南国太平記
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著者名:直木三十五 

  呪殺変

 高い、梢の若葉は、早朝の微風と、和やかな陽光とを、健康そうに喜んでいたが、鬱々とした大木、老樹の下蔭は、薄暗くて、密生した灌木と、雑草とが、未だ濡れていた。
 樵夫(きこり)、猟師でさえ、時々にしか通らない細い径(みち)は、草の中から、ほんの少しのあか土を見せているだけで、両側から、枝が、草が、人の胸へまでも、頭へまでも、からかいかかるくらいに延びていた。
 その細径の、灌木の上へ、草の上へ、陣笠を、肩を、見せたり、隠したりしながら、二人の人が、登って行った。陣笠は、裏金だから士分であろう。前へ行くその人は、六十近い、白髯(しらひげ)の人で、後方(うしろ)のは供人であろうか? 肩から紐で、木箱を腰に垂れていた。二人とも、白い下着の上に黄麻を重ね、裾を端折(はしょ)って、紺脚絆(きゃはん)だ。
 老人は、長い杖で左右の草を、掻き分けたり、たたいたり、撫でたり、供の人も、同じように、草の中を注意しながら、登って行った。
 老人は、島津家の兵道家、加治木玄白斎(かじきげんぱくさい)で、供は、その高弟の和田仁十郎だ。博士王仁(わに)がもたらした「軍勝図」が大江家から、源家へ伝えられたが、それを秘伝しているのが、源家の末の島津家で、玄白斎は、その秘法を会得している人であった。
 口伝(くでん)玄秘(げんぴ)の術として、明らかになっていないが、医術と、祈祷(きとう)とを基礎とした呪詛(じゅそ)、調伏(ちょうぶく)術の一種であった。だから、その修道(すどう)者として、薬学の心得のあった玄白斎は、島津重豪(しげひで)が、薬草園を開き、蘭法医戸塚静海を、藩医員として迎え、ヨーンストンの「阿蘭陀本草和解」、「薬海鏡原」などが訳されるようになると、薬草に興味をもっていて、隠居をしてから五六年、初夏から秋へかけて、いつも山野へ分け入っていた。
 行手の草が揺らいで、足音がした。玄白斎は、杖を止めて立止まった。仁十郎も、警戒した。現れたのは猟師で、鉄砲を引きずるように持ち、小脇に、重そうな獲物を抱えていた。猟師が二人を見て、ちらっと上げた眼は、赤くて、悲しそうだった。そして、小脇の獣には首が無かった。疵口には、血が赤黒く凝固し、毛も血で固まっていた。猟師は、一寸立止まって、二人に道を譲って、御叩頭(おじぎ)をした。玄白斎は、その首のない獣と、猟師の眼とに、不審を感じて
「それは?」
 と、聞いた。猟師は、伏目で、悲しそうに獣を眺めてから
「わしの犬でがすよ」
「犬が――何んとして、首が無いのか?」
 猟師は、草叢(くさむら)へ鉄砲を下ろして、その側(かたわら)へ首の切取られた犬を置いた。犬は、脚を縮めて、ミイラの如くかたくなってころがった。疵は頸にだけでなく、胸まで切裂かれてあった。
「どこの奴だか、ひどいことをするでねえか、御侍様、昨夜方(ゆうべがた)、そこの岩んとこで、焚火する奴があっての、こいつが見つけて吠えて行ったまま戻って来ねえで――」
 猟師は、うつむいて涙声になった。
「長い間、忠義にしてくれた犬だもんだから、庭へでも埋めてやりてえと、こうして持って戻りますところだよ」
 玄白斎は、じっと、犬を眺めていたが
「よく、葬ってやるがよい」
 玄白斎は、仁十郎に目配せして、また、草叢をたたきながら歩き出した。
「気をつけて行かっし――天狗様かも知れねえ」
 猟師は、草の中に手をついて、二人に、御叩頭をした。

 細径は、急ではないが、登りになった。玄白斎は、うつむいて、杖を力に――だが、目だけは、左右の草叢に、そそがれていた。小一町登ると、左手に蒼空が、果てし無く拡がって、杉の老幹が矗々(すくすく)と聳えていた。そこは狭いが、平地があって、谷間へ突出した岩が、うずくまっていた。
 大きく呼吸(いき)をして、玄白斎は、腰を延すと、杉の間から、藍碧に開展している鹿児島湾へ、微笑して
「よい景色だ」
 と、岩へ近づいた。そして、海を見てから、岩へ眼を落すと、すぐ、微笑を消して、岩と、岩の周囲を眺め廻した。
「焚火を、しよりましたのう」
 仁十郎が、こういったのに答えないで、岩の下に落ちている焚木の片(きれ)を拾う。
「和田――乳木であろう」
 と、差出した。和田は手にとって、すぐ
「桑でございますな」
 乳木とは、折って乳液の出る、桑とか、柏とかを兵道家の方で称するのであった。
 玄白斎は、岩へ、顔を押当てるようにして、岩から、何かの匂を嗅いでいたが
「和田、嗅いでみい」
 仁十郎は、身体を岩の上へ曲げて、暫く、鼻を押しつけていたが
「蘇合香?」
 と、玄白斎へ、振向いた。玄白斎は、ちがった方向の岩上を、指でこすって、指を鼻へ当てて
「竜脳の香(におい)もする」
 和田は、すぐ、その方へ廻って鼻をつけて
「そう、竜脳」
 と、答えた。
「これは、塩だ」
 玄白斎は、白い粉を、岩の上へ、指先でこすりつけていた。仁十郎は、谷間へのぞんだ方の岩の下をのぞいていたが、急に、身体を曲げて、手を延した。そして、何かをつまみ上げて、玄白斎へ示しながら
「先生、蛇の皮が――」
 と、大きい声をした。玄白斎は、険しい眼をして
「人髪は?」
 仁十郎は、あたりを探して
「髪の毛はないか」
 二人は、向き合って、暫くだまっていた。玄白斎は、焚火をしたため、黒く焼けている岩肌を眺めていたが
「和田、この岩の形は?」
「岩の形?」
「鈞召(きんしょう)金剛炉に似ているであろうがな」
 和田は、ちらっと岩を見て、すぐ、その眼を玄白斎へ向けて
「似ております」
 と、答えた。
「牧は、江戸へ上(のぼ)ったのう」
「はい」
 玄白斎は、眼を閉じて、暫く考えていたが
「阿毘遮魯迦(あびしゃろか)法によって、忿怒□曼徳迦(ふんぬえんまんとくか)明王を祭った、人命調伏じゃ。この法を知る者は、牧の外にない」
 呟くようにいったが、その眼は、和田を、鋭く睨んでいた。和田は、自分がとがめられているように感じて、面を伏せると
「この品々を、拾って――」
 玄白斎は、岩の上の木片、蛇皮を頤(あご)で差した。和田が拾っていると
「他言無用だぞ」
 と、やさしくいった。その途端――下の方で、それは、人の声とも思えぬような凄い悲鳴が起ってすぐ止んだ。

