南国太平記
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著者名:直木三十五 

 そうして、加治木玄白斎にしても、代々の兵道家にしても、長い、大きい、深い、苦痛と、修練をして、その秘術を会得するのであったから、その智慧、知識、人格から見ても、一人の人に私怨をもって、調伏を行うような愚かな人間ではなかった。そんな人間では、修行のしきれる呪術ではなかった。
「薬草取りは?」
 玄白斎が、戻り道の方へ歩きかけたので、和田が、こう声をかけると
「止めた――戻ろう」
 と、玄白斎は答えて、もう、左右の草叢へは、何んの注意もしないで、うつむき勝ちに、足早に歩き出した。和田は玄白斎の心がわからないらしく、忠実に、草の中の薬草の有無を、杖の先で探しながら、黙ってついて行った。
 だんだん木が疎(まばら)になって、木床(きどこ)峠へ出る往来が近くなった。右手の前方に、桜島が、朗らかな初夏の空に、ゆるやかに煙をあげていた。
「仁十」
「はい」
 玄白斎は、こういったまま、また、暫く黙っていた。
「先生――何か?」
「ふむ――事によると、のう」
 何を考えているのか、玄白斎は、なかなか語り出さなかった。
「何か、大事でも――」
「うむ、容易ならぬ企てがあると、わしは思うが」
 と、いって、突然、振向いて
「近々に、牧に逢ったかの」
「一向に――」
「噂をきかぬか」
「ただ、江戸へ参られました、と、それだけより存じません」
 牧仲太郎とは、玄白斎の後継者で、牧に職を譲って、玄白斎は、隠居をしているのであった。
「もしか、牧が――」
 玄白斎が、呟いた。
「牧どんが?」
「いいや――」
 玄白斎は、首を振って
「今日のことは、和田、極秘じゃ」
 街道へ出てからも、玄白斎は、考えながら歩いているらしく、いつものように、左を見、右を見しなかった。和田は、大抵の雨にも、雪にも、薬草採りをやめない老師が、急に帰るのを考えると、何か、大変なことが起っているように感じられた。

(牧より外に、あの秘法を行う人間はない筈だ――牧の仕業としたなら――何んのために――誰(たれ)を――)
 玄白斎は、険路も、汗も感じないで、考えつづけた。
(もし、自分の考えが、当っていたとしたなら――島津家の興廃にかかわる――)
 玄白斎の考えは、次のようなことであった。
 当主斉興(なりおき)の祖父、島津重豪は、英傑にちがいなかった。彼は、シーボルトが来ると、第一に訪問した。それから、大崎村に薬園を作ったし、演武館、造士館、医学院、臨時館の設立、それによって、南国片僻(へんぺき)の鹿児島が、どんなに進歩したか?
 彼自らは「琉球産物誌」「南山俗語考」「成形図説」を著し、洋学者を招聘し、鹿児島の文化に、新彩を放たしめたが、然し、それは悉(ことごと)く、多大に金のかかることであった。
 また重豪は、御国風の蛮風を嫌って、鹿児島に遊廓を開き、吉原の大門を、模倣して立てた。洋館を作った。洋物を買った。そうして、最後に、彼の手元には、小判はおろか、二朱金一つしかないことさえできるようにもなってしまった。
 士(さむらい)は、鍔(つば)を売り、女は、簪(かんざし)を売って献金し、十三ヶ月に渡って、食禄が頂戴できないまでに窮乏してしまった。そして、彼は隠居をした。
 次代の斉宣(なりのぶ)も、士分も、人民も、この重豪の舶来好みによって、苦難したことを忘れることができなかった。だから、斉宣は、秩父太郎季保(すえやす)を登用して、極端な緊縮政策を行った。然し隠居をしても、濶達な重豪は、自分に面当(つらあて)のようなこの政策に、激怒した。そして直ちに、秩父を切腹させ、斉宣を隠居させ、斉興を当主に立てた。
 斉興は、茶坊主笑悦を、調所(ずしよ)笑左衛門と改名させて登用し、彼の献策によって、黒砂糖の専売、琉球を介しての密貿易(みつがい)を行って、極度の藩財の疲弊を、あざやかに回復させた。
 然し積極政策では、重豪と同じ斉興ではあったが、大の攘夷派で、従って極端な洋学嫌いであった。尊王派の頭領として、家来が
「西の丸、御炎上致しました」
 と、いった時
「馬鹿っ、炎上とは、御所か、伊勢神宮の火事を申すのだ。ただ、焼けたと申せ」
 と、怒鳴る人であった。家来が恐縮しながら
「就きまして、何かお見舞献上を――」
「献上? 献上とは、京都御所への言葉だ。未だ判らぬか、此奴。何んでもよい、見舞をくれてやれ」
 ペルリが来た時、江戸中は、避難の荷物を造って騒いだ。その時、三田の薩摩邸は、徹宵、能楽の鼓を打っていた。翌日、門に大きい膏薬(こうやく)が貼ってあるので、剥がすと、黒々と「天下の大出来物」と書いてあった。
 斉彬(なりあきら)は、この父の子であった。だが、幼少から重豪に育てられて、洋学好みの上に、開国論者であった。そして、自然の情として、父斉興とは、親しみが淡(うす)かった。その上に、幕府は、斉彬を登用して、対外問題に当らせようとして、斉興の隠居を望んでいた。斉興が斉彬をよく思わないのは、当然である。
 そして、斉興も、家中の人々も、斉彬が当主になっては、また、重豪の轍を踏むであろうと、憂慮した。木曾川治水の怨みを幕府へもっている人々は、幕府が、斉彬を利用して、折角の金をまた使わせるのだとも考えた。
 そうして、斉彬の生母は死し、斉興の愛するお由羅(ゆら)が、その寵(ちよう)を一身に集めていた。そして、お由羅の生んだ久光は、聡明な子の上に、斉興の手元で育てられた。
(斉彬を廃して、久光を立つべし)
 それは、斉彬の近侍の外、薩藩大半の人々の輿論(よろん)であった。玄白斎は考えた。
(斉彬を調伏して、藩を救う――然し――)
 老人は、山路を、黙々として、麓へ急いだ。

 黙々として歩いていた玄白斎が、突然
「和田」
 と、呼んで立止まった。和田が、解(げ)しかねる玄白斎の態度を、いろいろに考えていた時であったから、ぎょっとして
「はい」
 と、周章(あわ)てて、返事して、玄白斎の眼を見ると
「その辺に、馬があるか、探してのう」
 こういいながら、腰の袋から、銭を出して
「一(ひと)っ走(ぱし)り、急いで戻ってくれぬか」
 和田は、何か玄白斎が、非常の事を考えているにちがいない、と思うと、ほんの少しでもいいから、それが、何(ど)んなことだか、知りたかった。それさえ判れば、自分にも多少の智慧もあり、判断もつくと思った。それで
「御用向は?」
「千田、中村、斎木、貴島、この四人の在否を聞いてもらいたい――居ったら、それでよい。もし居らなんだ節は――」
 玄白斎は、髯をしごきながら
「何時頃から居らぬか?――何処へ行ったか? 誰と行ったか?――それから、便りの有無――よいか、何時、誰と、何処へ行ったか? 便りがあったと申したなら、何時、何処から、と、これだけのことを聞いて――」
 玄白斎は、小首を傾けて、まだ何か考えていたが
「一人も、もし、居らなんだなら、高木へ廻って、高木を邸へ呼んでおけ。それから」
 玄白斎は、和田の眼をじっと見ながら
「何気なく、遊びに行ったという風で、聞きに行かんといかん」
 玄白斎は、こういって、静かに左右を見た。そして、低い声で
「牧は斉彬公を調伏しておろうも知れぬ」
 和田は、口の中で、はっといったまま、うなずいた。
「わしの推察が当って、もし、貴島、斎木らが四人ともおらなかったなら、一刻も猶予ならん。すぐに延命の修法(ずほう)だ」
「はい」
「斉彬公の御所業の善悪はとにかく、臣として君を呪殺することは、兵道家として、不逞、不忠の極じゃ。君の悪業を諫めるには、別に道がある。もし、牧が、軍勝の秘呪をもって、君を調伏しておるとすれば、許してはおけぬし、左(さ)はなくとも、秘法を行っている上は、何んのために行っておるか、聞きたださぬと、わしの手落になる」
 和田は、玄白斎の考えていたことが、すっかり判った。そして、判った以上、すぐに、命ぜられた役を、出来るだけ早く果したいと、気が、急(せ)いてきた。それで、大きく、幾度もうなずいて
「それでは、一走りして。谷山には、馬がござりましょうから――」
「わしも急ぐ――」
 和田は、木箱を押えて
「お先きに」
 と、いうと
「箱を――」
 と、玄白斎は、手を出した。
「はっ――恐れ入ります」
 和田は、急いで採取箱を肩から卸して、手渡すと、一礼して走り出した。土煙が、和田と一緒に走り出した。

