カンカン虫殺人事件
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著者名:大阪圭吉 

 K造船工場の第二号乾船渠(ドライ・ドック)に勤めている原田喜三郎と山田源之助の二人が行方不明になってから五日目の朝の事である。
 失踪者の一人(にん)、原田喜三郎の惨殺屍体(したい)が、造船工場から程(ほど)遠からぬ海上に浮び上ったと云(い)う報告(しらせ)を受けて、青山喬介(きょうすけ)と私は、暖い外套を着込むと、大急ぎで工場までやって来た。
 原田喜三郎と山田源之助は、二人共(とも)K造船所直属のカンカンムシで、入渠船(にゅうきょせん)の修繕や、船底(ボタム)のカキオコシ、塗り換えなどをして食って行く労働者である。その二人が五日前の晩から行方不明になって了(しま)い、捜査に努力した水陸両警察署も、何等(なんら)の手掛(てがかり)を得る事も出来ず、事件はそのまま忘れられようとしていた時の事だけに、半(なか)ば予期していた事とは言え、失踪者の惨殺屍体が発見されたと聞いて、私達が飛上ったのも無理からぬ話である。
 門前で車を降りた私達は、真直(まっす)ぐにK造船所の構内へやって来た。事務所の角を曲ると、鉄工場の黒い建物を背景(バック)にして、二つの大きな、深い、乾船渠(ドライ・ドック)の堀が横たわっている。その堀と堀の間には、たくましいクレーンの群(むれ)が黒々と聳(そび)え立って、その下に押し潰されそうな白塗りの船員宿泊所が立っている。発見された屍体(したい)は、その建物の前へアンペラを敷いて寝かしてあった。
 もう検屍(けんし)も済んだと見えて、警察の一行は引挙(ひきあ)げて了(しま)い、只(ただ)五六人の菜ッ葉服が、屍体に噛(かじ)り付いて泣いている細君らしい女の姿を、惨(いた)ましそうに覗き込んでいた。喬介は直(ただ)ちに屍体に近付くと、遺族に身柄を打明けて、原田喜三郎の検屍を始めた。地味な労働服を着た被害者の屍体は、長い間水浸しになっていたと見えて、四十前後のヒゲ面も、露出された肩も足も、一様にしらはじけて、恐ろしく緊張を欠いた肌一面に、深い擦過傷(さっかしょう)が、幾つも幾つも遠慮なく付いている。裸(はだ)けられた胸部には、丁度(ちょうど)心臓の真上の処(ところ)に、細長い穴がぽっかり開(あ)いて、その口元には、白い肉片がむしり出ていた。
『メスで突き刺したんだね。これが致命傷なんだよ。』
 喬介は私にそう告げ終ると、尚(なお)も屍体を調べ続けた。顔面はそれ程引き歪められていると言う方ではないが、只(ただ)左の顔だけ一面にソバカスの出来ているのが、なんとなく気味悪く思われた。喬介は又喬介で、どう言うつもりかそのソバカスに顔を近付け、御丁寧に調べ廻していた。が、軈(やが)て屍体を裏返すと、呆れた様に私を見返った。成る程、屍体の後頭部には鉄の棒で殴り付けた様な穴が、破壊された骨片(こっぺん)をむき出して酷(むごた)らしくぶちぬかれている。屍体の背面には表側と同じ様に、深い擦過傷が所々(しょしょ)に喰い込み、労働服の背中にはまだ柔い黒色(こくしょく)の機械油が、引き裂かれた上着の下のジャケットの辺(あた)りまで、引っこすった様にべっとりと染み込んでいる。そしておよそ私達を吃驚(びっくり)さした事には、後へ廻された両の手首は丈夫な麻縄で堅く縛られ、すっこきの結び玉から何にかへくくり付けた様に飛び出している綱の続きは、一呎(フィート)程の処で荒々しく千切(ちぎ)れている事だ。黒い機械油は、手首から麻縄の上までべっとり染み付いている。
 一通りの検屍を終った喬介は、傍(そば)の婦人に向って静(しずか)に口を切った。
