海潮音
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著者名:上田敏 

仰ぎて眼(まなこ)閉ぢ給へ、いざくちづけむ君が面、水枝(みづえ)小枝(こえだ)にみちわたる「春」をまなびて、わが恋よ、温かき喉(のど)、熱き口、ふれさせたまへ、けふこそは、契(ちぎり)もかたきみやづかへ、恋の日なれや。冷かにつめたき人は永久(とこしへ)のやらはれ人と貶(おと)し憎まむ。 心も空に    ダンテ・アリギエリ心も空に奪はれて物のあはれをしる人よ、今わが述ぶる言の葉の君の傍(かたへ)に近づかば心に思ひ給ふこと応(いら)へ給ひね、洩れなくと、綾(あや)に畏(かし)こき大御神(おほみかみ)「愛」の御名(みな)もて告げまつる。さても星影きらゝかに、更(ふ)け行く夜(よる)も三つ一つほとほと過ぎし折しもあれ、忽ち四方(よも)は照渡り、「愛」の御姿(みすがた)うつそ身に現はれいでし不思議さよ。おしはかるだに、その性(さが)の恐しときく荒神(あらがみ)も御気色(みけしき)いとゞ麗はしく在(いま)すが如くおもほえて、御手(みて)にはわれが心(しん)の臓(ぞう)、御腕(おんかひな)には貴(あて)やかにあえかの君の寝姿(ねすがた)を、衣(きぬ)うちかけて、かい抱(いだ)き、やをら動かし、交睫(まどろみ)の醒(さ)めたるほどに心(しん)の臓(ぞう)、さゝげ進むれば、かの君も恐る恐るに聞(きこ)しけり。「愛」は乃(すなは)ち馳(は)せ去(さ)りつ、馳せ走りながら打泣きぬ。 鷺(さぎ)の歌     エミイル・ヴェルハアレンほのぐらき黄(こ)金隠沼(がねこもりぬ)、骨蓬(かうほね)の白くさけるに、静かなる鷺の羽風は徐(おもむろ)に影を落しぬ。水の面(おも)に影は漂(ただよ)ひ、広ごりて、ころもに似たり。天(あめ)なるや、鳥の通路(かよひぢ)、羽ばたきの音もたえだえ。漁子(すなどり)のいと賢(さか)しらに清らなる網をうてども、空翔(そらか)ける奇(く)しき翼のおとなひをゆめだにしらず。また知らず日に夜(よ)をつぎて溝(みぞ)のうち泥土(どろつち)の底鬱憂の網に待つもの久方(ひさかた)の光に飛ぶを。ボドレエルにほのめきヴェルレエヌに現はれたる詩風はここに至りて、終(つひ)に象徴詩の新体を成したり。この「鷺の歌」以下、「嗟嘆(さたん)」に至るまでの詩は多少皆象徴詩の風格を具(そな)ふ。訳者 法(のり)の夕(ゆふべ)     エミイル・ヴェルハアレン夕日の国は野も山も、その「平安」や「寂寥(せきりよう)」の黝(ねずみ)の色の毛布(けぬの)もて掩(おほ)へる如く、物寂(さ)びぬ。万物凡(なべ)て整(ととの)ふり、折りめ正しく、ぬめらかに、物の象(かたち)も筋めよく、ビザンチン絵(ゑ)の式(かた)の如(ごと)。時雨(しぐれ)村雨(むらさめ)、中空(なかぞら)を雨の矢数(やかず)につんざきぬ。見よ、一天は紺青(こんじよう)の伽藍(がらん)の廊(ろう)の色にして、今こそ時は西山(せいざん)に入日傾く夕まぐれ、日の金色(こんじき)に烏羽玉(うばたま)の夜(よる)の白銀(しろがね)まじるらむ。めぢの界(さかひ)に物も無し、唯遠長(とほなが)き並木路、路に沿ひたる樫(かし)の樹(き)は、巨人の列(つら)の佇立(たたずまひ)、疎(まば)らに生(お)ふる箒木(ははきぎ)や、新墾小田(にひばりをだ)の末かけて、鋤(すき)休めたる野(の)らまでも領(りよう)ずる顔の姿かな。