 芝野の百姓小屋が、点々として見えてきた。和田仁十郎は、肌着をべっとりと背へくっつけ、汗を拭き拭き、小走りに
(馬――馬)
 と、思いながら、馬の動きを、馬の影を求めていた。一刻も早く急ぎたかったし、暑かったし、心臓も、呼吸も、足も
(早く、馬を)
 と、求めていた。土埃(つちぼこり)が、額へまで、こびりついた。
「この辺に馬がないか」
 雑貨を売る店へ怒鳴って立止まった。
「馬?」
 と、店先にいた汚い女が、首を振って
「谷山まで、ござらっしゃらぬと、この辺には、無いですよ」
「済まぬが、水を一杯」
 仁十郎は、肩で呼吸をしながら、ようようこれだけいった。
「水なら――たんと――」
 女は、薄暗い勝手から、桶をさげて来た。和田の前へ置いて、容器を取りに入った。和田は、身体を曲げると手で掬って、つづけざまに飲んだ。女が、茶碗を持って、小走りに来ると
「忝(かたじけ)ない」
 と、投げつけるようにいって、もう、灼(あつ)い陽の下へ出ていた。
 暑い、この頃の陽の下を旅する人は少いから、戻り馬も通らなかった。和田は、俯向いて、口を開きながら、眉を歪めて、苦しそうに、小走りに走りつづけた。谷山の村へ入って、茶店へ来たが、いつも、茶店の脇の、大きい欅(けやき)の木の下に、一二疋ずついる馬が、一疋も見えないので、欅の下蔭は、淋しかった。
(出払いかしら)
 と、思うと、失望と、怒りを感じて
「婆(ばあ)さん」
 と、茶店の奥へ怒鳴った。
「馬は?」
「馬かえ」
 婆(ばば)は、いつも、馬のいるところに、影が無いから、聞かずともわかっていそうなものだ、というような態度で
「居りましねえが」
「馬子は?」
「馬子も、居りましねえ」
 和田は、この婆が、意地悪く、馬を皆、隠したように感じた。
「急用だに――」
「そのうちに、戻りましょう」
 和田は、渇と、疲れに耐えられなくなって、腰をかけた。
「水を一杯」
「水は悪うござるよ。熱い茶の方が――」
「水でよい」
 竈(かまど)のところから、爺(じじ)が、顔を出して
「つい、今し方まで、四五疋遊んでおりましたがのう。御武家が四人、急ぐからと――つい今し方、乗って行かっしゃりましたよ。ほんの一足ちがいで、旦那様」
「何処かに、爺(じい)――野良馬でも、工面つくまいか」
「さあ――婆さん、松のところの馬は、走るかのう」
 和田は
(走らぬ馬があるか、気の長い)
 と、じりじりしてきた。

 人通りの無い、灼熱した街道に、鉄蹄をかつかつ反響させて、小走りに馬が、近づいて来た。誰か、乗っているにちがいなかったが、和田は、町人か、百姓なら、話をして、借りて行こうと、疲れた腰を上げて、葭簾(よしず)の外へ、一歩出た。
「先生」
 玄白斎が、木箱をがたがたさせながら、半分裸の馬子を、馬側に走らせて、近づいて来た。
「馬がないか」
「一疋も、ござりませぬ」
「馬子」
 馬子は、呼吸を切らして、玄白斎を、見上げただけであった[#「あった」は底本では「あつた」]。
「もう一疋、都合つかぬか」
 馬も、馬子も、茶店の前で止まった。馬子は、胸を、顔を、忙がしく拭いて
「爺さん。四疋とも、行ったかえ」
「四疋とも、行ったよ」
「旦那、ここには、四疋しか居りませんのでのう」
 和田は、馬側へ近づいて
「一足ちがいで、家中の者が、四人で――」
 と、まで云うと、
「今か――」
 玄白斎が、大きい声をして、和田を、鋭く見た。和田は、玄白斎のそうした眼を見ると同時に
(そうだ。猟師を殺して、一足ちがいに)
 そう感じると、すぐ
「爺――その内の一人に、背の高い、禿げ上った額の、年齢三十七八の侍は居らなんだかの」
 玄白斎は、手綱を控えたまま、茶店を覗き込んでいた。
「額の禿げ上った、背の高い?――婆さん、あの長い刀の御武家の背が、高かったのう」
「一番えらいらしい――」
 婆は、首を振って、仁十郎を、じっと見て
「けれど、四十を越していなさったが――」
 玄白斎が
「その外のは、三十前後ではなかったか?」
「はい、お一人だけは、二十八九――」
「それは、少し、太った――」
「はいはい、小肥りの、愛嬌のある――」
 玄白斎は
「馬子っ」
 と、叫んだ。馬子は
「へっ」
 と、返事をして、茶店の中から、周章てて飛び出した。
「それが取計う」
 玄白斎は、和田を、顎(あご)でさした。そして、和田へ
「馬子に手当してやれ。わしは、彼奴を追うから、都合して、すぐ、続け」
 半分は、馬が、歩み出してからであった。馬子が
「旦那っ」
 と、叫んで、馬の口を取ろうとするのを、和田が、引戻した。玄白斎は、手綱を捌いて、馬を走らしかけた。
「いけねえ、旦那っ」
「手当は、取らすと申すに」
 和田は、力任せに、馬子の腕を引いた。