『いやどうも失礼いたしました。早速(さっそく)で恐縮の至りなんですが、御主人が行方不明になられた晩の模様をお聞かせ下さいませんか?』
『と言いますと?』
『つまりですな。御主人が最後に家(うち)を出られた時の様子です。』
『ハイ。』婦人は涙を拭いながら話し始めた。
『あの晩工場から暗くなってから帰って来た主人は、御飯を食べると急な夜業(やぎょう)があるからと言って直(す)ぐに出て行(ゆ)きました。』
『一寸(ちょっと)待って下さい。』と喬介は側に立っていた菜葉服(なっぱふく)の一人に向って、『その晩、夜業は確かにあったんですね?』
『いいえ。夜業はなかったです。』労働者が答えた。
『なかった? ふむ。ないものをあると言うからには、何か知られ度(た)くない事情があったんだな。お内儀(かみ)さん、心当りは御座居ませんか?』
『別に、御座居ませんけど――』
『そうですか。で、御主人は一人で出掛(でか)られた[#「出掛(でか)られた」はママ]んですね?』
『いいえ。源さんが、あの山田源之助さんが呼びに来られて、一緒に出掛けました。』
『御近所ですか?』
『ええ、直ぐ近くですし、それにとても心安い間柄でしたから寄って呉(く)れたんです。出がけに表戸の前で、「あの若僧(わかぞう)すっかり震え上って了(しま)いおった。」とか「今夜は久し振りに飲めるぞ。」とか二人で話し合いながら出て行(ゆ)くのを、妾(わたし)はこっそり立聞きしていました。』
『ほう。好(よ)くそんな話を覚えていられましたね?』
『ええ。前の日まで中気で寝ていた源さんは、その日無理をして仕事に出た為(た)め工場で過(あやま)って右腕に肉離れをして了(しま)ったのです。で、そんな怪我をした弱い中気の体で、又酒など飲んでは――と他人事(ひとごと)ながら心配でしたので、あの話は好く覚えております。』
『いや有難う。それで、そのまま二人共帰らないんですね?』
『ええそうなんです。』
『有難う。』
 喬介は丁寧に礼を言って彼等の側を離れると、私を顎(あご)で呼びながら船渠(ドック)の方へ歩き出した。
『いや、驚いたねえ。随分クソ丁寧に殺したものだねえ。』
 喬介に寄り添いながら私が言った。
『全くだ。体中傷だらけだよ。心臓の刺傷(さしきず)と後頭部の猛烈な打撲傷――二つの致命傷が一つの肉体に加えられているんだ。そして、その上に身体(からだ)一面に恐るべき擦過傷がある。随分惨忍な殺人だよ。勿論屍体はあの通り麻縄でガッチリ縛り、海の真中(まんなか)へ重(おもし)を着けて沈めたんさ。犯人の頭脳のレベルは決して高いものではないね。まあ九分九厘知識階級の人間でない事は確かだ。だが、推理を起すに当っては、やはり充分な注意を払わなければならん。で、先(ま)ず最初に僕が頭をひねったのは、あの幾通りかの傷や機械油が、被害者の体へ加えられて行った順序だ。確かにあれ丈(だ)けの変化が一度に起ったとは思われん。いや、それどころか各々(おのおの)の変化には、みんなハッキリした順序が見えている。後頭部の打撲傷や身体各所の激しい擦過傷を思い出し給え。あの二通りの傷は、心臓部の刺傷に比較して恐ろしく周囲の皮膚が擦りむけていたね。一体人間の皮膚と言う奴は、勿論生きている人間の、而(しか)も薄い上皮ではなくあの屍人(しにん)のそれの様に一枚下の厚い奴の事だよ。そう言う皮膚は、あんなに易々(やすやす)と傷口の周囲までまくれて了(しま)うものかね? 僕はそう思えないんだ。只(ただ)、もう息の通(かよ)っていない、そろそろ虫の湧(わ)きかかりそうな、或は又、数日間水浸しになっていたとか言う様な屍体では、そう言う事も信じられる。