大阪を歩く
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著者名:直木三十五 

宣伝と、製法とによって、無限に生産してくる、この海の草は、十分に儲かるであろうと思う。
 私は、一つの塩昆布でさえ、甘いの、からいの、淡白(あっさり)したのといろいろの店があって、味のちがうのを知っているが、考えるなら粉末とし、加工し、精を抜いて、もっと、種々の製品が出来るにちがい無い。不景気な時の暇な内に少し研究しておいて、無駄にならんことである。
 女給と、料理と、飴以外に、未だまだ大阪特有の品で、販路の拡まるべきものがある。追々それを私は説明して行こう。とにかく私のは谷孫六先生のように、奇才縦横ではないが、相当に金儲け位は知っているのである。
 だが、昆布は、少し、高すぎる。シュークリームなら、二円であろう箱が、七八円である。これは、現在の昆布屋が、考えるべき唯一の点で、将来の昆布屋も、考慮すべき所である。昆布は、もっと、安く、もっと拡まるべきものである。「大丸製昆布」それが、日本中に弘まることは、必ずしも、難事ではない。価値のあるものをして正当の価値に扱わしめよ。私は、私の郷土の名産物として、昆布の不遇を、嘆ずるものである。

  飛行機

 私は、いつものように、飛行機である。東京から、三十円である。マントも帽子も買えない私として、大変高価であるし、人から、贅沢だと、見られているらしい。
 だが、飛行機は、二時間半でくる。十一時に宿へつくとすぐ湯へ入って、私は原稿を書けるし、本が読めるし、恋人に逢えるし(もし、有ったとしたら――実際私がこんなに、度々、大阪へくるのに、一人の愛人も無い、ということは淋しいことにちがい無い)、そうした時間の利用に、超特急よりも、夜行列車よりも、経済的である。
 実際、科学に対し、飛行機に対し、日本人も大阪人も、理解が無さすぎる。大阪に住んでいる外人は、仮に、五千人としておいて、大阪の人口が、仮に二百万として四百分の一である。所が、大阪、東京間の旅客機には、二三十人に一人位の平均で、外人がのっている。外人が、特別に忙がしいのでもなく、金持のせいでも無く、冒険心からでも無く――私に云わせると、飛行機に対する信頼の度が、科学に対する理解の度が、日本人よりも、二十倍強いせいである。
 リンドバーグが、大西洋を横断する時に、全米人が熱狂した。それに対して、日本人は「アメリカ人の、いつも世界第一主義だ」と、軽く評していたが、それも有ろうが、外国の科学の勝利、自国の飛行機の優秀さに対する国民の後援である。
 私は、最近、日米戦争に対する十数種の書物を乱読してみたが、何を、一番感じたかと云えば、飛行機についてである。
 飛行機のラジオ操縦は、その実験では、完成されたし、人造人間の操縦も、立派に成功している。私は、日米戦争が、急に起ろうとは思っていないから、アメリカの軍用飛行機が、どんなに優れていたって、直に議会へ、空軍充実の提案をしろ、とは云わないが、アメリカの爆撃機が、三千メートルへ上昇するのに四分半かかり、日本のそれが七分かかるという事は考えなくてはならん事である。
 それは、飛行機のみに対しての問題ではなく、一般科学に対してこの優劣があるからである。科学の優劣が、何を与えるか? この問題を、日本人は、大阪人は、余り考えていなさすぎる。
 人造絹糸が発明された。それを聞いた時、日本人は、あほらしいと思った。実物がきた。こんな物は、生糸と較べ物にならんと、評した。五六年前まで、生糸業者は生糸とは別の物で、心配する事は無い、と断言した。だが、何うだ今日――。
 生糸の需要減退は、アメリカ不景気のみと、誰が断言できる。人絹に圧迫されていないと、誰が云いうる。
 又樟脳は日本の特産物であった。一斤二十円以上もして人工生産は、不可能だと、世界の市場を独占していた。所が、独逸は、大戦中、樟脳の供給が断たれて、火薬の製造に困ったから、これの人工製造を研究して、見事に成功した。そして、日本樟脳は、一斤五円にまで激落してしまった。
 天産に乏しい日本として、科学の発達をさせて、無より有を生じさす以外に、方法の無い事は、判り切っているのに、日本の人々は、科学に対して、甚だしく冷淡である。アメリカの富豪の如き、必ず個人の科学研究所をもっているが、これがアメリカの繁栄を、何う助けているか判らない。
 今日の「サンデー毎日」を読むと「有機ガラス」が、大阪工業研究所の庄野唯衛氏の手で、発明されているがこれである。この一発明が何んなに大阪人を、日本人を富ますか、この新らしい研究に何んという後援者が、いくら金を出したか判らぬが、恐らく、この仕事が、工業化された場合、その利益は、その研究費の何万倍になって戻るか、判らないであろう。
 大阪人が、何故、その富を、こういう風に利用しないか? そこには、金儲けと、国益と、社会への貢献と、いろいろのものが含まれている。エヂソン一人の発明が、七百億ドルに価すると云われているが、十万円の研究費から、何億の富が生じるか?
 私は、大阪人の度胸と、富とがきっとそれに適しているであろうと信じている。私は、明日の大阪をして、発明の源泉地たらしめようと、それを先ず、大阪へすすめて後、私に都合のいい大阪文化の樹立を説きたいのである。科学を最初に――文化的開発を第二に――私の希望はこれである。

