最終戦争論・戦争史大観
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著者名:石原莞爾 

 6、一七九六―九七年のイタリア作戦
 一八〇五年をもって近世用兵術の発起点とする人が多い。二十万の大軍が広大なる正面をもって千キロ近き長距離を迅速に前進し、一挙に敵主力を捕捉殲滅したウルム作戦の壮観は、十八世紀の用兵術に対し最も明瞭に殲滅戦略の特徴を発揮したものである。しかしこれは外形上の問題で、新用兵術は既にナポレオン初期の戦争に明瞭に現われている。その意味で一七九六年のイタリア作戦、特にその初期作戦は最も興味深いものである。
 クラウゼウィッツが「ボナパルトはアペニエンの地理はあたかも自分の衣嚢のように熟知していた」と云っているが如く、ナポレオンはイタリア軍に属して作戦に従事したこともあり、イタリア軍司令官に任ぜらるる前は公安委員会作戦部に服務してイタリアに於ける作戦計画を立案した事がある。
 ナポレオンの立案せる計画は、当事者から即ち旧式用兵術の人々からは狂気者の計画と称して実行不可能のものと見られたのである。ナポレオンは一七九六年三月二日弱冠二十六歳にしてイタリア軍司令官に任ぜられ、同二十六日ニースに着任、いよいよ多年の考案に依る作戦を実行することとなった。
 イタリア軍の野戦に使用し得る兵力は歩兵四師団、騎兵二師団で兵力約四万、主力はサボナからアルベンガ附近、その一師団は西方山地内に在った。縦深約八十キロである。
 軍前面の敵はサルジニアのコッリーが約一万をもってケバ要塞からモントヴィの間に位置し墺軍の主力はなおポー河左岸に冬営中であった。
 ナポレオンはかねての計画に基づき、両軍の分離に乗じ速やかに主力をもってサボナからケバ方向に前進し、サルジニア軍の左側を攻撃、これを撃破する決心であった。当時海岸線は車も通れず、騎兵は下馬を要する処もあった。海岸からサルジニアに進入するためにはサボナから西北方アルタールを越える道路(峠の標高約五百メートル)が最良で、少し修理すれば車を通し得る状態であった。ところがナポレオン着任当時のイタリア軍の状態は甚だ不良で、ナポレオンがその天性を発揮して大活躍をしても整理は容易な事でなかった。
 ナポレオン着任当時、マッセナはゼノバに於ける(ゼノバは当時中立で海岸道不良のため同地は仏軍の補給に重要な位置を占めていた)外交を後援するため、一部をボルトリに出していたのである。ナポレオンは墺軍を刺戟する事を避くるため同地の兵力撤退を命令したが、前任司令官の後任をもって自任していたマッセナは後輩の黄口児、しかも師団長の経験すら無いナポレオンの来任心よからず、命令を実行せず、かえってボルトリの兵力を増加し、表面には調子の良い報告を出していた。しかるに四月に入って墺軍前進の報を耳にしたナポレオンの決心は変化を来たし、四月二日ニースを発してアルベンガに達し、マッセナに命令するにボルトリを軽々に撤退する事無く、かえって兵力増加を粧うべき事を命令した。蓋(けだ)しナポレオンは墺軍の前進を知り、なるべくこれを東方に牽制してサルジニア軍との中央に突進し、各個撃破を決心したのである。マッセナは敵兵増加の徴(しるし)に不安を抱き、同日は狼狽してこのまま止まるは危険な旨を具申している。
[#底本197頁上に地図あり]
 主力をポー川左岸に冬営していた墺軍の新司令官老将ボーリューはゼノバ方面に対する仏軍活動開始せらるるを知り南進を起し、三月三十日にはゼノバ北方の要点ボヘッタ峠を占領して仏国の突進を防止する決心をとったが、その後仏軍の行動の活発でないのに乗じ、更に四月八日にはボルトリを占領して敵とゼノバの連絡を絶ち、かつボルトリにあった製粉所を奪取する事に決心した。同時に右翼の部隊をもってサボナ北方のモンテノット附近を占領せしめ、サルジニア軍と連絡して要線の占領を確実ならしむる事とした。
[#底本198頁右上に地図あり]
 行動開始前の四月九日に於けるポー川以南にある部隊の位置、右図の如し。
 即ち約三万の兵力が攻撃前進を前にして縦深六十キロ、正面約八十キロに分散しており、しかも東西の交通は極めて不便でボルトリから右翼の方面に兵力を転用するためにはアックイを迂回するを要する。
 ボルトリの攻撃にはビットニー、フカッソウィヒ両部隊のうち、九大隊を使用してボーリュー自らこれに臨み、モンテノットの攻撃はアルゲソトウ部隊に命令した。アルゲントウは後方に主力を止め、攻撃に使用した兵力は五大隊半に過ぎなかった。これが当時の用兵術である。
 ナポレオンは十日サボナに到着、この日ボルトリは墺軍の攻撃を受け同地の守兵は夜サボナに退却す。ナポレオンは十一日更に東方に前進して情況を視察したが、ボルトリを占領した敵は相当の兵力であるが追撃の模様がない。然るにこの日モンテノットも敵の攻撃を受けて占領せられたが、ランポン大佐はモンテノット南方の高地を守備してよく敵を支えている事を知った。
 ナポレオンはこの形勢に於て先ずモンテノット方面の敵を撃滅するに決心し、僅少なる部隊をサボナに止めてボルトリの敵に対せしめ、主力は夜間ただちに行動を起して敵の側背に迫る如き部署をした。この決心処置は迅速果敢しかも適切敏捷に行なわれナポレオンを嫉視ないし軽視していた諸将を心より敬服せしめるに至った。ある人は「ナポレオンはこの命令で単に墺軍に対してのみでなく、部下諸将軍連に対しても勝利を得た」と言っている。
 かくて十二日、ナポレオンは約一万人を戦場に集め得て、三、四千の敵を急襲して徹底的打撃を与えた。ナポレオンはこの戦闘の成果を過信して墺軍の主力を撃破したものと考え、予定に基づき主力をもってサルジニア軍に向い前進するに決し、その部署をした。前衛たる部隊は十三日コッセリア古城を守備していた墺軍を攻撃、十四日辛うじてこれを降伏せしめたが、ナポレオンはこの間敵の部隊北方デゴ附近に在るを知って該方面に前進、十四日敵を攻撃してこれを撃破し、再び西方に向う前進を部署した。
 しかるにデゴ戦闘後に狂喜した仏兵は、数日の間甚だ不充分なる給養であったため掠奪を始め、全く警戒を怠っていた所を、十五日ボルトリ方面より転進して来た墺軍の急襲を受け危険に陥ったが、ナポレオンは迅速に兵力を該方面に転進し遂にこれを撃破した。しかも軍隊は再び掠奪を始め、デゴの寺院すらその禍を蒙る有様であった。
 ボーリューは十二日の敗報を受けてもこれは戦場の一波瀾ぐらいに考え、その後逐次敗報を得るも一拠点を失ったに過ぎないとし、側方より敵の後方に兵を進めてこれを退却せしむる当時の戦術を振りまわして泰然としていたが、十六日に至って初めて事の重大さに気付き、心を奪われてアレッサンドリア方面に兵力を集中せんと決心したが、諸隊の混乱甚だしく、精神的打撃甚大で全く積極的行動に出づる気力を失った。
 ナポレオンは十七日主力をもって西進を開始したが、コッリーは退却してタナロ川左岸に陣地を占めた。仏軍はケバ要塞を単にこれを監視するに止めて前進、十九日敵陣地を攻撃したが増水のため成功せず、二十一日攻撃を敢行した時はサルジニア軍は既に退却していたが、これを追撃してモントヴィ附近の戦闘となり遂にコッリー軍を撃破した。
