仙介か! ……やっぱり……岡っ引だったな!」
「やい、神妙にお縄をいただけ!」
「…………」
「夜叉丸! 手前も……年貢の納め時だ!」
「馬鹿め! 人足! 捕れたら捕れ!」
 小間使いお菊の女勘助と、大日坊の火柱夜叉丸とは、戸を蹴破って飛び出した。
 ご用聞きの仙介に身をやつしていた、目明しの仙右衛門は飛びかかった。ガラガラという錫杖(しゃくじょう)の音! 月光に閃めく匕首の光! ムラムラと寄せ、ガッと引っ組み、バタバタと仆される捕り方の姿! 枕橋の方へ一散に走る、夜叉丸と女勘助との姿が見えた。
「廻れ! 右の方へ! 三囲(みめぐり)の方へ!」同心佃三弥が叫んだ。
「旦那、冗談、そんな方へ行っては! 奴ら、枕橋の方へトッ走っていまさあ!」
 仙右衛門は不審そうにこう叫んだ。
「黙れ! よい、俺の云う通りにしろ!」
 ――で、捕り方はそっちへ走った。
 そのため明和六人男と呼ばれた、六人の盗賊のその中の二人、女勘助と火柱の夜叉丸とは捕縛されることを免れた。

 後日貝十郎は云ったそうである。
「柏屋の主人の六斎殿と、私とは遊里の友達なので、あの仁の死後も遺族については、絶えず注意をしていました。するとお島という一人娘が、変な病気にかかったという。そこで佃という同心に命じ、その様子を調べさせたところ、佃は目明しの仙右衛門という男を、ご用聞きにやつさせて調べさせたそうで。すると呪いの人形が、あそこの寮から出て来ました。その前にあの寮へ大日坊という、怪し気な修験者が入り込むことや、日頃から腹のよろしくない、叔父の勘三が入り込むことや、その勘三の妾のような女が、小間使いとして入り込んだという、そういうことが解っていましたので、さてはお島を呪い殺し、勘三が柏屋を乗っ取る気だなと、こう目星をつけたという訳で。一味を引っ捕えて調べるのは、訳のない話ではありますが、それでは柏屋に瑕(きず)がつくし、呪いとあってはお島の命が、その間に取られてしまうかもしれない。これは困ったなと思いましたが、その時フッと考えついたのは、懇意にしている大通辞の、吉雄幸左衛門殿のことでした。この仁(じん)は西洋の学問が出来る。その方面で呪いというようなものを、至急に防ぐことが出来るかもしれない。……で、行ってお話をしたところ、甲必丹(キャピタン)のカランス殿が引き受けたという。……で、安心してお島を連れ出し、和蘭(オランダ)客屋の奥の部屋で、ああいうことをして呪いを破り、その上悪事の元兇の、勘三をあべこべに自滅させた訳で。……しかし、どうしてああいう事が、ああして呪いを破ったのかは、とんと私にも解りません。が、東洋流の精神科学を、西洋流の精神科学が、退治したのだとは云われましょう。……女勘助や夜叉丸は、悪い奴らではありますが、私の敬まっている館林様が、手先にしている奴らでしたから、捕えることだけは止めにしました。佃に旨を云い含めた訳です。嚇しただけで追っ払えと」

 お菊の女勘助が、お島を時々救おうとしたのは、お島に恋を感じたからであった。その勘助を妾のようにして、勘三が小間使いに住み込ませたのは、事実勘助を女だと思い、そうやって住み込ませて置くうちに、物にしようと思ったからであった。
 お島がお菊を恋したのは、結局同性の恋ではなく、異性同士の恋なのであったが、お島はそれを知らなかった。最後まで知らなかったということである。