  芝居

 私の「南国太平記」を、新声劇で、上演しているので、私は、私の知らない間に知らない母との間に、生れた子供を見に行くような気持で、一寸、覗きに行った。
 私は、いつも忙がしいので(何に、一体忙がしいのか、とにかく、忙がしい。自分ではよく判らぬが、マージャンを、毎晩やるし、囲碁をやるし、将棋をさすし、恋愛をするし、旅行もするし、時々、本を読むし、稀に、原稿をかくし、それで、多分、忙がしいのであろう)、映画とか、芝居とかは、見た事が無い。
 勿論、大阪の芝居などというものは、三十年も入った事が無い。私が、大阪の芝居を見た時分、私の家庭のような貧乏な連中にとっては年中行事の一つであった。私の母親は、前の晩に髪を結って、重箱を造っていた。そして、芝居の中で重箱以外のいろいろの物を買って、食べていた。
 この風俗は後年にも、しばしば御霊文楽座に於て、見受けた所であるが、これは猶大阪人の楽しみの一つであるらしい。東京の女性は椅子席で芝居のみを見て、幕間に食堂で食べ、廊下で、容色と衣裳とを見せる事に、すぐ慣れたが、大阪の女は、もし、松竹が、悉く、芝居を椅子席にしたなら、恐らく、不平を洩らして、拗ねるにちがい無い。
 東京の女は「西洋は、こうだ」というと「そう」と、云って食べたいのを我慢するが、大阪の女は「芝居で物を食べたら、何んでいきまへんね」と、突っかかるにきまっている。私は、芝居を見乍ら、食べ、飲み、握手し、接吻することを、決して下等だとは、思わないが、こうした東京の女は、直ぐ新らしさを受入れ、大阪の女は旧風を固守する事に、可成り文化の進歩に、遅速が生じて来たと思っている。
 直ぐ、ハイカラ風を受入れる、受入れるに就いての是非は別として、何程かの後に東京風が、大阪へ侵入して来る事だけは確かである。大阪の女が、どんなに頑張ろうとも、芝居はだんだん椅子風になって、食事と別になる事は明らかである。そして、それらの遅速が文化の遅速である。
 私は、私の母の如く年に一度しか、芝居へ行かぬ女でさえ、中村鴈治郎を、自分の鴈治郎のように語るのを、知っていた。鴈治郎の声が、何うあろうと、とにかく大阪の俳優鴈治郎が、芝居をしていたら、それでいいのである。そして、いつまででも、鴈治郎で、他に、誰も出て来なくても、十分満足している。
「一寸、やりよるがな、ひいきにしたろか」と、云えば「新声劇」は、十分に、人気を保つことができる。「何や、判れへん。おもろうないな」と、云ったら、何んないい劇団でも、がらがらになる。
 大阪の芝居見人種には、この二種が一番多いらしい。だから、いろいろの新劇団が、できるには一番いい所である。目先きさえ見えたなら、少々の事は、無批判で通してくれる。そして、十分、よくなってから、東京へ出てくる。東京で、育つ種類とは、種類がちがう。
 ひいきの役者さえ出ておれば、それでいい、旧大阪人と、そういう芝居に慣らされて、その人々以下の観賞眼の、新らしい大阪人と――その二つである。前者は新時代を知らず、後者は、適当の育てようを知らない。二つ乍ら、無批判のまま、己の郷土の劇団の、次第に衰弱して行くのを、黙って眺めている。
 坪内士行氏の国民座は解散した。多くの、小劇場運動はいつも、そのまま亡んで行く。亡んで行く者にも多少の欠点はあるが、いつの日か、大阪人も、己の育てた劇場の無いのを、淋しがる日がくるであろう。
 東京劇場、新橋演舞場、歌舞伎座、帝国劇場と、華美をつくした劇場をもっている東京が、収支つぐなわなくなるか? 中座程度の小屋で、見物の満足している日が、いつまでもつづくか? 或は、あの小屋担当の俳優しか、芝居しか、見られなくなる日がいつかくるか? 私は、五六年後に、考えなくてはならぬ時に出逢うであろうと、信じる事ができる。