で、この考え方からして、最も妥当な順序を立てて見ると、先ず最初被害者は、鋭利な刃物で心臓を一突きに刺されて絶命する。次に後手(うしろで)に縛り挙げられ、重(おもし)を着けられて海中へ投げ込まれる。茲(ここ)で暫く時間を置いて、次にあの致命的な打撲傷と恐るべき擦過傷が幾分柔かくなった肌へ加えられる。茲で面白い証拠を僕は見ておいたよ。後手に縛られた両腕の表側には擦過傷があるが、腕の後側や腕の下に当る胸の横から背中の一部へかけては、衣服の綻(ほころ)びさえも見られない事だ。次に、あの黒い機械油のシミだが、溶け加減と言い、染み工合と言い、確かに暫く水浸しになっていたに違いはないが、凡(すべ)ての傷の一番最後から着いたものなんだ。何故(なぜ)ってあの油は、背中の上部の上衣(うわぎ)から、綻(ほころ)びの中のジャケットや擦(す)り破れた肌の上まで、そして縛られた麻縄の表側へまでも、ひっこすった様に着いていたからね。さあ、これで一通りこの方は済んだ積(つも)りだ。ひとつ、これから殺人の現場(げんじょう)を調べて見ようじゃあないか。』
 喬介はこう言って、鉄工場の方へどんどん歩き出した。私は驚いて思わず声を挙(あ)げた。
『エッ! 殺人の現場? どうして君はそれを知っているんだ。』
 私の質問に微笑を浮べた喬介は、歩きながら言葉を続けた。
『ふむ。何でもないさ。君はあの死人の左の顔面に気味悪いソバカスのあったのを覚えているだろう。僕はあれを見た瞬間に、ソバカスが顔の一方に丈(だ)けあるのを不思議に思ったんだ。で、よく調べて見ると、なんの事はない鉄の切屑(きりくず)の粉が一面にめり込んでいるのさ。つまり、ソバカスと思った小(ち)いさな斑点は、被害者が心臓を突き刺されて、俯向(うつむき)になった儘(まま)バッタリとノビて了(しま)ったトタンに、めり込んだ鉄屑なんだ。僕はこの推理の延長から、殺人の現場(げんじょう)を直感する。それは旋盤工場である。旋盤工場はあの鉄工場の一部にある筈(はず)だ。其処(そこ)の裏手の屑捨場(くずすてば)まで歩けば、もうそれで充分だ。』
 私は黙って喬介の後へ続いた。途中で行逢(ゆきあ)った職工の一人に屑捨場の所在を訊ねた私達は、それから間もなく鉄工場の隅の裏手へやって来た。其処には、油で黒くなった古い鉄粉や、まだ銀色に光る新しい鉄粉が、山と積って捨てられてある。
 喬介は直ちに手袋をはめると、比較的新(あた)らしい鉄屑の傍(そば)へ腰を屈(かが)めて、ごそごそとさばき始めた。暫く一面に掻(か)き廻していたが、何(な)んの変化も見られない。追々(おいおい)私は倦怠(けんたい)を覚え始めた。
 と、喬介の顔色が急に赧(あか)らみかけて来た。成る程、喬介の手元を見ると、新(あらた)に掘り出されたまだ余り古くない白銀色の鉄粉の層の上に、褐色の錆を浮かした大きな染(しみ)が出て来た。被害者の心臓から流れ出た血の痕(あと)だ。私がその血痕を夢中で見詰めている間に、喬介は何かチラッと光る物を拾い挙げて私の側へ寄り添った。
『君こんなものがあったよ。』
 喬介が笑いながら私の前へ差し出したのは、飛びッ切(きり)上等の飾(かざり)が付いた鋭利な一丁のジャックナイフだ。鉄屑の油や細かい粉で散々に穢(よご)れているが、刃先の方には血痕らしい赤錆が浮いている。
『残念だがこう穢れていては迚(とて)も指紋の検出は出来ん。』
 喬介は、手袋の指先で、柄元の塵を払い退けた。と、鮮(あざや)かにG・Yと刻んだ二文字の英字が見えて来た。途端に、私の頭の中で電光の様な推理が閃(ひらめ)いた。G・Y――とは、「山田源之助」をローマ字綴りにした場合の頭文字(イニシャル)の配列である。そこで私は、すかさず言葉を掛けた。
