死までを語る
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著者名:直木三十五 

ある日なんぞは、蜜柑を三貫目袋に入れて、背負って、山から汽車へ駈けつけ、へとへとになった事があった。花房の車と走ったり――何うも、少し、おかしな所がある。
 その内に、そのおかしな私にも、ははあんと、思うことが出来た。女教員が独身者で――村の娘で、頬は少し赤すぎたが、一寸いい女なので、独身者の校長と、私の同僚とが、ライバルになったのである。
 両者の睨み合いが、表面化してくると共に、そのとばっちりが私の方へ、時々くるようになった。
(何故だろう)
 と、童貞であるし、十四の女を可愛がっている位だから、初めは判らなかったが、同僚が
「房江さん、君何うおもう」
 と、聞いたので、すっかり、見抜いてしまった。今から考えると、娘の父親は、転々として行先の変る校長より、同僚を婿にでもして、娘を離したくなかったものらしい、娘さんは中立で、困っていたらしかった。事件の解決を見ないで、私は辞して、東京へ出たが、山の中の平和な――もし、私が、文筆で暮らせなくなったら、ああいう所へ行けば、まだまだ日本も、のんびりしていると思うている。
(然し、二十年の間に何う変ったか?)
 急な山の中腹に立っているので、学校の真上に寺がある。とにかく、汽車を見た事がない生徒が多いし、飛行機の話をしたら
「先生□つきよる」
 と、てんで、本当にしないのだから
「先生、地獄てあると、坊さん云うてましたで」
 と、何のはずみか、生徒が云ったので
「そんなものはない」
 と、答えたら、真上の坊さんが怒って
「今度来た奴は生意気だ、代えてしまえ」
 と、校長の所へ云って来た事があった。これだけが、私の起した事件で、相当真面目に勤めていた。そして、早大へ入る為、大阪へ帰ってきたが、ここに又、一つ、恋愛事件が起った。これが、私の最初のそれかも知れない。

