生死卍巴
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著者名:国枝史郎 

「はい、何でございますか?」
「もちろん今回の事件でだよ」
「はい、一つだけございました。……大金剛石の光を見た時、名誉も身分も財産も、生命(いのち)もいらないと思いましたことで」
「どういうところからそう思ったかな?」
「ただ、そんなように思ったまでで。……つまり、思うに、あの光が、私の良心を眩ましたもののようで」
「その答えは俺(わし)には気に入った」
 慶正卿は意を得たように云った。
「ああいう素晴らしい品物だから、売ったら大金になるだろう――と云うそういう心持から、誘惑されたのでなさそうだからな」
「はい、その通りでございます。理由は無く誘惑されましたので」
「それはこういうことになるのだ。大金剛石のあの光は、『美』その物の最上的具現で、芸術的であったので、それで誘惑されたのだと。……金銭の事に関しても、勿論人は罪悪を犯す。が、そのための罪悪は、俗で非芸術的で不愉快だ。……ところで人間というものは、『美』のためにも罪悪を犯す。この方の罪悪は芸術的だ。……そこでこういうことが云われる。完全の美とか最大級の美とかは、阿片のように罪なものだ。と」
 その時一人のお小姓が、恭しく天目(てんもく)を捧げながら、襖をあけて入って来た。
 小姓を見ると碩寿翁は「おやッ」とばかりに声を上げた。
 と、すぐに一人の小間使いが、菓子盆を恭しく持って来て、二人の間へしとやかに置いた。
「碩寿翁」と笑いながら慶正卿が云った。
「京助はあの通りピンピンしている。今は俺(わし)の小姓になっている。……菓子を持って来た小間使いには、お前は覚えはなかろうが、声には覚えがあるはずだ。……お前が京助を殺そうとした時、一軒のみすぼらしい家(うち)の中で、俺と話していた娘なのだ。……今、あの二人は夫婦になっている。夫婦にしたのはこの俺さ。……が、俺はもう二人の男女を、ほんの最近に夫婦にしてやった」
 そういう言葉の終えない内に、小姓の京助が再度あらわれて、慶正卿に囁いた。
「待っていたのだ、通すがよい」
 間もなく部屋へ入って来たのは、宮川茅野雄と浪江とであった。浪江は丸髷に結っていた。
 つづいてもう一人の若く美しい、無邪気らしい乙女が入って来た。
 将監の娘の小枝(さえだ)であった。
 ――が、俺はもう二人の男女を、ほんの最近に夫婦にしてやったと、慶正卿の云った男女が、この茅野雄と浪江なのであった。
 そうして小枝と茅野雄夫婦とは、いずれも仲のよい友達であり、三人ながら慶正卿の館へ、伺候することを許されている、そういう身の上になっていた。
「何か珍らしい話はないか?」
 慶正卿が三人へ訊いた。
 と、小枝があどけなく云った。
「刑部老人の蒐集室へ参り、このような物を買うて参りました」
 取り出して見せたのは宝玉をちりばめた、美しい異国風の簪(かんざし)であった。
 慶正卿はとりあげたが、
「碩寿翁、これを値踏みしてごらん」
 こう云って笑って簪を渡した。
 と、碩寿翁は苦笑をしたが、
「どうやら依然としてあの老人は、贋物を売っておりますようで。……この宝玉は硝子(ガラス)のかけらで」
「さようさよう硝子のかけらだ」
 で、二人は哄笑した。
 これで刑部という老人が、例の屋敷で勿体らしく、贋物の古物や異国産の品を、売っているということが読者諸君にも、諒解されたことと思う。
 これで書くことはないはずである。
 では大団円とすることにしよう。
 が、しかし一言云いたいことがある。
 それは茅野雄の心持のことで、彼はこのように思っていた。
「千賀子という巫女(みこ)が俺を占い、『山岳へおいでなさいまし、何か得られるでございましょう』と、こんなようにあの晩云ってくれたが、その何かは浪江のことだった。……あの晩以来生死の境いを、卍巴と駈け巡ったが、しかし浪江を手に入れたのだから、無駄であったとは云われない」




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