デパートの絞刑吏
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著者名:大阪圭吉 

「私は先ず、第一に、犯人は宿直員以外の強力な男である事、――この場合戸締りが厳重であった事を考慮に入れて置く――。第二に、犯行は屋上で為(な)された事、――この場合植込みにも鉄柵にもタイル床の上にも、何等の痕跡がないと言う消極的な手掛に留意して置く――。第三に、犯行に使用された唯一の兇器が、屈曲の自由な長い粗雑な表面を持った物体、端的に綱様の物である事。第四に、犯罪の動機が決定的でない事等の基礎知識の把握に成功しました。そこで私はこれらの材料をスタートとし、極めて厳格な批判の元で、出来得る限り自由な想像力を働かせ、新しい綜合的な推理に踏み出しました。間もなく私は、このバルーンのロープを兇器とする、未だ多分に粗雑ではあるが或る一つの推定に到達しました。そしてその粗雑さを克服するためにこのバルコニーへやって来て、私の概念的な粗雑な断案を、加工し整理すべき新しい材料の拾収を始めました」
 ここで喬介は、一寸言葉を切って、改めて広告気球(バルーン)を振り仰ぎながら、一段と声を高めて話し始めました。
「つまり、一昨日(おととい)の晩営業中に、二つの首飾を盗んだ野口達市君は、当然行わるべき身体検査や建物中の厳しい捜索を予期して、最も安全な場所へ、即ちバルーンの内底部へその首飾を隠して置いたのです。勿論君は」と、係の男を見ながら、「夜間にバルーンの番をしてはいないでしょうね? 宜(よろ)しい。そして昨晩、多分隠した首飾が気に懸ったのでしょう、宿直当番になった被害者は、就寝前の十時頃、バルーンの様子を見るために屋上へ登ったのです。其処で彼は、穴の明いたバルーンが、浮力の減少したためにフニャフニャと降りて来そうなのを発見して非常に驚き、急いで力任せにロープを手繰(たぐ)りバルーンを降し始めました。浮力が減少したとは言え、瓦斯(ガス)が充満してさえいれば600瓩(キロ)の浮力を持つバルーンです。被害者は掌中に幾つもの胼胝(たこ)を作りながら、夢中でバルーンを降してしまいました。そして、瓦斯注入口(ガスゲート)の弁を開き、多分一度は隠した品物の安全を確かめたでしょう、勿論まだ事件のほとぼりが冷め切っていないために、品物を持ち出す危険は避けたのでしょう。それから瓦斯(ガス)のホースをあてがい、水素瓦斯(ガス)の補充を始めます。瓦斯(ガス)が充満するに従って、バルーンの浮力は増大します。この場合、被害者は重大な過失を犯しています。即ち、最初バルーンを降す時に驚きの余り急いだため捲取機(ローラー)を使用せずに直接手で手繰(たぐ)り降してしまった事です。この推定に対しての反証は、今朝急いでグローブなしでハンドルを掴んだこの係の方の指紋以外に、被害者の指紋が検出されない限り無力です。従って、瓦斯注入口(ガスゲート)の金具又はロープを手で押さえながら瓦斯(ガス)の補充を行っていた被害者は、瓦斯(ガス)が充満されバルーンの浮力が増大するに従って、初めて捲取機(ローラー)を使用しなかった過失に気附いたのです。多分非常に驚いた彼は、急いでロープを捲取機(ローラー)の何処かへ引っ掛けて、バルーンの上昇を牽制(けんせい)しようとあせった事でしょう。が、浮力の増したバルーンは、瓦斯(ガス)のホースを投げ離し、弁を開けっぱなしたまま容赦なく上昇を始めます。被害者は夢中でその上昇を牽制する。自分の体を引き揚げられない様に注意しながら、ロープを握った両手に力を加える。が、太い粗雑なそのロープはいたずらに彼の掌中に無数の擦過傷を残したまま、どんどん延び揚(あが)って行きます。切り抜きの広告文字(サイン)ももう飛び揚ってしまった頃、前に被害者の犯した過失が、ここで恐るべき結果を齎(もた)らします。即ち、被害者の足元に手繰り取られ、蜷局(とぐろ)を巻いていたロープが、大騒ぎをしている被害者の体へ、自然と絡み附いたのです。勿論、彼は夢中で格闘を続けます。が、ロープは彼の体の所々、例えば肩、下顎部、肘等の露出個所に無数の軽い擦過傷を与え、寝巻の一、二個所を引き裂いて、更に頸部と胸部に絡み附きます。動きの取れなくなった被害者の体は、そのまま天空(そら)へ引っ張り揚げられます。バルーンが惰性的に上昇し切ってロープが強く張り切った時に、彼の呼吸は止まり、肋骨は折れ、頸部の皮膚は擦り破れて出血する。野口達市君は、文字通り天国へ登ったのです。さて――」
 喬介は、先程私の渡したノートに眼を遣(や)り、
「午前零時から二時半までに、東京地方を通過している753粍(ミリ)の低気圧と西南の強風は、バルーンを垂直上昇線から東北方へ押し出します。穴の明いていたバルーンは、低気圧の通過と相俟(あいま)って、ようやくその浮力を減じ、ロープの緊張は弛(ゆる)んで被害者の屍体は振り墜されます。デパートの屋上へではないのですよ。デパートの東北の露路(ろじ)のアスファルトの上へです。屍体が振り墜された時の震動に依って、気嚢の内底部に押し込んであった首飾の一つが、弁を開けっぱなされたままの瓦斯注入口(ガスゲート)から、死人の後を追います。最後に、勿論御承知のこととは思いますが、絞死による屍体の血液は比較的長時間に亙(わた)って流動状態にあるものですから、死後数時間を経てロープから振り落された屍体といえども、破壊された頭部の傷口からアスファルトの上へ、生々しく出血します――」
 言いおわって喬介は改めて空を振り仰いだ。
 九月の美しい青空の中に、くっきりと浮び上った夢の様な広告気球(バルーン)は、この奇妙なデパートの絞刑吏は、折からの微風に下腹を小さく震わせながら、ふわりふわりと漂っていた。




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