深川女房
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著者名:小栗風葉 

 お光は蓐(しとね)火鉢と気を利かして、茶に菓子に愛相よくもてなしながら、こないだ上った時にはいろいろ御馳走になったお礼や、その後一度伺おう伺おうと思いながら、手前にかまけてつい御無沙汰をしているお詫(わ)びなど述べ終るのを待って、媼さんは洋銀の細口の煙管(きせる)をポンと払(はた)き、煙をフッと通して、気忙しそうに膝を進める。
「実はね、お光さん、今日わざわざお邪魔に上りましたのもね、やっぱりその、こないだおいで下さいましたあの話でございますがね。どうでしょう、私はもとよりのこと、お仙もぜひお世話が願いたいとそう申しているのですが……向う様のお口振りはどんなでしょう?」
「向うですか……」と言って、お光は黙って考えている。
 媼さんは心もとなげに眺めていたが、一段声を低めて、「これはね、ここだけの話ですが――もっとも、お光さんは何もかも知っておいでなさることだから、お談しせずともだけれど、あれも来年はもう二十(はたち)でございますからね。それに御存じの通りの為体(ていたらく)で、一向支度(したく)らしい支度もありませんし、おまけに私という厄介者(やっかいもの)まで附いているような始末で、正直なところ、今度のような話を取り逃した日には、滅多(めった)にもうそういう口はございませんからね……これはお光さんだけへの話ですけれど、私はどうか今度の話が纏(まと)まるように、一生懸命お不動様へ願がけしているくらいなんですよ」
「ほほほ、阿母さんもあまりそれは、安く自分で落し過ぎますよ。可哀そうにお仙ちゃんは、縹致(きりょう)だって気立てだってあの通り申し分ないんですもの、そりゃ行こうとなさりゃどんなところへでも……」
「いいえ、そんなことを思っていると大間違いです。こないだもね、お光さんがおいで下すった時に、何だかあれが煮えきらない様子でしたから、後で私がそう言って聞かしたことですよ。お前なんぞ年が若いから、もしね、人並みの顔や姿でとんだ自惚(うぬぼ)れでも持って、あの、口なくして玉の輿(こし)なんて草双紙にでもあるようなことを考えてるなら、それこそ大間違い! 妾手掛(めかけてか)けなら知らないこと、この世知辛い世に顔や縹致で女房を貰う者は、唐天竺(からてんじく)にだってありはしない。縹致よりは支度、支度よりは持参、嫁の年よりはまず親の身代を聞こうという代世界(よせかい)だもの、そんな自惚れなんぞ決してお持ちでないって、ねえ、そう言ったことですよ」
「だって、何ぼ今の代世界だって、阿母さんのようにそう一概に言ったものでもありませんよ。随分また縹致や気立てに惚れた縁組も、世間にないとは限りませんもの。阿母さんのように言ってしまった日には、まるで男女(おとこおんな)の情間(じょうあい)なんてものはなさそうですけど、今だって何じゃありませんか、惚れたのはれたのと、欲も得も忘れて一生懸命になる人もあるし、よくそんな話が新聞なぞにも出ているじゃありませんか」とお光は真剣になって弁駁(べんばく)する。
「ええ、それはそうですね。私なぞも新聞を見るたび、どうしてこんなことがと不思議に思うようなことがよくありますからね。それは広い世間ですから、いろいろなこともございますよね」と媼さんはいい加減にあしらって、例の洋銀の煙管(きせる)で一服吸ってから、「それで、何でしょうか、写真は向う様へお見せ下さいましたでしょうか?」
「ええ、それは見せました、こないだ私がお宅から帰ると、都合よくちょうど先の人が来合わせたものですから」
「それで、御覧なさいましてどんなお口振りでした?」
「別にその時は……何しろ急いでいたものですからね、とにかく借してくれってそのまま持って行きましたが……それは、お仙ちゃんのあの縹致ですから、あれを見て気に入らないってことはありますまいよ」とお光は気の乗らぬ笑顔をする。
「ですがね、あの写真は変に目が怖(こわ)く写っていますから……」
