生死卍巴
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著者名:国枝史郎 

 そうしてこの言葉は回々教(ふいふいきょう)の教典、祈祷の部の中にあるのであるから。
「回々教のようでございます」
 こう云って浪江は寂しそうに答えた。
 そういう浪江の答えぶりによって、茅野雄は浪江が信者でないことを、ハッキリ感ずることが出来た。
 で、茅野雄は尚も訊いた。
「どういう機会から飛騨の山中の、こんな寂しい物恐ろしい、丹生川平というような所へ、伯父様はおいでなされたのでござろう?」
「妾にも解らないのでございますよ。ある日父上にはこう仰言(おっしゃ)って、無理矢理に一家を引きまとめてこの土地へ参ったまででございます。『素晴らしい物を手に入れた。江戸にいては危険である。山中へ行って守ることにしよう』……」
「しかしわずかに五年ばかりの間にこのような建物を押し立てたり、このように信者を集めたり、よく行(し)たものでございますな」
「父は力を持っております。人を魅する不思議な偉大な力を! で、信者達が集まって来まして、このような建物をまたたく間に、建ててしまったのでございます」
「白河戸郷という彼(あ)の土地にも、同じように回々教(ふいふいきょう)の信者が、集まっているようでございますな」
「ええ」と、浪江は苦痛らしく云った。
「それで父上には白河戸郷を、憎んでいるのでございます」
「同宗という誼(よし)みから親しくすればよろしいのに」
「父は反対に申しております。白河戸郷を滅ぼして、彼(あ)の地に立っている神殿のうちの、重大なものを持って来なければ、丹生川平の本尊は、完全であるとは云われないと」
「白河戸郷の長という人は、どういう人物にございますな?」
「父の同門でありましたそうで。そうして父と同じように、何か重大な物を持って、父とほとんど同じ時に、父のように江戸から身を隠して、白河戸郷へ参ったのだそうで」
 そう云った浪江という娘は、面長の顔、愁えを含んだ眼、肉感的のところなどどこにも見られない薄手の唇、きゃしゃで痩せぎすで弱々しそうな体格! 一見人の同情を呼び、尊敬を呼ぶに足るような、そう云ったような娘であった。それでいて一本の白百合のような、清浄な美しさに充たされていて、しかも犯すことの出来ないような、威厳をさえ持っていた。
 さて今そういう娘の浪江と、茅野雄とが話していたところへ、醍醐弦四郎が現われて来て、話の仲間へ加わったのである。
「いや貴殿は悪人でござるよ」
 茅野雄は磊落(らいらく)の性質から、こだわろうともせずこういうように云った。
「ナーニ拙者は好人物で」
 弦四郎も今日は陽気であった。もっともいつもこの侍は陽気で駄弁家で道化者であって、それを保護色にはしていたが。
「たとえば貴殿と浪江殿とが、そのようにいかにも親しそうに、まるで恋人同志かのように、お話をしているのを見ながら、拙者嫉妬をしないというだけでも、好人物であると云うことが、お解りになるはずでござる」
「馬鹿な!」と、茅野雄は苦々しそうに云った。
「浪江殿と拙者とは従兄妹でござるよ。仲よく話すのは当然でござる」
「そうとばかりも限りますまいよ」
 どうしたのか弦四郎はニヤニヤ笑った。
「案外親戚というものは、表面仲をよくしていて、裏面では仲の悪いもので」

神殿の中の物?

「そういうものでござるかな」
 茅野雄はうるさそうにすげなく云った。
 が、弦四郎は云いつづけた。
「親戚の一方が出世をすると、他の一方が嫉妬をする。親戚の一方が零落すると、他の親戚は寄りつかない。競争心の烈しいもので。さよう親戚というものはな」
「他人同志でも同じでござろう」
「なまじいに血潮が通っているだけ、愛憎は強うございますよ。さようさよう親戚の方が」
「兄弟などは親戚中でも、特に血の濃いものでござるが『兄弟垣(かき)にせめげども、外その侮(あなど)りを防ぐ』と云って、真実仲よくしていますがな」
「が、一旦垣の中を覗くと、他人同志では見られないような、財産争いというような、深刻な争いがありますようで」
「が、幸い我らには――さよう、浪江殿と拙者とには――いや拙者と伯父一族とには、そのような争いはありませぬよ」
「御意!」と、弦四郎は道化た調子で云った。
「だからこそ拙者申しましたので、貴殿と浪江殿とは恋人かのように、大変お仲がよろしいとな」
「御意!」
 今度は茅野雄が云った。
「大変お仲がよろしゅうござる。その上に貴殿というような、おせっかいな人物が現われて、恋人らしい恋人らしいと、はたから大袈裟にけしかけなどしたら、事実恋仲になろうもしれない」
「よい観察! その通りでござる」
 弦四郎はこう云うと憎々しそうにした。
「が、永遠の処女として、丹生川平の郷民達から、愛せられ敬まわれ慕われている、浪江殿を貴殿が手に入れられたら、郷民達は怒るでござろう」
「さようかな」
 と、茅野雄であったが、軽蔑したように軽く受けた。
「郷民達が怒る前に、貴殿が怒るでございましょうよ」
「…………」
「と云うのは貴殿こそ浪江殿に対して、恋心を寄せておられるからで」
 これには弦四郎も鼻白んだようであったが、負けてはいなかった。
「いかにも某(それがし)浪江殿を、深く心に愛しております。覚明殿にも打ち明けてござる。と、覚明殿仰せられてござる。『白河戸郷を滅ぼしたならば、浪江を貴殿に差し上げましょう』とな」
「ほう」と、茅野雄はあざけるように云った。
「覚明殿が許されても、肝心の本人の浪江殿が、はたして貴殿へ行きますかな?」
 するとその時まで沈黙して、次第に闘争的感情をつのらせ、云い合っている二人の武士の、その言い争いを心苦しそうに、眉をひそめて聞いていた浪江が、優しい性質を裏切ったような、強い意志的の口調で云った。
「妾(わたし)は品物ではございません。妾は人間でございます。妾は妾の愛する人を、妾の心で選びますよ!」
 で、茅野雄も弦四郎も白けて、しばらくの間は無言でいた。
 ここは小川の岸であって、突羽根草(つくばねそう)の花や天女花(てんにんか)の花や、夏水仙の花が咲いていた。小川には水草がゆるやかに流れ、上を蔽うている林の木には、枝や葉の隙(すき)から射し落ちて来る日の光に水面は斑(ふ)をなして輝き、底に転がっている石の形や、水中を泳いで行き来している小魚の姿を浮き出させていた。
 一筋の日光が落ちかかって、首を下げている浪江の頸(うなじ)の、後れ毛を艶々(つやつや)しく光らせていたが、いたいたしいものに見えなされた。
 そういう浪江と寄り添うようにして、腰をかけている茅野雄の大小の、柄の辺りにも日が射していて、鍔(つば)をキラキラと光らせていた。
 その前に立っている弦四郎の態度の、毒々しくあせっていることは! 両足を左右にうんと踏ん張り、胸へ両腕を組んでいる。
 と、そういう弦四郎であったが、にわかに磊落(らいらく)に哄笑した。
「アッハッハッ、ごもっとも千万! 浪江殿の婿様でござるゆえ、浪江殿が自身で選ばれるのが、当然至極でございますとも。……そうなると拙者は方針を変えて、慾の方へ走って行くでござろう」
「慾? なるほど! どんな慾やら?」
 茅野雄には意味が解らないようであった。
「慾は慾なりでございますよ」
 こう云う弦四郎は眼を走らせて、遥かの彼方(かなた)に森林に蔽われ、頂きだけを出している、洞窟のある岩の山を、意味ありげに眺めやった。
「あそこの洞窟の中にある、神殿の内陣へまかり越し、値打ちあるものをいただくという慾で」
 この意味も茅野雄には解らなかったらしい。
「神殿の内陣にありますかな? そのように値打ちのある品物が!」
「馬鹿な!」と、弦四郎は喝(かっ)するように云った。
「貴殿も承知しておられるくせに」
「拙者は知らぬよ!」とブッキラ棒であった。
 茅野雄はブッキラ棒に云い切った。
 しかし弦四郎は嘲けるように云った。
「巫女(みこ)が貴殿に予言された筈で。山岳へおいでなさりませ、何か得られるでございましょうとな! ……その何かがあの神殿の、内陣にあるのでございますよ! 得ようと思って来られたのでござろう! さよう、ここへ、丹生川平へ!」
「また出ましたな、巫女という言葉が! が、拙者は巫女の云ったことなど。……」
 茅野雄がすっかり云い切らないうちに、しかし弦四郎は歩き出した。
「内陣の中の品物についても、貴殿と競争をするように、いずれはなるでござりましょうよ。どっちが先に手に入れるか? こいつ面白い賭事でござる。……勝つには是非とも白河戸郷を、何より滅ぼさなければならないようで。……何故? 曰くさ! 覚明殿がだ、拙者へこのように云ったからでござる。白河戸郷を滅ぼしたならば、神殿の内陣へ入れてあげましょうと! ……入ったが最後掴んでみせる。……で、貴殿にも心を巡らされ、白河戸郷を滅ぼすような、うまい策略をお立てなされ!」
 云い捨ると弦四郎は行ってしまった。
 茅野雄は後を見送ったが、心の中で呟いた。
(ああ云われると俺といえども、内陣の中へ入って行って、何が内陣に置かれてあるのか、ちょっと調べて見たくなった)

