生死卍巴
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著者名:国枝史郎 

「云うまでもない、丹生川平へよ」
「茅野雄の後を追いましてな」
「素晴らしい何かを求めてだよ」
「で、我々一党の者は?」
「出立々々、同時に出立!」
「かしこまりましてございます」
 ――で、二人は引っ返したが、この頃松平碩寿翁においては、刑部屋敷の露路の口で、一人の若者と話していた。

兇悪の碩寿翁

(醍醐弦四郎と云ったあの男も、俺と同じ物を探しているらしい。油断のならない人物らしかったが、とんでもない競争者が出て来たものだ)
 碩寿翁はこんなことを思いながら、弦四郎の立ち去ったその後においても、蒐集部屋の中をあちらこちらと、珍奇の器具類を調べながら、しばらくの間はさまよっていた。
(今日はこれぐらいで帰るとしよう)
 で、碩寿翁は蒐集部屋を出たが、出たところに露路があって、それをウネウネと幾廻りかして、往来へ出なければならなかった。
 こうして碩寿翁は露路口まで来た。と、その時一人の男が、誰かに追われてでもいるかのように、息を切らして走って来たが、そこまで来ると足を止めて、キョロキョロ四辺(あたり)を見廻し出した。
「もし」と、碩寿翁を眼に入れたので、その若者は声をかけた。
「ちょっとお訊ねいたしますが、刑部屋敷と申します屋敷は、どこら辺りでござりましょうか?」
「刑部屋敷か、刑部屋敷はここだ。たった今私の出て来たところだ」
 こう云うと碩寿翁は若者を見た。
「おやそうでございましたか。やっと安心いたしました。で、はなはだ失礼ながら、あなた様がお屋敷のご主人で?」
「何か用でもあるというのか?」
「主人の用事でござります。はいはい私のご主人様の。ええ私のご主人様と申すは、松倉屋の奥様にござります。私ことは京助と申して、寵愛の手代にござります。で、奥様が仰せられました。この品物を持って行って、刑部屋敷のご主人に逢って、お手渡しをして参るがよい。一緒に書面もお渡ししな。そうしてご返辞をいただいて参れ。下さるものがあるだろう、それをもいただいて参るがよい。……これが品物にございます。これがお手紙にござります。……品物の中身は存じませぬが、どうやら高価の品物らしく、それが証拠には勘右衛門様が――はい松倉屋のご主人様なので、――品物を取り返そう取り返そうとして、いやはやいやはやとてもしつこく、追っかけて来ましてございます。で、私は一散に逃げて、やっとここまで参りました。ほッ、この汗! この汗はどうだ! 汗をかきましてござります。ほッ、この動悸! この動悸はどうだ! ひどい動悸が打っております。……」
 碩寿翁を屋敷の主人と見あやまり、京助はあたふたこう云いながら、包み物と書面とを前へ出した。
 恐ろしい主人の勘右衛門に、執念深く追いかけられ、弁太や杉次郎に助けられ、ようやく逃げて根津まで来て、あっちこっちをほっつき廻り、ようやく目的の刑部屋敷の、露路の口まで来たのであった。その時風采堂々とした、松平碩寿翁に逢ったのである。顛倒している眼から見れば、刑部屋敷の主人公に、碩寿翁の見えたのは当然と云えよう。
 で、京助は恭しく、包み物と書面とを支え持っていた。
(松倉屋の女房の高価な品物? 勘右衛門が取り返そうと追って来た品物? 刑部屋敷の主人へ渡して、返辞と何かを下さるだろうから、それをいただいて参れという品物。……松倉屋は昔は抜け荷買いだ、異国の珍器なども持っていよう。刑部屋敷の主人といえば、そういう品物を売買する奴だ……松倉屋の女房は贅沢三昧で、むやみと金を使うという。……うむ、解った! それに違いない!)
 碩寿翁には咄嗟に真相が解った。
 俄然碩寿翁の眼の光が、貴人などにはあるまじいほどに、毒々しく惨酷に輝いたが、
「さようか、よろしい、受け取りましょう。返辞もあげよう、物もあげよう。……さあさあこっちへ参るがよい。どれ」と、手を延ばして二品を取ったが、とたんに片手をグッと突き出した。
 呻きの声の聞こえたのは、急所を突かれた手代の京助が、倒れながら呻いたからであろう。
 左右は貧民の家々であって、露路を挟んで立ち並んでいる。月の光が遮られて、露路の中はほとんど闇であった。そういう露路を背後(うしろ)にして、露路口に立っている碩寿翁の姿は、その長い髯に、頑丈な肩に、秀れた上身長(うわぜい)に、老将軍らしい顔に、青白い月光を真っ向に浴びて、茶人とか好奇家(こうずか)とか大名の隠居とか、そういうおおらかの人物とは見えずに、老吸血鬼か殺人狂のように見えた。その足もとに転がっているのは、犠牲にされた京助であって、両手を握って左右へ延ばし、食いしばった口から泡を吹き半眼で空を睨んでいる。
 と、碩寿翁は腰を曲げたが、手を延ばすと京助の襟上をつかみ、露路へズルズルと引っ張り込んだ。
 一つの露路は二つの露路を産み、二つの露路は四つの露路を産み、この一画は細い露路によって、蜘蛛手(くもで)のように織られていたが、それの一つへ投げ込まれたが最後、死人であろうと、怪我人であろうと、犬や猫のように扱われて、死人は下手人も探されず、そのままどこかへ片寄せられ、怪我人は介抱もされないのであった。
 この一画は貧民窟ではあったが、また罪悪の巣でもあり、悪漢(わる)や無頼漢(ごろつき)の根城なのでもあった。
 淫祠邪教の存在地なるものは、表面人助けが行なわれるが、裡面においては惨忍極まる、悪徳が横行するものである。
 とりわけ細い露路の一つへ、死んでしまったのか、気絶をしているのか、されるままになっている京助の体を、ズルズルと引っ張って来た松平碩寿翁は、一軒の家の門口(かどぐち)の前へ、その京助の体を捨て、忍びやかに露路を出ようとした。
 と、その家の窓の辺りから、急に華やかな燈火(ともしび)が射し、高貴な若々しい男の声が、屈託もなさそうに聞こえてきた。
「問題は非常に簡単なのだよ。小慾にあり知足(ちそく)にあるのさ。なるほど、今は生活(くらし)にくい浮世だ。戦い取ろう、搾(しぼ)り取ろうと、誰も彼も逆上してあせっている。だから私は云うのだよ、慾を少なくして、足るを知れと。つまり浮世と逆行するのだ。その逆行が徹底した時に、桃源郷が現じ出してくる。……誰も彼も桃源郷を求めていながら、誰も彼もが桃源郷を断っている」
 するとその声に答えるようにして、あどけない娘の声がした。
「小父(おじ)様ほんとうでございますわね。……でも小父様はどういうお方ですの?」
「私(わし)かね」と男の笑声が云った。
「旅人なのだよ、この人の世の。……お伽噺の語り手なのだよ。伝道者と云ってもよいかも知れない」
「妾(わたし)ちっとも恐くないわ。知らないお方ではございますけど。……フラリと先刻(さっき)いらしった時から、ちっとも恐くはございませんでしたの」
「それはね、お前さんがよい娘(こ)だからよ。……悪人なら私を怖がるはずだ」
「でも小父様はお立派なのね。お顔もお姿もお召し物も。……そうして何て神々(こうごう)しいのでしょう。妾、ひざまずいて拝みたいのよ」
「お前さんの心が立派だからよ。……立派な心は立派な心を好くよ。私こそお前さんにひざまずくべきだよ」
「でも妾貧しいのでございますの。誰も彼も私を馬鹿にしますの」
「一人だけお前さんを認めているものがあるよ」
「まあ小父様、あなたのことですの」
「いやいや私がお仕えしている方だよ」
「どなたでございますの? ねえ小父様?」
「唯一なる神」
「唯一なる神?」
「お聞きお妙(たえ)さん、聞こえるだろうね」
「…………」
「小慾知足とは反対に、飽くことを知らない強慾者が、みすみす没落の穴の方へ、歩いて行く足音が聞こえましょう」
「小父様妾には聞こえませぬが」
「窓をお開け!」と男の声がした。
「姿を見ることが出来ましょう。その気の毒な強慾者の姿が」
 露路の闇に佇んで、聞きすましていた碩寿翁は、一刹那体をひるがえすと、その家の板へへばりついた。
 と、すぐに窓があき、娘の顔が現われたが、家内(いえうち)から射し出る燈火(ともしび)の光を、背景としているがために、顔立ちなどはわからなかった。清らかな白い輪廓ばかりが、ぼんやり見えるばかりであった。
 娘は露路の左右を見たが、
「小父様、何にも見えませぬ」
「さようか」と、家内で男の声が云った。
「では見ない方がよいだろう。……そうだ、なるたけ穢らわしいものは」
「ああ小父様、黒い物が見えます。おおおお死骸でございます。若い方の死骸でございます。露路の真ん中に倒れております」
「助けておいで」と、男の声がした。
「可哀そうな不幸な贄(にえ)なのだよ」
 つづいて「はい」という声が聞こえて、窓から娘の顔が消えた。
 と、戸をあける声がした。
 松平碩寿翁は見付けられなければなるまい。
 いやいや碩寿翁はこの時には、既に露地から走り出していた。すなわち窓から娘の顔が、引っ込むと同時に身を躍らせて、露路から外へ飛び出したのであった。

