南国太平記
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著者名:直木三十五 

「返事をしろ、返事をっ」
 小太郎は、黙って、歩き出した。かっとなった庄吉は
「うぬっ」
 小太郎の髻を、左手で、引っ掴もうと、躍りかかった刹那、小太郎の体が沈んだ。延びた左手を引かれて腰を蹴られると、たたっとのめり出ると、膝をついてしまった。

「大変だ――若旦那」
 表に立って、庄吉の仕事振りを見ようとしていた若い者が、叫んだ。
「何うした?」
「やり損って――あっ、突き倒されたっ」
 二三人が、跣足(はだし)のまま、土間へ飛び降りて、往来へ出た。往来の人が、皆、庄吉の方を眺めていた。
「喧嘩だっ」
「やられやがった」
 口々に叫ぶと、走り出した。残っていた若者と一緒に、小藤次が、往来へ出ると、庄吉が、起き上ろうとしているところであった。侍は、早足に、歩いて行っていた。
「生(なま)なっ」
 小藤次が、呟いて、走りかけた。一人が後方から
「刀っ」
 小藤次が、振向いて
「早く、持って来いっ」
 と、手を出した。二人が、泥足のまま、奥へ走り込んだ。若い者は、鋸(のこぎり)、鑿(のみ)、棒を持って、走り出した。近所の若い者が、それについて、同じように走った。
 小藤次は、受取った刀を差しながら、その後方から走り出した。
「喧嘩だ」
「喧嘩だっ」
 叫び声が、往来で、軒下で、家の中でした。犬が吠えて走った。子供が走った。
 庄吉は、手首の痛みに、言葉も、脚も出なかった。立上って、小太郎の後姿を、ぼんやり眺めていると
「庄吉っ」
 若い者が、前後からのぞき込んで
「何うした?」
「掏った」
 低い声で、答えて、懐中から、印籠を出した。小藤次らが、追いついて来て
「庄吉、何うした」
「えれえ事をやりゃあがった。痛えっ」
 庄吉は、左手の印籠を、一人に渡して、左手を添えて、袖口から折れた右手を、そろそろと出した。手首の色が変って、だらりと、手が下っていた。
「折りゃあがったんだ」
「折った?」
 一人が叫んで
「畜生っ」
 その男は、鋸を持って走り出した。
「掏摸が、右手を折られりゃ、河童の皿を破(わ)られたんと、おんなじことさ」
 小藤次は、自分の言葉から、一人の名人を台なしにしたことに、責任を感じた。
「待ってろ、庄吉」
 小藤次が、行きかけると、若い者が、走り出した。
「逸(はや)まっちゃならねえ」
 小藤次は、その後方へ、注意して、自分も走り出した。
 小太郎は、小半町余り、行っていたが、走り寄る足音に、振向くと、一人の男が、鋸を構えて
「待てっ、おいっ」
 その後方からも、得物をもった若い者が、走って来ていた。小太郎は、眼を険しくすると、一軒の家の軒下へ、たたっと、走り込んで、身構えした。
「あいつ――何んとか――」
 走りながら、小藤次が呟いて
「俺んとこの、家中の奴だ。何とかいった――軽輩だ」
 と、自分の横に走っている若者へいった。
「御存じの奴ですかい」
 そう答えながら若い者は、小太郎の前で、走りとまった。

「小藤次氏」
 岡田小藤次は、仙波小太郎の顔に見覚えのあるほか、姓も、身分も知らなかったが、小太郎は、お由羅の兄として、家中の、お笑い草として、大工上りの小藤次利武を、十分に知っていた。
 小藤次は、そういって微笑している小太郎の顔を睨みつけながら、走って来た息切れと、怒りとで、言葉が出なかった。ただ、心の中では
(何を、吐(ぬ)かしゃあがる)
 と、叫んでいた。小藤次にとって、士分になったのは、勿論、得意ではあったが、岡田利武という鹿爪(しかつめ)らしさは、自分でも可笑(おか)しかった。そして、自分では、可笑しかったが、人から
「利武殿」
 とか
「小藤次氏」
 とか、呼ばれるのには、腹が立った。軽蔑され、冷笑されているように聞えて、上役の人々からそう呼ばれるのはとにかく、軽輩から
「小藤次殿」
 などと、呼ばれると
「面白くねえ、岡田と呼んでくんねえ」
 と、わざと、職人言葉になった。
 若い者が、じりじり得物を持って、威嚇(おど)しにかかるのを、手で止めて
「手前(てめえ)、誰だ」
 と、小藤次は、十分の落ちつきを見せていった。
「仙波小太郎」
「役は?」
「無役」
「無役?」
 往来の人々が、職人の後方へ、群がってきた。小藤次は、近所の人々の手前、この小生意気な若侍を、何んとか、うまく懲さなくてはならぬように思った。
 齢は、小藤次より、二つ三つ下であろうが、身の丈は、三四寸も、高かった。蒼ざめた顔に、笑を浮べて、鯉口を切ったまま、小藤次の眼を、じっと、凝視めていたが
「御用か」
「用だから、来たんだ。手前、さっきの人間の手を折ったな」
「如何にも――」
「如何にもって、一体、何うするんだ。人間にゃ、出来心って奴があるんだ。出来心って――つい、ふらふらっと、出来心だ。なあ。それに、手を折って済むけえ。納得の行くように、始末をつけてくれ、始末を――始末をつけなけりゃ、俺から、大殿様へ御願えしても、相当のことはするつもりだ。人間の出来心ってのは、こんな日和(ひより)には、ふらふらと起るものだ。それに、手を折るなんて――」
「ふらふらっと、出来心じゃ」
 小藤次の顔が、さっと赤くなると
「何っ」
 と、叫んだ。職人が、じりっと、一足進み出た。
「出来心だ?――出来心で、人様の手を折って――じゃあ、手前、出来心で、殺されても文句は無えな。馬鹿にするねえ、この野郎、人の手を折っときゃあがって、出来心だ? 出来心が聞いて呆れらあ」
「親方、やっつけてしまいなせえ。野郎の手を折りゃ、元々だ」
 職人が、喚いて、得物を動かした。
「猫、鳶に、河童の屁」
 と、通りがかりの男が大きい声をして、人々の後方から覗き込んだ。
「除(ど)きな」
 と、人々の肩を押分けて、前へ出て来た。人々が、振向いて、男を見て、笑った。