『君、こりゃあ山田源之助の頭文字(イニシャル)だ。犯人は源之助なんだね。』
『うむ。まあそう考えて行(ゆ)くのも悪くはないさ』と、落着き払って喬介は言う、『だが、他(た)の多くの条件の符合を無視して、只(ただ)これだけで犯人を山田と断定する事は、どう考えても危険性の多い話だ。僕は先ず、被害者は一体何をしにこんな処までやって来たのだろうか? その方を先に考えたい。そして君は、あの先程被害者の細君が話した「若僧震え上(あが)って了(しま)った」とか「今夜は久し振りに飲める」とか言う二人の間の密やかな会話を覚えているだろう? あの会話は、あの晩二人の間に「若僧」と呼ばれた一人の第三者が関係していた事を意味する。勿論、その第三者と言う男は、二人よりも年若(としわか)であったろうし、そして又――』
 喬介は茲(ここ)で語(ことば)を切ると、腰を屈めて何か鉄屑の間から拾いあげた。よく見ると鉄屑の油で穢れてはいるが、まだ新しい中味の豊富な広告マッチだ。レッテルの図案の中に「小料理・関東煮」としてある。喬介は微笑しながら再び語を続けた。
『そして又その男と言うのはだね。恐らく此の頃何処(どこ)か、多分西の方へでも旅行した事のある男だ。どうしてって、ほら君の見る通りこのナイフの側に落ちていた広告マッチのレッテルには「小料理・関東煮」としてある。関東煮とは、吾々(われわれ)東京人の所謂(いわゆる)おでんの事だよ。地方へ行(ゆ)くとおでんの事を好(よ)く関東煮と呼ぶ。殊に関西では、僕自身度々(たびたび)聞いた名称だよ。従って、このマッチは、レッテルの文案に「関東煮」としてあるだけで、充分に東京の料理店のマッチでない事は判(わか)る筈(はず)だ。――』
『いや、もういい。よく判ったよ。』
 私は喬介の推理に、多少の嫉(ねた)ましさを感じて口を入れた。喬介は、先程のジャックナイフをハンカチに包んで広告マッチと一緒にポケットへ仕舞い込みながら、私の肩に手を置いた。
『じゃあ君。これから一つ機械油の――あの被害者の背中に引ッこすッた様に着いていたどろりとした黒い油のこぼれている処(ところ)を探そう。』
 そこで私は、喬介に従って大きな鉄工場の建物の中へ這入(はい)った。
 回転する鉄棒、ベルト、歯車、野獣の様な叫喚(きょうかん)を挙(あ)げる旋盤機や巨大なマグネットの間を、一人の労働者に案内されながら私達は油のこぼれた場所を探し廻った。が、喬介の推理を受入れて呉(く)れる様な場所は見当らない。で、がっかりした私達は、工場を出て、今度は、二つの乾船渠(ドライ・ドック)の間の起重機(クレーン)の林の中へやって来た。其処(そこ)で、大きな鳥打帽(ハンチング)を冠(かぶ)った背広服に仕事着の技師らしい男に行逢(ゆきあ)うと、喬介は早速(さっそく)その男を捕(とら)えて切り出した。
『少しお訊(たず)ねしますがね。この造船所の構内で、茲(ここ)一両日の間に、誰(だ)れか誤って機械油をぶちまけて了(しま)った、と言う様な事はなかったでしょうか? ほんの一寸(ちょっと)した事でいいんですが――』
 喬介の突拍子もない細かな質問を受けて、若い技師はいささか面喰(めんくら)った様子を見せたが、間もなく私達の眼の前の船渠(ドック)を指差しながら口を切った。
『その二号船渠(ドック)で、昨日油差しを引っくりかえした様でした。何(な)んでしたら御案内しましょう。』
 技師はそう言って、私達を連れて歩き出した。間もなく私達は、その大きな空の乾船渠(ドライ・ドック)の底へ梯子伝いに降り立った。技師は、海水を堰塞(えんそく)している船渠(ドック)門の扉船(とせん)から五六間(けん)隔(へだた)った位置にやって来ると、コンクリートの渠底(きょてい)の一部を指差しながら私達を振り返った。
