大阪を歩く
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著者名:直木三十五 

  大大阪小唄

直木三十五作歌
一、大君の
  船着けましき、難波碕
   「ダム」は粋(シック)よ、伊達姿、
    君に似たかよ、冷たさは、
     黄昏時の水の色、
      大阪よいとこ、水の都市
二、高き屋に
  登りて、見れば、煙立つ、
    都市の心臓(ハート)か、熔鉱炉
     燃ゆる焔は、吾が想い
      君の手匙(てさじ)で、御意のまま
       大阪よいとこ、富の都市
三、近松の
  昔話か、色姿
   酒場(バー)の手管は、ネオンサイン
     青と赤との、媚態(コケティッシュ)
       断髪のエロも、うれしかろ
        大阪よいとこ、色の都市
四、太閤の
  浪華の夢は、夢なれど、
   タキシーの渦と、人の波
    大大阪の横顔(プロフィル)に
     そっと、与えた、投げ接吻(キッス)
      大阪よいとこ、都市の都市
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  大阪を歩く


  大阪と私

 私の父は、今でも、大阪に住んでいる。南区内安堂寺町二丁目という所で、誰が、何う探したって判らない位の小さい所――四畳半と、二畳との穴の中で、土蜘蛛のように眼を光らしている。
 多分、六十年乃至(ないし)、七十年位は住んでいるのであろう。私が、母親の臍(へそ)の穴から、何(ど)んな所へ生れるのだろうかしらと、覗いた時にも、その位の、小さな家に住んでいた。そして、今と同じように、苦い顔をしている(親爺の面というものは、大体、苦くって、いつでも、最近と同じ齢をしている。しばしば父の若い時の顔を想像するが、これ位困難なことは無い)。
 私が、東京へ来い、と、云っても母親だけを寄越して、何うしても動かない。あんな、蚤の家のような所でも、住み慣れるといいのかもしれない(尤も、私の生れた、も一つの小さい家は、谷町六丁目交叉点の、電車線路になってしまっている。これは、大層悲しい事実だ)。
 然し、もっとよく考えると、父は、家よりも、大阪がすきなのらしい。「東京はあかん」と、東京へくると、私の家の前へ出て、五分程立ってみて「あかん」と、云って帰ってしまう。何故、あかん、のか、父の観察と、私の哲学とは少し距離がありすぎるし、父の耳が遠いから、聞いた事はない。
 私は、その父の伜であるが五年前までは、未だ、大阪が嫌いであった。大阪も、父もあかんと思うていた。二十年前、私が、文学へ志を立てた時、大阪も、父も、私に賛成してくれなかったからである。
 尋常小学校は、桃園を、高等小学校は、育英第一を(この三年時分から、先生に反抗するのを憶えた)、中学は、市岡を(ここで、物理の大砲という綽名の先生が、私を社会主義者だと云った。その時分の社会主義者という名は、今の共産党員以上の危険さを示していたから、余程、悪童であったにちがいない)。
 それから、大阪は、あかん、と東京へ行った。今年は、私は、三十五だから(去年も、確三十五だった。来年も、多分そうだろうが、この算術は、少しおかしい)十五年、東京に住んでいる訳である。
 尤も、その頃の文士は、全く、あかなんだ。電話のあるのが、夏目漱石一人切りで(これも、新聞社にいたからのお蔭であろう)、里見□が、初めて、一枚四十銭の原稿料を貰って、躍り上っている頃である。私の父が「文科へ入る。阿呆かいな」と、云ったのも、尤もな事である。
 だが、此頃になって、だんだん大阪がよくなって来た。父の居るせいもあるが、月に一度は必ず来る。谷崎潤一郎氏のように、地震が恐くて、料理がうまいから好きになったのでは無い。何となく、懐かしいのである(齢のせいだと人はいうが、私は、三十五じゃ無いか)。
 大阪の料理は、大阪人の進出によって、東京で十分に食えるし(うまい精進料理とすっぽんだけは食えぬ。誰ぞ、東京へきてやる人はおまへんやろか)。地震は、時々あった方が、おもしろい(地震のおもしろさに就てはその内に書く事があろう)。だから、私のは谷崎氏のとはちがう。
 だが、大阪へきても、歩く所がきまっている。いつも、心斎橋だったが、私が十か、十一の時分、東横堀の材木の間を、ストリート婆が出没していたが、そんな婆は今何うしているか?(私は、その頃、竹竿をもって、材木の間をつつきに歩いた。確に、悪童であったにちがいない)。私は、今の内に大阪の隅々を見ておかぬと、齢が齢である(いくつなんだか判らない三十五である)。
 所で、大阪を見たり、論じたりする場合、必ず、その好敵手である東京と比較して、女が、食物がというが、凡そこれ位、常套手段は無い――と思うが、何うも、これは、アメリカ人が、木登り耐久までもして、世界一という比較を誇ろうとする如く、文化の進歩上いい現象なのかもしれない。ただ私は、大阪生れの、東京住居(ずまい)である為に、或は、公平にも見えるし、或は偏頗(へんぱ)になれもする。都合によっては、一方へ偏したり――多分、誰よりも、偏頗になりえられる。
 歩くには、もう少し寒いが、一人で、ぶらぶら(若い、美しい女性の同伴希望者は、速かに申込むべし)明日から、歩こうと思う。