 サルジニアは震駭して屈伏し二十八日午前二時休戦条約が成立した。
 この二週間の間に墺軍に一打撃を与えサルジニア国を全く屈伏した作戦は今日の軍人の眼で見れば余りに当然であると考え、ナポレオンの偉大を発見するに苦しむであろうが、フリードリヒ大王以来の戦争に対比すれば始めてその大変化を発見し得るのである。このナポレオンの殲滅戦略を戦争目的達成に向って続行し得るところに即ち決戦戦争が行わるる事となるのである。サルジニアを屈したナポレオンは再び墺国に向い前進、ポー川左岸に退却せる敵に対しポー川南岸を東進して五月八日ピアツェンツァ附近に於てポー川を渡り、敵をしてロンバルデーを放棄の止むなきに至らしめ、敵を追撃して十日有名なるロジの敵前渡河を強行、十五日ミラノに入城した。
 五月末ミラノを発しガルダ湖畔に進出、ボーリューを遠くチロール山中に撃退した。
 当時の仏墺戦争は持久戦争でありイタリア作戦はその一支作戦に過ぎない。ナポレオンは新しき殲滅戦略により敵を圧倒したが結局ここに攻勢の終末点に達した。殊にマントア要塞は頗る堅固でナポレオンはこの要塞を攻囲しつつ四回も敵の解囲企図を粉砕、一七九七年二月二日までにマントアを降伏せしめた。
 一九一六年ファンケルハインが、いわゆる制限目的を有する攻撃としてベルダン攻撃案を採用しカイゼルに上奏せる際「若し仏軍にして極力これを維持せんとせば恐らく最後の一兵をも使用するの止むなきに至るであろう。若し斯くの如くせばこれ我が軍の目的を達成せるものである」と述べている。一九一六年ドイツのベルダン攻撃はこの目的を達成しかね、ドイツ軍は連合側に劣らざる大損害を受けて戦争の前途にむしろ暗影を投じたのであったが、ナポレオンのマントア攻囲はよくファンケルハインの企図したこの目的を達成したのである。
 墺軍は四回の解囲とマントアの降伏で少なくとも十万の兵力を失った(仏軍の損失は二万五千)。マントア攻囲前の墺軍の損失は二万に達するから、一年足らずの間に墺軍はナポレオンのために十二万を失ったのである。これは当時の墺国としては大問題で、これがため主戦場から兵を転用し、最後にはウインの衛戌兵までも駆り集めたのである。
 墺国の国力は消耗し、ナポレオンは一七九七年三月前進を起し、四月十八日レオベンの休戦条約が成立した。
 その後の大観
 ナポレオンの天才的頭脳が新戦略を生み出し、その新戦略に依ってナポレオンはたちまち軍神として全欧州を震駭した。かくしてフランスはナポレオンに依って救われた。
 ナポレオンは対英戦争の第一手段として一七九八年エジプト遠征を行なったが、留守の間仏国は再びイタリアを失い苦境に立ったのに乗じ、帰来第一統領となって一八○○年有名なアルプス越えに依って再び名望を高めた。
 一度英国と和したが一八〇三年再び開戦、遂に十年にわたる持久戦争となった。一八〇四年皇帝の位に即き、英国侵入計画は着々として進捗、その綜合的大計画は真に天下の偉観であった。これは今日ヒットラーの試みと対比して無限の興味を覚える。
 海軍の無能によってナポレオンの計画は実行一歩手前に於て頓挫し、英国は墺、露を誘引して背後を覘(ねら)わしめた。ナポレオンは一八〇五年八月遂に英国侵入の兵を転じて墺国征伐に決心した。
 ドーバー海峡に集結訓練を重ねた約二十万の精鋭(真に世界歴史に見なかった精鋭である)は堂々東進を開始して南ドイツに侵入、墺、露両軍の間に突進して九月十七日墺のほとんど全軍をウルムに包囲降伏せしめた。ナポレオンはドノー川に沿うてウインに迫り、逃ぐる敵を追ってメーレンに侵入したが、攻勢の終末点に達ししかも普国の態度疑わしく、形勢楽観を許さぬ状況となったが、ナポレオンは巧みに墺、露の連合軍を誘致して十二月二日アウステルリッツの会戦となり戦争の目的を達成した。
 一八〇六年普国と戦端が開かれるとナポレオンは南ドイツにあったその軍隊を巧みに集結、十六万の大軍三縦隊となりてチュウリンゲンを通過して北進、敵をイエナ、アウエルステートに撃破し、逃ぐるを追って古今未曽有の大追撃を強行、プロイセンのほとんど全軍を潰滅した。しかもポーランドに進出すると冬が来る。物資が少ない。非常に苦しい立場に陥った一八〇七年六月二十五日漸(ようや)く露国との平和となった。
 対英戦争の第三法である大陸封鎖強行のため一八○八年スペインに侵入したところ、作戦思うように行かず、ナポレオン失敗の第一歩をなした。英国の煽動により一八〇九年墺国が再び開戦し、ナポレオンの巧妙なる作戦は良くこれを撃破したが一方スペインを未解決のまま放任せざるを得ない事となり、またアスペルンの渡河攻撃に於ては遂に失敗、名将ナポレオンが初めて黒星をとった。
 この大陸封鎖の関係から遂に一八一二年露国との戦争となり、モスコーの大失敗となった。
 一八一三年新兵を駆り集め、エルベ河畔での作戦はナポレオンの天才振りを発揮した面白いものであったが、遂にライプチヒの大敗に終り、一八一四年は寡兵をもってパリ東方地区に於て大軍に対する内線作戦となった。一七九六年の作戦に比べて面白い研究問題であり、彼の部将としての最高の能率を発揮したと見るべきである。しかも兵力の差が甚だしく、殊に普軍がナポレオンの新用兵術を体得していたので思うに任せず、連合軍に降伏の止むなきに至った(この作戦は伊奈中佐の『名将ナポレオンの戦略』によく記されている)。
 一八一五年のワーテルローは大体見込なき最後の努力であった。
 対墺、対普の個々の戦争は巧みに決戦戦争を行なったが、スペインに対して地形その他の関係で思うに任せず、対露侵入作戦は大失敗をした。しかも、全体から見てナポレオンはその全力を対英持久戦争に捧げたのである。海と英国国民性の強靭さは天才ナポレオンを遂に倒したのである。
 ヒットラーは今日ナポレオンの後継者として立っている。

     第七節 ナポレオンより第一次欧州大戦へ
 持久戦争では作戦目標が多く自然に土地となるが(持久戦争でも殲滅戦略を企図する場合はもちろん軍隊)、決戦戦争の特徴は殲滅戦略の徹底的運用であり、作戦目標は敵の軍隊であり、敵軍の主力である。
 決戦戦争に於ては主義として戦略は政略より優先すると同じく、戦略と戦術の利害一致しない時は、戦術に重点を置くのを原則とする。我らが中少尉時代は盛んにこの事を鼓吹せられたものである。フランス革命前に於ける用兵思想の克服戦が、決戦戦争の末期まで継続せられていたわけである。感慨深からざるを得ない。
 決戦戦争の進展は当然殲滅戦略の徹底で基礎をなす。即ち敵軍主力の殲滅に最も重要なる作用をなす会戦が戦争の中心問題であり、その会戦成果の増大に徹底する事が作戦上の最大目標である。
 会戦成果を大ならしむるためには敵を包囲殲滅する事が理想であり、それがためモルトケ時代からは特に分進合撃が唱導せられた。会戦場に兵力を集結するのである。即ち分進して軍隊の行動を容易にし、会戦場にて兵力を集結し特に敵の包囲に便ならしめる。