『こ奴(いつ)なんですがね。――』
 成る程其処(そこ)には、三尺四方位(くら)いの機械油の溜(たま)りが、一度水に浸されたらしく半(なか)ばぼやけて残っている。その溜りの中央が、丁度(ちょうど)被害者の背中でこすり取られたらしく、白っぽいコンクリートの床を見せて、溜りを左右二つに割っている。
『誰がこぼしたんです?』
『水夫です。五日前の朝から昨晩まで修繕の為(た)めに入渠(にゅうきょ)していた帝国郵船の貨物船(カーゴ・ボート)で、天祥丸(てんしょうまる)と言う船のセーラーです。推進機(スクリュー)の油差しに出掛けて誤ってこぼしたらしいです。』
『ああそうですか――』
 こう言って喬介は、何か失望したらしく首をうなだれて欝(ふさ)ぎ込んで了(しま)ったが、軈(やが)て何思ったか元気で顔を挙(あ)げると、
『その天祥丸と言う汽船(ふね)は、何処(どこ)からやって来たんです?』
『神戸出帆(しゅっぱん)です。』技師が答えた。
『神戸――? で、寄港地は?』
『四日市だけです。』
『エッ! 四日市? そうだ。』
 喬介は思わず叫び声を挙げると、何(な)にか思い出した様にポケットの中へ手を突込(つきこ)んで、先程の広告マッチを取り出し、ハンカチで穢(よご)れを拭(ぬぐ)って一寸(ちょっと)の間(ま)レッテルに見入っていたが、間もなく元気で話を続けた。
『で、その天祥丸って言う船は、今何処(どこ)にいるんですか?』
『今は芝浦に碇泊(ていはく)しています。何(な)んでも荷物の積込みが遅れたとかって船主(キーパー)の督促で、昨晩日が暮れてから修繕が終ると、その儘(まま)大急ぎで小蒸汽(こじょうき)に曳航(えいこう)されて出渠(しゅっきょ)しました。そうですねえ、今日の正午だそうですから、もう四時間もすると出帆です。』
『有難う。で、その船は五日前の朝入渠(にゅうきょ)したと言いましたね? すると、あの被害者が行方不明になった、つまり殺された日の朝ですね?』
『ええそうです。』
『じゃあ構内の宿泊所には、その晩天祥丸の船員が泊っていた訳ですね? つまり、夜業はなくても、この造船所の構内には、その晩天祥丸の船員がいたんですね?』
『ええ。まあ、少々はですな。』
『と言うと?』
『詰(つま)り、八〇パーセントは淫売婦(おんな)の処(ところ)――という意味です。』
『好(よ)く判(わか)りました。で、その日天祥丸以外に入渠船(にゅうきょせん)がありましたか?』
『なかったです。』
『有難う。』
 技師は喬介との会話が終ると、一号船渠(ドック)に入渠船(にゅうきょせん)があるからと言って、向うの船渠(ドック)の方へ出掛けて行った。そこで私も喬介に誘われて、面白半分に技師の後に従った。
 一号船渠(ドック)の渠門(きょもん)の前には、千トン位いの貨物船(カーゴ・ボート)が、小蒸汽(こじょうき)に曳航されて待っていた。私達が着くと間もなく、扉船(とせん)の上部海水注入孔のバルブが開いて、真ッ白に泡立った海水が、恐(おそろ)しい唸(うなり)を立てて船渠(ドック)の中へ迸出(ほんしゅつ)し始めた。次(つ)いで径二尺五寸程の大きな下部注水孔のバルブも開いて、吸い込まれて面喰(めんくら)った魚を渠底(きょてい)のコンクリートへ叩き付け始めた。その小気味良い景色にうっとり見惚(みと)れていた私の肩を、喬介が軽く叩いた。
『君。船の入渠(にゅうきょ)する所でも見ながら暫く待っていて呉(く)れ給(たま)えね。僕はこれから、ちょいと犯人を捕(とら)えて来る――』