「よう、先生っ」
 と、見物の一人が叫んだ。
「南玉(なんぎょく)、しっかり」
「頼むぜっ」
 南玉は、麻の十徳を着て、扇を右手に握って
「今日は、若旦那」
 と、小藤次に、挨拶をした。小藤次は、振向いて、南玉の顔を見ると、一寸うなずいただけで、すぐに、小太郎を睨みつけた。
「今日は」
 小太郎は
「やあ」
 と、答えた。桃牛舎南玉という講釈師で、町内の馴染男であった。小太郎の隣長屋にいる益満休之助のところへよく出入しているので、知っていた。
「喧嘩ですかい、ええ?」
 南玉が、こう聞いたのに返事もしないで、小藤次が
「おいっ、何うする気だ」
 群集が、どよめいて、南玉の立っている後方の人々の中から、庄吉が、土色の顔をしてのめるように出て来た。職人が、振向いて、庄吉の顔から、左手に光っている短刀へ、ちらっと、目を閃(ひらめ)かして
「若旦那っ、庄吉が――」
 庄吉は、職人の止めようと出した手を、身体で掻き分けて
「さあ、殺すか、殺されるか、小僧っ」
 南玉が、両手を突き出して
「いけねえ」
 と、叫んだ。
「庄っ、待てっ」
 小藤次が、周章(あわ)てて、庄吉の肩を押えた。
「待て、庄公」
 同じように、職人が、肩をもった。
「手前なんぞの、青っ臭えのに、骨を折られて、このまま引っ込んじゃ、仲間へ面出しができねえや――若旦那、止めちゃあいけねえ。後生だから――」
 庄吉は、乱れた髪、土のついた着物をもがいて、職人の押えている手の中から、小太郎へ飛びかかろうとした。
「無理もない。大工が、手を折られちゃ、俺が舌を抜かれたようなもんだからのう――小旦那、どうして又、手なんぞ、折りなすったのですい」
 南玉が、聞いた。小太郎は、微笑しただけであった。
「放せったら、こいつ」
 と、庄吉が叫んで、一人の職人へ、泣顔になりながら、怒鳴った。
「だって、お前、お役人でも来たら」
「来たっていいよ。放せったら――」
 庄吉は、口惜しさと、小太郎の冷静さに対する怒りから、涙を滲ませるまでに、興奮して来た。二人の職人が、短刀を持っている手を、腕を、押えていた。
「放せっ――放してくれ、後生だっ」
 庄吉は、泣声で叫んだ。
「話は、俺がつける。庄吉」
 小藤次は、こういって、職人に、眼で、庄吉をつれて行け、と指図した。
「庄公、落ちついて――取乱しちゃ――」
「取乱す?――べらぼうめ――放せったら、こいつ、放さねえか」
 庄吉は、肩を烈しく揺すって、一人を蹴った。
「とにかく、ここで、話はできねえ、俺んとこまで、一緒に来てくれ」
 小藤次が、こういった時、群集の後方から、大きい声で
「仙波っ、何をしている。寛之助様、お亡くなりになったぞ」
 と、口早に叫んだものがあった。

 小太郎も、小藤次も、その声の方へ、眼をやった。群集の肩を、押除(の)けているのは、益満であった。
 小太郎は、益満の顔を、じっと見ながら、庄吉を無理矢理に押して行く職人の、後方を、益満へ足早に近づいて
「何時?」
 と、叫んだ。それが、事実であったなら、父母は、離別しなければならないのであった。
「今し方」
「誰から聞いたか?」
 二人は、群集の、二人を見る顔の真中で、じっと、お互に、胸の中の判る眼を、見合せた。
「名越殿から――すぐ戻れっ。下らぬ人足を対手にしておる時でない」
 益満は、小藤次の顔を睨みつけた。小藤次は、乱暴者としての益満と、才人としての益満とを、見もしたし、聞いてもいた。それよりも、今の、寛之助が死んだ、という言葉が、小藤次の心を喜ばした。
(妹が、喜ぶだろう)
 と、思うと同時に、もし、妹の子の久光が島津の当主になったなら、俺は、益満も、この小僧も、ぐうの音も出ないような身分になれるんだ、と考えた。そして、そう考えると、益満が
「下らぬ人足」
 と、いったのも、小太郎の振舞も、大して腹が立たなくなってきた。だが、二人が、群集の中を分けて行こうとするのへ
「何うするんだ」
 と、浴せかけた。益満が、仙波に、何か囁いた。仙波が、庄吉の方を顎で指して、何か云った。
「利武っ」
 と、益満が怒鳴った。
「大工の守(かみ)利武なんぞに懸け合われる筋もないことだ。申し分があれば、月番まで申して出い。掏摸の後押しをしたり、お妾の尻押しをしたり――それとも果し合うならな、束になってかかって参れ、材木を削るよりも、手答えがあるぞ」
 益満の毒舌は、小藤次の啖呵(たんか)よりも、上手であった。小藤次は士言葉で、巧妙な啖呵を切る益満に、驚嘆した。
(おれなんぞ、職人言葉なら、相当、べらべら喋るが、御座り奉る言葉じゃあ、用件も、満足に足せねえのに、掏摸の後押し、妾の尻押し、なんぞ――うまいことをいやあがる)
 と、思った。途端に
「ようよう」
 と、南玉が、叫んで、手をたたいた。
「何っ――もう一度、吠えてみろ」
 小藤次が、睨んだので、南玉は
「いえ――」
 周章てて、益満の方へ、走り寄った。益満は、もう群集の外へ出て、群集に、見送られながら、小太郎と、足早に歩きかけていた。
「あら、何奴(なにやつ)で」
 と、職人が、小藤次に聞いた。
「あれが――益満って野郎だ。芋侍の中でも、名代のあばれ者で、二十人力って――」
「若い方も、強そうじゃ、ござんせんか」
「あいつか」
 二人が、湯屋の前を通り過ぎようとすると、暖簾(のれん)の中から、鮮かな女が、出て来て
「おや、休さん」
「富士春か」
「寄らんせんか」
 富士春は、鬢(びん)を上げて、襟白粉だけであった。小太郎は、ちらっと見たまま、先へ歩いて行った。益満は、小太郎を追いながら
「急用があって」
 と、答えた。
「晩方に、是非――」
 と、富士春が、低く叫んで、流し目に益満を見た。

 小太郎は、自分の歩いていることも、益満のいることも、南玉が、ついて来ることも、忘れていた。
(父は、きっと、家中への手前として、自分の面目として、寛之助様が亡くなったとしたなら、母を離別するだろう。医者の手落であっても、御寿命であっても、又、噂の如く調伏であったにしても――そして、離別されて、母は、一体、どうするだろう?――母に何んの罪もないのに、ただ、家中へ自分の申し訳を立てるだけで、妻と別れ、子と引放し、一家中を悲嘆の中へ突き落して――それが、武士の道だろうか)
 南玉は、二人の背後から、流行唄の
君は、高根の白雲か
浮気心の、ちりぢりに
流れ行く手は、北南
昨日は東、今日は西
 と、唄っていた。益満が
「小太」
 小太郎が、振向くと、益満は、微笑して
「又とない機が来た」
 小太郎は、父母のことで、いっぱいだった。
「関ヶ原以来八十石が、未だ八十石だ。それもよい。我慢のならぬのは、家柄、門閥――薄のろであろうと、頓馬(とんま)であろうと、家柄がよく、門閥でさえあれば、吾々微禄者はその前で、土下座、頓首せにゃあならぬ。郷士の、紙漉(かみすき)武士の、土百姓のと、卑(さげす)まれておるが、器量の点でなら、家中、誰が吾々若者に歯が立つ。わしは、必ずしも、栄達を望まんが、そういう輩に十分の器量を見せてやりたい。器量を振ってみたい。それにはいい機(おり)だ。又とない機だ。この調伏――陰謀が、何の程度か判らぬが、小さければ、わしは、わしの手で大きくしてもよいと思うし、真実でなければ、わしが、真実にしてもよいとさえ思うている。小太」
 益満は、小太郎の顔を見た。
「うむ」
「何を考えている」
「わしは――」
 小太郎は、益満の眼を見ながら
「父は、例の気質じゃで、今度の、お守りのことで、母を離別するにきまっている」
「或いは――然らん」
 益満が、うなずいた。
「大分、こみ入ってますな」
 南玉が、後方から、声をかけて
「智慧がお入りなれば、上は天文二十八宿より、下は色事四十八手にいたるまで、いとも、丁寧親切に御指南を――」
「うるさいっ。貴様、先へ行って待っていろ」
 益満が、振返って叱った。
「承知」
 南玉が、手を上げて、小太郎へ挨拶して、足早に、行ってしまった。
「わしに、一策がある。母上が、戻られたなら、知らせてくれ」
「一策とは?」
 益満は、声を低くして、小太郎に、何か囁いた。小太郎は、幾度もうなずいた。
「これが外れても、未だ他の手段(てだて)がある。所詮は、八郎太が一手柄立てさえすればよいのではないか――こういう機――一手柄や、二手柄――」
 益満は、怒っているような口調であった。三田屋敷の門が見えた。