木立(こだち)を見れば沙門等(しやもんら)が野辺(のべ)の送(おくり)の営(いとなみ)に、夕暮がたの悲を心に痛み歩むごと、また古(いにしへ)の六部等(ろくぶら)が後世(ごせ)安楽の願かけて、霊場詣(りようじようまうで)、杖重く、番(ばん)の御寺(みてら)を訪ひしごと。赤々として暮れかゝる入日の影は牡丹花(ぼたんか)の眠れる如くうつろひて、河添馬道(かはぞひめどう)開けたり。噫(ああ)、冬枯や、法師めくかの行列を見てあれば、たとしへもなく静かなる夕(ゆふべ)の空に二列(ふたならび)、瑠璃(るり)の御空(みそら)の金砂子(きんすなご)、星輝ける神前に進み近づく夕づとめ、ゆくてを照らす星辰は壇に捧ぐる御明(みあかし)の大燭台(だいそくだい)の心(しん)にして、火こそみえけれ、其棹(さを)の閻浮提金(えんぶだごん)ぞ隠れたる。 水かひば    エミイル・ヴェルハアレンほらあなめきし落窪(おちくぼ)の、夢も曇るか、こもり沼(ぬ)は、腹しめすまで浸りたるまだら牡牛の水かひ場(ば)。坂くだりゆく牧(まき)がむれ、牛は練(ね)りあし、馬は※(だく)、時しもあれや、落日に嘯(うそぶ)き吼(ほ)ゆる黄牛(あめうし)よ。日のかぐろひの寂寞(じやくまく)や、色も、にほひも、日のかげも、梢(こずゑ)のしづく、夕栄(ゆふばえ)も。靄(もや)は刈穂(かりほ)のはふり衣(ぎぬ)、夕闇とざす路(みち)遠み、牛のうめきや、断末魔。 畏怖(おそれ)      エミイル・ヴェルハアレン北に面(むか)へるわが畏怖(おそれ)の原の上に、牧羊の翁(おきな)、神楽月(かぐらづき)、角(かく)を吹く。物憂き羊小舎(ひつじごや)のかどに、すぐだちて、災殃(まがつび)のごと、死の羊群を誘ふ。きし方(かた)の悔(くい)をもて築きたる此小舎(こや)はかぎりもなき、わが憂愁の邦(くに)に在りて、ゆく水のながれ薄荷莢※(めぐさがまずみ)におほはれ、いざよひの波も重きか、蜘手(くもで)に澱(よど)む。肩に赤十字ある墨染(すみぞめ)の小羊よ、色もの凄き羊群も長棹(ながさを)の鞭に撻(うた)れて帰る、たづたづし、罪のねりあし。疾風(はやて)に歌ふ牧羊の翁、神楽月よ、今、わが頭掠(かしらかす)めし稲妻の光にこの夕(ゆふべ)おどろおどろしきわが命かな。 火宅      エミイル・ヴェルハアレン嗚呼(ああ)、爛壊(らんえ)せる黄金(おうごん)の毒に中(あた)りし大都会、石は叫び烟(けむり)舞ひのぼり、驕慢の円葢(まるやね)よ、塔よ、直立(すぐだち)の石柱(せきちゆう)よ、虚空は震ひ、労役のたぎち沸(わ)くを、好むや、汝(なれ)、この大畏怖(だいいふ)を、叫喚を、あはれ旅人(たびうど)、悲みて夢うつら離(さか)りて行くか、濁世(だくせい)を、つゝむ火焔の帯の停車場。中空(なかぞら)の山けたゝまし跳り過ぐる火輪(かりん)の響。なが胸を焦す早鐘(はやがね)、陰々と、とよもす音(おと)も、この夕(ゆふべ)、都会に打ちぬ。炎上の焔、赤々、千万の火粉(ひのこ)の光、うちつけに面(おもて)を照らし、声黒(こわぐろ)きわめき、さけびは、妄執の心の矢声(やごゑ)。満身すべて涜聖(とくせい)の言葉に捩(ねぢ)れ、意志あへなくも狂瀾にのまれをはんぬ。実(げ)に自らを矜(ほこ)りつゝ、将(はた)、咀(のろ)ひぬる、あはれ、人の世。 