 人々の立去った足音、最後の衣ずれが、聞えなくなった瞬間――邸が、部屋が、急に、しいーんとした。
 それは、いつも感じたことのない凄さと、無気味さとを含んだ、丁度、真暗な、墓穴の中にいるような、凄い静かさであった。七瀬(ななせ)は、肌をぞっとさせ、頭の中へ不吉なことや、恐ろしい空想を、ちらっとさせた。
(何を、怯(おじ)けて――)
 と、自分を叱って、すぐ膝の前に、よく眠入(ねい)っている、斉彬の二男、寛之助の眼を、じっと眺めた。
 新しい蒲団を三重にして、舶来の緋毛布に包まれて、熱の下らない、艶々と、紅く光る頬をした四歳になる寛之助は、睫毛も動かさないで、眠入っていた。七瀬が耳を寄せると、少し開いた口から、柔かな、穏かな呼吸が聞えた。
(この分なら――)
 と、微笑して、身体(からだ)を引くと、また、余りの静かさが、気にかかった。その静かさに、それから、自分の臆病さに、反抗するように、わざと灯の影の暗い天井を仰いだ。暗い、高い天井を、じっと凝視(みつ)めていると、じりっと、下って来るように感じたが、睨むと、何んでもなかったし、屏風の蔭から、誰かが顔を出しそうなので、じっと眺めていたが、何も、出て来なかった。
(なぜ、今夜に限って、こんなことが、気にかかるのか? 大事な役を勤めておりながら、何んという臆病な――)
 と、自分を励ましたが――そう思う次の瞬間に、後方(うしろ)の襖の中から、鬼のような、化物のような奴が、こっちを見ているような気がした。
 左右の次の間には、典医と、侍女と、宿直(とのい)の人々とがいたが、物音も、話声もしなかった。
 寛之助の母の英姫は、寛之助が安眠したのと、斉彬が未だ起きているので、その部屋の方へ行った。英姫が、去ると、蘭法医の寺島宗英も、漢法医の延樹方庵も、控えの間に退ってしまった。そして、徹夜をして詰めていた侍女が、更代に出て、近侍も、七瀬に頼んで休憩に下るし――それらの人々は、次の間か、遠くないところにいるにちがいないのだが、物音一つしない静かさで、七瀬一人が灯影のゆらぐ下に坐っていた。
 長男の菊三郎は、生れて一ヶ月日に死んだので、誰も気がつかなかったが、澄姫と、邦姫の二人は、三歳と、四歳になって、原因不明の病で死んだから、人々の記憶には、十分残っていた。
 この二人の死ぬ前の症状と、寛之助の近ごろとが、よく似ているのであった。時々、熱を出して、よく怯えて――この十日程前から眠入っていても、出し抜けに泣いたり、眼の中いっぱいに、恐怖の色を見せて、小さい掌に汗を出していたり
「怖いっ」
 と、泣いて、飛び起きたり――それは、前の二人の時にも医者が
「御弱い上に、熱が高いと、恐い夢をよく見ます」
 と、いったが、斉彬の近侍の二三は
「然し――」
 と、いって、うつむいて、何か考えていた。七瀬は、その人々の言葉を思い出して
「調伏?――」
 と、ちらっと、考えた時、ぴーんと、木の裂ける音が、七瀬の心臓を、どきんとさせた。

 七瀬は、裁許掛見習、仙波八郎太の妻であった。そして斉彬の正室、英姫の侍女でもあった。誠実で、聡明で、沈着であったから、寛之助の病が、悪化してくると共に、その看護を仰せつけられたのであった。
「何うも、可怪(おか)しい、何か、悪い企みがあるのではないか」
 と、いう疑いが、まず、お目付兼物頭、名越左源太から起された。澄姫が、亡くなった時にも、熱がつづいて、医者は、首を振るだけで
「さあ――」
 と、臆病そうな目を上げるだけであったが、今度も、病状が判らなかった。澄姫は、死ぬ少し前から、小さい、痩せた手を、出し抜けに、蒲団の中から出して、誰かに、縋りを求めながら
「怖いっ、怖いっ」
 と、絶叫した。身体が、がたがた顫えて、瞳孔が大きく据ってしまって、いじらしい程、恐怖の怯えを眼にたたえながら、侍女へ抱きついて、顔を、その懐へ差込んだ。
「夢でございますよ――何も、おりませぬ」
 と、侍女は、怯えている澄姫を、正気にしようとしたが、澄姫は、がくがく顫えて、しがみついたままであった。
 英姫は、余り、いじらしいので、自分が夜を徹して、澄姫の枕許にいたが、澄姫は、だんだん、夜になるだけにでも、怖れだしてきた。昼間の、陽の明るい折
「寝てから、何を、見るの?」
 と、聞くと、それだけでさえ、もう、顔色を変えて
「鬼――」
 と、答えると、それ以上のことは、怖ろしくて、説明もできないようであった。そして、だんだん衰弱して行った。
 左源太は、その澄姫の死を想い出すと、可愛盛りの寛之助を捨てておけなかった。もう一度、あの恐怖に怯えさせるかと思うと、斉彬の冷淡さに、腹が立ってきた。
「寛之助様、ばかばかしゅうござりませぬが」
 と、いうと、斉彬は、ホンフランドの「三兵話法」を、読みながら、
「あれは、生来弱い」
「しかし、御病状が、異様でござります」
「病気のことは、医者に任せておけ」
「医者の手ではおよばぬ――」
「なら、天命だ」
 左源太は、それ以上、斉彬に云えなかったから、英姫に
「よもやとは思いまするが、例(ためし)のあること。油断せぬに、しくはござりませぬ。典医、侍女の方は、某(それがし)が、見張りますから、夜詰の人に、政岡如き女を――」
 と、すすめて、そして、七瀬が、選まれることになったのであった。病間夜詰と、きまった時、仙波八郎太は
「寛之助様は御世継ぎじゃで、もしものことが、おありなされたら、ここの敷居を跨げると思うな」
 と、云い渡した。小身者の仙波として、七瀬が首尾よく勤めたなら、出世の緒(いとぐち)をつかんだことになるし、他人に代った験(しるし)が無かったなら、面目として、女房を、そのままには捨て置けなかった。
「心して、勤めまする」
 と、答えて来たが、夜の詰をして、三日目の今夜は、いつになく、気が滅入って、何うしたのか、怯け心が出て来た。
 灯が、暗いようなので、心(しん)を切ろうと、じっと、灯を見つめながら、手を延そうとすると、部屋中が、急に薄暗くなって、天井が、壁が、畳が、襖が、四方上下から、自分を包みに来るように感じた。

 七瀬は、脚下から寒さに襲われた。はっとして、手を引くと、心を落ちつけようと、努力しながら、四方を見廻した。
 床の間には重豪の編輯(へんしゅう)した「成形図説」の入った大きい木の函があったし、洋式鉄砲、香炉、掛物の万国地図。それから、棚には呼遠筒が、薄く光っていた。
 誰かを呼びたい、ような気もしたが、自分の気の迷いで、人を呼ぶのも恥かしかったから、心切(しんき)りを持ち直して、燭台を見ると、前よりも薄暗いようであった。蝋燭の灯が、妙に黄ばんでいて、蔀屋の中が、乳白色の、霧のようなもので、満たされているようであった。
(和子(わこ)は――)
 と、寛之助を見ると、よく眠入っているし、その愛らしい睫毛さえ、はっきりと判ったから、安心して、部屋の異状を、見定めようとすると、その乳白色の空気が、薄暗い屏風の背後へ、流れ込むように動いていた。
 七瀬は、蒼白になって、息をつめて、膝を握りながら、自分の恐怖心にまけまいと、それを、じっと眺めていると、霧の固まりが屏風の背後で、ぐるぐる廻り出したように見えた。そして、屏風が、はっきりと眼に見えていながら、屏風の後方が、屏風を透して見えているように思えた。
(夢かしら?――夢ではない)
 と、思った瞬間――部屋の中が、急に、四方から狭められたように感じられてきて、畳が、四方の隅から、じりじりと、押上がってくるように思えた。
 七瀬の手は、いつの間にか、守り刀の袋へかかっていた。眼は、恐怖に輝きながら、廻転している霧を、睨みつけていると、霧が気味悪い、青紫色にぎらぎらと光るようにも見えたし、光ったのは眼の迷いであるような――そして、自分の眼が、何うかしていると、じっと、眺めると、その霧の中に凄い眼が、それは、人間の眼であったが、悪魔の光を放っている眼であった。
「あっ」
 と、叫んだが、声が出なかった。
(これが、寛之助様に――)
 と、思ったが、手も、足も、身体も、動かなかった。急に、青紫色の光が、急速度で、廻転すると共に、その光る眼の周囲に、人の顔らしいものが現れたように感じた。痩せた、鋭い顔であった。
 七瀬は、動かぬ手を、全身の力で動かそうとしながら、一念を凝(こ)めて
(こいつを、退散させたら――)
 と、全精神力を込めて、睨みつけた瞬間、寛之助が
「ああっ」
 と、叫んで、両手を、蒲団から突き出すと、顫えたまま、左右へ振って
「こわいっ――」
 七瀬が、その声に、寛之助を眺めて、はっと胸を押されると、部屋は、前のように明るく、その灯の下で、寛之助が、汗をにじませて、恐怖に眼をいっぱいに開いているだけであった。
「和子様っ」
 と、上から、抱くと、寛之助は、身体を、がたがた顫わせて、しっかりと抱きついた。七瀬の頬に触れた寛之助の額は、ただの熱でなく、熱かった。
 長いようでもあったし、短いようでもあった。ほんの瞬間、疲れから、夢を見たような気もしたし、本当に、奇怪な事が起ったようにも思えたし――七瀬には、判断がつかなかった。ただ、鋭い眼だけは、頭の隅に、閃いていた。