  梅田と木津川

 私は、いつも、大阪へくる時、飛行機にしている。汽車のように退屈しないからである(退屈ということが、何んなに、金儲けにならぬことかは、大阪人が、一番よく知っているだろう。だから、旅客飛行機の乗客で、搭乗(とうじょう)回数のレコードホルダーは、大阪の電気器具屋の八木氏? それから、もう一人大阪人があって、次に、私である。尤も、大阪から一人、妓(おんな)の為に、飛行機で通ってくるという噂があるから、もし、この二人が、そうだとしたなら、それは――いよいよ尊敬してもいい。だが、退屈によく似たもので、疎懶(そらい)というものの有るのは、大阪町人には判るまい。これは、恐らく、大阪のどっかの隅にあるべき筈で、私が、大阪へ戻ってきたなら、きっとそうなるにきまっている。だが金儲けとは反対であるから大阪人はきっと、彼奴変ってまんなで片付けるにちがい無い)。
 そして飛行機は木津川尻へ着くが、ここから大正橋までは退屈でもあるし、腹も立つし大阪軽蔑心も湧き出してくる。実になったあらへん所である。文化は道路に沿って起り舗装道路の上に立つというが(誰が云ったのか知らないがこういう言葉があったように思う。無かったとしたら、僕の造語だが中々うまいことをいう)、尖端的な飛行機発着場への道として――それは、道でなく、自然の土の上へ軌道を敷いただけのものである。
 処で、汽車の着く、梅田の駅頭も、その非文化的な上に於て、木津川よりも賑やかという以外に何物もない。大阪梅田駅前の光景、というものは、第三流都市の下品さである。豊橋とか、岡山とか――。
 粟おこし屋、安物雑貨、バナナと蜜柑としか無い果物屋、何処の三流都市よりも劣った安宿。甘酸(あまず)っぱい湯気を立てている鮨屋(此湯気は甘酸っぱくないかもしれぬが、そうしておかぬと気持が出ない)、これらの店の連続は、近代都市、経済都市の玄関ではなく、朱判を押した白衣の、団体客によってその繁栄を保持している町のステーション風景である。
 もし、私の恋人が、初めて、私を大阪に訪うてきて、この下級飲食店の羅列を見て、その町に住んでいる私を軽蔑しないなら、私は却(かえっ)て、物を軽蔑することを知らない、その恋人を軽蔑してしまうにちがい無い(物を軽蔑することのできぬ人間は、又、物を尊敬することを知らない。僕の格言)。
 だが、こういう小商人(こあきんど)はいい。彼等は、己の都市の美観よりも、金儲けに忙がしい。只怪しからんのは、阪神という阪急と共に梅田の東西に蟠居(ばんきょ)している大資本家である。巨額の積立金を持っていながら、電車は、プラットホームさえ有ればいい、というような態度である。阪神のあの建物は、いかなる建築の様式にもない、バラック的建築物にすぎない(尤も、重役は、こういう攻撃に答えて、いずれ梅田駅の移転が出来上ってから、曾根崎署よりも阪急よりも立派な物を造りまっせ、というだろう。そして、いつまで経っても造らないのが、重役だ。世界中で、凡そ日本の重役位、狡(ずる)くて図々しい奴はない。何を一番先に軽蔑していいかと、僕の恋人が聞いたら、重役と、僕は答えるだろう)。
 僕が、市長なら、電車の市内乗入と交換条件にして、大軌ビル程度の物を建てろ、と、要求するだろう。だが、まあいい。芸術に対しての軽蔑は、僕等が彼等を軽蔑することよりも、一般的なのだから、大阪人士のみの悪弊では無い。
 東、吉原両飛行家には、銀盃を下賜されるが、菊池寛の戯曲が、イギリスの一流作家より優れていても、木盃さえもらえないのが、日本だ。時々何かいい種はないかと、外国の通俗物を読むが、日本の作家の方が、ずっとうまい。その内、ノーベル賞でも、貰う人が出るだろう。そしたらははんとでも、思ってもらえばいい。世界中で、発明家と芸術家とを虐待している一等国というのは、日本だけだ。就中(なかんずく)、大阪など、その為に、何んなに、文化的発育におくれているか判らないが、文化的進歩よりも、金儲けの方が大事だろうから、せいぜいもがくがいい、そして金を儲けて、シュークリームを食いたい、と思った時、銀座のコロンバンのようなクリームが何処にも、大阪には売っていない事を知った時、成る程と、感じるがいい。文化的進歩とは、シュークリームの甘(うま)い、拙(まず)い位のものだが、金儲けもその程度のものにすぎない。

  文化的ということ

 文化(この言葉は、もう少し古くなっているが、大阪では、丁度適当であろう)的にみて、大阪が東京に遅れているのは、誰も否定できますまい。遅れていたって一向に差支えは無いが、とにかく、昨日云ったように、甘いシュークリームが食えぬ程度の不満さはある。
 円タク、酒場が、東京へ侵入したが、これは、野蛮人がローマへ攻め入ったのと同じだと見た方がいい。少くとも「赤玉」とか「美人座」とかいう俗悪な名称は、非文化的大阪人の頭からでないと生れない。図々しくて露骨で、控え目と、礼儀とを知らない(文化とは、女郎屋を公認する代りに、洗滌器をもった女が、安ホテルにいるだけのことである。結局同じなら、そんなに、気取らんかて、ええやないか、と云えば、そうも云える。文化とは、一寸気取るだけのことなんだから――)。
 つまり、東京の女は、自分の洋装が、何うすれば板につくか、十分に研究しているが、大阪の女はあても、洋服きたら、と、人真似をするのが、文化、非文化の相違で、そして、大阪の女が東京の女を見ると、妙なつくりをして、やな、阿呆らしい、と思って家へ戻ると一寸、真似をしてみるのが、批判、無批判、自覚のちがいである。
 だから、大阪へきて「マイ・ミクスチュア」を喫おうと思うと、道頓堀か、梅田まで行かなければならぬ。私は、いつも、用意してくるが、丁度、田舎へ旅をするようなものである。海泡石のパイプなんて、大阪にはあるまい。つまり、ハイカラなものは、大阪より東京に多いということで、極つまらないことであるが、これを、つまらそうと思うと、私は、大阪生れの、文化的職業家の一人として一つ云いたいことがある。
 それは、大阪科学研究所の設立ということである。アメリカの富豪は、必ず自らの科学研究所をもっている。だが日本の富豪の金の使い道といえば、公会堂か、学校への寄附にきまっている。この金を、科学研究に使ってほしい、と、こういう話である。
 生糸が下落した。又、上るかもしれぬが、人工絹糸に圧迫されたまま、そう上らないかもしれぬ。日本の生糸は家内手工の一つで二千年来同じ方法で製産している。国立の養蚕(ようさん)研究所は、ドイツなら設立されているだろうが、日本の政府は、値が下った、補償法を適用しろで、養蚕その物の根本的研究は、全然考えていない。だが、生糸が下落して、惨憺(さんたん)たる目に逢った養蚕家は製産費の低減、製産額の増加によって防止する外にないと考えた。そして、ここ一年余りの間に、桑でなくともちさである程度養えること、冬でも上簇(じょうぞく)できること、煮ないでも糸がとれることを、死物狂いで、試験的に成功さした。
 だが、こんなことは、とっくに政府の手でやってやるべきことである。政府が駄目なら、大阪人の手で、やるべきことである。大戦前まで、樟脳は日本の特産だった。人工樟脳の製産は、不可能だとされていた。だが、ドイツは見事に人工的に産出して、日本樟脳は暴落してしまった。製造工業の盛んな大阪。それ以外に、国をよくする方法の無い日本に於て、個人又は、大都市の、科学研究所がないということは、何んなに、損をしているか判らない。今日の科学の発達は、研究費の有無だけである。芸術なんか何うだっていいから、私は、大阪の人々に、せめて東京の理化学研究所程度の科学研究所を設立してくれと頼みたい。幾億円の富が、そこから生れるか? 天然物の少い日本は、科学的発明以外に何をも産出するものはないではないか?
 文化的の心得があると、つまりこういうような立派な物の考え方をすることができる。大衆物の、ヤッ、エイッを書いていたって、ちゃんと、経済、科学のことまで知っている。
 日本の経済学者、実業家なんて代物は、二年位前迄、来年になると景気はよくなる。経済は周期的に上下するもので、などと云っていたが、この頃、こんな事は云わなくなった。定めて、恥かしいだろうが、私はその当時から日本のような貧弱な国は、この不景気が常態だ、と云ってた。大阪人など、何を考えているか知らぬが、此考えに基礎を置いて、科学的発達に志す外、日本及び大阪の発達はない。この卓説の、もっと具体的なことは、大阪市の顧問にでもなってから発表する。文化的とは、こういう考え方もする事だ。単に、シュークリームのみでもない。軽蔑すべからざる所以(ゆえん)だ。

