十二神貝十郎手柄話
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著者名:国枝史郎 

(どうしたものだ! これは困ったぞ!)――で、当惑して立ち止まったとたんに、眼の前の格子戸が内から開き、
「とんだ事ねえ、さあいらっしゃい」艶(なま)めいた女の声がして、つづいて白い手が伸びて来た。
「いえ、私は……」
「大丈夫なのよ」
 ガラガラと京一郎の背のうしろで、閉ざされる格子戸の音のした時には、京一郎の体は家の中にあった。

 見失ったというように、無頼漢風の男をまじえ、五人の男が露路から出た。本通りの方へ引っかえして行くのを、一軒の家の二階から――細目に開けた障子の隙から、眺めていた一人の武士があったが、
「また彼奴(きゃつ)ら悪いことをやり出したな」
 眉をひそめながら呟いた。与力の十二神(オチフルイ)貝十郎であった。
「旦那、喧嘩ね。気味の悪い」
 ちゃぶ台があってご馳走があって、徳利と盃とが置いてあり、一方の側には貝十郎がおり、一方の側には女がいたが、その女がそんなように云った。
「喧嘩といえば喧嘩だが、性(たち)の悪い喧嘩でな」
「性(たち)のよい喧嘩ってありますかしら」
「出合い頭の間違いで、ぶん撲り合うというような、そういう喧嘩は性のいい喧嘩だ」
「性の悪い喧嘩といえば?」
「計画的に仕掛けた喧嘩さ。……それはそうと、こういうお妾横丁には随分喧嘩はあるだろうな」
「そうですねえ、まあ、ちょくちょく」
「ところで突きあたりの格子づくりの家だが、やはり妾の巣だろうな?」
「巣とはお口のお悪いことね。でも、ええ、お妾さんの巣のようだわ」
「一、二度見かけたことがあるが、そのお妾さん美(よ)い縹緻(きりょう)だった」
「そこでちょっかいを出そうと云うのね」
「うっかりちょっかいを出そうものなら、あのお妾さんくらいつくよ」
「鬼や夜叉じゃアあるまいし」
「それ以上に凄い玉(たま)かもしれない。顔に険のある女だった……旦那というのはどんな男かな?」
「旦那だか何んだか知らないけれど、時々駕籠で立派なお武家さんが深夜においでなさるようです」
「他にも男が出入りするだろう?」
「よくご存知ね。四、五人の男が……」
「物など持ち運んでは来ないかな?」
「おや、そう云えばそんなことも……でもどうしてご存知なんでしょうね?」
「俺の身分を知っているくせに、何を云うのだ。うっかりした女だ」

        二

「そうそう旦那は与力衆でしたわね」
「今後は殿様と呼ぶがいい」
「結城ぞっきのお殿様ね」
「文句があるなら唐桟(とうざん)でも着るよ」
「いいえ、殿様と云わせたいなら、黒羽二重の紋服で、いらせられましょうとこう申すのさ」
「そういう衣装を着る時もある。が、その時には同心が従(つ)く」
「目明し衆も従くんでしょうね」
「お前なんかすぐふん縛る」
「おお恐々(こわこわ)!」と大仰に云ったが、妾のお蔦は寄り添うようにした。「でも殿様に似合うのは、そういう風じゃアありませんわね」
「河東節の水調子 □二人が結ぶ白露を、眼もとで拾うのべ紙の――などと喉(のど)をころがして、十寸(ますみ)蘭洲とどっちがうまい? などと云っている俺の方が仁にあうと云うのだろう」
「そうよ」とお蔦はトロンコの眼をした。「□梛(なぎ)の枯れ葉の名ばかりにさ。……殿様、今夜は帰しませんよ」
「まてまて」貝十郎は大小を取った。「与多(よた)は与多、仕事は仕事だ。……俺はちょっくら行って来る」
「どちらへ?」
 と驚いて止めるお蔦を、ちょっと尻眼で抑えるようにし、「お前を相手に割白(わりせりふ)か何んかで、茶化したことばかり云っていて、それで暮らして行けるなら、とんだ暮らしいい浮世なんだが、まるっきり逆の世間でな」
「遊んでおいでなされても、役目は忘れないとおっしゃるのね」
「それくらいなら御(おん)の字だ。遊びを役目の助けにしている――と云う荒っぽい時世なのさ」
 妾宅を出ると貝十郎は、露路の突きあたりの家の前まで行った。が、そのまま姿が消えた。

「手頼(たよ)りない身でございますの、これをご縁にどうぞ再々、お遊びにおいでくださいましてお力におなりくださいますよう」
 お蝶はこう云って京一郎の顔を、艶めいた眼でながしめに見た。年は二十一、二でもあろうか高い鼻に切れ長の眼に、彫刻的の端麗さをそなえた、それは妖艶な女であった。
「はい、有難う存じます。妙なことからお目にかかり、飛んだおもてなしにあずかりまして、何んと申してよろしいやら。……ご迷惑でなければこれからも、ちょいちょいお伺いいたします」
 京一郎は恍惚(うっとり)とした心で、こう云って頬を掌で撫でた。五人の男に追いかけられ、それが因になって飛び込んだ家の、女主人にこんなに愛想よく、迎えられようとは思わなかった。
 茶を出され酒を出され、身の上話さえされたのである。両親のない身の上ながら、親が残して行った金があるので、女中と婆やとを二人ほど使い、男気のない女世帯を、このようなひっそりした町の露路で、しばらく前から張り出したが、その男気のないということが、何より寂しいと云うのであった。
 父は生前は長崎あたりの、相当名を知られた海産問屋で、支那や和蘭(オランダ)とも貿易をし、盛大にやった身分であった。――などとお蝶は話したりした。しかしお蝶は身の上については、多く語ろうとはしなかった。隠すというのではなかったが、目下の生活が華やかでない、それだのに過去の華やかであった生活(くらし)を、今さらになって話すのは、面はゆくもあれば笑止でもあると、そんなに思う心から、語らないというような態度を見せた。そういう態度が京一郎には、床(ゆか)しく思われてならなかった。
 表構えは粋であり、目立たぬ様子に作られてあったが、家の内は随分豪奢(ごうしゃ)であり、それに調度だの器具だのが、日本産というより異国産らしい、舶来の品で飾られてあり、お蝶の締めている帯なども、和蘭(オランダ)模様に刺繍(ぬいとり)されてある――そういう点などがお蝶という女の、父だという人の身分や生活を――昔の身分や生活を、それらしいものに想像させた。
「風変わりの楽器でございましょうが……」
 こう云ってお蝶は手を伸ばして、床の間に置いてある異風の楽器を、取りよせてそっと膝の上へ据えた。胴が扁平で三角形で、幾筋かの絃(いと)で張られていた。
「象牙の爪で弾くのですけれど……」云い云いお蝶は四辺(あたり)を忍ぶように、指の先で絃を弾いた。
「バラードという楽器でございますの。和蘭(オランダ)の若い海員などが甲板(かんぱん)の上などで弾きますそうで」
 バラードの音色は聞く人の心を、強い瞑想に誘って行った。
 聞いている京一郎の心の中へ、海を慕う感情が起こって来た。海! 海外! 自由! 不覊(ふき)! ……そういうものを、慕う感情が、京一郎の心へ起こって来た。不意にお蝶はうたい出した。

        三

□かすかに見ゆる
 やまのみね
 はれているさえなつかしし
 舟のりをする身のならい
 死ぬることこそ多ければ
 さて漕ぎ出すわが舟の
 しだいに遠くなるにつれ
 山の裾辺の麦の小田(おだ)
 いまを季節とみのれるが
 苅りいる人もなつかしし
 わが乗る船の行くにつれ
 舟足かろきためからか
 わが乗る船の行くにつれ
 色も姿もおちかたの
 ふかき霞にとざされぬ
 われらの舟路! われらの舟路!