 八郎太は、自分の丹精した庭の牡丹を眺めながら、腕組をしていた。
「只今」
 と、小太郎がいっても、振向きもしなかった。それは、もう、寛之助の死を知り、心ならずも、妻を離別しなくてはならぬ人の悲しい態度であった。
 母としての七瀬は、三人の子にとって、父八郎太よりも、親しみが多かった。そして、英姫の侍女としての七瀬は、その儕輩(さいはい)よりも群を抜いていた。八郎太の妻としては、或いは過ぎたくらいの賢夫人であった。それだけに、今度のことの責任は重かった。それだけに、八郎太としては、容赦の無い処分を妻に加えて、自分の正しさを家中へ、示さなくてはならなかった。
「寛之助様のことは――」
「聞いた」
 八郎太は、なお、牡丹を見たままであった。
「母上のことにつきまして――」
「お前は、文武にいそしんでおればよい」
 父は振向いた。
「髪が乱れて――何かしたの?」
「掏摸を懲らしてやりました」
「下らぬ真似をするのでない」
 八郎太は、これだけいうと、又庭の方へじっと眼をやった。小太郎には、父の苦しさ、悲しさが、十分にわかっていた。そして、母の苦しさ、悲しさもわかっていた。
(益満のいった手段を――)
 と、思った時、玄関で
「お母様」
 と、姉娘綱手の声――すぐ、つづいて妹深雪の、笑い声がした。八郎太は、眉一つ動かさなかった。小太郎は、すぐ起るにちがいのない、夫婦、母子の生別(いきわかれ)の場面を想像して、心臓を、しめつけられるように痛ませた。
小手を、かざして
御陣原見れば
武蔵鐙(あぶみ)に、白手綱
鳥毛の御槍に、黒纏(まとい)
指物、素槍で、春霞
 益満の家から、益満の声で、益満の三味線で、朗らかな唄が聞えて来た。
お馬揃えに、花吹雪
桜にとめたか、繋ぎ馬
別れまいとの、印かや
ええ、それ
流れ螺(がい)には、押太鼓
陣鐘たたいて、鬨(とき)の声
さっても、殿御の武者振は
黄金の鍬形、白銀小実(しろこざね)――
 八郎太も、小太郎も、黙って、その唄を聞いていた。何をいっていいか、何を考えていいか、わからなかった。罪もなく、尽すべきことを尽して、そして、離別されに戻って来た妻の顔、母の顔が、今すぐに見えるのかと思うと、いらいらした怒りに似たものと、取りとめのない悲しいものとが、胸いっぱいになってきた。
 つつましい足音が聞えてきた。襖が開いた。小太郎は、母だと思ったが、顔を見るのさえ辛かった。振向いて、眼を外(そ)らしながら
「お帰りなされませ」
 と、いった。
「只今――」
 そういった七瀬の声は、小太郎が考えていたよりも、晴々としていた。小太郎は、うれしかった。

(医者が、侍臣が十分に、手を尽しても、助からぬのだから、何も、妻の手落ちばかりというのではないが――重役の方々のお眼鏡に叶(かな)って、御乳母役に取立てられたのに、その若君がおなくなり遊ばされた以上は、のめのめ夫婦揃って、勤めに上ることもできん。妻の不行届を御重役に詫び、わしの心事を明らかにするためには、とにかく当分の離縁の外に方法がない。そのうちに、誰かが、仲へ入ってくれるであろうが――)
 八郎太は、その面目上から、立場から、妻の責任を、こうして負うより外になかった。振返って七瀬を見ると、七瀬は眼を赤くして、げっそりとやつれていた。眼の色も、干(かわ)いて、悪くなっていた。
 八郎太は、慰めてやりたかった。可哀そうだ、とも思った。こいつの性質として、十分に努力はしただろうと思った。だが、もし、寛之助様の病がよくなったのだとしたら、自分は、どんなに肩身が広く、出世ができるか? と思うと、何んだか、七瀬の背負っている運が、曲っているようで、不快でもあった。
 七瀬は、部屋の中へ入って、後ろ手に襖を閉めた。そして
「お詫びの申し上げようもござりません」
 両手をついて、頭を下げた。
「仕方がない」
 八郎太は、低く、短く、こういったきりであった。
「ただ一つ、不思議な事がござりまして、それを申し上げたく、取急いで、戻って参りました」
 小太郎は、ほっとした。何か、母が、証拠でも握ってくれたのであろう。それならば、それを手柄にして、円満に行けば――と、母の顔を見た。
「どういう?」
「一昨日の夜のことでございます。夢でもなく、うつつでもなく、凄い幻を見ましたが、これが、若君を脅かすらしく、幻が出ますと、急に――」
 八郎太の眼が、険しく、七瀬へ光った。
「たわけっ」
 八郎太は、睨みつけた。
「何を申す、世迷言(よまいごと)を――」
 その声の下から
「御尤(ごもっと)もでござります。お叱りは承知致しております。人様にも、誰にもいえぬ、奇怪な事がござりますゆえ、未だ、一言も申しませぬが、貴下(あなた)へ、せめて――」
「たわけたことを申すなっ」
 八郎太は、七瀬が夢のような事をいい出したので、怒りに顫(ふる)えてきた。常は、こんなではないのに、余り大事の役目で、少しどうかしたのではないか、と思った。
「然し、父上――母様、もう少し詳しく、腑に落ちるようにお話しなされては」
 と、小太郎が取りなした。
「黙れ、そちの知ったことではない」
「然し」
「黙らぬか」
「はい」
 小太郎は立上った。益満を呼ぶより外にないと思った。そして、玄関の次の間に行って、妹の深雪に
「すぐ益満を呼んで――母が戻って来たからと」
 深雪の背を突くようにして、せき立てた。

「――形を、見極めもしませずに、話のできることではござりませぬが、確かに、この眼で見たにちがいござりませぬ。急に、御部屋の中が暗くなりまして――齢の頃なら四十余り、その面影が、牧仲太郎様に、似ておりましたが――」
「牧殿は三十七八じゃ」
 綱手が、小太郎の後方から入って来た。そして、いっぱいに涙をためた眼で、八郎太を見ながら、両手をついた。
「お父様」
 八郎太は、綱手に、見向きもしないで
「七瀬、予(かね)て、申しつけておいた通り、勤め方の後始末を取急いで片付け、すぐ、国へ戻れ。許しのあるまで、二度と、この敷居を跨ぐな」
「はい」
「お父様」
 綱手は、泣声になった
「お母様に――お母様に――」
「お前の知ったことでない、あちらへ行っておいで」
「いいえ、妾(わたし)は――」
「それから、手廻りの品々は、船便で届けてやる。早々に退散して、人目にかからぬように致せ」
 罪のない妻を、こうして冷酷に扱うということが、武士の意地だと、八郎太には思えた。この恩愛の別離の悲嘆を、こらえることが、武士らしい態度だと、信じていた。
 又、妻をこう処分して、武士らしい節義を見せるほか、この泰平の折に、忠義らしい士の態度を示すことは、外になかった。こうすることだけが、唯一の忠義らしいことであった。
ざんば岬を
後にみて
袖をつらねて諸人の
泣いて別るる旅衣
 益満が、大きい声で、唄いながら、庭の生垣のところから、覗き込んだ。
「お帰りなさい」
 七瀬に、挨拶して、生垣を、押し分けて入って来た。そして、綱手の顔を見ると
「何を叱られた?」
 綱手は、袖の中へ、顔を入れた。
「若君、お亡くなりになったと申しますが、小父上――前々よりの御三人の御病症と申し、ただ事ではござりますまい」
「或いは――」
「七瀬殿を幸い、そのまま、奥の機密を、探っては?」
「七瀬は――離別じゃ」
 益満は、腕組をして、脣を尖らせた。
「離別」
「止むを得まい。仙波の家の面目として」
「面目が立てば?」
「立てば?」
「某(それがし)に、今夜一晩、この話を、おあずけ下さらんか。小太郎と談合の上にて、聊(いささ)か考えていることがござる」
「何ういう?」
「それは――のう、小太。云わぬが、花で。小父上、若い者にお任せ下されませぬか」
 八郎太は、益満の才と、腕とを知っていた。
 齢を超越して、尊敬している益満であった。