 二人も、ちらっと、眼を合せて、すぐ、全身を耳にして、もう一度聞こうとした。何んのための叫びか、もう一度聞えたなら、判断しようとした。暫く、黙って突立っていた二人は、もう一度眼を合せると、和田が
「斬られた声でしょうな」
 玄白斎は、答えないで、下の方へ歩き出した。
「四辺(あたり)に気を配って――油断してはならん」
 玄白斎は、脚下(あしもと)の岩角を、たどたど踏みつつ、和田に注意した。
「今のは猟師でしょうか」
「そうかも知れぬ」
 二人の脚音と、衣ずれの外、何んの物音もない深山であった。あんな大きい、凄い悲鳴が起ろうとは、神も思えないくらいに、静かであった。
 二人は、声がしたらしいと考えた場所へ近づくと、歩みを止めて、四方を眺めた。そして、小声で玄白斎が
「この辺と思うが――」
 と、振返ると
「探しましょう」
 和田は、肩から掛けていた薬草の採取箱を卸(おろ)そうとした。
「下手人が、未だ、うろついておろうもしれぬ。用心して――」
 和田の置いた箱のところへ杖を立てて、玄白斎は、草のそよぎ、梢の風にも、注意した。和田は、杖で草を、枝を分けながら、薄暗い木(こ)の下蔭へ入って行った。玄白斎は
「径から、余り遠いところではあるまい」
 と、背後(うしろ)から、声をかけた。和田は、小径を中心に、左右の草叢へ、森の中へ、出たり、入ったりしていたが、暫く、身体(からだ)が見えなくなると
「先生、先刻の猟師です」
 落ちついた大声が、小半町先の草の中から起った。そして草を揺がして、陣笠が、肩が――和田が、小走りに戻って来た。
 二人が、小径から覗くと、背の着物だけが少し見えていた。近づくと、虫が、飛び立った。死体は草の間にうつ伏せになって、木(こ)の間(ま)からの陽光(ひかり)が斑に当っていた。
 着物が肩から背へかけて切裂かれて、疵口が、惨(むご)たらしく、赤黒い口を開けていた。肉が、左右へ縮んでしまって、肩の骨が白く見えていた。着物も、頸も、下の草も、赤黒く染まって、疵口には虻(あぶ)が止まって動かなかった。
「犬に、鉄砲は?」
 玄白斎は、髻(もとどり)と、頤とを掴んで、猟師の顔を検(あらた)めてから、立上って、和田にいった。
「径から、ここへ逃げ込んだのだから――」
 和田は、径の方を見て、二三歩行くと
「この辺に――」
 と、呟いて、左右の草叢を、杖で、掻き分けた。
 玄白斎は、杖の先で、着物を押し拡げ、疵口を眺めて、血糊を杖の先につけていた。和田が
「見つかりました」
 と、径に近い草の中から、こっちを見た。
「血が、十分に凝固(かたま)っていぬところを見ると、斬って間も無いが――一刀で、往生しとる。余程の手利きらしい」
 玄白斎は、独り言のように、和田を見ながら呟いて、和田が
「下手人は、未だ遠くへ走っておりますまい、探しましょうかの」
 と、いうと
「見つけたとて、捕えられる対手ではあるまい」
 そういった玄白斎の眼は、脣(くちびる)は、決心と、判断とに、鋭く輝き、結ばれていた。

 島津家に伝えられている呪詛(じゅそ)の術は、治国平天下への一秘法であって、大悲、大慈の仏心によるものであった。私怨を以(もっ)て、一人、二人の人を殺す調伏は、呪道の邪道であり、効験の無いものである。仮(たと)えば、一人の敵将を呪い殺すということは、正義の味方を勝たしめることで――それは、一国一藩が救われ、ひいては天下のためになることで――つまり、小の虫を殺して、大の虫を助ける、というのが、調伏の根本精神であった。
 だから、術者は、外に憤怒の形を作り、残虐な生犠(いけにえ)を神仏に供し、自分の命をさえ、仏に捧げて祈りはしたが、それは、その調伏を成就して、多数の人々が幸福になれば、生犠は仏に化すという決心と信念とからであった。
 そして、その信念は、完全に、精神を昂揚し、普通の精神活動以上の不思議さを、常に示した。それは、小さい怨みとか、怒りでは到達のできない信念で、正義に立たなければ現れないものであった。
 そうして、加治木玄白斎にしても、代々の兵道家にしても、長い、大きい、深い、苦痛と、修練をして、その秘術を会得するのであったから、その智慧、知識、人格から見ても、一人の人に私怨をもって、調伏を行うような愚かな人間ではなかった。そんな人間では、修行のしきれる呪術ではなかった。
「薬草取りは?」
 玄白斎が、戻り道の方へ歩きかけたので、和田が、こう声をかけると
「止めた――戻ろう」
 と、玄白斎は答えて、もう、左右の草叢へは、何んの注意もしないで、うつむき勝ちに、足早に歩き出した。和田は玄白斎の心がわからないらしく、忠実に、草の中の薬草の有無を、杖の先で探しながら、黙ってついて行った。
 だんだん木が疎(まばら)になって、木床(きどこ)峠へ出る往来が近くなった。右手の前方に、桜島が、朗らかな初夏の空に、ゆるやかに煙をあげていた。
「仁十」
「はい」
 玄白斎は、こういったまま、また、暫く黙っていた。
「先生――何か?」
「ふむ――事によると、のう」
 何を考えているのか、玄白斎は、なかなか語り出さなかった。
「何か、大事でも――」
「うむ、容易ならぬ企てがあると、わしは思うが」
 と、いって、突然、振向いて
「近々に、牧に逢ったかの」
「一向に――」
「噂をきかぬか」
「ただ、江戸へ参られました、と、それだけより存じません」
 牧仲太郎とは、玄白斎の後継者で、牧に職を譲って、玄白斎は、隠居をしているのであった。
「もしか、牧が――」
 玄白斎が、呟いた。
「牧どんが?」
「いいや――」
 玄白斎は、首を振って
「今日のことは、和田、極秘じゃ」
 街道へ出てからも、玄白斎は、考えながら歩いているらしく、いつものように、左を見、右を見しなかった。和田は、大抵の雨にも、雪にも、薬草採りをやめない老師が、急に帰るのを考えると、何か、大変なことが起っているように感じられた。

(牧より外に、あの秘法を行う人間はない筈だ――牧の仕業としたなら――何んのために――誰(たれ)を――)
 玄白斎は、険路も、汗も感じないで、考えつづけた。
(もし、自分の考えが、当っていたとしたなら――島津家の興廃にかかわる――)
 玄白斎の考えは、次のようなことであった。
 当主斉興(なりおき)の祖父、島津重豪は、英傑にちがいなかった。彼は、シーボルトが来ると、第一に訪問した。それから、大崎村に薬園を作ったし、演武館、造士館、医学院、臨時館の設立、それによって、南国片僻(へんぺき)の鹿児島が、どんなに進歩したか?
 彼自らは「琉球産物誌」「南山俗語考」「成形図説」を著し、洋学者を招聘し、鹿児島の文化に、新彩を放たしめたが、然し、それは悉(ことごと)く、多大に金のかかることであった。
 また重豪は、御国風の蛮風を嫌って、鹿児島に遊廓を開き、吉原の大門を、模倣して立てた。洋館を作った。洋物を買った。そうして、最後に、彼の手元には、小判はおろか、二朱金一つしかないことさえできるようにもなってしまった。
 士(さむらい)は、鍔(つば)を売り、女は、簪(かんざし)を売って献金し、十三ヶ月に渡って、食禄が頂戴できないまでに窮乏してしまった。そして、彼は隠居をした。
 次代の斉宣(なりのぶ)も、士分も、人民も、この重豪の舶来好みによって、苦難したことを忘れることができなかった。だから、斉宣は、秩父太郎季保(すえやす)を登用して、極端な緊縮政策を行った。然し隠居をしても、濶達な重豪は、自分に面当(つらあて)のようなこの政策に、激怒した。そして直ちに、秩父を切腹させ、斉宣を隠居させ、斉興を当主に立てた。
 斉興は、茶坊主笑悦を、調所(ずしよ)笑左衛門と改名させて登用し、彼の献策によって、黒砂糖の専売、琉球を介しての密貿易(みつがい)を行って、極度の藩財の疲弊を、あざやかに回復させた。
 然し積極政策では、重豪と同じ斉興ではあったが、大の攘夷派で、従って極端な洋学嫌いであった。尊王派の頭領として、家来が
「西の丸、御炎上致しました」
 と、いった時
「馬鹿っ、炎上とは、御所か、伊勢神宮の火事を申すのだ。ただ、焼けたと申せ」
 と、怒鳴る人であった。家来が恐縮しながら
「就きまして、何かお見舞献上を――」
「献上? 献上とは、京都御所への言葉だ。未だ判らぬか、此奴。何んでもよい、見舞をくれてやれ」
 ペルリが来た時、江戸中は、避難の荷物を造って騒いだ。その時、三田の薩摩邸は、徹宵、能楽の鼓を打っていた。翌日、門に大きい膏薬(こうやく)が貼ってあるので、剥がすと、黒々と「天下の大出来物」と書いてあった。
 斉彬(なりあきら)は、この父の子であった。だが、幼少から重豪に育てられて、洋学好みの上に、開国論者であった。そして、自然の情として、父斉興とは、親しみが淡(うす)かった。その上に、幕府は、斉彬を登用して、対外問題に当らせようとして、斉興の隠居を望んでいた。斉興が斉彬をよく思わないのは、当然である。
 そして、斉興も、家中の人々も、斉彬が当主になっては、また、重豪の轍を踏むであろうと、憂慮した。木曾川治水の怨みを幕府へもっている人々は、幕府が、斉彬を利用して、折角の金をまた使わせるのだとも考えた。
 そうして、斉彬の生母は死し、斉興の愛するお由羅(ゆら)が、その寵(ちよう)を一身に集めていた。そして、お由羅の生んだ久光は、聡明な子の上に、斉興の手元で育てられた。
(斉彬を廃して、久光を立つべし)
 それは、斉彬の近侍の外、薩藩大半の人々の輿論(よろん)であった。玄白斎は考えた。
(斉彬を調伏して、藩を救う――然し――)
 老人は、山路を、黙々として、麓へ急いだ。