  心斎橋

 私は、大阪へくると、実によく心斎橋を歩く。或は心斎橋以外は歩かない、とも云っていい。だからと云って、心斎橋は決して好きではない。第一に、決して、美人に出逢ったことが無い(こういうと少し女好きらしいが、それ程でも無い。中位であろう)。
 心斎橋も梅田と同じように、田舎町であるにすぎない。ありったけの時計を、モスリンを、ショールを、ごちゃごちゃに陳(なら)べて、電燈を眩しくつけているだけである。
 飾窓を、飾窓らしく意匠を凝らしている店は、何軒あるだろう。安堂寺町角の天賞堂(その外の貴金属商の俗悪さよ)、大丸、しかん香が既に、ごたごたしすぎていて、一見して、通行人の注意を惹くという、飾窓本来の意味を弁えていない。表に面しているから、その中へ陳(なら)べておいたら見るだろう。買いたい奴なら、覗いて選るだろう――それ以上の注意をしていない。だから、一枚千二百円の、大きい硝子(ガラス)窓など、心斎橋商人の吝(しみ)ったれには、恐らく、その価値が判るまい。飾窓の意義と、窓硝子の価値を知らないで、近代都市の小売商になるなど、田舎であればこそである。デパートに押されるのは当然で、宣伝もしなければ、陳列法の善悪も判らなくて、商売が繁昌したら、アメリカ商人は、とっくに、破産しているだろう。
 しかん香から南には一軒も無い。八幡筋を西へ曲ると、古本屋の荒木が、飾窓を、窓らしく扱っている。小大丸は、銀座の越後屋と同じ道を踏むのでは無いかしら? 品物に珍らしいのが無くなってきた。
 それで私は、大丸と、雑誌屋と、荒木と、丹平と、それだけ以外で決して買物をした事はないが、又実際、心斎橋で白狐の襟巻も、気の利いたウォッチリングも、マイ・ミキスチュアも、無いのだから仕方がない。確に、恋人をもつなら大阪の方が経済的である。三十八円の樺太(からふと)狐でも狐で、八十円のカムチャツカ狐も狐なら、二百円の白狐でも狐である。
 東京の女は、少し気が利いていると(或は、生意気だと)、ハンドバッグ一つ買うにも、鳥居屋へ行って、裂地から金具まで註文をするが、大阪の女は、こういうことを知らないだろう(大阪の男達よ喜ぶがいい。私の友人は最近鳥居屋へ恋人と同行して予算の三倍を費した。そして実はその二倍半の金しか無かったので、そっと私へ救済してくれと電話をかけてきた。東京の女はこんなにまで不経済になってきている)と、いうよりもハンドバッグの註文に応じる店が心斎橋には無い。
 こういうことを云っていると、いかにも私はハイカラらしいが、心斎橋を歩いていていつも羨ましいのは、昆布屋である。昆布の価値は、東京人には判らない。チューインガムという阿呆なものより、昆布のヨードの方がどんなにいいか――私の、少年時代、まだ、大阪の橋々の上には、夏の夜店が許されていた。
 その時分の、枇杷(びわ)葉湯、甘酒――それらは昆布と共に、もう一度、民間の飲み物になってもいい。カルピスなんかよりも、枇杷葉湯は、確に、薬効的であり、甘酒はずっと優れた栄養分を含んでいる。私は、飾窓の装飾を弁えていると同時に、甘酒と、枇杷葉湯の価値も知っている。昆布茶のうまさも知っている。つまり、古今東西の価値を認め温故知新の人間である。
 だから、相当に公平であるが、昆布屋と、飴屋と、鮓(すし)屋の外、心斎橋から、道頓堀へかけて、何も感心するものは無い(然し、大阪の女性は、こんな物に感心してはいけない。全く食べ物ばかりに感心することになって、恋人に愛想をつかされるかもしれぬから――)。
 と、いうよりも、実によく、大阪の女は食べた。私の子供時分の芝居に於て、就中、旧文楽座に於て――そして、昆布をしがんだ口臭は、決してシックなものではない。何うもキッス以前の匂いだ。キネマで、チューインガムの引っ張り合は、恋人同士によくあるが(私は、キネマを三年位見たことはないが、多分あるだろうとおもう。なかったら――やってみるがいい)、昆布は、少し粘々(ねばねば)しすぎる。とにかく、昆布は、いくらか、大阪人の健康を助けているだろう。私の母なんかも、昆布をしゃぶるには人後に落ちた事がない。少ししゃぶりすぎたので、その子の頭が少し早く禿げるのだろう。ヨードは髪毛を増すというのが、何うして、私だけは、禿げるのだろう?

  食べ物

 大阪の料理は、殆ど東京を征服した。東京料理の面影を伝えているのは、八百善位のものだろう。話に聞くと、大阪の板前は既に百人近く、東京へ行ったというからえらいものである(大抵この位で料理論などは終っていいのだが、どうも私の知識は沢山あるのでもう少し話をしたい)。
 その大阪の料理人も所謂、料理通、食通がる人々も「大阪料理は成るべく生のままの味を食わすんで――」と、自慢らしく云って「魚じま」が済んでも鯛の刺身を食っている。
「自然のままの味」ということはいい事にちがいない、然しそれだけより以外のことを研究していないということは自慢に決してならない。例えば「鶴源」は、十種類の料理で、年中大して変りがない。「鶴屋」へ行くと、きっと、鯛の頭を出す。それを、名物にするのはいいが、それ以上の変化を研究しているのか、居ないのか、一度、料理人に聞いてみたい。
 フランス料理の、オードブル(突出し、前菜)は冷たいのが百六十種、温かいのが二百種ある(宮内省司厨長秋山氏談)日本料理の突出しを、何んという料理人が百種こしらえたか? そんな物は拵(こしら)えんでもいいと考えているのか? 作り得ないのか? 作ろうとしないのか? よく、胸へ手を当てて御覧。
 東京星ヶ岡茶寮の北大路氏は、この前菜を十六種位出して、一名物を為し、日比谷の花の茶屋も、十種位は作っている。つまり、フランス料理の十分の一である。
 百種も、前菜を作ったら、日本料理で、無くなりもするか? それとも、それが、時代と共に変化する料理の道か? 日本料理には材料が無いのか、頭が無いのか?
 大阪料理が、東京へ入ったからとて、喜んでいるような根性では何うもあかんと思う。この点、北大路も、花ノ茶屋の井上も同じことで、前菜二十種だけ作っておいて、儲かったら、のん気に、陶器を焼いたり、別荘を建てたりしている。大阪から逃出して、東京で当てた「浜作」も、そろそろ競馬へ行き出した。
 何故、料理屋の主人は、料理の研究に、一生を捧げないのか? 江戸風料理の第一人者である「清さん」でも、金儲けに忙がしい。御霊の「福丸」も、親爺が、怠け出した。小金がたまると、悉(ことごと)く、これで、文句を云えば、「大阪料理は生地の料理や」で、済ましている。
 何故、それ以上にしてはいけないのか? 何うして、古今東西の料理を研究して、新味を出すに努力しないのか? 僕の頭の如き、生地のままでは、食わせようも無いからにもよるが、読みたいもの、書きたいこと、研究したいことがあって、飽くことを知らない。
 僕は、庖丁はもてぬし、今から料理人にも成れぬが、もし、成ったなら、このうまい魚と、いい野菜とを控えている大阪の料理人として、西洋、支那をも研究して、少しは珍らしい物も、作ってみせる。「伊勢屋」が「大市」派のスッポンを食わせるだけで、あれだけ繁昌するではないか? それも五十種の前菜と三十種の漬物とだけでも立派に一名物はできる。三十種のうまい漬物で、茶漬を食わせるだけでも、優に名物に成りうる。
 屈強の原料をもっていて、この心懸けが出ない以上、大阪の料理人が、千人東京へ行ったって、それは、鼠の移動と同じことで、料理の発達とは無関係だ。発達と関係の無いことを、何うして称められるか? 大阪人が、東京へ行って儲けたって、何が、日本の得になる。
 つまり、こういうやかましい理窟が、生じてくる。私はサー、理窟っぽすぎるが、大阪料理の為にこう云いたい。玄人よりも、料理がすきで、板前になっている素人料理の人に、しっかりやんなはれ、と云いたい。