 星月夜ではあったけれど、森に蔽われている丹生川平は、この夜もほとんど闇であった。
 神殿が設けられているという、岩山の辺りはわけても暗く、人が歩いていたところで、全然姿はわかりそうもなかった。
 そういう境地を人の足音が、岩山の方へ辿っていた。
 足音の主は宮川茅野雄で(何が内陣に置かれてあるか、ちょっと調べて見たくなった)――この心持が茅野雄を猟(か)って、今や歩ませていたのであった。
 古沼の方に燈火(ともしび)が見えた。病人達が古沼の水で、水垢離(みずごり)を取っているのであろう。
 どことも知れない藪の陰から、低くはあるが大勢の男女が、合唱している声が聞こえた。
 病人達が唄っているのであろう。
 が、神聖の地域として、教主の宮川覚明が、許さない限りは寄り付くことの出来ない、この岩山の洞窟の入り口――そこの辺りには人気がなくて、森閑(しん)として寂しかった。
 茅野雄は洞窟の入り口まで来た。
(いずれは番人がついていて、承知して入れてはくれないだろう。が、ともかくも様子だけでも見よう)
 茅野雄はこういう心持から、この夜一人でこっそりと、ここまで辿って来たのであった。
 さて、洞窟の前まで来た。
 茅野雄は入り口から覗いて見た。暗い暗いただ暗い! 恐らく神殿の設けられてある洞窟内の奥までには、幾個(いくつ)かの門や番所があり、道とて曲がりくねっていて、容易に行けそうには思われなかった。
(行ける所まで行ってみよう)
 で、茅野雄は入り口へ入った。
 が、その時背後にあたって、ゾッとするような感じを感じた。
 と、思う間もあらばこそであった。数人の人間が殺到して来た。
「…………」
 無言で洞窟の入り口から、外へ飛び出した宮川茅野雄は、これも無言で切り込んで来た、数人の人間の真っ先の一人へ、ガッとばかりに体あたりをくれて、仆れるところを横へ逸(そ)れ、木立の一本へ隠れようとした。
 意外! そこにも敵がいた。
 閃めく刀光! 切って来た。
 鏘然! 音だ! 合した音だ!

白皓々

 切って来た鋭い敵の刀を、抜き合わせて茅野雄が払ったのであった。
 茅野雄は巡(まわ)った! 木立を巡った。もう一本の木立へ来た。
 刀光! 意外! 敵がいた! 閃めかして茅野雄へ切ってかかった。
 また太刀音! が、しかしだ! 既に茅野雄はこの時には、身を翻えして遁れていた。
 この間も茅野雄は考えた。
(信者なら声をかけるはずだ! 「神殿を荒らす背教者でござるぞ! 出合え! 方々!」――と、こんなように! ……ところがこいつは黙っている。……何者だろう? 何者だろう? うむ、五人だな! おッ、来おる!)
 闇を一層に闇にして、五人の人影が塊(かた)まって、迫って来るのが幽かに見えた。
 と、その次に起こったことは、数合の太刀音のしたことと、一人の人影が地上へ仆れ、仆れながら何かを投げたことと、その人影が起き上った時、一人の男が唸(うな)り声をあげて、ドッと地上へ仆れたことと、仆れた人間を切り刻もうとして、五人の人影が飛びかかったことと、洞窟の入り口へ光が射して、すぐに一点龕燈(がんどう)の光が、闇へ花のように浮かび出たことと、全裸体(まるはだか)の乙女がその龕燈を捧げて、悩ましそうな眼付きをして、投げられた丸太に足を打たれ、地上へ仆れている茅野雄の姿と、茅野雄を切って刻もうとして、醍醐(だいご)弦四郎と彼の部下の、半田伊十郎と他五人とが、茅野雄の周囲に集まっているのを、順々に見廻したこととであった。
「浪江殿ではござらぬか□」
「……その姿は? ……白皓々(はくこうこう)!」
 茅野雄と弦四郎とは同時に云った。