 黙々として歩いていた玄白斎が、突然
「和田」
 と、呼んで立止まった。和田が、解(げ)しかねる玄白斎の態度を、いろいろに考えていた時であったから、ぎょっとして
「はい」
 と、周章(あわ)てて、返事して、玄白斎の眼を見ると
「その辺に、馬があるか、探してのう」
 こういいながら、腰の袋から、銭を出して
「一(ひと)っ走(ぱし)り、急いで戻ってくれぬか」
 和田は、何か玄白斎が、非常の事を考えているにちがいない、と思うと、ほんの少しでもいいから、それが、何(ど)んなことだか、知りたかった。それさえ判れば、自分にも多少の智慧もあり、判断もつくと思った。それで
「御用向は?」
「千田、中村、斎木、貴島、この四人の在否を聞いてもらいたい――居ったら、それでよい。もし居らなんだ節は――」
 玄白斎は、髯をしごきながら
「何時頃から居らぬか?――何処へ行ったか? 誰と行ったか?――それから、便りの有無――よいか、何時、誰と、何処へ行ったか? 便りがあったと申したなら、何時、何処から、と、これだけのことを聞いて――」
 玄白斎は、小首を傾けて、まだ何か考えていたが
「一人も、もし、居らなんだなら、高木へ廻って、高木を邸へ呼んでおけ。それから」
 玄白斎は、和田の眼をじっと見ながら
「何気なく、遊びに行ったという風で、聞きに行かんといかん」
 玄白斎は、こういって、静かに左右を見た。そして、低い声で
「牧は斉彬公を調伏しておろうも知れぬ」
 和田は、口の中で、はっといったまま、うなずいた。
「わしの推察が当って、もし、貴島、斎木らが四人ともおらなかったなら、一刻も猶予ならん。すぐに延命の修法(ずほう)だ」
「はい」
「斉彬公の御所業の善悪はとにかく、臣として君を呪殺することは、兵道家として、不逞、不忠の極じゃ。君の悪業を諫めるには、別に道がある。もし、牧が、軍勝の秘呪をもって、君を調伏しておるとすれば、許してはおけぬし、左(さ)はなくとも、秘法を行っている上は、何んのために行っておるか、聞きたださぬと、わしの手落になる」
 和田は、玄白斎の考えていたことが、すっかり判った。そして、判った以上、すぐに、命ぜられた役を、出来るだけ早く果したいと、気が、急(せ)いてきた。それで、大きく、幾度もうなずいて
「それでは、一走りして。谷山には、馬がござりましょうから――」
「わしも急ぐ――」
 和田は、木箱を押えて
「お先きに」
 と、いうと
「箱を――」
 と、玄白斎は、手を出した。
「はっ――恐れ入ります」
 和田は、急いで採取箱を肩から卸して、手渡すと、一礼して走り出した。土煙が、和田と一緒に走り出した。

 芝野の百姓小屋が、点々として見えてきた。和田仁十郎は、肌着をべっとりと背へくっつけ、汗を拭き拭き、小走りに
(馬――馬)
 と、思いながら、馬の動きを、馬の影を求めていた。一刻も早く急ぎたかったし、暑かったし、心臓も、呼吸も、足も
(早く、馬を)
 と、求めていた。土埃(つちぼこり)が、額へまで、こびりついた。
「この辺に馬がないか」
 雑貨を売る店へ怒鳴って立止まった。
「馬?」
 と、店先にいた汚い女が、首を振って
「谷山まで、ござらっしゃらぬと、この辺には、無いですよ」
「済まぬが、水を一杯」
 仁十郎は、肩で呼吸をしながら、ようようこれだけいった。
「水なら――たんと――」
 女は、薄暗い勝手から、桶をさげて来た。和田の前へ置いて、容器を取りに入った。和田は、身体を曲げると手で掬って、つづけざまに飲んだ。女が、茶碗を持って、小走りに来ると
「忝(かたじけ)ない」
 と、投げつけるようにいって、もう、灼(あつ)い陽の下へ出ていた。
 暑い、この頃の陽の下を旅する人は少いから、戻り馬も通らなかった。和田は、俯向いて、口を開きながら、眉を歪めて、苦しそうに、小走りに走りつづけた。谷山の村へ入って、茶店へ来たが、いつも、茶店の脇の、大きい欅(けやき)の木の下に、一二疋ずついる馬が、一疋も見えないので、欅の下蔭は、淋しかった。
(出払いかしら)
 と、思うと、失望と、怒りを感じて
「婆(ばあ)さん」
 と、茶店の奥へ怒鳴った。
「馬は?」
「馬かえ」
 婆(ばば)は、いつも、馬のいるところに、影が無いから、聞かずともわかっていそうなものだ、というような態度で
「居りましねえが」
「馬子は?」
「馬子も、居りましねえ」
 和田は、この婆が、意地悪く、馬を皆、隠したように感じた。
「急用だに――」
「そのうちに、戻りましょう」
 和田は、渇と、疲れに耐えられなくなって、腰をかけた。
「水を一杯」
「水は悪うござるよ。熱い茶の方が――」
「水でよい」
 竈(かまど)のところから、爺(じじ)が、顔を出して
「つい、今し方まで、四五疋遊んでおりましたがのう。御武家が四人、急ぐからと――つい今し方、乗って行かっしゃりましたよ。ほんの一足ちがいで、旦那様」
「何処かに、爺(じい)――野良馬でも、工面つくまいか」
「さあ――婆さん、松のところの馬は、走るかのう」
 和田は
(走らぬ馬があるか、気の長い)
 と、じりじりしてきた。