  古蹟と交通

 矢野橋村が、天王寺にいた時、その二階から、塔を眺めては「天王寺は未だ、健在だなあ」と、思ったことがあった。然し、お寺は、酒場ほど面白くないから、行っても見なかった。
 今日も、薄曇りの日に、寺の前まで行ったが、境内の冷漠さを見ると「ええ寺やな」とだけ感じておいて、戻ってしまった。寺だの、大臣だのは、この程度に眺めておいたらいいものであって、深く入ると失望する。
 西門、石の鳥居の左側に、高橋父子の墓地案内の石が建っているが――大阪人は、少しこうした史蹟に冷淡すぎるようである。史蹟に熱心だったって、金は儲からないが、大阪城の天守を再築する位なら、もう少し、史蹟の保存と紹介とに、力を入れてもいいだろう。
 高橋父子、って、何者だか、殆ど知っている人はあるまい。一心寺へ参詣して、本多忠朝の大きな墓を見たって、忠朝が、何ういう人か? お巡さんに聞いたって、お巡りさんは、養成所の試験問題に無かったから、知らん、と答えるだろう。安居の天神は、真田幸村の討死した所だが、そんな碑を建てる話も聞かない。
 私は天守を立てるなら幸村最後の地へ石一つ位建ててもいいと思うが何うだろう、市長さん。尤もここには私の思い出が一つある。中学の頃だった。夕陽丘の女学校がこの丘の下へ初めて出来たが、誰かが家隆塚へ行くと一目に見えるぞと云い出した。何うも当時から女は嫌いでなかった性とみえて私も同行した。「小便したろか」と、そして一人が学校を見下ろして叫んだら、大部賛成者があった(私は確賛成しなかったと憶えている)。それから、三四遍、小便しに行くと、一日校長が「近頃本校の生徒で、夕陽丘へ行くものがある」と、講堂で云い出した。校長は大抵、紳士だから小便のことは口にしなかったが――真田幸村戦死の地であると共に、私には忘れることのできない所である。
 大阪の役、と云うと、後藤又兵衛に、真田幸村が、活躍するが、明石全登、毛利勝永の二人を、もう少し紹介してもいいだろう。明石が、十字架の旗を翻(ひるがえ)して、行方不明に終ったこと、毛利が徳川の本陣近くまで、肉迫したために、家康の旗が旗手の手から取残され、槍奉行の大久保彦左衛門がその旗を守って退却したなど、世人に余り知られぬいい話が残っている。
 一度大阪の町々の、こうした史蹟と、史話とを書いて、保存法と、紹介法とを考えては何うだろう。その位の愛市的観念と、財力があっても、金儲けの邪魔にはなるまいと思うが――実際、私等、大阪育ちの、相当そういうことを心得ている者が、歩いていてもつい見逃してしまうことが多い。
 天王寺を出てタクシーに乗った。小雨が降ってきた。「こらっ」と怒鳴るので、見ると、助手を叱る巡査だ。
 少しばかり、大阪、京都の方が叱るお巡さんが、多いらしい、ということは、叱られる市民の多いことで、これは、非文明、非公徳の反映であろう。わざわざ危い、くぐり抜けをする街の勇士が、大阪の小僧さんには随分いる。
 京都には、田中、綽名雷というお巡りさんが居て、叱るので名物だそうだ。凡そ、これ位人を馬鹿にした話はないが、署長が、余り叱るのは決して巡査の為にも、市民の為にも、名誉な事ではないと云ったという話も聞かない。
 日本の巡査は、明治初年、士族の食いっぱぐれが、悉く採用されて「くや人民ッ、ああん」と云った時分から、伝統的に、威張るようにできている。その人々が、円タクの雲助と、取組むのだから気の荒くなるのは当然だが、「馬鹿あ」「止まれっ」と、怒鳴っているのを見ると、巡査、市民共に、一度ロンドンへ見学にやってやりたい。(私は、ロンドンへ行ったことはないが、確信をもって、大阪位、怒鳴る巡査と、交通道徳を心得ない市民の多い所は無い、と断言し、大阪人の非文化性は、独り、シュークリームのみでは無い、ここに至っては、彼の生命をも、脅やかしている、と論じていい)。実際、驚くべき無節制さをもって、街路を横断している。私が、お巡りさんなら、然し、決して、怒鳴りはしない――撲(なぐ)る。

  滅んだ物、興り得ない物

 私の少年時代には、法善寺に一軒、空堀に一軒、天満天神裏に一軒、講釈場があった。だが、いつの間にか、大阪から、講談は無くなってしまった。
「玉川およし」「誰ヶ袖音吉」「木津勘助」「難波戦記」「岩見重太郎」「肥後駒下駄」「崇禅寺馬場」といったような、大阪講談種のものは、その内に、忘れ去られてしまうであろう。別に、惜しくも無いが講談というものは新形式に於て、もっと盛んになってもいい。
 花月亭九里丸は、私の小さい時分、彼の親爺と一緒にチンドンチンドン歩いていたのを憶えている。彼等のグループは、私らの家のあった所の崖下、俗称野麦と称した所にいたらしいが、機があったら、私は彼と一緒の高座へ上って「荒木又右衛門」でも弁じてみようと思っている。
 こういうことは、私は、好きらしい。だから、東京では、十年以上も、寄席へは行かぬが、大阪へくると、時々、春団治を聞きに行く。渡辺均君から紹介されて、小春団治のも聞く。愉快でもあり、上手でもある。この挿画を書いている小出楢重君は私と同じ中学であるが(少し、先輩だ)、随筆を書くと、私よりもうまい。都会人らしい、ユーモアが、快く流れていて、聡明で、謙遜で、イギリス風のエッセイとは、又別の味がある。
 大阪人は、二輪加(にわか)、万歳、喜劇などを、随分生んでいるが、滑稽の才能は、確に、江戸の洒落(しゃれ)よりも、優れているとおもう。ただそれが、完全に発達をしないのは、料理と同じで、一程度以上の研究をしないからであろう。
 曾我廼家五郎は、唯一の喜劇であるが、五郎の見識以外へ出ないから、新らしい時代とは没交渉で、十年後には――或は、いい喜劇が出たなら、忽ち圧倒されるだけの古臭さを含んでいる。
 私が、最近「アサヒグラフ」に書いた短篇など、新らしい落語でもあり、喜劇である。「大衆文学全集」などにも、落語も、書いているが、こういう方面へは、彼等は、全然注目していないらしい。私は暇さえあると彼等を聞き見るが、彼等は吾々がこうしたことにも注意していることを全く考えていない。これが漫談などが出てくる現象の一原因で、話語(わご)の上手さに於て漫談の比で無いに拘らず、落語は日に日に古臭くなって行き、漫談はもう一転換したなら遥に落語を圧倒する丈の胚芽(はいが)を含んできた。
 私は大阪のこうした人々がいい素質をもち乍(なが)ら、それをリードするいい人の無い為に、しばしば歪められてしまっているのを見ると、もう一度、大阪の非文化性の罪悪さを云わなくてはならなくなってくる。時として、文化は下らないことであるが、時として、文化的指導者のいないことは、興りうべき物をも興らしめないで終ってしまう。
 私は、大阪人の方が、東京人よりも、遥に、朗らかな、特異的な文化を生み出しうると信じているが、大阪の文化人である、池崎忠孝氏とか、岡田幡陽氏とか、新聞社関係の人々は、決して親切では無い。又、例えば、木谷蓬吟氏の義太夫研究にしても、成長して行く大阪には、何の利益も無い。
 こうした町人文化は、都市にはいつも何処にもある。五井蘭州とか、三浦道斎とか、斎部道足とか、村田春汀とか、その町の将来のことには、何の貢献もしないが、金と暇があるから、こつこつ書きためたというような――そんな文化人は、大阪には、必要ではない。
 何うも、私は歩かないで、理窟ばかり云っている。だが、十回位で終るべき、この記事を書くのに歩いて且書いたなら、それは、百回にもなるかもしれないし、一軒の飲食店を書いても、三日位かかるであろう。何うも、歩かないでもよさそうである。第一に、めきめき寒くなってきたではありませんか、皆さん。