時鐘(とけい)      エミイル・ヴェルハアレン館(やかた)の闇の静かなる夜(よる)にもなれば訝(いぶか)しや、廊下のあなた、かたことゝ、※杖(かせづゑ)のおと、杖の音(おと)、「時」の階(はしご)のあがりおり、小股(こまた)に刻(きざ)む音(おと)なひは           これや時鐘(とけい)の忍足(しのびあし)。硝子(がらす)の葢(ふた)の後(うしろ)には、白鑞(しろめ)の面(おもて)飾なく、花形模様色褪(さ)めて、時の数字もさらぼひぬ。人の気絶(けた)えし渡殿(わたどの)の影ほのぐらき朧月(ろうげつ)よ、           これや時鐘(とけい)の眼の光。うち沈みたるねび声に機(しかけ)のおもり、音(おと)ひねて、槌(つち)に鑢(やすり)の音(ね)もかすれ、言葉悲しき木(き)の函(はこ)よ、細身(ほそみ)の秒の指のおと、片言(かたこと)まじりおぼつかな、           これや時鐘(とけい)の針の声。角(かく)なる函(はこ)は樫(かし)づくり、焦茶(こげちや)の色の框(わく)はめて、冷たき壁に封じたる棺(ひつぎ)のなかに隠れすむ「時」の老骨(ろうこつ)、きしきしと、数噛(かずか)む音(おと)の歯(は)ぎしりや、           これぞ時鐘(とけい)の恐ろしさ。げに時鐘(とけい)こそ不思議なれ。あるは、木履(きぐつ)を曳(ひ)き悩み、あるは徒跣(はだし)に音(ね)を窃(ぬす)み、忠々(まめまめ)しくも、いそしみて、古く仕ふるはした女(め)か。柱時鐘(はしらどけい)を見詰(みつ)むれば、針(はり)のコムパス、身(み)の搾木(しめぎ)。 黄昏(たそがれ)      ジォルジュ・ロオデンバッハ夕暮がたの蕭(しめ)やかさ、燈火(あかり)無き室(ま)の蕭(しめ)やかさ。かはたれ刻(どき)は蕭やかに、物静かなる死の如く、朧々(おぼろおぼろ)の物影のやをら浸み入り広ごるに、まづ天井の薄明(うすあかり)、光は消えて日も暮れぬ。物静かなる死の如く、微笑(ほほゑみ)作るかはたれに、曇れる鏡よく見れば、別(わかれ)の手振(てぶり)うれたくもわが俤(おもかげ)は蕭(しめ)やかに辷(すべ)り失(う)せなむ気色(けはひ)にて、影薄れゆき、色蒼(いろあを)み、絶えなむとして消(け)つべきか。壁に掲(か)けたる油画(あぶらゑ)に、あるは朧(おぼろ)に色褪(さ)めし、框(わく)をはめたる追憶(おもひで)の、そこはかとなく留まれる人の記憶の図(づ)の上に心の国の山水(さんすい)や、筆にゑがける風景の黒き雪かと降り積る。夕暮がたの蕭(しめ)やかさ。あまりに物のねびたれば、沈める音(おと)の絃(いと)の器(き)に、※(かせ)をかけたる思にて、無言(むごん)を辿(たど)る恋(こひ)なかの深き二人(ふたり)の眼差(まなざし)も、花毛氈(もうせん)の唐草(からくさ)に絡(から)みて縒(よ)るゝ夢心地(ゆめごこち)。いと徐(おもむ)ろに日の光陰(ひかりかぐ)ろひてゆく蕭(しめ)やかさ。文目(あやめ)もおぼろ、蕭やかに、噫(ああ)、蕭やかに、つくねんと、沈黙(しじま)の郷(さと)の偶座(むかひゐ)は一つの香(こう)にふた色の匂交(にほひまじ)れる思にて、心は一つ、えこそ語らね。 銘文(しるしぶみ)      アンリ・ドゥ・レニエ夕まぐれ、森の小路(こみち)の四辻(よつつじ)に夕まぐれ、風のもなかの逍遙(しようよう)に、竈(かまど)の灰や、歳月(さいげつ)に倦(う)み労(つか)れ来て、定業(じようごう)のわが行末もしらま弓、杖と佇(たたず)む。路(みち)のゆくてに「日」は多し、今更ながら、行きてむか。