    海外の歌


        一

「桜月夜で明るいじゃアないか! それを何んだい、ぶつかりゃアがって!」
 無頼漢風の逞しい男が、自分の方からぶつかりながら、こう京一郎へ難題を出した。
「とんだ粗相をいたしました、真(ま)っ平(ぴら)ご免くださいますよう」うるさいと思ったので京一郎は詫びた。
「いけねえいけねえ言葉ばかりじゃアいけねえ、やい何んとか色をつけろ!」
「色をつけろとおっしゃいますと?」
「解らねえ奴だな、いくらか出せ!」
「へええお銭をでございますかな」
「あたりめえよ、膏薬(こうやく)代だ」
「と云うと怪我でもなさいましたので」
「え、怪我? うん、したした! 大変もない怪我をした。だからよ、出しな、膏薬代をさ!」
「ちょっと拝見いたしたいもので」
「ナニ、拝見? 拝見とは何をよ?」
「大変もない怪我という奴を」
「うるせえヤイ! 青瓢箪め!」
 拳が突然空に流れた。素早く京一郎は身をかわしたが、その手には拳が握られていた。
「ただの町人の小伜とは、小伜なりが少し違うぞ」
「痛え痛え人殺しイーッ……やい皆(みん)な出て来てくれ!」すると背後から四人の男が、姿を現わして走って来た。
(しまった!)――で京一郎は逃げた。ここは京橋の一画で、本通りから離れた小路であった。両親に内証で町道場へ通い、一刀流の稽古をしていたが、いつもより今日は遅くなったので、道を急いでの帰るさであった。
 背後から追っかけて来るらしい。京一郎は横へ逸れた。と、運悪く袋露路で、妾宅めいた家によって、見れば行く手をふさがれている。
(どうしたものだ! これは困ったぞ!)――で、当惑して立ち止まったとたんに、眼の前の格子戸が内から開き、
「とんだ事ねえ、さあいらっしゃい」艶(なま)めいた女の声がして、つづいて白い手が伸びて来た。
「いえ、私は……」
「大丈夫なのよ」
 ガラガラと京一郎の背のうしろで、閉ざされる格子戸の音のした時には、京一郎の体は家の中にあった。

 見失ったというように、無頼漢風の男をまじえ、五人の男が露路から出た。本通りの方へ引っかえして行くのを、一軒の家の二階から――細目に開けた障子の隙から、眺めていた一人の武士があったが、
「また彼奴(きゃつ)ら悪いことをやり出したな」
 眉をひそめながら呟いた。与力の十二神(オチフルイ)貝十郎であった。
「旦那、喧嘩ね。気味の悪い」
 ちゃぶ台があってご馳走があって、徳利と盃とが置いてあり、一方の側には貝十郎がおり、一方の側には女がいたが、その女がそんなように云った。
「喧嘩といえば喧嘩だが、性(たち)の悪い喧嘩でな」
「性(たち)のよい喧嘩ってありますかしら」
「出合い頭の間違いで、ぶん撲り合うというような、そういう喧嘩は性のいい喧嘩だ」
「性の悪い喧嘩といえば?」
「計画的に仕掛けた喧嘩さ。……それはそうと、こういうお妾横丁には随分喧嘩はあるだろうな」
「そうですねえ、まあ、ちょくちょく」
「ところで突きあたりの格子づくりの家だが、やはり妾の巣だろうな?」
「巣とはお口のお悪いことね。でも、ええ、お妾さんの巣のようだわ」
「一、二度見かけたことがあるが、そのお妾さん美(よ)い縹緻(きりょう)だった」
「そこでちょっかいを出そうと云うのね」
「うっかりちょっかいを出そうものなら、あのお妾さんくらいつくよ」
「鬼や夜叉じゃアあるまいし」
「それ以上に凄い玉(たま)かもしれない。顔に険のある女だった……旦那というのはどんな男かな?」
「旦那だか何んだか知らないけれど、時々駕籠で立派なお武家さんが深夜においでなさるようです」
「他にも男が出入りするだろう?」
「よくご存知ね。四、五人の男が……」
「物など持ち運んでは来ないかな?」
「おや、そう云えばそんなことも……でもどうしてご存知なんでしょうね?」
「俺の身分を知っているくせに、何を云うのだ。うっかりした女だ」

