生死卍巴
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著者名:国枝史郎 

 しかし茅野雄に油断があろうか、逼って来た足音で自(おの)ずと解った、振り返ったと見るや片手撲りだ、敵の真っ向を朱(あけ)に染め、その隙にこれも追いついて、前後から切り込んで来た二人の敵の、前の一人を袈裟(けさ)に斃し、引き足もしない同じ位置で、ブン廻るように廻ったが、後ろの一人の腕を落とした。
「待て! 弦四郎!」
 一散に走り、追い詰めると颯(さっ)と前へ出て、行く手を扼(やく)したが大音声だ。
「娘を放せ! 切って来い! 汝(おのれ)の味方を五人斃した、茅野雄は汝が敵であろうぞ! 遁しはしまい、拙者も遁さぬ! 逃げても切るぞ来ても切る!」
 ――で、グ――ッと刀を冠った。
 と、その刀と向かい合って、一本の刀が茅野雄の眉間へ、切っ先を向けて宙へ浮かんだ。もういけないと観念をして、小枝を地上へ抛り出し、抜き合わせた醍醐弦四郎の、正眼に構えた刀であった。
 上と下とで二本の刀が、凄じい気合で拍子取っている。刀の切っ先を真直ぐに越して、茅野雄を睨んでいる弦四郎の眼と、刀の柄頭の下を通して、弦四郎を睨んでいる茅野雄の眼とが、互いに相手を射殺そうとしている。
 しばらくは二人とも動かない。
 で、天地が寂然と、にわかに眠ってしまったかのように、二人には感じていなければならない。
 しかしそれにしても弦四郎と一緒に、茅野雄を襲った丹生川平の、九人の男達はどうしたことであろう?
 そのうちの五人は茅野雄のために、今までに斃されてしまったが、後にまだ四人残っているはずだ。何故茅野雄に切ってかからないのであろう? 茅野雄の手並に驚いて、いずこへともなく逃げたのであろうか? 逃げたと云わなければならないかもしれない。四人ながら一散に大森林の方へ、今や走っているのであるから。
 その大森林の向こうの側に、丹生川平はあるのであった。
 走って行くのは事実であったが、逃げて行くのだとは云われないかもしれない。
 四人バラバラに森林の中へ入ると、四方八方へ駈け廻(めぐ)って、手に石を拾い取ると、一種の合図めいた調子を取って、老木の幹を叩きつづけたのであるから。
 と、どうだろう、遥か奥から、それに答えでもするかのように、同じ一種の合図めいた、調子を持った木を叩く音が、木精(こだま)を起こして聞こえてきた。が、もし誰かが森林の奥へ、さらに踏み入って耳を澄ましたならば、一層に森林の奥の方から、同じような音の聞こえてくることに、感付いたことに相違ない。いやいやそういう合図めいた音は、それらの場所から起こるばかりでなく、次から次へ、奥から奥へ、次第次第に送りをなして、丹生川平の郷へまで、伝わり伝わって行くのであった。
 飛騨というような山国にあっては、猛獣や毒蛇や山賊などに、しばしば人は襲われるもので、そういう場合の警報として、いろいろの里や、いろいろの郷や、さまざまの村に住居している、住民達は里別郷別に、木を叩くとか竹法螺(たけぼら)を吹くとか、枯れ木に火をかけて煙りを上げるとか、そういうことをすることにしていた。
 丹生川平の郷にあっては、木の幹を叩いて警報することが、それに当っているものと見える。
 軽い危険の場合には、それに一致した叩き方をして、森林の中に散在して、枯れ木を採ったり伐木したり、馬を飼ったりしている者を、最初に合図の起こった場所へ、呼び寄せて加勢をさせることに、大体定(き)まっているのであったが、重大な危険の場合には、それに一致した叩き方をして、次から次と今のように、丹生川平の郷へまで知らせて、そこから大勢の加勢の者を、呼び寄せることになっていた。
 今や、大危険の警報が、四里に渡る森林の中を縫い入って、丹生川平の郷の方へ、素晴らしい速さで送られて行く。
 名に負う飛騨の大森林である。杉や樫や桧や、楢(なら)や落葉松(からまつ)というような、喬木が鬱々蒼々と繁って、日の光など通そうとはしない。そうかと思うと茨(ばら)だの、櫨(はぜ)だの、躑躅(つつじ)だの、もちだのというような、灌木の叢(くさむら)が丘のように、地上へこんもりと生えていて、土の色をさえ見せようとしていない。で、ほとんど黄昏(たそがれ)のように、森林の中は暗く寂しく、物恐ろしくさえ眺められた。
 そういう森林に音響の線が、太く素早く走って行く。
 四里ぐらいの道程(みちのり)は瞬(またたく)間に、行きついてしまうに相違ない。すると丹生川平から、鉄砲や弓や山刀や槍の、武器をたずさえた郷民達が、大勢大挙して現われ出て、大森林を押し通って、曠野の面へ現われて、弦四郎を助けて宮川茅野雄を、おっ取り囲んで討ち取るであろう。
 とまれ大危険を警報する、調子を持った木を叩く音が、次第次第に、丹生川平の方へ伝わって行く。
 が、もし人が曠野の一所の丘――すなわち醍醐弦四郎や丹生川平の男達が、現われて来た例の丘の、背後へ行って眺めたならば、小枝の侍女達三人が、丹生川平の男達の掠奪の手から遁れたところの、侍女達三人が転んだり起きたり、走ったり仆れたり泣いたり叫んだりして、丹生川平の男達に、小枝が奪われたという知らせを、白河戸郷へ知らせようものと、一里の道程を命がけに、走って行く姿を見たことであろう。
 女の足で走るのであるから、一里と云っても容易なことでは、行くつくことが出来ないであろう。とは云えいずれは行きつくであろう。と、白河戸郷の郷民達は、それこそ鉄砲や弓や山刀や、槍をたずさえて大挙して、白河戸郷から走り出て、一里の曠野を走って来て、茅野雄を助けて弦四郎を、引っ包んで討って取ることであろう。
 侍女達は懸命に走って行く。
 ところで小枝(さえだ)はどうしたであろうか?
 気絶したままで草の上に、衣裳を崩して仆れていた。
 丹生川平の九人の男達に、掠奪をされてここまで来たが、その九人の男達が、弦四郎を助けて宮川茅野雄を、討って取ろうと心掛けた結果、投げ出した九人の小枝の侍女達は、今やどこにいるであろう。その幾人かは気絶をして、草の上に無残に仆れていたが、その幾人かは自分達の主人の、気絶をしている小枝を囲んで、呼び生かそうと手を尽くしていた。が、その幾人かはこの出来事を、白河戸郷の郷民達へ、知らせようものと叫んだり喚いたり、同じく転んだり起きたりして、曠野の草花を蹴散らして、一所懸命に走っていた。
 そういう悲惨なあわただしい、光景の中に突っ立って、茅野雄は上段に弦四郎は正眼に、刀を構えて睨み合っていた。