「益満様」
 七瀬が、一膝すすんで
「只今も、叱られましたところで――怪力乱神を語らずと申しますが、不思議な事が、御病室でござりました」
 小太郎も、益満も、七瀬の顔を、じっと眺めた。
「五臓の疲れじゃ。埓(らち)もない」
 八郎太は呟いた。
「何うした事が?」
「幻のような人影が、和子様へ飛びかかろうとして、それが現れると、和子様はお泣き立てになりましたが、それが、どうも、牧様に――ただ齢が、五つ、六つもふけて見えましたが――」
 益満は、うなずいた。小太郎は、益満の眼を凝視していた。その小太郎の眼へ、益満は
(そうだろうがな)
 と、語った。
「聞き及びますと――」
 益満は、膝の上に両手を張って、肩を怒らせながら、八郎太から七瀬を見廻して
「当家秘伝の調伏法にて、人命を縮める節は、その行者、修法者は一人につき、二年ずつ己の命をちぢめると、聞いております。その幻が、牧仲太郎殿に似て、四十ぐらいとあれば――牧殿は――」
 益満が指を繰った。八郎太が
「牧殿は、七八であろう」
 益満は、腕を組んで俯向いていたが
「牧殿は、お由羅風情の女に、動かされる仁ではござるまい――小父上」
「うむ」
「さすれば――」
 そういって、益満は、黙ってしまった。一座の人も俯向いたり、膝を見たりして、黙っていた。
「斉興公が」
 小太郎が、当主の名を口へ出すと共に、八郎太が
「小太っ」
 と、睨みつけて、叱った。益満は、うなずいた。
「濫(みだ)りに、口にすべき御名ではない。慎め」
「はい」
「次に、調所笑左衛門――これが、右の腕でござろう。そして、牧は、調笑に惚れ込んで、己の倅を大阪の邸にあずけておるが、国許は知らず、江戸の重役、その他、重な人々は、恐らく、斉彬公を喜んではおりますまい――のう、小父上」
「そう」
「悉く、斉彬公のなさる事へ反対らしい。第一に、軽輩を御引立てになるのが、気に入らぬ。この間も、御目通りをして、『三兵答古知幾(さんぺいとうこちき)』を拝借して退って来ると、御座敷番の貴島太郎兵衛が、何を持っているか――突きつけてやると、又、重豪公の二の舞を、何故、貴公達諫めんかと、こうじゃ」
「斉彬公を外国方にしようとする幕府の方針を、彼奴らは、木曾川治水で、金を費わされたのと同じに見ている、調所さえ、そうじゃものなあ」
 小太郎は、顔を、心もち赤くして、静かにいった。

「とうとうとうと、御陣原へ出まして、小手をかざして眺めますと、いやあ――押しも寄せたり、寄せも、押したり、よせと云っても、押してくる武蔵鐙に、白手綱、その勢、凡そ二百万騎、百万騎なら一繰りだが、槍繰りしても、八十石、益満休之助の貧棒だ。こう太くなっては、振り廻せぬ――」
 一人ぼっちになった南玉は、薄暗くなってくる部屋の中で、大声で、怒鳴り立てていた。綱手が
「南玉さん?」
 と、益満を見て、微笑むと、深雪は、袖を口へ当てて、笑いこけた。
「はははは、この盆が越せるやら、越せぬやら」
 益満は、笑って
「時に、七瀬殿、某と、小太との計(ほかりごと)が、うまく行く、行かぬにせよ、大阪表へ行って、調所を探る気はござりませぬか」
「さあ、話に――よっては――」
 七瀬は、八郎太の顔を見た。八郎太は、黙って、庭の方を眺めていた。廊下へ、灯影がさして、女中が、燭台を持って来た。深雪が振袖を翻(ひるがえ)して、取りに立った。
「のう、綱手殿」
「ええ?」
 綱手は、周章てて、少し、耳朶(みみたぶ)を赤くしながら、ちらっと、益満を見て、すぐに眼を伏せた。
「母上と同行して、大役を一つ買われぬかのう」
「大役? どういう?」
「操を捨てる――」
 益満は、強い口調で云った。綱手は、真赤になった。七瀬が
「それは?」
「場合によって、調所の妾ともなる。又、時によって、牧の倅とも通じる」
「益満――」
 と、八郎太が、眉を歪めた。益満は、平気であった。
「夫の為に、捨てるものなら、家の為に捨てても宜しい。操などと、たわいもない、七十になって、未通女(おぼこ)だと申したなら、よく守って来たと称められるより、小野の小町だと、嗤(わら)われよう。棄つべき時に棄つ、操を破って、操を保つ――」
「然し、益満さま、あんまりな――」
 七瀬が、やさしく云った。
「いいや、女が、男を対手に戦って勝つに、その外の何がござる。某なら、そういう女子こそ、好んで嫁に欲しい」
「はははは、益満らしいことを申す。それも一理」
 八郎太が、微笑して頷いた。綱手も、深雪も、俯向いていた。
「そろそろ暗うなってきた。小太、小者にならぬと、咎められると思うが、その用意をして、例の――師匠のところへ来ぬか」
「心得た」
 益満が、立上った。
「猫、鳶に、河童の屁とは行かない蚊だ――益満さん、油はござんせんか。あっしゃ、夜になると、眼が見えない病でねえ」
 南玉が、廊下へ立って叫んでいるらしかった。
「今、戻る」
 益満は、庭へ出た。
「闇だの、小太」
 と、振向いて、すぐ、歩いて行った。