  遊里と酒場

 いつかの「文藝春秋」に、私が酒場で十円のチップを置く、と書いてあったが(その代り、一文も置かぬときもあるとも、書いてあった)□である。勘定が、三円某(なにがし)だから、四五人集まって来たレデー達に、十円出して「釣は入らない」というだけで、三円が、六円になっても、矢張り十円しか出さない(だから、私にサービスしてくれるレデーは、成るべく、酒をのまさないようにする。その方が、私の健康の為にもいいし、彼女の収入の為にもいい)。
 それから、美人座へ、時々行く外(多分美人座では、私が、千早昌子を好きだと考えているであろうが、酒場では、好きでなくとも好きな一人を仮定しておくことは酒場交際法の第一課である。誰も好きでないと云い乍ら、度々行く奴は、馬鹿野郎でしか有りえない)、殆ど、私は、外の酒場へ行ったことがない。将来、行っても、私は、矢張り、十円しか出すまい。
 何うも、私は、昔から、この十円の遊興がすきであるらしい。今でも、新橋へ、年に一度位、遊びに行くが、九時から行って、妓一人で矢張り十円である。プラトン社在勤当時、九郎右衛門町の福田屋へよく行ったが、十時ごろから一時ごろまで、三代鶴を呼んで(どうも、この人に惚れていたらしいが、はっきりした記憶が無い)うどんを食べて、矢張り十円であった。
 それで、時々、この三つの内の何の十円が、一番安い、かを考えてみると、何うも、酒場よりも、お茶屋の方が、私にはいい。人々は、酒場は、沢山の女が集まってくるから、というが私の趣味だと女は惚れた一人以外には、居ない方がいい(チップの関係もある)。
 川口松太郎は、十人口説いて、一人当れば一割の配当だという主張をするし、菊池寛は、一言云って、嫌だという奴は、二度と口を利かぬから、俺の獲得率は、百パーセントだというが、人各々である。
 私は、自分の好きな人を前にして、只眺めているばかりであるから(菊池寛は直木は黙っていて女を落とそうとする。だから人の二十倍も、時と金がかかるというが、私の恋は、いつも神聖なのである)どうも、お茶屋で差向いの方がいい。
 そして、同じお茶屋の十円で、新橋と、大阪とどっちがいいかと云えば、断然大阪がいい。東京は十二時になると、不見転(みずてん)以外は帰ってしまうが、大阪は、時として夜が更けると、雑魚寝があるし、席貸へ行って夜明かしもするし、――つまり、飽きる所まで、行きつくすことができる(尤も、そうなると十円では済まん)。この点は、酒場や、東京の真似のできない所で、上方遊里の忘れられない味である。
 私は、東京へ行った大阪の酒場が、エロであるという評をきくが、ああ云った取持ちがエロなら、エロは忌嫌すべきものであるし、大阪の女性を軽蔑こそすれ、称める気にはなれない。無教養の故に、下らぬ事を喋って、慣々しくするだけの女を、喜ぶ位、又、男自身の価値を下げることも無い(私の気位の高さ、何んなもんや)。
 尤も、女と遊ぶ時には、男の価値を、少し下げぬと面白くないが、それは、差向いの時に限ったもので、そういう時には、私も、可成りだらしが無くなって、チューインガムの引っ張りっこをしないでもない(これは、仮定や)。酒場では困る。友人の、浅間(あさま)しさを見ていると、下手なダンスを、いい齢をして、背の低いダンサアと踊っているのを見ているように、憂欝になってくる。
 東京風の酒場では、この感じがやや少いが、大阪風は、かなわん。私の趣味、又は、私の文化性に合わないのであろうが、私の望むエロチックは、もう少し教養が、気取りがあってほしい。流し目一つさえ、満足に表現し得ないエロなどというものが、のさばる事は、男女お互に恥辱である。インドの「愛経」によると、脣(くちびる)のキッスのみで八種あるが、少くもウェートレスは、それ位のことを心得ていて貰いたい。Aの時には第一種のキッスで、草履(ぞうり)か靴を軽く踏むとか、Bの時には第二種で、脚を押しつけるとか、Cの時には第三種で、手を廻して首を抱くとか、――それ位の抱擁の区別は、ちゃんとしてもらいたい(この抱擁の形式は、罪のないものから深刻を極めるものに至るまで、約二十種ある。女の方には、特別に教授してもいい。一種五円位で、高うおまっしゃろか)。
 露骨なるエロよ、一九三〇年と共に、消えてくれ。

  美術館と動物園

 私は、もっと歩かなくてはならぬが、サー、理窟を云いすぎた。――そうだ。私は、天王寺へ参詣してから、理窟ばかり云っているのだ。
 産湯稲荷の、抜け穴は、何うしたかしら? 私の少年時代、その穴は、真田の抜け穴だと信じて、度々入ったものである。七八間も行くと、行きづまりになっていて、一寸、失望したが、この頃は、柵が設けてある。あの前へ「真田の抜け穴」と、札を建てるといいと思うが、――それから、もう一つ、この辺には、池の近くから、人骨が転がり出したのを憶えている。小橋の墓地といえば、私等上町の悪童には、なつかしい思い出の所である。
「しゃれこべ、出るやろか」「そら、首が出る位やさかい、掘ったら出てくる」と、私達は、棒と、竹とで、墓地――石碑一つない墓地を掘っていて、怒鳴られたことがあった。
 三光神社から、高津の宮跡へかけて、大阪冬の陣の激戦地であった。私ら、少年時代には、未だ、その大阪陣の記憶が、人首だの、抜け穴だので結び付いていて、真田山で幸村を回顧したものであるが、もう、今日のこの辺の少年は何も感じないであろうし、父兄も、町会も、感じさせるような木標さえ建てていないであろう。
 どんどろ大師は、何うしたか? 義太夫に残っているから、近くの人々は知っているであろうが、阿波の十郎兵衛の事蹟が残っていて、真田幸村終焉の地に、一本の標杭さえ無く、そして、天守閣を建てて――多分、天守閣は見せ物にして金がとれるが、幸村の碑では金儲けにならん、というのであろうか。
 名古屋の近くに、コンクリートの大仏が建った。毎日、賽銭がよって、遊んで食えるそうである。子孫の為に残すなら、これはいい財産で、一寸売れないだけに、子供の食いはぐれが無い。大阪の中位の、金持共は、郊外へ、大仏だの、観音だのをいろいろ建てて、賽銭でくらすがいい。天守閣などもこの意味で、一番経済的であって、一番下らない金の使い道である。もう少し、明瞭(はっきり)としていたなら、当然大阪の史蹟の整理と保存とを初めなくてはならない。
 少し、論が、前へ戻ったがこれは私が、同じ道を戻って行くからであろう。天王寺から一心寺の方へ(何という甘味のない名だろう、一心寺)、それから、公園の方へ。ここには、市民から馬鹿にされている美術館が建っている。何の市長の時に誰が賛成して建てたのか知らぬが、この位市民と没交渉の美術館も無い。一番いい方法は水を充たして水族館にすることだが――文学にさえ冷淡な、大阪市民に、美術館を与え、与えっ放しで教育もしない所が、役人の役人たる所以であろう。
 年度末になって予算が余ると、不用な品を買込んで、一文も残らず使ってしまうのが日本の役所である。そうしないと、来年の予算を同額だけもらえぬというのであるが、凡そ、この位、人民を踏みつけにした考え方はない(例を云えというなら、いくらでも挙げてやる)。
 朝十時に出て、午食に休み、四時に退出して十五年勤めると恩給である。東京市の一課長は三十年間勤めて、年額七千七百円の恩給をとっている。日本の重役とか、官吏とかは、皆こういう人間である。美術館など、本当に市と、市民のことを考えるなら、そんな金の使途は、いくらもある筈である。東京には、こんなのが威張っているから癪であるが、大阪は、いくらか、その色が薄いので、だんだんすきになってきた。
 都市の面目を考えるなら、美術館を建てる金で、梅田駅前を、清潔にするがいいし、市民に美術教育を与えるつもりなら、矢野君の美術学校へ援助でもするがいい。何か、事があったら、一々、私の所へ相談にきてもらえまいか?
 それから、私は、山を下って、動物園へ出るのである。動物園の園長、燈台守、測候所の人々などという位、真面目で、熱心な人はない。林氏にしても、上野の黒川氏にしても、本当に、仕事への情熱と、愛とをもっている。猩々(しょうじょう)が死にかけたら、きっと、園長は徹夜するだろう。そして猩々を抱くだろう。美術館の予算なんてものは、動物園へ皆やるがいい。そして、公園中を動物園にして、羊と、兎と、小鳥とを開放して、子供と遊ばせるがいい。私が子供であった時には、遊ぶ所が無くて小橋で貝を掘ったり、横掘のストリート婆を竹でつつき出したりした。だから、こういう碌(ろく)で無しになったのだ。

