大阪を歩く
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著者名:直木三十五 

 日本の巡査は、明治初年、士族の食いっぱぐれが、悉く採用されて「くや人民ッ、ああん」と云った時分から、伝統的に、威張るようにできている。その人々が、円タクの雲助と、取組むのだから気の荒くなるのは当然だが、「馬鹿あ」「止まれっ」と、怒鳴っているのを見ると、巡査、市民共に、一度ロンドンへ見学にやってやりたい。(私は、ロンドンへ行ったことはないが、確信をもって、大阪位、怒鳴る巡査と、交通道徳を心得ない市民の多い所は無い、と断言し、大阪人の非文化性は、独り、シュークリームのみでは無い、ここに至っては、彼の生命をも、脅やかしている、と論じていい)。実際、驚くべき無節制さをもって、街路を横断している。私が、お巡りさんなら、然し、決して、怒鳴りはしない――撲(なぐ)る。

  滅んだ物、興り得ない物

 私の少年時代には、法善寺に一軒、空堀に一軒、天満天神裏に一軒、講釈場があった。だが、いつの間にか、大阪から、講談は無くなってしまった。
「玉川およし」「誰ヶ袖音吉」「木津勘助」「難波戦記」「岩見重太郎」「肥後駒下駄」「崇禅寺馬場」といったような、大阪講談種のものは、その内に、忘れ去られてしまうであろう。別に、惜しくも無いが講談というものは新形式に於て、もっと盛んになってもいい。
 花月亭九里丸は、私の小さい時分、彼の親爺と一緒にチンドンチンドン歩いていたのを憶えている。彼等のグループは、私らの家のあった所の崖下、俗称野麦と称した所にいたらしいが、機があったら、私は彼と一緒の高座へ上って「荒木又右衛門」でも弁じてみようと思っている。
 こういうことは、私は、好きらしい。だから、東京では、十年以上も、寄席へは行かぬが、大阪へくると、時々、春団治を聞きに行く。渡辺均君から紹介されて、小春団治のも聞く。愉快でもあり、上手でもある。この挿画を書いている小出楢重君は私と同じ中学であるが(少し、先輩だ)、随筆を書くと、私よりもうまい。都会人らしい、ユーモアが、快く流れていて、聡明で、謙遜で、イギリス風のエッセイとは、又別の味がある。
 大阪人は、二輪加(にわか)、万歳、喜劇などを、随分生んでいるが、滑稽の才能は、確に、江戸の洒落(しゃれ)よりも、優れているとおもう。ただそれが、完全に発達をしないのは、料理と同じで、一程度以上の研究をしないからであろう。
 曾我廼家五郎は、唯一の喜劇であるが、五郎の見識以外へ出ないから、新らしい時代とは没交渉で、十年後には――或は、いい喜劇が出たなら、忽ち圧倒されるだけの古臭さを含んでいる。
 私が、最近「アサヒグラフ」に書いた短篇など、新らしい落語でもあり、喜劇である。「大衆文学全集」などにも、落語も、書いているが、こういう方面へは、彼等は、全然注目していないらしい。私は暇さえあると彼等を聞き見るが、彼等は吾々がこうしたことにも注意していることを全く考えていない。これが漫談などが出てくる現象の一原因で、話語(わご)の上手さに於て漫談の比で無いに拘らず、落語は日に日に古臭くなって行き、漫談はもう一転換したなら遥に落語を圧倒する丈の胚芽(はいが)を含んできた。
 私は大阪のこうした人々がいい素質をもち乍(なが)ら、それをリードするいい人の無い為に、しばしば歪められてしまっているのを見ると、もう一度、大阪の非文化性の罪悪さを云わなくてはならなくなってくる。時として、文化は下らないことであるが、時として、文化的指導者のいないことは、興りうべき物をも興らしめないで終ってしまう。
 私は、大阪人の方が、東京人よりも、遥に、朗らかな、特異的な文化を生み出しうると信じているが、大阪の文化人である、池崎忠孝氏とか、岡田幡陽氏とか、新聞社関係の人々は、決して親切では無い。又、例えば、木谷蓬吟氏の義太夫研究にしても、成長して行く大阪には、何の利益も無い。
 こうした町人文化は、都市にはいつも何処にもある。五井蘭州とか、三浦道斎とか、斎部道足とか、村田春汀とか、その町の将来のことには、何の貢献もしないが、金と暇があるから、こつこつ書きためたというような――そんな文化人は、大阪には、必要ではない。
 何うも、私は歩かないで、理窟ばかり云っている。だが、十回位で終るべき、この記事を書くのに歩いて且書いたなら、それは、百回にもなるかもしれないし、一軒の飲食店を書いても、三日位かかるであろう。何うも、歩かないでもよさそうである。第一に、めきめき寒くなってきたではありませんか、皆さん。

  遊里と酒場

 いつかの「文藝春秋」に、私が酒場で十円のチップを置く、と書いてあったが(その代り、一文も置かぬときもあるとも、書いてあった)□である。勘定が、三円某(なにがし)だから、四五人集まって来たレデー達に、十円出して「釣は入らない」というだけで、三円が、六円になっても、矢張り十円しか出さない(だから、私にサービスしてくれるレデーは、成るべく、酒をのまさないようにする。その方が、私の健康の為にもいいし、彼女の収入の為にもいい)。
 それから、美人座へ、時々行く外(多分美人座では、私が、千早昌子を好きだと考えているであろうが、酒場では、好きでなくとも好きな一人を仮定しておくことは酒場交際法の第一課である。誰も好きでないと云い乍ら、度々行く奴は、馬鹿野郎でしか有りえない)、殆ど、私は、外の酒場へ行ったことがない。将来、行っても、私は、矢張り、十円しか出すまい。
 何うも、私は、昔から、この十円の遊興がすきであるらしい。今でも、新橋へ、年に一度位、遊びに行くが、九時から行って、妓一人で矢張り十円である。プラトン社在勤当時、九郎右衛門町の福田屋へよく行ったが、十時ごろから一時ごろまで、三代鶴を呼んで(どうも、この人に惚れていたらしいが、はっきりした記憶が無い)うどんを食べて、矢張り十円であった。
 それで、時々、この三つの内の何の十円が、一番安い、かを考えてみると、何うも、酒場よりも、お茶屋の方が、私にはいい。人々は、酒場は、沢山の女が集まってくるから、というが私の趣味だと女は惚れた一人以外には、居ない方がいい(チップの関係もある)。
 川口松太郎は、十人口説いて、一人当れば一割の配当だという主張をするし、菊池寛は、一言云って、嫌だという奴は、二度と口を利かぬから、俺の獲得率は、百パーセントだというが、人各々である。
 私は、自分の好きな人を前にして、只眺めているばかりであるから(菊池寛は直木は黙っていて女を落とそうとする。だから人の二十倍も、時と金がかかるというが、私の恋は、いつも神聖なのである)どうも、お茶屋で差向いの方がいい。
 そして、同じお茶屋の十円で、新橋と、大阪とどっちがいいかと云えば、断然大阪がいい。東京は十二時になると、不見転(みずてん)以外は帰ってしまうが、大阪は、時として夜が更けると、雑魚寝があるし、席貸へ行って夜明かしもするし、――つまり、飽きる所まで、行きつくすことができる(尤も、そうなると十円では済まん)。この点は、酒場や、東京の真似のできない所で、上方遊里の忘れられない味である。
 私は、東京へ行った大阪の酒場が、エロであるという評をきくが、ああ云った取持ちがエロなら、エロは忌嫌すべきものであるし、大阪の女性を軽蔑こそすれ、称める気にはなれない。無教養の故に、下らぬ事を喋って、慣々しくするだけの女を、喜ぶ位、又、男自身の価値を下げることも無い(私の気位の高さ、何んなもんや)。
 尤も、女と遊ぶ時には、男の価値を、少し下げぬと面白くないが、それは、差向いの時に限ったもので、そういう時には、私も、可成りだらしが無くなって、チューインガムの引っ張りっこをしないでもない(これは、仮定や)。酒場では困る。友人の、浅間(あさま)しさを見ていると、下手なダンスを、いい齢をして、背の低いダンサアと踊っているのを見ているように、憂欝になってくる。
 東京風の酒場では、この感じがやや少いが、大阪風は、かなわん。私の趣味、又は、私の文化性に合わないのであろうが、私の望むエロチックは、もう少し教養が、気取りがあってほしい。流し目一つさえ、満足に表現し得ないエロなどというものが、のさばる事は、男女お互に恥辱である。インドの「愛経」によると、脣(くちびる)のキッスのみで八種あるが、少くもウェートレスは、それ位のことを心得ていて貰いたい。Aの時には第一種のキッスで、草履(ぞうり)か靴を軽く踏むとか、Bの時には第二種で、脚を押しつけるとか、Cの時には第三種で、手を廻して首を抱くとか、――それ位の抱擁の区別は、ちゃんとしてもらいたい(この抱擁の形式は、罪のないものから深刻を極めるものに至るまで、約二十種ある。女の方には、特別に教授してもいい。一種五円位で、高うおまっしゃろか)。
 露骨なるエロよ、一九三〇年と共に、消えてくれ。