颯と一揮

(あのお方があんな所におられようとは。……俺はとうとう感付かれてしまった! ……俺に恐ろしいのはあのお方ばかりだ。……俺は邸へは帰られない。俺は体を隠さなければならない。……あのお方があんな所におられようとは。いやいやこれは当然かも知れない。……あのお方はああいうお方なのだから。……不正な所へも現われるし、正しい所へも現われる。貧しい所へも現われれば、富んだところへも現われる。そうして「状態」をひっくり返す)
 露路口で立ち止まった碩寿翁は、こう考えて戦慄したが、そういう恐怖よりもさらに一層の、好奇心が胸へ湧き上った。で、手に持っていた包み物の、包みをグルグルと解きほぐし、現われた蒔絵(まきえ)の箱の蓋(ふた)を、月に向かってパッと取った。と一道の鯖(さば)色の光が、月の光を奪うばかりに、燦然としてほとばしり出たが、ほんの一瞬間に消えてしまった。碩寿翁が箱の蓋を冠(かぶ)せたからである。
「おおこの光に比べては、名誉も身分も、財産も生命(いのち)さえも劣って見える。……あれだ! たしかに! 探していたあれだ!」
 感動が著しかったためなのであろう、碩寿翁はガタガタと顫え出した。
 が、その次の瞬間に、碩寿翁を驚かせたものがあった。一本の腕が背後(うしろ)から延びて、蒔絵の箱を掴んだからである。
 とたんに活然と音がして、白い物が月光に躍り上り、すぐに地に落ちてころがった。
 抜き討ちに切りつけた碩寿翁の太刀に、御幣(ごへい)の柄が真ん中から二つに切られ、その先が躍り上って落ちたのであった。
 露路口に立っている女があった。白の行衣(ぎょうえ)に高足駄をはき、胸に円鏡を光らせてかけ、手に御幣の切られたのを持って、それを頭上で左右に振って、鋭い声で喚いている。
 勘解由(かげゆ)家の当主の千賀子であった。
「返せ返せ持っている物を返せ! 久しく尋ねていた我が家の物だ! それの一つだ、返せ返せ! ……刑部(おさかべ)殿々々々、お出合いくだされ! あなたにとっても大切の物が、見付かりましてござりますぞ! ……得体の知れない老人が、持って立ち去ろうといたします! ……お出合いくだされ、お出合いくだされ! ……あッ、切り込んで参ります! 妾は殺されそうでござります! お出合いくだされ! お助けくだされ!」
「黙れ!」と碩寿翁は叱□(しった)した。
「汝(おのれ)こそ誰だ、不届きの女め! 拙者の持ち物を取ろうとする! ……うむ、うむ、うむ、汝もそうか! 汝もこいつを探している一人か! ……では許されぬ! 助けはしない! ……くたばれ!」と、毒々しく食らわせたが、一躍すると颯(さっ)と切った。
 辛くもひっ外した巫女の千賀子は、御幣(ごへい)を尚も頭上で振ったが、
「なんの汝に! 切られてなろうか! なんの汝に! 取られてなろうか! ……返せ返せ、我が家の物だ! ……刑部殿、刑部殿、刑部殿!」
 するとその声が聞こえたのであろう、露路の奥から応ずる声がした。
「おお千賀子殿か、何事でござる!」
 つづいて走って来る足の音がしたが、刑部老人が来るのでもあろう。道服めいた衣裳を着て、払子(ほっす)を持った身長(たけ)の高い翁(おきな)の、古物商の刑部が露路を走って、露路の口まで出て来た時には、しかし松平碩寿翁は、その辺りにはいなかった。月の光を青々と刎(は)ねて、数間の先を走っていた。
「あッ、ありゃア碩寿翁様だ! ……え、あの方があれを持って? ……ふうむ、さようか、それはそれは。いやそれなら大事ない! 私に取り返す策がある。……が、待てよ、こいつはいけない! ……大変だ大変だかえって大変だ!」