 喬介はそう言い残した儘(まま)、呆気に取られている私を見返りもせずプイと構内を飛び出して了(しま)った。仕方がないので私は、船渠(ドック)の開閉作業を見物しながら喬介の帰りを待つ事にした。
 一時間して船渠(ドック)が満水になっても、喬介はまだ帰らない。扉船(とせん)内の海水が排除されて、その巨大な鋼鉄製の扉船が渠門(きょもん)の水上へポッカリ浮び挙(あが)っても、それからその浮び挙った扉船を小船に曳(ひ)かして前方の海上へ運び去り、小蒸汽(こじょうき)に曳航された入渠船が、渦巻きの静まり切らぬ船渠(ドック)内へ引っ張り込まれても、喬介はまだ来ない。渠門に再び扉船がはめ込まれて、外海と劃別(かくべつ)された船渠(ドック)内の海水が、ポンプに依(よ)って排除され始めた頃に、やっと表門の方から一台の自動車が這入(はい)って来た。喬介かと思ったら警視庁の車である。さて、事件が大分(だいぶ)複雑化して来たなと一人で決め込んだ私の眼の前へ、車の扉(ドア)を排(はい)して元気よく飛び出した男は、ナント吾(わ)が親友青山喬介だ。驚いた私の前へ、続いて現れたのは、ガッチリ捕縄(ほじょう)を掛けられた、船員らしい色の黒い何処(どこ)となく凄味のある慓悍(ひょうかん)な青年だ。二人の警官に護(まも)られている。
 喬介に伴(ともな)われた一行が、二号船渠(ドック)の海に面した岸壁の辺(あた)りまで来た時に、どきまぎ[#「どきまぎ」はママ]しながら彼等について行った私に向って、初めて喬介が口を切った。
『君。天祥丸の水夫長、そして殺人犯人矢島五郎君を紹介するよ。』
 喬介はそう言って、捕縄を掛けられたセーラーを私に引合(ひきあわ)した。私は、まだ犯人を山田源之助だと思っていたので、と言うよりも私は、ナイフに彫(ほ)り込まれた頭文字(イニシャル)に依(よ)って私の作り上げた推理を、まだ意地悪く信じていたかったので、矢島五郎――と聞いた時に、いささか昂奮(こうふん)して了(しま)った。が、間もなく喬介は縛られた男を私達から遠去(とおざ)けて、喋り始めた。
『先程技師の人から、天祥丸が四日市へ寄港したと聞いた時に、僕はふとあの広告マッチの関東煮としてある方ではなく、その裏側のレッテルに、ヨの字を冒頭にした幾つかの片仮名が、ゴテゴテ小いさく並んでいたのを思い出したんだ。で、早速取り出して穢(よご)れを拭って見たのさ――』と喬介は先程のマッチを私の眼の前へ差し出しながら『見給え。「勘八」と言う店名の下に、小さく「ヨッカイチ会館隣り」としてあるだろう?』
『うむ。』
 私は大きく頷(うなず)いた。
『で、天祥丸の乗組員でこのマッチを持った男と、行方不明になった二人の男とが、あの晩旋盤工場の裏の鉄屑の捨場で行(ゆ)き逢(あ)った、と言う風(ふう)に僕は推理を進めた。ところで、いいかい君。山田源之助は、中気で、而(しか)も右腕に怪我をしていた筈(はず)だ。その源之助が、あれ丈(だ)け鮮(あざやか)に喜三郎の心臓を突き刺す事が出来ると思うかい? 一寸(ちょっと)六ヶ敷(し)い話だ。そこで僕は、先程此処(ここ)を出ると早速(さっそく)山田源之助の遺族を訪ねて、源之助が右利きであった事を確(たしか)めて見た。ところが其処(そこ)で一層都合の良い事には、喜三郎と源之助の二人は、三年前(ぜん)まで、どうだい君、天祥丸の水夫をしていたんだぜ。そこで僕は充分の自信を持って芝浦まで出掛け、予定の行動を取ったんさ。外でもない。まだ出帆前の天祥丸の船長に逢って、頭文字(イニシャル)の配列がG・Yとなる男が乗組員の中に何人あるか調べて貰った。すると事務長の八木稔と言うのと、この水夫長の矢島五郎君の二人だ。