  美術館と動物園

 私は、もっと歩かなくてはならぬが、サー、理窟を云いすぎた。――そうだ。私は、天王寺へ参詣してから、理窟ばかり云っているのだ。
 産湯稲荷の、抜け穴は、何うしたかしら? 私の少年時代、その穴は、真田の抜け穴だと信じて、度々入ったものである。七八間も行くと、行きづまりになっていて、一寸、失望したが、この頃は、柵が設けてある。あの前へ「真田の抜け穴」と、札を建てるといいと思うが、――それから、もう一つ、この辺には、池の近くから、人骨が転がり出したのを憶えている。小橋の墓地といえば、私等上町の悪童には、なつかしい思い出の所である。
「しゃれこべ、出るやろか」「そら、首が出る位やさかい、掘ったら出てくる」と、私達は、棒と、竹とで、墓地――石碑一つない墓地を掘っていて、怒鳴られたことがあった。
 三光神社から、高津の宮跡へかけて、大阪冬の陣の激戦地であった。私ら、少年時代には、未だ、その大阪陣の記憶が、人首だの、抜け穴だので結び付いていて、真田山で幸村を回顧したものであるが、もう、今日のこの辺の少年は何も感じないであろうし、父兄も、町会も、感じさせるような木標さえ建てていないであろう。
 どんどろ大師は、何うしたか? 義太夫に残っているから、近くの人々は知っているであろうが、阿波の十郎兵衛の事蹟が残っていて、真田幸村終焉の地に、一本の標杭さえ無く、そして、天守閣を建てて――多分、天守閣は見せ物にして金がとれるが、幸村の碑では金儲けにならん、というのであろうか。
 名古屋の近くに、コンクリートの大仏が建った。毎日、賽銭がよって、遊んで食えるそうである。子孫の為に残すなら、これはいい財産で、一寸売れないだけに、子供の食いはぐれが無い。大阪の中位の、金持共は、郊外へ、大仏だの、観音だのをいろいろ建てて、賽銭でくらすがいい。天守閣などもこの意味で、一番経済的であって、一番下らない金の使い道である。もう少し、明瞭(はっきり)としていたなら、当然大阪の史蹟の整理と保存とを初めなくてはならない。
 少し、論が、前へ戻ったがこれは私が、同じ道を戻って行くからであろう。天王寺から一心寺の方へ(何という甘味のない名だろう、一心寺)、それから、公園の方へ。ここには、市民から馬鹿にされている美術館が建っている。何の市長の時に誰が賛成して建てたのか知らぬが、この位市民と没交渉の美術館も無い。一番いい方法は水を充たして水族館にすることだが――文学にさえ冷淡な、大阪市民に、美術館を与え、与えっ放しで教育もしない所が、役人の役人たる所以であろう。
 年度末になって予算が余ると、不用な品を買込んで、一文も残らず使ってしまうのが日本の役所である。そうしないと、来年の予算を同額だけもらえぬというのであるが、凡そ、この位、人民を踏みつけにした考え方はない(例を云えというなら、いくらでも挙げてやる)。
 朝十時に出て、午食に休み、四時に退出して十五年勤めると恩給である。東京市の一課長は三十年間勤めて、年額七千七百円の恩給をとっている。日本の重役とか、官吏とかは、皆こういう人間である。美術館など、本当に市と、市民のことを考えるなら、そんな金の使途は、いくらもある筈である。東京には、こんなのが威張っているから癪であるが、大阪は、いくらか、その色が薄いので、だんだんすきになってきた。
 都市の面目を考えるなら、美術館を建てる金で、梅田駅前を、清潔にするがいいし、市民に美術教育を与えるつもりなら、矢野君の美術学校へ援助でもするがいい。何か、事があったら、一々、私の所へ相談にきてもらえまいか?
 それから、私は、山を下って、動物園へ出るのである。動物園の園長、燈台守、測候所の人々などという位、真面目で、熱心な人はない。林氏にしても、上野の黒川氏にしても、本当に、仕事への情熱と、愛とをもっている。猩々(しょうじょう)が死にかけたら、きっと、園長は徹夜するだろう。そして猩々を抱くだろう。美術館の予算なんてものは、動物園へ皆やるがいい。そして、公園中を動物園にして、羊と、兎と、小鳥とを開放して、子供と遊ばせるがいい。私が子供であった時には、遊ぶ所が無くて小橋で貝を掘ったり、横掘のストリート婆を竹でつつき出したりした。だから、こういう碌(ろく)で無しになったのだ。