騎馬の一団

 危急を知らせる合図の音が――調子を持った木を叩く音が、四里の森林を丹生川平の方へ、矢のように早く伝わって行く。
 と、森林の壁が切れて、向こうに丘が聳えていたが、忽ち丘の頂きの上に、数人の男が現われた。その丘の奥が丹生川平であって、頂きへ現われた男達は、丹生川平の住民達であった。
 眼の前に連らなっている森林の中から、伝わって来た合図の音を聞くと、男達は何やら叫び声を上げたが、丘の頂きから姿を消した。
 と、思う間もないうちに、馬の蹄(ひづめ)の音がして、忽然と数十人の騎馬の一団が、丘の頂きへ現われた。
 弓を持っている者、棍棒(こんぼう)を持っている者、竹槍を小脇に抱えている者、騎馬の一団は一人残らず、各自(めいめい)得物を持っていたが、その扮装(いでたち)には異(か)わりがなく、筒袖に伊賀袴を穿いていて、腰に小刀を帯びていた。精悍らしい若者達で、血色もよければ四肢も逞しく、いかにも飛騨という山岳国の、森林の中へ特殊の郷を設けて、生活をしている人間らしかった。
 飛騨と信州とは接近しているので、自然も動物もよく似ていたが、彼らの乗っている馬と来ては、信州駒――わけても木曽駒に似ていて、背丈こそ低く、形こそ小さく、一見貧弱ではあったけれども、脚の強さ息の長さ、険しい山道を上り下りする場合に、決して転(まろ)びもせず膝も突かず、また縦横に入り乱れている木々の間を巧みに縫って、駛(はし)るに得意な点などにかけては、南部駒よりも、三春駒よりも、遥かに優れているのであった。
 そういう駒に打ち乗って、丹生川平の男達が、今や丘から走(は)せ下り、森林の中を突破して、宮川茅野雄と醍醐弦四郎とが、切り合っている曠野の方へ、無二無三に押し出そうとしている。
 いや押し出そうとしているばかりではなくて、事実無二無三に押し出して来て、瞬間に丘を走り下りて、森林の中へ走り込んだ。
 で、その丘のなだらかな斜面は、蹄で蹴られて雲のように、ムラムラと上った砂煙りのために、一時全く蔽われたように見え、啼いていた小鳥の歌声も途絶え、飛び散って咲いていた草の花の、織り物のように鮮麗だった色も、砂煙りの奥へ消え込んでしまった。
 が、その時分には騎馬の一団は、森林の中を走っていた。
 いかに彼らが馬術に達し、熟練を極めていることか! 灌木があれば躍り越し、喬木があれば巡って進み、沼があれば岸を輪なりに馳せ、網の目のように強靱の蔓が数間に渡って張られてあれば、得物で切り払って突破した。当然の所業(しわざ)ではあったけれども、何とその所作が敏捷で、かつ自在であることか!
 と、一団が雁行(がんこう)をなした。馬の首が前方を走っているところの、他の馬の尻に触れそうなほどにも、接近をして走っておりながらも、前の馬の走る邪魔をしない。
 と、一団が鶴翼(かくよく)をなした。宏大な森林を横へ拡がり、横隊をなして走らせて行く。無数の障碍物(しょうがいぶつ)を持ちながら、その障碍物を巧みに避(よ)けて、互いに呼び合うことによって、一定の間隔をいつも保ち、疾風のように走って行く。
 一匹の馬が躓(つまず)いて、乗り手が逆様(さかさま)に落ちようとした。しかしその時にはもう一人の乗り手が、いち早く横手へ走って来ていて、落ちかかった乗り手を手を延ばして支えた。
 やがて一団は集合したままで走った。
 彼らの走って行った後に、何が残されているだろう? 踏みにじられた無数の草花と、蹄で掘られた無数の小穴と、蹴殺された幾匹かの野兎と、折られた木の枝と散らされた葉と、崩された沼の岸とであった。
 一所から彼らの一団の、姿が見えなくなった時には、遥かの前方の一所に、彼らの一団が見えていた。
 得物の触れ合う金属性の音と、絶えず叫んでいる警戒の声と、馬の嘶(いなな)きと蹄の音とが、一つに塊(かた)まった雑音が、一所で起こって消えた時には、既に遥かの前方で、同じ雑音が起こっていた。
 不意に彼らの一団の上に、華やかな光が輝いた。空を蔽うていた森林が切れて、そこから日の光が落ちて来たからである。と、彼らの一団の中で、雪のように白く輝く物があったが、それは三頭の白馬であった。
 しかし瞬間に彼(か)の一団は、輝かしい日の光の圏内から消えて、暗い寂しい物恐ろしい、森林の奥へ消え込んだ。
 こうして無二無三に走って行く。
 この勢いで走ったならば、四里の道程(みちのり)などは一時間(はんとき)足らずで、走り抜けてしまうことであろう。
 そうして曠野へ現われたならば、醍醐弦四郎に力を添えて、宮川茅野雄を打って取って、小枝を奪うことであろう。
「オ――イ! オ――イ! オ――イ! オ――イ!」
 しかしこういう呼び声を上げて、白河戸郷の長の娘の、小枝の侍女達の命限りに、曠野を転んだり起きたりして、道程一里の白河戸郷の方へ、小枝が怨敵丹生川平の者に、誘拐(かどわか)されたということを、告げるために走って行っていることに、一方留意をしなければならない。
「オ――イ! オ――イ! オ――イ! オ――イ!」
 侍女達は懸命に走って行く。
 一人の侍女がまた転んだ。と、衣裳の裾が乱れて、白い脛(はぎ)が現われた。恥かしいとも思わずに、あらわな脛で立ち上ると、あらわな脛でその侍女は走った。
 もう一人の侍女が地に仆れた。その瞬間に握ったのでもあろう、起き上った時に右の手に、野茨(のいばら)の花を握っていた。枝も一緒に握ったものと見えて、その枝の刺(とげ)に刺されたらしく、指から生血がにじみ出ていた。しかし彼女は夢中だと見えて、枝つきの野茨を捨てようともせずに、血を流したままでひた走った。
 と、もう一人の侍女が仆れた。仆れた所に石があったと見える、それで後脳を打ったと見える、仆れたままで悲鳴を上げて、両手で後脳を抱えるようにして、ゴロゴロと地上を転がった。が、それでも飛び起きると、解けて乱れてバラバラになった、長い髪を背後(うしろ)へなびかせたままで、先へ先へとひた走った。
「オ――イ! オ――イ! オ――イ! オ――イ!」
 呼びながら侍女達は走って行く。
 こうして半里は走ったであろう、侍女達はすっかり疲労した。
 飛騨という山国へ別天地を創って、そこに住んでいる女達である。都会の華奢(きゃしゃ)な女などとは、体格においても著しく強く、曠野や山道を走ることにかけても、遥かに勝れてはいるのであったが、お嬢様の小枝を丹生川平の者に、誘拐されようとした時に、女ながらも命限りに、丹生川平の若者達と、争って充分疲労(つかれ)ていた。その上に半里の道程を、死に物狂いに走って来たのである。疲労切ったのは当然と云えよう。
 とうとう侍女達は草の上へ坐って、慟哭の声を上げ出した。もう一寸も歩けないのであった。
 慟哭をしている侍女達を巡って、曠野は広く物寂しく、しかし草の花や灌木の花に、華やかに飾られて拡がっていて、その草の花の間から、また灌木の花の間から、兎や野猫や黄鼬(てん)などが、いぶかしそうに顔を覗かせ、侍女達の方を窺った。それらの物の上にあるのは、晴れた六月の蒼い空と、燃えている六月の太陽とで、鳶らしい鳥や烏らしい鳥や、鷹らしい鳥や野鳩らしい鳥が、そういう地上の悲惨事などには、関係(かかわり)がないというように翼を揮って翔(か)けてもいた。
 走って行く力はなくなっていたが、声を上げる力は残っていた。
 で侍女達は慟哭しながら、
「オ――イ! オ――イ! オ――イ! オ――イ!」と、呼んだ。
 悲しみに充ちた声であった。曠野にはいつの場合でも、微風が渡っているものである。その微風に乗りながら、その悲しい侍女達の声は、遠くへ送られて行くようであった。
 とはいえ半里をへだてている、白河戸郷の郷へまでは、送られて行くものとは思われない。
 しかし侍女達は呼びつづけた。
 と、行く手に小さい林が、青葉を光らせて立っていたが、その林から四人の若者が、姿を現わして小走って来た。
 小枝の一行が花野の景色の、美しさに魅せられて丹生川平の方へ、うかうかとして彷徨(さまよ)って行って、久しく経っても帰って来ないのに、不安を感じて様子を見に来た、白河戸郷の郷民達であった。
 四人の若者は走り寄って来た。
「や、これはどうしたのだ□」
「お前方お嬢様のお腰元ではないか□」
「お嬢様はどうした□ 小枝様はどうした」
「泣いていてはいけない! 訳をお云い!」
 慟哭しながら、「オ――イ! オ――イ!」と、呼んでいる侍女達を介抱しながら、四人の白河戸郷の若者達が、忙(せ)わしく訊ねたのはこのことであった。