        二

「そうそう旦那は与力衆でしたわね」
「今後は殿様と呼ぶがいい」
「結城ぞっきのお殿様ね」
「文句があるなら唐桟(とうざん)でも着るよ」
「いいえ、殿様と云わせたいなら、黒羽二重の紋服で、いらせられましょうとこう申すのさ」
「そういう衣装を着る時もある。が、その時には同心が従(つ)く」
「目明し衆も従くんでしょうね」
「お前なんかすぐふん縛る」
「おお恐々(こわこわ)!」と大仰に云ったが、妾のお蔦は寄り添うようにした。「でも殿様に似合うのは、そういう風じゃアありませんわね」
「河東節の水調子 □二人が結ぶ白露を、眼もとで拾うのべ紙の――などと喉(のど)をころがして、十寸(ますみ)蘭洲とどっちがうまい? などと云っている俺の方が仁にあうと云うのだろう」
「そうよ」とお蔦はトロンコの眼をした。「□梛(なぎ)の枯れ葉の名ばかりにさ。……殿様、今夜は帰しませんよ」
「まてまて」貝十郎は大小を取った。「与多(よた)は与多、仕事は仕事だ。……俺はちょっくら行って来る」
「どちらへ?」
 と驚いて止めるお蔦を、ちょっと尻眼で抑えるようにし、「お前を相手に割白(わりせりふ)か何んかで、茶化したことばかり云っていて、それで暮らして行けるなら、とんだ暮らしいい浮世なんだが、まるっきり逆の世間でな」
「遊んでおいでなされても、役目は忘れないとおっしゃるのね」
「それくらいなら御(おん)の字だ。遊びを役目の助けにしている――と云う荒っぽい時世なのさ」
 妾宅を出ると貝十郎は、露路の突きあたりの家の前まで行った。が、そのまま姿が消えた。

「手頼(たよ)りない身でございますの、これをご縁にどうぞ再々、お遊びにおいでくださいましてお力におなりくださいますよう」
 お蝶はこう云って京一郎の顔を、艶めいた眼でながしめに見た。年は二十一、二でもあろうか高い鼻に切れ長の眼に、彫刻的の端麗さをそなえた、それは妖艶な女であった。
「はい、有難う存じます。妙なことからお目にかかり、飛んだおもてなしにあずかりまして、何んと申してよろしいやら。……ご迷惑でなければこれからも、ちょいちょいお伺いいたします」
 京一郎は恍惚(うっとり)とした心で、こう云って頬を掌で撫でた。五人の男に追いかけられ、それが因になって飛び込んだ家の、女主人にこんなに愛想よく、迎えられようとは思わなかった。
 茶を出され酒を出され、身の上話さえされたのである。両親のない身の上ながら、親が残して行った金があるので、女中と婆やとを二人ほど使い、男気のない女世帯を、このようなひっそりした町の露路で、しばらく前から張り出したが、その男気のないということが、何より寂しいと云うのであった。
 父は生前は長崎あたりの、相当名を知られた海産問屋で、支那や和蘭(オランダ)とも貿易をし、盛大にやった身分であった。――などとお蝶は話したりした。しかしお蝶は身の上については、多く語ろうとはしなかった。隠すというのではなかったが、目下の生活が華やかでない、それだのに過去の華やかであった生活(くらし)を、今さらになって話すのは、面はゆくもあれば笑止でもあると、そんなに思う心から、語らないというような態度を見せた。そういう態度が京一郎には、床(ゆか)しく思われてならなかった。
 表構えは粋であり、目立たぬ様子に作られてあったが、家の内は随分豪奢(ごうしゃ)であり、それに調度だの器具だのが、日本産というより異国産らしい、舶来の品で飾られてあり、お蝶の締めている帯なども、和蘭(オランダ)模様に刺繍(ぬいとり)されてある――そういう点などがお蝶という女の、父だという人の身分や生活を――昔の身分や生活を、それらしいものに想像させた。
「風変わりの楽器でございましょうが……」
 こう云ってお蝶は手を伸ばして、床の間に置いてある異風の楽器を、取りよせてそっと膝の上へ据えた。胴が扁平で三角形で、幾筋かの絃(いと)で張られていた。
「象牙の爪で弾くのですけれど……」云い云いお蝶は四辺(あたり)を忍ぶように、指の先で絃を弾いた。
「バラードという楽器でございますの。和蘭(オランダ)の若い海員などが甲板(かんぱん)の上などで弾きますそうで」
 バラードの音色は聞く人の心を、強い瞑想に誘って行った。
 聞いている京一郎の心の中へ、海を慕う感情が起こって来た。海! 海外! 自由! 不覊(ふき)! ……そういうものを、慕う感情が、京一郎の心へ起こって来た。不意にお蝶はうたい出した。

        三

□かすかに見ゆる
 やまのみね
 はれているさえなつかしし
 舟のりをする身のならい
 死ぬることこそ多ければ
 さて漕ぎ出すわが舟の
 しだいに遠くなるにつれ
 山の裾辺の麦の小田(おだ)
 いまを季節とみのれるが
 苅りいる人もなつかしし
 わが乗る船の行くにつれ
 舟足かろきためからか
 わが乗る船の行くにつれ
 色も姿もおちかたの
 ふかき霞にとざされぬ
 われらの舟路! われらの舟路!