  雨

 私は、とうとう大阪を歩かなかった。これは、題名にも反(そむ)くし、私自身の意志にも反く訳であるが、歩こうとする今日九日の日が、雨になった。そして、翌日には、私は、東京へ戻らなくてはならぬ用がある。十一日には放送があるからだ。
 何うも私は女より雨の方が少しばかり嫌いだ。愛人と温泉宿にでも居る時には、そうした雨も決して悪くないであろうが(ここで、あろうがと疑問を残しておいたのは、そうした経験が一遍も私にはないからである。あればきっと私の小説に出ているだろう)、傘という――少し風が強いと何の為にさしているのか判らないような物をさして高下駄をはいて、この寒いのに――(実際、私は、五尺五寸六七分あるから、三寸の高下駄を履くと、五尺八寸以上になる。こんな高い風景は、ビルディングの外、賞玩に価しない。大阪の女の、背の低い限りに於ては――)。
 それに――私は、大阪の、何処を歩けばいいか? 私がエトランゼエなら、天王寺から、天満天神、大阪城、文楽座――と、歩くであろうが、私は、もう少し、特異な大阪を――大阪の玄人としての、大阪を知っている。例えば、清水橋筋には、小泉とかいた金行燈のかかった一軒の旧家がある。多分この家は、主人と共に、古い大阪を語るにちがいない。又、唐物町の鳥清は、鳥屋から、長崎料理になるまで、八年間考えていた。それは料理の研究ではなく、古い鳥屋が、長崎料理に化ける可否という事について、親族も、考えてくれていたからである。
 それから、又、私は、堀江の「すまんだ」へ行ってみてもいいし、新町橋の四つ目屋へ、買物をしに行ってもいい(これは、いい土産になる)。或は又、京都の、肥後ずいきより、大阪のそれの方が、何んなに、文化的であるか(私が、こういう事を書いたからとて、直に、私の品性を評されては困る。エロ時代だから、大衆作家らしくこうした品物まで研究していると、一寸、向学心を広告したまでで、決して、私が、机の抽出へ入れている訳ではない。第一、私は、机をもっていないのだから)。或は又芝居裏の女郎がいかに「洋食弁当」を好くか? そして、それが、何んなに、特種なものであるか? とか――つまり、微に入り、細に亙り、大阪の文化性を論じ、忽(たちま)ち女郎の弁当に移り、千変万化、虚々実々、上段下段と斬結ぶつもりであったが――雨である。
 雨であっても「洋食弁当」を、論じには行けるが、多分女は、私を離すまいから、私は、放送におくれたり、三日も、弁当のみを論じて、読者から叱られるにちがいない。それで、私は、今日、図書館へ行って、大阪の史蹟を調べようと思ったが、人口二百幾十万と誇っているこの大都市に図書館は、一つしかない。私がしばしば通っていた時分から、いつも満員であったが、大阪の富豪が、南の方へ、建てたという話をきかないから、未だ、中之島だけであろう。二百何十万の、空虚な頭が集合しているだけで、大阪よ、ロシアの、大ダンピングさ。大阪人等は、想像できるか? 所謂、資本主義の第二期的現象としての、生(しょう)一体、御前は、何を考える事ができる?
 私は、大衆作家であるが、金貨本位の経済組織の危機を知っている。五ヶ年計画完成後に於ける生産と、消費との大ギャップ問題を、この非文化的頭脳で、判断できるか?
 大阪町人の大多数は、せいぜいここ、二三年の経済界の事しか判っていない。経済策とか、ダグラスの経済論とか、ロシアの新経済論とか――そうした、直に、金儲けにならぬ論に対しては、何の興味も、もっていないが、これが、大阪町人をして、中富豪たらしめたと同時に三井、三菱になり得ない原因である。
 経済も、思想も、激変して行くであろう。赤テロは、何んだんねと云っている間に、ロシアは、既に、材木と、小麦のダンピングによって、世界市場を、攪乱させ始めた。こんな事は、畑ちがいの僕にさえ、常識として判っているが、大阪町人の幾人が、この事実に対して何(なに)を何(ど)う考えているか?
 私は大阪を歩き、大阪の人と逢ってもう少し大阪の為に語りたいが――多分、私は、大阪に、また失望するものと思っている。私如き一介の小説家にして、猶最新の経済理論を心得ているに拘らず大阪町人は己の領分の経済思想をさえもっていないのが多いのである。憐れむべき、大阪、及び大阪人よ、私はまだ故郷へ戻りたくない。もう、二年――そうだ、二年位で、判るだろう。
 私は、これで一度、東京へ戻ろう。そうして、もう一度又、機があったなら、歩きにくる事にしよう。

  続大阪を歩く


  歩く準備

「大阪を歩く」前篇は、いい評判であったらしい。
(本紙の社長、前田氏は、よかったよ、と、云っていたが、らしいと疑問にしておくのは、文筆業者の、奥床しさ、というものである)
 だが、前篇がよかったからとて必ずしも後篇もいいとは云えない。大抵のいい物でも、続々何々になると、きっと面白くなくなってくるのが、常である。
 然し、私は前篇に於て「歩く」つもりをしていながら、歩かなかった。つまり、卓文を書いている内に、約束の十回が終ってしまったのである(前田氏は、十回で、大阪中を歩かせるつもりだったが、そうは行かない。こう見えても、通り一遍の大衆作家で無く、いろんな事を心得ているのだから――と、これは、文筆業者としての、広告である)。
 だが、今度は、いよいよ歩かなくてはならぬ。この寒い、お正月に――実の所、私は、マントも、帽子も、持っていない。マントは震災前、菊池寛からもらったが、質に入れて、流してしまった(正しく云えば、流れてしまったのだ。私は、流すつもりではなかったのだが)――それから、帽子は、地震の時に、三つ重ねて冠っていた記憶があるから、確に、三つは持っていたのであるが、いつの間にか、なくなった。それ以来、マントは高くて買えぬし、帽子は――三つも冠っていても、なくなるのだから、一つ位きていても、すぐなくなるだろうと、未だに買わない。
 私の経験から云うと、マントというものは着なければ、着ないでもすむものである。日本の冬位なら、私は、シャツさえ着ないで、いつも、済ましてしまっている。帽子に至っては市岡中学時代から、大して好まない。私の顔と帽子とは、余りいい調和だと思えないという事もあるし、私の頭がだんだん薄くなってきたから、この上、帽子をきたなら、あかんと思うからでもある。
 それで、歩くには、少し、寒いにちがいない。私は、恋愛のためには、可成り歩いた事もあるし、今でも、散歩の為なら暖かい日に二三町位は、歩きもするが(だからと云って、私を軽蔑してはいけない。歩くと、決心すれば、一昨年の夏、私は、上越国境の三国峠を越えて、越後湯沢へ下駄履きのまま、出る事のできる男である)。歩いて、原稿をかくのは、これが初めてである。そして、同じ歩くにしても、こうなると、女に見とれたり(私は、このいい癖を、十分にもっている。女から、見とれられた事は、無いようである)、小説の筋を考えたりする事はできない。ノートを懐に、印象をかいたり、感想を止めたり(私のノートは、始めて、ノートらしくなるであろう。私の、紙入の中には、二三年前から、小さいノートが入っているが、芸者の名だの、ウェイトレスの署名だの、碌なことが書いてない)、それから、宿に戻ると、私は、今度、約、三十冊の参考書を持ってきている。それでそれによって、いかに、私が、博学であるか――と、いうように、いろいろの知識を、書くのである。
 例えば、私は、淀屋橋に於て、勿論、淀屋辰五郎を書くであろうが、それからつづく、八幡の仇討は、恐らく、誰も知るまいし、金の鶏の伝説と、長者伝説、それから、大阪町人の献金と、幕府の対町人政策、もし、私が、紡績会社を訪問したなら、一九一四年の総錘数(すいすう)が、一億二千五百万個であり、その消費数が、二千八百万俵であったに拘らず、一九二八年には、錘数に於て二割六分を増加し、消費数に於て一割の減退を示しているから最早、紡績業は、飽和点に達して、衰減状態であるというような事を、論じるかもしれない。
 私は、現在、又現在まで大衆文学以外の物を書いた事が無いから、私の郷土の大阪の、私の知人も、私を単なる文人と考えているようだが、私は科学、軍事、経済、社会などに対して相当の抱負と知識とをもっているものである。私は他日それを小説の形式によって公表するであろうが、それに先立って、私の郷土、大阪に於て、私の郷土人、大阪人の為に、その全部を披瀝して何かを、大阪及び大阪人に与えたいと、考えている。
 私は、女と、食物を、論じると同時に、対支貿易と、到来すべき世界的ダンピングも論じるであろうし、小春治兵衛を説くと共に、島徳七氏について云うかもしれない。歩くと云っても、ただの歩き方とは歩き方がちがう、頭で歩くんだ。少し、禿げてはいるがね。