姦策

 白河戸郷の若者達が、四人来てくれたということは、侍女達にとっては救いであった。
 しどろもどろに侍女達は云った。
「誘拐(かどわか)されましてござります」
「お嬢様も! 朋輩(ほうばい)も! 向こうの方で!」
「丹生川平の人達に!」
 もうこれだけで充分であった。
 侍女達の言葉を耳に入れるや、白河戸郷の若者達は、血相を変えて躍り上った。
 そうして口々に叫び合ったが、すぐに手筈が行なわれた。
 まず一人の若者であったが、白河戸郷の方へまっしぐらに走った。危急を白河戸郷へ報告して、加勢を求めるためであろう。
 二人の若者は腰刀を抜くや、小枝が誘拐しに遭ったという、その方角へ疾風のように走った。
 残った一人の若者は、侍女達の介抱にとりかかった。

 が、一方、宮川茅野雄と、醍醐弦四郎とはどうしたか?
 茅野雄は上段に弦四郎は正眼に、構えをつけたままで睨み合っていた。
 その横では気絶をしているらしい、小枝を侍女達が介抱しているし、幾人かの侍女達は気絶をしてもいた。
 構えをつけながらも弦四郎は、恐怖を感ぜざるを得なかった。
(思ったよりも素晴らしい剣技だ。尋常に闘ったら俺の方が負ける)
 茅野雄の剣技の勝れているのに、弦四郎は恐怖を感じたのであった。
(どうしたらよかろう? どうしたらよかろう?)
 ――と、すぐに一つの考えが浮かんだ。
(丹生川平の奴原が、俺を見捨て走り去った。が、精悍の彼らである。よもや逃げて行ってしまったのではあるまい。丹生川平へ事件を知らせて、加勢を呼びに行ったのであろう。……おッ、そう云えば音が聞こえる。危急を伝える合図の音が! 拍子を取った木叩きの音が!)
 弦四郎は丹生川平に住んで、十日の日数を経(けみ)していた。で、そういう合図の方法の、あるということも知っていたし、そういう方法で合図されるや、丹生川平の郷民たちが、得物を持って馬に乗って、一瞬の間に加勢をするべく、押し出して来るということをも、郷民達に聞いて知っていた。
(一時間(はんとき)あまり待ってやろう。加勢の勢の来るのを待って、茅野雄を処分してやろう)
 ――で、弦四郎は刀を引くやスッと背後(うしろ)へ身を退け、刀を鞘へ納めてしまった。
「さて、宮川氏、ごらんの通りでござる。拙者、刀を納めてござる。貴殿にも刀をお納めなさるがよろしい」
 こう云うと弦四郎はトホンとしたような、不得要領の笑い方をしたが、
「まずご免、あやまります。少しく悪ふざけが過ぎましたようで。が、拙者は道化者なので、こういうことも大好きでござる。と云うこういう事というのは、突然に深夜の江戸の町で、貴殿に切ってかかったり、飛騨の山中の峠道で、妙な矢文を貴殿へ送ったり、また今日のようなこんな恰好で、貴殿と太刀打ちを致したりする。こういうことを云っているのでござる。……アッハッハッ、変わった性質でな。……とは云えもはや飽き飽きしました。かような悪ふざけには飽き飽きしました。で、中止といたします。貴殿にもご中止なさるがよろしい」
 訳の解らないことを云い出した。
 これにはさすがの宮川茅野雄も、度胆を抜かれざるを得なかった。
(何という事だ! 何という武士だ!)
 ――で、茅野雄も後へ引いた。
 とは云え茅野雄には弦四郎の態度や、云った言葉に合点の行かない、曖昧のところのあるのを感じて、油断をしようとはしなかった。
 しかし弦四郎は暢気(のんき)そうに、刀を鞘へ納めてしまうと、両手を胸へ組んでしまって、ブラリブラリと歩き出した。
 で、茅野雄も不審ながら、自分ばかりが物々しく、抜いた刀を持っていることが、不恰好のように思われて来た。
 で、刀を鞘に納めた。
 と、見て取った弦四郎は、一つニタリと含み笑いをしたが、
「高原の景色は美しゅうござるな」
 こう云って四辺(あたり)を見るようにした。
「……」――しかし茅野雄は黙っていた。
「綺麗な草の花を茵(しとね)として、美しい婦人方が仆れております」
「さよう!」と、茅野雄ははじめて云った。
「貴殿や貴殿の輩下の者が、誘拐し参った女達でござる」
「いかにも」と、今度は弦四郎が云った。
「誘拐して参った女達でござる」
「何故そのようなよくないことをなされる?」
 茅野雄は怒りを加えたらしい。病気上りの、痩せて蒼い頬の辺りへ紅潮を注(さ)させ、少し窪んだ鋭い眼に――いつもは学究らしい穏かさと、叡知とを湛えているのであったが――憎悪の光を漲らせて、弦四郎の眼を追いながら睨んだ。
 そう茅野雄にたしなめられて、かつは鋭く睨められたが、根が浮世を目八分に見ている、身分不詳の弦四郎には、堪(こた)えるところが少なかったらしい。
 例によってトホンとした不得要領の、一種の笑いを笑ったが、
「そう宮川氏云われるものではござらぬ。な、只今も拙者は申した。ちとどうも悪ふざけが過ぎましたようで。女子誘拐しの一件も、その悪ふざけの一つでござる」
 しかしこのように云って来て、急に弦四郎は咎めるように云った。
「たしか貴殿におかれては、丹生川平という別天地へ、おいでなされるはずでありましたな」
(おや)とそれを聞くと茅野雄は思った。
(どうしてそんなことを知っているのであろう?)
「さよう」としかし茅野雄は云った。
「拙者、丹生川平へ参る。が、どうしてご存知かな?」
 それには返事はしなかったが、弦四郎は次のように云って笑った。
「丹生川平の郷民達は、貴殿を歓迎なさるまいよ」
「何故な?」と、茅野雄はけげんそうに云った。
「必ずや歓迎をいたしましょう」
「駄目々々」といよいよ嘲笑ったが、曠野の上に仆れている、丹生川平の郷民達の、死骸を弦四郎は指差した。
「貴殿、この者達を殺したではないか」
「悪漢ゆえに殺してござる」
「貴殿はここにいる令嬢姿の乙女を、遮二無二助けようとなされたではないか」
「不幸の誘拐されの乙女だからよ」
「何にもご存知ないからじゃよ」
 ここで弦四郎は皮肉に笑った。
「で拙者、お知らせいたそう。……貴殿が討って取られたところの、仆れている五人の若者達こそ、丹生川平の郷民達なのでござるよ!」
「何を馬鹿な! そのようなことが!」
「貴殿が助けようとなされた乙女は、丹生川平の郷民達にとっては、讐敵にあたる白河戸郷の、郷の長の娘の小枝(さえだ)という乙女で」
「…………」
「そこでもう一言云うことがござる。聞いたら胸が潰れるでござろう。――拙者は目下丹生川平におります。とこう云うのがその一つでござる! 丹生川平の郷の長の、宮川覚明殿に依頼されて小枝を奪いに来たものでござる。とこう云うのがその二つでござる。……しかるに貴殿におかれては、丹生川平の郷民達を、このように討ってお取りになり、小枝を奪おうとした上、拙者の仕事の邪魔をなされた。……何の貴殿が丹生川平へ、これからおいでになろうとも、丹生川平の郷民達が、歓迎などをいたしましょうぞ。その証拠は……」と云いながら、弦四郎は頭を背後(うしろ)へ巡らすと、背後に連らなり聳えている、大森林を眺めやった。と、ドッと云う大勢の鬨の声が、その大森林の中から起こって、ムラムラと騎馬の一団が、大森林の中から現われて来た。
「その証拠こそあれでござる!」
 こう云うや弦四郎は身を翻(ひるが)えして、騎馬の一団の走って来る方へ、脱兎のようにひた走ったが、走りながらも茅野雄へ云った。
「貴殿を討って取ろうとして、丹生川平の郷民達が、押し出して来たのでござりますぞ!」
 それから刀をひっこ抜くと、騎馬の一団の走る方へ、高々と上げて差し招いた。
「方々ようこそ参られた! ご助勢くだされ! ご助勢くだされ! あそこに立っている侍こそは、怨敵白河戸郷に味方をする、某(なにがし)という痴漢(しれもの)でござる! 拙者が小枝を奪おうとしたのを、邪魔をいたしたそのあげくに、丹生川平のあたら若者を、五人がところ討ち取ってござる! 早々討ってお取りくだされ!」
 こう叫ぶと弦四郎は二度も三度も、けしかけるように刀を揮った。