ところが、事務長の八木稔の方はもう五十近い親爺(おやじ)だ。それに引き換えて水夫長の矢島五郎君は、船長も驚いている程の凄腕なんだが、年はまだ二十九歳の所謂(いわゆる)例の「若僧」と言われた部類に属しとる。で、僕は早速(さっそく)矢島君にこっそりと面会して、あのジャックナイフを買い取って呉(く)れんかとワタリ[#「ワタリ」は底本では「ワタリ」]を付けて見たんさ。すると、ナイフを見た矢島君は、途端にダアとなって震えながら百圓札を一枚気張って呉(く)れたよ。で、僕は札を受取る代(かわ)りに、矢島君に捕縄(ほじょう)を掛けさして貰ったんさ。先生、多少は駄々を捏(こ)ねたがね。なに、大した事はなかったよ。』
 喬介はそう言って、笑いながら右腕の袖口(カフス)をまくし挙(あ)げて見せた。手首の奥に白い繃帯(ほうたい)、赤い血を薄く滲(にじ)ませて巻かれてあった。
『じゃあ一体、山田源之助はどうなったと言うんだい?』
 ごっくりと唾(つば)を飲み込みながら私が訊(たず)ねた。[#底本ではこの行1字下げしていない]
『さあ、それなんだがね――』
 喬介は振り返って、遠去(とおざ)けてあった矢島五郎の側まで歩(あゆ)み寄(よ)ると、傍(かたえ)の警官には眼も呉(く)れず、こう声を掛けた。
『矢島君。さあひとつ、潔(いさぎよ)く言って呉(く)れ給え。山田源之助の屍体を運んで行って、この海の中のどの辺へ沈めたのかって事をだね。多分原田喜三郎と同じ場所なんだろう?』
『…………』
 矢島は黙って喬介を睨(にら)み付けていた。
『君、言えないのかね。え? じゃあ仕方がない。僕がその場所を知らしてあげよう。』
 喬介は涼しい顔をして一号船渠(ドック)の方へ飛んで行(ゆ)くと、間もなく、今入渠船(にゅうきょせん)の据付(すえつけ)作業を終ったばかりの潜水夫(もぐり)を一人連れて来た。
 潜水夫(もぐり)は私達の立っている近くの岸壁まで来て、暫く何か喬介から指図(さしず)を受けていたが、軈(やが)て二人の職工を呼び寄せると、気管(ホース)やポンプの仕度(したく)を手伝わせ、間もなく岸壁に梯子を下げて、直(す)ぐ眼の前の海の中へ這入(はい)って行った。十分程すると、私達の立っている処(ところ)より少しく左に寄(よ)って、第二号船渠(ドック)の扉船(とせん)から三米(メートル)程隔(へだた)った海上へ、夥(おびただ)しい泡が真黒(まっくろ)な泥水と一緒に浮び上って来た。
 この時、私達の耳元で、恐しい野獣の様な唸(うな)り声が聞えた。振り向くと、矢島五郎が、鼻の頭をびっしょりと汗で濡らし、真っ青(さお)になりながら唇を噛み締めて地団駄(じたんだ)[#ルビの「じたんだ」はママ]踏んでいる。喬介は微笑(ほほえ)みながら再び海上へ眼を遣(や)った。五分程すると、梯子の下へ潜水夫(もぐり)が戻って来た。見ると、原田喜三郎と同じ様に、両腕を後手に縛りあげられた屍体を、背中に背負っている。
『あッ! 源さんだ。』
 今までポンプを押していた職工の一人が、突飛(とっぴ)もない声で叫んだ。矢島は、ガックリと顔を伏せてその場へ坐り込んで了(しま)った。
 源之助の屍体には、喜三郎の屍体に見られた様な打撲傷や擦(かす)り傷はなかった。只(ただ)、心臓の上に、同じ様な刺傷があるだけだ。
『古い鉄の歯車の大きな奴を重(おもし)にしてありましたよ。迚(とて)も持って来れませんので、途中で綱を切って了(しま)ったんです。そう言えば、もう一本中途でむしり取った様に切れた綱が重(おもし)に着いていましたが、あれに喜三郎さんの屍体が縛り付けてあったんでしょうなあ――』
 仕事を終った潜水夫(もぐり)は、そう言って大きく息を吸い込だ。
