甲州鎮撫隊
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著者名:国枝史郎 

「お千代!……わしの女房!……然うだ!」
 しかしその顔に俄に憎悪の表情が浮かび、
「おのれ、お力イ――ッ」
 と云った。それが最後の言葉であった。

 翌月の十五日に始まったのが、上野の彰義隊の戦いであった。徳川幕府二百六十年の恩誼(おんぎ)に報いようと、旗本の士が、官軍に抗しての戦いで、順逆の道には背いた行為ではあったが、義理人情から云えば、悲しい理の戦いでもあった。しかし、大勢(たいせい)は予め知れていて、彰義隊の敗れることには疑い無かった。江戸の人々は、一日も早く、世間が平和になるようにと希望(のぞ)みながら、家根へ上ったり、門口に立ったりして、上野の方を眺めていた。長州の兵は、根津と谷中(やなか)から、上野の背面を攻めていた。その戦いぶりを見ようとして、権現様側に集まっていた群集の中に、お力もいた。髪を綺麗に結び、新しい衣裳(いしょう)を着ていた。沖田総司を殺しそこなった晩、これも行きがけの駄賃に、池の沖へ潜込み、盗み出した幾十枚かの小判が、まだ身に付いているらしく、様子が長閑(のどか)そうであった。島原の太夫(たゆう)から宮川町の女郎(おやま)、それから、隠密稼ぎまでしたという、本能そのもののようなこの女は、もう今では、細木永之丞のことも沖田総司のことも念頭に無いらしく、群集の中の若い男へ、万遍なく秋波を送っていた。しかしその時、背後から
「こいつがお力だ」
 という聞覚えのある声がしたので、驚いて振返って見た。植甚が群集の中に立って睨んでいた。
 あッと思った時、一人の娘が、植甚の横手から、自分の方へ走寄って来た。
「沖田さんの敵(かたき)!……妾(わたし)の怨み!」
「お千代!」
 お力は、匕首を、自分の鳩尾(みずおち)へ刺通したお千代の手を両手で握ったが、
「ああ……お前さんに殺されるなら……妾にゃア……怨みは云えないねえ」
 と云い、ガックリとなった。
 上野山内から、伽藍(がらん)の焼落ちる黒煙が見えた。幕府という古い制度の、最後の堡塁(とりで)であった彰義隊の本営が、壊滅される印の黒煙でもあった。
「片がついた」
 と植甚は、お千代を介抱しながら、黒煙を仰ぎ、感慨深そうに云った。
(何も彼も是(これ)で片がついた)




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