「そんなことはありゃしませんよ。けれど、ただね、ちとどうも若過ぎやしないかって……」
「ええ、私もそれを言わないことじゃなかったのですよ、あまりあれじゃはで作りで、どう見ても七か八に見えますもの。正真なところ、二月生まれの十九ですから……お光さんからもそうちょっと断っておもらい申すでしたにねえ」
「そりゃ言いましたとも。お世話をしようてのに、年を言わないってことがあるものですか、ほほほほ、何ですよ! 阿母さん」
「大きにね、御免なさいよ。そこらに如才のあるようなお光さんでもないのに、私もどうかしていますね、ほほほほ」と媼さんも笑って、「では、写真を持っておいでなさいましてから、その後まだ何とも?」
「はあ、いろいろ何だか用の多い人ですから……」
「いえね、それならば何ですけど、実はね、こないだお光さんのお話の様子では大分お急ぎのようでしたから、それが今日までお沙汰のないとこを見ると、てッきりこれはいけないのだろうとそう思いましてね。じゃ、まだそう気を落したものでもないのでございますね」と言って、媼さんは空笑(そらわら)いをする。
 お光も苦笑いをして、「でも、全くあの時は先方(さき)の口振りがいかにも急ぎのようでしたものですから……いえ、どッちにしてもほかのこととは違いますし、阿母さんの方だって心待ちにしておいでのことは分ってますから、先方が何とも言って来ないからって、それで打遣(うッちゃ)っておいちゃ済みませんわね。私もね、実はもうこないだから、一度向うへ出向こう出向こうとそう思っちゃいるんですけど、ついどうも……何分病人を抱(かか)えてちっとも体が外(はず)せないものですからね」
 言われて媼さんは始めて気がついたらしく、「まあ、私としたことが、自分の勝手なことばかり喋(しゃべ)っていて……ほんにまあ、御病人はどんなでおいでなさいますね、まだおよろしくございませんかよ」
「え、よろしいどころなものですか、今日もお医者から……」と言い半(さ)して、お光は何と思ったか急に辞(ことば)を変えて、「何しろ質(たち)のよくない病気なんですもの」
「質がね? それじゃ御病人も何でしょうが、お光さんが大抵じゃございませんね。そんな中へどうも、こんな御面倒な話を持ち込みましちゃ……」と媼さんは何か思案に晦(く)れる。莨(たばこ)を填(つ)めては吸い填めては吸い、しまいにゴホゴホ咽(む)せ返って苦しんだが、やッと落ち着いたところで、「お光さん、一体今度のお話の……金之助さんとかいうのでしたね? その方はどこに今おいででございますね?」
「え、それは霊岸島の宿屋ですが……こうと、明日は午前(ひるまえ)何だから……阿母さん、明日(あした)夕方か、それとも明後日(あさって)のお午過ぎには私が向うへ行きますからね、何とか返事を聞いて、帰りにお宅へ廻りましょう」

     四

 金之助の泊っているのは霊岸島の下田屋という船宿で。しかしこの船宿は、かの待合同様な遊船宿のそれではない、清国(しんこく)の津々浦々から上(のぼ)って来る和船帆前船の品川前から大川口へ碇泊(ていはく)して船頭船子(ふなこ)をお客にしている船乗りの旅宿で、座敷の真中に赤毛布(あかげっと)を敷いて、欅(けやき)の岩畳(がんじょう)な角火鉢を間に、金之助と相向って坐(すわ)っているのはお光である。今日は洗い髪の櫛巻(くしまき)で、節米(ふしよね)の鼠縞(ねずみじま)の着物に、唐繻子(とうじゅす)と更紗縮緬(さらさちりめん)の昼夜帯、羽織が藍納戸(あいなんど)の薩摩筋のお召(めし)という飾(めか)し込みで、宿の女中が菎蒻島(こんにゃくじま)あたりと見たのも無理ではない。
「馬鹿に今日は美しいんだね」と金之助はジロジロ女の身装(みなり)を見やりながら、「それに、俥(くるま)なぞ待たしといて、どこぞへこれから廻ろうてえのかね?」
「はあ、少しほかへも……」と言って、お光は何か心とがめらるるように顔を赤める。
「じゃ、ちっとは新さんも快(い)い方だと見えるね? そうやってお前が出歩くとこを見ると」