 人通りの無い、灼熱した街道に、鉄蹄をかつかつ反響させて、小走りに馬が、近づいて来た。誰か、乗っているにちがいなかったが、和田は、町人か、百姓なら、話をして、借りて行こうと、疲れた腰を上げて、葭簾(よしず)の外へ、一歩出た。
「先生」
 玄白斎が、木箱をがたがたさせながら、半分裸の馬子を、馬側に走らせて、近づいて来た。
「馬がないか」
「一疋も、ござりませぬ」
「馬子」
 馬子は、呼吸を切らして、玄白斎を、見上げただけであった[#「あった」は底本では「あつた」]。
「もう一疋、都合つかぬか」
 馬も、馬子も、茶店の前で止まった。馬子は、胸を、顔を、忙がしく拭いて
「爺さん。四疋とも、行ったかえ」
「四疋とも、行ったよ」
「旦那、ここには、四疋しか居りませんのでのう」
 和田は、馬側へ近づいて
「一足ちがいで、家中の者が、四人で――」
 と、まで云うと、
「今か――」
 玄白斎が、大きい声をして、和田を、鋭く見た。和田は、玄白斎のそうした眼を見ると同時に
(そうだ。猟師を殺して、一足ちがいに)
 そう感じると、すぐ
「爺――その内の一人に、背の高い、禿げ上った額の、年齢三十七八の侍は居らなんだかの」
 玄白斎は、手綱を控えたまま、茶店を覗き込んでいた。
「額の禿げ上った、背の高い?――婆さん、あの長い刀の御武家の背が、高かったのう」
「一番えらいらしい――」
 婆は、首を振って、仁十郎を、じっと見て
「けれど、四十を越していなさったが――」
 玄白斎が
「その外のは、三十前後ではなかったか?」
「はい、お一人だけは、二十八九――」
「それは、少し、太った――」
「はいはい、小肥りの、愛嬌のある――」
 玄白斎は
「馬子っ」
 と、叫んだ。馬子は
「へっ」
 と、返事をして、茶店の中から、周章てて飛び出した。
「それが取計う」
 玄白斎は、和田を、顎(あご)でさした。そして、和田へ
「馬子に手当してやれ。わしは、彼奴を追うから、都合して、すぐ、続け」
 半分は、馬が、歩み出してからであった。馬子が
「旦那っ」
 と、叫んで、馬の口を取ろうとするのを、和田が、引戻した。玄白斎は、手綱を捌いて、馬を走らしかけた。
「いけねえ、旦那っ」
「手当は、取らすと申すに」
 和田は、力任せに、馬子の腕を引いた。

 人々の立去った足音、最後の衣ずれが、聞えなくなった瞬間――邸が、部屋が、急に、しいーんとした。
 それは、いつも感じたことのない凄さと、無気味さとを含んだ、丁度、真暗な、墓穴の中にいるような、凄い静かさであった。七瀬(ななせ)は、肌をぞっとさせ、頭の中へ不吉なことや、恐ろしい空想を、ちらっとさせた。
(何を、怯(おじ)けて――)
 と、自分を叱って、すぐ膝の前に、よく眠入(ねい)っている、斉彬の二男、寛之助の眼を、じっと眺めた。
 新しい蒲団を三重にして、舶来の緋毛布に包まれて、熱の下らない、艶々と、紅く光る頬をした四歳になる寛之助は、睫毛も動かさないで、眠入っていた。七瀬が耳を寄せると、少し開いた口から、柔かな、穏かな呼吸が聞えた。
(この分なら――)
 と、微笑して、身体(からだ)を引くと、また、余りの静かさが、気にかかった。その静かさに、それから、自分の臆病さに、反抗するように、わざと灯の影の暗い天井を仰いだ。暗い、高い天井を、じっと凝視(みつ)めていると、じりっと、下って来るように感じたが、睨むと、何んでもなかったし、屏風の蔭から、誰かが顔を出しそうなので、じっと眺めていたが、何も、出て来なかった。
(なぜ、今夜に限って、こんなことが、気にかかるのか? 大事な役を勤めておりながら、何んという臆病な――)
 と、自分を励ましたが――そう思う次の瞬間に、後方(うしろ)の襖の中から、鬼のような、化物のような奴が、こっちを見ているような気がした。
 左右の次の間には、典医と、侍女と、宿直(とのい)の人々とがいたが、物音も、話声もしなかった。
 寛之助の母の英姫は、寛之助が安眠したのと、斉彬が未だ起きているので、その部屋の方へ行った。英姫が、去ると、蘭法医の寺島宗英も、漢法医の延樹方庵も、控えの間に退ってしまった。そして、徹夜をして詰めていた侍女が、更代に出て、近侍も、七瀬に頼んで休憩に下るし――それらの人々は、次の間か、遠くないところにいるにちがいないのだが、物音一つしない静かさで、七瀬一人が灯影のゆらぐ下に坐っていた。
 長男の菊三郎は、生れて一ヶ月日に死んだので、誰も気がつかなかったが、澄姫と、邦姫の二人は、三歳と、四歳になって、原因不明の病で死んだから、人々の記憶には、十分残っていた。
 この二人の死ぬ前の症状と、寛之助の近ごろとが、よく似ているのであった。時々、熱を出して、よく怯えて――この十日程前から眠入っていても、出し抜けに泣いたり、眼の中いっぱいに、恐怖の色を見せて、小さい掌に汗を出していたり
「怖いっ」
 と、泣いて、飛び起きたり――それは、前の二人の時にも医者が
「御弱い上に、熱が高いと、恐い夢をよく見ます」
 と、いったが、斉彬の近侍の二三は
「然し――」
 と、いって、うつむいて、何か考えていた。七瀬は、その人々の言葉を思い出して
「調伏?――」
 と、ちらっと、考えた時、ぴーんと、木の裂ける音が、七瀬の心臓を、どきんとさせた。

 七瀬は、裁許掛見習、仙波八郎太の妻であった。そして斉彬の正室、英姫の侍女でもあった。誠実で、聡明で、沈着であったから、寛之助の病が、悪化してくると共に、その看護を仰せつけられたのであった。
「何うも、可怪(おか)しい、何か、悪い企みがあるのではないか」
 と、いう疑いが、まず、お目付兼物頭、名越左源太から起された。澄姫が、亡くなった時にも、熱がつづいて、医者は、首を振るだけで
「さあ――」
 と、臆病そうな目を上げるだけであったが、今度も、病状が判らなかった。澄姫は、死ぬ少し前から、小さい、痩せた手を、出し抜けに、蒲団の中から出して、誰かに、縋りを求めながら
「怖いっ、怖いっ」
 と、絶叫した。身体が、がたがた顫えて、瞳孔が大きく据ってしまって、いじらしい程、恐怖の怯えを眼にたたえながら、侍女へ抱きついて、顔を、その懐へ差込んだ。
「夢でございますよ――何も、おりませぬ」
 と、侍女は、怯えている澄姫を、正気にしようとしたが、澄姫は、がくがく顫えて、しがみついたままであった。
 英姫は、余り、いじらしいので、自分が夜を徹して、澄姫の枕許にいたが、澄姫は、だんだん、夜になるだけにでも、怖れだしてきた。昼間の、陽の明るい折
「寝てから、何を、見るの?」
 と、聞くと、それだけでさえ、もう、顔色を変えて
「鬼――」
 と、答えると、それ以上のことは、怖ろしくて、説明もできないようであった。そして、だんだん衰弱して行った。
 左源太は、その澄姫の死を想い出すと、可愛盛りの寛之助を捨てておけなかった。もう一度、あの恐怖に怯えさせるかと思うと、斉彬の冷淡さに、腹が立ってきた。
「寛之助様、ばかばかしゅうござりませぬが」
 と、いうと、斉彬は、ホンフランドの「三兵話法」を、読みながら、
「あれは、生来弱い」
「しかし、御病状が、異様でござります」
「病気のことは、医者に任せておけ」
「医者の手ではおよばぬ――」
「なら、天命だ」
 左源太は、それ以上、斉彬に云えなかったから、英姫に
「よもやとは思いまするが、例(ためし)のあること。油断せぬに、しくはござりませぬ。典医、侍女の方は、某(それがし)が、見張りますから、夜詰の人に、政岡如き女を――」
 と、すすめて、そして、七瀬が、選まれることになったのであった。病間夜詰と、きまった時、仙波八郎太は
「寛之助様は御世継ぎじゃで、もしものことが、おありなされたら、ここの敷居を跨げると思うな」
 と、云い渡した。小身者の仙波として、七瀬が首尾よく勤めたなら、出世の緒(いとぐち)をつかんだことになるし、他人に代った験(しるし)が無かったなら、面目として、女房を、そのままには捨て置けなかった。
「心して、勤めまする」
 と、答えて来たが、夜の詰をして、三日目の今夜は、いつになく、気が滅入って、何うしたのか、怯け心が出て来た。
 灯が、暗いようなので、心(しん)を切ろうと、じっと、灯を見つめながら、手を延そうとすると、部屋中が、急に薄暗くなって、天井が、壁が、畳が、襖が、四方上下から、自分を包みに来るように感じた。