ゆふべゆふべの旅枕、水こえ、山こえ、夢こえて、つひのやどりはいづかたぞ。そは玄妙の、静寧(せいねい)の「死」の大神(おほかみ)が、わがまなこ、閉ぢ給ふ国、黄金(おうごん)の、浦安の妙(たへ)なる封(ふう)に。高樫(たかがし)の寂寥(せきりよう)の森の小路よ。岩角に懈怠(けたい)よろぼひ、きり石に足弱(あしよわ)悩み、歩む毎(ごと)、きしかたの血潮流れて、木枯(こがらし)の颯々(さつさつ)たりや、高樫(たかがし)に。噫(ああ)、われ倦(う)みぬ。赤楊(はんのき)の落葉(らくよう)の森の小路よ。道行く人は木葉(このは)なす、蒼ざめがほの耻(はぢ)のおも、ぬかりみ迷ひ、群れゆけど、かたみに避けて、よそみがち。泥濘(ぬかりみ)の、したゝりの森の小路よ、憂愁(ゆうしゆう)を風は葉並に囁きぬ。しろがねの、月代(つきしろ)の霜さゆる隠沼(こもりぬ)はたそがれに、この道のはてに澱(よど)みてげにこゝは「鬱憂」の鬼が栖(す)む国。秦皮(とねりこ)の、真砂(まさご)、いさごの、森の小路よ、微風(そよかぜ)も足音たてず、梢(こずゑ)より梢にわたり、山蜜(やまみつ)の色よき花は金色(こんじき)の砂子(すなご)の光、おのづから曲れる路は人さらになぞへを知らず、このさきの都のまちはまれびとを迎ふときゝぬ。いざ足をそこに止めむか。あなくやし、われはえゆかじ。他の生(しよう)の途(みち)のかたはら、「物影」の亡骸(なきがら)守るわが「願(がん)」の通夜(つや)を思へば。高樫(たかがし)の路われはゆかじな、秦皮(とねりこ)や、赤楊(はんのき)の路(みち)、日のかたや、都のかたや、水のかた、なべてゆかじな。噫(ああ)、小路(こみち)、血やにじむわが足のおと、死したりと思ひしそれも、あはれなり、もどり来たるか、地響(じひびき)のわれにさきだつ。噫、小路、安逸の、醜辱(しゆうじよく)の、驕慢の森の小路よ、あだなりしわが世の友か、吹風(ふくかぜ)は、高樫(たかがし)の木下蔭(このしたかげ)に声はさやさや、涙(なみだ)さめざめ。あな、あはれ、きのふゆゑ、夕暮悲し、あな、あはれ、あすゆゑに、夕暮苦し、あな、あはれ、身のゆゑに、夕暮重し。 愛の教     アンリ・ドゥ・レニエいづれは「夜(よる)」に入る人のをさな心も青春も、今はた過ぎしけふの日や、従容(しようよう)として、ひとりきく、「冬篳篥(ふゆひちりき)」にさきだちて、「秋」に響かふ「夏笛」を。(現世(げんぜ)にしては、ひとつなり、物のあはれも、さいはひも。)あゝ、聞け、楽(がく)のやむひまを「長月姫(ながづきひめ)」と「葉月姫(はづきひめ)」、なが「憂愁」と「歓楽」と語らふ声の蕭(しめ)やかさ。(熟しうみたるくだものゝつはりて枝や撓(たわ)むらむ。)あはれ、微風(そよかぜ)、さやさやと伊吹(いぶき)のすゑは木枯(こがらし)を誘ふと知れば、憂(う)かれども、けふ木枯(こがらし)もそよ風も口ふれあひて、熟睡(うまい)せり。森蔭はまだ夏緑(なつみどり)、夕まぐれ、空より落ちて、笛の音(ね)は山鳩よばひ、「夏」の歌「秋」を揺(そそ)りぬ。曙(あけぼの)の美しからば、その昼は晴れわたるべく、心だに優しくあらば、身の夜(よる)も楽しかるらむ。ほゝゑみは口のさうび花(か)、もつれ髪(がみ)、髷(わげ)にゆふべく、真清水(ましみづ)やいつも澄みたる。あゝ人よ、「愛」を命の法(のり)とせば、星や照らさむ、なが足を、いづれは「夜(よる)」に入らむ時。 