乱闘

 敵は一人と見てとって、心に侮(あなど)りを覚えたからであろう、丹生川平の郷民達は、遠くから茅野雄をとりこめて、矢(や)ぶすまにかけて射仆(いたお)そうとはしないで、馬を煽(あお)ると大勢が一度に、茅野雄にドッと襲いかかった。
 郷民達の叫喚、馬の蹄の音、打ち振る得物の触れ合う音、その得物の閃めく光、馬の蹄に蹴上げられて、煙りのように立つ茶色の砂塵、――それらのものが茅野雄を巡って、茅野雄を埋没させようとした。
 こうなっては茅野雄は声を上げて、いかに弁解をしたところで、相手に受け入れられる望みはなく、虐殺されるばかりであった。
(戦って逃げるより仕方がない!)
 とは云え相手は大勢であり、ことには悉(ことごと)く騎馬であった。徒歩(かち)で刀を揮ったところで、駆け仆されるのがおちであった。
(一人叩っ切って馬を奪ってやろう)
 馬の前脚を諸(もろ)に立てて、茅野雄をその馬の脚の下(もと)に、乗り潰そうと正面から、逼って来た一騎の郷民があった。
 乗りかけられたらそれまでである。何のむざむざ乗りかけられよう。見て取った茅野雄は横筋違(よこすじかい)に、さながら矢のように素走ったが、擦れ違いざまに馬の脚へ、一刀サッと浴びせかけた。
 嘶(いなな)きの声がしたかと思うと、ドッと横仆しに馬が仆れ、乗っていた敵がとんぼ返って落ちた。
 と、その仆れた馬の胴へ、他の馬が躓(つまず)いて乗ってきた敵が不覚にも、ズルズルと馬背(ばはい)を辷(すべ)り落ちた。
 と、その馬の背の辺りへ、手甲(てっこう)を穿(は)めた二本の腕が、素早くかかったと思ったが、その時には一人の旅装(よそお)いをした武士が、既に馬背に乗っていた。
 そうしてその次の瞬間には、丹生川平の郷民達の群から、数間先を走っていた。
 他ならぬ宮川茅野雄である。
 驚き周章(あわて)た大勢の声が、ひとしきり背後で聞こえたかと思うと、すぐに弦音(つるおと)が高く響いた。
 丹生川平の郷民達が、茅野雄を射って取ろうとして、半弓を数人で射かけたのである。
 しかし彼らは周章ていた。で、狙いが狂ったものと見えて、走って行く茅野雄の左右と頭上を、空しく征矢(そや)は貫いた。
 が、その次の瞬間には、大勢の追って来る蹄の音が、茅野雄の後から聞こえてきた。と思う間もあらばこそであった。走って行く茅野雄の右と左へ、馬の首が数頭現われたが、見る見る茅野雄を追い抜いて、数間の先へ現われた。次々に数を増して来る。
 茅野雄は武術の一通りには、達していることは達していたが、馬術は精妙とは云われなかった。
 これに反して丹生川平の、郷民達と来た日には、生活から来る必要として、充分に馬術に達していた。曠野を自在に駆けることも、森林の中を縦横無尽に、走り廻ることも出来るのであった。
 で、今も茅野雄を追い抜いて、その前方へ現われて、茅野雄の行く手を扼(やく)したのである。
 こうなっては茅野雄は仕方がなかった。がむしゃらに前面の敵に向かって、切り散らして逃げるより方法がない。
 しかし茅野雄は考えた。
(ここは曠野で隠れ場所がない。どこまで逃げてもまる見えだ。また追いつかれて扼されるであろう。これはどうしても林の中か、森の中へ駆け込んで、身を隠さなければ仕方がない)
 で、背後を振り返って見た。
 曠野を仕切って壁のように、連らなっている大森林があった。
(あの森林の中へ入ってやろう)
 で、茅野雄は突嗟の間に、手綱をしぼると馬を廻し、一散に後へ引っ返した。
 その行く手には馬に乗った、丹生川平の郷民達が、得物を揮って群がっていたが、駈けて来る茅野雄の必死の姿に、気を呑まれたか道をひらいた。で、茅野雄は駆け抜けた。
 と、これはどうしたのであろう、ドッと背後から大勢の者の、笑う声が聞こえてきたではないか。
 こういう危急の場合にも、笑われて見れば気持が悪い。そこで茅野雄は振り返って見た。
 丹生川平の郷民達が、遥かの後方に屯(たむろ)していて、茅野雄の方を指さして、笑っているのが見てとれた。
(何故あいつらは笑っているのだ? 何故俺を追っかけて来ないのだ?)
 とは云え彼ら丹生川平の、郷民達から云う時には、笑うべきことに相違なかった。
 というのは大森林の奥所(おくど)にあたって、丹生川平があるのであるから。
(あの可哀そうな旅の武士は、自然に一人で俺達の郷へ、惨(いじ)められるために駆けて行く)
 で、指さしをして笑ったのであった。
 そういうことを茅野雄は知らない。
 で、馬を走らせた。
 しかしその時背後の方にあたって、忽然鬨の声がわき起こったので、振り返らざるを得なかった。
 何を茅野雄は見たであろう?
 丹生川平の郷民達の群へ、一団の人数が襲いかかって、凄まじい戦いを演じている。
 白河戸郷の郷民達が、ようやくこの時駈けつけて来て、丹生川平の郷民達へ、殺到したに他ならなかった。
 しかし茅野雄その人にとっては、そんな事情は解らなかった。
(この隙に森林の中へ入り、危険から遁れることにしよう)
 で、いよいよ馬をあおって、森林の方へ駈けて行ったが、間もなく姿が見えなくなった。
 森林が茅野雄を呑んだのである。