 侍女が、つつましく、襖を開けるのさえ、もどかしかった。顔が見えると、すぐ
「方庵を――」
 侍女は、立って入ろうとした。
「方庵を、早く――」
 侍女は、七瀬の声と、顔が、ただでないのを見て、襖を閉め残したまま、小走りに行った。
 寛之助は、熱い額を、頬を、七瀬の肌へ押しつけて、獅噛(しが)みついていた。寝かせようと、下へ置こうとすると、咽喉(のど)の奥から叫んで、置かれまいとした。
「七瀬がおります。七瀬がおります」
 背を軽く叩いて、顫える寛之助を、安心させようとしながら、七瀬は、眼の底、頭の隅に残っている今の幻像が、誰かに似ていると考えた。だが、似ているその誰かが思い出せなかった。
 抱き上げていて、風邪をひかしてはならぬと思ったので、寛之助が獅噛みついているまま、寝床の中へうつ伏せになって、毛布でくるんだ。
(あの物(もの)の怪(け)に、おそわれなさるのかしら)
 と、考えたが、そんなことが、有るべきはずでなかったし、自分の心の迷いから、幻に見たことを、迂濶(うかつ)に、人には話すこともできなかった。然し、心の迷いにしては、余りに明瞭(はっきり)と、幻の顔が残りすぎていた。
 微かに、足音がつづいて襖が開いた。方庵と、左源太と、奥小姓野村伝之丞とが、入って来た。三人とも、七瀬が、寛之助の熱を出させたように、睨みつけて、枕辺に坐ると
「何かに、おびえなされまして、急に、お目ざめになると、このお熱で――」
 方庵が、額へ手を当てた。
 七瀬が、身を引こうとすると
「こわいっ、いやっ――」
 寛之助が、烈しく、身体を悶(もだ)えて、小さい拳をふるわせつつ、七瀬の襟をつかんだ。
「左源太が、打(ぶ)った斬(ぎ)ってやりましょう。左源太は、鬼でも、化物でも、打った斬りますぞ、若」
 寛之助は、顔を埋めたまま、いやいやをした。
「余程、おびえていなさる」
 と、伝之丞が呟いた。
「方庵、澄姫様の時と、同じであろうが」
「うむ、気から出る熱らしいが――」
 方庵は、寛之助の脈を取って
「宗英も、判らんといいおったが――」
「七瀬――何んぞ、異状無かったか?」
 七瀬は、黙って左源太を見た。異状すぎた異変を見たが、それを見たといっていいか――本当に見たのか、夢を見たのか? それさえ明瞭(はっきり)しないことを、いいもできなかった。
「異状は、ござりませぬが――」
 と、いった時、さっき見た幻の顔が、島津家兵道の秘法を司(つかさど)っている牧仲太郎に似ているように思えた。ただ、牧は、もっと若かった。
(調伏――もしかしたなら)
 七瀬は、こう感じると、冷たい手で、身体を逆撫でされたように、肌を寒くした。
「若、何を御覧なされますな。左源太が、追っ払ってくれましょう。どっちから?――あっちから?」
 と、寛之助の顔をのぞき込むと、左源太の指している方を、ちらっと見て、うなずいた。左源太の指は、屏風の方を指していた。七瀬は、もう一度、頭の心から冷たくなってしまった。

「頼むえ」
 お由羅が、こういって、一間(ひとま)へ入ってしまうと、手をついていた侍女達が、頭を上げて、二人が、襖のところへ、三人が、廊下の入口へ、ぴたりと坐った。そして、懐剣の紐を解いた。
 お由羅が入ると、青い衣をつけた、三十余りの侍が、部屋の隅から、御辞儀をして
「用意、ととのうております」
 部屋の真中に、六七尺幅の、三角形の護摩壇が設けられてあった。壇上三門と称されている、その隅々に香炉が置かれ、茅草を布いた坐るところの右に、百八本の護摩木――油浸しにした乳木と、段木とが置かれてあった。
 お由羅が、壇の前へ跪(ひざまず)いて、暫く合掌してから、立上ると、その男が、黒い衣を、背後から着せた。お由羅は、壇上へ上って、蹲踞(そんきょ)座と呼ばれている坐り方――左の大指(おやゆび)を、右足の大指の上へ重ねる坐り方をして、炉の中へ、乳木と、段木とを、積み重ねた。そして、左手に金剛杵(こんごうしょ)を持ち、首へ珠数(じゅず)をかけてから、炉の中の灰を、右手の指で、額へ塗りつけた。
 侍は、付木から、護摩木へ、火を移すと、お由羅は、白芥子と塩とを混じたものを、その上へふりかけた。小さく、はぜる音がした。火花がとんで、すぐ燃え上った。
 侍は、一礼して退くと、索縄(さくじょう)と、刀とをもって、お由羅の坐っている壇の下、後方へ、同じように指を重ねて坐った。そして、低い声で
「東方阿□(あしゅく)如来、金剛忿怒尊、赤身大力明王、穢迹(えじゃく)忿怒明王、月輪中に、結跏趺坐(けっかふざ)して、円光魏々、悪神を摧滅す。願わくば、閻□(えんた)羅火、謨賀(ぼか)那火、邪悪心、邪悪人を燃尽して、円明の智火を、虚空界に充満せしめ給え」
 と、祈り出した。
 寛之助の病平癒の祈祷をするといって、この護摩壇を設けたのであったが、三角の鈞召火炉は、調伏の護摩壇であった。今、祈った仏は、呪詛の仏であった。
 壇上の品々――人髪、人骨、人血、蛇皮、肝、鼠の毛、猪の糞、牛の頭、牛の血、丁香、白檀、蘇合香、毒薬などというものは、人を呪い殺すために、火に投じる生犠の形であった。
 黒煙が、薄く立昇ると、お由羅は、次々に護摩木を投げ入れ、塩を振りかけ、水をそそいだ。煙は、濛々(もうもう)として、生物のように、天井へ突撃し、柱、襖を這い上って、渦巻きおろして来ると、炉の中の火が、燃え上って、部屋の中が、明るくなった。
 お由羅は、暫く眼を閉じて、何か念じていたが
「南無、金剛忿怒尊、御尊体より、青光を発して、寛之助の命をちぢめ給え」
 と、早口に、低く――だが、力強くいって
「相(そう)は?」
 と、叫んだ。と同時に、侍が
「蛇頭形」
 と、叫んだ。火炉の中の火焔は、蛇の頭の形をしていた。槍形、牙形というように、焔の形によって判断をするのが、調伏法の一つであった。
 お由羅は、また、眼を閉じて、護摩木を投げ入れ、毒薬と、丁香とをそそぎかけて
「色は?」
 と、叫んだ。
「黒赤色」
 黒赤い、凄さを含んだ火焔が、ぱっと立っていた。
「声は?」
「悪声(あくじょう)」
 それは、焔の音を判じるのであった。