  女

 私は女は、嫌いでは無い(大抵の女は、好きになるから、或は、こういう、云い方は、まちがって、いるかも知れない)。だから、大阪の女も嫌いではないが(私の、女房は大阪の女である)、どうも――どうも(これは、少し云いにくい所である)少し――少し、物足りない(私の女房だけは別である。失敬)。
 それは、私が毎日、こんな理屈ばかり云っている稼業であるからかも知れないが(女の前では決して云わないが)、どうも、断髪の女と交際すると、やきもちを焼いたり(私の女房では、断じてない)、お前は米の飯で、断髪はチョコレートみたいだから、安心しろ、と云っても、何うせ妾は御飯のように、ぶよぶよしていますわ、と、泣いたり、あれは、マヨネーズだと、三年越教えてやっても、そらネズよ、サラダにかける、と、とうとうネズを、小僧にまで、通用させて、今日は、ネズは未だ御座いますか、と云って女中を、びっくりさせたが――東京の女は、手帳の端にでも控えておいて、そら、マヨネズよ。無いって、あらら、マよ、マヨネズよ、位で、一度、赤面すると、覚えてしまう心がけがある。
 私は、毎月一度、来阪するが、大阪の女で、ぴったり洋服の似合っているのは、ダンサア位のものである。私の生れた町内の如き、未だに、揚げをつけた洋服をきた少女がいるし、それも、せいぜい十二三までで、齢頃の女が、洋装すると、不品行と、同一に考えている。私の親爺の如きも「ええ齢をして、洋装しとる。あんな娘はあかん」と、主張している。
 だが、私の娘の如きは、今年十五であるが、フランスの流行雑誌を買ってきて、自分で注文をして作らせている。私が二十円以下というと、ぷっとふくれるだけで相当な物を見立てている。これが、普通である。
 そして、こういう事は、ただ、洋服のみでは無い。和服に於て、大阪の女は、或は、衣裳持ちで、質のいいものを多く持っているであろうが、その着こなしに於て到底、東京に及ば無い。
 東京の街頭で、けばけばしい薄色の羽織を着、形の悪い鬢に結っている女があったら、それは、関西人か、吉原の女郎かである。黄色系統が流行すると、すぐ黄色に、薄色羽織が流行すると、すぐ薄色に――。
 東京の女は、断髪にし、眉を細くする。だが、それは、極めて一部分の――それは、銀座を歩いても、百人に一人であるが、支那人は、忽ちに、悉く断髪をした。この差が、東京の女と、大阪の女との差に、十分含まれている。アッパッパが、大阪近代風俗の一つとなり、東京の流行が千差万別であるとの差であって、知識の差に、帰着してくる。
 私は、知識を大して重んじないが、知識への憧憬だけは持っていてもいいと思うている。大阪の女にも、それは、女学校時代まであるにちがいない。だが、何の女もそうであるように、家庭を持つと退歩して行く。少くも、彼の亭主は、何らかの意味に於て、年々、進歩をして行くが、女は、女房になったが最後、だんだん退歩してしまう。これが、大阪の女に多い。少くも、東京の女は、いくらか、時代と共に進む意志をもっているが、大阪の女は、家庭を守る事にのみ、専心してしまう。
 それは、確に、一九三〇年までの、良妻、賢母であるが、其の後女性は、妻と同時に、恋人、それからダンサア、それから、職業の助手――そうで無ければ、私は、一人前の女房で無い、と信じている。夫の浮気とは、余り、妻が、妻でありすぎる故に原因している。
 この意味に於て、私は、大阪の女を、今女房にしろ、と云われたなら、甚だ、失礼千万ではあるが長襦袢をきて寝ますか、浴衣がけですか、と、質問したり、男との交際は好きですかとか、嫌いですか、とか――多分、先方から、断られるであろうが――東京の風俗は、そういう方へ、近づきつつある。
 私は、二三の、地方出の女も知っている。彼等は又、勇敢に、東京を模倣している。それは、しばしば滑稽ではあるが、その代り、東京のいい所をも、摂取して、二三年経つと、板についてしまう。大阪は、余りに、自個(じこ)をもちすぎている。