 それから数日後のことであった。三挺の駕籠が前後して、花の曠野へ現われた。
 曠野へ駕籠が三挺出て、すこしばかり先へ進み出した時、もう一挺の駕籠が出て、三挺の駕籠へ追いついた。
 数日前に萩村の駅(うまやじ)の、柏屋という旅籠(はたご)屋から、乗り出した駕籠に相違ない。
 では真っ先の駕籠にいるのは、いわれぬ威厳を持ったところの、高貴な身分の若武士(わかざむらい)であろうし、その次の駕籠にいる者は、松平碩寿翁その人であろうし、その次の二挺の駕籠にいるのは、身分に見当の付かないような、小気味の悪い老人と、若い美しい娘とであろう。
 さてこうして四挺の駕籠が、丹生川平と白河戸郷とを、連絡している花の曠野へ、同時に姿を現わした。どっちかの郷へ行かなければなるまい。
 と、はたして四挺の駕籠は、白河戸郷の方角へ向かって、ゆるゆると歩みを進ませて行った。
 と云うよりも真っ先の駕籠が、白河戸郷の方角を目ざして、ゆるゆるとして進んで行くので、碩寿翁の乗っているもう一挺の駕籠が、その駕籠についてその方へ進み、碩寿翁の乗っているその駕籠が、その方へ進んで行くところから、それをつけてその次の二挺の駕籠が、その方へ進んで行くのだと、こう云った方がよさそうであった。
 進み進んで四挺の駕籠が、曠野から姿を消した時、白河戸郷の盆地の上の、丘の一所へ現われた。
 そこから姿の消えた時には、盆地の坂を下っていた。
 が、そうして四挺の駕籠が、白河戸郷へ到着するや、幾つかの事件が行なわれた。
 衆を集める鐘の音が、回教寺院めいた建物から響くと、耕地からも往来(みち)からも家々からも、居酒屋からも、花園からも、大人や子供や男や女が、一度に鬨(とき)を上げて集まって来て、四挺の駕籠を取り巻いてしまった。
「誰だ誰だ! 何者だ!」
「神域へ無断で入って来た! 追い払ってしまえ! 虐殺してしまえ!」
「とにかく将監(しょうげん)様へお知らせしろ!」
「どんな奴が駕籠に乗っているのだ! 駕籠の戸をあけて引きずり出せ!」
 郷民達が声々に喚いた。
 と、その時一人の老人が、幾人かの郷民に囲繞されて、四挺の駕籠の方へ近寄って来たが、
「拙者は白河戸将監でござる。白河戸郷の長でござる。何用あって参られたか?」
 こう四挺の駕籠に向かって云った。
 と、その声に応じて一挺の駕籠から、一ツ橋慶正(よしまさ)卿が悠々と現われ、もう一挺の駕籠から碩寿翁が現われ、もう二挺の駕籠から老人と美女――他ならぬ刑部(おさかべ)老人と、巫女(みこ)の千賀子とが現われた。
 そうして一ツ橋慶正卿が、何やら将監へ囁いた。
 と、形勢が一変した。
 郷民達が慇懃(いんぎん)になり、一度に揃って慶正卿へ、ひざまずいて頭を下げたりした。将監においても丁寧になり、恭しく慶正卿に一礼し、それから自身が先頭に立って、回教寺院めいた建物の側の、一宇の屋敷へ案内した。それは将監の屋敷らしかった。
 ところで碩寿翁と刑部老人と、巫女の千賀子とはどうしたかというに、これも将監に案内されて、慶正卿につづいて将監の屋敷へ、同じく招待されたのであった。
 で、その後は白河戸郷は、以前(まえ)ながらの平和に帰ったが、その平和には活気があって、明るさを加えたようであった。

 これに反して丹生川平の方は、陰鬱の度を加えて来た。
 わけても陰鬱になったのは、宮川茅野雄その人であって、ある日人目を避けながら、森林の中を浪江と一諸に、話をしながら歩いていた。
「あれは何事でございますか! 若い乙女の身をもって、一糸もまとわぬ全裸体(まるはだか)で、あのような所におられましたのは?」
「止むを得なかったからでございます。……それにあの時ばかりでなく、従来(これまで)もああだったのでございます」
「尚よくないではございませんか。何のためにあんなことをなされるので?」
「お父上がせよと仰言(おっしゃ)いますので」
「私には伯父上の、覚明殿が?」
「そうして丹生川平から申せば、祭司であり長である怖い方から」

病める人々

 浪江の声は悲しそうであり、浪江の態度はおどおどしていた。
 が、茅野雄は突っ込んで訊ねた。
「どういう利益がありますので? あなたがあのように裸体(はだか)になれば?」
「はい、信者が喜びますそうで」
「信者? ふうむ、業病人(ごうびょうにん)達が?」
「はい、さようでございます。諸国から無数に集まって来た、業病人達でございます」
「何をあなたはなされるので? その不快な業病人達の前で?」
「ただ現われるのでございます。美しい清浄な女として。……」
「が、私には解らない! どうにも私には解らない!」
 すると今度は浪江が訊ねた。
「それにしても、あなた様には何の目的で、あの晩あのような場所へ参って、あのようなことをなさいましたので?」
「内陣の様子を見ようものと、忍んで行ったのでございますよ」
「でも父上からあなた様には、止められているはずではございませんか。内陣を見てはいけないと」
「さよう、ですからより一層に、内陣が見たかったのでございますよ」
「好奇心からでございましょうね?」
「好奇心からでございますとも」
「でも好奇心は好奇心のままで、うっちゃってお置きなさいました方が、よろしいようにございます。……好奇心は好奇心をとげた時に、値打(かち)を失うでございましょうから」
「値打を失なってしまいたいために、好奇心というものは強い力で、人間に逼るものでございますよ。好奇心は力でございます」
 森林の底と云ってもよかろう。特に薄暗い所へ来た。杉だの桧だの□(ぶな)[#「□」は底本では「撫」]だの欅だのの、喬木ばかりが生い茂っていて、ほとんど日の光を通さなかった。で、歩いて行く茅野雄と浪江との、姿さえぼけて見えるほどであった。
「伯父上はご立腹のようですな」
 巨大な楠の木の裾を巡り、行く手に黒くよどんで見える、古沼の方へ歩きながら、こう茅野雄は苦痛らしく云った。
 そういう茅野雄と肩を並べながら、足に引っかかる蔓草や落ち葉を、踏み踏み歩きながら浪江は云った。
「内陣を見られるということが、お父様にはこの上もなく、不愉快なのでございますので、それをご覧になろうとして、深夜に洞窟へ人に知らさず、こっそり行かれたあなた様を、怒っているのでございますよ」
「私にこの土地から立ち去るようにと、伯父上には今日仰せられました」
「…………」
「が、それにしても内陣には、何があるのでございましょうかな?」
「…………」
「醍醐弦四郎に対しましても、伯父上にはこの土地を立ち去るようにと、厳命したようでございますな」
「でも、弦四郎様は申されましたそうで『こっそり内陣へ入り込もうとした、宮川氏を入れまいとして、あの晩私や私の部下で、宮川氏を遮りました。功こそあれ罪はないはずで。立ち去れとは不当でございましょうよ』と」
「ナーニ、そのくせ醍醐弦四郎めも、あの晩内陣へ入り込もうとして、洞窟の入り口まで行っていましたので。そこへ私が参りましたので、競争相手を斃(たお)すつもりで、この私へあのように、切ってかかったのでございますよ」
 二人は尚も彷徨(さまよ)って行った。
 と、一所から声々が聞こえた。
 木立がそこだけ隙をなして、日光の射している丘があったが、そこに無数の業病人達がいて、話をし合っているのであった。
 茅野雄と浪江とは隙(す)かして見た。
 顔に白布をかけている者、松葉杖を脇の下へかっている者、一本しかない一本の腕で、胸の辺りをガリガリと掻いている者、膝から両脚がもげているので、歩くことが出来ずに這い廻っている者、髪の毛が残らず抜けたために、老婆のように見える若い女、骨なしの子供、せむしの老人――いずれも人の世の惨苦者(さんくしゃ)であったが、信仰を失ってはいないと見えて、その動作にも話しぶりにも、穏かな沈着(おちつ)いたところがあった。
 せむしの老人が体を延ばして、石楠花(しゃくなげ)の花を折ろうとしたが、どうにも身長(せい)が届かなかったので、人々はドッと声を上げて笑った。とは云え笑ったそういう声にも、軽蔑らしい響きなどはなかった。
 笑い声が高く大きかったからか、小鳥の群が棹(さお)をなして、日光の明るいそこの空間を、斜めに矢のように翔(か)けて通った。