 それから三日の日が経った時に、旅よそおいをした一人の武士が、飛騨の峠路を辿っていた。
 ほかならぬ宮川茅野雄(ちのお)であった。
 巨木が鬱々と繁っていて、峠の路は薄暗く、山蛭(やまひる)などが落ちて来て、気味の悪さも一通りでなかった。と、その時唸りをなして、一本の征矢(そや)が飛んで来たが、杉の老幹の一所へ立った。矢文と見えて紙が巻いてある。
「はてな?」と、立ち止まった宮川茅野雄は、手を延ばすと文をほぐし取ったが、開いて読むと血相を変えた。
「醍醐(だいご)弦四郎お約束通り、貴殿を付け狙い致してござる」
 矢文に書いてあった文字(もんじ)である。
 で、茅野雄は顔色を変えて、突っ立ったままで考え込んだ。
 思い出されるのは、いつぞやの晩に、醍醐弦四郎という浪人者に、突然切ってかかられたあげく、
「あの巫女(みこ)が占いをいたした以上は貴殿にはほとんど間違いなく、その『何か』を手に入れようとして、努力をなさるようになりましょう。と、拙者とは必然的に、競争をすることになりましょう。もしもそのようになった際にはいつも貴殿の生命(いのち)を巡って、拙者の刃(やいば)のあるということを、覚悟をなされておいでなさるがよろしい」と、このように云った言葉であった。
(それでは醍醐弦四郎という男は、俺と敵対をするために、このように飛騨の山中まで後をつけて来て矢文を射て、俺を脅迫しているのか)
 茅野雄は何となく肌寒くなった。
(どうして俺が江戸を立って、飛騨の山中へ入り込んだことを、あの男は探り知ったのであろう?)
 これが茅野雄には不思議であった。
(しかし俺は巫女の占いを奉じて、飛騨の山中へ来たのではない。叔父の一族に逢おうとして、飛騨の山中へ入り込んだのだ)
 とはいえ結果から云う時には、
「山岳へおいでなさりませ、何か得られるでございましょう」と、そう云った巫女の言葉の、占い通りにはなっていた。
(しかし俺に巫女が占ってくれた「何か」がはたして何であるか、それさえ知ってはいないのだ)
 ――で、醍醐弦四郎などに、敵対行動を取られるという、そういう理由はないものと、そう思わざるを得なかった。
(そうは思うものの醍醐弦四郎に、現在このように矢文を付けられ、あからさまなる敵対行動を、約束された上からは、用心しなければならないだろう)
 で、茅野雄は四方(あたり)を見た。
 六月の山中の美しさは、緑葉と花木とに装われて、類い少なく見事であった。椎の花が咲いている。石斛(せっこく)の花が咲いている。槐(えんじゅ)の花が咲いている。そうして厚朴(ほお)の花が咲いている。鹿が断崖の頂きを駆け、鷹(たか)が松林で啼いている。鵙(もず)が木の枝で叫んでいるかと思うと、鶇(つぐみ)が藪でさえずっている。
 四方八方険山であって、一所に滝が落ちていた。その滝のまわりを廻(めぐ)りながら、啼いているのは何の鳥であろう? 数十羽群れた岩燕であった。
 高山の城下までつづいているはずの、峠路とも云えない細い道は、足の爪先からやまがたをなして、曲がりくねって延びていた。昼の日があたっているからであろう。道の小石や大石が、キラキラと所々白く光った。
 しかし、弦四郎と思われるような、人の姿は見えなかった。
(不思議だな、どうしたのであろう?)
 宮川茅野雄は首を捻(ひね)ったが、ややあって苦い笑いをもらした。
(何も近くにいるのなら、矢文を射てよこすはずはない。遠くに隠れているのだろう。そこから矢文を射てよこしたのだ。そうしてそこから窺っているのだ)
 それにしても戦国の時代ではなし、矢文を射ってよこすとは、すこし古風に過ぎるようだ。――こう思って茅野雄はおかしかった。
(弓矢で人を嚇すなんて、今時なら山賊のやることだがなあ)
 考えていたところで仕方がない。用心しいしい進んで行くことにした。
 で、茅野雄は歩き出した。
 裾べり野袴に菅(すげ)の笠、柄袋をかけた細身の大小、あられ小紋の手甲に脚絆、――旅装いは尋常であった。
 峠の路は歩きにくい、野茨が野袴の裾を引いたり、崖から落ちて来る泉の水が、峠の道に溢れ出て、膝に浸(つ)くまでに溜っていたりした。
 高山の城下へ着くまでには、まだまだ十里はあるだろう。それまでに人家がなかろうものなら、野宿をしなければならないだろう。
(急がなければならない、急がなければならない)
 で、茅野雄は足を早めた。
 こうして二里あまりも来ただろうか、峠の道が丁寧にも三つに別れた地点まで来た。
(さあ、どの道を行ったものであろうか、ちょっとこれは困ったことになったぞ)
 で、茅野雄は足を止めた。

不思議な老樵夫

 一本の道は少しく広く、他の二本の道は狭かった。
(城下へ通う道なのだから、相当に広い道でなければならない――この広い道がそうなんだろう。高山へ通っている道なんだろう)
 こう茅野雄は考えて、その広い道へ足を入れた。
 と、その時一人の老人が、狭い方の道の一本から、ノッソリと姿を現わした。かるさんを穿いて筒袖を着て、樵夫(そま)と見えて背中に薪木をしょって、黒木の杖をついていた。
「ああこれ爺(おやじ)ちょっと訊きたい」
 茅野雄はそれと見てとって、確かめて見ようと思ったのだろう。後戻りをして声をかけた。
「高山のお城下へ参るには、この道を参ってよろしかろうかな?」
 こう云って広い方の道を指した。
 と、老樵夫は冠り物を取って、コツンと一つ頭をさげたが、つくづくと茅野雄の顔を見た。
「へい、高山へいらっしゃいますので」
「さよう、高山へ参る者だ。この道を参ってよろしかろうかな?」
「…………」
 どうしたのか老樵夫は物を云わないで、何か物でも探るように、茅野雄の顔を見守った。
 大きい眼、高い鼻、田舎者らしくない薄い唇、頬の肉がたっぷりと垂れていて、わずかではあったが品位があった。年格好は五十五六か、顔の色は赧く日に焼けていたが、かえってそれが健康そうであり、額や頤に皺はあったが、野卑なところは持っていなかった。――これが老樵夫の風貌であって、注意して観察を下したならば、単なる山間の住民などではなく、由緒ある人間だということに、感付くことが出来たであろう。
 と、老樵夫は意味ありそうに笑った。
「ハッハッハッ、異(ちが)いますよ」
「異う? そうか、この道ではないのか」
「へいへいこの道ではございません」
「しかしこの道が広いようだが。お城下へ通っている道とすれば、この道以外にはなさそうだが」
 すると老樵夫はまた笑ったが、意味ありそうに次のように云った。
「尊いお文(ふみ)にございます。天国への道は細く嶮しく、地獄への道は広うござるとな。――それ、この一番狭い道が、あなた様の道でございますよ」
(何だか風変わりのことを云う爺だ。まるでお説教でもしているようだ)
 茅野雄は笑止に思いはしたが、
「ほほうさようか、この細い道か。この道を真直ぐに辿って行けば、高山のお城下へ出られるのだな」
 しかし老樵夫は同じような事を、慇懃(ねんごろ)に繰り返すばかりであった。
「それ、この一番狭い道が、あなた様の道でございますよ」
「そうか」と、茅野雄は会釈をした。
「お前に訊ねてよいことをした。お前へ道を訊かなかろうものなら、すんでに別の道へ行くところだった。ではこの道から参ることにしよう」
 で、茅野雄は歩き出したが、すぐに丈(たけ)延びた雑草に蔽われ、その姿が見えなくなった。と、老樵夫は茅野雄の行った後を、意味ありそうに見送ったが、
「武道も学問もおありなさる、立派なお武家に相違なさそうだ。……郷民(ごうみん)たちは喜ぶだろう。……きっと歓迎するだろう。……が、云ってみれば人身御供(ひとみごくう)さ。お武家様にはご迷惑かもしれない。……とはいえ俺達にとって見ればなあ」
 こう呟きの声を洩らした。
 夏の日が熱く照っていて、ムッとするような草いきれがした。と、一匹の青大将が、草むらから姿を現わしたが、老樵夫を見ても逃げようとはせず、道を横切って姿を消した。
「どれ、そろそろ行くとしようか」
 で、老樵夫は歩き出したが、ものの二間とは行かなかったろう、旅装いをした五人の武士が、茅野雄の上って来た同じ道から、上って来るのに邂逅(いきあ)った。
「これこれ」と、一人の武士が云った。
「ちょっと物を訊(たず)ねたい」
 猟夫(さつお)の使う半弓を持った、それは醍醐弦四郎であったが、さも横柄に言葉をつづけた。
「旅の侍が通ったはずだ。ここに三本の道がある。どの道を行ったか教えてくれ」
「へいへい」と云ったが首を下げて、老樵夫は弦四郎の笠の中を覗いた。人相を通してこの侍の人物を知ろうとするものらしい。しばらくの間は黙っていた。
 その態度がどうやら弦四郎には、腹立たしいものに思われたらしい。癇癪声で怒鳴るように云った。
「当方の申すことが解らぬか。唖者かそれとも聾者なのか! ……では改めてもう一度訊く。――旅の侍が通った筈だ。ここに三本の道がある。どの道を侍は通って行ったな」
「へい」と老樵夫は決心したように云った。
「細い道を通って参りました」
「おおそうか、細い道を行ったか。が、細い道は二本ある。どっちの細い道を通って行ったな?」
「へい」と老樵夫は妙な笑い方をしたが、
「この細い道を通って参りました」
 こう云って一本の道を指した。が、その道は茅野雄の通った、細い道とは異(ちが)っていた。
 しかし弦四郎には解るはずがなかった。
「おおそうか、この道を行ったか」
 ――で、ロクロク礼も云わず、四人の部下を従えて、その細い道を先へ進んだ。
 そうしてこれも長く延びた芒(すすき)に、間もなく蔽われて見えなくなった。
 一旦隠(かく)れた青大将が、草むらから姿を現わしたが、また道を横切って、どこへともなく行ってしまった。
 風の音がサラサラと草を渡り、日がまじまじと照っていて、四辺(あたり)[#「四辺(あたり)」は底本では「四辺(あたり)り」]はひっそりと物寂しい。
 と、高い笑い声がした。
 老樵夫が上げた笑い声であった。
「ああいう悪いお侍さんはあっちの郷へやった方がいい。あっちの郷は乱されるだろうなあ」