 七瀬は、脚下から寒さに襲われた。はっとして、手を引くと、心を落ちつけようと、努力しながら、四方を見廻した。
 床の間には重豪の編輯(へんしゅう)した「成形図説」の入った大きい木の函があったし、洋式鉄砲、香炉、掛物の万国地図。それから、棚には呼遠筒が、薄く光っていた。
 誰かを呼びたい、ような気もしたが、自分の気の迷いで、人を呼ぶのも恥かしかったから、心切(しんき)りを持ち直して、燭台を見ると、前よりも薄暗いようであった。蝋燭の灯が、妙に黄ばんでいて、蔀屋の中が、乳白色の、霧のようなもので、満たされているようであった。
(和子(わこ)は――)
 と、寛之助を見ると、よく眠入っているし、その愛らしい睫毛さえ、はっきりと判ったから、安心して、部屋の異状を、見定めようとすると、その乳白色の空気が、薄暗い屏風の背後へ、流れ込むように動いていた。
 七瀬は、蒼白になって、息をつめて、膝を握りながら、自分の恐怖心にまけまいと、それを、じっと眺めていると、霧の固まりが屏風の背後で、ぐるぐる廻り出したように見えた。そして、屏風が、はっきりと眼に見えていながら、屏風の後方が、屏風を透して見えているように思えた。
(夢かしら?――夢ではない)
 と、思った瞬間――部屋の中が、急に、四方から狭められたように感じられてきて、畳が、四方の隅から、じりじりと、押上がってくるように思えた。
 七瀬の手は、いつの間にか、守り刀の袋へかかっていた。眼は、恐怖に輝きながら、廻転している霧を、睨みつけていると、霧が気味悪い、青紫色にぎらぎらと光るようにも見えたし、光ったのは眼の迷いであるような――そして、自分の眼が、何うかしていると、じっと、眺めると、その霧の中に凄い眼が、それは、人間の眼であったが、悪魔の光を放っている眼であった。
「あっ」
 と、叫んだが、声が出なかった。
(これが、寛之助様に――)
 と、思ったが、手も、足も、身体も、動かなかった。急に、青紫色の光が、急速度で、廻転すると共に、その光る眼の周囲に、人の顔らしいものが現れたように感じた。痩せた、鋭い顔であった。
 七瀬は、動かぬ手を、全身の力で動かそうとしながら、一念を凝(こ)めて
(こいつを、退散させたら――)
 と、全精神力を込めて、睨みつけた瞬間、寛之助が
「ああっ」
 と、叫んで、両手を、蒲団から突き出すと、顫えたまま、左右へ振って
「こわいっ――」
 七瀬が、その声に、寛之助を眺めて、はっと胸を押されると、部屋は、前のように明るく、その灯の下で、寛之助が、汗をにじませて、恐怖に眼をいっぱいに開いているだけであった。
「和子様っ」
 と、上から、抱くと、寛之助は、身体を、がたがた顫わせて、しっかりと抱きついた。七瀬の頬に触れた寛之助の額は、ただの熱でなく、熱かった。
 長いようでもあったし、短いようでもあった。ほんの瞬間、疲れから、夢を見たような気もしたし、本当に、奇怪な事が起ったようにも思えたし――七瀬には、判断がつかなかった。ただ、鋭い眼だけは、頭の隅に、閃いていた。

 侍女が、つつましく、襖を開けるのさえ、もどかしかった。顔が見えると、すぐ
「方庵を――」
 侍女は、立って入ろうとした。
「方庵を、早く――」
 侍女は、七瀬の声と、顔が、ただでないのを見て、襖を閉め残したまま、小走りに行った。
 寛之助は、熱い額を、頬を、七瀬の肌へ押しつけて、獅噛(しが)みついていた。寝かせようと、下へ置こうとすると、咽喉(のど)の奥から叫んで、置かれまいとした。
「七瀬がおります。七瀬がおります」
 背を軽く叩いて、顫える寛之助を、安心させようとしながら、七瀬は、眼の底、頭の隅に残っている今の幻像が、誰かに似ていると考えた。だが、似ているその誰かが思い出せなかった。
 抱き上げていて、風邪をひかしてはならぬと思ったので、寛之助が獅噛みついているまま、寝床の中へうつ伏せになって、毛布でくるんだ。
(あの物(もの)の怪(け)に、おそわれなさるのかしら)
 と、考えたが、そんなことが、有るべきはずでなかったし、自分の心の迷いから、幻に見たことを、迂濶(うかつ)に、人には話すこともできなかった。然し、心の迷いにしては、余りに明瞭(はっきり)と、幻の顔が残りすぎていた。
 微かに、足音がつづいて襖が開いた。方庵と、左源太と、奥小姓野村伝之丞とが、入って来た。三人とも、七瀬が、寛之助の熱を出させたように、睨みつけて、枕辺に坐ると
「何かに、おびえなされまして、急に、お目ざめになると、このお熱で――」
 方庵が、額へ手を当てた。
 七瀬が、身を引こうとすると
「こわいっ、いやっ――」
 寛之助が、烈しく、身体を悶(もだ)えて、小さい拳をふるわせつつ、七瀬の襟をつかんだ。
「左源太が、打(ぶ)った斬(ぎ)ってやりましょう。左源太は、鬼でも、化物でも、打った斬りますぞ、若」
 寛之助は、顔を埋めたまま、いやいやをした。
「余程、おびえていなさる」
 と、伝之丞が呟いた。
「方庵、澄姫様の時と、同じであろうが」
「うむ、気から出る熱らしいが――」
 方庵は、寛之助の脈を取って
「宗英も、判らんといいおったが――」
「七瀬――何んぞ、異状無かったか?」
 七瀬は、黙って左源太を見た。異状すぎた異変を見たが、それを見たといっていいか――本当に見たのか、夢を見たのか? それさえ明瞭(はっきり)しないことを、いいもできなかった。
「異状は、ござりませぬが――」
 と、いった時、さっき見た幻の顔が、島津家兵道の秘法を司(つかさど)っている牧仲太郎に似ているように思えた。ただ、牧は、もっと若かった。
(調伏――もしかしたなら)
 七瀬は、こう感じると、冷たい手で、身体を逆撫でされたように、肌を寒くした。
「若、何を御覧なされますな。左源太が、追っ払ってくれましょう。どっちから?――あっちから?」
 と、寛之助の顔をのぞき込むと、左源太の指している方を、ちらっと見て、うなずいた。左源太の指は、屏風の方を指していた。七瀬は、もう一度、頭の心から冷たくなってしまった。