 それはこういう歌であったが、ここまでうたって来るとうたい止めた。
「この後にもあるそうではございますが、残っていないのでございます。ええこの後にも続く歌が。……妾(わたし)はどんなに後に続く歌を、知りたいと願っているでしょう。……死なれたお父様が死なれる前に、妾にこのように申しました。『後に続く歌を知ることが出来たら、お前は幸福になれるだろう。右のこめかみに大きな痣(あざ)のある男が、一人知っているばかりなのだが』と……」
(右のこめかみに痣のある男? はてな?)と京一郎は首を傾(かし)げた。思いあたることがあったからである。でも(まさか!)と思い返した。あんまり莫迦気ているからである。
 しかし彼はこんなように思った。(この女が幸福になることならわしは何んでもしてやりたい)その時女の云う声が聞こえた。
「お父様の遺伝なのかもしれません、大船に乗って広い海へ、妾は行きたいのでございますの、好きなお方と! わだかまりなく!」
 京一郎がお蝶の家を出て、自分の家へ帰ったのは、それからしばらく経ってからであった。京一郎が出たのと引き違いのように、お蝶の家へはいって来たのは二十八、九歳の威厳のある武士で、貴人のように高尚であった。駕籠に乗って来たのである。
「どうであったか?」とその人は云った。
「はい」とお蝶は微笑したが、「大体うまく参りました」
「歌を聞かせてやったろうな」
「聞かせてやりましてございます」
「今度のことばかりは気永に構え、そろそろとやらなければ成功しがたい。暴力や権威をもってしても、歯の立つことではないのだからな」
「はい、さようでございますとも」
「直接本人にぶつかっても、口を割らない事件ではあるし」
「はい、さようでございますとも」
「それで傍流から手をつけたのが……」
 こう云って来て貴人のような武士は、円行灯(まるあんどん)の黄味を帯びた光に、正しい輪郭を照らしていた顔を、にわかに傾(かし)げて聞き耳を立てたが、急に立ち上がると円窓を開けた。
 窓の外は狭い坪庭(つぼにわ)であって、石灯籠や八手(やつで)などがあった。その庭を囲んでいるものは、この種の妾宅にはつき物にしている船板の小高い塀であった。
「これ、誰だ!」と武士は云った。しかし坪庭には人はいなかった。ただ横手の露路へ出られる、切り戸口の傍らに立っている、満開の桜の下枝から、花が散っているばかりであった。
「どなたか?」と、お蝶が不安そうに訊いた。
「さあ、何んとなく気勢(けはい)がしたが……」

 この頃十二神(オチフルイ)貝十郎は、自分の妾宅へ寄ろうともせず紗を巻いたように霞んで見える、月夜の露路を本通りの方へ、考えながら歩いていた。
(館林様が関係しておられる、大きな仕事に相違ない)
 本通りへ出ても人気がなかった。夜が更けているからであった。肩の辺に散っている桜の花弁を、手で払いながら貝十郎は歩いた。(京一郎という男は塩屋の伜だ。……昔の塩屋と来た日には、盛大もない家であったが……)人気がなくても春の夜は気分において賑やかであった。猫のさかっている声などが聞こえた。
(あの歌? ……あんなもの、何んでもありゃアしない。……しかしあの後を知ることが出来たら……)
(よし、俺は本流へぶつかってやろう!)
「面白いな」と声に出して云った。
「負けても勝っても面白い。大物を相手にして争うのだからな」
 夜警の拍子木の音がした。