 物語少しく後へ戻る。
 飛騨の萩村は街道筋における、相当に賑やかな駅(うまやじ)であって、旅籠(はたご)屋などにもよいものがあった。
 宮川茅野雄が難を受け、森林の中へ姿を没した、ちょうどその日のことであったが、この萩村の四挺の駕籠が、旅人を乗せて入り込んで来た。
 夕暮のことであったので、旅籠屋の門口(かどぐち)では出女(でおんな)などが、大声で旅人を呼んでいた。
 その一軒の柏屋(かしわや)というのへ、一挺の駕籠が入って行った。
 駕籠から現われたのは若い武士であったが、高貴の身分のお方らしく、云われぬ威厳を持っていた。
 で、丁寧にあつかわれて、奥まった部屋へ通って行った。
 その武士の乗っていた駕籠の後から、もう一挺の駕籠がついて来たが、これは柏屋の前を過ぎて、先の方へ向かって進んで行った。
 が、どうしたのか不意に止まると、ユルユルと後へ引っ返して、柏屋の門口で止まってしまった。
 と、その中から客が出たが、それは威厳のある老武士であった。
 そうしてこの武士も丁寧に、下女に奥の間へ案内されて、姿を消してしまった時、二挺の駕籠が肩を揃えて、同じ柏屋の門口へ止まった。
 一挺の駕籠から現われたのは、身分に見当の附かないような、小気味の悪い老人であったが、もう一挺の駕籠から現われたのは、美しい若い女であった。
 この二人はどうやら連れと見えて、二言三言囁いたかと思うと、打ち揃って奥の部屋へ通って行った。
 その後でも幾組か泊まり客があったが、特に目立つような客はなかった。
 全く日が暮れて夜となった。
「お泊まりなさいまし」「柏屋でございます」「へいへいこれはお早いお着きで」――などと云っていた出女の声も、封ぜられたようになくなって、萩村の駅は寂静(ひっそり)となった。
 こうして夜が次第に更け、柏屋でも門へ閂(かんぬき)を差した。客も家の者も寝(しん)についたらしい。
 で、何事もなさそうであった。
 では何事も起こらなかったか?
 いやいや変わった事件が起こった。
 奥に一つの部屋があったが、消えていた行燈(あんどん)が不意に点(とも)り、ぽっと明るく部屋を照らした。
 見れば一人の老武士が、床から起きて行燈の側(そば)に、膝を揃えて坐っている。

老武士は?

 二番目に着いた駕籠の中から、立ち現われた老武士であった。
 何やら口の中で呟いたかと思うと、老武士は部屋の中を見廻した。と、にわかに立ち上った。それからそっと襖(ふすま)をあけて、隣り部屋の様子を窺(うかが)った。
「隣り部屋には客がない」
 で、安心したようであった。が、再びそろそろと歩いて、反対側の襖へ行くと、細目に開けて覗いて見た。
「有難い、この部屋にも客がない」
 しかしそれでも不安心と見えて、廊下に向かった障子をあけると、顔を差し出して左右を見た。
「よし」――で、引っ返し、二度行燈の側へ坐り、両手を袂(たもと)から懐中(ふところ)へ入れた。
 取り出したのは小箱であったが、真に美しい鯖(さば)色の光が、小箱の中から射るように射して、部屋を瞬間に輝やかした。
 小箱の中を覗いている、老武士の顔の嬉しそうなことは!
 この老武士は何者であろう?
 他ならぬ松平碩寿翁(せきじゅおう)であった。
 それにしても何のためにこのような所へ、碩寿翁ともある人が、供も連れずに来たのであろう?
 それには怪奇な事情がある。
 根津仏町勘解由店(かげゆだな)の刑部(おさかべ)屋敷の露地口で、京助という手代から、一個(ひとつ)の品物を奪い取って以来、碩寿翁は蠱物(まじもの)にでも憑(つ)かれたかのように、心が絶えず動揺し、心が恐怖に襲われた。
 時にはこんなように口走ったりした。
「あのお方があんな所にいられようとは! ……俺はとうとう感付かれてしまった。……俺に恐ろしいはあのお方ばかりだ。俺は体を隠さなければならない」
 で、恐怖に耐えられなくなって、江戸を発足したのであった。
「長崎へ行こう! 長崎へ行こう!」
(この素晴らしい値打ちのある物を、売るのはいかにも惜しいけれど、あのお方にあのように感付かれた以上は、とうてい持ってはいられない。売って金に代えることにしよう。これほどの物を買い取る者は、長崎の蘭人(らんじん)の他にはない)
 で、長崎へ向かったのであった。
 しかるに何という事だろう。碩寿翁の乗っている駕籠の前に、いつも一挺の駕籠がいて、ゆるゆると進んで行くではないか。そればかりなら何でもなかった。その駕籠が強い力をもって、碩寿翁の駕籠を支配するではないか。
 その駕籠が旅籠屋へ入ったとする。と、碩寿翁の乗っている駕籠も同じ旅籠屋へ入るのであった。
 これに気が付いた碩寿翁は、云われぬ恐怖と不思議とを感じて、その駕籠の支配から遁れようとした。
「これこれ駕籠屋、他の旅籠へつけろ」
「へいへいよろしゅうございます」
 ――他の旅籠屋へつけようとする。と、どうだろう、碩寿翁自身が、駕籠の中から云うではないか。
「これこれ駕籠屋どうしたものだ。先へ行く駕籠の入った旅籠へ、すぐこの駕籠をつけてくれ」
 同じ旅籠屋へ泊まるのであった。
 こうして道中をしているうちに、長崎へは行かずに飛騨の山中の、萩村の柏屋へ来たのであった。
 さて今碩寿翁は行燈の側へ、膝を揃えて坐っている。
「この立派過ぎる原形のままでは、人に売ろうにも買い手があるまい。惜しいけれども割ることにしよう」
 憑かれているような碩寿翁であった。こう声に出して呟くと、またも懐中へ手を入れたが、掌(てのひら)の中へ隠れるほどにも、小さい長方形の揉み皮張りの、小箱を取り出して膝の上へ置いた。すぐささやかな音のしたのは、その箱の蓋(ふた)があいたからであろう。何が箱の中に入っていたか? 日本の国内では見られないような、精巧を極めた洋鑢(ようやすり)だの、メスだの錐(きり)だのの道具類が、整然として入っていた。
 碩寿翁であったがメスを取ると、右手でメスの柄を握って、注意しいしい下へ下ろした。
 下りて行くメスの下にあるのは、真に美しい鯖色の光を、ギラギラと空へ投げている、そう云う品物を底に蔵した、例の小さい箱であった。
 しかるにこの時隣りの部屋で、囁き合っている男と女があった。
「今夜こそどうでも取らなければならない」
 こう云ったのは男であった。
 すると女が囁き返した。
「そうとも、どうしても取らなければならない」
「眠っているだろうか? 起きているだろうか?」
「そっと襖をあけてごらんよ」
「何となく俺には恐ろしい。碩寿翁様が相手だからな」
「と云ってうっちゃっては置かれないよ。……ここまで尾行(つけ)て来た甲斐(かい)だってないよ」
「それにしてもどういうお考えから、碩寿翁様には飛騨などという、こんな山国へ来られたのだろう?」
「私達には関係(かかわり)はないよ。……襖をあけて覗いてごらんよ」
 ここの部屋には燈火(ともしび)がなかった。
 で、二人の男と女の、姿を見ることが出来なかった。
 が、もし燈火があったならば、囁き合っている男と女が、夕暮時に柏屋の門(かど)へ、二挺の駕籠を並べてつけ、揃って奥へ通って行った、老人と若い美しい、女とであることが見て取れたであろう。
 しかしそれにしても碩寿翁が、さっき方この部屋を覗いた時には、客がなかったはずである。
 それだのに今は二人もいる。
 これはどうしたことなのであろう?
 思うに二人の男と女は、どこか別の部屋にいたのであったが、この時その部屋から忍び出て、この部屋へ潜入したのであろう。
 と、この部屋へ一筋の、細い明るい光の縞が出来た。
 男が襖をあけたので、隣りの部屋の行燈の火が、隙間から射して来たのであった。
「あッ」と、云う声が突然に起こった。
「大変だ! 割りおる! 二つに割りおる!」
 つづいてこう云う声がした。
「汝(おのれ)! 無礼! 覗きおったな!」
 間髪を入れず風を切って、物を投げる音がヒューッとした。
 しかし、続いて清浄と威厳と、神々(こうごう)しさを備えたような声が、どこからともなく聞こえてきた。
「物は完全に保つがよい! 美しさも神聖さも完全にある! ……碩寿翁、碩寿翁、物をこぼつな!」
 この時碩寿翁は刀を抜いて、部屋の一所に立っていたが、その眼は細く開けられている、襖の一方に注がれていた。見れば襖の縁の辺りに、碩寿翁が投げたらしいメスが一本、鋭く光って立っていた。
「…………」
 無言で碩寿翁は眼を返したが、反対側の襖を睨んだ。清浄で威厳のある神々しい声が、その襖の奥の方から、碩寿翁へ聞こえてきたのである。
「恐ろしいことだ! 恐ろしいことだ!」
 碩寿翁はワナワナと顫え出した。
「今のお声はあのお方のお声だ!」
(しかしどうしてあのお方が?)
 で、碩寿翁はヒョロヒョロと歩いて、襖の方へ寄って行ったが、恐る恐る襖を引きあけた。
 空虚! 闇! 人の姿はなかった。
「二組の人間に狙われている! 俺は一体どうしたらいいのだ!」
 また佇(たたず)んだ碩寿翁の、足もとに置かれてある小箱から、何と美しく何と高貴な、光が放たれていることか!