(どうも恐ろしく歩きにくい道だ。天国へ行く道は狭くて嶮しいと、先刻(さっき)の老樵夫がお談義をしてくれたが、高山のお城下へ行く道が、こんなに歩きにくいとは思わなかった)
 もう夕暮が逼って来ていた。草には重く露が下りて、脚絆を通して脚を濡らし、道の左右に繁り合っている、巨大な年老いた木々の間から、夕日が砂金のように時々こぼれた。道は思い切った爪先上りで、胸を突きそうな所さえあった。大岩が行く手にころがっていて、それを巡って向こうへ出たところ、大沼が湛えてあったりもした。
 老樵夫に逢った地点から、少なくも二里は歩いたはずだが、一つの人家にも逢わなかった。
(変だな)と茅野雄は思案した。
(道が異ったのではあるまいかな? お城下へ通じている道である以上は、本街道と云わなければならない。本街道なら本街道らしく、たとえまれまれであろうとも、人家が立っていなければならない)
 ところが人家は一軒もない。
(おかしいな、おかしい)
 しかし老樵夫がああ教えた以上は、やはり高山のお城下へ通う、本街道であるものと認めて、辿って行くべきが至当のようであった。
 で、茅野雄は歩いて行った。
 人間の不安や心配などに、なんの「時」が関わろうとしよう。間もなく夜となり夜が更けた。星の姿さえ見えないほどに樹木が厚く繁っている。で、四辺(あたり)が真の闇となり歩こうにも、歩くことが出来なくなった。
(いよいよ野宿ということになった。どうも仕方がない野宿をしよう)
 狼の襲来というようなことも、弦四郎の襲来というようなことも、もちろん心にはかかったけれども、それよりも山道を歩いて行って、断崖などを踏みそこなって、深い谿(たに)などへころがり落ちて、死んでしまうかもしれないという、そういう不安の方が茅野雄にとっては、緊急の不安であったので、野宿をすることに決心した。
(大岩の陰へでも寝ることにしよう)
 で、手さぐりに探り出した。
 と、その時遥か行く手の、高所(たかみ)の上から一点の火光が、木の間を通して見えて来た。
(はてな?)と、これは誰でも思う。茅野雄は怪しんで火光を見詰めた。
 と、火光が下って来た。しかも火光は数を増した。二点! 三点! 五点! 十点!
 ……で、こっちへ近寄って来る。
(あの光は松火(たいまつ)だ。山賊かな? それとも樵夫であろうか?)

どこへ?

