犬神娘
是非お友達にも!
■暇つぶし何某■

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著者名:国枝史郎 

        一

 安政五年九月十日の、午(うま)の刻のことでございますが、老女村岡様にご案内され、新関白近衛(このえ)様の裏門から、ご上人(しょうにん)様がご発足なされました際にも、私はお附き添いしておりました。(と、洛東清水寺成就院(じょうじゅいん)の住職、勤王僧月照(げっしょう)の忠実の使僕(しもべ)、大槻(おおつき)重助は物語った)さて裏門から出て見ますると、その門際(もんぎわ)に顔見知りの、西郷吉之助様(後の隆盛)が立っておられました。
「吉之助様、何分ともよろしく」
「村岡様、大丈夫でごわす」
 と、二人のお方は言葉すくなに、そのようにご挨拶なさいました。その間ご上人様にはただ無言で、雲の裏に真鍮(しんちゅう)のような厭な色をして、茫(ぼう)とかかっている月を見上げ、物思いにふけっておられました。でもいよいよお別れとなって、
「ご上人様、おすこやかに」
 と、こう村岡様がおっしゃいますと、
「お局(つぼね)様、あなたにもご無事で。……が、あるいは、これが今生の……」
 と、たいへん寂しいお言葉つきで、そうご上人様は仰せらました。
 行き過ぎてから振り返って見ましたところ、まだ村岡のお局(つぼね)様には、同じところに佇(たたず)んで、こなたを見送っておられました。
 それから私たち三人の者は、ご上人様のご懇意の檀那(だんな)で、御谷町(おたにまち)三条上ルに住居しておられる、竹原好兵衛様というお方のお家へ、落ち着きましてございます。
 すると有村俊斎(しゅんさい)様が、間もなく訪ねて参られました。
 吉之助様と同じように、薩州様のご藩士で、勤王討幕の志士のお一人で、吉之助様の同士なのでございます。
「さて上人の扮装(みなり)だが、何んとやつしたらよかろうのう」
 と吉之助様はこうおっしゃって、人並より大きい切れ長の眼を、ご上人様へ据えられました。
 すると側(わき)にいた俊斎様が、
「竹の笠に墨染めの腰衣(こしごろも)、乞食坊主にやつしたらどうかな」
 と、眉の迫った精悍な顔へ、こともなげの微笑を浮かべながら、そう吉之助様へおっしゃいました。
「それには上人は立派すぎるよ。神々(こうごう)しいほど気高いからのう」
「なるほど、優しくて婦人のようでもあるし」
「高僧の姿そのままで、駕籠に乗って行くが無難じゃろう」
「途中で疑がわれて身分を問われたら?」
「薩摩の出家じゃと申せばよか」
「それにしては言葉がちとな」
「師の坊は幼少より京都におわし、故郷(くに)に帰らねばとこう申せばよか」
「なるほど、上人の京訛(きょうなま)りも、そう云えば疑がいなくなるじゃろう。それでもとやかく申す奴があったら、この有村たたっ切る」
「痴言(たわごと)申すな!」
 と吉之助様が、その瞬間に恐ろしいお声で、こう俊斎様を叱咤なされました。
「月照上人は近衛殿から、俺(おい)が懇篤(こんとく)に頼まれたお方じゃ! それに俺(おい)には義兄弟じゃ! 安全の場所へおかくまいするまでは、上人の身辺で荒々しい所業など、どうあろうと起こしてはならぬ! それを何んじゃ斬るの突くのと! もう汝(おはん)の力など借りぬ! 俺(おい)一人で送って行く! 帰れ帰れ、汝(おはん)帰れ!」
 力士陣幕に似ているといわれる、肥えた大きなお躰を、いつものんびりと寛(ゆる)がせて、子供に懐(なつ)かれるような優しいお顔を、たえず長閑(のどか)そうに微笑させておられる、そういう吉之助様ではありましたが、たまたまお怒りになりますると、雷(らい)が落ちたと申しましょうか、霹靂(へきれき)が轟(とどろ)いたと申しましょうか、恐ろしいありさまでございました。
(いったいどうなることだろう?)と、私は小さくなって見ていました。
 でも何んともなりませんでした。吉之助様に対しますると、弟のように柔順な俊斎様が、
「これは俺(おい)がよくなかった。軽卒な真似など決してせぬ。帰れといわれて帰られるものではなし、一緒に上人を送らせてくれ」
 と、こう穏(おだや)かに詫びましたので、吉之助様の怒りも解け、
「俺(おい)も少し云い過ぎたようじゃ」
 と、気の毒そうに云ったからでした。
 この間ご上人様は何もおっしゃらず、透きとおるほど白いお顔の色、和尚様(おしょうさま)と申そうよりも、尼君様と申しました方が、いっそう似つかわしく思われるような、端麗柔和(にゅうわ)の上品のお顔へ、微笑をさえも含ませて、争いを聞いておられました。これは吉之助様のご性質や、俊斎様のご性質を、知りきっておられたからでございまして(争いの後には和解が来る)ことを、見抜いておられたからでございます。
 ご上人様を上等のお駕籠にのせ、私たち三人がご警護して、竹原様のお家(うち)を出ました時、東の空は白みはじめ、涼しいよりも少し肌寒い風が、かなり強く吹いておりました。