「幸福そうでございますな」
 ふと茅野雄は浪江へ云った。
「幸福なのでございますよ」
 こう浪江は答えはしたが、苦しそうなところが声にあった。
「偽瞞(ぎまん)であろうとカラクリであろうと、それが信じられているうちは、幸福なのでございますよ。あの可哀そうな業病人達は」
(偽瞞? カラクリ? 何のことだろう?)
 茅野雄には浪江の云った言葉が、審(いぶか)しいものに思われた。
(これもやっぱり洞窟の中の、内陣に置いてある何らかの物と、関係のある言葉に相違ない)
 で、茅野雄は押し強く訊いた。
「浪江殿、お話しくださるまいか。内陣には何がありますので?」
「…………」
 浪江は返辞はしなかったが、云いたいと努力しているようであった。
 二人は宛なしに足を運んだ。
 古沼の岸を巡って越し、灌木の多い境地へ出た。
 と、その時人の足音が、ひそやかに二人の背後(うしろ)の方でした。
 しかし二人には解らなかった[#「解らなかった」は底本では「解らなった」]。
 不意に浪江が苦しそうに云った。
「申し上げることにいたします。どなたかにお話しいたしませねば、妾良心の苦しさに、息詰まってしまうのでございます。……あの内陣にあるものは、盗んで来た品物でございます。……しかも片輪なのでございます!」
「浪江!」と、その時鋭い声が、いや、幽鬼的の兇暴の声が、背後にあたって響き渡った。
 同時に風を切る音がした。
「あれ!」
「伯父上!」
 ガラガラガラ!
 体は長身、髪は切り下げ、道服めいた衣裳を着た、一人の老人が鉄の杖を、両手で頭上に振り冠り、怒りと憎しみとで顔を燃やし、水銀のようにギラギラと光る、鋭い眼で、一所を睨みながら、あたかも鬼のように立っていた。
 外ならぬ宮川覚明であった。
 そういう覚明から二間ほど離れた、桧の大木の背後の辺りに、一個の群像が顫えながら、覚明を見詰めて、立っていた。
 覚明が背後から鉄の杖で、浪江を撲殺しようとしたのを、早くも気勢(けはい)で察した茅野雄が、刹那に浪江を引っ抱え、瞬間に飛び退いて難を遁れ、いまだに浪江を引っ抱えたままで、立っているところの姿なのであった。
 寂然とした間があった。
 向かい合った三人の空間を、病葉(わくらば)が揺れながら一葉二葉落ちた。
 と、讃歌が聞こえてきた。
□唯一なる神
みそなわし給う
病める我らを
慈悲の眼をもて。
 丘の上の大勢の業病人達が、歌っている讃歌に相違なかった。
 宙に上っている鉄の杖が、この時ゆらゆらと前へ出た。
 覚明が前へ出たのである。
 その覚明が呻(うめ)くように云った。
「内陣の秘密を洩らす者は、肉親といえども許されない! 洩らしたな浪江! 聞いたな茅野雄! ……娘ではないぞ! 甥でもない! 教法の敵だ! おのれ許そうか! ……生かしては置けぬ! 犬のように死(くた)ばれ!」
 ジリジリジリジリと前へ進んだ。
 が、また讃歌が聞こえてきた。
□唯一なる神
許したもう
信じて疑わぬ
我らのみを。
「聞け!」と、覚明はまた進んだ。
「あの歌を聞け! あの歌を聞け! 疑わぬ者のみが許されるのだ! ……おのれらよくも疑がったな! よしや盗んだ品であろうと、よしやその品が片輪であろうと、疑がわぬ者には力なのだ! あばくことがあろうか! あばくことこそ罪だ! 死ね!」と、鉄の杖が振り下ろされた。

長閑な会話

 しかしその時には浪江を抱いたまま、茅野雄は背後へ飛び退いていた。
 茅野雄と浪江とは若かった。その行動も敏捷であった。
 しかし覚明は老人であった。行動は鈍く敏捷でなかった。
 このままで推移したならば、茅野雄と浪江とは遁れられるかも知れない。
 と、云うことが解ったと見える。
 大音声に覚明は叫んだ。
「教法の敵こそ現われましたぞ! 方々出合って打って取りなされ!」
 オーッという応ずる高声と、ワーッという大勢の鬨(とき)の声とが、忽ち四方から湧き起こった。

 しかるにこの頃数人の武士が、丹生川平の境地を下り、例の曠野まで続いている、大森林を分けながら、曠野の方へ辿っていた。
 醍醐弦四郎と部下とであった。
「まごまごしていると追っ払われるぞ」
 こう云ったのは弦四郎であった。
「丹生川平をでございますかな」
 こう云ったのは半田伊十郎であった。
「ああそうだよ、丹生川平をさ」
「お立ち退きなさればよろしいのに」
「途方もないことを云うものではない。あれほどの宝とあれほどの女を、うっちゃることが出来るものか」
「それはまアさようでございましょうが」
「俺が内陣へ入りたがっている。――いやあの晩は入ろうとした――と云うことを覚明殿に見抜かれたのが、失敗だったよ」
「茅野雄も内陣へ入りたがっていたようで」
「だからこそあの晩洞窟の口へ、こっそり忍んでやって来たのさ」
「そこで我々が襲ったという訳で」
 弦四郎の一行は歩いて行く。
「どうともして今度こそ白河戸郷を、退治る方法を講じなければならない」
 まだ弦四郎はこういうように云った。
「で、出かけて来たのだがな」
「ともかく一応白河戸郷へ、潜入する必要がございますな」
「そのためこうやって出て来たのさ」
 弦四郎達は大森林を出た。
 と、美しい花の曠野が、依然として人の眼を奪うばかりに、弦四郎達の眼の前に拡がった。
 灌木に隠れ、丘に隠れ、弦四郎達は先へ進んだ。
 と、にわかに立ち止まり、弦四郎はグッと眼を見張った。
 白河戸郷の方角から、三人の男と一人の女とが、長閑(のどか)そうに話しながら来たからであった。
「はてな」と、弦四郎は打ち案じた。
「遠目でハッキリとは解らないが、見たことのあるような連中だ」
 で、じっと尚も見た。
 歩いて来る四人は何者なのであろう?
 一人は一ツ橋慶正(よしまさ)卿であり、一人は松平碩寿翁(せきじゅおう)であり、一人は刑部(おさかべ)老人であり、一人は巫女の千賀子なのであった。
「よい眺めだの」と、慶正卿が云った。
「花園のようでございます」
 碩寿翁がすぐ応じた。
「こういう景色を見ていれば、悪事などしたくなくなるだろうな」
「まさにさようでございます」
「京助などという穏しい手代を、殺そうなどとは思うまいな」
「とんだところでとんでもないことを」
「が、安心をするがよい。あの男は私が助けてやった。今頃は貧しいが清浄な娘と、つつましい恋をしているだろう。……それはそうと千賀子殿」
「はい」と、千賀子は慇懃(いんぎん)に云った。
「昔のあなたになれそうだの」
「殿様のお蔭にございます」
「それはそうと刑部老人」
「はい」と、刑部老人は云った。
「その物々しい白い髯は、そうそう苅ってしまってはどうか」
(おやおや)と、刑部老人は思った。
(俺ばかりが歩が悪いぞ。髯の悪口を云われたんだからな)
「殿様のご注文でございましたら、早速髯など苅りましょうとも」
「苅った髯は店へ並べるがいい」
「並べる段ではございません」
「それだけが本物ということになる」
「それだけが本物と仰言(おっしゃ)いますと?」
「お前の店にある他の物は、確かことごとく贋物(にせもの)のはずだ」
(いよいよ俺だけが歩が悪いぞ)
「そうばかりでもござりませぬがな」
「いけないいけない嘘を云ってはいけない」
「アッハハ、そうでございますかな」
「もっとも店の主人公が、店の物は贋物でございますと、自分から云うことは出来まいがな」
「はい信用にかかわりますので」
 長閑に話しながら歩いて来る。
 一ツ橋慶正卿と碩寿翁と、千賀子と刑部老人とが、こう話しながら先へ進み、曠野を大森林へまで辿って行き、大森林の中へ入って、全く姿を消した時、四人の後を見送って、不思議そうに呟いたものがあった。
「碩寿翁と千賀子と刑部老人ではないか! 何と思ってこんな所へ、ああも揃って来たのだろう! もう一人のお方は知らないが、威厳があってまるで貴人のようだった」
 隠れ場所から現われた、それは醍醐弦四郎であった。
 何のためにそういう人達が、揃ってこの地へ現われて、大森林の中へ、入って行ったか? ハッキリしたことは解らなかったが、こう云うことは感じられた。
(貴人のようなお方は別として、他の三人は俺の狙っている物を、同じように狙っている人達だと、こう云ってもよさそうである。さてそういう人達が、大森林の中へ入って行ったのだ。大森林の彼方(あなた)には、丹生川平が存在する。丹生川平の神殿には、その「狙っている物」があるはずだ。で、連中はそこへ行って、その物を取ろうとするのかもしれない。うっかりすると横取りされるぞ)
 とは云え弦四郎は引っ返して、丹生川平へ帰って行って、その四人の人達を相手に、「狙っている物」を競争しようという、そう云う気持にはなれなかった。
(碩寿翁一人を相手にしても、俺に勝ち目はありそうもない。まして、四人を相手にしては……)
 とても駄目だと思われるからであった。
(それよりも急いで白河戸郷へ行き、小枝(さえだ)という娘を引っ攫(さら)って来よう。そうして、それを功にして、覚明殿に話し込み、神殿の内陣へ入れて貰おう。入ったが最後盗んで逃げよう。碩寿翁をはじめ四人の者が、どのような権威者であろうとも、行ってすぐに覚明殿に談じ込んだところで、覚明殿にはおいそれと、四人を内陣へは入れないだろう。四人が内陣へ入らない先に、小枝を奪って丹生川平へ帰ろう)
 で、弦四郎は部下を急がして、白河戸郷の方へ足早に進んだ。