  泥人形

 常磐津富士春は、常磐津のほか、流行唄も教えていた。
 襖を開けた次の間で、若い衆が、三人、膝を正して
錦の金襴、唐草模様
お馬は栗毛で、金の鞍
さっても、見事な若衆振り
「そう――それ、紫手綱で」
 富士春は、少し崩れて、紅いものの見える膝へ三味線を乗せて、合の手になると、称めたり、戯談(じょうだん)をいったりして、調子のいい稽古をしていた。
 表の間の格子のところで、四人の若い衆が、時々富士春を眺めたり、格子の外に立っている人を、すかして見たりしながら、四方山(よもやま)話をしていた。
「その毛唐人がさ、腰をかけるってのは、膝が曲らねえからだよ。膝さえ曲りゃあ、ちゃんと、畳の上へ坐らあね」
 南玉が、表の格子をあけて、提灯の下から
「今晩は――益満さんは?」
「まだ見えていないよ」
「そうかい、もう見えるだろうが、見えたら、これを渡して」
 と、風呂敷包を置いて、出かけようとする後姿へ
「先生、一寸一寸」
「何か用かの」
「毛唐の眼玉の蒼いのは、夜眼が見えるからだって、本当かい?」
「話説(わせつ)す。目の当り、奇々怪々な事がありやした」
「又、諸葛孔明が、とんぼ切りの槍を持ってあばれたかの」
「怎生(そもさん)、これを何んぞといえば、呼遠筒と称して、百里の風景を掌にさすことができる、遠眼鏡の短いようなものでの。つまり、毛唐人の眼は夜見える代りに、遠見が利かん。一町先も見えんというので発明したのが、覗眼鏡に、呼遠筒、詳しくは、寄席へ来て、きかっし」
 南玉が出て行くと
「八文も払って、誰が、手前の講釈なんぞ聞くか」
 富士春の稽古部屋では、時々、小さい女が出入して、蝋燭の心を切った。
「この流行唄は、滅法気に入ったのう。俺の宗旨は、代々山王様宗だが、死んだら一つ、今の合の手で
お馬は栗毛で
金の鞍
ってんだ」
 富士春が、媚びた眼と、笑いとを向けて
「お静かに」
 と、いった。
「東西東西。お静かお静か。それで、その馬へ、綺麗な姐御を乗せての、馬の廻りは、万燈を立てらあ。棺桶の前では、この吉公が、ひょっとこ踊りをしながら、練り歩くんだ。手前の面が、一生に一度、晴れ立つんだ。たのむぜ」
「よし、心得た。友達のよしみに、今殺してやる。手前殺すに刃物はいらぬ、にっこり笑って眼で殺す」
「ぶるぶるっ、今の眼は、笑ったのか、泣いたのか」
 稽古場から
「煩(うるさ)い」
 と、一人が怒鳴った時、誰か表から入って来た。

「よう」
 と、一人が、のびやかに迎えて、会釈をした。
「今日は、少いのう」
 益満は、刀をとって、部屋の隅へ置いた。富士春が、軽く、挨拶をした。
「病人の見舞で」
「誰か、病気か」
「寅んとこの隣りの大工が、人にからかって手首を折りましてな」
「庄吉という男か」
「御存じですかい」
「わしの朋輩が折ったのだ。あいつは、掏摸でないか」
「ええ、時々やります。しかし根が、真直ぐな男で、悪い事って、微塵もしませんや」
「悪い事をせぬて。掏摸でないか」
「だって、掏摸と、泥棒たあちげえますぜ。庄吉なんざ、あっさりした、気のいい男ですぜ。あいつの手を折るなんざ、可哀そうだ」
「全く」
 稽古部屋の人々が出て来た。富士春は、小女の出す湯呑を一口飲んで
「休さん、南玉先生から、さっき、御土産が――」
「そうそう」
 と、一人が風呂敷包を渡した。益満が、開けると
「何んだ。薄汚い」
 一人が、こういって、益満の顔を見た。
「山猫を買いに行くのには、これに限る」
 富士春が
「悪い病だねえ」
「師匠の病気と、何(いず)れ劣らぬ」
 と、いいながら、益満は、袴をぬいで
「小道具を、一つあずかって置いてもらいたい。猫は買いたし、御門はきびし」
 益満は、そういいながら、部屋の隅で、汚い小者姿になって、脇差だけを差した。そして、両手をひろげて
「三両十人扶持、似合うであろうがな」
 と、笑った。
 富士春は、次の稽古の人々へ、三味線を合して
「主の姿は、初鮎か、青葉がくれに透いた肌、小意気な味の握り鮨と。さあ、ぬしいの」
 と、唄いかけた時
「頼もう」
 と、低いが、強い声がした。そんな四角張った案内は久しく聞いたことがなかった。御倹約令以来、侍は土蔵の中へ入って三味線を弾くくらいで、益満一人のほか、ぴたりと、稽古をしに来なくなったし――富士春は、唄をやめて、不安そうな眼をした。
(役人が、又何か、煩(うるさ)いことを)
 と、思った。
「入れ」
 益満が、答えた。格子が開いたので、富士春も人々も、大提灯のほの暗い蔭の下に立った人を眺めた。
(あいつだ)
 と、人々の中の二人――昼間の喧嘩を見ていた人は思い出した。富士春は
(まあ、いい男――休さんの朋輩には、稀(めず)らしい――)
 と、じっと、小太郎の顔を眺めていた。

 益満と小太郎とは、小者風であった。脇差を一本、提灯を一つ――芝中門前町を出て、増上寺の塀の闇の中を、御成門の方へ、歩いて行った。
「多少、聞いてはいるが、忍術の忍は、忍ぶでなく、忍耐の忍だ。『正忍記(しょうにんき)』など、ただ、この忍耐だけを説いている」
「奴さん、遊んで行かっし」
 闇の中から、女の声がした。
「急ぎの御用だ。戻りに、ゆっくり寄らあ」
 小太郎が
「何者だ」
「これが、夜鷹じゃ」
 ほの白く、顔が浮いて
「いい男だよ。ちょいと――」
 小太郎は、袖を握られて、振払いざま
「無礼なっ」
 女は、高い声で
「あっ、痛っ」
 と、叫んで、すぐ
「いい男振るない。泥棒、かったい、唐変木」
 と、浴せた。寺の塀の尽きるところまで、女達が、近くから、遠くから声をかけた。小太郎は、気まり悪さと、怒りとで、黙って急いだ。益満は、時々受け答えしながら
「諸事節約になってから、だんだんふえてきた」
 と、独り言をいっていた。御成門から、植村出羽の邸に沿って曲り、土橋へ出ないで、新(あたら)し橋(ばし)の方へ進んだ。
 斉彬は、多忙だったので、三田の藩邸にいずに、幸橋御門内の邸――元の華族会館――に起臥していたので、寛之助も、そこにおったのであった。
 大きい門の闇の中に立って、高い窓へ
「夜中、憚(はばか)り様、将曹様へ急用」
 と、益満が叫んだ。
「門鑑(もんかん)」
 益満が、門鑑を突き出して、提灯を、その上へもって行った。窓のところへも、提灯が出て、門鑑を調べた。門番は、門鑑を改めただけで、二人の顔は改めなかった。改めようにも、灯がとどかなかった。二人が、小門に佇(たたず)んでいると、足音と、錠の音とがして、くぐりが開いた。
「御苦労に存じます」
「有難う、ござります」
 二人は、御辞儀をしつづけて、急ぎ足に、曲ってしまった。
 益満は、提灯を吹き消した。そして、木の枝へ引っかけた。二人は、手さぐりに――様子のわかっている邸の内を心に描きながら
(ここを曲って)
(この辺から、植込み)
 と、中居間の方へ近づいて行った。益満は草を踏むと
「這って」
 と、囁いた。庭へ入ってからは、歩くよりも、這った方が、危険が少かった。二人は立木を避け、植込みを廻り、飛び石を撫で、一尺ごとに、手をのばして、手に触れるものを調べながら、御居間の方へ近づいた。灯の影もなく、人声もなく、ただ、真暗闇の世界であった。