「いえね、あの病気は始終そう附き限(き)りでいなけりゃならないというのでもないから……それに、今日佃(つくだ)の方から雇い婆さんを一人よこしてもらって、その婆さんの方が、私よりよっぽど病人の世話にも慣れてるんだから」
「それじゃ、病人の方は格別快いてえわけでもねえんだね?」
「ええ、どうもね」
「その代り、大して悪くもならねえんだろう」
「ええ」と頷(うなず)く。
「そういうのはどうしても直りが遅いわけさね。新さんもじれッたかろうが、お光さんも大抵じゃあるめえ」
「そりゃ随分ね何も病人の言うことを一々気にかけるじゃないけど、こっちがそれだけにしてもやっぱり不足たらだらで、私もつくづく厭になっちまうことがありますよ。誰でも言うことだけど、人間はもう体の健(まめ)なのが何よりね」
「だが、俺のように体ばかり健で、ほかに取得のねえのも困ったものさ。俺はちっとは病(わずら)ってもいいから、新さんの果報の半分でもあやかりてえもんだ」
「まあ、とんだ物好きね。内のがどう果報なんだろう?」
「果報じゃねえか、第一金はあるしよ……」
「御笑談もんですよ! 金なんか一文もあるものかね。資本(もとで)だって何だって、皆佃の方から廻してもらってやってるんだもの、私たちはいわば佃の出店を預ってるようなものさ」
「そりゃどうだか知らねえが、何しろ新さんはお光さんてえいいお上さんを持って……ねえ、こいつは金で買われねえ果報ださ」
「おや、どうもありがとう。だが、もうそんなことを言ってもらって嬉しがるような年でもないから大丈夫自惚れやしないからたんとお言い」とお光はちっとも動ぜず、洗い髪のハラハラ零(こぼ)れるのを掻き揚げながら、「お上さんと言や、金さん、今日私の来たのはね」
「来たのは?」
「ほかでもないが、こないだの、そら、写真のはどうなの?」と鋭い目をしてじっと男の顔を見つめる。
「うむ、あれか、可愛らしいね」
「可愛らしいからどうなの?」
「どうてえこともねえさ」
「何だね! この人は。お前さん考えとくと言って持って帰ったんじゃないかね?」
「そうさ」
「じゃ、考えたの?」
「別に考えて見もしねえが、くれるなら貰(もら)ってもいい」
「貰ってもいいんだなんて、何だか一向弾(はず)まない返事だね」
「なに、弾まねえてえわけでもねえんだが……何しろこうして宿屋の二階に燻(くすぶ)ってるような始末で、まるで旅へでも来た心持なんだからね。まあ家でも持って、ちゃんと一所帯構えねえことにゃ女房の話も真剣事になれねえじゃねえか」
「そりゃ、まあね」とお光は意を得たもののように頷いて見せる。
「だが、向うは返事を急いででもいるのかい?」
「向うはなに、別に急いでもいやしないけどね」
「急がなくたって、何もこれ、早くくれてしまわなきゃ腐るてえものでもねえんだからな」
「当り前さ、夏のお萩餅(はぎ)か何ぞじゃあるまいし……ありようを言うとね、娘もまだ年は行ってても全小姐(からねんねえ)なんだから、親ももう少し先へなってからの方が望みなんかも知れないのさ」
「じゃ、とにかくもう少し待ってもらおうじゃねえか。第一お前、肝心の仲人があの通りの始末なんだもの」
「仲人があの通りってどう?」
「新さんの今のとこさ」
「ああ、だけど、それを言ってちゃいつのことだか分らないかも知れないよ」と伏目になって言った。
 金之助は深くも気に留めぬ様子で、「こっちだっていつのことだかまだ分らねえんだから……だが、わけのねえことだから、見合いだけちょっとやらかして見ようか?」
「え、見合いを□」お光はぎょッとしたように面を振り挙げたが、「さあ……ね、だけど、見合いをすりゃ、すぐ何とか後の話をしなけりゃならないからね。見合いをしっ放しにして、いつまでもまた引っ張っとくというわけにも行かないから……まあ何てことなしに延ばしといたらいいじゃないかね」
「そうかい、それじゃまあ、どうなりとお光さんの考え通りに任せるから、よろしく頼むよ」
 金之助は急須に湯を注(さ)したが、茶はもう出流れているので、手を叩いて女中を呼ぶ。
 間もなく、「何か御用ですの?」と不作法に縁側の外から用を聞いて、女中はジロジロお光の姿を見るのであった。