 それはこういう歌であったが、ここまでうたって来るとうたい止めた。
「この後にもあるそうではございますが、残っていないのでございます。ええこの後にも続く歌が。……妾(わたし)はどんなに後に続く歌を、知りたいと願っているでしょう。……死なれたお父様が死なれる前に、妾にこのように申しました。『後に続く歌を知ることが出来たら、お前は幸福になれるだろう。右のこめかみに大きな痣(あざ)のある男が、一人知っているばかりなのだが』と……」
(右のこめかみに痣のある男? はてな?)と京一郎は首を傾(かし)げた。思いあたることがあったからである。でも(まさか!)と思い返した。あんまり莫迦気ているからである。
 しかし彼はこんなように思った。(この女が幸福になることならわしは何んでもしてやりたい)その時女の云う声が聞こえた。
「お父様の遺伝なのかもしれません、大船に乗って広い海へ、妾は行きたいのでございますの、好きなお方と! わだかまりなく!」
 京一郎がお蝶の家を出て、自分の家へ帰ったのは、それからしばらく経ってからであった。京一郎が出たのと引き違いのように、お蝶の家へはいって来たのは二十八、九歳の威厳のある武士で、貴人のように高尚であった。駕籠に乗って来たのである。
「どうであったか?」とその人は云った。
「はい」とお蝶は微笑したが、「大体うまく参りました」
「歌を聞かせてやったろうな」
「聞かせてやりましてございます」
「今度のことばかりは気永に構え、そろそろとやらなければ成功しがたい。暴力や権威をもってしても、歯の立つことではないのだからな」
「はい、さようでございますとも」
「直接本人にぶつかっても、口を割らない事件ではあるし」
「はい、さようでございますとも」
「それで傍流から手をつけたのが……」
 こう云って来て貴人のような武士は、円行灯(まるあんどん)の黄味を帯びた光に、正しい輪郭を照らしていた顔を、にわかに傾(かし)げて聞き耳を立てたが、急に立ち上がると円窓を開けた。
 窓の外は狭い坪庭(つぼにわ)であって、石灯籠や八手(やつで)などがあった。その庭を囲んでいるものは、この種の妾宅にはつき物にしている船板の小高い塀であった。
「これ、誰だ!」と武士は云った。しかし坪庭には人はいなかった。ただ横手の露路へ出られる、切り戸口の傍らに立っている、満開の桜の下枝から、花が散っているばかりであった。
「どなたか?」と、お蝶が不安そうに訊いた。
「さあ、何んとなく気勢(けはい)がしたが……」

 この頃十二神(オチフルイ)貝十郎は、自分の妾宅へ寄ろうともせず紗を巻いたように霞んで見える、月夜の露路を本通りの方へ、考えながら歩いていた。
(館林様が関係しておられる、大きな仕事に相違ない)
 本通りへ出ても人気がなかった。夜が更けているからであった。肩の辺に散っている桜の花弁を、手で払いながら貝十郎は歩いた。(京一郎という男は塩屋の伜だ。……昔の塩屋と来た日には、盛大もない家であったが……)人気がなくても春の夜は気分において賑やかであった。猫のさかっている声などが聞こえた。
(あの歌? ……あんなもの、何んでもありゃアしない。……しかしあの後を知ることが出来たら……)
(よし、俺は本流へぶつかってやろう!)
「面白いな」と声に出して云った。
「負けても勝っても面白い。大物を相手にして争うのだからな」
 夜警の拍子木の音がした。

        四

「ね。お母様。行かせてください。どうしたって行かなければならないのです」
 京一郎は思い詰めた口調で、こうまともに母親へ云った。ここは本所安宅町の、掘割に近い一所に、大きいが古く立っている、京一郎の家であった。その家の奥の座敷であった。更けた夜だのに五月幟が、風になびいている音が聞こえた。近くの家でうっかりして、取り入れるのを忘れたのであろう。
「京一郎やお前はどうしたのだよ、もうそんなことは云わないでおくれ。妾はそんなこと聞くだけでも厭だよ」
 母親のお才は四十九歳であったが、勝れた美貌であるところから四十ぐらいにしか見えなかった。そう云ってから京一郎の顔を、当惑と不安と親の慈愛と、それらのもののこもった眼付きで、嘆願するように凝視した。(この子はお父様に大変似ている。思い立ったことなら、何んでもやり通す! ほんとにこの子は妾を棄てて家出をしてしまいはしないだろうか)お才は恐ろしくさえ思うのであった。
「ねえ京一郎や」とお才は続けた。「こんなこと妾が云い出しては、お前はバツを悪がるかもしれない。でも妾は云ってしまおう。誰かお前の背後にいて……そう、それも女がいて、お前に云わせるのではないかえ。そんなように妾には思われるがねえ……」
 こう云われて京一郎は横を向いたが、顔がいくらか赧らんだようであった。でも彼が母の方へ向いて、おめもせずにこんなように云い出した時には、そういう赧らみはなくなっていた。
「ええお母様、そうなんですよ。女が背後(うしろ)についております。その人が私へそう云わせるのです。でもそればかりではありません、たといその人が背後(うしろ)にいなくとも、早晩私は同じようなことを、お母様に云い出したに相違ありません。ただ、あの人が私へ来たために、云い出すのが早くなったばかりなのです。……だってそうじゃアありませんか。私達の家は何んていうのでしょう。ガランとしていて寂しくて、陰惨としていて墓場のようです。その辺に沢山幽霊がいて、私達を見守ってでもいるようです。大きな屋台骨、暗い間取り、荒れ果てた庭、煤けた階段、陽の目さえ通さないじゃアありませんか。ここにじっとして坐っていると、私は滅入ってしまいそうです。……いえそれよりもっともっと、大事なことがあるのです。それはお母様とお父様なのです。まあどうでしょうお父様と来ては、年が年中離座敷(はなれ)ばかりにいて一度として主屋(おもや)へはいらっしゃらない。一度として戸外へおいでにならない。庭へさえ出ないじゃアありませんか。その上お母様や私をさえ、はいらせようとしないじゃアありませんか。ええそうです離座敷(はなれ)の中へ。……つまりお父様は狂人なのです。それもひどい人間嫌いの。ところでお母様はどうかというに、猫可愛がりに私を可愛がってお父様へ接近させまいとする。教えることは何かと云うに、じっとしておれ、穏しくしておれ、世間へ出るな、出世など願うな――と云うようなことばかりです。そうしてお母様はおっしゃられる、二十五歳まで待つがよい。その時お前は金持ちになれると! ……そういう私の家庭です。こういう家庭にじっとしていれば、青年としての活気が失われます。出て行かなければなりません。出て行って私は何かしたいのです」
「そういうことを云わせるのも、お前についている女だと思うよ。妾にはその女が憎くてならない」
「悪い女ではございません、お母様誤解してくださいますな」
 ――京一郎にとってはお蝶という女は、悪い女ではないのであった。自分に勇気をつけてくれる、むしろ有難い女なのであった。その上その女は愛してくれた。
 ああいうことからお蝶に逢い、これから後も来てくれと云われたので、京一郎は家を抜け出しては、お蝶の家へ忍んで行った。そのうち自分もいつとはなしに、お蝶に恋をするようになった。
「妾はあの夜お逢いしました時から、あなた様を愛しておりました」
「私もそうなのでございます」
 とうとう互いに打ち明け合った。そうやって親しみを重ねて行くうちに、お蝶という女が覇気に富んでいて、京一郎と連れ立って、遠方へでも走って行ってしまおうと、心巧みをしているような、口吻(こうふん)を洩らすようなことがあった。しまいには露骨に勧めるようになった。
「若い時期(とき)は早く過ぎて行くものです。享楽しようではありませんか。妾はいつでもお供をします。あなたには早く決心なされて、陰気な、無気力な、生き甲斐のない、ご両親の家などお出なさいまし。外にはもっと華々しい、活気に充ちた生活があります。そうして男というものは、何か事業(しごと)をしないことには、男としての真の楽しみを、感じないものでございます。外にはいくらでも事業があります」
 などというような意味のことを、率直に云ってそそのかしたりした。