「山一のことが――思い出される」
 益満が囁いた。小太郎は、床下へ入った時に、そのことを思い出していた。
 山一とは、山田一郎右衛門のことであった。高野山に納めてあった島津家久の木像を、高野山の僧侶が床下へ隠して、紛失したと称した事件があった。島津家が、窮乏の極の時、祠堂(しどう)金を与えなかったから僧侶が意地の悪い事をしたのである。それを、肥料(こえ)汲みにまでなって、床下から探し出したのが山田一郎右衛門であった。そして、それだけの功でも、相当であったのに、その褒美を与えようとしたのに際し、山田は
「褒美の代りに減(へ)し児(ご)を禁じてもらいたい」
 と、いった。減し児とは、子供が殖えると困るから、生れるとすぐ殺す習慣をいった言葉である。山田のこの建議によって、幾人、幾十人の英傑が、救われたか知れなかった。益満の如き小身者は、当然、減らされた一人かも知れなかったし、小太郎の後進の下級の若い人々は、大抵減され残しが多かった。だから床下へ入って、しめっぽい土の香を嗅ぐと、すぐ、山田の功績を思い出して
(首尾よく行ったら、自分の手柄も、山田に劣らない)
 と、考えた。
 床下の土は、じめじめしていて、異臭が鼻を突いた。七八間も、這って来た時、益満は静かに、燧石(ひうちいし)を打って、紙燭に火を点じた。紙撚りに油をしましたもので、一本だと五寸四方ぐらいが、朧(おぼろ)げに見えた。それで足りないと二本つけ、三本に増す忍び道具の一つであった。
 二人は、微かな光の下の土を、克明に調べかけた。もし、調伏の人形を、埋めたとすれば、土に掘った跡がなくてはならなかった。二人は、一本の柱を中心にして、残すところのないように這い廻った。
 微かに足音がしても、這うのを止めた。紙燭の灯の洩れぬよう二人の袖で、火を囲んだ。一寸、二寸ずつ少しの物音も立てぬように這った。
 小太郎が、益満の袖を引いて、その眼と合うと、前の方を指さした。益満が、うなずいて、大きく足を延して、一気に近づいた。土が盛上って、乱れていた。二人は、向き合って、片手で、灯をかばいながら、片手で土を掘った。十分に叩かれていないらしい土は、指で楽々と掘り返せた。
 二人の眼は、嬉しさに、微笑していた。小太郎が
「それに、ちがいあるまい」
 と、低くいうと
「箱らしい」
 益満は、両手で土を掻いた。白い箱が、土まみれになって、だんだん形を現してきた。二人が、両手をかけてゆすぶると、箱は、すぐ軽くなった。一尺に五寸ぐらいの白木で、厳重に釘づけにされていた。
「開けて」
 と、小太郎が、益満を見ると
「開けんでも、わかっとる」
 益満は、土を払って、箱の上の文字を見た。梵字(ぼんじ)が書いてあって、二人にはわからなかったが、梵字だけで十分であった。

(余り、うまく行きすぎた)
 と、二人とも思っていた。門の外へ出るまで
(何か、不意に事が起りはしないだろうか)
 と、忍び込む前とちがった不安が、二人の襟を、何かが今にも引捕えはしないだろうかと、追っかけられているような気がした。門を出て、植村出羽の邸角まで来ると
「やれやれ」
 益満が、笑い声でいった。幸橋御門を出ると、もう、往来にうろついているのは、野犬と、夜泣きうどんと、火の用心とだけであった。それから、灯が街へさしているのは、安女買いに行った戻り客を待っている燗酒屋だけであった。
 小太郎は、袖に包んだ箱の中を想像しながら
(これで両親も、別れなくて済むし、自分の手柄は、父のためにも、自分のためにも――それよりも、斉彬公が、どんなに喜ばれるであろう)
 と、頭の中も、胸の中も、身体中が、明るくなって来た。
「小太、先へ戻って、早く喜ばすがよい。わしは、さっきのところへ寄って、刀を取って行くから――」
 小太郎が、答えない前に、益満は、駈け出していた。
「なるべく早く――」
 その後姿へ、小太郎が叫んだ。
「猫、鳶に、河童の屁、というやつだ」
 益満は、大きな声で、独り言をいいながら、富士春の表へ立つと、もう提灯は消えていた。だが、まだ眠っている時刻ではなかった。
「師匠」
 益満が、戸を叩いた途端、増上寺の鐘が鳴り出した。
「誰方(どなた)?」
「ま、だ」
「ま?」
「まの字に、ぬの字に、けの字だ」
 益満は、大きい声を出すと
「やな、益さん」
 小女が、戸を開けて
「お楽しみ」
 と、からかった。
「師匠の方は?」
 襖の内に、二三人、未だ宵の男が残っていた。
「首尾は如何?」
 一人が、声をかけた。半分開いた襖の中に、酒が、肴(さかな)が並んでいた。
「お帰んなさい。丁度よいところ」
 富士春が、顔を少し赤くして、裾を崩していた。益満は、暗い次の間に立っていた。
「へへへ、だんだんよくなるところで、ええ、お出でなさいまし」
 一人は酔っ払って、両手をついた。
「刀は?」
「刀?――刀なんぞ野暮でげしょう。野暮な邸の大小捨ててさ――中でも、薩摩の芋侍は野暮のかたまりで、こいつにかかっちゃ、流石の師匠も? 歯が立たねえって――へへへ、御免なせえ」
 益満が、富士春の持って来た刀を取ろうとすると、女は、手の上へ手をかけて
「ゆっくりしたら」
 と、媚びた眼で見上げた。
「そうは勤まらぬ」
 富士春は、益満の手を、力任せにつねった。

 小太郎は、嬉しさで、いっぱいだった。何処を歩いているかさえ判らなかった。
(陰謀が、自分の手で暴露されたなら、斉彬公は、何んなに喜ばれるだろうか? あの柔和な眼で、あの静かな口調で、何を仰しゃるだろう?――そして、父は、恐らく、自分が手柄を立てたよりも、喜ぶであろうし、母は、父よりも嬉しがって、きっと、涙をためるにちがいない。二人の妹は――)
 小太郎は、次々に、いろいろのことを空想しながら、木箱を、小脇に抱えて、小走りに、夜の街を急いだ。ふっと
(然し、箱の中に、何も証拠品が入ってなかったら?)
 と、不安になったりしたが、ことこと中で音がしているし、病室の床下にあったのだし、疑う余地はなかった。
 将監(しょうげん)橋を渡ると、右が、戸田采女(うねめ)、左が遠山美濃守の邸で、その右に、藩邸が、黒々と静まり返っていた。八時に、大門を閉して、通行禁止になるのが、一般武家邸の風であったから、悪所通いをする若者などは、塀を乗越えて出入した。益満など、その大将株であった。
 小太郎は、その塀越しの出入口と決まっている切石の立ったところから、攀じ登って、邸の中へ入った。長屋の入口で、ことこと戸を叩くと、すぐ、足音がした。
(未だ、寝ないで、自分の帰りを待っているのだ)
 と、思うと、頭の中で
(証拠品を持って帰りました。今すぐに御覧に入れます)
 と、叫んだ。
「兄様?」
 次の娘、深雪の声が聞えた。小太郎は、戸を一つ叩いた。
「只今――」
 二人の足音がした。閂(かんぬき)が外れた。戸が引かれた。上の姉の綱手が上り口に立って、手燭をかざしていた。深雪が
「首尾は?」
 低い、早口であった。
「上々」
 深雪は、小兎のように上り口へ、走り上って
「姉様、上々」
 綱手が、微笑んで、廊下を先へ立った。
「お父様は、お臥(やす)みだけれども、お母さんは、未だ」
 深雪が、小太郎の後方から、口早に囁いた。薄く灯のさしている障子のところで、綱手は手燭を吹き消して
「お母様、お兄様が、上々の首尾で、ござりますって」
 いい終らぬうちに、小太郎が、部屋の中へ入った。七瀬は、小太郎の膝を見て
「ひどい泥が――」
 と、眉をひそめた。二人の妹が
「ああ、あっ、袖も――ここも――」
 深雪が立って、何か取りに行った。
「その箱は?」
 七瀬が、眼を向けた。
「若君の御病間の床下にござりました。調伏の証拠品」
 両手で、母の前へ置いた。
「お父様に、申し上げて来や」
 綱手は、裾を踏んでよろめきながら、次の部屋の襖を開けた。