「御用だから呼んだのよ。この急須を空けっちまっての、新しく茶を入れて来な」
「はい」と女中はようよう膝を折って、遠くから片手を伸ばして茶盆ぐるみ引き寄せながら、
「ついでにお茶椀(ちゃわん)も洗って来ましょうね」
「姐(ねえ)さん、あの、便所(はばかり)はどちらですの?」
「便所ですか? 御案内しましょう」
「はばかりさま」
 女中は茶盆を持ってお光を案内する。
 しばらくすると、奇麗に茶道具を洗い揚げて持って来たが、ニヤニヤと変に笑いながら、「ちょいと、あなたのレコなの?」と女中は小指を出して見せる。
「何が? 馬鹿言え」
「隠したって駄目(だめ)よ。どこの芸者?」
「芸者だ? 馬鹿言え! よその立派な上さんだ」
「とか何とかおっしゃいますね。白粉(おしろい)っけなしの、わざと櫛巻か何かで堅気(かたぎ)らしく見せたって、商売人はどこかこう意気だからたまらないわね。どこの芸者? 隠さずに言っておしまいなさいよ」
「ちょ! 芸者じゃねえってのに、しつこい奴だな」
「まだ隠してるよ! あなたが言わなきゃ俥屋に聞いてやる」
「俥屋が何とか言ってますか?」と背後(うしろ)からお光が入って来た。
「あら!」と女中は真赤になって、「まあ、御免なさいまし。いえね、お尻(いど)を振らずに俥屋は走れないものか、それを聞いて見ようとそう申して……ほほほほ。あなた布団をお敷き遊ばせ」と格(がら)にもない遊ばせ辞(ことば)をてれ隠しに、そのままバタバタと馳(は)せ去ったのである。
「何のことなの? 女中の言ったのは」
「なあに、馬鹿馬鹿しいのさ。お光さんのことをどこの芸者だって……」
「まあ、厭よ……」
「芸者なものか、よその歴(れっき)としたお上さんだと言っても、どうしても承知しやがらねえで、俺が隠してるから俥屋に聞いて見るって、そう言ってるところへヒョッコリお光さんが帰って来たのさ。お多福め、苦しがりやがって俥屋の尻が何だとか……はははは、腹の皮を綯(よ)らしやがった。だが、そう見られるほど意気に出来てりゃしようがねえ」
「およしよ! 聞きたくもない」とお光は気障(きざ)がって、「だけど、芸者が何で金さんのとこへ来たと思ったんだろう!」
「それがまたおかしいのさ。馬鹿は馬鹿だけの手前勘で、お光さんのことを俺のレコだろうって、そう吐(ぬ)かしやがるのさ、馬鹿馬鹿しくって腹も立てられねえ」
 お光はただ笑って聞いたが、「そうそう、私ゃその話で思い出したが、今家にいる若い者ね」
「むむ、あの店にいる三十近くの?」
「あれさ、為(ため)といって佃の方の店で担人(かつぎ)をしていた者でね、内のが病気中、代りに得意廻りをさすのによこしてもらったんだが、あれがまた、金さんと私の間(なか)を変に疑ってておかしいのさ。私が吉新へ片づかない前に、何でも金さんとわけがあったに違いないんだって」
「へええ、どうしてお光さんの片づかねえ前のことなんか――お互いに何も後暗いことはねえから、何と言おうがかまわねえけれど、どうしてまたそんなころのことを知ってるんだろう?」
「それがさ、お前さんをその時分よく知ってて、それから私のことも知ってるんだって」
「はてね、俺が佃にいる時分、為ってえそんな奴があったかしら」
「それは金さんの方じゃ知らないだろうって、自分でも言ってるんだが、何でもね、あの近辺で小僧か何かしていて、それでお前さんを知ってるんだそうだが、寄席(よせ)なぞでよく私と二人のとこを見かけたって……変な奴がまた、家へ来たものさねえ」
「そりゃしかし、お光さんも迷惑だろうな。くだらねえこと言やがって、もしか新さんの耳にでも入ったら痛くねえ腹も探られなきゃならねえ」
「なにもね内の耳へ入れるようなことはさせないから、そりゃ大丈夫だけど……金さん、もう何時だろう?」と思い出したように聞く。
 金之助は床の間に置いてあった銀側時計を取って見て、「三時半少し過ぎだ。まあいいじゃねえか」
「いえ、そうしちゃいられないの、まだほかへ廻らなきゃならないから……」とお光は身支度しかけたが、「あの、こないだの写真は空(あ)いてて?」