  雨

 私は、とうとう大阪を歩かなかった。これは、題名にも反(そむ)くし、私自身の意志にも反く訳であるが、歩こうとする今日九日の日が、雨になった。そして、翌日には、私は、東京へ戻らなくてはならぬ用がある。十一日には放送があるからだ。
 何うも私は女より雨の方が少しばかり嫌いだ。愛人と温泉宿にでも居る時には、そうした雨も決して悪くないであろうが(ここで、あろうがと疑問を残しておいたのは、そうした経験が一遍も私にはないからである。あればきっと私の小説に出ているだろう)、傘という――少し風が強いと何の為にさしているのか判らないような物をさして高下駄をはいて、この寒いのに――(実際、私は、五尺五寸六七分あるから、三寸の高下駄を履くと、五尺八寸以上になる。こんな高い風景は、ビルディングの外、賞玩に価しない。大阪の女の、背の低い限りに於ては――)。
 それに――私は、大阪の、何処を歩けばいいか? 私がエトランゼエなら、天王寺から、天満天神、大阪城、文楽座――と、歩くであろうが、私は、もう少し、特異な大阪を――大阪の玄人としての、大阪を知っている。例えば、清水橋筋には、小泉とかいた金行燈のかかった一軒の旧家がある。多分この家は、主人と共に、古い大阪を語るにちがいない。又、唐物町の鳥清は、鳥屋から、長崎料理になるまで、八年間考えていた。それは料理の研究ではなく、古い鳥屋が、長崎料理に化ける可否という事について、親族も、考えてくれていたからである。
 それから、又、私は、堀江の「すまんだ」へ行ってみてもいいし、新町橋の四つ目屋へ、買物をしに行ってもいい(これは、いい土産になる)。或は又、京都の、肥後ずいきより、大阪のそれの方が、何んなに、文化的であるか(私が、こういう事を書いたからとて、直に、私の品性を評されては困る。エロ時代だから、大衆作家らしくこうした品物まで研究していると、一寸、向学心を広告したまでで、決して、私が、机の抽出へ入れている訳ではない。第一、私は、机をもっていないのだから)。或は又芝居裏の女郎がいかに「洋食弁当」を好くか? そして、それが、何んなに、特種なものであるか? とか――つまり、微に入り、細に亙り、大阪の文化性を論じ、忽(たちま)ち女郎の弁当に移り、千変万化、虚々実々、上段下段と斬結ぶつもりであったが――雨である。
 雨であっても「洋食弁当」を、論じには行けるが、多分女は、私を離すまいから、私は、放送におくれたり、三日も、弁当のみを論じて、読者から叱られるにちがいない。それで、私は、今日、図書館へ行って、大阪の史蹟を調べようと思ったが、人口二百幾十万と誇っているこの大都市に図書館は、一つしかない。私がしばしば通っていた時分から、いつも満員であったが、大阪の富豪が、南の方へ、建てたという話をきかないから、未だ、中之島だけであろう。二百何十万の、空虚な頭が集合しているだけで、大阪よ、ロシアの、大ダンピングさ。大阪人等は、想像できるか? 所謂、資本主義の第二期的現象としての、生(しょう)一体、御前は、何を考える事ができる?
 私は、大衆作家であるが、金貨本位の経済組織の危機を知っている。五ヶ年計画完成後に於ける生産と、消費との大ギャップ問題を、この非文化的頭脳で、判断できるか?
 大阪町人の大多数は、せいぜいここ、二三年の経済界の事しか判っていない。経済策とか、ダグラスの経済論とか、ロシアの新経済論とか――そうした、直に、金儲けにならぬ論に対しては、何の興味も、もっていないが、これが、大阪町人をして、中富豪たらしめたと同時に三井、三菱になり得ない原因である。
 経済も、思想も、激変して行くであろう。赤テロは、何んだんねと云っている間に、ロシアは、既に、材木と、小麦のダンピングによって、世界市場を、攪乱させ始めた。こんな事は、畑ちがいの僕にさえ、常識として判っているが、大阪町人の幾人が、この事実に対して何(なに)を何(ど)う考えているか?
 私は大阪を歩き、大阪の人と逢ってもう少し大阪の為に語りたいが――多分、私は、大阪に、また失望するものと思っている。私如き一介の小説家にして、猶最新の経済理論を心得ているに拘らず大阪町人は己の領分の経済思想をさえもっていないのが多いのである。憐れむべき、大阪、及び大阪人よ、私はまだ故郷へ戻りたくない。もう、二年――そうだ、二年位で、判るだろう。
 私は、これで一度、東京へ戻ろう。そうして、もう一度又、機があったなら、歩きにくる事にしよう。