        四

「ね。お母様。行かせてください。どうしたって行かなければならないのです」
 京一郎は思い詰めた口調で、こうまともに母親へ云った。ここは本所安宅町の、掘割に近い一所に、大きいが古く立っている、京一郎の家であった。その家の奥の座敷であった。更けた夜だのに五月幟が、風になびいている音が聞こえた。近くの家でうっかりして、取り入れるのを忘れたのであろう。
「京一郎やお前はどうしたのだよ、もうそんなことは云わないでおくれ。妾はそんなこと聞くだけでも厭だよ」
 母親のお才は四十九歳であったが、勝れた美貌であるところから四十ぐらいにしか見えなかった。そう云ってから京一郎の顔を、当惑と不安と親の慈愛と、それらのもののこもった眼付きで、嘆願するように凝視した。(この子はお父様に大変似ている。思い立ったことなら、何んでもやり通す! ほんとにこの子は妾を棄てて家出をしてしまいはしないだろうか)お才は恐ろしくさえ思うのであった。
「ねえ京一郎や」とお才は続けた。「こんなこと妾が云い出しては、お前はバツを悪がるかもしれない。でも妾は云ってしまおう。誰かお前の背後にいて……そう、それも女がいて、お前に云わせるのではないかえ。そんなように妾には思われるがねえ……」
 こう云われて京一郎は横を向いたが、顔がいくらか赧らんだようであった。でも彼が母の方へ向いて、おめもせずにこんなように云い出した時には、そういう赧らみはなくなっていた。
「ええお母様、そうなんですよ。女が背後(うしろ)についております。その人が私へそう云わせるのです。でもそればかりではありません、たといその人が背後(うしろ)にいなくとも、早晩私は同じようなことを、お母様に云い出したに相違ありません。ただ、あの人が私へ来たために、云い出すのが早くなったばかりなのです。……だってそうじゃアありませんか。私達の家は何んていうのでしょう。ガランとしていて寂しくて、陰惨としていて墓場のようです。その辺に沢山幽霊がいて、私達を見守ってでもいるようです。大きな屋台骨、暗い間取り、荒れ果てた庭、煤けた階段、陽の目さえ通さないじゃアありませんか。ここにじっとして坐っていると、私は滅入ってしまいそうです。……いえそれよりもっともっと、大事なことがあるのです。それはお母様とお父様なのです。まあどうでしょうお父様と来ては、年が年中離座敷(はなれ)ばかりにいて一度として主屋(おもや)へはいらっしゃらない。一度として戸外へおいでにならない。庭へさえ出ないじゃアありませんか。その上お母様や私をさえ、はいらせようとしないじゃアありませんか。ええそうです離座敷(はなれ)の中へ。……つまりお父様は狂人なのです。それもひどい人間嫌いの。ところでお母様はどうかというに、猫可愛がりに私を可愛がってお父様へ接近させまいとする。教えることは何かと云うに、じっとしておれ、穏しくしておれ、世間へ出るな、出世など願うな――と云うようなことばかりです。そうしてお母様はおっしゃられる、二十五歳まで待つがよい。その時お前は金持ちになれると! ……そういう私の家庭です。こういう家庭にじっとしていれば、青年としての活気が失われます。出て行かなければなりません。出て行って私は何かしたいのです」
「そういうことを云わせるのも、お前についている女だと思うよ。妾にはその女が憎くてならない」
「悪い女ではございません、お母様誤解してくださいますな」
 ――京一郎にとってはお蝶という女は、悪い女ではないのであった。自分に勇気をつけてくれる、むしろ有難い女なのであった。その上その女は愛してくれた。
 ああいうことからお蝶に逢い、これから後も来てくれと云われたので、京一郎は家を抜け出しては、お蝶の家へ忍んで行った。そのうち自分もいつとはなしに、お蝶に恋をするようになった。
「妾はあの夜お逢いしました時から、あなた様を愛しておりました」
「私もそうなのでございます」
 とうとう互いに打ち明け合った。そうやって親しみを重ねて行くうちに、お蝶という女が覇気に富んでいて、京一郎と連れ立って、遠方へでも走って行ってしまおうと、心巧みをしているような、口吻(こうふん)を洩らすようなことがあった。しまいには露骨に勧めるようになった。
「若い時期(とき)は早く過ぎて行くものです。享楽しようではありませんか。妾はいつでもお供をします。あなたには早く決心なされて、陰気な、無気力な、生き甲斐のない、ご両親の家などお出なさいまし。外にはもっと華々しい、活気に充ちた生活があります。そうして男というものは、何か事業(しごと)をしないことには、男としての真の楽しみを、感じないものでございます。外にはいくらでも事業があります」
 などというような意味のことを、率直に云ってそそのかしたりした。

        五

 京一郎は性格として、活動的の人間であって、箱入り息子式に生活させられることを、ひそかに以前(まえ)から嫌っていて、そのため両親へは内密に、町道場へ通って行き、竹刀(しない)の振り方など習うほどであった。

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