「持ってくかい?」
「え、あれはほかでちょいと借りたんだから」

     五

 お光の俥は霊岸島からさらに中洲(なかず)へ廻って、中洲は例のお仙親子の住居を訪れるので、一昨日(おととい)媼さんがお光を訪ねた時の話では、明日の夕方か、明後日の午後にと言ったその午後がもう四時すぎ、昨日もいたずらに待惚(まちぼ)け食うし、今日もどうやら当てにならないらしく思われたので。
「今まで来ないところを見ると、今日も来ないんだろう、どうも一昨日行った時のお光さんの様子が――そりゃ病人を抱えていちゃ、人のことなんぞ身にも人らなかろうけれど――この前家へ来た時の気込みとはまるで違ってしまって、何だか話のあんばいがよそよそしかったもの」と娘を対手に媼さんが愚痴っているところへ、俥の音がして、ちょうどお光が来たのであった。
 親子は裁縫の師匠をしているので、つい先方(さきかた)弟子の娘たちが帰った後の、断布片(たちぎれ)や糸屑がまだ座敷に散らかっているのを手早く片寄せて、ともかくもと蓐(しとね)に請ずる。請ぜられるままお光は座に就(つ)いて、お互いに挨拶も済むと、娘は茶の支度にと引っ込む。
「一昨日はどうも……御病人のおあんなさるとこへ長々と談(はな)し込んでしまいまして、さぞ御迷惑なさいましたでしょうねえ。どうでございますね? 御病人は」
「どうも思わしくなくって困ります」とお光は辞寡(ことばすくな)に答えて、「昨日はお待ちなすったでしょうね。出よう出ようと思っても、何分にも手が空(あ)けられないものですから……今日やッと出抜けて今向うへ廻ってすぐこちらへ参ったのですよ」
「まあねえ、お忙しいとこを本当に済みませんね、御病人のお世話だけでも大抵なとこへ、とんだまたお世話をかけまして……」
「あれ、私の方から持ち込んだ話ですもの、お世話も何もありゃしませんけど……」と口籠(くちごも)るところへ、娘のお仙は茶を淹(い)れて持って来た。
 例の写真ではとても十九とは思われぬが、本人を見れば年相応に大人びている、色は少し黒いが、ほかには点の打ちどころもない縹致で、オットリと上品な、どこまでも内端(うちわ)におとなしやかな娘で、新銘撰の着物にメリンス友禅の帯、羽織だけは着更(きか)えて絹縮(きぬちぢみ)の小紋の置形、束髪に結って、薄く目立たぬほどに白粉をしている。
「お仙ちゃん、どうぞもうかまわずにね、お客様じゃないんだから」
「え、何にもかまやしないことよ」
「かまいたくも、おかまい申されないのでございますからね」と媼さんは寂しげに笑う。
「でも、この間伺った時にゃ大層御馳走になってしまって……」と今さらに娘の縹致を眺めて、「本当に、お仙ちゃんはいつ見ても美しいわね」
「あら、厭な姉さん!」
「だって、本当なんだもの。束髪も気が変っていいのね」
「結いつけないから変よ」
 媼さんが傍から、「お光さんこそいつ見ても奇麗でおいでなさるよね。一つは身飾(みだし)みがいいせいでもおありでしょうが、二三年前とちっともお変りなさいませんね」
「変らないことがあるものですか、商売が商売ですし、それに手は足りないし、装(なり)も振りもかまっちゃいられないんですもの、爺穢(じじむさ)くなるばかりですのさ」
「まあ、それで爺穢いのなら、お仙なぞもなるべく爺穢くさせたいものでございますね……あの、お仙やお前さっきの小袖を一走り届けておいでな、ついでに男物の方の寸法を聞いて来るように」
「は、じゃ行って来ましょう……姉さん、ゆっくり談していらっしゃいな、私じき行って来ますから」とお仙は立って行く。
 格子戸の開閉(あけたて)静かに娘の出て行った後で、媼さんは一膝進めて、「どうでございましょう?」
「少しね、話が変って来ましてね」
「え、変って来ましたとは?」と気遣わしそうに対手を見つめる。
「始めの話じゃ恐ろしく急ぎのようでしたけど、今日の口振りで見ると、まず家でも持って、ちゃんと体も落ち着いてしまって、それからのことにしたいって……何だかどうも気の永い話なんですよ」