        五

 京一郎は性格として、活動的の人間であって、箱入り息子式に生活させられることを、ひそかに以前(まえ)から嫌っていて、そのため両親へは内密に、町道場へ通って行き、竹刀(しない)の振り方など習うほどであった。
 で、愛するお蝶の口から、そんなように勧められると、一も二もなく家を出て外へ行きたかった。でお蝶へ云うのであった。
「出ましょう、出ますとも、家を出ましょう! お蝶様ご一緒に行ってくださるか」
「行く段ではございません……でも」
 と、すると、どうしたことか、ここで、いつもお蝶は言葉を濁し、暗示めいたことを云うのであった。
「でも、世間へは手ぶらでは、出て行けるものではございません」
「手ぶらで! 手ぶらとは? 何んのことでしょう?」
「世間は薄情でございます。薄情の世間と戦うには、戦うだけの用意をしなくては……」
「いえ、私はこう見えても、体は強うございますから……」
「体も体でございます。……それより、何よりお金がないことには……」
「金!」「ええ」
「金なんか」「あって?」
「いいえ。……でも、当座の……少しぐらいの金でしたら……」
「少しぐらいの当座の金などで……」ここで一層お蝶は暗示的に、このようなことを云うのであった。
「あの歌の後さえ解りましたら、金はなんぼでも出来るのですが。……あの歌の後を知っている者は右のこめかみに痣(あざ)のある老人ばかりなのでございます」
「私の父の右のこめかみにも、痣があるのでございますよ。……でも私の父などが……」
「後の歌をお聞き出しくださいまし」
(変だな)と京一郎は思うのであった。
(父がそんな歌を知っているだろうか?)――とにかくこういう経緯が、幾度か繰り返されて昨夜となった。そうして昨夜もお蝶と逢った。するとお蝶は嘲笑(あざわら)うような、いつもとは異う口吻で、このような意味のことを云った。
「あなた様とは今晩限り、お逢いすることは出来ますまい」
「何故?」と京一郎は胆を冷やし、うわずった声で訊き返した。
「さあ、何故と申しましても……」
 ここでお蝶は云いよどんだが、けっきょく京一郎が意気地(いくじ)がなくてお蝶の希望を叶わせようとしない、で愛想を尽かしてしまってお蝶一人でどこへとも行こう――そう決心をしたのであると、明瞭(はっきり)とではなかったが云った。
「ふーむ」と京一郎は考え込んだ。もうこの頃の京一郎は、お蝶がないことには一日として、生きて行かれないというほどにもお蝶に心を奪われていた。
 で彼はカッとしてしまった。カッとした心で夢中のように誓った。
「それでは必ず明晩にも……」
「そう」とお蝶は頷いて見せた。
「では妾は明日の晩には、あなた様のお家の裏口の辺でお待ちしていることにいたしましょう」
 その明日の晩が今となった。
 こうして母と話している間も、恋人が家の裏口にいるのだ――そういう気がかりが京一郎の心を、わくわくさせてならなかった。
「お母様!」と京一郎は語気を強めて云った。
「二十五歳になった時に、私は大金持ちになれるのだとよくお母様は申しました。お母様お願いいたします。今、お金持ちにしてくだされ!」
「京一郎や、まあお前は……」お才は声を顫(ふる)えさせて云った。
「そんなお前、勝手なことを!」
「ねえお母様、お金をくだされ!」
「そういうことも背後(うしろ)にいる女が……」
「ねえお母様、お金をくだされ!」

        六

 例の歌についてお蝶の云った、あの言葉などは京一郎といえども、信ずることは出来なかった。あの歌の後につづく歌を、聞き出すことが出来たなら、大金を得られるというような言葉は。……まして自分の父親などが、そんな歌を知っていようなどとは、京一郎といえども信じなかった。
 で京一郎はそんな方面から、金を得ようとは思わなかった。が、母親が口癖のように、お前が二十五歳になったら、大金持ちになることが出来ると、そう云ったのを知っていたので、その金を今手に入れようと、母親に迫っているのであった。
「お母様お金をくだされ!」京一郎はお才へ迫った。断乎とした執拗な、兇暴でさえもある、脅迫的の京一郎の態度と、顔色と声とはお才の心を、恐怖に導くに足るものがあった。
 食いしばった歯が唇から洩れ、横手に置いてある行灯の灯に、その一本の犬歯が光った。頸に現われている静脈が、充血のためにふくらんでいる。膝に突いている両の拳の、何んと亢奮(こうふん)で顫えていることか! ――京一郎はそういう姿で、お才へ迫って行くのであった。
「京一郎や、まあお前は!」お才は思わず立ち上がった。
「まるで妾(わたし)を! ……どうしようというのだよ! ……」
「金だ!」と京一郎もつづいて立った。
「今! すぐにだ! ねえお母様!」
「狂人(きちがい)だ! お前は! ……おお恐ろしい! 誰か来ておくれ、京一郎が妾を!」
 ――こんなことがあってよいものだろうか! 母はその子に殺されるかのように、こう大声に助けを呼んで、縁から庭へ遁(の)がれようとした。
「お母様!」と追い縋った。
「誰か来ておくれ!」と障子をひらいた。
「逃げますか! お母様! コ、こんなに……頼んでも頼んでも頼んでも!」
 よーし! と猛然と追い迫った時、自然にまかせて生い茂らせ、長年手入れをしなかったため、荒れた林さながらに見える、庭木の彼方(あなた)に立っている、これはそういう林の中の、廃屋さながらの建物の中から、老人の歌声が響いて来た。

□かすかに見ゆる
 やまのみね
 はれているさえなつかしし
 舟のりをする身のならい
 死ぬることこそ多ければ
 さて漕ぎいだすわが舟の
 しだいに遠くなるにつれ
 山の裾辺の麦の小田
 いまを季節とみのれるが
 苅りいる人もなつかしし
 わが乗る舟の行くにつれ
 舟足かろきためからか
 わが乗る舟の行くにつれ
 色も姿もおちかたの
 深き霞にとざされぬ
 われらの舟路! われらの舟路!