 その翌日のことであった。四挺の駕籠が前後して、柏屋の門口からかき出され、高山の方へ進んで行った。

 四方を森林に囲まれているので、丹生川平(にゅうがわだいら)は丘の上にあったが、極めて陰気に眺められた。
 切り株に腰をかけながら、話している若い男女があった。
「あなたには大分変わられましたな。昔より陰気になられたようで」
「……でもあなたがおいでくださいまして、陽気になりましてございます。……あなた、お体はよろしいので?」
「いずれも微傷(うすで)ゆえ大丈夫でござる。……が、あのような経験は、拙者、一度で充分でござる」
「何と申し上げてよろしいやら」
「みんな弦四郎めが悪いので」
 二人は茅野雄(ちのお)と浪江(なみえ)とであった。
 と、背後(うしろ)から声がした。
「まあそう拙者を憎まないがよろしい。……大した悪人でもありませぬからな」

別天地

 丹生川平という別天地に、宮川茅野雄と醍醐(だいご)弦四郎とが、一緒に住居をしているとは、ちょっと不思議と云わなければならない。
 考えて見れば不思議ではなかった。
 茅野雄は丹生川平の長の、宮川覚明の甥であって、覚明の娘の浪江によって、招かれている人物であった。で、弦四郎や、丹生川平の、郷民達に襲われて、その幾人かを切って捨て、馬を奪って大森林を駈け抜け、丹生川平に辿りつくや、覚明をはじめ浪江によって、歓迎をされ無事を祝された。郷民を切ったことなども、間違いの結果であったので、郷民の方でも怨みとは思わず、かえって気の毒がり同情した。
 で、茅野雄は無事であった。
 弦四郎の方はどうかというに、彼の図々(ずうずう)しさと機智とによって、丹生川平の別天地に、依然として住居することが出来た。
「ははあさようでございましたか。宮川氏には丹生川平の長の、覚明殿の甥でござったか。とんと某(それがし)存じませんでしてな、丹生川平には敵にあたる、白河戸郷の長の娘の、小枝(さえだ)を某奪い取り、丹生川平へ参ろうとした時、宮川氏が邪魔されたので、これはてっきり宮川氏は、白河戸郷の味方の者と思い、それで某お敵対をいたし、丹生川平の人々へも、宮川氏を討ち取るよう、差図(さしず)をいたした次第でござる。それにしてもあの時は残念でござった。白河戸郷の郷民達に、半ば奪い取った小枝という娘を、奪い返されてしまいましたのでな」
 これが弦四郎の弁解であった。
 辻褄(つじつま)の合わないところはあったが、しかし確かに丹生川平のために、働いたことは事実だったので、誰もが一応受け入れて、弦四郎をして依然として、丹生川平のこの別天地へ、住ませることにしたのであった。
 丹生川平へやって来て、茅野雄が驚いたことと云えば、決して一つや二つではなかった。
 従妹(いとこ)の浪江が美しくなり、神々しいまでに霊的になり、だから陰気になったこと。伯父の覚明が訳の解らないほど、不思議な人間に変わったこと。
 丹生川平という別天地が、何とも云えない気味の悪い土地で、丘ではあるが日あたりが悪く、四方森林にとりかこまれていたり、随所に洞窟や古沼などがあったり、一つの巨大洞窟の奥に、異国めいた造りの神殿があったり、そういう古沼の岸のほとりや、森林の中などに無数の住民が、家(うち)を作って住んでいたり、洞窟の中にはいろいろさまざまの、諸国から来た病人が、お籠りをして住んでいたり、そういう境地の一所に、堂々としてはいたけれど、暗く寂しく物恐ろしく、覚明の屋敷が立っていたり、等、等、等というような事が、「驚き」の主なるものであった。
 茅野雄が、この土地へやって来るや、浪江は最初から驚喜したが、覚明の方は、それほどでもなく、
「うむ、茅野雄か、何と思って来たぞ?」
 こんなように云ってから形をただし、
「俺(わし)に関しての行動に、一切干渉してはならない。洞窟の奥の神殿へは――わけても、神殿の内陣へは、決して入って行ってはならない。――が、これだけは頼んで置く、白河戸郷は丹生川平の敵だ。で、どうともして滅ぼさなければならない――滅ぼす策を講じてくれ」
 こう云って茅野雄を迂散そうにさえ見た。
(驚いたな)と茅野雄は思った。
(昔の伯父はこんな人ではなかった。何らか神は信仰していたが、もっと性質が明るくて、秘密など持つような人でなかった。……それだのにどうだろう今の伯父は、山師にしてしかも狂信者! と云ったようなところがある。それにどうだろう伯父の風采は?)
 覚明の風采は妙なものであった。切り下げの長髪を肩へかけ、異国めいた模様の道服を着し、刺繍の沓(くつ)を穿いていた。
(それに恐ろしく勿体ぶるではないか)
 これも茅野雄にはおかしかった。
 覚明は容易に人に逢わず、絶えず居場所を眩ませていた。時あって姿を現わす時には、十数人の侍者に周囲を守らせ、威厳をもって現われた。
 そうして茅野雄に対しても、伯父甥として対しようとはしないで、一宗の祖師が一介の信者へ対するような態度で対した。
 で、茅野雄はある時のこと、浪江に向かって問いを発した。
「伯父様の奉じている宗教は、回々教(ふいふいきょう)でございましょうな?」
 こう問うたのには訳がある。
 覚明がお祈りをする時に、こう云うことを云うのであるから。
「健在なれ、万福を神に祈れ、教主マホメットの感謝を神に挨拶せよ、全幅の敬意を表せよ、神は唯一にして、マホメットは教主なりと信ぜよ。信ぜよ、神は産れず、産ず、神と比較すべきもの何らあることなし」
 そうしてこの言葉は回々教(ふいふいきょう)の教典、祈祷の部の中にあるのであるから。
「回々教のようでございます」
 こう云って浪江は寂しそうに答えた。
 そういう浪江の答えぶりによって、茅野雄は浪江が信者でないことを、ハッキリ感ずることが出来た。
 で、茅野雄は尚も訊いた。
「どういう機会から飛騨の山中の、こんな寂しい物恐ろしい、丹生川平というような所へ、伯父様はおいでなされたのでござろう?」
「妾にも解らないのでございますよ。ある日父上にはこう仰言(おっしゃ)って、無理矢理に一家を引きまとめてこの土地へ参ったまででございます。『素晴らしい物を手に入れた。江戸にいては危険である。山中へ行って守ることにしよう』……」
「しかしわずかに五年ばかりの間にこのような建物を押し立てたり、このように信者を集めたり、よく行(し)たものでございますな」
「父は力を持っております。人を魅する不思議な偉大な力を! で、信者達が集まって来まして、このような建物をまたたく間に、建ててしまったのでございます」
「白河戸郷という彼(あ)の土地にも、同じように回々教(ふいふいきょう)の信者が、集まっているようでございますな」
「ええ」と、浪江は苦痛らしく云った。
「それで父上には白河戸郷を、憎んでいるのでございます」
「同宗という誼(よし)みから親しくすればよろしいのに」
「父は反対に申しております。白河戸郷を滅ぼして、彼(あ)の地に立っている神殿のうちの、重大なものを持って来なければ、丹生川平の本尊は、完全であるとは云われないと」
「白河戸郷の長という人は、どういう人物にございますな?」
「父の同門でありましたそうで。そうして父と同じように、何か重大な物を持って、父とほとんど同じ時に、父のように江戸から身を隠して、白河戸郷へ参ったのだそうで」
 そう云った浪江という娘は、面長の顔、愁えを含んだ眼、肉感的のところなどどこにも見られない薄手の唇、きゃしゃで痩せぎすで弱々しそうな体格! 一見人の同情を呼び、尊敬を呼ぶに足るような、そう云ったような娘であった。それでいて一本の白百合のような、清浄な美しさに充たされていて、しかも犯すことの出来ないような、威厳をさえ持っていた。
 さて今そういう娘の浪江と、茅野雄とが話していたところへ、醍醐弦四郎が現われて来て、話の仲間へ加わったのである。
「いや貴殿は悪人でござるよ」
 茅野雄は磊落(らいらく)の性質から、こだわろうともせずこういうように云った。
「ナーニ拙者は好人物で」
 弦四郎も今日は陽気であった。もっともいつもこの侍は陽気で駄弁家で道化者であって、それを保護色にはしていたが。
「たとえば貴殿と浪江殿とが、そのようにいかにも親しそうに、まるで恋人同志かのように、お話をしているのを見ながら、拙者嫉妬をしないというだけでも、好人物であると云うことが、お解りになるはずでござる」
「馬鹿な!」と、茅野雄は苦々しそうに云った。
「浪江殿と拙者とは従兄妹でござるよ。仲よく話すのは当然でござる」
「そうとばかりも限りますまいよ」
 どうしたのか弦四郎はニヤニヤ笑った。
「案外親戚というものは、表面仲をよくしていて、裏面では仲の悪いもので」