    二十一

 女が死んだか、生きているか――生きているとすれば正当に考えると、人妻であろうから、姓を秘して、徳子という名だけにしておく。世の中には、朝出て行く時、鏡台の前のポマードの分量を計って、帰ってきて、それが少いと
「男につけてやったのだろう」
 と、食ってかかった夫もあるというから、二十年前のいとも優しく、清らけき恋にも、何ういう誤解があるかも知れない。
 徳子は、大阪谷町の薄病院にいた。私が遊びに行くと一人の鼻の高い女――少うし高く、厚すぎる鼻の女が――足の短かいせいであろう、椅子の前へ、踏台を置いて、それへ足をかけながら、薄恕一のいう薬の名と、分量とを、処方箋にかいていた。若い女だから、何より先に、その顔が見たくなって、前へ廻ると、鼻は、横から見る程巨大な感じではなく、やや、八の字の眉、円い眼。中々いい女である。
 青春期の男女や、貴族、上流の婦人は、広く交際をしないから、すぐ手近い所の異性で済ます癖のある物であるが、私の前へ現れた女性として、私の齢に合うのは、この人だけである。
 然し、私は、何事も、貧乏人的に育ってきたから、こうした女と恋をしようなどとは、決して、考えていなかった。
 所が、ある夜薬局にいると一枚の処方箋を、徳子さんがもってきたが、その中に、散薬を包む四角い紙が入っていた。そして、その中に
「私は貴下(あなた)が好きです」
 と、書いてあった。私は、私の身体が、熱くなって、少しぼう張したように感じた。ああいう女が、女の方から、私に云いよるなんぞ、それは、何かの間違いではなかろうか、何うして返事を――何ういう文句で、何うして、それを手渡すか?
「私も、貴女が好きです」
 という紙を、然し、次に徳子さんが、処方箋をもってきた時に、巧みに、人目に見つからぬよう渡した。
 所が、この散薬紙での文通以外、話する事も、何うする事もできない。それで、私は、患者の来ぬ昼間、病院へ出かけて行って、話する事にした。然し、そうなると徳子さん程の女と、徳子さん程の女に思いつかれる程の男とだから、忽ち、評判になって、一日行って見ると、徳子さんが居ない。
 大事にならぬ内にと、神戸の家へ返さしてしまったのである。
 私は、病院を出ると、徳子さんから聞いていた武庫川の堤近く――芦屋の、徳子さんの家へ尋ねて行った。今の芦屋とはちがうから、何処の家にも、猛犬がいた。これが、がんがん吠える中を、訪ねて行ったが
「神戸の家にいなけりゃ多分、友人の宅にいるでしょう」
「友人の家は?」
「何処そこ」
 それから、神戸の家へ行くと
「わかりません」
 の一言だ。これは予期していたのだから、友人の所を訪ねると
「お別れになった方がいいでしょう。徳子さんは別れると申していますから」
「別れましょう。然し、一度、逢わしてくれませんか」
「妾の手では何うする事もできません。徳子さんのお母さんに、話しておきましょう」
 夜になった。十一月の末だ。大阪までの終電車は、とっくに出てしまって、東明までしか行かぬという。金はぎりぎり電車賃しか無い。東明まで行って、それから先は歩いて、少しでも、明日の朝までに、電車賃を節約しておこうと、歩き出したが、とても寒い。
 歩いたとて、いくら儲かる。それで、夜明けを待とうとしたが、十一月末の吹きっ曝(さら)しに、何うとも成るものではない。
 父が、東京へ行くなら、これを着ろと、古着で買ってきてくれた釣鐘マントの半分の奴を着ていたが、それをかぶって、停留所の中で寝る事にした。線路沿いに行くと、停留所があったが、これが何んと、昼間降りた芦屋の停留所である。
(運命だ)
 と思って、砕け、裂かれた身体を横にしたが、半分のマントでは、足がつつめない。足をつつんだ方がいいだろうと、下へやると、何うして、肩の寒さは、じっとしておれるものでない。
 今度は、マントを縦にして、頭から、足の先まで冠ってみたが、腰掛の板から、夜中の凍気が、しんしんと、身体を刺してくる。とうとう
(畜生、徳子、薄情者)
 と、罵りつつ、それでいて、恋しさに、眠れぬ眼を、見えぬ昼間の家の方へ向けて
(そこにいるなら、徳子、おれが、こんなになっているのを見せてやろうか)
 と、いうような呪(のろい)、愚痴。初めて、家を明けるのであるから、親爺の小言が恐ろしいが、そんな事は、丸で考えないで、悄(しょ)げ、怒り、恨み、寒がって、夜を明かした。
 そして、このままこの恋は終った。期間が短かいし、徳子さんの母親が、クリスチャンで、私の趣味に合わなかったから、諦めがよかった。
 この恋愛事件の最中に、一寸、上京した事があった。これが、最初の上京で、宿は、本郷の元の久米正雄の家へ行く、右側の第二何とか館というのであった。
 この時に、中学入学以来初めての写真をとったが、これも、差押えでなくなってしまった。黒木綿の紋付羽織に、白の長い胸紐、今では、暴力団の外に見られない書生風俗であった。男振りもよかった。