花冠      アンリ・ドゥ・レニエ途(みち)のつかれに項垂(うなだ)れて、黙然(もくぜん)たりや、おもかげのあらはれ浮ぶわが「想(おもひ)」。命の朝のかしまだち、世路(せいろ)にほこるいきほひも、今、たそがれのおとろへを透(すか)しみすれば、わなゝきて、顔背(そむ)くるぞ、あはれなる。思ひかねつゝ、またみるに、避けて、よそみて、うなだるゝ、あら、なつかしのわが「想」。げにこそ思へ、「時」の山、山越えいでて、さすかたや、「命」の里に、もとほりしなが足音もきのふかな。さて、いかにせし、盃に水やみちたる。としごろの願(がん)の泉はとめたるか。あな空手(むなで)、唇乾(かわ)き、とこしへの渇(かつ)に苦(にが)めるいと冷(ひ)やき笑(ゑみ)を湛(たた)へて、ゆびさせる其足もとに、玉(たま)の屑(くづ)、埴土(はに)のかたわれ。つぎなる汝(なれ)はいかにせし、こはすさまじき姿かな。そのかみの臈(ろう)たき風情(ふぜい)、嫋竹(なよたけ)の、あえかのなれも、鈍(おぞ)なりや、宴(うたげ)のくづれ、みだれ髪(がみ)、肉(しし)おきたるみ、酒の香(か)に、衣(きぬ)もなよびて、蹈(ふ)む足も酔ひさまだれぬ。あな忌々(ゆゆ)し、とく去(い)ねよ、さて、また次のなれが面(おも)、みれば麗容(れいよう)うつろひて、悲(かなしみ)、削(そ)ぎしやつれがほ、指組み絞り胸隠す双(そう)の手振(てぶり)の怪しきは、饐(す)ゑたる血にぞ、怨恨(えんこん)の毒ながすなるくち蝮(ばみ)を掩(おほ)はむためのすさびかな。また「驕慢」に音(おと)づれしなが獲物をと、うらどふに、えび染(ぞめ)のきぬは、やれさけ、笏(しやく)の牙(げ)も、ゆがみたわめり。又、なにものぞ、ほてりたるもろ手ひろげて「楽欲(ぎようよく)」にらうがはしくも走りしは。酔狂の抱擁酷(だきしめむご)く唇を噛み破られて、満面に爪(つま)あとたちぬ。興(きよう)ざめたりな、このくるひ、われを棄(す)つるか、わが「想」あはれ、耻(はづ)かし、このみざま、なれみづからをいかにする。しかはあれども、そがなかに、行(おこなひ)清きたゞひとり、きぬもけがれと、はだか身に、出でゆきしより、けふまでも、あだし「想」の姉妹(おとどひ)と道異(みちこと)なるか、かへり来(こ)ぬ――あゝ行(ゆ)かばやな――汝(な)がもとに。法苑林(ほうおんりん)の奥深く素足の「愛」の玉容(ぎよくよう)になれは、ゐよりて、睦(むつ)みつゝ、霊華(りようげ)の房(ふさ)を摘みあひて、うけつ、あたへつ、とりかはし双(そう)の額(ひたひ)をこもごもに、飾るや、一(いつ)の花の冠(かんむり)。ホセ・マリヤ・デ・エレディヤは金工の如くアンリ・ドゥ・レニエは織人の如し。また、譬喩(ひゆ)を珠玉に求めむか、彼には青玉黄玉の光輝あり、これには乳光柔き蛋白石(たんぱくせき)の影を浮べ、色に曇るを見る可し。訳者 延びあくびせよ   フランシス・ヴィエレ・グリフィン延(の)びあくびせよ、傍(かたはら)に「命」は倦(う)みぬ、――朝明(あさけ)より夕をかけて熟睡(うまい)する  その臈(ろう)たげさ労(つか)らしさ、  ねむり眼(め)のうまし「命」や。起きいでよ、呼ばはりて、過ぎ行く夢は大影(おほかげ)の奥にかくれつ。今にして躊躇(ためらひ)なさば、ゆく末に何の導(しるべ)ぞ。呼ばはりて過ぎ行く夢は去りぬ神秘(くしび)に。