「頼むえ」
 お由羅が、こういって、一間(ひとま)へ入ってしまうと、手をついていた侍女達が、頭を上げて、二人が、襖のところへ、三人が、廊下の入口へ、ぴたりと坐った。そして、懐剣の紐を解いた。
 お由羅が入ると、青い衣をつけた、三十余りの侍が、部屋の隅から、御辞儀をして
「用意、ととのうております」
 部屋の真中に、六七尺幅の、三角形の護摩壇が設けられてあった。壇上三門と称されている、その隅々に香炉が置かれ、茅草を布いた坐るところの右に、百八本の護摩木――油浸しにした乳木と、段木とが置かれてあった。
 お由羅が、壇の前へ跪(ひざまず)いて、暫く合掌してから、立上ると、その男が、黒い衣を、背後から着せた。お由羅は、壇上へ上って、蹲踞(そんきょ)座と呼ばれている坐り方――左の大指(おやゆび)を、右足の大指の上へ重ねる坐り方をして、炉の中へ、乳木と、段木とを、積み重ねた。そして、左手に金剛杵(こんごうしょ)を持ち、首へ珠数(じゅず)をかけてから、炉の中の灰を、右手の指で、額へ塗りつけた。
 侍は、付木から、護摩木へ、火を移すと、お由羅は、白芥子と塩とを混じたものを、その上へふりかけた。小さく、はぜる音がした。火花がとんで、すぐ燃え上った。
 侍は、一礼して退くと、索縄(さくじょう)と、刀とをもって、お由羅の坐っている壇の下、後方へ、同じように指を重ねて坐った。そして、低い声で
「東方阿□(あしゅく)如来、金剛忿怒尊、赤身大力明王、穢迹(えじゃく)忿怒明王、月輪中に、結跏趺坐(けっかふざ)して、円光魏々、悪神を摧滅す。願わくば、閻□(えんた)羅火、謨賀(ぼか)那火、邪悪心、邪悪人を燃尽して、円明の智火を、虚空界に充満せしめ給え」
 と、祈り出した。
 寛之助の病平癒の祈祷をするといって、この護摩壇を設けたのであったが、三角の鈞召火炉は、調伏の護摩壇であった。今、祈った仏は、呪詛の仏であった。
 壇上の品々――人髪、人骨、人血、蛇皮、肝、鼠の毛、猪の糞、牛の頭、牛の血、丁香、白檀、蘇合香、毒薬などというものは、人を呪い殺すために、火に投じる生犠の形であった。
 黒煙が、薄く立昇ると、お由羅は、次々に護摩木を投げ入れ、塩を振りかけ、水をそそいだ。煙は、濛々(もうもう)として、生物のように、天井へ突撃し、柱、襖を這い上って、渦巻きおろして来ると、炉の中の火が、燃え上って、部屋の中が、明るくなった。
 お由羅は、暫く眼を閉じて、何か念じていたが
「南無、金剛忿怒尊、御尊体より、青光を発して、寛之助の命をちぢめ給え」
 と、早口に、低く――だが、力強くいって
「相(そう)は?」
 と、叫んだ。と同時に、侍が
「蛇頭形」
 と、叫んだ。火炉の中の火焔は、蛇の頭の形をしていた。槍形、牙形というように、焔の形によって判断をするのが、調伏法の一つであった。
 お由羅は、また、眼を閉じて、護摩木を投げ入れ、毒薬と、丁香とをそそぎかけて
「色は?」
 と、叫んだ。
「黒赤色」
 黒赤い、凄さを含んだ火焔が、ぱっと立っていた。
「声は?」
「悪声(あくじょう)」
 それは、焔の音を判じるのであった。

 煙と、異臭とが、部屋の中で、渦巻いた。お由羅は右手で、蛇の皮を、犬の胆を、人の骨を、炉の中へ投げ入れて、その度に
「相は?」
 とか
「声は?」
 とか――火焔の頂の破散で判じ、音で判じ、色で判じ、匂で判じて、調伏が成就するか、しないか――額は、脂汗が滲み出していたし、眼は異常に閃いていた。手も、体も、ふるえて、いつもの、甘い、女の声が、狂人のように、甲高(かんだか)くなっていた。
 焔を、見つめていた侍が、お由羅の、顔を眺めて、立上った。索縄を、壇上へ置いて、刀を持ち直して、お由羅の右手へ廻った。そして、何か、口の中で呟いて、お由羅の手をとると、お由羅は、半分失神し、半分狂喜しているような、凄い眼を閉じて、右手を侍の方へ突き出した。
 浅黒い、だが、張切った、艶々した腕が二の腕までまくり上げられると、侍の手に引かれて、火焔の上の方へ、近づいた。
「南無赤身大力明王、穢迹忿怒明王、この大願を成就し給え」
 侍は、こう叫ぶと、刀の尖(さき)を、手首のところへ当てて、青白く浮いている静脈を、すっと切った。血が、湧き上って来て、見る見る火の中へ、点々と落ちた。
 二人は、そのままの形で、俯向いて、何か念じると、だんだん、お由羅が、首を下げてきて、左手に金剛杵をもったまま、壇上へ、片手をついてしまった。その瞬間、侍は、疵口を押えて、火の中へ倒れかかろうとするお由羅を、後方へ押し戻した。
「大願成就、大願成就」
 と、いいながら、お由羅の両手を、胸のところへ集めて、抱きかかえながら
「お方」
 背を押して、叫んだ。お由羅は、眼を開けて、自分で手首を押えて、軽く、お辞儀をした。侍は、布を出して、膏薬を貼った上から、縛った。お由羅は、しびれた、痛む胸を、這うようにして、壇から降りて
「火が、みんな、左へ廻りましたの」
 と、微笑した。
「吉相にござります。焔頂、左に破散して、悪声を発す。今夜の内に、成就致しましょうか」
「牧は、今夜あたり、お国の何(ど)の辺で、祈っておりましょうか」
 侍は、壇の下から、護摩木を取り出して、積みながら
「烏帽子岳か――黒園山あたりで、ござりましょう」
 侍は、兵道家牧仲太郎の高弟、与田兵助という人であった。
 お由羅が、汗を拭いて、壇の下へ坐ると、兵助が、燃え尽そうとしている護摩木の中へ、新しい木を、一本一本、押頂いて、載せて行った。煙と、焔とが、又、勢いよく立ちかけた。
 兵助は、気味の悪い、鈍い眼をした牛の頭を、両手で、静かに、火炉の中へ置いた。すぐ、毛の焼ける、たまらない臭が、部屋中へ充ちた。兵助は、口の中で、何か唱えながら、白檀と、蘇合香とを、牛頭の上から、撒きちらした。
 右手に置いてあった、尖に、微かに、血のにじんでいる直刀を握って、牛の眼へ、ぴったりつけながら
「南無金剛忿怒尊」
 と、叫んで、眼を突いた。白い液が、少し流れ出て来た。兵助は、左の眼も突き刺した。