 ここは洞窟の内部であって、暗々(あんあん)とした闇であった。
 と、その闇の一所から、男女の囁く声がした。
「浪江殿、これからどうしましょう?」
「とうてい外へは出られません。奥へ参ることにいたしましょう」
 男女は茅野雄と浪江とであった。
 郷民達に襲われたので、茅野雄は殺生とは思いながら、幾人かの郷民を叩っ切り、浪江を連れて逃げ廻るうち、岩山の洞窟の口まで来た。と、洞窟の口があいた。外の騒ぎが烈しかったので、洞窟を守っていた番人が、外の様子を見ようとして、内部から扉を開けたのであった。
 そこで茅野雄は(しめた!)と思った。(洞窟の中へ入ってやろう)――で浪江を引っ抱えて、洞窟の中へ突き進んだ。と、番人が切ってかかった。それは峰打ちに叩き仆して置いて、茅野雄は中から扉を閉じ、ガッシリと閂(かんぬき)を下ろしてしまった。
 ――で、今、洞窟の中にいるのであった。
 外から大勢の郷民達が、扉を叩いたり喚き声を上げたり、番人に向かって扉をあけるようにと、命じている声が塊(かた)まり、ワーンというように聞こえてきたが、番人は気絶をして仆れていた。なんの扉をあけることが出来よう。
 で、今のところ茅野雄も浪江も一時安全を保つことが出来た。
 とは云えいつまでも洞窟の中に、隠れていることは出来そうもなかった。食べ物だってないだろう。飲み水だってないだろう。
 しかしながら外へは出られなかった。出たが最後に二人ながら、兇暴になっている郷民達のために、私刑にされるに相違ないのであるから。
「そう、とうてい今のところ、外へ出ては行かれますまい。そう、それではともかくも、奥へ進んで参ることにしましょう」
 こう云うと茅野雄は奥へ向かって歩いた。
 と、浪江が囁くように云った。
「行く先に幾個(いくつ)か関門があります。そこには番人が守っております。……妾(わたくし)、先へ立って参りましょう。妾が声をかけましたら、番人達は扉をひらきましょう。と云うのは、妾と父上とばかりが、関門をひらかせる特別の権利を、持っているからでございます」

恐ろしき予感

 そこで浪江は先へ立って進んだ。
 はたして関門が行く手にあった。
「ね、妾だよ。門をおあけ」
 浪江は何気なさそうに声をかけた。
 と、内側から男の声がした。
「ああお嬢様でございますか。……が、今頃何のご用で?」
「妾はおあけと云っているのだよ。……何の用であろうとなかろうと、お前には関係のないことだよ。……門をおあけ! ね、おあけ」
 内側では考えているようであったが、やがて閂を外すらしい、軋(きし)り音(ね)が鈍く聞こえてきて、やがて関門の扉があいた。
 内側に燈火(ともしび)があったと見えて、開けられた扉の隙間から、ボッと光が射して来た。
 が、すぐ隙間から顔が覗いた。
「お嬢様、……背後(うしろ)におられるお方は?」
 覗いたのは番人の顔であって、浪江の背後に佇んでいる、茅野雄に疑問をかけたのであった。
 しかしその次の瞬間には、簡単な格闘が演ぜられていた。扉を押しひらいて内へ入った茅野雄が、組みついて来た番人の急所へ、あて身をくれて気絶をさせ、猿轡(さるぐつわ)をかませ手足を縛り、地上へころがしてしまったのである。
 茅野雄と浪江とは先へ進んだ。燈火(ともしび)が仄(ほの)かに点(とも)っていて、歩いて行く二人の影法師を、しばらくの間行く手の地面へ、ぼんやりと黒く落としてい、左右の岩壁に刻られてある、奇怪な亜剌比亜(アラビア)の鳥類の模様を、これもぼんやりと照らしていた。
 やがて二人の姿は消えた。
 道が左の方へ曲がったからである。
 が、間もなく二人の姿は、第二の関門の前に来ていた。
「ね、妾だよ、門をおあけ」
「ああお嬢様でございますか! ……が今頃何のご用で?」
「妾はおあけと云っているのだよ。……何の用であろうとなかろうと、お前には関係のないことだよ。……門をおあけ! ね、おあけ!」
 以前(まえ)と同じような問答の後に、関門の扉が同じように開けられ、そうして同じような格闘が、以前のように行なわれたあげく、番人が地上へころがされ、茅野雄と浪江とが先へ進んだ。
 こうしてまたも関門へ出、同じような状態で関門を破り、先へ進んで行った時、茅野雄と浪江とは前の方に、一つの怪異な光景を見た。