 しかるにナポレオンは通常会戦前に兵力を集結するに勉めた。もちろん常にそうではなかったので、例えば一八〇六年の晩秋戦、一八〇七年アルレンスタインに向う前進、およびフロイシュ、アイロウ附近の会戦、一八〇九年レーゲンスブルグ附近に於けるマッセナの使用、一八一三年バウツェン会戦に於けるネーの使用等は一部または有力なる部隊を会戦場に於て主力に合する事を計ったのである。しかしその場合もフロイシュ、アイロウでは各個戦闘を惹起して形勢不利となり、またバウツェンでも統一的効果を挙げる事は出来なかった。それはナポレオン当時の軍隊は通信不完全で一々伝騎に依らなければならないし、兵団の独立性も充分でなかった結果、自然会戦前兵力集結主義としなければならなかったのである。
 モルトケ時代は既に電信採用せられ、鉄道は作戦上最も有利な材料となり、かつまた兵力増加、各兵団の独立作戦能力が大となったのみならず、プロイセンの将校教育の成果挙り、特に一八一〇年創立した陸軍大学の力とモルトケ参謀総長自身の高級将校、幕僚教育に依り戦略戦術の思想が自然に統一せらるるに至った結果、分進合撃すなわち会戦地集結が作戦の要領として賞用せらるるに至った。
 しかしモルトケも必ずしも勇敢にこれを実行し得なかった事が多い。
 モルトケ元帥は一八九〇年議会に於ける演説に於て「将来戦は七年戦争または三十年戦争たる事無きにあらず」と述べている。しかし商工業の急激なる進歩は長期戦争は到底不可能と一般に信ぜられ、また軍事の進歩も甚だしく一八九一年から一九〇六年まで参謀総長であったシュリーフェンは殲滅戦略の徹底に全力を傾注した。シュリーフェンの「カンネ」から若干抜粋して見る。
「完全なる殲滅戦争が行なわれた。特に驚嘆に値するは本会戦が総ての理論に反し劣勢をもって勝利を得たる点にある。クラウゼウィッツは『敵に対し集中的効果は劣勢者の望み難きところである』と云っており、ナポレオンは『兵力劣勢なるものは、同時に敵の両翼を包囲すべからず』と云っている。然るにハンニバルは劣勢をもって集中的効果を挙げ、かつ単に敵の両翼のみならず更にその背後に向い迂回した」
「カンネの根本形式に依れは横広なる戦線が正面狭小で通常縦深に配備せられた敵に向い前進するのである。張出せる両翼は敵の両側に向い旋回し、先遣せる騎兵は敵の背後に迫る。若し何らかの事情に依り翼が中央から分離する事があってもこれを中央に近接せしめた後、同時に包囲攻撃のため前進せしむる如き事なく、翼に近接最捷路を経て敵の側背に迫らねばならぬ」
 要するに平凡な捷利に満足することなく、重大な危険を顧みず敵の両側を包囲し絶大な兵力を敵の背後に進めて完全に敵全軍を捕捉殲滅せんとする「殲滅戦」への徹底である。
 彼はこの思想を全ドイツ軍に徹底するため熱狂的努力を払った。彼の思想は決して堅実とは言われぬ。彼の著述した戦史研究等も全く主観的で歴史的事実に拘泥する事なく、総てを自己の理想の表現のために枉(ま)げておる有様である。危険を伴うものと言わねばならぬが、速戦即決の徹底を要したドイツのため止むに止まれぬ彼の意気は真に壮とせねばならぬ。彼が臨終に於ける囈語(うわごと)は「吾人の右翼を強大ならしめよ!」であった。外国人の私も涙なくして読まれぬ心地がする。タンネンベルグ会戦は彼の理想が高弟ルーデンドルフにより最もよく実行せられたのである。
 彼が参謀総長として最後の計画であった一九〇五年の対仏作戦計画は彼の理想を最もよく現わしている。ベルダン以東には真に僅少の兵力で満足して主力をオアーズ河以西に進め、ラフェール、パリ間には十個軍団を向け、パリは補充六個軍団で攻囲し、更にその西南方地区より敵主力の背後に七個軍団を迂回して全仏軍を捕捉殲滅せんとするのである。殲滅戦の徹底と見るべきである。

     第八節 第一次欧州大戦
 ドイツで殲滅戦が盛んに唱道せられ、決戦戦争への徹底を来たしている時、日露戦争、南阿戦争は持久戦争の傾向を示したものであるが、それらは皆殖民地戦争のためと簡単に片づけられた。もちろん土地の兵力に対する広大と交通の不便が両戦争を持久戦争たらざるを得ざらしむる原因となったのであるが、両戦争を詳細に観察すれば正面突破の至難が観破せられる。これは欧州大戦の持久戦争となる予報であったのだ。ドイツはこの戦争の教訓に依り重砲の増加に努力した。着眼は良かったが、まだまだ時勢の真相を把握するの明がなかった。
 第一次欧州大戦開始せられると、殖民地戦争の経験に富むキチナー元帥は、戦争は三年以上もかかるように言うたのであるが、一般の人々は誰もが戦争は最短期間に終るものと考え、殊にドイツではクリスマスはベルリンでと信じ、軍隊輸送列車には「パリ行」と兵士どもが落書したのである。
 しかるに破竹の勢いでパリの前面まで侵入したドイツ軍はマルヌ会戦に破れて後退、戦線はスイスから北海に及んで交綏状態となり、東方戦場また決戦に至らないで、遂に万人の予想に反し四年半の持久戦争となった。
 一九一四年のモルトケ大将の作戦は一九〇五年のシュリーフェン案に比べて余りに消極的のものであった。即ちシュリーフェンが一軍団半、後備四旅団半、騎兵六師団しか用いなかったメッツ以東の地区に八軍団、後備五旅団半、騎兵六師団を使用し、ベルダン以西に用いた攻勢翼である第一ないし第四軍の兵力は合計約二十一軍団に過ぎない。ドイツ軍の右翼がパリにすら達しなかったのは当然である。
 シュリーフェン引退後、連合国側の軍備はどしどし増加するに反してドイツ側はなかなか思うように行かなかった。第一次欧州大戦前ドイツの政情は満州事変前の日本のそれに非常に似ていたのである。世は自由主義政党の勢力強く、参謀本部の要求はなかなか陸軍省の賛成が得られず(しかも参謀本部の要求も世間の風潮に押されて誠に控え目であった)、更に陸軍省と大蔵省、政府と議会の関係は甚だしく兵備を掣肘する。英国側の宣伝に完全に迷わされていた。日本知識階級は開戦頃の同盟側の軍備は連合側より遥かに優越していたように思っていた人が多いようであるが、実際は同盟側の百六十七師団に対し連合側は二百三十四師団の優勢を占めていたのである。同盟側の軍備拡張は露、仏のそれに遥かに及ばなかった。
 シュリーフェンの一九一二年私案は仏国側の兵力増加とその攻勢作戦(一九〇五年頃は仏国が守備に立つものとの判断である)を予想して故に先んじてアントワープ、ナムールの隘路通過は期待し難く、従って最初から敵翼の包囲は困難で一度敵線を突破するを必要と考え、全正面に対し攻撃を加えるを必要(一九〇五年案ロートリンゲン以東は守勢)とした。これがため兵力の大増加を必要とし、全既教育兵を動員し、かつ師団の兵力を減ずるも兵団数を大増加すべしと主張した。もちろん主力は徹底的に右翼に使用する。
 シュリーフェンは退職後も毎年作戦計画の私案を作り、クリスマスには必ず参謀本部のクール将軍に送り届けたのである。日本軍人もって如何となす。
 自由主義政治の大勢に押されていたドイツ陸軍もモロッコ事件やバルカン戦争並びに仏露の軍備充実に刺戟せられて一九一一年以来若干の軍備拡張を行ない、殊に一九一三年には参謀本部が平時兵力三十万の増加を提案して十一万七千の増加が議会を通過した。これらの軍拡が政治の掣肘を受けず果敢に行なわれたならばマルヌ会戦はドイツの勝利であったろうとドイツ参謀本部の人々が常に口惜しがるところである。