        二

 駕籠の前方半町ばかりの先を、俊斎様が警戒して歩き、吉之助様が駕籠側(わき)に附き、私がその後からお従いする――といった順序で歩いて行きました。坊主負いにした風呂敷づつみの荷物を、揺り上げ揺り上げ従(つ)いて行く私の、眠りの足らない眼にも町の辻や角に、捕吏らしい人影の立っているのが見えて、心がヒヤヒヤいたしましたが、眼にとめて駕籠を見送るばかりで、誰何(すいか)するものとてはありませんでした。平然と歩いて行ったからでしょう。
 こうしてとうとう京の町を出はずれ、竹田街道へさしかかりました。と先を歩いていた俊斎様が、足早に引っ返して参りまして、
「捕吏(いぬ)らしい奴ばらが十二、三人、向こうの茶屋に集(つど)っておるがな」
 と、吉之助様に囁(ささや)きました。
「さよか」と吉之助様はおっしゃいまして、しばらく考えておられましたが、「轎夫(かごや)、この駕籠を茶屋の前で止めろ、人数の真ん中へ舁(か)き据えてくれ」とこのようにおっしゃってでございます。
 私も驚きましてございますが、俊斎様も驚いた様子で、首を一方へ傾(かし)げましたが、でも何んともおっしゃいませんでした。(西郷どんは大相もない人物、考えがあってやることだろう)と、こう思われたからでございましょう。
 茶屋というのは立場茶屋(たてばぢゃや)のことで、町から街道へ出る棒端(ぼうはな)には、たいがいあるものでございます。
 そこへ駕籠が据えられました。
 と、不意に吉之助様が、
「あんまり早く起こされたので、わッはッはッ、この眠いことはどうじゃ。渋茶なと啜(すす)らんと眼が醒めんわい」
 と、大きな声で云われました。
 すると隙(す)かさず俊斎様が、
「俺は酒じゃ、冷酒(ひやざけ)じゃ。こいつをキューッとあおらんことには、腹の虫めがおさまらぬげに」
 と、これも大声で云われました。
 捕吏らしい様子の者が十二、三人と、早立ちの旅人らしい者が五、六人がところ、土間にも門口(かどぐち)にも門(かど)の外にも、ごちゃごちゃ入り混んでおりまして、茶屋は混雑しておりました。
 駕籠は門口へ据えられたのでした。
 往来を警戒するかのように、捕吏たちの多くはその門口に、かたまって立っていたのでしたが、その真ん中へ駕籠を据えられ、吉之助様や俊斎様に、そんなような態度に出られましたので、疑惑を起こさなかったばかりでなく、むしろ飽気(あっけ)にとられたような様子で、駕籠から離れてしまいました。
 そこで私たち三人の者は、駕籠をその場へ舁(か)き据えたまま、土間の中へはいって行き、上がり框(がまち)へ腰をかけました。
 と、この茶屋の娘らしい女が、茶をついだ湯呑みを盆にのせて、人混みの中を分けるようにして、ご上人様の駕籠の方へ歩いて行きかけました。
 その時声が聞こえましたっけ。――
「ちょいと娘さん妾(わたし)へおかしよ。……妾の方が近間だよ。……代わってお給仕してあげようじゃアないか」
 綺麗な張りのある声でした。
 門口に近い柱に倚(よ)って、甲斐絹(かいき)の手甲(てっこう)と脚絆(きゃはん)とをつけ、水色の扱(しご)きで裾をからげた、三十かそれとも二十八、九歳か、それくらいに見える美しい女が、そう云ったのでございます。痩せぎすで身丈(せい)が高く、抜けるほど色が白い、眼は切れ長で睫毛(まつげ)が濃く、気になるほど険があり、鼻も高く肉薄で鋭く、これも棘々(とげとげ)しく思われましたが、口もとなどはふっくりとして優しく、笑うと指の先が沈むほどにも、左右に靨(えくぼ)が出来るという、そういう眼に立つ女でした。
「ではおねがいいたします」
 茶屋の娘がこう云い云い、差し出した盆を片手で受け取ると、その女はそれを持って人を分けて、門口(かどぐち)の方へ行きました。
 ご上人様の駕籠に近寄ったのでした。
 何がなしに不安を感じまして、私はハッといたしましたが、吉之助様も俊斎様も、同じように不安を感じられたと見えて、顔を見合わせましてございます。
 といってどうすることも出来ませんので、私たちはじっと見詰めていました。
 駕籠へ近寄りますとその女は、何か云ったようでございます。すると駕籠の扉が細目に開いて、ご上人様の手が出ました。湯呑みを取ろうとなされたのでしょう。女の手にしても珍らしいほどの、白い細い柔かい、指の形などのいかにも上品な――とんと形容しようもないほどに、お美しいお手でございました。
 と、どうでしょうそのご上人様の手先を、甲斐絹(かいき)[#ルビの「かいき」は底本では「かひき」]の手甲の女の手が、ヒョイと握ったではございませんか。
(あッ)と私が思いましたとたんに、吉之助様が腰を上げました。手を刀の柄(つか)へかけながら。

        三

 その次に起こった出来事といえば、ご上人様が手を引かれたことと、それについて女が半身を泳がせ、駕籠の扉へもたれかかり、扉の間から顔を差し入れ、ご上人様のお顔を見たらしいことと、その拍子に湯呑みが盆から落ちて、地面へ茶をこぼしたことでした。
 吉之助様は門口まで突き進んでいました。
 でももうその時にはその女は、湯呑みと盆とを両手に持って、こちらへ引っ返して来ていました。
「とんだ粗相をしたってことさ」
 土間へはいると伝法な口調で、でもいくらか恥じらった様子で、こうその女は申しましたっけ。
「妾(わたし)ア湯呑みをひっくりかえしてしまったよ……。お給仕されることには慣れているけれど、することには慣れていないんだねえ。……姐(ねえ)さんあんたから上げておくれよ」
 で、わたしはホッといたしまして、胸をなでおろしましてございますが、不意にその時わたしの横手で、
「おいどうだった?」

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