「これは大急ぎで行かなければいけない」
 大森林の中を白河戸郷をさして、歩いていた一ツ橋慶正卿は、にわかにこう云って碩寿翁達を見た。
「それはまた何ゆえでございますかな?」
 こう碩寿翁は意外そうに訊いた。
「お前達みんなが取り合おうとしている、その物が人の手に渡ろうとしている」
「いやそれは大変なことで! ……しかしどうしてそのようなことが?」
「わしだけには解る理由があるのだ」
「ではこうしてはおられませんな」
「それに二人の立派な男女が、虐殺の憂目に逢おうとしている」
「丹生川平(にゅうがわだいら)ででございますかな?」
「そうだ、丹生川平でだ」
「急いで行こうにも道程(みちのり)はあり、ことには歩きにくい森林ではあり……」
「そうだ、どうも、それが困る」
 慶正卿はこう云ったが、四辺(あたり)に放牧されている、野馬の群へ眼をつけると、
「うん、ちょうど野馬がいる。これへ乗って駈け付けることにしよう」
「よい思い付きにございます。では私もお供しましょう」
「刑部(おさかべ)老人と千賀子殿とは、まさか野馬には乗れまいな。またお前達二人などは、急いで駈けつける必要はない。後からゆっくり来られるがよい」
 こう云った時には慶正卿は、既に一匹の野馬の背へ、翻然として飛び乗っていた。
 そうして飛び乗った、次の瞬間には、大森林を縫って走らせていた。
 その後からこれも野馬に乗った碩寿翁が走らせていた。

 はたしてこの頃丹生川平では、恐ろしい事件が起こっていた。
「さあ火をかけろ!」
「火で焼き切れ!」
「どうでも扉はひらかなければいけない」
 洞窟の入り口に屯(たむろ)している、丹生川平の郷民達は、こう口々に喚きながら、枯れ木や枯れ草をうず高いまでに、洞窟の扉の前に積んだ。
 茅野雄と浪江が郷民を切って、洞窟の内へ入り込んで、内から扉をとじてしまった。呼んでも呼んでも返辞をしない。扉をあけろと命じても、番人は返辞(いらえ)さえしようとしない。
 で、郷民達はこう思った。
(茅野雄が番人を切り殺し、内側から閂をかって置いて内陣の方へ行ったのであろう)と。
 内から閂をかったが最後、外からは開かない扉であった。火をかけて焼いて焼き切るより、開く手段はない扉であった。
 しかし郷民達は躊躇した。
(浪江殿は教主覚明殿の、一人娘ごであられるし、茅野雄殿は教主覚明殿の、一人の甥ごであられるのだから、扉を焼き切って洞窟内へ乱入してお二人を討ち取ることは、覚明殿に対してどうだろう?)
 で、郷民達は躊躇した。
 しかしその時郷民達に雑って、歯を食いしばり地団駄を踏み、洞窟の扉を睨みつけていた宮川覚明が、長髪を揺すり、狂信者にありがちの兇暴性を現わし、こう吼えるように怒号した。
「かまわないから火をかけろ! 扉を焼き切って乱入しろ! 茅野雄と浪江とが奥の院の、内陣にまで行きつかないうちに、追い付いて討って取るがよい! 洞窟内には関門がある! いくつとなく関門がある。厳重に番人が守ってもいる! 容易に破って行くことは出来ない。そこが我々の付け目とも云える! 二人を内陣へ行かせてはいけない! どうしても途中で討って取らなければいけない! ……娘でもない甥でもない! 我々に取っては教法の敵だ! 教法の敵の運命は、自ら一つに定(き)まっている! 刃(やいば)を頭上に受けることだ! ……さあやっつけろ! 火をかけろ!」
 これでやるべきことが定まった。
 間もなく煙りが渦巻き上り、火焔が扉へ吹きかかった。

 一方醍醐弦四郎は、曠野をズンズンと潜行して、間もなく白河戸郷を巡っている、丘の一つの頂きへ着いた。
 灌木の陰へ身を隠しながら、白河戸郷を見下ろした。
「これは一体どうしたんだ!」
 何を弦四郎は見たのであろう? いかにも驚きに打たれたように、こう頓狂な声を上げた。
 眼の下に見える白河戸郷に、一大事が起こっていたからであった。
 すなわち人家や牧場や、花園や売店や居酒屋などから、老若男女子供までが、得物々々をひっさげて、盆地の中央に聳えている、真鍮の天蓋型の屋根を持った、回教寺院(モスク)型の伽藍の方向へ向かって、波の蜒(うね)るように押し出して行き、その回教寺院を破壊するべく、得物々々を揮っているのであった。
 で、そこから聞こえてくるものは、人の喚き声と物の破壊(こわ)れる音とで、そうしてそこから見えて来るものは、砂塵と日に光る斧や槌や、鉄の棒や、鉞(まさかり)や刃物なのであった。
 内乱が起こったと見るべきであろう。
 この勢いで、時が経ったなら、白河戸郷という神域別天地は、間もなく滅亡してしまうであろう。
(これは内乱に相違ない! が、どうして内乱なんかが?)
 丘の頂きに立ちながら、そういう光景を眼の中へ入れた、醍醐弦四郎はそう思ったが、しかし、弦四郎の身にとって見れば、白河戸郷に内乱のあるのは、まさにもっけの幸いであって、内乱の事情などどうであろうと、かかわるところではないのであった。
 そこで弦四郎は部下を連れて、盆地を下へ走り下った。
(どさくさまぎれに小枝(さえだ)を攫(さら)おう)
 こう思ったからであった。

新しき登場者

 さてこういう出来事が、白河戸郷や丹生川平の、二つの別天地に起こっている時、この別天地をつないでいる、花の曠野へ四挺の山駕籠が、浮かぶがように現われて来た。
 何者達が乗っているのであろう?
 勘右衛門とお菊と弁太と杉次郎とが、駕籠には乗っているのであった。
 愛と憎とのもつれ合っている、この四人の男女のものが、どうしてこのように一緒になって、このような所へ来たのであろう?
 勘右衛門がお菊を訊問することによって、お菊が勘右衛門の大切にしていた、例の品物を京助の手により、古物商の刑部老人の元へやったということを知ることが出来た。そこで勘右衛門は刑部の家を訪ねた。旅へ向かって立ったという。
 そこで勘右衛門は手を尽くして、刑部の旅先を突き止めようとした。
 勘右衛門は抜け荷買いをしたほどの男で、異国の事情に通じていたし、長崎の事情にも通じてい、刑部という老人が、長崎辺りの蘭人達と、取り引きをしているということなども、ずっと以前から知っていた。
 つまり勘右衛門は刑部老人の、素性(ひととなり)と行動とを知っていたのであった。
 したがって刑部老人が、あの大切な品物を持って、どの方へ旅立って行ったかについても、大体見当をつけることが出来た。
(長崎へ行ったに相違ない)
 しかしだんだん探って見たところ、飛騨の方へ行ったということであった。
(これは一体どうしたことだ?)
 勘右衛門には意外であった。
 しかし、それから筋を手繰(たぐ)って、一層くわしく探ったところ、巫女(みこ)の千賀子も刑部老人と一緒に、飛騨の方へ行ったということであった。
 そこで勘右衛門は決心をして、飛騨の方へ追って行くことにした。
 その時勘右衛門は女房のお菊や、杉次郎や弁太を自分の前へ呼んで、こういう意味のことを話して聞かせた。
「お菊、お前は何にも知らないで、京助の手からあの大切な品を、刑部老人の元へやって、わずかばかりの金に換えようとしたし、杉次郎殿や弁太さんなどは、京助からあの品を取り戻そうとした私を、あんな塩梅(あんばい)に邪魔をしたが、それはいずれもあの品物の、素晴らしい価値を知らなかったからだ。私はお前さん達に正直に云うが、あの品物は今の私の家の、全財産よりも価値のあるものだ。それをお前達はよってたかって、私の手元からなくなしてしまった。……今になってはそれも仕方がない。で私はあれを取り返しに、飛騨の方へ旅をすることにした。お前さん達も一緒に行ってはどうか」
 こう云われてお菊や杉次郎達は、今さら自分達のやったことを、後悔せざるを得なかった。
 そうして彼らは勘右衛門と一緒に、その品物を取り返す旅に、出て行くことに決心した。
 とは云うもののお菊などは、飛騨というような山国などへは、こんな機会がなかろうものなら、生涯行っては見られないだろう。よい機会だから行ってみようという、そういう心理に動かされてはいた。
 また杉次郎は情婦のお菊が、旅に出かけて行くというので、別れるのが厭だという心持から、一緒に行く気になったのであり、弁太は弁太で行を共にしたら、うまい儲け口があるかもしれない。――そう思って行くことにしたのであった。
 勘右衛門にしてからが考えがあった。
(杉次郎や弁太はお菊をとり巻いて、よくないことをやっている。こいつらを江戸へ残して置いては、どんなことをやり出すか分らない。旅へ一緒に連れて出たところで、手助けにも何にもなりはしないが、江戸へ残して置くよりはいい)
 で、四人は旅へ出て、辿り辿ってこの曠野へまで、今や姿を現わしたのであった。
(本来あの品は二つある品だ。二つあると飛び離れた価値になる。刑部老人はその素性から、また商売の関係から、あの品物の二つあることを、心得ているに相違ない。その刑部老人が、飛騨の国へ来たのである。ではあるいは飛騨の国に、もう一つの品があるのかも知れない。それを得ようとして来たのかもしれない)
(そればかりか千賀子までも一緒に来たそうだ。千賀子に至ってはあの品物の、どういう品物であることか、どれだけの価値のあるものかを、自分の物のように知っているはずだ。その千賀子が刑部老人と一緒に、この飛騨の国へ来たのである。では、いよいよもう一つの品が、この国にあるものと見てよかろう)
 道々勘右衛門はこう思って、好奇心と興味と慾望とを起こし、自分こそ失った例の品と、そのもう一つの品物とを、手に入れようと希望したりした。
 こうして今や曠野まで来た。
 と、一方から大勢の者が、この四人の駕籠の方へ、群て歩いて来るのが見られた。
 白河戸郷の方角から、その大勢の者は来るのであった。