    二十二

 この時の上京は――上京してみたくて堪らないので、父へ、下宿の安い所を捜すつもりだし、南も行ったし、藤堂も行ったし、早く行って、準備しておく必要があるという口実であった。
 南も、藤堂も知らぬが、六十になっても死にそうには無いし、弟が十歳になって、これも、学校の成績はいいし
「貧乏人でも、倅の教育だけは、人に負けまへん」
 と、二十年近く同じ町内に住んでいて、古顔になった父は、倅の自慢が、何よりも好きであった。文字通り、食を割(さ)いても、学資の方へ廻してくれた。
 今春陽会の会員である洋画家藤堂杢三郎が、早くから上京して、駒込蓬莱町の下宿にいた。郁文館中学の左隣りで、これも、第二何んとか館という名である。久米氏の近くのは月二十円で、高級であるが、ここへくると月十六円で、二十五円学資をもらうと、十分にやって行けた。
 この下宿へ落ちついたが、下宿から、中学の庭を透して見える、小汚い生垣の、傾いたような家が、夏目漱石氏の旧居で「猫」は、あすこで書いたんだよ、と、藤堂が説明してくれた。
 汚い下宿であったが、その旧居が見えるのが、誇りのような気がして、そこにいた。
 そして、いかに、二十五円より安くて生活すべきかを、藤堂とも話をした。
「飯が焚けるか」
「焚ける」
「上手か」
「上手だ」
 と、いうような会話から、間借りをして、自炊をするのが安い、という事になって、私は、使命を果し、大阪へ戻った。この上京中に、徳子さんへ、手紙を出したので、確証が握られたのである。
 この上京した夜、勝手の知った本郷へ、一人で出てきた所が、今の燕楽軒の前で、書生と、職人の喧嘩があった。
「何っ」
 と、叫ぶと、職人が、諸肌(もろはだ)脱いだので、大阪の喧嘩しか知らぬ私は
(これは危険だ、東京で喧嘩するもんではない)
 と、感じて、以後、手出しした事はない。年に一度位女房へ出すが、これは危険でない。
 大阪では、子供時分から、よく喧嘩をするし、東横堀の木材の蔭に「十銭」と称する立淫売が出没するので、竹をもって、木材の間を掻き廻しに行ったり、松の亭の下足をとる時、うしろから、馬鹿力で押す奴があるので、振向きざま、撲(なぐ)ったり――相当に暴れたが、諸肌脱ぐ、勢を見ると、善良な、強がりだけの大阪者は、一度に、おじけをふるってしまった。
 この上京から、大阪へ戻ると、いつの間にか、徳子一件を、雪ちゃんが知っていて、大いにすねた。もう、十四になっていたから、嫉妬に似た感情をもっていたのであろう。
 徳子と離れ、雪子とおもしろくなくなり、一人ぼっちになった私を、じっと、覗(うかが)っていた女が、ここに一人ある。
 私は二十一、女は二十七。齢から見ると、所謂若い燕に当るが、女は、京町堀小町と唄われ、評判の美人である。
 何故二十七歳に成るまで婚期を外したかというと、当時、有名な「大寺事件」というものがあった。江戸堀随一の旧家、元の十人両替の中の一軒、大寺家に起った謀殺事件である。これと、一寸、女の家とが関係があったので、婚期を失したし、又、意中の人として、木谷蓬吟氏を思うていて、ままにならなかったし、その為、こういう齢になったのである。この女が、上京して、私の童貞を破り、私は女の家へ乱入して、立廻りを演じるという恋あり、涙あり、武勇ありという話になるが、明月に。

    二十三

 雑司ヶ谷、鬼子母神の境内を抜けると、もう一つ寺がある。その側に、植木屋があったが、ここに、仏子須磨子の姉の子が、自炊して、早大へ通っていた。ここへ、一日、須磨子が現れた。井上市次郎というその甥さん――だが六つ齢下の甥さんは
「何んや、喧嘩したんか」
 と、大きい眼を、もっと、大きくして聞いた。
「はあ、もう、大阪へ帰れへんつもり」
 須磨子は、兄の玄竜という人と、余り仲がよくなかった。大学生位までは、美人の妹というものをもっていると、いろいろ利益や、興味が、多いものであるが、生活などが、うまく行かないのに、二十七にもなる妹をもっていると、何んなにそれが、美しくとも、古い女房の、美しさと同じで、少しも、よくは感じないものである。
「植村は」
「田端にいよる」
 私は、田端の、小杉未醒氏の所の近く、泥川沿いの戸叶という家の離れに、藤堂と二人で自炊していた。
 藤堂は太平洋画会へ通っていたし、私は早大文科の予科にいたのである。室生犀星氏が、この藤堂と友人で、びっこの詩人と二人、よく、室生氏を訪問に行っていたらしい。
 この戸叶方へ、須磨子が来て、当分、東京に居るつもりとか、少しはお金がある、とか(これは、二十円の債券を何枚かもっていたのである。勿論、後には、生活費になった)。だが、近頃の時代とちがって、婦人の職業と云えば交換手か、看護婦しかない頃であるから
「置いてもろていい?」
 と、いうより外に、家出娘の生活法はない訳である。
「ええ、よろしい」
 とにかく、対手は、六つ齢上の二十七歳、こちらは、童貞の二十一歳であるから、礼を正しく、言葉を丁寧に
「しかし、寝るところが、ここよりほかに、ありませんから」
「そりゃええわ、一緒に寝るわ。藤堂さんと三人でしょう」
「はい」
 皆、中学同期の出身であるから、仲がよかった。私は身体が、ふわふわとなったように感じたが、それは、こんな美しい人が、自分のような者を手頼(たよ)って来てくれた、という事に対しての感謝で、劣情などの如きは神様に食わしてしまえと
「布団を、じゃ、借りてきて」
「ええ」
 素直に答えたが、この女は私を獲(え)ようとして、大阪から出てきたのである。しかし、何事もなかった。翌日
「市ちゃんとこへ行きましょうか」
「うむ」
 そして、二人は、植木屋の離れで、市ちゃんと三人で寝た。
 その暁、私は、無残にも、取り返しのつかぬ事を、されてしまったのである。