 煙と、異臭とが、部屋の中で、渦巻いた。お由羅は右手で、蛇の皮を、犬の胆を、人の骨を、炉の中へ投げ入れて、その度に
「相は?」
 とか
「声は?」
 とか――火焔の頂の破散で判じ、音で判じ、色で判じ、匂で判じて、調伏が成就するか、しないか――額は、脂汗が滲み出していたし、眼は異常に閃いていた。手も、体も、ふるえて、いつもの、甘い、女の声が、狂人のように、甲高(かんだか)くなっていた。
 焔を、見つめていた侍が、お由羅の、顔を眺めて、立上った。索縄を、壇上へ置いて、刀を持ち直して、お由羅の右手へ廻った。そして、何か、口の中で呟いて、お由羅の手をとると、お由羅は、半分失神し、半分狂喜しているような、凄い眼を閉じて、右手を侍の方へ突き出した。
 浅黒い、だが、張切った、艶々した腕が二の腕までまくり上げられると、侍の手に引かれて、火焔の上の方へ、近づいた。
「南無赤身大力明王、穢迹忿怒明王、この大願を成就し給え」
 侍は、こう叫ぶと、刀の尖(さき)を、手首のところへ当てて、青白く浮いている静脈を、すっと切った。血が、湧き上って来て、見る見る火の中へ、点々と落ちた。
 二人は、そのままの形で、俯向いて、何か念じると、だんだん、お由羅が、首を下げてきて、左手に金剛杵をもったまま、壇上へ、片手をついてしまった。その瞬間、侍は、疵口を押えて、火の中へ倒れかかろうとするお由羅を、後方へ押し戻した。
「大願成就、大願成就」
 と、いいながら、お由羅の両手を、胸のところへ集めて、抱きかかえながら
「お方」
 背を押して、叫んだ。お由羅は、眼を開けて、自分で手首を押えて、軽く、お辞儀をした。侍は、布を出して、膏薬を貼った上から、縛った。お由羅は、しびれた、痛む胸を、這うようにして、壇から降りて
「火が、みんな、左へ廻りましたの」
 と、微笑した。
「吉相にござります。焔頂、左に破散して、悪声を発す。今夜の内に、成就致しましょうか」
「牧は、今夜あたり、お国の何(ど)の辺で、祈っておりましょうか」
 侍は、壇の下から、護摩木を取り出して、積みながら
「烏帽子岳か――黒園山あたりで、ござりましょう」
 侍は、兵道家牧仲太郎の高弟、与田兵助という人であった。
 お由羅が、汗を拭いて、壇の下へ坐ると、兵助が、燃え尽そうとしている護摩木の中へ、新しい木を、一本一本、押頂いて、載せて行った。煙と、焔とが、又、勢いよく立ちかけた。
 兵助は、気味の悪い、鈍い眼をした牛の頭を、両手で、静かに、火炉の中へ置いた。すぐ、毛の焼ける、たまらない臭が、部屋中へ充ちた。兵助は、口の中で、何か唱えながら、白檀と、蘇合香とを、牛頭の上から、撒きちらした。
 右手に置いてあった、尖に、微かに、血のにじんでいる直刀を握って、牛の眼へ、ぴったりつけながら
「南無金剛忿怒尊」
 と、叫んで、眼を突いた。白い液が、少し流れ出て来た。兵助は、左の眼も突き刺した。

「お待ちに、ござりまするが」
 三度目の使が、襖外で、恐る恐る、声をかけた。斉彬は
「今――」
 と、いったまま、紫檀(したん)の大机に凭(もた)れて、書物(かきもの)をしていた。そして、筆を走らせながら、
「今行く」
 と、大きいが、物やさしい声をした。机の上にも、膝の周囲にも、書物と、書き損じの紙とが、散乱していた。
 寛之助の臨終にも、同じ邸にいる父として、無論、行かねばならなかったが、今書いている「大船禁造解」と、「大船禁造令撤去建議案」とは、一日早く出来上れば、一日だけ、日本に利益と、幸福とを齎(もたら)して来るものであった。
 斉彬の頭の中も、血の中も、大船を造ることを禁じるというような愚令を、早く、撤廃させなくてはならぬ、ということで、いっぱいになっていた。煙を上げて走る、鋼鉄で装われた舶来船で、表象されている異国の力と、知識とを得んがためには、同じ船を作るより外に、最初の手がかりは無いはずであった。
 幕府も、それを知っておりながら、反対論に怯えたり、繁雑な手続きを長々と調べたり――斉彬は、そういう役人、大名、輿論に対して、ただ一人、この部屋で、こうして闘っていた。ふっと、寛之助のことを思い出しても、自分の子の病、死などは、窓外をかすめる風音ぐらいにしか感じなかった。
(医者が十分に手当をしてくれている。自分がいたとて、癒らぬものは癒らぬ)
 と、呼びに来られると、考えた。
(自分が行かないために、よし、寛之助が死んだとしても、この草案には代えられぬ。この草案のために、あの子が犠牲になったとしたら、こんな光栄な死はない)
 と、いうような理窟まで考えた。だが、立上った。襖を開けると、近侍が、廊下に手をついて待っていた。
「もう、死んだか」
「いいえ、御重態のよしでござります」
 斉彬は、愛児の見舞に急ぐよりも、早く見舞って早くここへ戻らんがために、大股に、早足に、廊下を急いだ。
「お渡り――」
 と、いっている声が聞えた。侍女だの、医者だのが、出迎えに来た。
 病室へ入ると、誰の顔にも、不安さと、涙とがあった。英姫の眼は、泣きはれて、蕾のようになっていたし、七瀬の髪は乱れて、眼が血走っていた。斉彬は、寛之助の枕頭へ坐って、じっと、病児の顔を眺めた。
 寛之助は、眼に見えぬ敵と、何(ど)んなに戦ったのだろう? 三日見ない間に、頬の艶がなくなって、痩せてしまっていた。罪の無い、無邪気な幼児が、たった一人で、乳母の力も、医者の力も、およばないところで、泣きながら、苦しめられながら、怯えながら、死と悪闘している姿を想像すると、斉彬は
「若」
 と、叫んで、涙ぐんだ。血管が青く透いて見える手、せわしく呼吸に喘いでいる落ちくぼんだ胸、愛と、聡明とで黒曜石の如く輝いていた眼は、死に濁されて、どんよりと、細く白眼を見開いているだけであった。
「回復の望みは――」
「はっ」
 と、いって、三人の医者は、頭を下げたままで、何んとも答えなかった。見ない前の心強さが、寛之助のいじらしい姿に、打ちくだかれて、斉彬は、幾度自分の名を呼び、自分を見たく思ったかと思うと、熱い悲しみの球のようなものが、胸から、頭の中までこみ上げて来た。