 しかしドイツ軍部もこの頃は国防の根本に対する熱情が充分でなく、ややもすれば行き詰まりの人事行政打開に重点を置いて軍拡を企図した形跡を見遁す事が出来ない。平時兵団の増加は固よりよろしいが、応急のため更に大切なのはシュリーフェンの主張の通り全既教育兵の完全動員に先ず重点を置かるべきであったと信ずる。
 モルトケ大将の作戦計画はシュリーフェン案を歪曲したものとして甚だしく攻撃せられる。これはたしかに一理がある。若しシュリーフェンが当時まで参謀総長であったならば、ドイツは第一次欧州大戦も決戦戦争を遂行して仏国を属し戦勝を得たかも知れない(仏国撃破後英国を屈し得たか否かは別問題である)。しかしモルトケ案の後退には時代の勢いが作用していた事を見逃してはならない。
 一九〇六年すなわちシュリーフェン引退の年、換言すれば決戦戦争へ徹底の頂点に在ったとも見るべき年にドイツ参謀本部は経済参謀本部の設立を提議している。無意識の中に持久戦争への予感が兆し始めておったのである。この事は人間社会の事象を考察するに非常な示唆を与えるものと信ずる。特に注意を要するは、作戦計画の当事者が最も早くこれを感知した事である。言論界、殊に軍事界に於て経済的動員準備の必要が唱道せらるるに至ったのは遅れて一九一二年頃からである。しかしそれも固より大勢を動かすに至らず、財政的準備以外は何ら見るべきものが無かった。
「一九一四年七月初旬、内務次官フォン・デルブリュックは当時ロッテルダムに多量の穀物が在ったため、急遽ドイツ帝国穀物貯蓄倉庫を創設せんとした。しかしながらこれには五百万マルクを必要とし、大蔵大臣はこれを支出する事を肯(がえ)んじなかった。大蔵大臣はデルブリュックに書簡をもってこの由を申し送った。曰(いわ)く『吾人は決して戦争に至らしめないであろう。若し余が貴下に五百万マルクの支出を承諾するならば、穀物を国庫の損失補償の下に売却すると同じである。これは既に困難なる一九一五年度の予算編成を更に一層困難ならしむるであろう』と。
 結局資金は支出されず、予算編成は滞りなく済み、七十五万人のドイツ人は飢餓のため死亡した!」(アントン・チシュカ著『発明家は封鎖を破る』三四―五頁)
 モルトケ大将はモルトケ元帥の甥で永くその副官を勤め、陸軍大学出身でなく参謀本部の勤務も甚だ短かった。参謀総長になったのはカイゼルとの個人関係が主であったらしい。シュリーフェンの弟子ではない。これがかえってモルトケをして時代性を参謀本部の人々よりも敏感に感受せしめたらしい。
 シュリーフェンの計画はベルギーだけでなくオランダの中立をも躊躇する事なく蹂躙するものであった。私がドイツ留学中少し欧州戦史の研究を志し、北野中将(当時大尉)と共同して戦史課のオットー中佐の講義を聴くことにした。同中佐は最初陸大で学生にでも講義する要領で問題等を出して来たが、つまらないのでこちらから研究問題を出して相当に苦しめてやった。ある日シュリーフェンはオランダの中立を犯す決心であったろうと問うたところ、何故かと謂うから色々理由を述べ、特に戦史課長フェルスター中佐の著書等にシュリーフェンがアントワープ、ナムールの隘路を頻りに苦慮するが、それより前にリェージュ、ナムールの大隘路があるではないか、それを問題にしないのはオランダの中立侵犯の証拠であると詰(なじ)り、フェルスター課長に聞いて来るように要求した。ところで次回にオットー中佐は契約書にサインを求めるから読んで見ると「貴官と戦史を研究するがドイツの秘密をあばく事等をしない」と云うような事が書いてあった。オットー中佐はその知人に「日本人は手強い」とこぼしていたそうである。フェルスター中佐の名著『シュリーフェンと世界戦争』の第二版にマース川渡河強行のことを挿入した(四一頁)のはこの結果らしい。今でも愉快な思い出である。フェルスター氏は更にその後アルゲマイネ・ツァイツングに「シュリーフェン伯はオランダも暴力により圧伏せんと欲したりや」という論文を出した。結局オランダを蹂躙するのではなく、オランダと諒解の上と釈明せんとするのである。
[#底本214頁上に地図あり]
 ところが一九二二年モルトケ大将の細君がモルトケ大将の『思い出、書簡、公文書』を出版しているのを発見した。それを読んで見ると一九一四年十一月の「観察および思い出」に「……シュリーフェン伯は独軍の右翼をもって南オランダを通過せんとした。私はオランダを敵側に立たしむる事を好まず、むしろ我が軍の右翼をアーヘンとリンブルグ州の南端の間の狭小なる地区を強行通過する技術上の大困難を甘受する事とした。この行動を可能ならしむるためにはリュッチヒ(リエージュ)をなるべく速やかに領有せねばならない。そこでこの要塞を奇襲により攻略する計画が成立した」と記している。
 オランダの中立を侵犯しないとせば独軍の主力軍がマース左岸に進出するのにオランダ国境からナムール要塞の約七十キロを通過せねばならず、この間にフイの止阻堡とベルギーの難攻不落と称するリエージュの要塞がある。リエージュは欧州大戦で比較的簡単に(それもこの計画の責任者とも云うべきルーデンドルフが偶然この攻撃に参加した事が有力な原因である)陥落したため、世人は軽く考えているが、モルトケとしては国軍主力のマース左岸への進出に、今日我らの考え及ばぬ大煩悶をしたのを充分察してやらねばならぬ。
 敵は既にアルザス・ロートリンゲンに対し攻撃を企図している事は大体諜報で正確だと信ぜられて来た。ところがロートリンゲンのザール鉱工業地帯のドイツ産業に対する価値は非常に高まっている。もちろん決戦戦争に徹し得れば、一時これを犠牲とするも忍ばねばならないとの断定をなし得るのであるが、持久戦争への予感のあったモルトケとしてはこれも忍びない。
 そこでモルトケ大将は、敵の攻撃に対しメッツ要塞を利用し、いわゆるニードの「袋(わな)」に敵を誘致して一撃を与え、主力はマース右翼の敵の背後に迫るような作戦を希望したものらしい。ある年の参謀旅行で、敵がロートリンゲンに突進して来るのに、作戦計画の如く主力をマース左岸に進めんとする専習員の案に対し、モルトケは「その必要はない。マース右岸の地区を敵の側背に迫るべきだ」と講評したとの事である。
[#底本216頁右上に地図あり]
 しかし無力なモルトケが、断然シュリーフェン伝統の大迂回作戦を断念する勇気はあり得ない。参謀本部の空気がそれを許すべくもない。また実際モルトケもそこまで徹底した識見は無かったであろう。永年の伝統に捉われない自由さから、他の人々より持久戦争に対する予感は強かったのだが、さりとて次の時代を明確に把握する事も出来なかったろう。モルトケを特に凡庸の人というのではない。ナポレオンの如く、ヒットラーの如く特に幾億人の一人と云われる優れた人でなければ無理な事である。
 一九一四年八月十八日頃のモルトケの煩悶はこの辺の事情を見透せば自ら解るではないか。敵は予期した通りロートリンゲンに侵入して来た。しかしその態度が慎重でどうもニードの「袋(わな)」にかかるかどうか。リエージュはその間に陥落する。集中は予定通り出来る。敵の攻勢を待とうか、待ちたいが集中は終る。大迂回作戦を躊躇する事は全体の空気が許さないと云うような彼の心境であったろう。
 不徹底なる計画、不徹底なる指揮は遂にマルヌ会戦の結果となった。しかし事ここに至ったのは一人のモルトケを責める事は少々無理である事が判ったであろう。時の勢いと見ねばならぬ。