 そもその一団は何者なのであろう? その風采から調べなければならない。同勢はすべてで二十人であったが、筒袖に伊賀袴を穿いていて、腰に小刀を一本だけ帯び、切れ緒の草鞋(わらじ)をはいていた。で、風采から云う時は、大して変なものでもなかった。が、顔立ちには特色があった。と云うのは山間の住民などに見る、粗野で物慾的で殺伐で、ぐずぐずしたようなところがなくて、精神的の修養を経た、信仰深い人ばかりが持つ、霊的な顔立ちを備えているのである。
 彼らは輿(こし)を担いでいた。白木と藤蔓とで作られた輿で、柄(え)ばかりが黒木で出来ていた。四人の若者が担いでいる。どこか神輿(みこし)めいたところがあって、何となく尊げに見受けられたが、一所に垂れている垂れ布(ぎぬ)の模様が、日本の織り物としてはかなり珍らしい。剣だの巻軸だの寺院(てら)だのの形で、充たされているのが異様であった。
 と、この一団だが近づいて来て、茅野雄の前までやって来ると、予定の行動ででもあるかのように、足を止めて松火(たいまつ)をかかげた。
 そうでなくてさえ茅野雄にとっては、もの珍らしい一団であった。ましてや足を止められたのである。必然的に彼らを見た。
 と、「おや!」という驚きの声が、茅野雄の口から飛び出した。
 その一団の先頭に佇み、茅野雄を見ている老人があったが、昼間茅野雄に道を教えた、老樵夫その人であったからである。
 と、老樵夫は腰をかがめたが、恭しく茅野雄へお辞儀した。
「お迎えに参りましてござります。ご案内いたすでござりましょう。どうぞ輿へお召しくださりませ」
(驚いたなア何ということだ。俺には訳が解らない)
 茅野雄は老人へ云った。
「親切に道を教えてくれた、お前は先刻の老人ではないか。何と思ってこのようなことをするぞ?」
 しかし老人は茅野雄の言葉へ、返辞をしようとはしなかった。
「お迎えに参りましたのでござります。ご案内いたすでござりましょう。どうぞ輿へお召しくださりませ」
 こう繰り返して云うばかりであった。
「お前に迎えられる理由はないよ」
 茅野雄は少しく腹立たしくなった。
「案内すると云うが、俺(わし)の行く先を知っているかな?」
 老人の言葉は同じであった。
「お迎えに参りましてござります。ご案内いたすでござりましょう。どうぞ輿へお召しくださりませ」
「俺(わし)はな」と茅野雄は苦笑しながら云った。
「先刻(さっき)は高山へ行くとは云ったが、ほんとうの行く先は高山ではないのだ。高山からさらに十里離れた……」
 しかしこのように云って来て、不意に茅野雄は口を噤(つぐ)んだ。
(迎えに来たというからには、案内しようというからには、俺の行く先を知っていなければ嘘だ、……と云って知っているはずはない。よしよし一つからかってやろう)
 で、茅野雄はわざと慇懃(いんぎん)に云った。
「せっかくのお迎えでござるゆえ、遠慮なく輿に乗りまして、行く先までご案内をお願いしましょう。が、只今も申した通りに、貴殿方には拙者の行く先を、ご存じないように存じますよ。それともご存じでござりますかな? ご存じならば仰せられるがよろしい。ただしこれだけは申し上げる。と云うのは今も申しました通り、拙者の行く先は高山から、十里はなれた地点でござる。どこでござろうな? どこでござろうな?」
 で、老人の答えを待った。
「はい」と老人はその言葉を聞くと、いくらか眉をひそめたようであったが、
「高山のお城下を中心にして、十里離れた地点と申しても、いろいろの里や郷があります。どの方角へ十里でござりましょうか」
(それ見ろ)と茅野雄は笑止に思った。
(お迎えに来たの案内しようのと、いいかげんのことを云っていながら、俺の行く先を知らないではないか。――どうやらこ奴らは悪者らしい)
 しかし茅野雄は云うことにした。
「どの方角だか俺(わし)も知らぬ。ただし地名は丹生川平(にゅうがわだいら)と云うよ」
 ――するとこれはどうしたのであろうか、老人の態度がにわかに変わって、一種の殺気を持って来た。
「丹生川平へおいでになる? どのようなご用でおいでになりますかな?」
「そこにの、俺(わし)の叔父がいるのだ」
「お名前は何と仰せられますかな?」
(何故こううるさく訊くのだろう?)
 茅野雄は変な気持がしたが、
「叔父の名前か、宮川覚明(かくめい)というよ」と、一つの事件が起こった。
 茅野雄のそう云った言葉を聞いて、老人が鬼のような兇悪な顔をつくり、従えて来た部下らしい十九人の者へ、何やら大声で喚いたかと思うと、十九人の若者が小刀を抜いて、死に物狂いの凄じさで、茅野雄へ切ってかかったことであった。輿も松火も投げ捨てられて、輿は微塵に破壊(こわ)されたらしく、松火は消えて真の闇となった。
 ダ、ダ、ダ、ダ、ダ――ッと物凄い足音! つづいて喚く声々が聞こえた。
「法敵の片割れだ! 生かして帰すな!」
「丹生川平へ走らせるな!」
「谷へ蹴落とせ! 切り刻んでしまえ!」
「いや引っ捕らえろ! 生贄(いけにえ)にしろ!」
 しかしそういう声々よりも、そういう声々の凄じい中を縫って、例の老人の錆びた太い声が、祈りでも上げているように、途切れ途切れではあったけれども、
「我が兄弟健在なれ! 勝利を神に祈れ! 教主マホメットの威徳を我らに体得せしめよ! 全幅の敬意を我らは捧ぐ! 唯一なる神よ! 謀叛人を許すなく、マホメットの使徒に行なわしめよ! 最も荘厳なる殺戮を! この者我らの敵にして、神を犯しマホメットを穢す! 嵐よ吹け! この者を倒せ! 豪雨よ降れ! この者を溺らせよ!」
 と、木や岩に反響して聞こえてくるのが、一層に凄くすさまじかった。
 思いも及ばなかった殺到に対して、いかに茅野雄が驚いたかは、説明をするにも及ばないであろう。
 身を翻えすと飛びしさって、そこにあった老木の杉の幹を楯に、引き抜いた刀を脇構えに構え、しばらく様子をうかがった。
 と云っても相手を見ることは出来ない。深山の暗夜であるからである。焔は消えたが余燼(よじん)はあって、五六本の松火が地上に赤く、点々とくすぶってはいたけれど、光は空間へは届いていなかった。案内の知れない山中であった。諸所に大岩や灌木の叢(くさむら)や、仆れ木や地割れがあることであろう。飛び出して行って叩っ切ろうとしても、躓(つまず)いて転がるのが精々であった。
(こ奴らは、一体何者なのであろう?)
 老人の祈りめいた叫び声によって、マホメット教徒であるらしい――そういうことだけは思われた。
(丹生川平の叔父の一族を、敵として憎んでいるらしいが、どういう理由から憎むのであろう?)
 すると不意に茅野雄の記憶の中へ、従妹(いとこ)の浪江から送り来(こ)された、書面の文句が甦えって来た。
(父も母も無事でございます。でも性質は変わりました。敵を持つようになりました。只今私達の一族は、苦境にあるのでございます。どうぞどうぞおいでくださいまして、私達一族の味方となって、私達をお助けくださいませ。――そうだ、こんなように書いてあった。その敵というのがこ奴らなのであろう)
「だが何故俺を殺そうとするのか?」
(俺が叔父達の一族だからであろう)
(俺にとってもこいつらは敵だ!)
 眼の前の余燼を赤らめて、点々と見えていた松火の火が、この時にわかに消えてしまった。
 松火の余燼の消えたのは、そこへ相手の敵の勢が集まって、足で踏み消したのであろう――と、直感した直感を手頼(たよ)って、茅野雄は翻然と突き進んだ。声は掛けなかったが辛辣であった! 感覚的に横へ薙いだ。と、すぐに鋭い悲鳴が上って、人の仆れる物音がしたが、つづいて太刀音と喧号(けんごう)とが、嵐のように湧き起こった。そうして闇の一所に、その闇をいよいよ闇にするような、異様な渦巻が渦巻いたが、にわかに崩れて一方へ走った。
 と、数間離れたところで、同じような渦巻が渦巻いて、またもや太刀音と喧号とが悲鳴と仆れる音とに雑って、同じく嵐のように湧き起こった。茅野雄が敵を切って位置を変えるごとに、執念深く敵が追い逼って、引っ包んで討ち取ろうとしているのであった。
 同じようなことが繰り返されて、渦巻が崩れて一方へ走って、そっちへ渦巻が移って行った時に、谷へ石でも転落するような、ガラガラという音が響き渡った。