「ですが、家をお持ちなさるぐらいのことに、別に手間も日間も要らないじゃございませんか」
「それがなかなかそうは行かないんですって。何しろこれまで船に乗り通しで、陸(おか)で要る物と言っちゃ下駄一足持たないんでしょう、そんなんですから、当人で見るとまた、私たちの考えるようにゃ行かないらしいんですね」
「ですがねえ。私なぞの考えで見ると、何も家をお持ちなさるからって、暮に遣(つか)う煤掃(すすは)きの煤取りから、正月飾る鏡餅(かがみもち)のお三方(さんぼう)まで一度に買い調えなきゃならないというものじゃなし、お竈(へッつい)を据えて、長火鉢を置いて、一軒のお住居をなさるにむつかしいことも何もないと思いますがね」
「それに何(なん)なんでしょう、今はまだ少し星が悪いんでしょう。そんなことも言ってましたよ」
「じゃ、話だけでも決めておいていただいたら……」
「え、それは私も言ったんですがね、向うの言うのじゃ、決めておくのはいいが、お互いにまたどういう思いも寄らない故障が起らないとも限らないから、まあもう少しとにかく待ってくれって、そう言うものですからね」
「お光さん」と媼さんは改まって言った、「どうかね、遠慮なしに本当のことを言っておくんなましよね。ほかのこととは違って、御縁のないものならしかたがないのでございますから、向う様がお断りなさいましたからって、私はそれをどうこう決して思やしませんから」
「あれ、阿母さん、私ゃ本当(ほんと)のことを言ってるんですよ、全く向うの人はそう言ってるんですよ」
「つまりそれじゃ、体(てい)よくそう言ってお断りなさいましたんでしょう?」
「そんなことがあるもんですか」と言ったが、媼さんの顔を見るといかにも気の毒そうで、しばらく考えてから、「断ったのなら、写真も返しそうなものですけど、あれはもう少し借りときたいと言ってるんですから」
「もう少し借りときたいって?」媼さんも幾らか思い返したようで、「そうすると、お断りなすったわけでもありませんかね」
「そうですとも」と言って、お光はそっと帯の上を撫(な)でる。
「けれど、いつまで待ってくれとおっしゃるのだか、それも分らないのでしょうねえ。あれも来年は二十でございますからね、もう一だの二だのという声がかかった日にゃ、それこそ縁遠いのがなお縁遠くなりますからねえ」
「阿母さんもまあ! 何ぼ何だって、そんなに一年も二年も待たされてたまるもんですか。ですからね、向うの話は向うの話にしておいて、ほかにまた話がありゃそれも聞いて見て、ちっとでもいい方へ片づけてお上げなさりゃいいじゃありませんか」
「そんなにどこから話があるものですか」
「阿母さんはじきそんなことをお言いだけど、お仙ちゃんのようなあんないい娘(こ)を……誰だって欲しがるわ。私もまだほかにも心当りがあるから、その方へも談して見ましょう。今度のもそれは悪くはないけど何しろ船乗りという商売はあぶない商売ですからね、それにどこか気風の暴(あら)ッぽい者ですから、お仙ちゃんのようなおとなしい娘には、もう少しどうかいう人の方がとそうも思うんですよ」
 ところへ、娘は帰って来た。あたりはいつか薄暗くなって、もう晩の支度にも取りかかる時刻であるから、お光はお仙の帰ったのを機(しお)に暇(いとま)を告げたのである。時分時(じぶんどき)ではあり、何もないけれど、お光さんの好きな鰻(うなぎ)でもそう言うからと、親子してしきりに留めたが、俥は待たせてあるし、家の病人も気にかかるというので、お光は強(た)って辞し帰ったのであった。
 中洲(なかず)を出た時には、外はまだ明るく、町には豆腐屋の喇叭(らっぱ)、油屋の声、点燈夫の姿が忙しそうに見えたが、俥が永代橋を渡るころには、もう両岸の電気燈も鮮(あざ)やかに輝いて、船にもチラチラ火が見えたのである。清住町へ着いたのはちょうど五時で、家の者はいずれも夕飯を済まして茶を飲んでいるところであった。
「婆やさん、私が出てから親方はどんなだったね?」