  倹約

 料理屋へ行って食物が残ると
「折へ入れとくれやす」
 と、いうのは、大阪中流の、倹約思想である。悪いことでは無い。ただ、私にとっては、そうして持って戻った肴(さかな)を、煮ても、焼いても、決して、うまかった、ためしがなく、そんな物より、製菓の方がいいと、思われるだけである。
 だが、京都の人よりも、倹約的ではない。京都の、さるお茶屋の女主人と、牛肉を食べに行ったが、その鍋の残りを
「届けとくれやすな」
 と、云ったのには、感じ入った。もう一つ、感に打たれた事は、そうして、何うしても判らなかった事は、私と、芸者と、仲居とが、大阪から、高台寺の貸席へ行った時の事である。私の、食い残しの飯を、
「勿体な」
 と、云って、その仲居が食べた。その仲居が私に惚れていた訳では無いし、私も惚れている訳でもないし、そうして櫃の中には未だ御飯が残っているのである。こうなると、宗教であり、信仰であって、理屈の外になってくる。
 私の母親が――それは、勿論、貧乏のせいであったが、残った、腐りかかった飯を、いつも、湯で洗っては、屋根の上で、陽に干していた、干飯を作るのである。雀が食ったり、乾燥しきらずに、赤くなって腐ったり、干す五分の一位の分量しか、干飯に成らなかったが、実に、根気よく小さい窓から身体を延して、飯を干していた。
 こういう考え方は、一体いいのか、悪いのか? たしかに、大阪及び、大阪近くには、この飯の尊重と、お粥の尊重とが、都会に似ずはびこって、そして又、節約のすきな人が、年々、汽車弁当の残飯が、何万石になるから、棄てるなとか、宣伝しているが、その一方米の豊作で、百姓が困り、それが為購買力が無くなって、経済界が何うとか――この矛盾は、一体、何んであろうか?
 この問題は、近代の科学的産業組織の発達に伴いえない農村の欠陥と、伴わないに拘らず、急激に膨脹した農村経済との矛盾であると、私は考えているが、こういう問題を別として、こうした倹約思想は、明治時代で、廃棄さるべきものであった。
 こうした消極的な、金を使わずに、ためて、自分の生活を安定させるという考え方は、近代の経済に於て、決して大きい富を齎(もたら)すべき方法では無い。所謂、近江商人的のやり方で、大阪の実業家のやり方では無いと、考える。
 だが、未だに「手固い」という事を、唯一の信用として大きく儲けるよりも、損をするな、と、いうモットーの下に、石橋を叩いている実業家が、可成りに大阪には多い。そして、彼等のその考え方が、何処からきているかと云えば、世界の動きを知らない所からきている。幾度も云った文化、という事を本当に考えない所からきている。少し先の経済界の動きを、見る事が出来ないで、目先ばかりを見ている所に起る。
 だが――然し、私の目的は、こんな理屈ではなく大阪を歩くのであった。いつの間にか、少し暖かくなってきて、歩くにもそう苦しくなくなってきた。そして、いつの間にか、私の、この愚文の、挿絵をかいてくれた、小出楢重君が死んでしまった。私も、明日の飛行機で、戻るのであるが、最初の旅客機墜落の見出しの中に、私の名が出るかもしれない。こんな事をかいていて、それが、本当に――だが、私は、こうした迷信に対して、一向感じないから、小出君を、明日弔ってみようとおもう。