いでたちの旅路の糧(かて)を手握(たにぎ)りて、歩(あゆみ)もいとゞ速(はや)まさる愛の一念ましぐらに、急げ、とく行け、呼ばはりて、過ぎ行く夢は、夢は、また帰り来(こ)なくに、進めよ、走(は)せよ、物陰に、畏(おそれ)をなすか、深淵(しんえん)に、あな、急げ……あゝ遅れたり。はしけやし「命」は愛に熟睡(うまい)して、栲綱(たくづぬ)の白腕(しろただむき)になれを巻く。――噫(ああ)遅れたり、呼ばはりて過ぎ行く夢のいましめもあだなりけりな。ゆきずりに、夢は嘲る……さるからに、むしろ「命」に口触れてこれに生(う)ませよ、芸術を。無言(むごん)を祷(いの)るかの夢の教をきかで、無辺(むへん)なる神に憧(あこが)るゝ事なくば、たちかへり、色よき「命」かき抱き、なれが刹那を長久(とは)にせよ。死の憂愁に歓楽に霊妙音(れいみようおん)を生ませなば、なが亡(な)き後(あと)に残りゐて、はた、さゞめかむ、はた、なかむ、うれしの森に、春風や若緑、去年(こぞ)を繰返(あこぎ)の愛のまねぎに。さればぞ歌へ微笑(ほほゑみ)の栄(はえ)の光に。 伴奏      アルベエル・サマン 白銀(しろがね)の筐柳(はこやなぎ)、菩提樹(ぼだいず)や、榛(はん)の樹(き)や…… 水(みづ)の面(おも)に月の落葉(おちば)よ……夕(ゆふべ)の風に櫛(くし)けづる丈長髪(たけなががみ)の匂ふごと、夏の夜(よ)の薫(かをり)なつかし、かげ黒き湖(みづうみ)の上、水薫(かを)る淡海(あはうみ)ひらけ鏡なす波のかゞやき。楫(かぢ)の音(と)もうつらうつらに夢をゆくわが船のあし。船のあし、空をもゆくか、かたちなき水にうかびてならべたるふたつの櫂(かい)は「徒然(つれづれ)」の櫂「無言(しじま)」がい。水の面(おも)の月影なして波の上(うへ)の楫の音(と)なしてわが胸に吐息(といき)ちらばふ。 賦(かぞへうた)       ジァン・モレアス色に賞(め)でにし紅薔薇(こうそうび)、日にけに花は散りはてゝ、唐棣花色(はねずいろ)よき若立(わかだち)も、季(とき)ことごとくしめあへず、そよそよ風の手枕(たまくら)に、はや日数経(ひかずへ)しけふの日や、つれなき北の木枯に、河氷るべきながめかな。噫(ああ)、歓楽よ、今さらに、なじかは、せめて争はむ、知らずや、かゝる雄誥(をたけび)の、世に類(たぐひ)無く烏滸(をこ)なるを、ゆゑだもなくて、徒(いたづら)に痴(し)れたる思、去りもあへず、「悲哀」の琴(きん)の糸の緒(を)を、ゆし按(あん)ずるぞ無益(むやく)なる。        *ゆめ、な語りそ、人の世は悦(よろこび)おほき宴(うたげ)ぞと。そは愚かしきあだ心、はたや卑しき癡(し)れごこち。ことに歎くな、現世(うつしよ)を涯(かぎり)も知らぬ苦界(くがい)よと。益(よう)無き勇(ゆう)の逸気(はやりぎ)は、たゞいち早く悔いぬらむ。春日(はるひ)霞みて、葦蘆(よしあし)のさゞめくが如(ごと)、笑みわたれ。磯浜(いそはま)かけて風騒ぎ波おとなふがごと、泣けよ。一切の快楽(けらく)を尽し、一切の苦患(くげん)に堪へて、豊(とよ)の世(よ)と称(たた)ふるもよし、夢の世と観(かん)ずるもよし。        *死者のみ、ひとり吾に聴く、奥津城処(おくつきどころ)、わが栖家(すみか)。世の終(をふ)るまで、吾はしも己が心のあだがたき。亡恩に栄華は尽きむ、里鴉(さとがらす)畠(はた)をあらさむ、収穫時(とりいれどき)の頼(たのみ)なきも、吾はいそしみて種を播(ま)かむ。ゆめ、自(みづか)らは悲まじ。世の木枯もなにかあらむ。