  大阪人

 私は、大阪を出てから、二十年になる。二十年、東京に住んでいた。丁度、生れた所に半分、他郷に半分、という訳である。
 氏より育ち、とか、孟母三遷の教えとか、人間は、環境に支配されるとか、朱に交わればとか、教育は第二の天性とか――いろいろの言葉があるが、私は、一体、大阪人なのか、東京人なのか?
 大阪で生れたから、生れた時から、掌を握っていたとか、二つの時に「こんちは、儲かりまっか」と、云ったとか――いつまで、経っても、贅六(ぜえろく)根性が抜け無いものか? それとも、東京風に染んでしまっているか?
「君の生れは、何処だい」
 私は、よく聞かれる。
「大阪」
「大阪か、大阪とは見えないね」
 大抵、こうである。私の言葉に大阪訛(なま)りが無いからか、私のする事が、大阪人らしくないからか?――とにかく、他国の人々は、大阪人を、尊敬すると共に、軽蔑し、未だに、江戸っ子の方が、大阪人よりも上等人だと、考えているらしい。
「人国記」の流行ってきた時代――大阪人は、大阪から一足も出ないし、江戸人は、江戸の内で一生暮らしているし、もし他国へ出るなら、それは伊勢参りと、善光寺参りとが人生の二大旅行であった頃なら、そうした「概念的贅六」の観方も正しいであろうが、このごちゃごちゃ時代に、何が贅六で、誰が純粋に江戸っ子であろう。一体同じ人間が、そう根本的に差違のあるものか、無いものか?――私は生国を聞かれるたびに、古くさいなとおもう。
 だが、こうした概念的の見方は便利であるから、中々廃れない。純粋の、江戸っ子だと聞くと、熱い朝湯がすきで洒落が上手で、粋ななりをしていて、たんかが切れて、金放れがよくって、すらりとしていて――と思うが――何処の山猿かしら、と思っている石井鶴三氏は、下谷っ子であり、泉鏡花は、加賀っぽうであり――こんな概念など一顧の価値も無い。第一に、純粋の大阪人が、今、幾人残っているか? 近江泥棒、伊勢乞食と、矢張り一口に云われる人間が、入込んできて、大阪人になっている――紀州、大和――とにかく、東西南北から他国人が入込んできている。
 私の父も、母も、大和人であるから、私は、純粋の大阪人では無いが、とにかく、大阪で生れた人間として、一口に、贅六と云われる概念を打破してもいいとおもう。
 恐らく、大阪の町人は、人を押しのけてまでも、金儲けをしたいとは思わなかったにちがい無い。
「儲かりまっか」
 と、挨拶したり、すぐ、ぼろの出る粗悪品を輸出したりして、大阪商人及び大阪人の面目玉(めんぼくだま)を、踏潰(ふみつぶ)した、野郎共は、他国の、奴にちがいない。
 大阪商人の代表として、蔵屋敷出入の人を、もし、挙げていいなら、彼等は、悉く、立派な男である。度胸と、見識と、洒落と、悟りと、諦めと、趣味と、多少の学問とそう云ったものを持った――つまり、大都会の、大商人らしい、都会人らしい、何処の都会にも、共通する、文化人であったにちがいない。
 少くも、西鶴、近松。下って、懐徳堂から町人学者の輩出した当時の大阪人は、今の田舎者の成功者とは、ちがった人間であった。そして、私は、それを、大阪人だと、思っている。現在の例で云えば、平瀬氏などが、大阪町人の代表的一人で、近江商人などの、こすっ辛さと、人間の性がちがっている。
 所謂、檀那様、お家はん、であって、番頭が一切をやっていて、薄暗い所に、一日、徒然(つれづれ)なのが、町人である。そして、これは、江戸の町人とも共通していて、ちがうのは言葉だけ――いいや、本当の、上等の、江戸っ子は、決して、べらんめえではない。しとやかな言葉である。
 所が、悪貨は、良貨を駆逐すの原則通り、檀那はんは、だんだん伊勢の丁稚上りに圧倒され、丁稚は、ひたすらに勤倹力行して成功し、とうとう、その風が大阪中へ拡がって、こすいとか、厚釜(あつかま)しいとか、野暮とか、しみたれとか、いろいろの悪評を蒙るようになったが、これ、田舎者のせいだ、断じて、大阪人は、そうでは無いのである。