白河戸郷

 その日から十日は経ったようであった。
 丹生川平から五里ほど離れた、白河戸郷(しらかわどごう)から一群の人数が、曠野の方へ歩いて来た。
 一人の若い美しい乙女を、十二人の処女らしい娘達が、守護するように真ん中に包んで、長閑(のどか)に話したり歌ったりして、ゆるゆると漫歩して来るのであった。飛騨の山の中でも白河戸郷といえば、日あたりの良いいい土地として、同国の人達に知られていた。
 季節は六月ではあったけれども、山深い国の習いとして、春の花から夏の花から、一時に咲いて妍(けん)を競っていた。木芙蓉の花が咲いているかと思うと、九輪草の花が咲いていた。薔薇と藤とが咲いているかと思うと、水葵の花が咲いていた。青草の間には名さえ知られていない、黄色い花や桃色の花が、青い絨毯に小粒の宝石を、蒔き散らしたように咲いていた。
 白河戸郷は四方グルリと、低い丘によって囲まれていて、その丘を上ると曠野であって、曠野の外れは高山によって、これまた四方を囲まれていた。で、高山の大城壁が、白河戸郷をまず守り、次に荒々しい広い曠野が、白河戸郷を抱き包み、さらに低い丘が内壁かのように、白河戸郷を守っているのであった。
 約言すると白河戸郷は、三重の大自然の城壁によって、守護されている盆地形の、城廓都市ということが出来た。
 が、もちろん、城廓都市という、この大袈裟な形容詞の、中(あた)っていないことは確かであって、むしろ三重の大自然によって、外界と遮断されている、別天地と云った方が中っていて、盆地の中には多数の人家や、小ぢんまりとした牧場や、花園や畑や田や売店や、居酒屋さえも出来ていた。
 で、朝夕炊煙が上って、青々と空へ消えもすれば、往来で女達が喋舌(しゃべ)ってもいれば、居酒屋で男達が酔っぱらってもいれば、花園で子供達が飛び廻ってもいれば、田畑で農夫達が耕してもいた。
 が、ここに不思議なことには、盆地の中央に一宇[#「一宇」は底本では「一字」]の伽藍が、森然として立っていることであって、その形は小さかったが――と云って二十間四方はあろうか、様式がこの上もなく異様であった。とは云え伽藍の本当の姿は、その伽藍をこんもりと取り巻いている、巨大な杉や桧に蔽われて、見て取ることは出来なかった。が、真鍮色の天蓋形の、伽藍の屋根が朝日や夕日に、眼眩(めくる)めくばかりに輝いて、正視することさえ出来ないように、鋭い光を反射して、そのため鳥の群がそこへばかりは、翼を休めて停まろうとさえしない。――と、云うほどにも神々しい屋根が、人々の眼に見てはとれた。
 曠野の方へ漫歩して行く、女の群はその伽藍から、どうやら揃って出て来たらしい。
 その群は今や丘の斜面を、上へすっかり上り切って、丘の頂きへ姿を現わした。
 十二人の処女らしい娘達に、守護されながら歩いている乙女の、何という美しく健康(すこやか)で、快活で無邪気であることか! 身長(せい)も高ければ肥えてもいる。四肢の均整がよく取れていて、胸などもたっぷりと張っている。切れ長でしかも大きな眼、肉厚で高い真直ぐの鼻、笑うごとに石英でも並べたような、白くて艶のある前歯が見え、その歯を蔽うている唇は、臙脂(べに)を塗ってはいなかったが、臙脂(べに)を塗っているよりも美しかった。練り絹の裾だけに、堂や塔や伽藍や、武器だの鳥獣だのの刺繍をしている、白の被衣(かつぎ)めいた長い布(きれ)を、頭からなだらかに冠っていた。異国織りらしい帯の前半(まえはん)へ、異国製らしい形をした、金銀や青貝をちりばめた、懐剣を一本差しているのが、この乙女を気高いものにしていた。
 乙女を守護している娘達も、揃って美しく健康で、上品で無邪気ではあったけれども、被衣などは冠っていなかった。侍女達であることは云うまでもあるまい。
 その一行が斜面を上って、丘の頂きへ立った時に、下から一斉に声を揃えて、呼びかける声が聞こえてきた。
 ――お嬢様ご用心なさりましょう。
 ――あまり遠くへおいでなさいますな。
 ――丹生川平の連中が、襲って参るかもしれませぬ。
 距離がへだたっているがために、地言(じこと)はハッキリと解らなかったが、こういう意味のことを言っているようであった。
 で、乙女も侍女達も、盆地の方を振り返って見た。往来や田畑や家の門口(かどぐち)などに、人々が集まって丘の方を見ていた。
 その人達が注意したのであった。
「大丈夫だから先へ行こうよ」
 この郷の長であると共に、この郷の神殿の祭司である、白河戸将監(しらかわどしょうげん)の一人娘の、小枝(さえだ)というのがこの乙女であったが、そう云うと侍女達を従えて、曠野の方へ漫歩をつづけた。
 彼女達は彼女達が信じている、白河戸郷の守護神とも云うべき、神殿のご本尊の「唯一なる神」へ、野の花を捧げようと考えて、野の花を摘みに来たのであった。
 小川が一筋流れていて、燕子花(かきつばた)の花が咲いていた。と、小枝は手を延ばしたが、長目に燕子花の花を折った。と、小枝は唄い出した。
□メッカの礼拝堂(ハラーム)に
信者らの祈る時、
帳(とばり)の奥におわす
御像(みぞう)の脚に捧げまつらん
日の本の燕子花を。
「みんなも燕子花を取るがよいよ」
 ――すると侍女達も手を延ばして、各自(めいめい)燕子花を折った。
 一行は楽しそうに歩いて行く。
 灌木の裾に白百合の花が、微風に花冠を揺すりながら、幾千本となく咲いていた。
 と、小枝は手を延ばして、その一本を折り取ったが、
□白楊(はこやなぎ)の林に豹が隠れ、
信者らが含嗽(うがい)して
アラの御神(みかみ)を讃え奉(まつ)る時、
回教弘通者(ぐつうしゃ)のオメル様の墳塋(はか)へ、
ささげまつらん白百合の花を。
 こう歌って侍女を返り見た。
「さあお前達も百合の花をお取り」
 一行は先へ進んで行く。
 一所に崖が出来ていて、小さな滝が落ちていた。岩燕が滝壺を巡って啼き、黄色い苔の花が咲いていた。その苔の花にまじりながら、常夏(とこなつ)の花が咲き乱れていた。
□果物(くだもの)の木に匂いあり
御神水(ミム)と黒石(アラオ)とに、
虹の光のまとう時
馬合点(マホメット)様の死せざる魂に
いざや捧げまつろうよ
常夏の花の束を。
 小枝は常夏の花を見ると、こう朗らかに歌いながら、手を延ばして一本の花を折った。と、延ばした右の手の袖が、肘の辺りまで捲くれ上って、白い脂肪(あぶら)づいた丸々とした腕が、ムキ出しに日の光にさらされた。艶々とその腕が濡れて見えたのは、滝の飛沫(しぶき)がかかったからであろう。侍女の一人が小枝の背後(うしろ)で、ひざまずくように小腰をかがめて、地に敷こうとしている被衣の裾を、恭しく両手でかかげている。
 と、小枝は歩き出した。
 蜂が花から花へ飛んで、うたいながら蜜を漁っている。小鳥が八方から翔(か)けて来て、この人達は害をしないよ――そう思ってでもいるかのように、一行の頭上や周囲で啼いた。陽炎(かげろう)がユラユラと上っている。花の匂いと草の匂いとが、蒸せるように匂っている。空は白味を含んではいたが、しかし一片(ひら)の雲も浮かべず、澄んで遥かにかかっていて、その中に太陽が燃えながら、地上の一行を眺めていた。
 手に手に野花を握り持って、楽しそうに歌いながら歩いて行く群の、女達十三人の姿というものは、画中の人物が歩くようであった。時々草叢(くさむら)から兎が飛び出したり、山猫が唸り声をあげながら、一行の行く手を横切って、ノッソリと林へ入ったりした。遠くに森林が連らなっていたが、その裾を一列の隊をなして、鹿の走って行く優しい姿が、一行の眼に見えもした。
 この一行が進めば進むほど、その一行を惑わかすかのように、野には諸々の草や木の花が、数を尽くして咲いていた。
 で、一行は我を忘れて、先へ先へと歩いて行く。
 いつか白河戸郷を巡っている、連々たる丘からは遠く放れて、曠野の中央の辺りまで行った。
 惑わしでなくて何であろう! 一行の進んで行く方角に、白河戸郷を敵と目して、日頃から争いをつづけている、丹生川平があるのであるから。
 が、勿論彼女達といえども、五里のへだたりを持っている、丹生川平の領域へまでは漫歩をつづけて行きもしまいが、もしも丹生川平の住民が、この方面へ様子を見に来て、彼女達の姿を認めたならば、見遁して置くようなことはあるまい。
 しかし花野の美しさは、彼女達にそういう危険をさえ、感じさせないように思われた。
 花を摘んでは手に抱え、歌いながら先へ進んで行く。