 洞窟の奥の神殿の前に佇んでいる男女があった。宮川茅野雄と浪江とであった。
 神殿の扉がひらかれていて――開いたのは茅野雄その人なのであったが――内陣のご神体が見えていた。
 六尺ぐらいの異国神の像で、左の一眼が鯖(さば)色の光を、燈明の火に反射させていた。
 それだのにどうだろう、右の一眼は、盲(めし)いたままになっているではないか。眼窩(がんか)は洞然(ほこらぜん)と開いているが、眼球が失われているのである。
 アラ神であるということは、多少とも回教を知っている人には、看取されたに相違(ちがい)ない。
 そのアラ神を囲んでいる厨子(ずし)が、宝石や貴金属や彫刻によって――アラビア風の彫刻によって――精巧に作られちりばめられてあり、厨子の前方燈明の燈(ひ)に――その燈明の皿も脚も、黄金で作られているのであったが――照らされているありさまは、神々(こうごう)しいものの限りであった。
 神殿は石段の上にあり、その石段もこの時代にあっては珍らしい大理石で作られていた。
 しかし建物は神殿ばかりではなく、神殿から云えば東北の辺りに、二棟の建物が建ててあった。いずれも導師が祈祷をしたり、読経を行なう所らしい。
 その中の一棟の建物の床から、泉が湧き出して流れてい、その流れの岸の辺りに、黒い色の石が据えてあった。
 が、もう一棟の建物の横には、三基の墳塋(はか)が立てられてあり、その前にも燈明が点(とも)されていた。
 茅野雄には解っていなかったが、それらの建物や墳塋や泉や、黒石などは回教の本山、亜剌比亜(アラビア)のメッカに建てられている、礼拝堂(ハラグ)に則(のっと)って作られたものであった。
 すなわち泉はザムであり、また黒石はアラオであり、墳塋は教主のマホメットと、その子と、弘教者(ぐきょうしゃ)のオメルとの墳塋で、回教の三尊の墳塋なのであった。
 そういう建物や墳塋を蔽うて、洞窟の壁と天井とがあったが、壁の面(おもて)にも天井にも、さまざまの彫刻が施こしてあり、いろいろの装飾が施こしてあった。
 そういう洞窟の一所に立って、茅野雄と浪江とは神像を眺め、言葉もなく黙っているのであった。
 幾人かの人間を切ったことなど、茅野雄の考えの中にはなかった。今にも覚明を初めとして、丹生川平の郷民達が、洞窟の扉を破壊して、ここへ無二無三に殺到して来て、自分達を討って取るだろうという、そういう不安さえ心になかった。
 奇怪と荘厳とを一緒にしたような、妙な気持に圧迫されて、押し黙っているばかりであった。
 と、浪江の囁く声がした。
「ご神体は贋物なのでございます。ご覧の通り一方の眼だけが、見ひらかれて鋭く輝いております。でももう一方の眼は潰れております。……父上は開いている一方の眼だけを、手に入れたばかりでございました。その一つの眼を基にして、あのご神体を作ったのでした」
「…………」
 茅野雄は返辞をしようともせず、その輝いている一眼へ、恍惚とした眼を注いでいた。
 茅野雄は自分の心持が、抑えても抑えても抑え切れないほどに、その一眼を手に入れたいという、慾望に誘惑されるのを感じた。
(あの眼の光に比べては、名誉も身分も財産も、生命までも劣って見える)
 茅野雄は深い溜息をしたが、誰かが背後から押したかのように、思わず前へ突き進んだ。
 いつか茅野雄は石段を上り、神殿の前に立っていた。
 と、茅野雄は腕を延ばしたが、グルグルと神像の首を捲いて、右手で刀の小柄(こづか)を抜くと、神像の眼をえぐりにかかった。
「あ、茅野雄様!」と恐怖に怯(おび)えた、浪江の声が聞こえて来た。しかし夢中の茅野雄の耳には、聞こえようとはしなかった。
 浪江はそういう茅野雄を見ながら、体をこわばらして佇んでいたが、うっちゃっては置けないと思ったからであろう、石段を茅野雄の方へ走り上った。
「あまりに勿体のうございます!」
 浪江は茅野雄の右の腕に縋(すが)った。
 が、すぐに振りほどかれた。しかし浪江は一所懸命に、再度茅野雄の腕に縋った。が、またも振りほどかれた。