  百貨店
   附、店員心得のこと

 私は、大阪のデパートによく入る。着いた日も、行ってみた。私の、愛人(私は、私と交際している女を、皆愛人と呼ぶことにしている。愛している――神聖なる意味に於て、愛しているからである。つまり、愛児と、同じ意味で決して、私を、咎めてはならない)が、牛肉が好きなので(これは、少し、愛人として、色消しであるが)その味噌漬を、送ってやろうと(おお、親切な愛友よ!)してである。
 牛肉店は、店を入って左側にある。私は、一番大きい――だが、金五円しかしないのを送ろうとしたら、店員が「品切れです、五円のは」と、云った。「じゃあ、三円のでもいい」(実際、三円のでも大きくて、十円位に見えるのである。愛人への贈物としては、確に、ダイヤの小さいのよりも、甚だ、適当している)「下に送る所がありますから、下へ行って下さい」
 私は、その「下」が、何処にあるのか知らないし、三円で、そんな手数のかかるのは、面倒だから、黙って、立去った。店員は、ちらっと、私を見て、黙っていた。
 私が、愛人の為に、下へ行くのを、おっくうがったのは愛人に対しても、又、店側に対しても、我儘であるにちがい無い。然し、私から云わせると、私の如き者の為にも、其処で、送り先を聞き、且つ書くべき設備をしても、デパートの恥ではない、と云いたいのである。
 私は、しばしば、銀座の店員の店員らしくないことを、雑誌に書いた。実際、彼等は店員としての資格を、半分も備えていない。私は、商業上に於ける大阪商人という名称が、一種の軽蔑と共に、恐れをもって見られているように女給が、東京風のよりも、エロであるように、大阪の店員は、東京よりも、大阪独特らしく、もっと自分の商売に、熱心でありたいと思うのである。仮令(たと)えばかかる場合「すみませんが、御面倒でも、下まで」と云えば、私は、下へ行かんでも無い。又「只今、五円のは品切れになりまして、明日なら出来ます」と、最初に云えば私は「じゃ三円のを二つ」と、云ったかも知れない。これが、商売のこつである。
 私は、店員に、馬鹿丁寧な挨拶をしろ、というのでは無い。少くも、一流の店の店員としては、第一に、自分の担当する品物に対する知識をもっている事。第二、既知、未知の客を区別しない事。第三に適当に品物をすすめる事。第四に、客の好みを察しる事――その外、言葉、姿――いろいろとあろうが――それを具備している店員は、どこの都市でも、極めて少い。
 私は、外人の店、支那人の店、遠くは、ハルピン(余り遠く無いが)で、買物をしたが、彼等は、悉く日本人に較べて、品物の説明を十分にする。日本の店員の如く、品物を前に出して、黙って、突立ってはいない。手にとれば、必ず説明し、置けば、次のを渡して又説明する。これが、いかに、客と、品物と、その店と、彼とを結びつけるか私は、殆ど、購買力の大半は、客が、その品物への知識と、輿味とをもつ事によって、成立つのだと、信じている。
 ある店は、私が、説明を求めても「さあ」と云って、返事ができないし、ある店は質問すると、面倒臭そうに「存じません」と、答える。私は、そういう店で、二度と買わない。私は、よく、高島屋の百選会とか、三越の三彩会とかへ行くが、新聞の流行記事に、今年の流行は何色で、模様は有職風の現代化などと宣伝しているが、店員は、傲然とした貴婦人(大抵おかめが多い)に、御叩頭(おじぎ)をするばかりで、私などの横は、風を切って行くし、時に、一品を買って「この色は、化学染料でなく草木染で出すといいが」とでも、批判すると、もう、返事ができない。
 謂いかえると、知識も、熱も、忠実さも無い。だから、私は、そうした会で、少々の流行品を買う外、悉く、主人が一人で、熱心に、研究している家で買う事にしている。値は、デパートより高いが、品物に対する知識を得る事が多いからである。
 私は、急激に発達するデパートの店員の悉くが、彼の専門的知識をもっていようとは思わ無いが、知識を十分与えるように努力している店主が幾人あるか、聞きたいのである。叮嚀(ていねい)とか親切とかは、既に古い。少くとも、大阪の商人、店員は、品物への知識、それによる客の知識の開発、これが商売を盛(さかん)にする現代的の傾向である――と私は信じる。

  昆布

 ある百貨店を出て、私は勿論、その街つづきを歩くのであるが――私の、小さい時から大阪名物の昆布店は増えもせず、減りもしないで健在である。
 昆布店は、もしそれが東京にあったなら、恐らくは、増えるか、減るか、したであろう。それは、大阪名物であるが故に、東京人をして、一口に、反感を抱かしめて「汚い、昆布を、しがんでやあがる」と、云わしめたが、もし、その効能を、昆布屋の新人が、宣伝するなら、チューインガムよりも販路が広いかもしれない。
 昆布の含むヨードは、乾燥してしまって、何う成っているか、私もそこまで研究しないし、第一、そんな事を研究している人も無いが、その味から云えば、生には及ばないでも、相当量に含有している事は明らかである。
 時代おくれの副菜物視され、昆布屋に新人が無いから、昔の菓子昆布とか、塩、揚げ、おぼろ位にしか製品が区別されていないが、もし他の物と一所にしたり、昆布のみで他種の物にしたり、生昆布を売出したりしたなら、その栄養価の十分と、その味とによって、もっと東京への侵入を許すであろう。
 ヨードが、含まれているから、青年男女は、性病の治療法の一つとして「昆布ガム」を愛用すべしと。これなら、親爺の前で、しゃぶっても、大丈夫である。宣伝と製法によっては「味の素」が、世界的になったように、昆布の出汁は、十分、西洋料理にも、入りうるようになるであろうし、鰹節よりも「昆布エキス」を重宝するかもしれない。
 何故、大阪人が、昆布をもっと宣伝し改良し、発達せしめないか、私が昆布屋なら、確に昆布の応用をもっと、広くしていたであろう。
 昆布茶は、少し、腹にたまるがうまい物だし(ヨードは確高血圧にも、よかったと憶えている)。塩昆布は、茶漬として淡白この上無しと、私は愛用している。別に私が、大阪に生れたからでなく、昆布は確にうまい物である。
 私の本郷の下宿時代、私の所へ逃げてきた、私の女房(女房になってから、逃げてきたのでなく、逃げてきて、いつの間にか、女房になったのである)が、此奴、昆布好きで、本郷界隈を、隈なく、昆布の為に、歩いて、藪蕎麦(やぶそば)が、天神さんの中にあること、シュークリームが、近くにある事だけを発見して戻ってきた事がある。
 今でも、昆布を求めようとすると、見当がつかない。里見□の愛人、お竜さん(これは私の愛人と少し、意味がちがう)が、いつも私が、大阪へ行くと聞いて「昆布を買ってきて」と註文する(尤も、大抵私は忘れて、またと叱られる)。彼女は、江戸っ子であるが、昆布ずきである。多分里見もそうであろう。
 食べると、かくの如く、甚だ、忘れっぽい私にさえ、註文する位に、うまい物であるのに、大阪人はこれを、新らしい商売として、東京へ乗出そうとはしない。宣伝と、製法とによって、無限に生産してくる、この海の草は、十分に儲かるであろうと思う。
 私は、一つの塩昆布でさえ、甘いの、からいの、淡白(あっさり)したのといろいろの店があって、味のちがうのを知っているが、考えるなら粉末とし、加工し、精を抜いて、もっと、種々の製品が出来るにちがい無い。不景気な時の暇な内に少し研究しておいて、無駄にならんことである。
 女給と、料理と、飴以外に、未だまだ大阪特有の品で、販路の拡まるべきものがある。追々それを私は説明して行こう。とにかく私のは谷孫六先生のように、奇才縦横ではないが、相当に金儲け位は知っているのである。
 だが、昆布は、少し、高すぎる。シュークリームなら、二円であろう箱が、七八円である。これは、現在の昆布屋が、考えるべき唯一の点で、将来の昆布屋も、考慮すべき所である。昆布は、もっと、安く、もっと拡まるべきものである。「大丸製昆布」それが、日本中に弘まることは、必ずしも、難事ではない。価値のあるものをして正当の価値に扱わしめよ。私は、私の郷土の名産物として、昆布の不遇を、嘆ずるものである。