「お待ちに、ござりまするが」
 三度目の使が、襖外で、恐る恐る、声をかけた。斉彬は
「今――」
 と、いったまま、紫檀(したん)の大机に凭(もた)れて、書物(かきもの)をしていた。そして、筆を走らせながら、
「今行く」
 と、大きいが、物やさしい声をした。机の上にも、膝の周囲にも、書物と、書き損じの紙とが、散乱していた。
 寛之助の臨終にも、同じ邸にいる父として、無論、行かねばならなかったが、今書いている「大船禁造解」と、「大船禁造令撤去建議案」とは、一日早く出来上れば、一日だけ、日本に利益と、幸福とを齎(もたら)して来るものであった。
 斉彬の頭の中も、血の中も、大船を造ることを禁じるというような愚令を、早く、撤廃させなくてはならぬ、ということで、いっぱいになっていた。煙を上げて走る、鋼鉄で装われた舶来船で、表象されている異国の力と、知識とを得んがためには、同じ船を作るより外に、最初の手がかりは無いはずであった。
 幕府も、それを知っておりながら、反対論に怯えたり、繁雑な手続きを長々と調べたり――斉彬は、そういう役人、大名、輿論に対して、ただ一人、この部屋で、こうして闘っていた。ふっと、寛之助のことを思い出しても、自分の子の病、死などは、窓外をかすめる風音ぐらいにしか感じなかった。
(医者が十分に手当をしてくれている。自分がいたとて、癒らぬものは癒らぬ)
 と、呼びに来られると、考えた。
(自分が行かないために、よし、寛之助が死んだとしても、この草案には代えられぬ。この草案のために、あの子が犠牲になったとしたら、こんな光栄な死はない)
 と、いうような理窟まで考えた。だが、立上った。襖を開けると、近侍が、廊下に手をついて待っていた。
「もう、死んだか」
「いいえ、御重態のよしでござります」
 斉彬は、愛児の見舞に急ぐよりも、早く見舞って早くここへ戻らんがために、大股に、早足に、廊下を急いだ。
「お渡り――」
 と、いっている声が聞えた。侍女だの、医者だのが、出迎えに来た。
 病室へ入ると、誰の顔にも、不安さと、涙とがあった。英姫の眼は、泣きはれて、蕾のようになっていたし、七瀬の髪は乱れて、眼が血走っていた。斉彬は、寛之助の枕頭へ坐って、じっと、病児の顔を眺めた。
 寛之助は、眼に見えぬ敵と、何(ど)んなに戦ったのだろう? 三日見ない間に、頬の艶がなくなって、痩せてしまっていた。罪の無い、無邪気な幼児が、たった一人で、乳母の力も、医者の力も、およばないところで、泣きながら、苦しめられながら、怯えながら、死と悪闘している姿を想像すると、斉彬は
「若」
 と、叫んで、涙ぐんだ。血管が青く透いて見える手、せわしく呼吸に喘いでいる落ちくぼんだ胸、愛と、聡明とで黒曜石の如く輝いていた眼は、死に濁されて、どんよりと、細く白眼を見開いているだけであった。
「回復の望みは――」
「はっ」
 と、いって、三人の医者は、頭を下げたままで、何んとも答えなかった。見ない前の心強さが、寛之助のいじらしい姿に、打ちくだかれて、斉彬は、幾度自分の名を呼び、自分を見たく思ったかと思うと、熱い悲しみの球のようなものが、胸から、頭の中までこみ上げて来た。

「痩せたのう」
 と、いって、斉彬は、意識のない寛之助の、手を握った。掌へ感じたのは、熱と骨とだけであった。英姫は、それを見ると、袖を口へ当てて泣き入った。
(せめて――せめて正気のある間に、そうしてやって下さったなら)
 二日前英姫の懐の中で、熱っぽい、だるそうな目をしながら
「お父(とと)は?」
 と、聞いた時、幼児は、それが父に逢う最後だと感じていたにちがいなかった。
「見たいか」
 と、聞くと、はっきり、強く
「お父は?」
 と、いって、頷いた。英姫は、すぐ、侍女に斉彬を迎えにやったが、今行く、今行くと、とうとう斉彬の来ぬうちに、また熱の中へ倒れてしまったのであった。
(何んなに、顔を見たかっただろうか)
 寛之助が、灰色の、広々とした中を、ただ一人で、とぼとぼと、果もなく、父を恋い、母を求めて歩いて行く姿が考え出されて来た。英姫は、袖を噛んで泣き入った。
「寛之助――父(てて)じゃ」
 と、斉彬が叫んだ。だが、幼児の眼は、もう動きもしなかった。
「方庵」
「はっ」
「澄も、邦も、同じ容体で、死んだのう」
「はい」
「未だ匙(さじ)が届かぬか」
 やさしいが、鋭い言葉であった。斉彬のいうのは、当然であったが、方庵には、どうしても解(げ)せぬ病であった。
「七瀬、疲れたであろう」
「いいえ」
「病は、薬よりも、看護じゃ。こういう幼児には、余計にそうじゃで――」
 七瀬は、斉彬の称(ほ)めてくれる言葉を、責められているように聞いた。寛之助の死は、斉彬にとって、後嗣(あとつぎ)を失う大事であると共に、七瀬にとっても、仙波の家を去らなければならぬ大事であった。夫の肩身を狭くし、自分を不幸にさせ――と、思った時
「ひーっ」
 と、寛之助が叫ぶと、斉彬に握られている手も、身体も、力の無い脚も、一度に、病児とは思えぬ程の力で突上げ、顫わせた。脣は、痙攣(けいれん)して、眼は大きく剥き出し、瞳孔を釣上げてしまって、恐怖と、その苦痛とで、半分気を失っているような表情であった。
「寛之助っ」
 斉彬は、不意に、力いっぱいに振切ろうとした寛之助の痩せ細った手を握りしめて、がたがた顫えている子供の身体を、片手で軽く押えながら
「父じゃ――見てみい、父じゃ」
 と、顔を、幼児の眼の上へ、押しつけた。
「見えんか――寛之助っ、父じゃ」
 斉彬の声は、沈黙している部屋中へ響いた。涙声であった。
「七瀬――おそわれると――いつもこうか?」
「はい」
 寛之助の脣は、わくわくと開いたり、閉じたり、身体は烈しくふるえているし、眼は白眼が多くなって、次第に細く閉じられてきた。
「まだ脈はあるが――」
 斉彬は、医者の方を見て
「何か手当の法が無いものか」
 と、口早に聞いた。
「助かるものなら――」
 と、低く、呟いて、七瀬の眼を見た斉彬の睫毛には、涙が溢れるように湧き上って来ていた。

  手首に怨む

「噂をすれば、影とやら――」
 一人が、こういって、隣りの男の耳を引っ張った。
「何をしやがる」
「通るぜ、師匠が」
 お由羅の生家、江戸の三田、四国町、大工藤左衛門の家の表の仕事場であった。広い板畳の上で、五六人の若い男が、無駄話をしていた。
「師匠」
 常磐津富士春は、湯道具を抱えて、通りながら、声と一緒に、笑顔を向けて
「おやっ――」
 立止まって
「お帰んなさいまし」
 と、小藤次に挨拶をした。小藤次とはお由羅の兄で、妹が、斉興の妾となって、久光を生んでから、さらに取立てられて、岡田小藤次利武と、名乗っているのであった。
 小藤次は、袴も、脇差も、奥へ捨てたまま、昔のように、大あぐらで
「入(へえ)ったら――」
「おめかしをして」
 富士春は、媚をなげて、素足の匂を残して行った。
「いい女だのう。第一に、鼻筋が蛙みたいに背中から通ってらあ」
「兄貴を、じっと見た眼はどうだ、おめかしをして――」
「おうおう、誰の仮声(こわいろ)だ」
「師匠のよう」
「笑わせやがらあ、そんなのは、糞色(ばばいろ)といってな――」
「鳴く声、鵺(ぬえ)に似たりけりって奴だ」
「俺(おいら)、あの口元が好きだ。きりりと締まってよ」
「その代り、裾の方が開けっ放しだ。しかもよ、御倹約令の出るまでは、お前、内股まで白粉を塗ってさ」
「御倹約令といやあ、今に、清元常磐津習うべからずってことになるてえぜ」
「そうなりゃ、しめたものだぜ。師匠上ったりで、いよいよ裾をひろげらあ」
 と、いった時、泥溝(どぶ)板に音がして、一人の若い衆が、下駄を飛ばした、片足をあげて、ちんちんもがもがしながら、大きい声で
「とっ、とっと――猫、転んで、にゃんと鳴く。師匠が転べば、金になる――」
 板の間で、それを見た一人が
「庄公、来やあがった」
 と、呟いた。庄吉は、入ろうとして、小藤次に気がつくと
「お帰んなさいまし」
 と、丁寧に、上り口へ手をついた。
「上れ」
「今、酒買うところだ」
「丁度、師匠の帰りに、酌ってことになるかの」
 小藤次が
「庄、どうだ、景気は?」
「へへっ、頭は木櫛(きぐし)ばかり、懐中は、びた銭、御倹約令で、掏摸(すり)は、上ったりでさあ」
「押込なんぞしたら?」
「押込?――押込は、若旦那、泥棒でさあ。品の悪い。掏摸は職人だけど――」
「はははは、そうか――庄吉、いい腕だそうなが、武士のものを掏ったことがあるか」
「御武家衆にゃあ、金目のものが少くってねえ」
「何うだ、一両、はずむが、鮮やかなところを見せてくれんか?」
 小藤次が、こういって、往来を見た時、一人の若侍が、本を読みながら、通りすぎようとしていた。
「あいつの印籠は?」
「朝飯前、一両ただ貰いですかな」
 庄吉は、微笑して腰を上げた。
 出て行こうとする庄吉へ、一人が
「へまやると、これだぞ」
 と、首頸(うなじ)を叩いた。庄吉が、振向いて、自分の腕を叩いた。