    二十四

「荷物をもってくるから」
 と、云って、須磨子は、大阪へ帰ってしまった。私は汚された身を、袴でつつんで、おもしろくない講義を聞きに行っていたが、その内
「家との事が、中々面倒で――あんた、いつ帰る」
 と、いう手紙がきた。そして、この手紙の終りに、何んと「旦那様」と、書いてあった。
 うれしいような、馬鹿にされたような――こんな言葉は車屋と、乞食の使う言葉で、使われる奴は、五十歳以上というように感じていた私は、その手紙を披(ひろ)げて、にやにや笑いながら
(矢張り、征服したのかな)
 とも、感じた。暑中休暇がすぐに来た。大阪へ帰ると
「家から出してくれぬ」
 と、ノートの端に走り書をして、使の者に届けさせてきた。
「奥へ入れたっ切りで、兄が見張っている」
 二十一の男を、大阪から、いい齢をして、追っかけて行ったのだから、兄玄竜の怒るのも尤もである。だが、私の怒ったのも、又尤もであった。
 雨もよいの空、私は、怒りのかたまり見(み)たいになって、須磨子の家の門を押した。ぎぎいと、重い重りが鳴り、鎖ががらがらと響いた中へ入ると、暗い。のぞくと、誰も居ない。
「お須磨さん」
 と庫裡へ入って、声をかけると、市次郎の母が出てきて
「何んです」
「お須磨さんは?」
 と、聞いた時、兄玄竜が
「来てもろたらいかん」
 と、奥から出てきて、廊下へ立ったままで云った。
「何」
 叫ぶが早いか、大衆作家になる私だ。えいっ、廊下へ飛上った天狗飛切りの術。
「待ってたわいな」
 と、奥から出てくる須磨、それを止めようとする姉、うろうろしている竺という爺さんに、女中。
「行こう」
 と、須磨へ云った途端、玄竜が
「人の家へ何や」
 と、怒鳴ったから、それ、大衆作家の青年時代
「何」
 左手で、ネクタイを掴んで、ぐっと、壁へ押しつけた。
 玄竜、顔をしかめて
「巡査呼んでこい」
 今でも、おかしくて、笑うが、私も逆上していた。
「何んだ」
 二三度、力任せに、壁へ押しつけて、右手は、まさかの時の用意。大衆作家だ、その時分から心構えがある。
「何しなはる」
 と、叫ぶ姉。
「宗ちゃん、そんな事したら」
 と、止めにくる須磨子。
「出ろ」
 旦那様だ。
「荷物が――」
「荷物なんか何んだ。こんな家にいたいのか」
 私が降りると共に、須磨も降りた。出ようとするとばらばら――雨だ。ちゃんと、ことごとく、大衆文学の段どりに出来ている。竺さんが
「雨や」
 と、云って、蝙蝠(こうもり)傘を出してくれた。二人は、行く所がないので、友人の南惣平の所へ泊った。