  飛行機

 私は、いつものように、飛行機である。東京から、三十円である。マントも帽子も買えない私として、大変高価であるし、人から、贅沢だと、見られているらしい。
 だが、飛行機は、二時間半でくる。十一時に宿へつくとすぐ湯へ入って、私は原稿を書けるし、本が読めるし、恋人に逢えるし(もし、有ったとしたら――実際私がこんなに、度々、大阪へくるのに、一人の愛人も無い、ということは淋しいことにちがい無い)、そうした時間の利用に、超特急よりも、夜行列車よりも、経済的である。
 実際、科学に対し、飛行機に対し、日本人も大阪人も、理解が無さすぎる。大阪に住んでいる外人は、仮に、五千人としておいて、大阪の人口が、仮に二百万として四百分の一である。所が、大阪、東京間の旅客機には、二三十人に一人位の平均で、外人がのっている。外人が、特別に忙がしいのでもなく、金持のせいでも無く、冒険心からでも無く――私に云わせると、飛行機に対する信頼の度が、科学に対する理解の度が、日本人よりも、二十倍強いせいである。
 リンドバーグが、大西洋を横断する時に、全米人が熱狂した。それに対して、日本人は「アメリカ人の、いつも世界第一主義だ」と、軽く評していたが、それも有ろうが、外国の科学の勝利、自国の飛行機の優秀さに対する国民の後援である。
 私は、最近、日米戦争に対する十数種の書物を乱読してみたが、何を、一番感じたかと云えば、飛行機についてである。
 飛行機のラジオ操縦は、その実験では、完成されたし、人造人間の操縦も、立派に成功している。私は、日米戦争が、急に起ろうとは思っていないから、アメリカの軍用飛行機が、どんなに優れていたって、直に議会へ、空軍充実の提案をしろ、とは云わないが、アメリカの爆撃機が、三千メートルへ上昇するのに四分半かかり、日本のそれが七分かかるという事は考えなくてはならん事である。
 それは、飛行機のみに対しての問題ではなく、一般科学に対してこの優劣があるからである。科学の優劣が、何を与えるか? この問題を、日本人は、大阪人は、余り考えていなさすぎる。
 人造絹糸が発明された。それを聞いた時、日本人は、あほらしいと思った。実物がきた。こんな物は、生糸と較べ物にならんと、評した。五六年前まで、生糸業者は生糸とは別の物で、心配する事は無い、と断言した。だが、何うだ今日――。
 生糸の需要減退は、アメリカ不景気のみと、誰が断言できる。人絹に圧迫されていないと、誰が云いうる。
 又樟脳は日本の特産物であった。一斤二十円以上もして人工生産は、不可能だと、世界の市場を独占していた。所が、独逸は、大戦中、樟脳の供給が断たれて、火薬の製造に困ったから、これの人工製造を研究して、見事に成功した。そして、日本樟脳は、一斤五円にまで激落してしまった。
 天産に乏しい日本として、科学の発達をさせて、無より有を生じさす以外に、方法の無い事は、判り切っているのに、日本の人々は、科学に対して、甚だしく冷淡である。アメリカの富豪の如き、必ず個人の科学研究所をもっているが、これがアメリカの繁栄を、何う助けているか判らない。
 今日の「サンデー毎日」を読むと「有機ガラス」が、大阪工業研究所の庄野唯衛氏の手で、発明されているがこれである。この一発明が何んなに大阪人を、日本人を富ますか、この新らしい研究に何んという後援者が、いくら金を出したか判らぬが、恐らく、この仕事が、工業化された場合、その利益は、その研究費の何万倍になって戻るか、判らないであろう。
 大阪人が、何故、その富を、こういう風に利用しないか? そこには、金儲けと、国益と、社会への貢献と、いろいろのものが含まれている。エヂソン一人の発明が、七百億ドルに価すると云われているが、十万円の研究費から、何億の富が生じるか?
 私は、大阪人の度胸と、富とがきっとそれに適しているであろうと信じている。私は、明日の大阪をして、発明の源泉地たらしめようと、それを先ず、大阪へすすめて後、私に都合のいい大阪文化の樹立を説きたいのである。科学を最初に――文化的開発を第二に――私の希望はこれである。

  芝居

 私の「南国太平記」を、新声劇で、上演しているので、私は、私の知らない間に知らない母との間に、生れた子供を見に行くような気持で、一寸、覗きに行った。
 私は、いつも忙がしいので(何に、一体忙がしいのか、とにかく、忙がしい。自分ではよく判らぬが、マージャンを、毎晩やるし、囲碁をやるし、将棋をさすし、恋愛をするし、旅行もするし、時々、本を読むし、稀に、原稿をかくし、それで、多分、忙がしいのであろう)、映画とか、芝居とかは、見た事が無い。
 勿論、大阪の芝居などというものは、三十年も入った事が無い。私が、大阪の芝居を見た時分、私の家庭のような貧乏な連中にとっては年中行事の一つであった。私の母親は、前の晩に髪を結って、重箱を造っていた。そして、芝居の中で重箱以外のいろいろの物を買って、食べていた。
 この風俗は後年にも、しばしば御霊文楽座に於て、見受けた所であるが、これは猶大阪人の楽しみの一つであるらしい。東京の女性は椅子席で芝居のみを見て、幕間に食堂で食べ、廊下で、容色と衣裳とを見せる事に、すぐ慣れたが、大阪の女は、もし、松竹が、悉く、芝居を椅子席にしたなら、恐らく、不平を洩らして、拗ねるにちがい無い。
 東京の女は「西洋は、こうだ」というと「そう」と、云って食べたいのを我慢するが、大阪の女は「芝居で物を食べたら、何んでいきまへんね」と、突っかかるにきまっている。私は、芝居を見乍ら、食べ、飲み、握手し、接吻することを、決して下等だとは、思わないが、こうした東京の女は、直ぐ新らしさを受入れ、大阪の女は旧風を固守する事に、可成り文化の進歩に、遅速が生じて来たと思っている。
 直ぐ、ハイカラ風を受入れる、受入れるに就いての是非は別として、何程かの後に東京風が、大阪へ侵入して来る事だけは確かである。大阪の女が、どんなに頑張ろうとも、芝居はだんだん椅子風になって、食事と別になる事は明らかである。そして、それらの遅速が文化の遅速である。
 私は、私の母の如く年に一度しか、芝居へ行かぬ女でさえ、中村鴈治郎を、自分の鴈治郎のように語るのを、知っていた。鴈治郎の声が、何うあろうと、とにかく大阪の俳優鴈治郎が、芝居をしていたら、それでいいのである。そして、いつまででも、鴈治郎で、他に、誰も出て来なくても、十分満足している。
「一寸、やりよるがな、ひいきにしたろか」と、云えば「新声劇」は、十分に、人気を保つことができる。「何や、判れへん。おもろうないな」と、云ったら、何んないい劇団でも、がらがらになる。
 大阪の芝居見人種には、この二種が一番多いらしい。だから、いろいろの新劇団が、できるには一番いい所である。目先きさえ見えたなら、少々の事は、無批判で通してくれる。そして、十分、よくなってから、東京へ出てくる。東京で、育つ種類とは、種類がちがう。
 ひいきの役者さえ出ておれば、それでいい、旧大阪人と、そういう芝居に慣らされて、その人々以下の観賞眼の、新らしい大阪人と――その二つである。前者は新時代を知らず、後者は、適当の育てようを知らない。二つ乍ら、無批判のまま、己の郷土の劇団の、次第に衰弱して行くのを、黙って眺めている。
 坪内士行氏の国民座は解散した。多くの、小劇場運動はいつも、そのまま亡んで行く。亡んで行く者にも多少の欠点はあるが、いつの日か、大阪人も、己の育てた劇場の無いのを、淋しがる日がくるであろう。
 東京劇場、新橋演舞場、歌舞伎座、帝国劇場と、華美をつくした劇場をもっている東京が、収支つぐなわなくなるか? 中座程度の小屋で、見物の満足している日が、いつまでもつづくか? 或は、あの小屋担当の俳優しか、芝居しか、見られなくなる日がいつかくるか? 私は、五六年後に、考えなくてはならぬ時に出逢うであろうと、信じる事ができる。