  続大阪を歩く


  歩く準備

「大阪を歩く」前篇は、いい評判であったらしい。
(本紙の社長、前田氏は、よかったよ、と、云っていたが、らしいと疑問にしておくのは、文筆業者の、奥床しさ、というものである)
 だが、前篇がよかったからとて必ずしも後篇もいいとは云えない。大抵のいい物でも、続々何々になると、きっと面白くなくなってくるのが、常である。
 然し、私は前篇に於て「歩く」つもりをしていながら、歩かなかった。つまり、卓文を書いている内に、約束の十回が終ってしまったのである(前田氏は、十回で、大阪中を歩かせるつもりだったが、そうは行かない。こう見えても、通り一遍の大衆作家で無く、いろんな事を心得ているのだから――と、これは、文筆業者としての、広告である)。
 だが、今度は、いよいよ歩かなくてはならぬ。この寒い、お正月に――実の所、私は、マントも、帽子も、持っていない。マントは震災前、菊池寛からもらったが、質に入れて、流してしまった(正しく云えば、流れてしまったのだ。私は、流すつもりではなかったのだが)――それから、帽子は、地震の時に、三つ重ねて冠っていた記憶があるから、確に、三つは持っていたのであるが、いつの間にか、なくなった。それ以来、マントは高くて買えぬし、帽子は――三つも冠っていても、なくなるのだから、一つ位きていても、すぐなくなるだろうと、未だに買わない。
 私の経験から云うと、マントというものは着なければ、着ないでもすむものである。日本の冬位なら、私は、シャツさえ着ないで、いつも、済ましてしまっている。帽子に至っては市岡中学時代から、大して好まない。私の顔と帽子とは、余りいい調和だと思えないという事もあるし、私の頭がだんだん薄くなってきたから、この上、帽子をきたなら、あかんと思うからでもある。
 それで、歩くには、少し、寒いにちがいない。私は、恋愛のためには、可成り歩いた事もあるし、今でも、散歩の為なら暖かい日に二三町位は、歩きもするが(だからと云って、私を軽蔑してはいけない。歩くと、決心すれば、一昨年の夏、私は、上越国境の三国峠を越えて、越後湯沢へ下駄履きのまま、出る事のできる男である)。歩いて、原稿をかくのは、これが初めてである。そして、同じ歩くにしても、こうなると、女に見とれたり(私は、このいい癖を、十分にもっている。女から、見とれられた事は、無いようである)、小説の筋を考えたりする事はできない。ノートを懐に、印象をかいたり、感想を止めたり(私のノートは、始めて、ノートらしくなるであろう。私の、紙入の中には、二三年前から、小さいノートが入っているが、芸者の名だの、ウェイトレスの署名だの、碌なことが書いてない)、それから、宿に戻ると、私は、今度、約、三十冊の参考書を持ってきている。それでそれによって、いかに、私が、博学であるか――と、いうように、いろいろの知識を、書くのである。
 例えば、私は、淀屋橋に於て、勿論、淀屋辰五郎を書くであろうが、それからつづく、八幡の仇討は、恐らく、誰も知るまいし、金の鶏の伝説と、長者伝説、それから、大阪町人の献金と、幕府の対町人政策、もし、私が、紡績会社を訪問したなら、一九一四年の総錘数(すいすう)が、一億二千五百万個であり、その消費数が、二千八百万俵であったに拘らず、一九二八年には、錘数に於て二割六分を増加し、消費数に於て一割の減退を示しているから最早、紡績業は、飽和点に達して、衰減状態であるというような事を、論じるかもしれない。
 私は、現在、又現在まで大衆文学以外の物を書いた事が無いから、私の郷土の大阪の、私の知人も、私を単なる文人と考えているようだが、私は科学、軍事、経済、社会などに対して相当の抱負と知識とをもっているものである。私は他日それを小説の形式によって公表するであろうが、それに先立って、私の郷土、大阪に於て、私の郷土人、大阪人の為に、その全部を披瀝して何かを、大阪及び大阪人に与えたいと、考えている。
 私は、女と、食物を、論じると同時に、対支貿易と、到来すべき世界的ダンピングも論じるであろうし、小春治兵衛を説くと共に、島徳七氏について云うかもしれない。歩くと云っても、ただの歩き方とは歩き方がちがう、頭で歩くんだ。少し、禿げてはいるがね。

  大阪人

 私は、大阪を出てから、二十年になる。二十年、東京に住んでいた。丁度、生れた所に半分、他郷に半分、という訳である。
 氏より育ち、とか、孟母三遷の教えとか、人間は、環境に支配されるとか、朱に交わればとか、教育は第二の天性とか――いろいろの言葉があるが、私は、一体、大阪人なのか、東京人なのか?
 大阪で生れたから、生れた時から、掌を握っていたとか、二つの時に「こんちは、儲かりまっか」と、云ったとか――いつまで、経っても、贅六(ぜえろく)根性が抜け無いものか? それとも、東京風に染んでしまっているか?
「君の生れは、何処だい」
 私は、よく聞かれる。
「大阪」
「大阪か、大阪とは見えないね」
 大抵、こうである。私の言葉に大阪訛(なま)りが無いからか、私のする事が、大阪人らしくないからか?――とにかく、他国の人々は、大阪人を、尊敬すると共に、軽蔑し、未だに、江戸っ子の方が、大阪人よりも上等人だと、考えているらしい。
「人国記」の流行ってきた時代――大阪人は、大阪から一足も出ないし、江戸人は、江戸の内で一生暮らしているし、もし他国へ出るなら、それは伊勢参りと、善光寺参りとが人生の二大旅行であった頃なら、そうした「概念的贅六」の観方も正しいであろうが、このごちゃごちゃ時代に、何が贅六で、誰が純粋に江戸っ子であろう。一体同じ人間が、そう根本的に差違のあるものか、無いものか?――私は生国を聞かれるたびに、古くさいなとおもう。
 だが、こうした概念的の見方は便利であるから、中々廃れない。純粋の、江戸っ子だと聞くと、熱い朝湯がすきで洒落が上手で、粋ななりをしていて、たんかが切れて、金放れがよくって、すらりとしていて――と思うが――何処の山猿かしら、と思っている石井鶴三氏は、下谷っ子であり、泉鏡花は、加賀っぽうであり――こんな概念など一顧の価値も無い。第一に、純粋の大阪人が、今、幾人残っているか? 近江泥棒、伊勢乞食と、矢張り一口に云われる人間が、入込んできて、大阪人になっている――紀州、大和――とにかく、東西南北から他国人が入込んできている。
 私の父も、母も、大和人であるから、私は、純粋の大阪人では無いが、とにかく、大阪で生れた人間として、一口に、贅六と云われる概念を打破してもいいとおもう。
 恐らく、大阪の町人は、人を押しのけてまでも、金儲けをしたいとは思わなかったにちがい無い。
「儲かりまっか」
 と、挨拶したり、すぐ、ぼろの出る粗悪品を輸出したりして、大阪商人及び大阪人の面目玉(めんぼくだま)を、踏潰(ふみつぶ)した、野郎共は、他国の、奴にちがいない。
 大阪商人の代表として、蔵屋敷出入の人を、もし、挙げていいなら、彼等は、悉く、立派な男である。度胸と、見識と、洒落と、悟りと、諦めと、趣味と、多少の学問とそう云ったものを持った――つまり、大都会の、大商人らしい、都会人らしい、何処の都会にも、共通する、文化人であったにちがいない。
 少くも、西鶴、近松。下って、懐徳堂から町人学者の輩出した当時の大阪人は、今の田舎者の成功者とは、ちがった人間であった。そして、私は、それを、大阪人だと、思っている。現在の例で云えば、平瀬氏などが、大阪町人の代表的一人で、近江商人などの、こすっ辛さと、人間の性がちがっている。
 所謂、檀那様、お家はん、であって、番頭が一切をやっていて、薄暗い所に、一日、徒然(つれづれ)なのが、町人である。そして、これは、江戸の町人とも共通していて、ちがうのは言葉だけ――いいや、本当の、上等の、江戸っ子は、決して、べらんめえではない。しとやかな言葉である。
 所が、悪貨は、良貨を駆逐すの原則通り、檀那はんは、だんだん伊勢の丁稚上りに圧倒され、丁稚は、ひたすらに勤倹力行して成功し、とうとう、その風が大阪中へ拡がって、こすいとか、厚釜(あつかま)しいとか、野暮とか、しみたれとか、いろいろの悪評を蒙るようになったが、これ、田舎者のせいだ、断じて、大阪人は、そうでは無いのである。