あはれ侮蔑(ぶべつ)や、誹謗(ひぼう)をや、大凶事(おほまがごと)の迫害(せまり)をや。たゞ、詩の神の箜篌(くご)の上、指をふるれば、わが楽(がく)の日毎に清く澄みわたり、霊妙音(れいみようおん)の鳴るが楽しさ。        *長雨空の喪(はて)過ぎて、さすや忽ち薄日影、冠(かむり)の花葉(はなば)ふりおとす栗の林の枝の上に、水のおもてに、遅花(おそばな)の花壇の上に、わが眼にも、照り添ふ匂なつかしき秋の日脚(ひあし)の白みたる。日よ何の意ぞ、夏花(なつはな)のこぼれて散るも惜からじ、はた禁(とど)めえじ、落葉(らくよう)の風のまにまに吹き交(か)ふも。水や曇れ、空も鈍(に)びよ、たゞ悲のわれに在らば、想(おもひ)はこれに養はれ、心はために勇(ゆう)をえむ。        *われは夢む、滄海(そうかい)の天(そら)の色、哀(あはれ)深き入日の影を、わだつみの灘(なだ)は荒れて、風を痛み、甚振(いたぶ)る波を、また思ふ釣船の海人(あま)の子を、巌穴(いはあな)に隠(かぐ)ろふ蟹(かに)を、青眼(せいがん)のネアイラを、グラウコス、プロオティウスを。又思ふ、路の辺(べ)をあさりゆく物乞(ものごひ)の漂浪人(さすらひびと)を、栖(す)み慣れし軒端がもとに、休(いこ)ひゐる賤(しづ)が翁(おきな)を斧(おの)の柄(え)を手握(たにぎ)りもちて、肩かゞむ杣(そま)の工(たくみ)を、げに思ひいづ、鳴神(なるかみ)の都の騒擾(さやぎ)、村肝(むらぎも)の心の痍(きず)を。        *この一切の無益(むやく)なる世の煩累(わづらひ)を振りすてゝ、もの恐ろしく汚れたる都の憂あとにして、終(つひ)に分け入る森蔭の清(すず)しき宿(やどり)求めえなば、光も澄める湖の静けき岸にわれは悟らむ。否(あらず)、寧(むしろ)われはおほわだの波うちぎはに夢みむ。幼年の日を養ひし大揺籃(だいようらん)のわだつみよ、ほだしも波の鴎鳥(かもめどり)、呼びかふ声を耳にして、磯根に近き岩枕(いはまくら)汚れし眼(まなこ)、洗はばや。        *噫(ああ)いち早く襲ひ来る冬の日、なにか恐るべき。春の卯月(うづき)の贈物、われはや、既に尽し果て、秋のみのりのえびかづら葡萄(ぶどう)も摘まず、新麦(にひむぎ)の豊(とよ)の足穂(たりほ)も、他(あだ)し人(びと)、刈(か)り干しにけむ、いつの間(ま)に。        *けふは照日(てるひ)の映々(はえばえ)と青葉高麦(たかむぎ)生ひ茂る大野が上に空高く靡(な)びかひ浮ぶ旗雲(はたぐも)よ。和(な)ぎたる海を白帆あげて、朱(あけ)の曾保船(そほふね)走るごと、変化(へんげ)乏しき青天(あをぞら)をすべりゆくなる白雲よ。時ならずして、汝(なれ)も亦近づく暴風(あれ)の先駆(さきがけ)と、みだれ姿の影黒み蹙(しか)める空を翔(かけ)りゆかむ、嗚咽(ああ)、大空の馳使(はせづかひ)、添はゞや、なれにわが心、心は汝(なれ)に通へども、世の人たえて汲む者もなし。 嗟嘆(といき)      ステファンヌ・マラルメ静かなるわが妹(いもと)、君見れば、想(おもひ)すゞろぐ。朽葉色(くちばいろ)に晩秋(おそあき)の夢深き君が額(ひたひ)に、天人(てんにん)の瞳(ひとみ)なす空色の君がまなこに、憧るゝわが胸は、苔古(こけふ)りし花苑(はなぞの)の奥、淡白(あはじろ)き吹上(ふきあげ)の水のごと、空へ走りぬ。