「痩せたのう」
 と、いって、斉彬は、意識のない寛之助の、手を握った。掌へ感じたのは、熱と骨とだけであった。英姫は、それを見ると、袖を口へ当てて泣き入った。
(せめて――せめて正気のある間に、そうしてやって下さったなら)
 二日前英姫の懐の中で、熱っぽい、だるそうな目をしながら
「お父(とと)は?」
 と、聞いた時、幼児は、それが父に逢う最後だと感じていたにちがいなかった。
「見たいか」
 と、聞くと、はっきり、強く
「お父は?」
 と、いって、頷いた。英姫は、すぐ、侍女に斉彬を迎えにやったが、今行く、今行くと、とうとう斉彬の来ぬうちに、また熱の中へ倒れてしまったのであった。
(何んなに、顔を見たかっただろうか)
 寛之助が、灰色の、広々とした中を、ただ一人で、とぼとぼと、果もなく、父を恋い、母を求めて歩いて行く姿が考え出されて来た。英姫は、袖を噛んで泣き入った。
「寛之助――父(てて)じゃ」
 と、斉彬が叫んだ。だが、幼児の眼は、もう動きもしなかった。
「方庵」
「はっ」
「澄も、邦も、同じ容体で、死んだのう」
「はい」
「未だ匙(さじ)が届かぬか」
 やさしいが、鋭い言葉であった。斉彬のいうのは、当然であったが、方庵には、どうしても解(げ)せぬ病であった。
「七瀬、疲れたであろう」
「いいえ」
「病は、薬よりも、看護じゃ。こういう幼児には、余計にそうじゃで――」
 七瀬は、斉彬の称(ほ)めてくれる言葉を、責められているように聞いた。寛之助の死は、斉彬にとって、後嗣(あとつぎ)を失う大事であると共に、七瀬にとっても、仙波の家を去らなければならぬ大事であった。夫の肩身を狭くし、自分を不幸にさせ――と、思った時
「ひーっ」
 と、寛之助が叫ぶと、斉彬に握られている手も、身体も、力の無い脚も、一度に、病児とは思えぬ程の力で突上げ、顫わせた。脣は、痙攣(けいれん)して、眼は大きく剥き出し、瞳孔を釣上げてしまって、恐怖と、その苦痛とで、半分気を失っているような表情であった。
「寛之助っ」
 斉彬は、不意に、力いっぱいに振切ろうとした寛之助の痩せ細った手を握りしめて、がたがた顫えている子供の身体を、片手で軽く押えながら
「父じゃ――見てみい、父じゃ」
 と、顔を、幼児の眼の上へ、押しつけた。
「見えんか――寛之助っ、父じゃ」
 斉彬の声は、沈黙している部屋中へ響いた。涙声であった。
「七瀬――おそわれると――いつもこうか?」
「はい」
 寛之助の脣は、わくわくと開いたり、閉じたり、身体は烈しくふるえているし、眼は白眼が多くなって、次第に細く閉じられてきた。
「まだ脈はあるが――」
 斉彬は、医者の方を見て
「何か手当の法が無いものか」
 と、口早に聞いた。
「助かるものなら――」
 と、低く、呟いて、七瀬の眼を見た斉彬の睫毛には、涙が溢れるように湧き上って来ていた。

  手首に怨む

「噂をすれば、影とやら――」
 一人が、こういって、隣りの男の耳を引っ張った。
「何をしやがる」
「通るぜ、師匠が」
 お由羅の生家、江戸の三田、四国町、大工藤左衛門の家の表の仕事場であった。広い板畳の上で、五六人の若い男が、無駄話をしていた。
「師匠」
 常磐津富士春は、湯道具を抱えて、通りながら、声と一緒に、笑顔を向けて
「おやっ――」
 立止まって
「お帰んなさいまし」
 と、小藤次に挨拶をした。小藤次とはお由羅の兄で、妹が、斉興の妾となって、久光を生んでから、さらに取立てられて、岡田小藤次利武と、名乗っているのであった。
 小藤次は、袴も、脇差も、奥へ捨てたまま、昔のように、大あぐらで
「入(へえ)ったら――」
「おめかしをして」
 富士春は、媚をなげて、素足の匂を残して行った。
「いい女だのう。第一に、鼻筋が蛙みたいに背中から通ってらあ」
「兄貴を、じっと見た眼はどうだ、おめかしをして――」
「おうおう、誰の仮声(こわいろ)だ」
「師匠のよう」
「笑わせやがらあ、そんなのは、糞色(ばばいろ)といってな――」
「鳴く声、鵺(ぬえ)に似たりけりって奴だ」
「俺(おいら)、あの口元が好きだ。きりりと締まってよ」
「その代り、裾の方が開けっ放しだ。しかもよ、御倹約令の出るまでは、お前、内股まで白粉を塗ってさ」
「御倹約令といやあ、今に、清元常磐津習うべからずってことになるてえぜ」
「そうなりゃ、しめたものだぜ。師匠上ったりで、いよいよ裾をひろげらあ」
 と、いった時、泥溝(どぶ)板に音がして、一人の若い衆が、下駄を飛ばした、片足をあげて、ちんちんもがもがしながら、大きい声で
「とっ、とっと――猫、転んで、にゃんと鳴く。師匠が転べば、金になる――」
 板の間で、それを見た一人が
「庄公、来やあがった」
 と、呟いた。庄吉は、入ろうとして、小藤次に気がつくと
「お帰んなさいまし」
 と、丁寧に、上り口へ手をついた。
「上れ」
「今、酒買うところだ」
「丁度、師匠の帰りに、酌ってことになるかの」
 小藤次が
「庄、どうだ、景気は?」
「へへっ、頭は木櫛(きぐし)ばかり、懐中は、びた銭、御倹約令で、掏摸(すり)は、上ったりでさあ」
「押込なんぞしたら?」
「押込?――押込は、若旦那、泥棒でさあ。品の悪い。掏摸は職人だけど――」
「はははは、そうか――庄吉、いい腕だそうなが、武士のものを掏ったことがあるか」
「御武家衆にゃあ、金目のものが少くってねえ」
「何うだ、一両、はずむが、鮮やかなところを見せてくれんか?」
 小藤次が、こういって、往来を見た時、一人の若侍が、本を読みながら、通りすぎようとしていた。
「あいつの印籠は?」
「朝飯前、一両ただ貰いですかな」
 庄吉は、微笑して腰を上げた。
 出て行こうとする庄吉へ、一人が
「へまやると、これだぞ」
 と、首頸(うなじ)を叩いた。庄吉が、振向いて、自分の腕を叩いた。

 若い侍は、仙波八郎太の倅、小太郎で、読んでいる書物は、斉彬から借りた、小関三英訳の「那波烈翁(ナポレオン)伝」であった。
 父の八郎太が、裁許掛見習として、斉彬の近くへ出るのと、斉彬の若者好きとからで、小太郎は無役の、御目見得以下ではあったが、時々、斉彬に、拝謁することができた。
 斉彬は、時々、そうした若者を集めては、天下の形勢、万国の事情を説いて、新知識の本を貸し与えた。「那波烈翁伝」は、こうした一冊であった。
 近頃、流行(はや)りかけてきた長い目の刀を差して、木綿の紺袴に、絣を着た小太郎を見て、庄吉は
(掏り栄えのしない)
 と、思った。庄吉の狙った印籠は、小太郎の腰に、軽く揺れていたが、黒塗で、蒔絵(まきえ)一つさえない安物であった。
(仲間の奴が見たなら、笑うだろう)
 と、そうした安物を掏る自分へ、嘲ってみた。
(然し、一両になりゃあ――)
 庄吉の冴えた腕は、掏ろうとする品物を生物にした。庄吉が、腕を延すと、その品物の方から、庄吉の掌の中へ、飛び込んで来るのが、常であった。そして、今の仕事は鋭利な鋏(はさみ)を、右手の掌の中へ隠して、紐を指先で切ると同時に、掌へ、印籠を落す、という、掏摸の第一課の仕事であった。
 庄吉は、ぐんぐん近づいて行って、鋏を指の間へ入れた。三尺、二尺――近づいて、鋏を動かすと――ほんの紙一重の差であろう、鋏は、空を挟んで――庄吉は
(侮っちゃあいけねえ)
 と、感じた。そして、次の瞬間、も一度、鋏を突き出して、指を動かすと、紐は、指先へ微かに感じるくらいの、もろさで、切れて、印籠は、嬉しそうに、庄吉の掌の中へ落ち込んだ。庄吉は、満足した。
 だが、それは、ほんの瞬間だけのことであった。庄吉の身体が侍から、一尺と離れぬ内に、侍が振向いた、険しい眼が、庄吉の眼と正面から衝突した。侍が、立止まった。
 庄吉は、それでも、腕に自信があった。掏ったとわかって、振返ったのではなく、自分が余り、近づきすぎたのを怪しんで、振返ったのだと思った。
 だが、それも、ほんの瞬間だけにすぎなかった。庄吉の、引こうとした手が、侍の手で、しっかり握りしめられてしまった。
(ちえっ)
 と、心の中で、舌打ちをして、生(なま)若い侍から侮辱されたように感じて、憤りが湧いてきた。
(小僧のくせに、味な真似を――)
 と、思った。そして、手を握られたまま、小太郎の眼と、じっと、睨み合っていた。振切って、横っ面を、一つなぐって、逃げてやろう、と思った。だが、右手を、十分に取られていて、勝手が悪かったので
「済みません」
 と、油断させておいて――とも、思ったが、こんな小僧に、詫(あやま)るのも癪であった。
「何うするんでえ」
 庄吉は、睨みつけた。小太郎は、微笑した。そして、左手の書物を、静かに、懐へ入れて
「さあ、何う致そうかの」
 と、答えた。