 喬介は、矢島の肩に手を掛けながら、
『君。もう一つ訊くがね。工場の裏で二人に逢った時に、何故話を丸くしないでこんな酷(むご)い事をして了(しま)ったのかね?』
 喬介の質問に、キッと顔を挙(あ)げて矢島は、自棄糞(やけくそ)に高い声で喋り出した。
『こうなりゃあ、何も彼(か)もぶちまけちまうよ。三年前まで二人はあっしと一緒に天祥丸に乗り組んでいたんだ。ところが丁度(ちょうど)天祥丸がまだ新品で南支那(みなみしな)へ遠航をやってた時だ。この前の船長で、しこたまこれを持ってた柿沼って野郎を、あっしが暴風(しけ)の晩に海ん中へ叩ッ込んで、ユダみてえに掴み込んでやがった金をすっかりひったくったのを二人が嗅ぎ付けて了(しま)ったんだ。そ奴(いつ)をあの晩ゴタゴタ並べて強請(ゆす)りに来たんだ。だから片付けちまったんだ。只(ただ)、それだけさ。』
『いやどうも、色々有り難う。』
 喬介はそう言って、警官に眼で合図した。
 喬介は、重苦しい冬の海を見詰めながら語り始めた。
『どうして源之助も殺されていると言うことが判ったのかだって? そりゃあ君、前後の事情を考え合せて、殆(ほとん)ど直感的にそう推定したんさ。すると君は、じゃあ何故(なぜ)源之助の屍体の沈められた場所が、あんなに簡単に判ったかって言うだろう。その説明は、山田源之助と一緒に殺された原田喜三郎の屍体が、今朝発見されるまでの行程を一通り説明すれば、それで充分なんだ。つまり、あの鉄工場の裏で突き殺された二つの屍体は、此処(ここ)まで運ばれ、重(おもし)を附けられて海中へ投げ込まれる。丁度(ちょうど)二号船渠(ドック)の扉船(とせん)の直(す)ぐ側だ。それから四日経(たっ)て昨日の晩だ。修繕の終った天祥丸は、K造船工場に暇乞(いとまご)いをして芝浦へ急行しなければならない。そこで出渠(しゅっきょ)の作業が始まる。第二号乾船渠(ドライ・ドック)の扉門(ともん)の注水孔は、バルブを開いて、恐しい勢(いきおい)で海水を船渠(ドック)の中へ吸い込み始める。すると渠門(きょもん)の近くの海中へ重(おもし)を着けられて沈められ、綱の長さでコンブ見たいにふわりふわりしていた屍体はどうなる? 何(な)んの事はない面喰(めんくら)った魚と同じ事だよ。直径二尺五寸の鉄の穴に、傷だらけになりながら恐しい力で吸い込まれ、コンクリートの渠底(きょてい)へ叩き付けられるんだ。丁度(ちょうど)その日天祥丸のセーラーが、誤ってぶちまけたと言う機械油の上を、惰性[#「惰性」は底本では「隋性」]の力で押し流される。軈(やが)て船渠(ドック)が満水になると、渠門(きょもん)は開かれて天祥丸は小蒸汽(こじょうき)で曳(ひ)き出される。浮力の加減で船底(せんてい)にハリツイていた喜三郎の屍体は、その儘(まま)連れ出されて外海(そとうみ)へ漂流する訳だ。勿論(もちろん)、源之助の屍体がそんな眼に逢(あ)わなかったのは、屍体の位置と注水孔との距離の遠近とか、重(おもし)に縛られた綱の長短とかが影響していたに違いないんだ――。』
 喬介は語り終って莨(たばこ)の吸殻を海の中へ投げ込んだ。
『じゃあ一体、二人が矢島を強請(ゆす)ったとか、話を丸く収めなかったのが、つまりこの事件の動機だね。ありゃあ一体どうして判ったのかね?』
 私は最後の質問を発した。
『ハッハッハッハッ――あ奴(いつ)ぁ僕にも、矢島が自白するまでは少しも判らなかったよ。只(ただ)、前後の事情を考えて見て、何故(なぜ)話を丸くしなかったのか――なんてカマを掛けて見た丈(だ)けなんだ。』




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