    二十五

 親爺というものは、その脛(すね)を囓(かじ)られていても感じないし
「東京へ早く行って、勉強したい」
 と、□をついても
「そうか、しっかりやってや」
 と、すぐ、東京行を許してくれた。私は、女を連れたような、連れられたような形で、東京へ来た。私は、当時一ヶ月の学資として、二十五円もらっていた。
 女と二人になってこれで、食えるか、食えぬか? それで、いくらかでも、節約をしようというので、私の考えた事は
(学校は、月謝さえ払えば、商科にいて、文科の講義に出ていたっていいんだろう)
 という理論である。それで、月謝の一番安い科をさがしたが、皆一ヶ月四円五十銭で、高等師範部だけが、四円である。
(五十銭でも安い方がいい)
 それで、高師部へ入って、生活費五十銭を儲ける事にした。ある日、高師部で何を教えるのだろうと、教室にいると、その時間は内ヶ崎作三郎氏の英語の時間で、田舎の開業医みたいな肥った氏が入ってきて、傲然として、一同を睨み返した。後年、政治家に成るような人だから、高師志望の学生など、高をくくっていたのだろう。私は、一番前の列にいたが
(何んて、生意気な教師だろう)
 と反感をもって、こっちも、下から睨みつけていると
「一体、諸君は、英語を何の為に学ぶのかね」
 と、喇叭(らっぱ)みたいな声を出して、第一日、最初の口を切った。高師部の人々だから、皆おとなしい。黙って、答えない。すると
「おい、君」
 真下の僕を、指さした。僕は、かっとなった。
「愚問ですね」
 と、答えると共に、脂切って、肥った面がむかむかと、憎くなってきた。正面から、作三郎を睨みつけて、立上ると
「吾々は、小学生じゃありません。何のために学ぶかなどと、そんな質問をしなくてはならぬような幼稚な生徒に、何のために、教えるんですか」
 と、やった。作三郎、さっと、真赤になると
「生意気だ」
 と、云った。だが、さっきの喇叭の音のような明朗さがなく、咽喉に何かが引っかかっているような声であった。私は坐った。
「こういう生意気な生徒がいるから、質問したんだ」
 私は、立って、教室を出てしまった。それ以来、内ヶ崎先生には逢わぬが、あの時の、人を見下げた態度というものは、いろいろの教師を知っているが、不快千万なものであった。

    二十六

 月末になってみると、何うも、五十銭の節約だけではやって行けそうにない。それで
(月謝を払わない事にしたら)
 と考えた。月額四円の節約、これは大きい。
(何うも、あんな先生のあんな講義で、四円五十銭もとるのは、高すぎる)
 島村抱月先生は、何故か休講、坪内先生も二回聞いたきり、相馬御風氏が、文学を講じる外、片上先生、吉江先生も英語を教える時間の方が多い。
(英語なんぞ習いに来たんじゃあねえ、もっと、月々雑誌にかいてるような事を、聞きにきているんだ。それを聞かさないんなら、月謝納めないぞ)
 いろいろと理由をつけてみたが、理由よりも、何よりも納める事が出来ぬ状態になってしまったから
(見つかって学生証見せろと云われりゃ、其時の事だ)
 と、度胸をきめてしまった。
 一二ヶ月は、びくびくしていたが、試験を受ける必要はないし――第一に、もとから、そう勤勉に講義に出てはいないのだから
(一学期分と、四円払っているんだから、それで負けておいていいだろう)
 学校へは、友人と話しに行くだけで、ノートなどは
(ノートをとると、盗講になるから、とらないですよ)
 というような理由をつけて、一冊もとらなかった。この私のクラスは、谷崎、広津、三上、宇野などの二年下で、里芋に拡声器をつけたような木村毅(き)。笑画の小間物屋番頭忠八みたいな宮島新三郎、その外、田中純、西条八十、村山至大、青野季吉、保高徳蔵、細田源吉、細田民樹。
 このクラスだけで、評論、プロ文学、詩、童話、純文学、大衆文学と、田舎のデパート位に揃っている。
 しかし、これは、ずっと後の話で、在学中に、一番花々しかったものは、立石美和の一派で、角帯に、時として前掛けをしめたりしていたが、細田源吉が、苑雪次郎と称して、このグループの雑誌「美の廃墟」に小説をかいていた。沢田正二郎が、わざわざ頸筋に、白粉を残して、得意そうに校内を歩いていたのもこの頃で、頽廃的なものが、主流となっていた。宮戸座に、源之助、工左衛門などを讃美しに行ったのも、当時の流行の一つであった。
「いやな奴だな」
「うん」
 青野と、私とは、時々こう云いはっていたが、彼等には、江戸っ子が多く、喋るのが巧みで、どもりの青野や、無口の私は、羨んでいるより外に仕方がなかった。
 二人の細田が、娘と、その母とに、二人とも関係したとか、せぬとかいう噂が立ったりした。民樹の「泥濘の道」というこの事をかいたという小説が「早稲田文学」に発表されたが、与謝野晶子が
「こんな事、本当にあるんでしょうか」
 と、その四角関係に、呆れた事があった。自然主義末期の影響で、こうした生活を、深刻とか、何んとか考えていたのであろう。