  女

 私は女は、嫌いでは無い(大抵の女は、好きになるから、或は、こういう、云い方は、まちがって、いるかも知れない)。だから、大阪の女も嫌いではないが(私の、女房は大阪の女である)、どうも――どうも(これは、少し云いにくい所である)少し――少し、物足りない(私の女房だけは別である。失敬)。
 それは、私が毎日、こんな理屈ばかり云っている稼業であるからかも知れないが(女の前では決して云わないが)、どうも、断髪の女と交際すると、やきもちを焼いたり(私の女房では、断じてない)、お前は米の飯で、断髪はチョコレートみたいだから、安心しろ、と云っても、何うせ妾は御飯のように、ぶよぶよしていますわ、と、泣いたり、あれは、マヨネーズだと、三年越教えてやっても、そらネズよ、サラダにかける、と、とうとうネズを、小僧にまで、通用させて、今日は、ネズは未だ御座いますか、と云って女中を、びっくりさせたが――東京の女は、手帳の端にでも控えておいて、そら、マヨネズよ。無いって、あらら、マよ、マヨネズよ、位で、一度、赤面すると、覚えてしまう心がけがある。
 私は、毎月一度、来阪するが、大阪の女で、ぴったり洋服の似合っているのは、ダンサア位のものである。私の生れた町内の如き、未だに、揚げをつけた洋服をきた少女がいるし、それも、せいぜい十二三までで、齢頃の女が、洋装すると、不品行と、同一に考えている。私の親爺の如きも「ええ齢をして、洋装しとる。あんな娘はあかん」と、主張している。
 だが、私の娘の如きは、今年十五であるが、フランスの流行雑誌を買ってきて、自分で注文をして作らせている。私が二十円以下というと、ぷっとふくれるだけで相当な物を見立てている。これが、普通である。
 そして、こういう事は、ただ、洋服のみでは無い。和服に於て、大阪の女は、或は、衣裳持ちで、質のいいものを多く持っているであろうが、その着こなしに於て到底、東京に及ば無い。
 東京の街頭で、けばけばしい薄色の羽織を着、形の悪い鬢に結っている女があったら、それは、関西人か、吉原の女郎かである。黄色系統が流行すると、すぐ黄色に、薄色羽織が流行すると、すぐ薄色に――。
 東京の女は、断髪にし、眉を細くする。だが、それは、極めて一部分の――それは、銀座を歩いても、百人に一人であるが、支那人は、忽ちに、悉く断髪をした。この差が、東京の女と、大阪の女との差に、十分含まれている。アッパッパが、大阪近代風俗の一つとなり、東京の流行が千差万別であるとの差であって、知識の差に、帰着してくる。
 私は、知識を大して重んじないが、知識への憧憬だけは持っていてもいいと思うている。大阪の女にも、それは、女学校時代まであるにちがいない。だが、何の女もそうであるように、家庭を持つと退歩して行く。少くも、彼の亭主は、何らかの意味に於て、年々、進歩をして行くが、女は、女房になったが最後、だんだん退歩してしまう。これが、大阪の女に多い。少くも、東京の女は、いくらか、時代と共に進む意志をもっているが、大阪の女は、家庭を守る事にのみ、専心してしまう。
 それは、確に、一九三〇年までの、良妻、賢母であるが、其の後女性は、妻と同時に、恋人、それからダンサア、それから、職業の助手――そうで無ければ、私は、一人前の女房で無い、と信じている。夫の浮気とは、余り、妻が、妻でありすぎる故に原因している。
 この意味に於て、私は、大阪の女を、今女房にしろ、と云われたなら、甚だ、失礼千万ではあるが長襦袢をきて寝ますか、浴衣がけですか、と、質問したり、男との交際は好きですかとか、嫌いですか、とか――多分、先方から、断られるであろうが――東京の風俗は、そういう方へ、近づきつつある。
 私は、二三の、地方出の女も知っている。彼等は又、勇敢に、東京を模倣している。それは、しばしば滑稽ではあるが、その代り、東京のいい所をも、摂取して、二三年経つと、板についてしまう。大阪は、余りに、自個(じこ)をもちすぎている。

  倹約

 料理屋へ行って食物が残ると
「折へ入れとくれやす」
 と、いうのは、大阪中流の、倹約思想である。悪いことでは無い。ただ、私にとっては、そうして持って戻った肴(さかな)を、煮ても、焼いても、決して、うまかった、ためしがなく、そんな物より、製菓の方がいいと、思われるだけである。
 だが、京都の人よりも、倹約的ではない。京都の、さるお茶屋の女主人と、牛肉を食べに行ったが、その鍋の残りを
「届けとくれやすな」
 と、云ったのには、感じ入った。もう一つ、感に打たれた事は、そうして、何うしても判らなかった事は、私と、芸者と、仲居とが、大阪から、高台寺の貸席へ行った時の事である。私の、食い残しの飯を、
「勿体な」
 と、云って、その仲居が食べた。その仲居が私に惚れていた訳では無いし、私も惚れている訳でもないし、そうして櫃の中には未だ御飯が残っているのである。こうなると、宗教であり、信仰であって、理屈の外になってくる。
 私の母親が――それは、勿論、貧乏のせいであったが、残った、腐りかかった飯を、いつも、湯で洗っては、屋根の上で、陽に干していた、干飯を作るのである。雀が食ったり、乾燥しきらずに、赤くなって腐ったり、干す五分の一位の分量しか、干飯に成らなかったが、実に、根気よく小さい窓から身体を延して、飯を干していた。
 こういう考え方は、一体いいのか、悪いのか? たしかに、大阪及び、大阪近くには、この飯の尊重と、お粥の尊重とが、都会に似ずはびこって、そして又、節約のすきな人が、年々、汽車弁当の残飯が、何万石になるから、棄てるなとか、宣伝しているが、その一方米の豊作で、百姓が困り、それが為購買力が無くなって、経済界が何うとか――この矛盾は、一体、何んであろうか?
 この問題は、近代の科学的産業組織の発達に伴いえない農村の欠陥と、伴わないに拘らず、急激に膨脹した農村経済との矛盾であると、私は考えているが、こういう問題を別として、こうした倹約思想は、明治時代で、廃棄さるべきものであった。
 こうした消極的な、金を使わずに、ためて、自分の生活を安定させるという考え方は、近代の経済に於て、決して大きい富を齎(もたら)すべき方法では無い。所謂、近江商人的のやり方で、大阪の実業家のやり方では無いと、考える。
 だが、未だに「手固い」という事を、唯一の信用として大きく儲けるよりも、損をするな、と、いうモットーの下に、石橋を叩いている実業家が、可成りに大阪には多い。そして、彼等のその考え方が、何処からきているかと云えば、世界の動きを知らない所からきている。幾度も云った文化、という事を本当に考えない所からきている。少し先の経済界の動きを、見る事が出来ないで、目先ばかりを見ている所に起る。
 だが――然し、私の目的は、こんな理屈ではなく大阪を歩くのであった。いつの間にか、少し暖かくなってきて、歩くにもそう苦しくなくなってきた。そして、いつの間にか、私の、この愚文の、挿絵をかいてくれた、小出楢重君が死んでしまった。私も、明日の飛行機で、戻るのであるが、最初の旅客機墜落の見出しの中に、私の名が出るかもしれない。こんな事をかいていて、それが、本当に――だが、私は、こうした迷信に対して、一向感じないから、小出君を、明日弔ってみようとおもう。