 つれてバラードの楽の音が聞こえた。
「あッ!」とその刹那京一郎は、縁に突っ立って動こうともせず、首を伸ばして聞き澄ました。

        七

(幽暗なる世界なるかな
蠱物(まにもの)めきしたたずまいなるかな
ここにある物は「現在」の頽廃、ここにある物は過去への思慕、ここに住める物は生ける亡霊、この部屋へ入る者は襲わるべし)

 こういう箴言(しんげん)が壁の一所に、掲げられていなければ不似合いである。――と、そんなように思われるほど、この部屋は陰気で悲し気で、他界的で気味が悪かった。
 京一郎の父で塩屋の主、お才の良人(おっと)の嘉右衛門が、十数年来孤独に住んでいる、庭の奥の林の中の、廃屋の中の部屋であった。万国地図と海図との懸かった、一方の壁へ背を向けて、背革紫檀の古風で寛濶な、肘掛椅子に腰をかけ、嘉右衛門はバラードを弾いている。六十歳ぐらいの年齢(とし)でもあろうか、頭髪は晒らした麻のように白く、頸(うなじ)にかかるまで長かったが、もう一度世に出る機会が来た時、穢れていては恥であると、そんなように思った心持ちからか、丁寧(ていねい)に手入れされていた。
 鋭い眼、食いしばったような口、大資本家型の猶太(ユダヤ)鼻、嘉右衛門はそういう顔をしていたが、右のこめかみに拇指(おやゆび)大の痣(あざ)が紫がかった黒い色に、気味悪く染め出されているために、不吉な人相をなしていた。長身であり肥大であった。で体格は立派なのであった。
 そういう彼と向かい合って、同じような椅子に腰をかけている、三十五、六歳の武士があったが、他ならぬ十二神(オチフルイ)貝十郎であった。
 その二人を取り巻いて、床の上や壁の面に、雑然と掛けられ置かれてある品の、何んと異様であることか。望遠鏡があり帆綱があり、羅針盤があり櫂(かい)があり、拳銃があり洋刀があり、異国船の模型があり、黄色く色づいている龍骨があり、地球儀があり、天気験器(ウェールガラス)があり、写真器(ドンクルガラス)がありホクトメートルがあった。
 壁に添ってハンモックが釣るされてあったが、そこには、人間が寝ていずに、和蘭(オランダ)あたりの船長でも着そうな、洋服が丸めて置いてあった。
 が、そういう品々は、十数年間人の手によって、手入れをされたことがないと見え、錆(さ)び、よごれ、千切れ、こわれ、塵埃(ちりぼこり)にさえも積もられていた。しかしそれよりもそういう品々やそういう人々を包んでいる、部屋の内部の構造(つくり)の、何んと不思議であることか。天井は黒く塗られている。壁も黒く塗られている。柱も黒く塗られている。壁にあるのは円形の窓で、天井にあるのはこれも円形の、玻璃(はり)で造られた明(あか)り窓(まど)で、そこに灯火(ともしび)が置いてあると見え、そこから鈍い琥珀色の光が、部屋を下様に照らしていた。それにしても天井が蒲鉾(かまぼこ)形に垂れ、それにしても四方の黒い壁が、太鼓の胴のそれのように、中窪みに窪んでいるというのは、いったいどうしたことなのであろう? こういう構造(つくり)は欧羅巴(ヨーロッパ)あたりの、商船のサロンの構造(つくり)ではないか。……まさに、それはそうであった。商船のサロンに則(のっと)ってつくった、部屋に相違なかった。
 思うに嘉右衛門が十数年前、この部屋へ世を避けてこもった時、考えるところあってこういう部屋をひそかに造ったものと見える。
□われらが舟路! われらが舟路!
 最後の歌が終っても、尚バラードは鳴っていた。眼を閉じ追想にふけりながら、嘉右衛門が弾いているからであった。
 その嘉右衛門の顔の上に、天井から光が射していて、額を明るく照らしていた。顔を上向けているからである。閉ざされた眼の下瞼(したまぶた)の辺に――眼窩が老年で窪んでいるのでかなり濃い陰影がついていて、それが彼の顔を深刻にしていたが、尚その後をうたいつづけようとして、なかば開けた唇を、幽(かす)かに顫(ふる)わせている様子と、頬に青年のような血の色が、華やかに注(さ)している様子が、亢奮と感激と思慕と憧憬とに、充たされた顔をなしていた。
(さあもう一息だ! 一息でいい! もう一息で秘密は解けるだろう)
 向かい合って腰かけて嘉右衛門の顔を、熱心に見詰めていた貝十郎は喜びをもってこう思った。
(よし、もう一息駆り立ててやろう)で、彼はそそののかすように云った。
「空にまで届く大龍巻、丘のように浮かぶ大鯨。鰯(いわし)の大軍を追っかけて、血の波を上げる鯱(しゃち)の群れ、海の出来事は総て大きい! 赤い帆が見える! 海賊船だ! 黒い船体が島陰から出た! 真鍮(しんちゅう)の金具、五重の櫓、狭間(はざま)作りの鉄砲檣(がき)! 密貿易の親船だ! 麝香(じゃこう)、樟脳、剛玉、緑柱石、煙硝、氈(かも)、香木、没薬(もつやく)、更紗、毛革、毒草、劇薬、珊瑚、土耳古(トルコ)玉、由縁ある宝冠、貿易の品々が積んである! さあ、日が落ちた、港へはいれ! 黎明(れいめい)が来たぞ、島へ隠れろ! ……大金がはいった、さあ上陸だ! 酒場、踊り場、寝台のある旅舎(はたご)! どれでも選べ、女を漁(あさ)れ! 飲め、酒だ、歌え! それよりもだ、バラードを鳴らして!」
 絶えようとしていたバラードの音が、この時活気を呈して来た。そうして嘉右衛門の見開かれた眼に、燠(おき)のような光が燃えて来た。
(歌うぞ?)と貝十郎は首を伸ばした。
(いよいよあの歌の次を歌うぞ!)亢奮せざるを得なかった。
 当然と云ってよいのである。彼はその歌を聞きたいがために、この夜ごろこの部屋へ入り込んで来て、なかば放心しなかば狂気し、しかも再び密貿易商として、海外へ雄飛しようとする夢を執念深く夢見していて、そのために気むずかしくなっており、そのために尊大になっており、あつかい悪(にく)くなっている、塩屋の主人の嘉右衛門を、すかしたりなだめたりおだてたりして、そうして絶えず亢奮させ、そうして絶えず昔を思い出させ、昔歌ったあの歌のつづきを、歌わせようと苦心をした、その苦心が報いられようとするのであるから。
(歌うぞ!)と貝十郎は耳を澄ました。(あの歌に秘めてある秘密などは、暗号というものの性質を、少しでも知っている人間にとっては何んでもなく解ける種類の秘密だ。一句一句の頭文字と、一句一句の末の文字とを、つなぎ合わせればそれで解ける秘密だ。最初の一句の頭文字は「か」という文字に他ならない。その次の句の末の末字は「ね」という文字に他ならない。こうしてつないで行くことによって、秘密は解けてしまうのだ。そうして俺は秘密を解いた。が、あれだけでは仕方がない。そうさ、「金は石の下、石は川の縁」と云ったところで、その川がどこの川だやら、その縁がどの川のどの辺の縁やら、解らないことには仕方がない。それを説明しているのが、後へ続く歌なのだ)
(歌うぞ!)と貝十郎は耳を澄ました。(後へ続くその歌を!)
 はたして嘉右衛門は歌い出した。
□………………
  ………………
 しかし言葉をなさない前に、にわかに歌うのを止めてしまい、顔を窓の方へやったかと思うと、
「汝(おのれ)ら、秘密を盗みに来たか!」
 こう叫んで立ち上がった。が、その次の瞬間には、腐った木のように床の上に仆れた。
 ぎょっとしてこれも立ち上がり、貝十郎は窓の方を見た。彼の眼に映ったものといえば、この家の伜の京一郎の顔と、お蝶のその実はこの時代の盗賊、六人男といわれている賊の、その中の一人の女勘助の、妖艶をきわめた顔であった。
「馬鹿め! あったら大事なところを!」
 貝十郎は残念そうに叫び、身をかがめて嘉右衛門の手を取った。が、その手には脉(みゃく)がなかった。激情が彼を殺したのである。