 八郎太は、むずかしい顔をしながら、じっと、箱を眺めていた。
「小柄」
 七瀬が、刀懸から刀を取って、小柄を抜いた。八郎太は、箱の隙目へ小柄を挿し込んで、静かに力を入れた。四人は呼吸をつめて、じっと眺めた。ぎいっと、箱が軋(きし)ると、胸がどきんとした。
(調伏の人形でなかったら?――)
 小太郎は、腋(わき)の下に、汗が出てきた。顔が、逆上(のぼ)せて来るようであった。釘づけの蓋が、少し開くと、八郎太は、小柄を逆にして、力を込めた。ぐぎっ、と音立てて、半分余り口が開いた。
 白布に包まれた物が出て来た。八郎太は、静かに布をとった。五寸余りの素焼の泥人形――鼻の形、脣の形、それから、白い、大きい眼が、薄気味悪く剥き出していて、頭髪さえ描いてない、素地(そじ)そのままの、泥人形であった。
 人形の額に、梵字が書いてあって、胸と、腹と、脚と、手とに、朱で点を打ってあった。背の方を返すと、八郎太が
「ふむ――成る程」
 と、うなずいて
「相違ない」
 四人が、のぞき込むと、一行に、島津寛之助、行年四歳と書かれてあって、その周囲に、細かい梵字がすっかり寛之助を取巻いていた。
 人形は、白い――というよりも、灰色がかった肌をして、眼を大きく、白く剥いて、丁度、寛之助の死体のように、かたく、大の字形をしていた。七瀬は、それを見ると、胸いっぱいになってきた。小太郎は、八郎太が、一言も、自分の手柄を称めぬので、物足りなかった。
「父上、如何で、ござりましょう」
 八郎太は、小太郎の眼を、じっと見つめて
「他言する事ならぬぞ」
 七瀬が
「まあ、よかった。よく、見つかったねえ、床下といっても、広いのに――」
「お兄様――蜘蛛の巣が――」
 深雪が、小太郎の頭から糸をつまみ上げた。八郎太は、人形を旧(もと)のように包んで、膝の上へ置いて、何か考えていた。
「これで、母も安心できました。ほんとに、大手柄――」
 そういう七瀬の顔を、睨みつけて
「支度」
「お出まし? この夜中に」
 七瀬が、恐る恐る聞くと
「名越殿へ参る」
 七瀬が立上った。綱手も、深雪も、折角の小太郎の手柄を、一言も称めもしない父へ不満であったが、小太郎は、父の厳格な気質から見て、口へ出しては称めないが、肚の中では、よく判っているのだと思った。だが、何んだか物足りなかった。
 七瀬は、次の間の箪笥(たんす)を、ことこと音させていたが
「お支度が出来まして、ござります」
 八郎太は、箱を置いて
「元のように入れておけ」
 と、小太郎へやさしくいって立上った。

  第一の蹉跌

 丸木のままの柱、蜘蛛の巣のかかった、煤まみれの低い天井、赭(あか)っ茶けた襖――そういう一部屋が、崖に臨んだところに、奥座敷として、建てられてあった。その大きい切窓から、向うの峰、下の谷が眺められて、いい景色であったが、仁十郎が、疲労によろめいて、どかりと腰を降ろすと、座敷中がゆらめいたくらいに危(あやう)くもあった。
 茶店の爺が、早朝からの客を、奥へ通して、軒下に立てかけてある腰掛を並べて、店ごしらえをしていた。婆は、土間の、真暗な中で、竈の下を吹きながら、皺だらけの顔だけを、焔のあかりに浮き上らせていた。
「霧島、韓国(からくに)、栗野――」
 玄白斎は、眼を閉じて、髯をしごきながら、呟いた。仁十郎が
「間根ヶ平で、七ヶ所――牧殿のお力なら、調伏は、成就(じょうじゅ)致しましょうな」
 玄白斎は、暫くしてから
「是非も無い」
 それも、元気の無い、低い声であった。
「婆あ――粥(かゆ)は未だ出来んか」
 市助が、土間へ、声をかけた。
「はい、只今、すぐ、煮えますから――」
 三人が、牧を追って、牧の修法している山々を調べてから、もう二十日近くなっていた。日数の経った修法の跡から、だんだん、追いつめて、昨日、修法をした跡だと、判断できたのが、栗野山の頂上であった。玄白斎は、それを見て
「間根ヶ平が、最後の修法場であろうが、今から、この疲れた脚で、行けようとも思えぬ。この上は、牧が、国外に出てまで、修法するか、それとも、御城下へ戻るか――間根での修法が、明日の四つ刻にすむとすれば、久七峠へ出て、牧が通るか、通らぬかを待とう。もし、通らぬ時は、城下へ戻ったもの、通るとしたなら、話によっては、そのままには差し置かぬ」
 と、いった。和田仁十郎、高木市助の二人は、老師の、たどたどしい脚を、左右から支えながら、夜を徹して、栗野から、大口へ、大口から、淋しい街道を久七峠へ登って来たのであった。
 久七峠には、島津の小さい番所が置いてあった。その番所から、少し降ったところに、この茶店があった。
「牧殿の返答によっては――」
 仁十郎は、こういって
(斬っても、よろしいか)
 と、つづけたいのを止めた。玄白斎は、牧を追跡し、口でも、よくはいっていないが、秘蔵弟子として、師よりも優れた兵道家として、子の無い老人にとっては、子よりも可愛い仲太郎であった。仁十郎には、よくそれが判っていた。
「そう――返答によっては――捨て置けんかも知れぬ」
 玄白斎は、仮令(たとい)、斉興の命なりとも、臣として、幼君を呪う罪は、兵道家として許しておけぬと、頑強に考えてはいたが、そのために自分の手で、牧を殺す、という気にはなれなかった。牧がうまく自分を説き伏せ、家中の人々を感心させてくれたら――玄白斎は、自分の老いたことを感じたり、心弱さを感じたり、兵道家の立場の辛さを感じたりしながら
「疲れた――疲れたのう」
 と、眼を閉じたまま、額を、握り拳で叩いた。