神殿の中の物?

「そういうものでござるかな」
 茅野雄はうるさそうにすげなく云った。
 が、弦四郎は云いつづけた。
「親戚の一方が出世をすると、他の一方が嫉妬をする。親戚の一方が零落すると、他の親戚は寄りつかない。競争心の烈しいもので。さよう親戚というものはな」
「他人同志でも同じでござろう」
「なまじいに血潮が通っているだけ、愛憎は強うございますよ。さようさよう親戚の方が」
「兄弟などは親戚中でも、特に血の濃いものでござるが『兄弟垣(かき)にせめげども、外その侮(あなど)りを防ぐ』と云って、真実仲よくしていますがな」
「が、一旦垣の中を覗くと、他人同志では見られないような、財産争いというような、深刻な争いがありますようで」
「が、幸い我らには――さよう、浪江殿と拙者とには――いや拙者と伯父一族とには、そのような争いはありませぬよ」
「御意!」と、弦四郎は道化た調子で云った。
「だからこそ拙者申しましたので、貴殿と浪江殿とは恋人かのように、大変お仲がよろしいとな」
「御意!」
 今度は茅野雄が云った。
「大変お仲がよろしゅうござる。その上に貴殿というような、おせっかいな人物が現われて、恋人らしい恋人らしいと、はたから大袈裟にけしかけなどしたら、事実恋仲になろうもしれない」
「よい観察! その通りでござる」
 弦四郎はこう云うと憎々しそうにした。
「が、永遠の処女として、丹生川平の郷民達から、愛せられ敬まわれ慕われている、浪江殿を貴殿が手に入れられたら、郷民達は怒るでござろう」
「さようかな」
 と、茅野雄であったが、軽蔑したように軽く受けた。
「郷民達が怒る前に、貴殿が怒るでございましょうよ」
「…………」
「と云うのは貴殿こそ浪江殿に対して、恋心を寄せておられるからで」
 これには弦四郎も鼻白んだようであったが、負けてはいなかった。
「いかにも某(それがし)浪江殿を、深く心に愛しております。覚明殿にも打ち明けてござる。と、覚明殿仰せられてござる。『白河戸郷を滅ぼしたならば、浪江を貴殿に差し上げましょう』とな」
「ほう」と、茅野雄はあざけるように云った。
「覚明殿が許されても、肝心の本人の浪江殿が、はたして貴殿へ行きますかな?」
 するとその時まで沈黙して、次第に闘争的感情をつのらせ、云い合っている二人の武士の、その言い争いを心苦しそうに、眉をひそめて聞いていた浪江が、優しい性質を裏切ったような、強い意志的の口調で云った。
「妾(わたし)は品物ではございません。妾は人間でございます。妾は妾の愛する人を、妾の心で選びますよ!」
 で、茅野雄も弦四郎も白けて、しばらくの間は無言でいた。
 ここは小川の岸であって、突羽根草(つくばねそう)の花や天女花(てんにんか)の花や、夏水仙の花が咲いていた。小川には水草がゆるやかに流れ、上を蔽うている林の木には、枝や葉の隙(すき)から射し落ちて来る日の光に水面は斑(ふ)をなして輝き、底に転がっている石の形や、水中を泳いで行き来している小魚の姿を浮き出させていた。
 一筋の日光が落ちかかって、首を下げている浪江の頸(うなじ)の、後れ毛を艶々(つやつや)しく光らせていたが、いたいたしいものに見えなされた。
 そういう浪江と寄り添うようにして、腰をかけている茅野雄の大小の、柄の辺りにも日が射していて、鍔(つば)をキラキラと光らせていた。
 その前に立っている弦四郎の態度の、毒々しくあせっていることは! 両足を左右にうんと踏ん張り、胸へ両腕を組んでいる。
 と、そういう弦四郎であったが、にわかに磊落(らいらく)に哄笑した。
「アッハッハッ、ごもっとも千万! 浪江殿の婿様でござるゆえ、浪江殿が自身で選ばれるのが、当然至極でございますとも。……そうなると拙者は方針を変えて、慾の方へ走って行くでござろう」
「慾? なるほど! どんな慾やら?」
 茅野雄には意味が解らないようであった。
「慾は慾なりでございますよ」
 こう云う弦四郎は眼を走らせて、遥かの彼方(かなた)に森林に蔽われ、頂きだけを出している、洞窟のある岩の山を、意味ありげに眺めやった。
「あそこの洞窟の中にある、神殿の内陣へまかり越し、値打ちあるものをいただくという慾で」
 この意味も茅野雄には解らなかったらしい。
「神殿の内陣にありますかな? そのように値打ちのある品物が!」
「馬鹿な!」と、弦四郎は喝(かっ)するように云った。
「貴殿も承知しておられるくせに」
「拙者は知らぬよ!」とブッキラ棒であった。
 茅野雄はブッキラ棒に云い切った。
 しかし弦四郎は嘲けるように云った。
「巫女(みこ)が貴殿に予言された筈で。山岳へおいでなさりませ、何か得られるでございましょうとな! ……その何かがあの神殿の、内陣にあるのでございますよ! 得ようと思って来られたのでござろう! さよう、ここへ、丹生川平へ!」
「また出ましたな、巫女という言葉が! が、拙者は巫女の云ったことなど。……」
 茅野雄がすっかり云い切らないうちに、しかし弦四郎は歩き出した。
「内陣の中の品物についても、貴殿と競争をするように、いずれはなるでござりましょうよ。どっちが先に手に入れるか? こいつ面白い賭事でござる。……勝つには是非とも白河戸郷を、何より滅ぼさなければならないようで。……何故? 曰くさ! 覚明殿がだ、拙者へこのように云ったからでござる。白河戸郷を滅ぼしたならば、神殿の内陣へ入れてあげましょうと! ……入ったが最後掴んでみせる。……で、貴殿にも心を巡らされ、白河戸郷を滅ぼすような、うまい策略をお立てなされ!」
 云い捨ると弦四郎は行ってしまった。
 茅野雄は後を見送ったが、心の中で呟いた。
(ああ云われると俺といえども、内陣の中へ入って行って、何が内陣に置かれてあるのか、ちょっと調べて見たくなった)