丹生川平の人々

 はたしてこの頃一群の人数が、丹生川平(にゅうがわだいら)の方角から、こなたへ向かって歩いて来た。
 その中の一人は意外にも、醍醐(だいご)弦四郎その人であり、その他は恐らく丹生川平の、住民達であろう、筒袖を着て山袴を穿いて、腰に一本ずつ脇差しを差した、精悍らしい若者達で、その数総勢で十人であった。
 花野を踏み踏み歩いて来る。しかしおおっぴらに歩けないのでもあろう、木立があれば木立に隠れ、灌木があれば灌木に隠れ、林があれば林に隠れ、森があれば森に隠れて、忍ぶがように歩いて来る。
「醍醐様そろそろ近づきました。なるだけご用心なさいますよう」
 一人の若者がこう云いながら、弦四郎の顔を覗くように見た。
「たかが山奥の住民どもだ、武芸の心得などロクロクあるまい。襲って参らばよい幸いに、この弦四郎みなごろしにしてやるよ」
 弦四郎は太々しくこんなことを云ったが、
「美しい娘があるということだの?」
「はいはい小枝(さえだ)と申しまして、美しい娘がございます」
「丹生川平の浪江殿と、どっちの方が美しいかな?」
「それを見る人の心々で、どっちがどうとも申されませぬ。二人ながら美しゅうございます」
「浪江殿に負けずに美しいというのか。ふうむ、それは素晴らしいの」と弦四郎は厭らしい笑い方をしたが、
「全く浪江殿はお美しい。ちょっと都にもなさそうだ」
「はいお美しゅうございます」
「性質はちと優しすぎるようだが」
「お父上がああいうお方ゆえ、いろいろご苦労がありまして、陰気になられるのでございましょう」
「いかにも処女らしくて俺(わし)は好きだ」
「山道に迷ったと仰せられて、あなたさまが数人のご家来を連れられ、丹生川平へおいでになって以来、どうやらあなた様におかれては、浪江様に大変ご執心のようで、もっぱら評判でございます」
「そうかな」と弦四郎は苦笑いをしたが、
「丹生川平へ入り込んでから、十日という日が経ってしまった。そのくせ俺(わし)はある重大な、用事を持っている身分で、かつ一人の人間を、探し廻っているのであるが、どうもお美しい浪江殿という、あのお娘ごを見て以来は、外(ほか)へ行くのが厭になってしまった」
「我々住民にとりましては、有難いことにございますよ」
 追従めかしくこう云ったのは、額に瘤のある若者であった。
「洵(まこと)に浪江殿はいい娘ごではあるが、父上の宮川覚明殿は、俺には変に人間放れのした、奇怪な人物に見えてならぬ」
 弦四郎はこう云うと苦々しく笑った。
「そのくせあの仁に依頼されると、危険だと云われている白河戸郷へ、こうして様子を見に出かけて来る。我ながら変な気持がするよ」
「覚明様は一面霊人、他面魔物にございますよ」
 こう怖そうに云ったのは、片眼潰れている若者であった。
「奇怪といえばもう一つある」
 弦四郎は云い云い首を傾(かし)げた。
「あの神殿も奇怪なものだ」
「…………」
 誰もが返辞をしなかった。
 誰も彼も弦四郎が言葉に出した、「神殿」というその言葉に、触れることを憚っているようであった。
「が、俺は覚明殿と約束をしたのさ。俺の力で白河戸郷を、没落させることが出来たなら、浪江殿をくれるか神殿の中へ入れるか、どっちかを果すという約束をな」
 しかし弦四郎がこう云っても、若者達は黙っていた。
 信用しないぞという様子なのである。
 一行は先へ進んで行く。
 同じように野からは陽炎が立ち、兎が草の間から飛び出したりした。
 一行の歩いて行く影法師が、野の花で絨毯を織っている、曠野の上へ黒々と落ちて、一行が進むに従って、影法師も先へ進んで行き、影法師が進んで行くにつれて、野の花がある時は暗くなり、またある時は明るくなった。すなわち影法師の落ちているところの、野の花は影法師に蔽われて、色と艶とを失って、暗い姿となるのであるが、その反対に影法師が、先へ進んで行ってしまうと、暗い姿であった野の花が、鮮かに色と艶を甦生(よみがえ)らすからであった。
 こうして一行は進んで行ったが、一つの小さな林まで来た。
 と、その林の向こう側から、女の歌声が聞こえてきた。
 で、弦四郎の一行は、顔を互いに見合わせたが、眼を返すと木立の隙(ひま)から、歌声の来る方をすかして見た。
 被衣(かつぎ)を冠った一人の乙女を、十数人の娘達が、守護するように囲繞して、各自(めいめい)野花を手にかざして、歌いながらこっちへ歩いて来ていた。
「素晴らしい代物がやって来たぞ」
 額に瘤のある若者が、こう頓狂に声を上げた。
「醍醐殿々々々ご覧なされ、被衣を冠っているあの女が、白河戸郷の長をしている、将監の娘の小枝でございますよ」
「そうか」と弦四郎は小枝を見詰めた。
「遠眼でしかとは解らないが、いかさま美しい娘らしい。……が、何のために女ばかり揃って、こんな所へ来たのだろう」
 しかし弦四郎にはそんなことは、どうであろうと関係(かかわり)はなかった。
 弦四郎はすぐに計画を案じた。
(小枝を奪い取って人質としよう。白河戸郷を苦しめるのに、上越(うえこ)す良策はない)
 で、弦四郎は若者達へ云った。
「方々(かたがた)拙者に存じよりがあります。ここに待ち受けて小枝という娘を、奪い取ることにいたしましょう。さあさあ木陰へおかくれなされ」
 で、弦四郎をはじめとして、丹生川平の若者達は、木陰に体をひそませて、小枝達の一行の近寄って来るのを、一団にかたまって待ち受けた。
 そういう危険が待っているという、そういうことを小枝達が、どうして感付くことが出来よう。野花を摘みながら讃歌をうたい、歌いながら次第に林の方へ、浮き浮きとした様子で近寄って来た。
 間もなく小枝達の一行は、林の前まで来ることであろう。
 と、弦四郎達の一団が、踊り出て彼女達を襲うであろう。
 その結果は知れている。
 小枝は奪われるに相違ない。
 しかるにこの頃一人の武士が、汚れ垢じみた旅姿で、曠野をこっちへ辿って来た。
 他ならぬ宮川茅野雄(ちのお)であった。
 輿(こし)を担(かつ)いで来た二十人の、異様な樵夫(そま)のような人物達に、意外なことから襲われて、数人茅野雄は切りは切ったが、不覚にも崖を踏み外して、谷底深く落ち込んだのは、この日から十日前の深夜のことであった。
 脾腹(ひばら)を岩などで打ったからであろう、茅野雄は谷底で意識を失った。
 と、何者か呼ぶ者があった。
「お侍様! お侍様!」
 で、茅野雄は蘇生した。
 年寄りの夫婦の樵夫がいて、茅野雄を親切に介抱していた。
 通りかかった良人(おっと)の方の樵夫が、気絶している茅野雄の姿を、谷底で発見したところから、自分の小屋へ連れて来て、妻と介抱して蘇生させたのであった。
 爾来茅野雄は小屋の中で、老樵夫夫婦の厄介になり、傷の養生に精を出した。大した負傷でもなかったので、まもなく恢復することが出来た。
 で、樵夫夫婦に礼を述べ、丹生川平への道筋を、夫婦の者に教えられ、今朝方出発(た)って来たのであった。
 茅野雄は曠野の美しい景色に、一種の恍惚を感じながら、長閑(のどか)に先へ歩いて行った。
 と、その時行く手にあたって、小高い丘が立っていたが、その丘の背後(うしろ)と思われる辺りから、男達の怒声が突如として起こり、つづいて女達の悲鳴が聞こえた。
 で、茅野雄は眼をひそめたが、声の来た方を眺めやった。
 間断なく男達の怒声が聞こえ、女達の悲鳴がそれにつづいた。大勢の男女が争っているらしい。
(若い女子(おなご)を悪者が、誘拐(かどわか)そうとしているのであろう)
 こういう場合の常識として、ふと茅野雄はこう思った。
(ともかくも行ってみることにしよう)
 で、茅野雄は小走った。
 と、その時丘を巡って、一人の女を小脇に抱えた、逞しい武士が現われたが、茅野雄の方へ走って来た。

弦四郎の心! 茅野雄の心!