「爺っ」
 一人の侍が、軒下から、大声に呼んだ。
「今、十二三人、見えるから、支度せえ」
「はいっ」
 爺が、周章てて、走り出ると、侍はすぐ、番所の方へ登って行った。
「先生――牧の一行でござりましょうか」
 玄白斎は、俯向いて、眼を閉じていた。
「うむ」
「十二三人とは、人数が少し、多すぎまするが――」
「多くない」
「はい」
 市助が立って、暗い台所で、何か水に涵(ひた)していた。そして、持って来た。
「和田」
 と、云った。水に漬けた真綿であった。仁十郎は、手拭に包んで、いつでも鉢巻にできるよう、折り畳んだ。二人は、乱闘の準備をした。
「さあ、出来ました。お待ちどおさまで」
 婆が、こういって、大儀そうに、上り口から、土鍋を運んで来た時、しとしと土を踏んで近づく音と、話声とが聞えて来た。
 和田と、高木とが、眼を見合せてから、玄白斎を見ると、前のまま、俯向いて、眼を閉じたきりであった。爺が、表へ出て、下を眺めて、すぐ入って来た。そして
「婆、ござらしたぞ」
 と、云った。
「先生、芋粥が――」
 玄白斎は、頷いた。そして、眼を開いて、身体を起して
「わしには判らん――」
 と、呟いた。
「何が?」
「いや、食べるがよい」
 三人が、茶碗へ手をかけると、表が、騒がしくなった。
 馬上の士が一人、駕が一梃(いっちょう)、人々は、悉く脚絆掛けで、長い刀を差していた。茶店の前で立止まって、すぐ腰かけて、脚を叩いた。
「疲れた」
 と、一人は、股を拡げて、俯向いた。
「爺、食べる物があるか」
「芋粥なら丁度出来ておりますが、あのお髯の御武家衆は貴下方のお連れではござりませぬか」
「お髯の――幾人?」
「御三人」
 侍は、首を延して、奥を覗いたが、襖で何も見えなかった。士は、土間から出て、軒下の腰掛にかけている一人に
「斎木」
「うむ」
「玄白斎が、参っておるらしい」
 低い声であったが、こう云うと同時に、人々は、動揺した。
「玄白斎が――」
 と、一人が怒鳴った。馬上の士が、馬から降り立って、土間へ入って来て、三人の草鞋(わらじ)を見ると
「これは?」
 と、爺の顔を、咎めるように、鋭く見た。
「はいはい、これは、奥にいられます、三人の、お侍衆の――」
「三人の?」
「御一人は、御立派な、こんな――」
 爺は、髯を引張る真似をした。

 家老、島津豊後の抱え、小野派一刀流の使手、山内重作が
「斬るか」
 と、大きい声をした。斎木と、貴島が
「叱(し)っ」
 眼で押えて、頭を振った。重作は、二人を、じろっと見て、土間へ入って、突っ立った。
 馬から降りた侍は、豊後の用人、飽津(あくつ)平八で、七日、七ヶ所の調伏を終り、大阪蔵屋敷へ、調所笑左衛門を訪いに行く、牧仲太郎を、国境まで、保護して来たのであった。
 玄白斎が、自分一人で、牧を追うのとちがって、牧を保護するためには、家老も、目付もついていた。烏帽子岳から、牧の足跡を追って城下へ入り、高木市助をつれて、大箆柄(おおえがら)山へ向ったとき、もう目付の手から、牧へ、玄白斎の行動は、報告されていた。豊後は、手紙で
「玄白斎が、修法の妨げになるなら、何うでも、処分するが――」
 と、さえいった。だが、牧は
「老師を罰するが如き邪念を挟んでは、兵道の秘呪は、成就致しませぬ」
 と、答えた。然し、玄白斎が、牧を追いかけていると知っている人々は、牧の、厳粛な、自分を棄てて、主家のために祈っている、凄惨な様を見ると、それを邪魔する玄白斎が憎くなってきた。
 奥の間に、人影が動いたので、人々が一斉に見た。だが、それは、婆が立つ姿であった。が、すぐ婆の後方に――白い髯が、玄白斎が、独りで、ずかずかと出て来た。土間に立っている山内が、睨みつけているのを、平然と、横にして、狭い表の間――駄菓子だの、果物だの、草鞋、付木、燧石、そんなものを、埃と一緒に積み上げてあるところへ来て、立ったまま
「貴島、斎木」
 と、呼んだ。
「老先生、御壮健に拝します」
 二人は、御叩頭をした。
「牧は?」
「はい」
 飽津が、玄白斎の前へ行った。
「加治木老先生、拙者は、島津豊後、用人、飽津平八と申します。牧殿は、大任を仰せつけられて、連日の修法を遊ばされ、只今御疲労にて、よく、御眠(おやす)み中でござります。御用の趣き、某代って、承わりましょうが、御用向きは?」
「いや、御丁寧な御挨拶にて、痛み入る。余人には語れぬ用向きでのう」
「ははあ」
 飽津が、何かつづけようとした瞬間、玄白斎が
「牧っ、出いっ」
 と、大声で、呼んだ。
「玄白じゃっ」
 土間の、山内が、刀へ手をかけて、つかつかと、近づいた。斎木が、眼と、手とで押えて
「老先生っ」
 と、叫んだ時、駕の中から
「先生」
 低い、元気の無い、皺枯(しわが)れた声がして、駕の垂れが、微かに動いた。

 貴島が駕へ口をつけて
「垂れを、上げますか」
 と、聞いた。
「出してもらいたい」
「然し――」
 垂れが、ふくらんで、細い手が、その横から出た。人々が周章てて手を出して、集まった。飽津が
「牧氏、その御身体で――」
 と、いった時、牧は、痩せた脚を、地につけて、垂れの下から、頭を出していた。駕につかまり、人々の手にささえられながら、斎木と、貴島に、左右から抱えられて、牧は駕から立上った。
 玄白斎は、牧の顔を、じっと、睨んでいた。三月余り前に、一寸見たきりで逢わない彼であったが――何んという顔であろう。それは、身体の病に、痩せた牧でなく、心の苦しみに、悩みに、肉を削った人の面影であった。力と、光の無くなるべき眼は、却って、凄い、怪しい力と、光に輝いていた。灰土色に変るべき肌は、澄んだ蒼白色になって、病的な、智力を示しているようであったし、眉と眉との間に刻んだ深い立皺は、思慮と、判断と――頬骨は、決心と、果断とを――その乱れた髪は、諸天への祈願に、幾度か、逆立ったもののように薄気味悪くさえ、感じられるものだった。
 骨立った手で、駕を掴みながら、よろめき出たのを見ると、玄白斎は、憎さよりも、不憫(ふびん)さが、胸を圧した。
(よく、こんなになるまでやった。お前ならこそ、ここまで、一心籠めてやれるのだ)
 唯一人の、優れた愛弟子に対して、玄白斎は、暫くの間
(死んではいけないぞ。お前が、死んでは、この秘法を継ぐものがない)
 と、思って、痛ましい姿を、ただ、じっと眺めていた。
 牧は、俯向いて、よろよろとしながら、腰掛のところまで行くと、左右へ
「よろしい」
 と、低く、やさしくいった。
「大丈夫でござりますか」
 牧は頷いた。そして、腰掛へ、両手をついて、玄白斎に叩頭をした。
「御心痛の程――」
 これだけいうと、苦しそうに、肩で、大きい呼吸をした。
「某――今度のこと――先ず以て、先生に、談合申し上げん所存にはござりましたが――さる方より――火急に、火急に、との仰せ、心ならずも、そのまま打立ちましたる儀、深く御詫び申しまする」
 牧は、丁寧に、頭を下げた。
「ちと、聞いたことがあってのう」
 玄白斎は、やさしくいって、髯を撫でた。
「はい、何んなりとも」
「奥へ参らぬか」
 飽津が
「牧殿、ちと、御急ぎゆえ――」
「手間はとらせぬ」
「いや、然し――」
 牧が、頭を上げて
「斎木、奥まで、頼む」
 腰掛に手をついて、立上ると、よろめいた。貴島が
「危い」
 と、呟いて、支えた。

「おお、和田も、高木も――」
 牧は、奥の部屋の中の二人を、ちらっと見ると、すぐ微笑して声をかけた。二人は、一寸、狼狽して、軽く、頭を下げた。
「御苦労をかけた」

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