その空は時雨月(しぐれづき)、清らなる色に曇りて、時節(をりふし)のきはみなき鬱憂は池に映(うつ)ろひ落葉(らくよう)の薄黄(うすぎ)なる憂悶(わづらひ)を風の散らせば、いざよひの池水に、いと冷(ひ)やき綾(あや)は乱れて、ながながし梔子(くちなし)の光さす入日たゆたふ。物象を静観して、これが喚起したる幻想の裡(うち)自から心象の飛揚する時は「歌」成る。さきの「高踏派」の詩人は、物の全般を採りてこれを示したり。かるが故に、その詩、幽妙を虧(か)き、人をして宛然(さながら)自から創作する如き享楽無からしむ。それ物象を明示するは詩興四分の三を没却するものなり。読詩の妙は漸々遅々たる推度の裡に存す。暗示は即(すなは)ちこれ幻想に非(あ)らずや。這般(しやはん)幽玄の運用を象徴と名づく。一の心状を示さむが為、徐(おもむろ)に物象を喚起し、或はこれと逆(さかし)まに、一の物象を採りて、闡明(せんめい)数番の後、これより一の心状を脱離せしむる事これなり。ステファンヌ・マラルメ 白楊(はくよう)      テオドル・オオバネル落日の光にもゆる白楊(はくよう)の聳(そび)やぐ並木、谷隈(たにくま)になにか見る、風そよぐ梢より。 故国      テオドル・オオバネル小鳥でさへも巣は恋し、まして青空、わが国よ、うまれの里の波羅葦増雲(パライソウ)。 海のあなたの   テオドル・オオバネル海のあなたの遙けき国へいつも夢路の波枕、波の枕のなくなくぞ、こがれ憧れわたるかな、海のあなたの遙けき国へ。オオバネルは、ミストラル、ルウマニユ等と相結で、十九世紀の前半に近代プロヴァンス語を文芸に用ゐ、南欧の地を風靡(ふうび)したるフェリイブル詩社の翹楚(ぎようそ)なり。「故国」の訳に波羅葦増雲(パライソウ)とあるは、文禄慶長年間、葡萄牙(ポルトガル)語より転じて一時、わが日本語化したる基督教法に所謂(いはゆる)天国の意なり。訳者 解悟(かいご)      アルトゥロ・グラアフ頼み入りし空(あだ)なる幸(さち)の一つだにも、忠心(まごころ)ありて、   とまれるはなし。そをもふと、胸はふたぎぬ、悲にならはぬ胸も   にがき憂(うれひ)に。きしかたの犯(をかし)の罪の一つだにも、懲(こらし)の責(せめ)を   のがれしはなし。そをもふと、胸はひらけぬ、荒屋(あばらや)のあはれの胸も   高き望に。 篠懸(すずかけ)      ガブリエレ・ダンヌンチオ白波(しらなみ)の、潮騒(しほざゐ)のおきつ貝なす青緑(あをみどり)しげれる谿(たに)をまさかりの真昼ぞ知(しろ)す。われは昔の野山の精をまなびて、こゝに宿からむ、あゝ、神寂びし篠懸(すずかけ)よ、なれがにほひの濡髪(ぬれがみ)に。 海光      ガブリエレ・ダンヌンチオ児等(こら)よ、今昼は真盛(まさかり)、日こゝもとに照らしぬ。寂寞大海(じやくまくだいかい)の礼拝(らいはい)して、天津日(あまつひ)に捧ぐる香(こう)は、浄(きよ)まはる潮(うしほ)のにほひ、轟(とどろ)く波凝(なごり)、動(ゆる)がぬ岩根(いはね)、靡(なび)く藻よ。黒金(くろがね)の船の舳先(へさき)よ、岬代赭色(みさきたいしやいろ)に、獅子の蹈留(ふみとどま)れる如く、足を延べたるこゝ、入海(いりうみ)のひたおもて、うちひさす都のまちは、煩悶(わづらひ)の壁に悩めど、鏡なす白川(しらかは)は蜘手(くもて)に流れ、風のみひとり、たまさぐる、洞穴口(ほらあなぐち)の花の錦や
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