「別に変った御様子も見えませんでございますよ。ウトウト睡(ねむ)ってばかりおいでなさいましてね、時々床瘡(とこずれ)が痛いと言っちゃ目をお覚(さ)ましなさるぐらいで……」
「お上さんが出なさるとね、じき佃の親方が見えましたよ」と若衆の為さんが言った。
「おや、そう。それでいつ阿父さんは帰ったね?」
「つい今し方帰っておいででした。何ですか、昨日の話の病人を佃の方へ移すことは、まあ少し見合わせるように……今動かしちゃ病人のためにもよくなかろうし、それから佃の方は手広いことには手広いが、人の出入りが劇(はげ)しくって騒々しいから、それよりもこっちで当分店を休んだ方がよかろうと思うから、そう言ってたとお上さんに言えってことでした。明日は朝からおいでなさるそうです」
 お光は頷(うなず)いて、着物着更えに次の間へ入った。雇い婆は二階へ上るし、小僧は食台(ちゃぶだい)を持って洗槽元(ながしもと)へ洗い物に行くし、後には為さん一人残ったが、お光が帯を解く音がサヤサヤと襖越(ふすまご)しに聞える。
「お上さん」と為さんは声をかける。
「何だね?」と襖の向うでお光の返事。
「お上さんはどこへ行ったんだって、佃の親方が聞いてましたぜ」
「…………」
「私(わっし)ゃ金さんてえ人のとこへ遊びにおいででしょうって、そう言っときましたぜ」
「…………」
「ね、お上さん」
「…………」
 答えがないので、為さんはそっと紙門(からかみ)を開けて座敷を覗くと、お光は不断着を被(はお)ったまままだ帯も結ばず、真白な足首現(あら)わに褄(つま)は開いて、片手に衣紋(えもん)を抱えながらじっと立っている。
「為さん、お前さん本当(ほんと)にそんなことを言ったのかね?」
「ええ」と笑っている。
「言ったってかまわないけど……どんな用事があるか分りもしないのに、遊びに行ったなんて、なぜそんなよけいなことをお言いだね?」
「じゃ、やっぱり金さんのとこへ? へへへへそうだろうと思ってちょっと鎌(かま)かけたんで」
「まあ、人が悪いね?」
「へへへへ。何しろお楽しみで……」と為さんはジリジリいざり寄って来る。
「あれ、そっちへ行っておいでよ! 人が着物着更えてるのに、不躾(ぶしつけ)千万だね」

     六

 医者が今日日の暮までがどうもと小首をひねった危篤の新造は、注射の薬力に辛くも一縷(いちる)の死命を支(ささ)えている。夜は十二時一時と次第に深(ふ)けわたる中に、妻のお光を始め、父の新五郎に弟夫婦、ほかに親内(みうち)の者二人と雇い婆と、合わせて七人ズラリ枕元を囲んで、ただただ息を引き取るのを待つのであった。力ない病人の呼吸は一息ごとに弱って行って、顔は刻々に死相を現わし来たるのを、一同涙の目に見つめたまま、誰一人口を利く者もない。一座は化石したようにしんとしてしまって、鼻を去(か)む音と、雇い婆が忍びやかに題目を称(とな)える声ばかり。
 やがてかすかに病人の唇(くちびる)が動いたと思うと、乾(かわ)いた目を見開いて、何か求むるもののように瞳(ひとみ)を動かすのであった。
「水を上げましょうか?」とお光が耳元で訊ねると、病人はわずかに頷く。
 で、水を含ますと、半死の新造は皺涸(しわが)れた細い声をして、「お光……」と呼んだ。
「はい」と答えて、お光はまず涙を拭いてから、ランプを片手に自分の顔を差し寄せて、「私はここにいますよ、ね、分りましたか?」
「お前には世話をかけた……」
「またそんなことを……」とお光はハラハラ涙を零(こぼ)す。
「阿父さん……」
「阿父さんも皆お前の傍にいるよ。新造、寂しいか?」と新五郎は老眼を数瞬(しばたた)きながらいざり寄る。
「どうかお光の力になってやって……阿父さん、お光を頼みますよ……」
「いいとも! お光のことは心配しねえでも、俺が引き受けてやるから安心しな」
「お光……」
「はい……」
「お前も阿父さんを便りにして……阿父さん、お光はまだ若いから、あなたが世話してやって……」
「よし! それも承知してる、心配しねえでもいい」
「お光……」
「はい……」
「このあいだから阿父さんにも頼んどいたが、お前はまだ若いから……若い今のうちに片づくがいいよ……」