  楢重君と九里丸君

「上方」という雑誌を寄贈してもらっているが、その二月号に、九里丸君が「チンドン屋とかいて東西屋とかかなかったのは、いけない」と云っているが、私は、九里丸君の父君が、チンドンチンドンと歩いていたとかいたので「屋」とは、書いてない筈である。その中に、私の住んでいた家の下の、長屋から、八卦見と、落語家と、東西屋との名を為した三人が生れたのは、おもしろいと書いていたが、願わくば、九里丸君よ、君と私とをも、その中へ入れて、五人男にしておいてくれたら――。安堂寺町と、野麦と、――それは丁度、私の住んでいた家の、崖の真下が、九里丸君らの家のあった所で、その長屋の悪童と、私らの悪童とは、よく、石を抛合(なげあ)ったものである。今、その旧蹟には、天理教の教会が建っている。だが、そんな昔はいい。
 九里丸君は席へ出て、上手な洒落を喋(しゃべ)っているが、小出君にも、私にも、文章にユーモラスのあるのは、諸君も、御存じにちがい無い。私の信じる所によると、これは、都会人の特色で、もう少し価値を認めてもらってもいい事だと思っている。
 ナンセンスだとか、ウイットとか、ユーモアとか、それは、決して、悪人には無い事だと、私は勝手な、非研究的な断言をしてもいい。物がよく判り、裏が見え、余裕があり、何事にも、すぐむきにならずに、四方から眺めうる人にして、初めて、それが、生れてくるのである。
 小出君にしても、九里丸君にしても、そういう意味に於て大阪のいい所を代表している都会人である(都会人と、田舎人との比較に於ては断じて、私は、都会人に加担する。田舎人は、都会人に近づかなければ、本当の物は判らない。議論があれば、いつでもしていい)。然し、大阪の人々が田舎者に押されてしまったように、こうした人々は、成るべく物を避けようとする傾向がある。厚釜しく、人を押しのける事ができないで、苦笑しながら、自ら引退る傾向をもっている。
 私は、小出君にも、九里丸君にも、私交が無いので、詳しくは云えないが、こうした人達を見る時に、初めて大阪はいい所、いい人の生れる所だな、と思う。そして商人もこういう人達と同じような態度になったなら、もっと儲かるのにと思う。乾新兵衛とか、寺田甚与茂とかという人も一つの金儲けタイプであるが、こんなにかちかちにならない方が、私は金儲けの為にいいと信じているし、大阪には多分の卑俗なユーモアがあるが、何故あれをもっとうまく利用しないかと、いつも考えている。大倉喜八郎が拙い狂句を作ったり、太閤秀吉が、とてつもない事をしたりするあの明るさが、どうして九里丸や、小出君の出た大阪の、その商人に欠けているのか? ユーモアでは、金が儲からんと考えていて、乾、寺田派に、しかめッ面をするのが多いらしいが、私の知っている範囲に於て、外国商人は実にあかるい。朗らかである。洒落と、戯談(じょうだん)と、哄笑(こうしょう)とで、商談をすすめて行く。日本の商人に限って仇敵と、取引しているように、真剣である。
 私は、大阪の洒落についてもっともっと云いたいが、それは次の機会に――本当に、私が、ぶらぶらと、大阪を歩く時に、云う事にしよう。多くの概念ばかりを、私はかいてきたが――実は、私は、もう少し、大望を起したのである。ただ、ぶらぶらと歩いて、見て、書いたって仕方がない。大阪の歴史を――私の故郷の出来事を、諸君の町に嘗ていた人の伝記を――そんな物を、書いたら、何うだろうか、と。私は、歩くだけでなく物を調べてから、歩いてみたくなってきたのである。