 モルトケ大将はマルヌに敗れて失脚し、陸相ファルケンハインが参謀総長を兼ねる事になった。彼は軍団長の経験すらなき新参者で大抜擢である。ファルケンハインは西方に於て頽勢の挽回に努力したが遂に成功しなかった。ルーデンドルフ一党からは一九一四年、特に一九一五年ルーデンドルフ等の東方に於ける成功に乗じ、彼らの献策を入れて敢然東方に兵力を転用しなかった事を攻撃せられる。彼らの云う如くせば、露国に一大打撃を与え戦争全般の指導に好結果をもたらしたであろう。しかし広大なる地域を有する露国に決戦戦争を強いる事は、当時恐らく困難であったろうと判断せられる。
 ファルケンハインの失脚に依りヒンデンブルク、ルーデンドルフの世の中となった。ドイツの軍事的成功は偉大なものがあったが、経済的困難の増加に伴い全般の形勢は逐次ドイツに不利となりつつあった。ドイツとしては軍事的成功を活用し、米国大統領の無併合、無賠償の主義を基礎として断固和平すべきであった。政略関係は総て和平を欲していたのにルーデンドルフは欧州大戦はクラウゼウィッツの「理念の戦争」であり連合国は同盟国を殲滅せざれば止まないのだから、この戦争に於ける統帥は絶対に政治の掣肘を受くべきにあらずとして政戦略の不一致を増大し、「こうなった以上は最後まで」と頑張って遂にあの惨敗となったのである。ルーデンドルフ一党はデルブリュックの言う如く戦争の本質に対する明確な見解を持たなかったのである。即ちナポレオン以後は決戦戦争が戦争の唯一のものであると断定して、彼らが既に持久戦争を行ないつつある事を悟り得なかったのである。
[#底本218頁右上に地図あり]
 しかしあのドイツの惨敗、あの惨忍極まるベルサイユ条約の強制が、今日ナチス・ドイツの生まれる原動力をなした事を思えば生半可の平和より彼らのいわゆる「英雄的闘争」に徹底した事が正しかったとも云えるのである。天意はなかなか人智をもっては測り難いものである。
 ルーデンドルフは潜水艇戦術その他彼の諸計画は皆殲滅戦略に基づくものだと主張している。殲滅戦略、消耗戦略問題でデルブリュック教授と頻りに論争したのであるが、特にルーデンドルフは両戦略の定義につき曖昧である。政治の干渉を排して無制限の潜水艇戦を強行したから殲滅戦略だと言うらしいが、我らの考えならば潜水艦戦は厳格な意味に於て殲滅戦略とは言い難い。
[#底本219頁左上に地図あり]
 露国の崩壊によって一九一八年西方に大攻勢を試みたルーデンドルフはこれを殲滅戦略の断行と疾呼する。その軍事行為の一節を殲滅戦略と云い得るにせよ、ルーデンドルフにはあの戦略を最後まで徹底して実行し、大陸の敵主力を攻撃し、少なくも仏国に決戦戦争を強制せんとする決意ではなかったのである。即ち、持久戦争中の一節として殲滅戦略を行なったに過ぎない。フリードリヒ大王が持久戦争の末期に困難を打開せんとして断行したトルゴウ会戦と類を同じゅうする。
 ルーデンドルフが一九一八年の三月攻勢の攻勢方面につき、クール大将の提案であるフランデルン攻勢とサンカンタン攻勢を比較するに当り、戦略上から云えば前者を有利と認めている。しかるにサンカンタン案をとったのは専ら戦術上の要求に依ると称している。
 真に仏国に決戦を強いんとするならばサンカンタン附近を突破し、英仏軍を中断して運動戦に導き、敵主力を破る事が戦略上最も有利とする事は云うまでもない。
 しかるにルーデンドルフは当時の独軍は既にかくの如き運動性を欠くと判断し、英軍を撃破して英仏海峡沿岸を占領するのが敵の抵抗を断念せしむる公算が大きいから、フランデルン攻勢は戦略上有利と主張したのである。ルーデンドルフは現実に決戦戦争は行なえぬものと考えていたのである。
 三月攻勢の目標は英軍を撃破して英仏海峡に突進するにあった。それで仏軍に対しては攻勢の進展に伴いソンムの線を確保して左側を完全にする考えであった。しかるに攻勢初期は予期以上に好結果を得たので、ルーデンドルフは何時の間にやら最初の目標を変えてソンム南岸に兵を進め、更に大規模な作戦に転じようとしたのである。しかしながらこの攻勢は遂に頓挫してしまった。彼は後に、攻勢頓挫につき「運動戦に到達することが出来なかった」と云うておる。結局彼は英仏海峡にも達し得ず、大規模の運動戦にも転じ得ず、かえって新しき占領地区の左翼方面に不安を来たしたのである。
 再度言うが、ドイツ軍事界の戦争の性質に関する見解の固定が、開戦前に予期したと全く異なった戦争状態になってもなおそれらを悟り得なかった事が、一九一八年攻勢の指導にまで重大な影響を与えたのである。
 かくてドイツは統帥部の「こうなった以上は徹底的に」と云う主張に引きずられ、軍部も実は自信を失い政治はもちろん信念はなかったに拘らず、遂に行く所まで行ってベルサイユの屈辱となったのである。
 万人の予期に反して四カ年半の持久戦争となったその第一原因は兵器の進歩である。機関銃の威力は甚だ大きく、特に防禦に有利である。堅固に陣地を占め、決意して防禦する敵を突破する事は至難である。これに加うるに兵力の増大が遂に戦線は海から海におよび迂回を不可能にした。突破も出来なければ迂回も不可能で、遂に持久戦争になったのである。
 これはフランス革命で持久戦争から決戦戦争になったのとは状態を異にしている。即ちフリードリヒ大王の使った兵器も、ナポレオンの使用したものもほとんど同一であったのであるが、社会革命が軍隊の本質を変化し、在来の消耗戦略を清算し得た事が決戦戦争への変転を来たしたのであった。

     第九節 第二次欧州大戦
 持久戦争は勢力ほぼ相伯仲する時に行なわれるのである。第二次欧州大戦でドイツのいわゆる電撃作戦が、ポーランドやノルウェーの弱小国に対して迅速に決戦戦争を強行し得た事はもちろん驚くに足らない。英仏軍と独軍はマジノ、ジーグフリードの陣地線の突破はお互にほとんど不可能で、結局持久戦争になるものと常識的に信ぜられていた。
 しかるに一九四〇年五月十日、独軍が西方に攻勢を開始すると疾風迅雷、僅かに七週間で強敵を屈伏せしめて、世界戦史上未曽有の大戦果を挙げ、仏国に対しても見事な決戦戦争を強行し得たのである。
 五月十日攻勢を開始すると、先ず和(オランダ)、白(ベルギー)、仏三国の主要飛行場を空襲して大体一両日の中に制空権を得て、主として飛行機と機械化兵団の巧妙な協同作戦に依って神速果敢なる作戦が行なわれた。殊に民族的にも最も近いオランダには内部工作が巧みに行なわれていたらしく、空輸部隊の大胆な使用と相俟って五日間にこれを屈伏せしめる事が出来た。
 ベルギー方面に侵入した独軍また破竹の勢いでマース川の大障害を突破して西進、特にアルデンヌ地方に前進した部隊は仏軍の意表に出でて五月十日既にセダン附近に於てマースを渡河し、マジノの延長線を突破したのである。
[#底本223頁上に地図あり]
 シュリーフェン以来独軍の主力は右翼にあるものと定まっていたのに、今日はアルデンヌの錯雑地を経て一挙北部フランスに突入した。