  百貨店
   附、店員心得のこと

 私は、大阪のデパートによく入る。着いた日も、行ってみた。私の、愛人(私は、私と交際している女を、皆愛人と呼ぶことにしている。愛している――神聖なる意味に於て、愛しているからである。つまり、愛児と、同じ意味で決して、私を、咎めてはならない)が、牛肉が好きなので(これは、少し、愛人として、色消しであるが)その味噌漬を、送ってやろうと(おお、親切な愛友よ!)してである。
 牛肉店は、店を入って左側にある。私は、一番大きい――だが、金五円しかしないのを送ろうとしたら、店員が「品切れです、五円のは」と、云った。「じゃあ、三円のでもいい」(実際、三円のでも大きくて、十円位に見えるのである。愛人への贈物としては、確に、ダイヤの小さいのよりも、甚だ、適当している)「下に送る所がありますから、下へ行って下さい」
 私は、その「下」が、何処にあるのか知らないし、三円で、そんな手数のかかるのは、面倒だから、黙って、立去った。店員は、ちらっと、私を見て、黙っていた。
 私が、愛人の為に、下へ行くのを、おっくうがったのは愛人に対しても、又、店側に対しても、我儘であるにちがい無い。然し、私から云わせると、私の如き者の為にも、其処で、送り先を聞き、且つ書くべき設備をしても、デパートの恥ではない、と云いたいのである。
 私は、しばしば、銀座の店員の店員らしくないことを、雑誌に書いた。実際、彼等は店員としての資格を、半分も備えていない。私は、商業上に於ける大阪商人という名称が、一種の軽蔑と共に、恐れをもって見られているように女給が、東京風のよりも、エロであるように、大阪の店員は、東京よりも、大阪独特らしく、もっと自分の商売に、熱心でありたいと思うのである。仮令(たと)えばかかる場合「すみませんが、御面倒でも、下まで」と云えば、私は、下へ行かんでも無い。又「只今、五円のは品切れになりまして、明日なら出来ます」と、最初に云えば私は「じゃ三円のを二つ」と、云ったかも知れない。これが、商売のこつである。
 私は、店員に、馬鹿丁寧な挨拶をしろ、というのでは無い。少くも、一流の店の店員としては、第一に、自分の担当する品物に対する知識をもっている事。第二、既知、未知の客を区別しない事。第三に適当に品物をすすめる事。第四に、客の好みを察しる事――その外、言葉、姿――いろいろとあろうが――それを具備している店員は、どこの都市でも、極めて少い。
 私は、外人の店、支那人の店、遠くは、ハルピン(余り遠く無いが)で、買物をしたが、彼等は、悉く日本人に較べて、品物の説明を十分にする。日本の店員の如く、品物を前に出して、黙って、突立ってはいない。手にとれば、必ず説明し、置けば、次のを渡して又説明する。これが、いかに、客と、品物と、その店と、彼とを結びつけるか私は、殆ど、購買力の大半は、客が、その品物への知識と、輿味とをもつ事によって、成立つのだと、信じている。
 ある店は、私が、説明を求めても「さあ」と云って、返事ができないし、ある店は質問すると、面倒臭そうに「存じません」と、答える。私は、そういう店で、二度と買わない。私は、よく、高島屋の百選会とか、三越の三彩会とかへ行くが、新聞の流行記事に、今年の流行は何色で、模様は有職風の現代化などと宣伝しているが、店員は、傲然とした貴婦人(大抵おかめが多い)に、御叩頭(おじぎ)をするばかりで、私などの横は、風を切って行くし、時に、一品を買って「この色は、化学染料でなく草木染で出すといいが」とでも、批判すると、もう、返事ができない。
 謂いかえると、知識も、熱も、忠実さも無い。だから、私は、そうした会で、少々の流行品を買う外、悉く、主人が一人で、熱心に、研究している家で買う事にしている。値は、デパートより高いが、品物に対する知識を得る事が多いからである。
 私は、急激に発達するデパートの店員の悉くが、彼の専門的知識をもっていようとは思わ無いが、知識を十分与えるように努力している店主が幾人あるか、聞きたいのである。叮嚀(ていねい)とか親切とかは、既に古い。少くとも、大阪の商人、店員は、品物への知識、それによる客の知識の開発、これが商売を盛(さかん)にする現代的の傾向である――と私は信じる。

  昆布

 ある百貨店を出て、私は勿論、その街つづきを歩くのであるが――私の、小さい時から大阪名物の昆布店は増えもせず、減りもしないで健在である。
 昆布店は、もしそれが東京にあったなら、恐らくは、増えるか、減るか、したであろう。それは、大阪名物であるが故に、東京人をして、一口に、反感を抱かしめて「汚い、昆布を、しがんでやあがる」と、云わしめたが、もし、その効能を、昆布屋の新人が、宣伝するなら、チューインガムよりも販路が広いかもしれない。
 昆布の含むヨードは、乾燥してしまって、何う成っているか、私もそこまで研究しないし、第一、そんな事を研究している人も無いが、その味から云えば、生には及ばないでも、相当量に含有している事は明らかである。
 時代おくれの副菜物視され、昆布屋に新人が無いから、昔の菓子昆布とか、塩、揚げ、おぼろ位にしか製品が区別されていないが、もし他の物と一所にしたり、昆布のみで他種の物にしたり、生昆布を売出したりしたなら、その栄養価の十分と、その味とによって、もっと東京への侵入を許すであろう。
 ヨードが、含まれているから、青年男女は、性病の治療法の一つとして「昆布ガム」を愛用すべしと。これなら、親爺の前で、しゃぶっても、大丈夫である。宣伝と製法によっては「味の素」が、世界的になったように、昆布の出汁は、十分、西洋料理にも、入りうるようになるであろうし、鰹節よりも「昆布エキス」を重宝するかもしれない。
 何故、大阪人が、昆布をもっと宣伝し改良し、発達せしめないか、私が昆布屋なら、確に昆布の応用をもっと、広くしていたであろう。
 昆布茶は、少し、腹にたまるがうまい物だし(ヨードは確高血圧にも、よかったと憶えている)。塩昆布は、茶漬として淡白この上無しと、私は愛用している。別に私が、大阪に生れたからでなく、昆布は確にうまい物である。
 私の本郷の下宿時代、私の所へ逃げてきた、私の女房(女房になってから、逃げてきたのでなく、逃げてきて、いつの間にか、女房になったのである)が、此奴、昆布好きで、本郷界隈を、隈なく、昆布の為に、歩いて、藪蕎麦(やぶそば)が、天神さんの中にあること、シュークリームが、近くにある事だけを発見して戻ってきた事がある。
 今でも、昆布を求めようとすると、見当がつかない。里見□の愛人、お竜さん(これは私の愛人と少し、意味がちがう)が、いつも私が、大阪へ行くと聞いて「昆布を買ってきて」と註文する(尤も、大抵私は忘れて、またと叱られる)。彼女は、江戸っ子であるが、昆布ずきである。多分里見もそうであろう。
 食べると、かくの如く、甚だ、忘れっぽい私にさえ、註文する位に、うまい物であるのに、大阪人はこれを、新らしい商売として、東京へ乗出そうとはしない。
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