 庄吉も、微笑した。
「江戸は物騒だから、気をつけな」
「不埓(ふらち)者っ」
 小太郎の顔に、さっと、血が動いた。
「何っ?」
 力任せに引く手首を、ぐっと、内へ折り曲げると共に、庄吉の手首から、頭の中まで、血の管、筋骨を、一時に引きちぎるような痛みが、走った。
(手首が折れる)
 と、感じ
(商売が、できなくなる)
 と、頭へ閃いた刹那、庄吉は、若僧の小太郎に、恐ろしさを覚え、怯(お)じけ心を感じたが、その瞬間――ぽんと、鈍い、低い音がして、庄吉の顔が、灰土色に変じた。眉が、脣が、歪んだ。
 往来の人が、立止まって、二人を眺めていた。庄吉は、自分の住居に近いだけに、自分の仕事を人に見られたくなかったし、弱味を示したくもなかった。
 しびれるように痛む手に、左手を添えて、懐へ、素早く入れた。そして、一足退って
「折ったなっ」
「江戸は物騒だ。気をつけい」
 小太郎が、嘲笑して
「印籠は、くれてやる」
 庄吉は、口惜しさに逆上した。左手を、小太郎の頬へ叩きつけようとした時、何かが、胸へ当ってよろめいた。踏み止まろうと、手を振って、足へ力を入れた刹那、足へ、大きい、強い力が、ぶっつかって――青空が、広々と見えると、背中を、大地へぶちつけていた。手首の痛みが、全身へ響いて、庄吉は、歯をくいしばって、暫く、動こうにも、動けなかった。
(取乱しちゃ、笑われる)
 ちらちらと、富士春の顔が、閃いた。
「野郎っ――殺せっ」
 そうとでも、怒鳴るより外に、仕方がなかった。足で、思いきり蹴った。起き上ろうとすると、手首が刺すように痛んだ。
「殺せっ」
 庄吉は、首を振った。小太郎の後姿が、三四間先に見えた。
「待てっ」
 左手をついて、起き上ろうとして、尻餅をついたが、すぐ、飛び起きて
「やいっ」
 走り出した。背中も、髻(もとどり)も、土埃にまみれて、顔色が蒼白に変り、脣が紫色で、眼が凄く、血走っていた。小太郎が、振向いて
「用か」
 庄吉は、小太郎の三四尺前で、睨みつけたまま、立止まった。
「元の通りにしろっ。手前なんぞに、なめられて、このまま引込めるけえ。元通りにするか、殺すか、このままじゃあ、動かさねえんだ――おいっ、折るなら、首根っ子の骨を折ってくれ」
 庄吉は、じりじり近づいた。手首がやけつくように、痛んだ。
(早く手当すりゃ、癒らぬこともあるまい)
 と、思ったりしたが、意地として、後へ引けなかった。印籠一つと、かけ代えに、商売道具を台なしにされたと思うと、怨みと、怒りとで、いっぱいになってきた。
「返事をしろ、返事をっ」
 小太郎は、黙って、歩き出した。かっとなった庄吉は
「うぬっ」
 小太郎の髻を、左手で、引っ掴もうと、躍りかかった刹那、小太郎の体が沈んだ。延びた左手を引かれて腰を蹴られると、たたっとのめり出ると、膝をついてしまった。

「大変だ――若旦那」
 表に立って、庄吉の仕事振りを見ようとしていた若い者が、叫んだ。
「何うした?」
「やり損って――あっ、突き倒されたっ」
 二三人が、跣足(はだし)のまま、土間へ飛び降りて、往来へ出た。往来の人が、皆、庄吉の方を眺めていた。
「喧嘩だっ」
「やられやがった」
 口々に叫ぶと、走り出した。残っていた若者と一緒に、小藤次が、往来へ出ると、庄吉が、起き上ろうとしているところであった。侍は、早足に、歩いて行っていた。
「生(なま)なっ」
 小藤次が、呟いて、走りかけた。一人が後方から
「刀っ」
 小藤次が、振向いて
「早く、持って来いっ」
 と、手を出した。二人が、泥足のまま、奥へ走り込んだ。若い者は、鋸(のこぎり)、鑿(のみ)、棒を持って、走り出した。近所の若い者が、それについて、同じように走った。
 小藤次は、受取った刀を差しながら、その後方から走り出した。
「喧嘩だ」
「喧嘩だっ」
 叫び声が、往来で、軒下で、家の中でした。犬が吠えて走った。子供が走った。
 庄吉は、手首の痛みに、言葉も、脚も出なかった。立上って、小太郎の後姿を、ぼんやり眺めていると
「庄吉っ」
 若い者が、前後からのぞき込んで
「何うした?」
「掏った」
 低い声で、答えて、懐中から、印籠を出した。小藤次らが、追いついて来て
「庄吉、何うした」
「えれえ事をやりゃあがった。痛えっ」
 庄吉は、左手の印籠を、一人に渡して、左手を添えて、袖口から折れた右手を、そろそろと出した。手首の色が変って、だらりと、手が下っていた。
「折りゃあがったんだ」
「折った?」
 一人が叫んで
「畜生っ」
 その男は、鋸を持って走り出した。
「掏摸が、右手を折られりゃ、河童の皿を破(わ)られたんと、おんなじことさ」
 小藤次は、自分の言葉から、一人の名人を台なしにしたことに、責任を感じた。
「待ってろ、庄吉」
 小藤次が、行きかけると、若い者が、走り出した。
「逸(はや)まっちゃならねえ」
 小藤次は、その後方へ、注意して、自分も走り出した。
 小太郎は、小半町余り、行っていたが、走り寄る足音に、振向くと、一人の男が、鋸を構えて
「待てっ、おいっ」
 その後方からも、得物をもった若い者が、走って来ていた。小太郎は、眼を険しくすると、一軒の家の軒下へ、たたっと、走り込んで、身構えした。
「あいつ――何んとか――」
 走りながら、小藤次が呟いて
「俺んとこの、家中の奴だ。何とかいった――軽輩だ」
 と、自分の横に走っている若者へいった。
「御存じの奴ですかい」
 そう答えながら若い者は、小太郎の前で、走りとまった。