「新さん!」とお光は身を顫(ふる)わして涙の中から叫んだ、「私ゃ、私ゃ、いつまでも新さんの女房でいますよ!」
 乾ききった新造の目には涙が見えた。舅(しゅうと)の新五郎も泣けば義理ある弟夫婦も泣き、一座は雇い婆に至るまで皆泣いたのである。それから間もなく、新造は息を引き取ったのであった。

     *    *    *

 越えて二日目、葬式は盛んに営まれて、喪主に立った若後家のお光の姿はいかに人々の哀れを引いたろう。会葬者の中には無論金之助もいたし、お仙親子も手伝いに来ていたのである。
 で、葬式の済むまでは、ただワイワイと傍(はた)のやかましいのに、お光は悲しさも心細さも半ば紛(まぎ)らされていたのであるが、寺から還(もど)って、舅の新五郎も一まず佃の家へ帰るし、親類親内(みうち)もそれぞれ退(ひ)き取って独り新しい位牌(いはい)に向うと、この時始めて身も世もあられぬ寂しさを覚えたのである。雇い婆はこないだうちからの疲れがあるので、今日は宵(よい)の内から二階へ上って寝てしまうし、小僧は小僧でこの二三日の睡(ね)不足に、店の火鉢の横で大鼾(おおいびき)を掻いている、時計の音と長火鉢の鉄瓶の沸(たぎ)るのが耳立って、あたりはしんと真夜中のよう。
 新所帯の仏壇とてもないので、仏の位牌は座敷の床の間へ飾って、白布をかけた小机の上に、蝋燭(ろうそく)立てや香炉や花立てが供えられてある。お光はその前に坐って、影も薄そうなションボリした姿で、線香の煙の細々と立ち上るのをじっと眺めているところへ、若衆の為さんが湯から帰って来た。
「お上さん、お寂しゅうがしょうね。私(わっし)にもどうかお線香(せんこ)を上げさしておくんなさい」
 お光は黙って席を譲った。
 為さんは小机の前にいざり寄って、線香を立て、鈴(りん)を鳴らして殊勝らしげに拝んだが、座を退(すべ)ると、「お寂しゅうがしょうね?」と同じことを言う。
 お光は喩(たと)えようのない嫌悪(けんお)の目色(まなざし)して、「言わなくたって分ってらね」
「へへ、そうですかしら。私ゃまたどうかと思いまして」
 お光は横を向いて対手にならぬ。
 為さんはその顔を覗くようにして、「お上さん、親方は何だそうですね、お上さんに二度目の亭主を持つように遺言しなすったんだってね?」
「それがどうしたのさ?」
「どうもしやしませんが、親方もなかなか死際(しにぎわ)まで粋(すい)を利かしたもので……それじゃお上さんも寝覚めがようがさね」
「寝覚めがいいの悪いのと、一体何のことだね? 私にゃさっぱり分らないよ」
「へへへ、そんなに恍(とぼ)けなくたって、どうせそのうちに御披露があるんでしょうから……」と言って、為さんは少し膝を進めて、「ですが、お上さん、親方はそりゃ粋を利かして死んなすったにしても、ね、前々からこういうわけだということが、例えば私(わっし)の口からでも露(ば)れたとしたら、佃の方の親方が黙って承知はしめえでしょう」
「何を阿父さんが承知しないのさ?」
「何をって、金さんとお上さんと一緒になることでなくって、ほかにお前さん……」
「まあ! 呆(あき)れもしない。いつ私が金さんと一緒になるって言ったね?」
「言わないたって、まあその見当でしょう?」
「馬鹿なことをお言い!」
 為さんはわざと恍けた顔をして、「へええ、じゃ私の推量は違いましたかね」とさらに膝の相触れるまで近づいて、「そう聞きゃ一つ物は相談だが、どうです? お上さん、親方の遺言に私じゃ間に合いますめえか……」
「畜生! 何言やがる□」
 お光はいきなり小机の上の香炉を取って、為さんの横ッ面へ叩きつけると、ヒラリ身を返して、そのまま表へ飛び出したのである。

     *    *    *

 飛び出して、その足ですぐ霊岸島の下田屋へ駈けつけたお光は、その晩否応なしに金之助を納得させて、お仙と仮盃だけでも急に揚げさせることにした。




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