超人

 しかしそういう夢中になっている、茅野雄の耳へ殺到して来る、大勢の足音や喚き声や、打ち物の烈しく触れ合う音が、聞こえてきたのは間もなくであった。
 そうしてその次の瞬間には、宮川覚明と郷民達とが、石段の下まで襲って来たのを迎え、神殿を背後に神像の前に、抜き身を中段に構えた茅野雄が、その足もとに仆れている浪江の、気絶をしている体を置いて、決死の姿で突っ立っていた。
 しかしその次の瞬間には、切りかかって来た郷民の二人を、石段の上へ切り仆した茅野雄の、物凄い姿が見受けられた。
 全く物凄いと云わざるを得ない。
 乱れた髪、返り血を浴びた衣裳、はだかった胸、むきだされた足、そうして構えている刀からは、鍔越(つばご)しに血がしたたっている。が、そういう茅野雄の肩の、真上にあたる背後(うしろ)の方から、例の神像の一眼が、空から下りて来た星かのように、鋭い光を放っているのが、わけても凄く見えなされた。
 しかもそういう茅野雄の前には、無数の郷民が打ち物を揃えて、隙があったら切り込もうと、ひしめき合っているのであった。
 そういう郷民達の群の中に、ひときわ背高く見えている、妖精じみた老人があったが、他ならぬ宮川覚明で、杖を頭上にかかげるようにすると、
「神殿の扉を無断で開け、アラ神を曝露した涜神の悪人、茅野雄は教法の大敵でござるぞ! 神も虐殺を嘉納なされよう! 何を汝(おのれ)ら躊躇しておるぞ! 一手は正面からかかって行け! 一手は左からかかって行け! そうして一手は右からかかれ!」と、狂信者特有の狂気じみた声で、荒々しく叫んで指揮をした。
 それに勇気をつけられたのであろう、三方から郷民達は襲いかかった。
 その結果行なわれたことと云えば、正面から襲って行った一手の勢が、茅野雄のために切り崩され、なだれるように下りたのに引かれて、茅野雄も下へ下りた隙に、左右から襲って行った二手の勢が、段上を占めたことであった。
 下へ下りた茅野雄を引っ包んで、郷民達の渦巻いている姿が、こうしてその次には見受け[#「見受け」は底本では「身受け」]られたが、しかしその次の瞬間には、渦巻が左右に割れていた。
 と、その割れ目を一散に走って、黒石(アラオ)の方へ行く者があり、やがて黒石の上へ、片足を掛けて休んだ者が見られた。
 数人の郷民を切り斃して、そこまで行った茅野雄であった。
「黒石を土足で穢した逆賊!」
 すぐに覚明の喚く声がした。
「躊躇する汝らも逆賊であろうぞ!」
 またも茅野雄を取り囲んで、人間の渦が渦巻き返った。
 しかしその次には全く意外の、驚くべき事件が演ぜられた。
 老人の声ではあったけれど、底力のある威厳のある声で、
「極東のカリフ様がおいでなされたぞ! 謹んでお迎えなさるがよろしい!」
 つづいて威厳と清浄と、神々しさと備えたような声が、若さをもって聞こえてきた。
「覚明殿、殺生はお止めなされ!」
 一同の者は声の来た方を見た。
 一ツ橋慶正(よしまさ)卿の高朗とした姿が、老将軍のような碩寿(せきじゅ)翁を連れて、此方(こなた)へ歩いて来るのが見られた。
 大森林の中で野馬を捕らえ、丹生川平へ駛(はし)らせて来た、慶正卿と碩寿翁とが、この時到着したのであった。
 超人(スーパーマン)には常人などの、及びもつかない神性がある。駕籠に乗って歩かせていたばかりで、碩寿翁ほどの人物を、目的の長崎へやろうとはせず、飛騨の地へ来させてしまったことなどは、神性のしからしむるところであり、茅野雄と浪江との恐ろしい危難を、洞察したのもそれであり、飛騨の地に回教を密修している、二つの郷のあることと、回教にとって重大の価値ある、ある「何か」が多くの人の、さまざまの手を通したあげく、この飛騨の地で「あるべき所へ帰る」――そういうことを洞察して、そうしてこの地へ出て来たことも、神性のしからしむるところであった。
 いやいやむしろこの飛騨の地で、従来散失していたものを、一所に集めようと心掛けて、その神性を働かせて、それに関係ある一切の人を、この地へ集めたと云った方が、中(あた)っているように思われる。
 そういう超人の慶正卿であった。
 その神々しい風采は狂信者の覚明や郷民達をさえ、恭謙の心へ導いてしまった。
 で、にわかに洞窟の内は、静粛となり平和となった。
 と、そういう洞窟の内を、一応見廻した慶正卿は、神殿の方へゆるゆると進んだ。
 右手を前へ差し出している。その掌(てのひら)から鯖色[#「鯖色」は底本では「錆色」]の光が、矢のように鋭く、射し出ていたが、その光は神像の一眼の光と、全く同じものであった。
 碩寿翁の持っていた小箱の中の物品! それと全く同じ物で、碩寿翁から慶正卿が、横取ったものに相違ない。
 石段を上ると慶正卿は、敬虔に神像の前に立ち、右手を神像の方へ差し出したが、ややあって神像から立ち離れ、神殿の横手へ佇んだ。
 片眼であった神像の眼が、二つながら今は明いている。例の鯖色の素晴らしい光が、両眼から燦然と輝いている。
 と、歓喜の高い声が、洞窟の内へ響き渡った。これは覚明を初めとして、集まっていたほどの郷民が、両眼を備えた神像に対して、思わず上げた歓声なのであった。
 しかしこの時意外の意外として、洞窟の外とも思われる辺りから、素晴らしく高い大勢の讃歌の声が聞こえてきた。

 ここは洞窟の外である。
 六尺ぐらいのアラ神の像を、神輿(しんよ)に舁(か)きのせた数百の男女が、洞窟の入り口に屯(たむろ)していた。
 数人の武士がその中にいたが、何と高手小手に縛られているではないか。醍醐弦四郎とその部下とであった。
 そうして群衆は白河戸郷の、郷民達に他ならなかった。
 その証拠には群衆の中に、以前に宮川茅野雄へ向かって、道を教えたことのある、また、同じ宮川茅野雄を、暗夜に襲って殺戮しようとした、老樵夫(ろうそま)のような人物が――もっとも今は威厳と信仰とを、具現したような風采をしている――白河戸将監(しょうげん)その人が、娘の小枝(さえだ)を側(そば)に立たせ、自身も神輿の横に立って、郷民達と讃歌をうたっていた。
 見れば大勢の郷民の中に、巫女(みこ)の千賀子も雑(まじ)っていれば、刑部(おさかべ)老人も雑っており、松倉屋勘右衛門も雑っていれば、杉次郎も弁太もお菊なども、同じように雑っていた。
 一ツ橋慶正卿の言葉に従い、まず将監は白河戸郷の山岳宗教境を破壊した上、千賀子の元から奪い取り白河戸郷の神体としたアラ神の像を神輿に納め、「神像の完璧」を行なうために丹生川平へ進んで行こうとした時、醍醐弦四郎とその部下とが白河戸郷へ入り込んで来て小枝を奪い取ろうとしたのですぐに捕らえて縛り上げ、道々勘右衛門の一行と千賀子と刑部老人とを収容してここまで来たのであった。
 勿論彼らは丹生川平と、戦いをするために来たのではなくて、和睦(わぼく)するために来たのであった。
 やがて彼らの一団は、洞窟の入り口から中へ進み、間もなく神殿の前まで来た。
 行なわれたことは何であったか?
 この物語に関係のある、一切の人物と物品とが、一所に揃ったことであった。

 もうこれで物語は終えたと云ってよかろう。が、しかしながら極めて簡単に、――スチブンソンの「ニュウアラビヤンナイト」式に、説明を加える方がよいとならば、説明をすることにしよう。
(一)大金剛石を両眼に持った、アラ神の像は千賀子のもとに代々伝わっていたものであったが、その一眼を覚明が奪い、他の一眼を何らかの手段で、松倉屋勘右衛門が手中に入れ、神像その物は白河戸将監が奪い、各々(めいめい)勝手に保存した結果が、事件の基となったのであった。
(二)一ツ橋慶正卿が回教における、カリフの尊号を得たことについては、作者の調べた文献の中に、その詳細がないところから、ここで説明することは出来ない。

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