「小藤次氏」
 岡田小藤次は、仙波小太郎の顔に見覚えのあるほか、姓も、身分も知らなかったが、小太郎は、お由羅の兄として、家中の、お笑い草として、大工上りの小藤次利武を、十分に知っていた。
 小藤次は、そういって微笑している小太郎の顔を睨みつけながら、走って来た息切れと、怒りとで、言葉が出なかった。ただ、心の中では
(何を、吐(ぬ)かしゃあがる)
 と、叫んでいた。小藤次にとって、士分になったのは、勿論、得意ではあったが、岡田利武という鹿爪(しかつめ)らしさは、自分でも可笑(おか)しかった。そして、自分では、可笑しかったが、人から
「利武殿」
 とか
「小藤次氏」
 とか、呼ばれるのには、腹が立った。軽蔑され、冷笑されているように聞えて、上役の人々からそう呼ばれるのはとにかく、軽輩から
「小藤次殿」
 などと、呼ばれると
「面白くねえ、岡田と呼んでくんねえ」
 と、わざと、職人言葉になった。
 若い者が、じりじり得物を持って、威嚇(おど)しにかかるのを、手で止めて
「手前(てめえ)、誰だ」
 と、小藤次は、十分の落ちつきを見せていった。
「仙波小太郎」
「役は?」
「無役」
「無役?」
 往来の人々が、職人の後方へ、群がってきた。小藤次は、近所の人々の手前、この小生意気な若侍を、何んとか、うまく懲さなくてはならぬように思った。
 齢は、小藤次より、二つ三つ下であろうが、身の丈は、三四寸も、高かった。蒼ざめた顔に、笑を浮べて、鯉口を切ったまま、小藤次の眼を、じっと、凝視めていたが
「御用か」
「用だから、来たんだ。手前、さっきの人間の手を折ったな」
「如何にも――」
「如何にもって、一体、何うするんだ。人間にゃ、出来心って奴があるんだ。出来心って――つい、ふらふらっと、出来心だ。なあ。それに、手を折って済むけえ。納得の行くように、始末をつけてくれ、始末を――始末をつけなけりゃ、俺から、大殿様へ御願えしても、相当のことはするつもりだ。人間の出来心ってのは、こんな日和(ひより)には、ふらふらと起るものだ。それに、手を折るなんて――」
「ふらふらっと、出来心じゃ」
 小藤次の顔が、さっと赤くなると
「何っ」
 と、叫んだ。職人が、じりっと、一足進み出た。
「出来心だ?――出来心で、人様の手を折って――じゃあ、手前、出来心で、殺されても文句は無えな。馬鹿にするねえ、この野郎、人の手を折っときゃあがって、出来心だ? 出来心が聞いて呆れらあ」
「親方、やっつけてしまいなせえ。野郎の手を折りゃ、元々だ」
 職人が、喚いて、得物を動かした。
「猫、鳶に、河童の屁」
 と、通りがかりの男が大きい声をして、人々の後方から覗き込んだ。
「除(ど)きな」
 と、人々の肩を押分けて、前へ出て来た。人々が、振向いて、男を見て、笑った。

「よう、先生っ」
 と、見物の一人が叫んだ。
「南玉(なんぎょく)、しっかり」
「頼むぜっ」
 南玉は、麻の十徳を着て、扇を右手に握って
「今日は、若旦那」
 と、小藤次に、挨拶をした。小藤次は、振向いて、南玉の顔を見ると、一寸うなずいただけで、すぐに、小太郎を睨みつけた。
「今日は」
 小太郎は
「やあ」
 と、答えた。桃牛舎南玉という講釈師で、町内の馴染男であった。小太郎の隣長屋にいる益満休之助のところへよく出入しているので、知っていた。
「喧嘩ですかい、ええ?」
 南玉が、こう聞いたのに返事もしないで、小藤次が
「おいっ、何うする気だ」
 群集が、どよめいて、南玉の立っている後方の人々の中から、庄吉が、土色の顔をしてのめるように出て来た。職人が、振向いて、庄吉の顔から、左手に光っている短刀へ、ちらっと、目を閃(ひらめ)かして
「若旦那っ、庄吉が――」
 庄吉は、職人の止めようと出した手を、身体で掻き分けて
「さあ、殺すか、殺されるか、小僧っ」
 南玉が、両手を突き出して
「いけねえ」
 と、叫んだ。
「庄っ、待てっ」
 小藤次が、周章(あわ)てて、庄吉の肩を押えた。
「待て、庄公」
 同じように、職人が、肩をもった。
「手前なんぞの、青っ臭えのに、骨を折られて、このまま引っ込んじゃ、仲間へ面出しができねえや――若旦那、止めちゃあいけねえ。後生だから――」
 庄吉は、乱れた髪、土のついた着物をもがいて、職人の押えている手の中から、小太郎へ飛びかかろうとした。
「無理もない。大工が、手を折られちゃ、俺が舌を抜かれたようなもんだからのう――小旦那、どうして又、手なんぞ、折りなすったのですい」
 南玉が、聞いた。小太郎は、微笑しただけであった。
「放せったら、こいつ」
 と、庄吉が叫んで、一人の職人へ、泣顔になりながら、怒鳴った。
「だって、お前、お役人でも来たら」
「来たっていいよ。放せったら――」
 庄吉は、口惜しさと、小太郎の冷静さに対する怒りから、涙を滲ませるまでに、興奮して来た。二人の職人が、短刀を持っている手を、腕を、押えていた。
「放せっ――放してくれ、後生だっ」
 庄吉は、泣声で叫んだ。
「話は、俺がつける。庄吉」
 小藤次は、こういって、職人に、眼で、庄吉をつれて行け、と指図した。
「庄公、落ちついて――取乱しちゃ――」
「取乱す?――べらぼうめ――放せったら、こいつ、放さねえか」
 庄吉は、肩を烈しく揺すって、一人を蹴った。
「とにかく、ここで、話はできねえ、俺んとこまで、一緒に来てくれ」
 小藤次が、こういった時、群集の後方から、大きい声で
「仙波っ、何をしている。寛之助様、お亡くなりになったぞ」
 と、口早に叫んだものがあった。

 小太郎も、小藤次も、その声の方へ、眼をやった。群集の肩を、押除(の)けているのは、益満であった。
 小太郎は、益満の顔を、じっと見ながら、庄吉を無理矢理に押して行く職人の、後方を、益満へ足早に近づいて
「何時?」
 と、叫んだ。それが、事実であったなら、父母は、離別しなければならないのであった。
「今し方」
「誰から聞いたか?」
 二人は、群集の、二人を見る顔の真中で、じっと、お互に、胸の中の判る眼を、見合せた。
「名越殿から――すぐ戻れっ。下らぬ人足を対手にしておる時でない」
 益満は、小藤次の顔を睨みつけた。小藤次は、乱暴者としての益満と、才人としての益満とを、見もしたし、聞いてもいた。それよりも、今の、寛之助が死んだ、という言葉が、小藤次の心を喜ばした。
(妹が、喜ぶだろう)
 と、思うと同時に、もし、妹の子の久光が島津の当主になったなら、俺は、益満も、この小僧も、ぐうの音も出ないような身分になれるんだ、と考えた。そして、そう考えると、益満が
「下らぬ人足」
 と、いったのも、小太郎の振舞も、大して腹が立たなくなってきた。だが、二人が、群集の中を分けて行こうとするのへ
「何うするんだ」
 と、浴せかけた。益満が、仙波に、何か囁いた。仙波が、庄吉の方を顎で指して、何か云った。
「利武っ」
 と、益満が怒鳴った。
「大工の守(かみ)利武なんぞに懸け合われる筋もないことだ。申し分があれば、月番まで申して出い。
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