 星月夜ではあったけれど、森に蔽われている丹生川平は、この夜もほとんど闇であった。
 神殿が設けられているという、岩山の辺りはわけても暗く、人が歩いていたところで、全然姿はわかりそうもなかった。
 そういう境地を人の足音が、岩山の方へ辿っていた。
 足音の主は宮川茅野雄で(何が内陣に置かれてあるか、ちょっと調べて見たくなった)――この心持が茅野雄を猟(か)って、今や歩ませていたのであった。
 古沼の方に燈火(ともしび)が見えた。病人達が古沼の水で、水垢離(みずごり)を取っているのであろう。
 どことも知れない藪の陰から、低くはあるが大勢の男女が、合唱している声が聞こえた。
 病人達が唄っているのであろう。
 が、神聖の地域として、教主の宮川覚明が、許さない限りは寄り付くことの出来ない、この岩山の洞窟の入り口――そこの辺りには人気がなくて、森閑(しん)として寂しかった。
 茅野雄は洞窟の入り口まで来た。
(いずれは番人がついていて、承知して入れてはくれないだろう。が、ともかくも様子だけでも見よう)
 茅野雄はこういう心持から、この夜一人でこっそりと、ここまで辿って来たのであった。
 さて、洞窟の前まで来た。
 茅野雄は入り口から覗いて見た。暗い暗いただ暗い! 恐らく神殿の設けられてある洞窟内の奥までには、幾個(いくつ)かの門や番所があり、道とて曲がりくねっていて、容易に行けそうには思われなかった。
(行ける所まで行ってみよう)
 で、茅野雄は入り口へ入った。
 が、その時背後にあたって、ゾッとするような感じを感じた。
 と、思う間もあらばこそであった。数人の人間が殺到して来た。
「…………」
 無言で洞窟の入り口から、外へ飛び出した宮川茅野雄は、これも無言で切り込んで来た、数人の人間の真っ先の一人へ、ガッとばかりに体あたりをくれて、仆れるところを横へ逸(そ)れ、木立の一本へ隠れようとした。
 意外! そこにも敵がいた。
 閃めく刀光! 切って来た。
 鏘然! 音だ! 合した音だ!

白皓々

 切って来た鋭い敵の刀を、抜き合わせて茅野雄が払ったのであった。
 茅野雄は巡(まわ)った! 木立を巡った。もう一本の木立へ来た。
 刀光! 意外! 敵がいた! 閃めかして茅野雄へ切ってかかった。
 また太刀音! が、しかしだ! 既に茅野雄はこの時には、身を翻えして遁れていた。
 この間も茅野雄は考えた。
(信者なら声をかけるはずだ! 「神殿を荒らす背教者でござるぞ! 出合え! 方々!」――と、こんなように! ……ところがこいつは黙っている。……何者だろう? 何者だろう? うむ、五人だな! おッ、来おる!)
 闇を一層に闇にして、五人の人影が塊(かた)まって、迫って来るのが幽かに見えた。
 と、その次に起こったことは、数合の太刀音のしたことと、一人の人影が地上へ仆れ、仆れながら何かを投げたことと、その人影が起き上った時、一人の男が唸(うな)り声をあげて、ドッと地上へ仆れたことと、仆れた人間を切り刻もうとして、五人の人影が飛びかかったことと、洞窟の入り口へ光が射して、すぐに一点龕燈(がんどう)の光が、闇へ花のように浮かび出たことと、全裸体(まるはだか)の乙女がその龕燈を捧げて、悩ましそうな眼付きをして、投げられた丸太に足を打たれ、地上へ仆れている茅野雄の姿と、茅野雄を切って刻もうとして、醍醐(だいご)弦四郎と彼の部下の、半田伊十郎と他五人とが、茅野雄の周囲に集まっているのを、順々に見廻したこととであった。
「浪江殿ではござらぬか□」
「……その姿は? ……白皓々(はくこうこう)!」
 茅野雄と弦四郎とは同時に云った。

 それから数日後のことであった。三挺の駕籠が前後して、花の曠野へ現われた。
 曠野へ駕籠が三挺出て、すこしばかり先へ進み出した時、もう一挺の駕籠が出て、三挺の駕籠へ追いついた。
 数日前に萩村の駅(うまやじ)の、柏屋という旅籠(はたご)屋から、乗り出した駕籠に相違ない。
 では真っ先の駕籠にいるのは、いわれぬ威厳を持ったところの、高貴な身分の若武士(わかざむらい)であろうし、その次の駕籠にいる者は、松平碩寿翁その人であろうし、その次の二挺の駕籠にいるのは、身分に見当の付かないような、小気味の悪い老人と、若い美しい娘とであろう。
 さてこうして四挺の駕籠が、丹生川平と白河戸郷とを、連絡している花の曠野へ、同時に姿を現わした。どっちかの郷へ行かなければなるまい。
 と、はたして四挺の駕籠は、白河戸郷の方角へ向かって、ゆるゆると歩みを進ませて行った。
 と云うよりも真っ先の駕籠が、白河戸郷の方角を目ざして、ゆるゆるとして進んで行くので、碩寿翁の乗っているもう一挺の駕籠が、その駕籠についてその方へ進み、碩寿翁の乗っているその駕籠が、その方へ進んで行くところから、それをつけてその次の二挺の駕籠が、その方へ進んで行くのだと、こう云った方がよさそうであった。

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