  楢重君と九里丸君

「上方」という雑誌を寄贈してもらっているが、その二月号に、九里丸君が「チンドン屋とかいて東西屋とかかなかったのは、いけない」と云っているが、私は、九里丸君の父君が、チンドンチンドンと歩いていたとかいたので「屋」とは、書いてない筈である。その中に、私の住んでいた家の下の、長屋から、八卦見と、落語家と、東西屋との名を為した三人が生れたのは、おもしろいと書いていたが、願わくば、九里丸君よ、君と私とをも、その中へ入れて、五人男にしておいてくれたら――。安堂寺町と、野麦と、――それは丁度、私の住んでいた家の、崖の真下が、九里丸君らの家のあった所で、その長屋の悪童と、私らの悪童とは、よく、石を抛合(なげあ)ったものである。今、その旧蹟には、天理教の教会が建っている。だが、そんな昔はいい。
 九里丸君は席へ出て、上手な洒落を喋(しゃべ)っているが、小出君にも、私にも、文章にユーモラスのあるのは、諸君も、御存じにちがい無い。私の信じる所によると、これは、都会人の特色で、もう少し価値を認めてもらってもいい事だと思っている。
 ナンセンスだとか、ウイットとか、ユーモアとか、それは、決して、悪人には無い事だと、私は勝手な、非研究的な断言をしてもいい。物がよく判り、裏が見え、余裕があり、何事にも、すぐむきにならずに、四方から眺めうる人にして、初めて、それが、生れてくるのである。
 小出君にしても、九里丸君にしても、そういう意味に於て大阪のいい所を代表している都会人である(都会人と、田舎人との比較に於ては断じて、私は、都会人に加担する。田舎人は、都会人に近づかなければ、本当の物は判らない。議論があれば、いつでもしていい)。然し、大阪の人々が田舎者に押されてしまったように、こうした人々は、成るべく物を避けようとする傾向がある。厚釜しく、人を押しのける事ができないで、苦笑しながら、自ら引退る傾向をもっている。
 私は、小出君にも、九里丸君にも、私交が無いので、詳しくは云えないが、こうした人達を見る時に、初めて大阪はいい所、いい人の生れる所だな、と思う。そして商人もこういう人達と同じような態度になったなら、もっと儲かるのにと思う。乾新兵衛とか、寺田甚与茂とかという人も一つの金儲けタイプであるが、こんなにかちかちにならない方が、私は金儲けの為にいいと信じているし、大阪には多分の卑俗なユーモアがあるが、何故あれをもっとうまく利用しないかと、いつも考えている。大倉喜八郎が拙い狂句を作ったり、太閤秀吉が、とてつもない事をしたりするあの明るさが、どうして九里丸や、小出君の出た大阪の、その商人に欠けているのか? ユーモアでは、金が儲からんと考えていて、乾、寺田派に、しかめッ面をするのが多いらしいが、私の知っている範囲に於て、外国商人は実にあかるい。朗らかである。洒落と、戯談(じょうだん)と、哄笑(こうしょう)とで、商談をすすめて行く。日本の商人に限って仇敵と、取引しているように、真剣である。
 私は、大阪の洒落についてもっともっと云いたいが、それは次の機会に――本当に、私が、ぶらぶらと、大阪を歩く時に、云う事にしよう。多くの概念ばかりを、私はかいてきたが――実は、私は、もう少し、大望を起したのである。ただ、ぶらぶらと歩いて、見て、書いたって仕方がない。大阪の歴史を――私の故郷の出来事を、諸君の町に嘗ていた人の伝記を――そんな物を、書いたら、何うだろうか、と。私は、歩くだけでなく物を調べてから、歩いてみたくなってきたのである。

  大阪物語へ

 私は、宿から、近いので、よく心斎橋から、道頓堀を歩くが、そして、今まで、書いてきたようにいくらか、歩いては考えるが、戎橋(えびすばし)の本当の名は、何というのか? と、人に聞かれたら、一寸、困るだろうと、思う。
「戎橋は、戎橋や」
 と、云っても、大抵の人には、いいであろうが、この名は、俗称で、本当の名は、別にあるのである。
 千日前には、三勝半七の墓がある。然し、誰も、何処にあるのか知らないであろうし、そして、三勝と半七との、本当の事件も、多くの人は知らないであろう。私はただ、歩いて、現在の事を見、論じるだけでなく、こうした古い事も、調べて歩いてみたくなってきた。
 大阪中の隅から、隅まで――それは、その町内の人が、気にもとめないところに、おもしろい話もあろうし、其話に対する、私流の批判――神武天皇東征の時から、明治まで――こういう事は、私の得手では無いが、毎月五七日、大阪へきて、こつこつと調べ、読む事位は、私の為、大阪の為、私の故郷に対して、勉めてもいい。誰か、外にやっている人があるかも知れぬが、私がしたって、差支えないであろうし――私は、一日、歩いて、こんな望を起したのである。
 大阪の通俗的な歴史――神武天皇の昔は、少し、昔すぎるが、石山に本願寺を起す時分、即ち、史上に「大阪」の文学の現れてくる時分から、明治まで――一町内、一町内について、その町内にあった事件と人物とを書いたなら――そしてそれに現在からみた批評とかを、加えたなら、と。
 多くの保存されている旧蹟もあるが、今の内に、何んとかしておかぬと、廃絶するものもあろうし、名のみ残っていて、跡方もないものもあろうし――そうした物に対して、いくらかの注意がされ、もし、木標でも建てて、一日に一人でも読んで行く人があったなら、それでも、その人は、その町になつかしさを忘れぬであろうと――私は、こんな事を考えて、今日も少し調べたが大仕事であるだけに、きっとおもしろいと思えた。
 徒らに、考証、穿鑿(せんさく)のみをしたくないし、現在の吾々と飽くまで交渉のあるように書いて行って、そして、出来る限り、正確な調査をして、と――大阪には、木崎氏とか、南木氏とか、尊敬すべき郷土研究家が多いが、私は、飽くまで興味本位に――。
 とうとう、私は、大阪を歩かずにしまったが、四日からこそ、本当に、私は、女の同伴者がなくとも、一日中、大阪をぶらぶらするであろう。それを、私は「大阪物語」と名をつける。
 最初に、断った如く「続」というものは、大抵おもしろくないものである。「大阪物語」も、「続」は、おもしろくないが「大阪物語」の間だけは、きっと、愛読してもらえるとおもう。
 私は、これから、多くの参考書と共に、東京へ戻って、三月の下旬から、いよいよ大阪を歩き廻るつもりである。本当に、今度こそは――暖かいから、諸君、散歩の時季ですからね。




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