 若い侍は、仙波八郎太の倅、小太郎で、読んでいる書物は、斉彬から借りた、小関三英訳の「那波烈翁(ナポレオン)伝」であった。
 父の八郎太が、裁許掛見習として、斉彬の近くへ出るのと、斉彬の若者好きとからで、小太郎は無役の、御目見得以下ではあったが、時々、斉彬に、拝謁することができた。
 斉彬は、時々、そうした若者を集めては、天下の形勢、万国の事情を説いて、新知識の本を貸し与えた。「那波烈翁伝」は、こうした一冊であった。
 近頃、流行(はや)りかけてきた長い目の刀を差して、木綿の紺袴に、絣を着た小太郎を見て、庄吉は
(掏り栄えのしない)
 と、思った。庄吉の狙った印籠は、小太郎の腰に、軽く揺れていたが、黒塗で、蒔絵(まきえ)一つさえない安物であった。
(仲間の奴が見たなら、笑うだろう)
 と、そうした安物を掏る自分へ、嘲ってみた。
(然し、一両になりゃあ――)
 庄吉の冴えた腕は、掏ろうとする品物を生物にした。庄吉が、腕を延すと、その品物の方から、庄吉の掌の中へ、飛び込んで来るのが、常であった。そして、今の仕事は鋭利な鋏(はさみ)を、右手の掌の中へ隠して、紐を指先で切ると同時に、掌へ、印籠を落す、という、掏摸の第一課の仕事であった。
 庄吉は、ぐんぐん近づいて行って、鋏を指の間へ入れた。三尺、二尺――近づいて、鋏を動かすと――ほんの紙一重の差であろう、鋏は、空を挟んで――庄吉は
(侮っちゃあいけねえ)
 と、感じた。そして、次の瞬間、も一度、鋏を突き出して、指を動かすと、紐は、指先へ微かに感じるくらいの、もろさで、切れて、印籠は、嬉しそうに、庄吉の掌の中へ落ち込んだ。庄吉は、満足した。
 だが、それは、ほんの瞬間だけのことであった。庄吉の身体が侍から、一尺と離れぬ内に、侍が振向いた、険しい眼が、庄吉の眼と正面から衝突した。侍が、立止まった。
 庄吉は、それでも、腕に自信があった。掏ったとわかって、振返ったのではなく、自分が余り、近づきすぎたのを怪しんで、振返ったのだと思った。
 だが、それも、ほんの瞬間だけにすぎなかった。庄吉の、引こうとした手が、侍の手で、しっかり握りしめられてしまった。
(ちえっ)
 と、心の中で、舌打ちをして、生(なま)若い侍から侮辱されたように感じて、憤りが湧いてきた。
(小僧のくせに、味な真似を――)
 と、思った。そして、手を握られたまま、小太郎の眼と、じっと、睨み合っていた。振切って、横っ面を、一つなぐって、逃げてやろう、と思った。だが、右手を、十分に取られていて、勝手が悪かったので
「済みません」
 と、油断させておいて――とも、思ったが、こんな小僧に、詫(あやま)るのも癪であった。
「何うするんでえ」
 庄吉は、睨みつけた。小太郎は、微笑した。そして、左手の書物を、静かに、懐へ入れて
「さあ、何う致そうかの」
 と、答えた。

 庄吉も、微笑した。
「江戸は物騒だから、気をつけな」
「不埓(ふらち)者っ」
 小太郎の顔に、さっと、血が動いた。
「何っ?」
 力任せに引く手首を、ぐっと、内へ折り曲げると共に、庄吉の手首から、頭の中まで、血の管、筋骨を、一時に引きちぎるような痛みが、走った。
(手首が折れる)
 と、感じ
(商売が、できなくなる)
 と、頭へ閃いた刹那、庄吉は、若僧の小太郎に、恐ろしさを覚え、怯(お)じけ心を感じたが、その瞬間――ぽんと、鈍い、低い音がして、庄吉の顔が、灰土色に変じた。眉が、脣が、歪んだ。
 往来の人が、立止まって、二人を眺めていた。庄吉は、自分の住居に近いだけに、自分の仕事を人に見られたくなかったし、弱味を示したくもなかった。
 しびれるように痛む手に、左手を添えて、懐へ、素早く入れた。そして、一足退って
「折ったなっ」
「江戸は物騒だ。気をつけい」
 小太郎が、嘲笑して
「印籠は、くれてやる」
 庄吉は、口惜しさに逆上した。左手を、小太郎の頬へ叩きつけようとした時、何かが、胸へ当ってよろめいた。踏み止まろうと、手を振って、足へ力を入れた刹那、足へ、大きい、強い力が、ぶっつかって――青空が、広々と見えると、背中を、大地へぶちつけていた。手首の痛みが、全身へ響いて、庄吉は、歯をくいしばって、暫く、動こうにも、動けなかった。
(取乱しちゃ、笑われる)
 ちらちらと、富士春の顔が、閃いた。
「野郎っ――殺せっ」
 そうとでも、怒鳴るより外に、仕方がなかった。足で、思いきり蹴った。起き上ろうとすると、手首が刺すように痛んだ。
「殺せっ」
 庄吉は、首を振った。小太郎の後姿が、三四間先に見えた。
「待てっ」
 左手をついて、起き上ろうとして、尻餅をついたが、すぐ、飛び起きて
「やいっ」
 走り出した。背中も、髻(もとどり)も、土埃にまみれて、顔色が蒼白に変り、脣が紫色で、眼が凄く、血走っていた。小太郎が、振向いて
「用か」
 庄吉は、小太郎の三四尺前で、睨みつけたまま、立止まった。
「元の通りにしろっ。手前なんぞに、なめられて、このまま引込めるけえ。元通りにするか、殺すか、このままじゃあ、動かさねえんだ――おいっ、折るなら、首根っ子の骨を折ってくれ」
 庄吉は、じりじり近づいた。手首がやけつくように、痛んだ。
(早く手当すりゃ、癒らぬこともあるまい)
 と、思ったりしたが、意地として、後へ引けなかった。印籠一つと、かけ代えに、商売道具を台なしにされたと思うと、怨みと、怒りとで、いっぱいになってきた。

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