 後日、貝十郎は人に語った。
「嘉右衛門は本来密貿易商として、刑殺さるべき人間なのでしたが、財産を田沼侯へ差し上げたので、命ばかりは助けられたのでした。全財産を献じたと云っても、それは実は表向きで、彼は以前から大きな財産を、ひそかに隠して持っていて、その隠し場所を歌へ詠(よ)み込み、機嫌のよい時に一人で歌って、楽しんでいたということです。そうして女房だけへは云ったそうです。『京一郎が二十五にでもなり、俺の事が官から忘れられた頃、その財産を取り出して、昔のような豪快な、海の上の生活をやることにしよう』と。……そういう秘密の歌のことを、どうして館林様が知ったものか――ああいう叡智(えいち)のお方だから、どこからかお知りなされたのであろう。――秘密の歌の前半まで知って、後へつづく歌を知ろうとなされた。と云って嘉右衛門に強いて訊いても、剛愎の嘉右衛門が話すわけはない。伜の京一郎から訊かせたら、親子の情で話すだろう。……そこで手下の六人男と謀り、京一郎を玉にしたのでした。……あの時の喧嘩はカラクリなのでした。お蝶――女勘助の家へ――あの家は彼らの巣だったのでした。……逃げ込ませようためのカラクリだったのでした。それからの事はお話しなくとも推量する事が出来ましょう」

    木曽の旧家


        一

「あれーッ」
 と女の悲鳴が聞こえた。貝十郎は走って行った。森の中で若い美しい娘が、二、三人の男に襲われていた。しかし貝十郎の姿を見ると、その男達は逃げてしまった。
「娘ご、どうかな、怪我(けが)はなかったかな」
「はい、ありがとう存じます。おかげをもちまして」
「それはよかった。家はどこかな、送って進ぜる、云うがよい」
「はい、ありがとう存じます。すぐ隣り村でございまして、征矢野(そやの)と申しますのが妾(わたし)の家で……あれ、ちょうど、家の者が……喜三や、ほんとに、何をしていたのだよ……」
「お嬢様、申しわけございません。道で知人(しりあい)に逢いましてな」
 手代風の若者が小走って来た。こういう事件のあったのは明和二年のことであって、所は木曽の福島であった。

 その翌日のことである。
「どなたか! あれーッ、お助けください!」
 若い女の声がした。で、貝十郎は走って行った。駕籠舁(かごか)きが娘を駕籠へ乗せて、今やさらって行こうとしていた。
「こいつら!」と貝十郎は一喝した。駕籠舁きが逃げてしまった後で、貝十郎は女を見た。
「や、昨日の娘ごではないか」
「まあ」と娘も驚いたようであった。「あぶないところを重ね重ね」
「それはこっちでも云うことだが……」
「あれ、幸い家の者が……」
 三十五、六歳の乳母らしい女が、息をはずませて走って来た。
「お三保様、申しわけございません」

 その翌日のことであった。木曽川の岸で悲鳴がした。
(ひょっとするとあの女だぞ)
 思いはしたが貝十郎は、声のする方へ走って行った。筏師(いかだし)らしい荒々しい男が、お三保を筏へ引きずり込み、急流を下へ流そうとしていた。しかし貝十郎の走って来るのを見ると、筏師と筏とは川下へ逃げた。「娘ご、これで三度だな」「重ね重ね、ほんとうにまあ……」「隣り村はなんという村だ?」「駒ヶ根村でございます。……爺や、お前、何をしていたのだよ」「はいはいお嬢様、申しわけもない……」
 六十近い下僕(しもべ)らしい男が、汗を拭き拭き走って来た。
(あれ、幸い、家の者が――と云う段取りになったという訳か)貝十郎は思い思い別れた。
(俺を釣ろうとの計画とも見えれば、連続的偶然の出来事とも見える)旅籠屋舛屋(ますや)へ帰ってからも、貝十郎は考え込んだ。
(よし、面白い、探って見よう)で、翌日駒ヶ根村へ出かけた。
 用があって木曽へ来たのではなかった。風流から木曽へ来たのであった。よい木曽の風景と、よい木曽の名所旧蹟と、よい木曽の人情とに触れようために来たのであった。
 与力とは云っても貝十郎は、この時代の江戸の名物男であり、伊達男(ダンデー)であり、風流児であり、町奉行の依田和泉守などとは、そういう点で憚(はばか)りのない、友人交際(つきあい)をしていたので、そういうわがままは大目に見られていた。
 上松の宿まで来た時である。貝十郎は茶店へ休んだ。
「征矢野という家がこの辺にあるかな?」
 茶店の婆さんへ何気なく訊いた。
「へい、いくらでもございますだ」
「ナニ、一軒で沢山なのだが、美しい娘のある家だ」
「木曽は美人の名所でごわしてな」
「有難う」と貝十郎は笑って受けた。「婆さんなんかもその一人だね」
「へい、御意(ぎょい)で、三十年前には」
「三十年前の別嬪については、いずれ詮索をするとして、三保という娘のいる家だが……」
「あれ、お三保お嬢様のお家でがすか」
「さよう。お前の親戚かな」
「とんでもねえ」と婆さんは撥ねた。「勿体もねえご旧家様でごわす」
「そのご旧家様、どこにあるかな?」