 奇襲的効果は甚大であった。セダンの破壊口からドイツ軍は有力な機械化兵団を先頭として突入し、一九一八年三月攻勢にルーデンドルフが考えたようにエーヌ、オアーズ、ソンム等の河や運河を利用して左側背の掩護を確実にしながら主力は一路西進、たちまちアブヴィルに達した。同地では仏軍の一部が悠悠錬兵場で訓練中であったとの事である。いかに独軍の進撃が神速であったかを物語っている。
 かくてフランデルとアルトアにあった英白軍および仏の有力部隊は瞬く間に包囲せられ、五月二十二日頃にはその運命が決定した。独軍の包囲圏は刻々縮小せられ、形勢非なるを見てとった英軍は匆々(そうそう)本国への退却を開始した。この情況を見たベルギー皇帝は五月二十八日無条件で独軍に降伏した。
 形勢は更に急転、英仏軍は多数の降伏者を生じ、六月四日にはダンケルク陥落、遂にこの方面の作戦を終了した。
 僅々二週間で和、白両国は降伏。英仏軍の有力なる部隊は撃滅せられその一部が辛うじて本国に逃げ帰った。
 六月五日には独軍は早くもソンムの強行渡河に成功、仏国の抵抗意志は急速に低下して到るところ敗退、六月十四日独軍パリに入城、六月二十五日休戦成立した。
 ドイツの作戦はまるで神業のようで持久戦争の時代は過ぎ去り、再び決戦戦争の時代到来せるやを信ぜしめる。しかしそれについては充分慎重な観察が必要である。
 先ず第一に戦術上の観察を試みよう。独軍の成功は主として飛行機、戦車の威力であった。第一次欧州大戦当時に比して、この両武器は全く面目を一新しており、殊に飛行機が軍事上の革命を生ぜんとしている事は確実である。しかしこの両武器に対して、しかく簡単に正面は突破せらるべきであろうか。独軍はたちまち制空権を獲得して思う存分仏軍の後方を攻撃した。ために交通は大混乱に陥り、かつ集団して行動する部隊は絶対なる脅威を受けて動作の自由を失った事は当然である。しかし戦闘展開を終り準備を終えている軍隊に対する飛行機の攻撃はさして大なる威力を発揮し得るものではない。
 戦車は準備なき軍隊、特に狼狽した軍隊に対してはその威力は頗る大きい。けれども地形の制限を受ける事多く、戦場ではほとんど盲唖である。沈着かつよく準備せられた軍隊に対しては左程猛威を逞しゅうし得るものではない。殊に考うべきことは対戦車火器の準備は戦車の準備に比して容易な事である。
 戦車が敵陣地を突破し得てもその突破口が敵に塞がれ、続行して来る歩兵との連絡を絶たれる時は、戦車は間もなく燃料つきて立往生する。であるから真に近代的に装備せられ、決心して守備する敵陣地の突破はなかなか容易の事ではない。
 マジノ線を仏国人は難攻不落のものと信じていた。しかるに独軍占領後の研究に依れば、マジノ線の築城編成は第一次欧州大戦の経験を主として専ら火砲の効力に対抗する事だけを考えて、攻者の新兵器に対する考慮が充分払われていなかった。即ち自由主義フランスはドイツの真剣なる準備に対抗する迫力を欠いていたのである。
 ドイツ軍は空軍と戦車、それに歩工兵の密接なる協力に依って築城の中間地を突破する方式に出て、フランス軍の意表に出たのである。
 殊に自由主義国フランスの怠慢はマジノ線の北端をベルギー国境に託して自ら安心し、迂回し得る陣地であった事である。いわゆるマジノ延長線は紙上計画に止まり大体有事の日、工事に取りかかる考えであったが、開戦後は労働力の不足等の関係で大して工事を施されていなかった。またマジノ線に連接してベルギーがリエージュを主体としてマジノ線に準じた築城を完成する約束であったが、事実は大して工事が行なわれていなかった。
 ドイツ軍は実にこの虚をついたわけである。運動戦となるや独軍の極めて優れた空軍と機械化兵団が連合軍の心胆を奪って大胆無比の作戦をなし遂げ得た。
 あの極めて劣勢なフィンランドが長時日良く優秀装備のソ軍の猛攻を支えた事は今日でもいかに防禦力の大であるかを示している。今度の作戦でもフランデル方面に於て敵の正面に衝突した独軍の攻撃はなかなか簡単には成功しなかったらしいのである。空軍の大進歩、戦車の発達も充分準備し決心して戦う敵線の突破は至難である事を示している。
 第一次欧州大戦では仏、白の戦闘意志は英国のそれに劣らぬものであったが、今回は余程事情を異にしていたらしい。フランスの頽廃的気分、支配階級の「滅公奉私」の卑しむべき行為はアンドレ・モーロアの『フランス敗れたり』を一読する者のただちに痛感するところである。
 英国の利己的行為は仏、白との精神的結合を破壊していた。数年前ドイツがライン進駐を決行した時、仏国が断然ベルサイユ条約に基づいてドイツに一撃を加うべく主張したのに対し英国は反対し、その後も作戦計画につき事毎に意見の一致を見なかったと伝えられる。真に二国が衷心一致してドイツの進攻に抗する熱意があったならば独、自国境の築城は必ず完成されているべきであったし、今後の作戦についても更に緊密な協同が行なわれたであろう。
 戦略的に見れば戦力の著しく劣った仏国は国境で守勢をとるべきであり、軍当局はこれを欲したであろう。しかし政略はこれを許さない。止むなく有力な主力軍をベルギーに進め、ドイツの電撃作戦に依って包囲せらるるや、利己主義の英国はたちまち地金を現わして本国へ退却の色を見せる。若し英国が真に戦うならば本国は全く海軍に一任し、あらゆる手段を尽してその陸軍を大陸に止むべきであった。英国の態度はベルギーの降伏となり、フランスの戦意喪失となったのは当然である。
 かく考えて来る時は無準備でしかも統一と感激なき自由主義国家と、鉄の如き意志に依り完全にしかも深き感激の下に統一せられ、総力を極度に合理的に集中運用せる全体主義国との対立であって、断じて相匹敵する戦争力の争いではない。即ち時代が決戦戦争となったのでなく、両方の力の著しき差があの歴史上無比の輝かしき決戦戦争を遂行せしめたのである。
 特にこの際我が国民に深き反省を要求するのは、自由主義国家と全体主義国家の戦争準備に対する能力の驚嘆すべき差である。老大富裕国英仏が、戦後の疲れなお医(いや)し切れなかった貧乏国ドイツに対し、ナチス政権確立後僅々数年でかくの如き劣勢に陥ったのである。この事は満州事変後我が国が極東作戦準備につきソ連との間に充分経験した事である。満州事変頃は両国の戦争力相伯仲していたが、僅かに数年のうちに彼我戦力の差に隔りを見た事がその後の東亜不安の根本原因である。
 速やかに我らは強力なる統制の下に世界無比の急速度をもって我らの戦争力を向上せしめねばならぬ。
 今日フランスに対しては輝かしき決戦戦争を完遂したドイツも、海を隔てた英国に対しては殲滅戦略の続行が出来なくなり持久戦争になる公算が依然極めて大きい。ドイツが英国に対し殲滅戦略、即ち上陸作戦を強行するためには英仏海峡の制海権が絶対に必要である。また制海権を得たとしても上陸作戦の困難は極めて大きい。制海権のため海軍力の劣勢なドイツは主として空軍に頼らねばならぬ。我らは常識的に、仏国海岸を占領したなら空軍の優勢なドイツは英近海の海運に大打撃を与え、英国はそれだけでも屈伏するだろうと考えていたが、今日までの結果を見ると飛行機による艦船の爆沈は潜水艦の威力に及ばぬ状態である。英仏海峡は依然英国海軍の支配下にあるらしい。今後果してドイツがこの海峡の制海権を獲得し得るや否やが決戦戦争の能否の第一分岐点である。