  大阪物語へ

 私は、宿から、近いので、よく心斎橋から、道頓堀を歩くが、そして、今まで、書いてきたようにいくらか、歩いては考えるが、戎橋(えびすばし)の本当の名は、何というのか? と、人に聞かれたら、一寸、困るだろうと、思う。
「戎橋は、戎橋や」
 と、云っても、大抵の人には、いいであろうが、この名は、俗称で、本当の名は、別にあるのである。
 千日前には、三勝半七の墓がある。然し、誰も、何処にあるのか知らないであろうし、そして、三勝と半七との、本当の事件も、多くの人は知らないであろう。私はただ、歩いて、現在の事を見、論じるだけでなく、こうした古い事も、調べて歩いてみたくなってきた。
 大阪中の隅から、隅まで――それは、その町内の人が、気にもとめないところに、おもしろい話もあろうし、其話に対する、私流の批判――神武天皇東征の時から、明治まで――こういう事は、私の得手では無いが、毎月五七日、大阪へきて、こつこつと調べ、読む事位は、私の為、大阪の為、私の故郷に対して、勉めてもいい。誰か、外にやっている人があるかも知れぬが、私がしたって、差支えないであろうし――私は、一日、歩いて、こんな望を起したのである。
 大阪の通俗的な歴史――神武天皇の昔は、少し、昔すぎるが、石山に本願寺を起す時分、即ち、史上に「大阪」の文学の現れてくる時分から、明治まで――一町内、一町内について、その町内にあった事件と人物とを書いたなら――そしてそれに現在からみた批評とかを、加えたなら、と。
 多くの保存されている旧蹟もあるが、今の内に、何んとかしておかぬと、廃絶するものもあろうし、名のみ残っていて、跡方もないものもあろうし――そうした物に対して、いくらかの注意がされ、もし、木標でも建てて、一日に一人でも読んで行く人があったなら、それでも、その人は、その町になつかしさを忘れぬであろうと――私は、こんな事を考えて、今日も少し調べたが大仕事であるだけに、きっとおもしろいと思えた。
 徒らに、考証、穿鑿(せんさく)のみをしたくないし、現在の吾々と飽くまで交渉のあるように書いて行って、そして、出来る限り、正確な調査をして、と――大阪には、木崎氏とか、南木氏とか、尊敬すべき郷土研究家が多いが、私は、飽くまで興味本位に――。
 とうとう、私は、大阪を歩かずにしまったが、四日からこそ、本当に、私は、女の同伴者がなくとも、一日中、大阪をぶらぶらするであろう。それを、私は「大阪物語」と名をつける。
 最初に、断った如く「続」というものは、大抵おもしろくないものである。「大阪物語」も、「続」は、おもしろくないが「大阪物語」の間だけは、きっと、愛読してもらえるとおもう。
 私は、これから、多くの参考書と共に、東京へ戻って、三月の下旬から、いよいよ大阪を歩き廻るつもりである。本当に、今度こそは――暖かいから、諸君、散歩の時季ですからね。




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