        二

 旧家であって財産家ではあったが、主人も主婦も死んでしまい、娘一人が生き残り、主人の弟の隼(はや)二郎という男が、後見人として入り込んでいる。上松の宿から三里あまり、山の方へはいった鷺ノ森という地点に、宏大な屋敷が立っている。――と云うのが茶店の老婆の話した、征矢野という家の輪廓であった。
(もうこれだけでも犯罪の起こる、立派な条件が具備されている)鷺ノ森の方へ歩きながら、貝十郎はそんなように思った。
(隼二郎という男が悪人で、征矢野という家を横領しようとする。後継者の娘が邪魔になる。悪漢(わるもの)に云いつけてお三保という娘を、傷者(きずもの)にするか誘拐(かどわか)させる。……平凡に考えてもこんなような、犯罪の筋道はちゃんと立つ)貝十郎は歩いて行った。
 木曽の五木と称されている、杜松(ねず)や羅漢柏(あすなろ)や椹(さわら)や落葉松(からまつ)や檜(ひのき)などが左右に茂っている。山腹の細道は歩きにくく、それに夕暮れでもあったので、気味悪くさえ思われた。空を仰いでも左右から差し出した木々の枝葉に蔽われて、夕焼けた細い空が帯のように覗かれて見えるばかりであった。足にまつわる草や蔓には、露があって脚絆(きゃはん)を冷たく濡らした。
 かなり歩いたと思った時、行く手の灌木の向こうから、若い男女の話し声が聞こえた。
「ね、いいじゃアありませんか。……いつまで待てとおっしゃるのでしょう。……」
「いいえ、いけませんの、どうぞ勘忍して。……妾(わたし)、辛いのでございますわ。……だって、叔父様が……ね、ですから……」
「叔父様が何んです! そんなもの! ……ああ私はどうしたらいいのだ! ……もう待てないのです、とても私には! ……若さだって過ぎてしまいます! ……逃げましょう、いっそ、ね、二人で! ……」
(ははあ)と貝十郎は微笑した。(野の媾曳(あいびき)っていうやつだな。度を越すと野合という奴になる。……)
「三保子!」と突然荒々しい、男の声が聞こえて来た。「何をしている。家へ帰れ!」
「あれ、叔父様、まあどうしよう! ……鏡太郎さん早く逃げて!」
 鏡太郎の逃げる足音が聞こえた。
(やれやれ)と貝十郎は苦笑をした。(叔父さんという奴は大概の場合、粋な人間に出来ているものだが、ここの叔父様は逆だったわい。待て待て、三保子と呼んだようだった。では女はお三保なのか、とすると叔父と云うのは後見をしている、隼二郎という男だな。隼二郎叔父さんを見てやろう)
 で、貝十郎は灌木を巡り、横手の方から前の方を見た。紅い帯を結んだ初々しいお三保の姿――背後(うしろ)姿が見え、その前に立っている痩躯長身の、四十年輩の男の姿が見えた。蒼白い顔色、黒い頤鬚が、陰険の相をなしていた。落ち窪んだ眼窩の奥の方で、瞳がチロチロ光っていたが、それも人相を深刻にしていた。
(これは大変な怪物だぞ)貝十郎は眉をひそめた。(俺に取っても強敵らしいぞ)
 隼(はや)二郎はお三保に何か云っていた。しかしきわめて低声だったので、貝十郎へは聞こえなかった。と、二人は歩き出した。そうして間もなく見えなくなった。
 行く手に小広い野があって、丘がいくつか連らなっていたが、その丘の向こうに征矢野(そやの)の屋敷が、どうやら立っているようであった。
(さて、これからどうしたものだ)貝十郎は思案した。
(とにかく征矢野家まで行って見ることにしよう)しかし十歩とは歩かなかった。
「もし、お武家様、お待ちなすって」こう背後(うしろ)から呼ばれたからである。振り返った貝十郎の眼の前にいたのは、二十四、五歳の若い男であった。
「何か用かな」と貝十郎は訊いた。
「へい」と若い男はニヤニヤ笑った。「あの娘、別嬪(べっぴん)でございましょうがな」
(厭な奴だな)と貝十郎は思った。で、黙って男を見詰めた。
「三保子様は別嬪でございますとも」自信がありそうに若い男は云った。「云わば花野の女王様で」
(こいつ馬鹿だ!)と貝十郎は思った。(でなかったら色情狂だ)
「それに大層もない財産家で」
(おや、こいつ、慾も深いぞ)貝十郎は降参してしまった。
(山の中へ来ると変な奴に逢うぞ)
「お武家様、あなた見ていましたね」

        三

「何を?」と貝十郎は不愉快そうに訊いた。
「私と三保子様との恋三昧をでさあ」
「…………」
「旦那、邪魔をしちゃアいけませんぜ」
「貴様は誰だ!」
「鏡太郎って者だ!」
(ふうん、こいつが鏡太郎なのか)改めて貝十郎は鏡太郎を見た。
 ベロッとした顔、ベロッとした姿、――そういう形容詞が許されるなら、鏡太郎はそういう顔と姿の、持ち主と云わなければならなかった。つまり甞めたような人間なのであった。甞めたように額がテカテカしており、甞めたように頤がテカテカしていた。衣裳などでもテカテカ光っていた。都会の軟派の不良青年――と云ったような仁態であった。しかし太々しい根性は、部厚の頬や三白眼の眼に争い難く現われていた。
(ははあこいつ色悪だな)と貝十郎はすぐに思った。(こいつに比べると隼二郎の方が、まだしも感じがいいと云える。――どっちがいったい悪党なんだろう? ちょっと見当がつかなくなった。江戸にいると俺は見透しなんだが、田舎へ来るとそういかなくなる。田舎は性に合わないと見えるぞ)
「旦那」と鏡太郎が嘲笑うように云った。「ただのお武家さんじゃアなさそうですね。それにお前さんあの女に、特別の興味を持ったようですね。が、ハッキリ云って置く、手を引いた方がようござんしょうと。……鷺ノ森へ来たお前さんだ、征矢野の家のお客なんだろうが、あの女へチョッカイは出さない方がいい」
「うるさい下司(げす)だな、何を云うか!」
「何を、箆棒(べらぼう)、怖いものか」
「行け!」
「勝手だ」
「白痴者(たわけもの)め」
 云いすてて貝十郎は先へ進んだ。
(まるで俺の方が脅されたようなものだ)苦笑せざるを得なかった。(幸先必ずしもよくないぞ)
 その時彼の背後(うしろ)の方から梟(ふくろう)の啼き声が聞こえて来た。つづいて雉(きじ)の啼き声がした。呼び合い答え合っているようである。
(これはおかしい)と思いながら、貝十郎は振り返って見た。灌木の傍らに男女がいた。一人は例の鏡太郎であり、もう一人は見知らない女であって、髷の一所(ひとところ)が夕日を受けて、白く光っているのが見えた。

 征矢野家の客間は賑わっていた。大勢の客がいるのである。その中に貝十郎もいた。
「これはようこそおいでくださいました。ずっとお通りくださいますよう。主人も喜ぶでございましょう。皆様お集まりでございます」
 宏大な征矢野家の表門まで、貝十郎が行きつくや否や、袴羽織の家人が出て来て、こう云って貝十郎を案内しようとした。
「いや、拙者は、何も当家に。……単にこの辺へ参ったもので……」
 当惑して貝十郎はこう云ったが、家人は耳にも入れなかった。待っていた客を迎えるようにして、貝十郎を客間へ通した。
 その客間には貝十郎よりも先に、大勢の客が集まっていたし、貝十郎の後から、幾人かの客が、招じられてはいって来た。
 征矢野家の客間は賑わっていた。
(これまでのところ俺の負けだ)貝十郎はキョトンとした心で、むしろ憂欝と不安とを抱いて、柱へ背をもたせ座布団を敷き、出された酒肴へ手をつけようともせず、彼の左右で雑談している、人々の話をぼんやりと聞き、その合間にそんなことを思った。(これまでのところ俺の負けだ。何から何まで意表に出られる)
「ともかくも先代は人物でしたよ」
 修験者らしい老人が、盃を口から離しながら、隣席(となり)の商人らしい男に云った。「衰微していた征矢野家を、一時に隆盛にしたのですからな。修験道から云う時は『狐狗狸変様蒐珍宝』――と云うことになりますので」
「さようで」と商人はすぐに応じた。「商法の道から申しますと、十ぱい買った米の相場が、一夜で十倍に飛び上がったようなもので」
 するとその隣りに坐りながら、いいかげんに酔っているところから、相手があったら言葉尻でも取って、食ってかかろうと構えている、博徒(あそびにん)らしい若者がいたが、
「一時に金持ちになるような奴に、善人なんかありませんや。その証拠にはここの先代だって、あんな死に態(ざま)をしてしまった。罪ほろぼしというところで、毎年命日がやって来ると、当代の主人がこんなように諸人接待のご馳走をするが、それだけ引け目があるって訳さね」