 昨年九月以降のロンドン猛爆の結果より見て、今日の発達した空軍でもなお空軍による決戦戦争は不可能のようである。
 要するにフランス革命に依って国民的軍隊が生まれ、職業軍時代の病根を断って殲滅戦略が採用せられ、その威力の及ぶ範囲に於て決戦戦争が行なわるる事となった。しかし兵器の進歩は攻防両者に対する利益は交互的に現わるる傾向があるものの、大勢は防者に有利となり逐次正面の突破を困難にした。それでも兵力少ない時代は敵翼を迂回包囲する見込みがあったのである。正面突破の困難増大し、しかも決戦戦争の要ますます切となって来たドイツが、シュリーフェンの「カンネ」思想を生んだのはこの時代的要求の結果である。
 国民皆兵の徹底が兵力を増大し、人口密度大なる欧州の諸国家では国軍をもって全国境を守備するに足る兵員を得るようになり、遂に迂回を不可能として持久戦争の時代に入ったのである。
 毒ガス、戦車等第一次欧州戦争の末期既に敵正面突破のため相当の威力を示して持久戦争から脱け出そうとあせったが、大戦後は空軍の進歩甚だしく、これに依って敵軍隊の後方破壊と直接軍隊の攻撃に依って敵陣地を突破せんとする努力と、更に進んで敵政治の中心を攻撃する事に依って敵国を屈伏せんとする二つの考えが生じて来、決戦戦争への示唆を与えつつ第二次欧州大戦となった。ドイツは飛行機、戦車の巧妙なる協同に依り敵陣地突破に成功して大陸諸国に対し決戦戦争を遂行した。しかしこれは結局相手国がドイツに対する真剣な準備を欠いたためで、地上兵力に依る強国間の決戦戦争は依然至難と考えられる。
 第二の空軍をもって敵国中心の攻撃に依る決戦戦争は、英、独の間に於ける実験により今日なお殆んど不可能である事を実証した。しかし空軍主力の時代が来れば初めて海も持久戦争の原因とはならない。空軍の徹底的発達がこの決戦戦争を予告し、それも地上作戦でなく敵国中心の空中襲撃に依る事は疑いを入れない。地球の半周の距離にある敵に対し決戦戦争を強制し得る時は、世界最終戦争到来の時である。

   第三章 会戦指導方針の変化

     第一節 会戦の二種類
 戦争の性質に陰、陽の二種あるように、会戦も二つの傾向に分ける事が出来る。
1 最初から方針を確立し一挙に迅速に決戦を求める。(第一線決戦主義)2 最初は先ず敵を傷める事に努力し機を見て決戦を行なう。(第二線決戦主義) 両者を比較すれば、
[#ここから2段組、上段]  第一線決戦主義一、将帥は決戦の方針を確立して攻撃を行なう。二、第一線の兵力強大、予備は少し。三、最初の衝撃を最も猛烈に行なう。四、偶然に支配せらるる事多く奇効を奏するに便なり。[#ここで2段組、上段終わり][#ここから2段組、下段]  第二線決戦主義一、将帥は会戦経過を見て決戦の方針を決定す。二、極めて有力なる予備隊を設く。三、最後の衝撃を最も猛烈に行なう。四、堅実にして偶然に支配せらるる事少なく兵力が最も重大なる要素なり。[#ここで2段組、下段終わり]
     第二節 二種類に分るる原因
 1 武力の靭強性
 2 国民性および将帥の性格
 攻撃威力が強い、逆に防禦の能力の脆弱な戦闘、換言すれば勝敗の早くつく戦闘では自然第一線決戦主義が採用せらる。例えて言えば騎兵の密集襲撃のようなものである。これに反し防禦が靭強である時は急に勝負がつき難い。妄(みだ)りに猪突するは危険で第二線決戦主義が有利となる。それ故この二種類はその時代の軍隊の性格に依る事が最も多い。特に兵器が進歩して来れば来る程、国民性や将帥の性格の及ばす影響が小さくなるのは当然である。
 古代、兵器が極めて単純であった時代は、国民性の会戦指導要領に及ばす影響は比較的大であり得た訳である。ギリシャ人は強大な大集団を作りこれをファランクスと名付けた。この大集団に依る偉大な衝力に依り一挙に決勝を企図したのである。これに対しローマ人はレギオンと称し比較的小さな集団を編制した。これは行動の自由を利用して巧みに敵に損害を与え、敵を攪乱し、適時機を見て決戦を行なわんとするのである。すなわちギリシャ人は第一線決戦主義に傾き、ローマ人は第二線決戦主義を好んだのである。第一線決戦主義は理想主義的であり、第二線決戦主義は現実主義的である。
[#底本232頁右上に図あり]
 蓋(けだ)しギリシャ人は哲学や芸術に秀で、ローマ人は実業に秀でている民族性と会戦方式に相通ずるものが有るを見るであろう。
 田中寛博士の『日本民族の将来』に依れば、古代ギリシャ人は今日のギリシャ人と異なり北方民族であった。
 今日段々高度の武装をなし民族性の影響は昔日に比し大となり難いのであるが、第一次欧州大戦初期の両軍作戦を見るに、固より他にも色々の事情はあったであろうが、ローマ民族に近いフランスは第一第二軍をして先ず敵地に侵入せしめ後方に第四軍等を集結し、戦況に応じて主決戦場を決定せんとする態勢を整えているのに対し、ギリシャ人に近いドイツは主決戦場を右翼に決定、強大兵団をこの目的に応じて戦略展開を行ない、一挙に敵軍の左側背に殺到せんとしたのである。
 今日でもなお民族性が会戦指揮方針のみならず軍事の万般にわたり相当の影響を与えつつある事を見るのである。
 将帥の性格も同じ意味に於て個性を発揮するものと云うべきである。ナポレオンもアウステルリッツの如く第一線決戦を企図した事はある。また当時の縦隊戦術は後述する如く自然第二線決戦主義を有利とするのであるけれども、第二線決戦はナポレオンの最も得意とするところである。地中海民族から第二線決戦の最大名手を出した事は面白いではないか。
 また北方民族から第一線決戦の最大名手フリードリヒ大王を出したことは時代の勢いであったとは言え必ずしも偶然とのみ言えない。
[#底本233頁左上に図あり]
 用兵上に民族性が作用する事は当然軍事学上にも同じ傾向となって現われる。
 フォッシュ元帥が伊藤述史氏に言うたように(一四五頁)軍事学もまた当然民族の性格の影響を受ける。帰納的であるクラウゼウィッツと演繹的であるジョミニーは独仏両民族の傾向を示すものと云うべきだ。一八七〇―七一年独仏戦争に於ける大勝の結果、フランスに於てもモルトケ、クラウゼウィッツの研究が盛んになった。一九〇二年のボンナール『独仏高等兵学の方式について』には「ジョミニーの論述する如き一般原則から敷衍(ふえん)せる戦法の系統は謬妄、危険で絶対に排斥すべきもの」と言っている。しかしフランスでは依然ジョミニー流の思想が相当有力で、殊に第一次欧州大戦の勝利はクラウゼウィッツの排撃派に勢いを与えたようで、一九二三年発行カモン将軍の『ナポレオンの戦争方式』には「一八七〇年以後は普軍に倣う風盛んで、先ずホーエンローネー、ゴルツ、ブルーメー、シェルフ、メッケル等が研究され、次いでその源泉であるクラウゼウィッツに及んだ。一八八三―八四年にはカルドー少佐が陸軍大学でクラウゼウィッツにつき大講演を行なった。……兎に角一八八三年以来、クラウゼウィッツの主義は我が陸軍大学で絶えず普及せられ、ナポレオンの戦闘方式の完全なる理解に大なる障害を為した」と論じ、ジョミニーの為した如くナポレオンの方式を発見するに力を払っている。