 と、見てとった宮川茅野雄は、立ち向かうように足を止めた。
 と、女を小脇に抱えた、逞しい武士は走って来たが、腕前に自信があるがためか、傍若無人の心持からか、遮った茅野雄を無視するように、避けもせずに駆け抜けようとした。
「待て!」
「邪魔だ!」
「こ奴、悪漢!」
「よッ、貴殿は宮川氏か!」
「どなたでござるな?」
「醍醐弦四郎でござる!」
「これはいかにも醍醐氏であったか!」
 いつぞや江戸の小石川の、松倉屋勘右衛門の別邸の前で、弦四郎に突然に切りかけられた時には、月こそあったが夜であったので、醍醐弦四郎の顔や姿を、ハッキリと見ることは出来なかった。
 で、今、こうやって邂逅(いきあ)った時にも、早速には逞しいこの武士が、醍醐弦四郎であることは気がつかなかった。
 しかし一方弦四郎の方では、いうところの競争相手として、茅野雄の身分から屋敷から顔や姿までも調べて置いたらしい。
 で、今こうやって邂逅って、二言三言罵り合っている間に、弦四郎が茅野雄だということを、早くも見て取って声をかけたのであった。
 しかし弦四郎は声をかけてから、「しまった!」と思わざるを得なかった。いやいや、「しまった!」というよりも、「どう処置をしたらよいだろうか?」とこう思わざるを得なかった。と云うのは弦四郎は茅野雄の後を尾行(つけ)て、わざわざ飛騨の山の中へ、入り込んで来た身の上であって、道に迷って茅野雄を見失い、偶然に丹生川平という、不思議な郷へ入ったものの、心では常時(しじゅう)茅野雄の行衛を、知りたいものと思っていた。その茅野雄に今や邂逅ったのである。
 本来なれば何も彼もすてて、茅野雄の後を尾行て行くか、でなかったら後腹(あとばら)の痛(や)めぬように――競争相手を滅ぼす意味で――討って取るのが本当であった。
 が、しかし今は出来なかった。
 と云うのはせっかくに白河戸郷の、郷長(むらおさ)の娘の小枝(さえだ)という乙女を、奪って小脇に抱えている。で、この小枝を丹生川平へ、首尾よく連れて行くことが出来たら、白河戸郷の勢力を弱めて、滅ぼすことが出来るかもしれない。滅ぼすことが出来たならば、丹生川平の郷の長の、宮川覚明と約束をした通りに、覚明の娘の浪江という美女を手中へ入れることも出来、それが出来なくとも丹生川平の、守護神とも云うべき神殿の中へ――弦四郎にはある種の予感によって、神殿の中に高価な物が、蔵されてあるように感じられていた。――その神殿の内陣へ、入って行くことが出来るのであった。
 茅野雄の後を尾行(つけ)るとなれば、小枝を捨てなければならないだろう。弦四郎には小枝が捨てかねた。茅野雄と戦って茅野雄を殺すにしても、小枝を地上へ下ろさねばなるまい。下ろされた小枝は逃げ去るであろう。弦四郎には小枝に逃げられることが、どうにも苦痛でならなかった。
 では小枝を小脇に抱えたまま、茅野雄を見捨て丹生川平へ行こうか。すると茅野雄は行衛不明になろう。と、後を尾行て行くことが出来ない。これが弦四郎には苦痛であった。
(百発百中に予言をする、巫女(みこ)の千賀子が茅野雄に向かって、「山岳へおいでなさりませ、何か得られるでござりましょう」と、こう予言をしたからには、間違いなく茅野雄はその何かを、手に入れるものとみなさなければならない。その何かが何であるかを、俺は大略(おおよそ)知っている。恐ろしいほどにも高価なものだ。茅野雄の手へは渡されない。是非とも俺が手に入れなければならない。ではどうしても茅野雄の後を尾行て、彼の行く所へ自分も行って、彼が何かを得ようとするのを、邪魔をして横取りしなければならない)と、いう思惑があるからであった。
 右することも出来なければ、左することも出来ないというのが、現在の弦四郎の心持であった。
 一方宮川茅野雄においては、弦四郎に対して咎めたいことが、いろいろ心にわだかまっていた。たとえば自分は巫女の占った、「山岳へおいでなさりませ、何か得られるでござりましょう」と云う、その占いを実現しようとして、飛騨の山の中へ来たのでもないのに、「醍醐弦四郎お約束通り、貴殿を付け狙い致してござる」などと、あのような矢文を射てよこして、こちらの心を不安にさせたのは、不届きではないかと咎めもしたければ、あの巫女の占った「何か」なるものを、弦四郎は知っているらしいので、かえって訊ねて見たいとも思った。そうして自分がこのようにして、飛騨の山の中へ入り込んで来たのは、丹生川平という郷にいる、宮川覚明という叔父の一族と、邂逅(かいこう)しようがためなのであると、そういうことも告げたかった。
 が、しかしそれより茅野雄としては、現在弦四郎が小脇に抱えている、姫君のように美しく若い、気絶をしている乙女の身分と、何故にそういう乙女を攫(さら)って、どこへ行くのか何をしようとするのかを、詰問したい衝動に猟り立てられた。
 で、茅野雄はたしなめるように云った。
「拙者貴殿に対しては、いろいろ申し上げたいこともあり、お訊ねいたしたいこともあり、釈明いたしたいこともござる。が、まずそれはそれとして、ゆっくり後日に譲ってもよろしい。しかし後日に譲れないのは、現在の貴殿の悪行を、見過ごしにするということでござる。見れば臈(ろう)たけた娘ごを、貴殿には誘拐なされようとしている。穢(きたな)い所業、卑怯でござるぞ! 武士たる者のすべきことではござらぬ! 娘ごを放しておやりなされ! もしも悪行をつづけられるならば……」
 ここで刀の柄頭(つかがしら)を、茅野雄はトントンと右手で叩いたが、
「勿論拙者にはその娘ごの、身分も存ぜねば名も存ぜぬ。また娘ごと貴殿との間の、交渉も知らねば関係も知らぬ。が、偶然来合わせて、この眼で貴殿の悪行を――さようさよう打ち見たところ、貴殿には正義の武士でなく、この出来事は悪行らしゅう厶(ござる)。――で、貴殿の悪行を、認めた以上は打ち捨ては置かれぬ。貴殿に制裁を加えた上で、その娘ごをお助けせねばならぬ」
 ここでまた茅野雄は右の手でトントンと刀の柄頭を打った。
「娘ごを放しておやりなされ! 否と申さば太刀打ち申そう! いかがでござる! いかがでござる!」――で、右手で刀の柄を握り、拇指(ぼし)で鯉口をグッと切った。抜き打ちに切ろうとする足の踏み方だ、右足を一歩前へ踏み出し、左足のかかとを軽く上げ、体全体を斜めにして、刀の柄を握った上にソリを打たせて上へ上げたので、右の手の肘が矩形(くけい)をなして、胸の上まで上ったのを、拍子取るように揺るがして、弦四郎の眼を睨み付けた。否と云ったならばただ一刀に、弦四郎の左の胴からかけて、胸まで割り付ける意気込みであった。握った手に余った柄頭の、金具が日の光に反射して、露が溜ってでもいるように、細かく生白(なまじろ)く光って見えた。
(凄いの! これは! 凄い気魄だ!)
 物も云わなければ動きもしないで、茅野雄の動作と言葉とへ、注意を向けていた弦四郎は、こう思わざるを得なかった。
(正当に太刀打ちをしたところで、五分と五分の勝負になろう。小枝などを抱えていて、片手でうかうかあしらおうものなら、こっちがあぶない、仕止められるであろう。
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