        四

(そうか)と貝十郎は胸に落ちた。(諸人接待の饗応だったのか。それで俺のような人間をも、有無を云わせず連れ込んだのか。……それはそれとしてこの家の先代には、何か犯罪があるらしいな)
 で、貝十郎は聞き耳を立てて、客人達の話を聞いた。
「一人の老人の旅の者が、何んでもこの家へ泊まったのだそうです」貝十郎のすぐ側(そば)に坐って、肴(さかな)をせせっていた村医者らしい、七十近い老人が、声をひそめて他聞を憚るらしく、自分の前に坐っている、これも六十を過ごしたらしい、寺子屋の師匠とでも云いたげの、品のある老人へ囁いた。「ところがそれっきり旅の者は、この家から姿を隠したそうで。つまりこの家から出ても行かず、またこの家におりもせず、消えてなくなったのだということで」
「さよう私もそんな話を、たしか若い頃に聞きましたっけ。その時以来この征矢野家は、隆盛に向かったということですな」寺子屋の師匠は相槌を打った。「ところがその後ずっと後になって、ごろつきのような人間が、この征矢野家へやって来て、先代を強請(ゆす)ったということですな」
「さようさようそうだそうです。親父(おやじ)を生かして返してくれ、それが出来なかったら財産を渡せ――こう云って強請(ゆす)ったということで」
「ところがその男もいつの間にか、姿が失(な)くなってしまったそうで」
「そこで私はこう思いますので」村医者らしい老人は云った。
「ここの屋敷を掘り返したら、浮ばれない無縁の二つの仏が、白骨となって現われようとね」
「まさにね」と寺子屋の師匠が云った。「と思うとここにあるご馳走なども、血生臭くて食えませんよ」
「先代が裏庭の松の木の枝で、首を縊って死んでいたのを、私は検屍をしたのでしたが、厭な気持ちがいたしましたよ」
「私は現在ここの娘の、お三保さんに読書(よみかき)を教えているのですが、どうも性質が陰気でしてな」
(なるほど)と貝十郎はまた思った。(そういう事件があったのか。ここの先代は悪人なのかもしれない)
(しかし)と貝十郎はすぐに思った。(田舎の旧家というような物には、荒唐無稽で出鱈目な事が、伝説のような形を取って、云いつたえられているものだから、そのまま信用することは出来ない)
 ――それにしても主人の隼二郎も、娘のお三保と接待の席へ、何故姿を見せないのだろう? このことが貝十郎を不思議がらせた。
 袴羽織の召使いや、晴衣をまとった侍女などが、出たりはいったりして酒や馳走を、次から次と持ち運び、酌をしたり世辞を振り蒔いたりしたが、隼二郎とお三保とは出て来なかった。燭台が諸所に置かれてあり、それの光が襖や屏風の、名画や名筆を華やかに照らし、この家の豪奢ぶりを示していた。
 客の種類は雑多であった。村の者もいれば隣村の者もおり、通りがかりの旅人もいれば、接待の噂を聞き込んで、馳走にあずかりに来たものもあった。僧侶の隣りに浪人者がいたり、樵夫(きこり)の横に馬子がいたりした。
「お武家様おすごしなさりませ。妾(わたくし)、お酌いたしましょう」不意に横から云うものがあった。
「うむ」と貝十郎はそっちを見た。
 いつの間にそこへ来ていたものか、山深い木曽の土地などでは、とうてい見ることの出来ないような、洗い上げた婀娜(あだ)な二十五、六の女が、銚子を持って坐っていた。三白眼だけは傷であったが、富士額の細面、それでいて頬肉の豊かの顔、唇など艶があってとけそうである。坐っている腰から股のあたりへかけて、ねばっこい蜒(うね)りが蜒っていて、それだけでも男を恍惚(うっとり)させた。
「これは……」と貝十郎は思わず云ったが、釣り込まれて盃を前へ出した。
「はい」と女は上手に注いだ。
 キュッと飲んで置こうとするところを、
「お見事。……どうぞ、お重ねなすって」
 云い云い女は片頬で笑い、上眼を使って流すように見た。
「では……」「はい」
「これはどうも」「駈け付け三杯、もうお一つ」「さようか」「さあさあ」「こぼれましたぞ」
「これは失礼。……ではその分を……」「え?」

        五

「いいえさ、今度こそ上手に、ホ、ホ、散らぬようお注ぎいたします」
「うーん、どうもな、大変な女だ」
「まあ失礼な、お口の悪い」
「いやはや、ご免、地金が出ました」
「今度は罰金でございます」
「と云うところでもう一つか」
「それもさ、今度は大きい器(うつわ)で」
「これは敵(かな)わぬ」「敵わぬついでに」
「降参でござる。もういけない」
「では妾(わたくし)が助太刀と出ましょう」
「おお飲まれるか、これは面白い。……さあさあ拙者が注ぎの番か」
「はい、ご返盃」「あい、合点」
「ねえお武家様」と女は云った。「江戸のお方でございましょうね」
「ナーニ、奥州は宮城野の産だ。……そなたこそ江戸の産まれであろうな」
「房州網代村の産でござんす。……ご免遊ばせ」
 とスッと立ち、向こう側の座席へ行ってしまった。
(驚いたなあ)と貝十郎は、胸へ腕を組んで考えた。(どういう素姓の女だろう? ……それにしてもすっかり酔わされたぞ)その時寺子屋の師匠の声がした。
「お豊、あの女が曲者でしてな」
「さようで」と村医者の声がした。「隼二郎殿もお蔭で痩せましょうよ」
 こうして接待は深夜まで続いた。その間に土地の人達は、次々に辞して家へ帰り、旅の者だけが希望(のぞみ)に委せて、別々の座敷で寝ることになった。
 貝十郎の案内された部屋は、十畳敷きぐらいの部屋であって、絹布の夜具が敷かれてあり、酔ざめの水などが用意されてあった。
(さて、これからどうしたものだ)貝十郎は布団の上へ坐り、ぼんやり行燈を眺めやった。したたかに彼は飲まされたので、酔がすっかり廻っていた。(何んにもなすことはないじゃアないか。フラリとやって来てご馳走になって、いい気持ちに酔ったのだからな。このままグッスリ眠ってしまって、翌日になったら顔を洗い、有難うござんしたとお礼を云って、帰ってしまったらいいじゃアないか)彼はこんなことを思い出した。(何も征矢野家の犯罪って奴を、あばき出そうために来たのじゃアない。たかだか酔狂な好奇心から、様子を探るために来たまでだ。探る必要はあるまいよ)トロンとした心でこんなことを思った。(叩いた日にはどんなものからだって、罪悪という埃は立つさ。こういう俺だってひっ叩かれて見ろ、そりゃア目茶苦茶に埃は立つ)ここまで考えて来ておかしくなった。(二百石取りの与力の俺がさ、蔵前の札差しと対等に、吉原で花魁(おいらん)が買えるんだからな。不思議と云わなければならないよ。そういう贅沢がどうして出来る? と、歯ぎしりをして問い詰められて見ろ、ダーとなって引っ込んでしまわなければならない)

 そこで寝てしまおうと帯を解きはじめた。その時どこからともなく、雉(きじ)の啼き声が聞こえて来た。すぐに続いて梟の啼き声が、――こんな深夜だのにそれに答えて、どこからともなく聞こえて来た。
(いけない)と貝十郎は帯を解く手を止め、その手で大小を手(た)ばさんだ。与力としての良心が、にわかに閃めいたからである。襖をあけて廊下へ出た。しかしすぐによろめいた。(はてな、悪酔いをしたらしいぞ)
 ヒョロヒョロヒョロヒョロと先へ進んだ。