 ドイツの有名な軍事学者フライタハ・ローリングホーフェンは「仏人の思想は戦争の現象を分析するクラウゼウィッツ観察法よりも、ジョミニーの演繹(えんえき)法、厳密なる形式的方法を絶対的に好んでいる」と評し、ジョミニー流であるワルテンブルグ(『将帥としてのナポレオン』の著者)の研究が独軍に大なる影響を与えなかった事を喜んでいる。フライタハはクラウゼウィッツ研究の大家である。クラウゼウィッツの思想は全独軍を支配している事言を俟(ま)たない。
 我ら日本軍人が西洋の軍事学を学ぶについてはよく日本民族の綜合的特性を活用し、高所大所より観察して公正なる判断を下し独自の識見を持たねばならぬ。

     第三節 歴史的観察
 民族性、将帥の性格が会戦指揮方針に与える作用も前述の如く軽視出来ないが、兵器の進歩に依る当時の武力の性格の影響は更に徹底的であり、大体は時代性に左右せられる。
 横隊戦術、殊にその末期軍隊の性質に制せられて兵器の進歩と協調も失うに至った後の横隊戦術は技巧の末節に走り、鈍重にして脆弱であり、特にその暴露した側面は甚だしい弱点を成形していた。横隊戦術は第一線決戦主義が最も合理的である。殊に当時猛訓練と軍事学の研究に依って軍隊の精鋭に満腔の自信を持っていたフリードリヒ大王には世人を驚嘆せしむる戦功を立てしめたのである。
 第一線決戦の特徴として兵力の多寡は第二線決戦のように決定的でない。フリードリヒ大王時代は寡兵をもって衆を破る事が特に尊ばれたのである。大王は十三回の会戦中敗北三回で、十回の勝利のうち六回は優勢の敵を破り、一回といえども著しい優勢をもって戦った事はない。有名なロイテンの如きは二倍強、ロスバハは三倍の敵を撃破したのである。
 しかしかくの如き大勝も既に研究した如く持久戦争の時代に於ては、ナポレオンの平凡なる勝利の程にも戦争の運命に決定的影響を与え得なかったのである。消耗戦略、機動主義の必然がそこに存在したのである。
 フランス革命に依って散兵――縦隊戦術となると、この隊形は傭兵に馴致(じゅんち)せられた横隊戦術の矛盾を一擲して強靭性を増し、側面に対する感度を緩和した。会戦は自然に第二線決戦式となったのである。戦場に敵に優る強大な兵力を集結する戦術一般の原則が最も物をいう事となった。ナポレオンは三十回の会戦中二十三回は勝利を占め、うち十三回は著しい優勢をもって戦い、劣勢をもって勝ったのは僅かに三回でしかも大会戦と認むべきはドレスデンのみである。第一線決戦式に比し第二線決戦式は奇効を奏する事が比較的困難であり、ナポレオンの有名な会戦中マレンゴはあやしい勝利であり、特に代表的であるアウステルリッツ(第一線決戦)、イエナでも技術的に見てフリードリヒ大王のロイテン、ロスバハには及ばない。然しナポレオンの勝利はほとんど常に戦争の運命に決定的作用を及ぼしたのである。
 モルトケ元帥は幕僚長で将帥ではない。殊にモルトケ時代の普国の戦争には皆卓越せる戦争準備によって敵国を撃破した。当時の会戦は大体第一線兵団を戦場に向う前進に部署するだけで、実行は第一線司令官に委ね、フリードリヒ大王やナポレオンの会戦のように強烈なる最高統帥の指揮を見なかった。
 兵器特に撃針銃の採用進歩は散兵の威力を増加して逐次戦闘正面を拡大して再び横広い隊形となった結果、自然会戦指揮は再び第一線決戦主義に傾いて来たが、シュリーフェン全盛時代までは「緒戦、戦闘実行、決戦」と会戦時期を三区分していたように、やはりナポレオン時代の第二線決戦の風も当時残っていたのである。
 シュリーフェン時代となると戦闘正面はますます拡大せられ、敵の側背を狙う迂回包囲はますます大胆となるべく唱導鼓吹せられ、第一線決戦主義に徹底して来た。会戦の方針は、既に集中決定の時に確立せられ、敵の側背に向い決戦を強行断行するのである。シュリーフェンの「カンネ」の一節に「翼側に於ける勝利を希うためには最後の予備を中央後でなく、最外翼に保持せねばならぬ。将帥の慧眼が広茫数十里に至る波瀾重畳の戦場に於て決戦地点を看破した後、初めて予備隊を移動するが如き事は不可能である。予備隊は既に会戦のための前進に当り、脚下停車場より、更に適切に云えば鉄道輸送の時から該方面に指向せられねばならぬ」と言っており、この大軍の会戦への前進はモルトケ元帥の如く単に方針のみを与えて第一線司令官の自由に委せるのではなく、全軍あたかも大隊教練のように「眼を右、触接左」に前進すべき事を要求している。丁度フリードリヒ大王の横隊戦術を大規模にした観がある。
 第一次欧州大戦初期は前に述べたようにフランス軍の会戦方針はやや第二線決戦的色彩を帯びていたが(勿論徹底せるものではない)、独軍は第一線決戦主義が極めて明確である。シュリーフェン案の如く徹底したものではなかったが、兎に角独軍のベルギー侵入よりマルヌまでの作戦はあたかもロイテン会戦を大々的に拡大した観を呈している。
 ところが持久戦争に陥り戦線が逐次縦深を増して来るに従い、会戦指揮の方針は自然第二線決戦主義となって来た。局部的戦闘では奇襲に依り第一線決戦的に指導せらるる事もちろんであるが、それだけでは縦深の敵陣地帯を完全に突破する事は至難で、その後絶大なる予備隊の使用に依って会戦の決定を争う事になる。
 ドイツが最後の運命を賭した一九一八年の攻撃は五回にわたって行なわれ、第五回目に敵の攻勢移転にあって脆くも失敗、遂に戦争の決を見るに至った。
 普通に見れば一回の攻勢が一会戦とも言われるけれども、更に大観すれば三月から八月にわたる全作戦を一大会戦とも見ることが出来る。即ちドイツ軍は多数師団の大予備隊を準備し、数次にわたって敵の戦術的弱点を攻撃してなるべく多くの敵の予備隊を吸収(即ち個々の攻撃は全軍の見地からすれば一戦闘である)し、敵予備隊の消耗を計って敵が予備の貯え無くなった時、自分の方は未だ保存している強大なる予備隊に依って一挙に敵を突破する方式であったと見ることが出来る。独軍最高司令部は必ずしもそう考えていなかったし、各攻勢の間隔大に過ぎ(準備上短縮は不可能であったろう)て、敵に対応の準備を与え、敵も巧みに予備隊を再建し得て、独軍七月十五日の攻勢には既にその勢い衰えつつあったのに乗じ、全軍の指揮を一任せられたフォッシュ将軍の英断と炯眼(けいがん)によって独軍攻勢の側面を衝き、遂に攻守処を異にして連合軍勝利の基を開いたのである。固より独軍の全敗は国内事情によること最も大であるけれども、作戦方面から見れば仏軍があたかも火力をもって敵をいため、敵の勢力を消耗した好機に乗じ攻勢に転ずるいわゆる「火力主義の攻勢防禦」を大規模にした形で最後の勝利を得たのである。
[#底本239頁左上に地図あり]
 第一線決戦の名手フリードリヒ大王の傑作ロイテンと第二線決戦の名手ナポレオンの傑作リーニーの両会戦につき簡単に述べて参考としよう。
 一、ロイテン会戦
ロスバハに仏軍を大いに破ったフリードリヒ大王は戦捷の余威を駆って一挙に墺軍をシュレージエンより撃攘せんとしブレスラウに向い転進した。十二月五日大王はジュミーデ山よりロイテン附近に陣地を占領せる敵軍を観察し、その左翼を攻撃して一挙に敵を撃破するの決心を固めた。
[#底本240頁に地図あり]

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