        六

 廊下の片側が雨戸になっていて、その一枚が開いていたので、そこから裏庭へ出て行った時にも、貝十郎の酔は醒めていなかった。
 遅い月が出て植え込みの葉が、いぶし銀のように光っている蔭から、男女の話し声が聞こえて来た時には、しかし貝十郎も耳を澄ました。
「おい豊ちゃんどうなんだい」
「鏡ちゃん、駄目だよ、まだなんだよ」
「駄目、へえ、どうして駄目なんで?」
「あの人どうにも固いのでね」
「何んだい、豊ちゃん、意気地(いくじ)がないなあ」
「鏡ちゃんだって意気地がないよ。二度も三度も縮尻(しくじ)ったじゃアないか」
「邪魔がそのつど出やがるのでね。それもさいつも同じ奴が。江戸者らしい侍なんだよ」
「江戸者らしい侍といえば、妾もそういうお侍さんへ、酒を飲ませて酔いつぶしてやったよ」
「邪魔の奴はつぶしてしまうがいいなあ。……でないといい目が見られないからなあ。……豊ちゃんと俺(おい)らとのいい目がさ」
「そうとも」と女の声が云った。愛を含んだ声[#「含んだ声」は底本では「含ん声」]であった。
「そうとも二人のいい目がねえ。……妾(わたし)アお前さんが可愛くてならない」
 それっきり、声は絶えてしまった。
(オーヤ、オーヤ)と貝十郎は思った。(ここでも媾曳(あいびき)が行われている。悪党同士の媾曳だ。鏡太郎とそうしてお豊とらしい)(悪くないな)としかし思った。(罪悪のあるらしい旧家の裏庭で、美貌の若者と美貌の女とが、月光に浸りながら媾曳をしている。詩じゃアないか! 詩じゃアないか! そいつを与力が立ち聞きしている。詩じゃアないか! 詩じゃアないか! ……厭だよ、こんないい光景を「御用だ!」などという野暮な声を出して、あったらぶち壊してしまうのは。……こっそり逃げて帰ってやろう)
 酔がさせる業であった。与力の方から逃げ出したのである。
 彼は家へははいらなかった。庭を巡ってどこまでも歩いた。
 宏大な建物を囲繞(いにょう)して、林のようにこんもりと、植え込みが茂っている庭であり、諸所に築山や泉水や、石橋などが出来ており、隔ての生垣には枝折戸(しおりど)などがあったが、鍵などはかかってはいなかった。幾個(いくつ)かの別棟の建物があり、厩舎(うまや)らしい建物も、物置きらしい建物も、沢山の夫婦者の作男達のための、長屋らしい建物もあった。夜が更けているところから、どの建物からも灯火(あかり)は射さず、人の声も聞こえなかった。厩舎の前まで行った時、ませ棒を蹴っていた白い馬が、人なつかしそうに首を伸ばし、太い鼻息をして貝十郎を迎えた。横射しに射していた月光が、その長い顔をいよいよ長く見せた。
 貝十郎は彷徨(さまよ)って行った。と、行く手に建物があり、そこから灯火が射していた。主屋と五間ほど離れた所に、独立して建ててある建物であって、二間か三間かそれくらいの座敷を、含んでいる程度の大きさであり、主屋とは幾個かの飛び石をもって、簡単に連絡されていた。風変わりの建物でもなかったが、頑丈にしかして用心堅固に、造られているように見て取られた。三方厚い壁であり、その壁々には明りとりの、鉄格子をはめた窓ばかりが、わずかについているばかりであった。主屋(おもや)に向いた方角に、出入り口がついていた。土蔵づくりの建物なのである。燈火は出入り口から射していた。戸をとざすのを忘れたからであろう。射している光もほんの幽(かす)かで、他の幾棟かの建物から、同じように光が射していたら、紛れて気づかれないほどであった。
 貝十郎はそっちへ進んだ。入り口の前まで歩いて行った時、彼は女の泣き声と、そうして男の叱る声とを、その建物の中から聞いた。
(オーヤ、オーヤ)と彼は思った。(ここでは女が虐められている。反対側のあっちの庭では、男と女とが愛撫し合っていたが)
 彼はしたたかに酔っていた。そうして彼は与力であった。与力としての精神と、酔漢としての戯心(たわむれごころ)とで、彼は真相を知ろうと思った。
 で、足音を忍ばせて、建物の中へはいって行った。泣きながら女の喋舌(しゃべ)る声が、すぐ彼へ聞こえて来た。
「妾(わたし)、もうもう待てません。……これではまるで嫐(なぶ)り殺しです。……今夜こそ……どうしたって……でなかろうものなら……」
 男の叱る声が聞こえた。
「ね、あっちへ行っておいで。……お前の心は解っているよ。……が、しかしそう性急には……物事にはすべて順序がある。あの……娘(こ)を……ね、三保の方を……三保は年頃になっているのだから。……それに私(わし)には仕事がある。……これもどうしたって仕上げなければならない。……だからこそ私(わし)はこんな所へ……ああそうだよ。こんな所へこもって……」
 泣きながら反対する女の声がした。
「ですから三保子様を早くどなたかへ。……鏡太郎さんというあの人へでも。……お仕事! ああ、そのお仕事です! どんなに妾はそのお仕事を、憎んで憎んで憎んでおりますことか! ……そのためあなたは人相までも、変わってしまったではありませんか! ……二つの骸骨! 壊してしまおうかしら!」
「これ、お豊! 何を云うのだ!」
「旦那様! いいえ隼二郎様」
「お豊、私(わし)はお前を愛している。……ね、それだけは信じておくれ」
「妾(わたし)も、ええ妾(わたし)もですの」二人の声はここで切れた。
(さて)と貝十郎は苦笑して思った。(この後は抱擁ということになるのさ)
 彼の足下には二尺幅ぐらいの、狭い廊下が左右に延び、同じくらいの狭い廊下が、前方へ向かっても延びていた。丁字形になっている廊下の中央に、彼は佇んでいるのであった。その前方に延びている廊下の、右側に大きな部屋があり、部屋の扉が開いているので、燈火と人声とが洩れて来るのであった。数歩進んで扉の口まで行き、そこから内を覗いたなら、内の様子は見えるのであった。内部の一部――床の端だけは、ここにいる貝十郎にも見て取れた。畳が敷いてないのである。板張りになっているのである。
(お豊とそうして隼二郎なのか。……いや、腕の凄い女ではある。あっちの庭では年の下の、美少年と媾曳をしたかと思うと、こっちの部屋では年の上の、金持ちの旦那を口説いている、同じ晩にさ、わずかの時間にさ。……あんな女は都会にも少ない。どうにも俺は田舎が嫌いだ)

        七

 この時隼二郎の声が聞こえた。
「杉田玄伯殿、前野良沢殿、あの人達と約束したのだよ、私の方が早く仕とげて見せると。……江戸でああいう人達と一緒に、研究していた頃は面白かった。……後見人となってこの家へ入り、木曽山中のこんな所で、くらしをするようになってから、私には面白い日がなくなってしまった。……お前が来てからそうでもなくなったが。……さあ私(わし)はやらなければならない。……さあお前はあっちへ行ってお休み。……あの娘が眼でも醒ますといけない。……私(わし)はあの娘(こ)を愛している。……どうもあの娘には誘惑が多い。
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