    二十七

 貧乏人には、貧乏人特有の痩我慢みたいなものがある。人からあいつ貧乏人だと云われたくない、というような、例えば、一円の値の物をやると、矢張り一円の品を返してくると云ったような――一種のひがみである。
 私の在学中、私のクラスメートは、恐らく、私の貧乏を知らなかったであろう。それは、その後五六年もして私が原稿をかき出して
「おれは、実は貧乏だ」
 と、云っても、信用しないばかりか
「直木の奴、□吐いてやがる」
 と云ったりした人のあるので、明らかであるが、これは、私の家が、古着屋であると云う事を知らない為であったのだろう。家の商売が、商売だし、父が
(せめて、着物位は人並にしてやらんと)
 と、云ってくれると、私も若い燕であるし、相当にいい着物を着ていた。
 恐らく、クラスの中で、私位、筋の通った着物を着ていたのは、少かったであろう。だから貧乏に見えぬのは当り前である。
 それに、須磨子が、美人で、相当の家の女だから、ちゃんとした姿をしているし、何処から見ても、生活の為に、授業料が納められないとは見えなかったにちがいない。何んしろ、この須磨子は、ハガキ一枚買って来いというと、必ず十枚買ってくる。
「一枚だよ」
「ハガキ一枚なんて買えますか」
 これが、その内、高利貸しの前で、煙草を喫いながら
「お金なんか、廻り持よ」
 と、云うようになるのだから、話もいろいろとおもしろいものがある。
 ハガキ一枚が恥かしくて買えぬ位の女だから、友人がくると、ビール、酒、肴(さかな)、どんどんもてなす。いよいよもって、貧乏人ではない。金が無くなると、私に内証で例の債券を処分していたらしい。私は、生活上に経験があるから
(二十五円で、よくやれるな)
 と、考えていたが、月々十円位ずつは、債券を食っていたのであろう。
 この時分、私の住んでいた家は、今もあるが、私のいた時分には、隣りの大家、村田という大工さんと、二軒きりであった。
 場所は、早大グラウンドの後方で、家賃四円八十銭。八、六、二の三間であった。

    二十八

 何うも、死にそうにない――これは、容易ならぬ事である。
「死までを語る」と題した以上、その時まで書かなくてはならぬが、まだ十年も生きられるとしたなら、私は一体何を書き、編輯者は何うしていいか?
 編輯者は、私がもう死ぬだろうから、書かせてやれ、と考えて、書かせた訳であるか――人を呪うと臍(へそ)二つで、今度は、私が
「こんな雑誌、早くつぶれてしまえ」
 それなら、書かなくていい。
 然し、先月分の本稿を「オール讀物号」の雑文と共に、夜の七時に書上げた時には、三十八度九分の発熱であった。催促にきていた本社の××女史に
「御覧なさい」
 と、その検温器を見せた。××女史は
「はあ、三十八度――九分ございます」
 と、平然としていたが、編輯者なんぞという奴は、命がけで書いていても、この位、面の皮の厚いもので、人を、じりじり殺していながら
「はあ」
 と、すましているのだから――女房になんぞ決してするものではない。
 八年六月二十八日の暑い日、私は、朝から倒れたまま、とうとう起上れなかった。その時には
(この具合だと、よく保って二三年か)
 と、覚悟した。時々、注射するだけで、殆ど養生をしていない。事実出来ない。
「何うして、養生をしない」
 と、誰でも聞いて下さる。
「金がない」
「戯談(じょうだん)を」
 馬鹿野郎め、あるか、無いか、一つ、裸になるからよく見てみろ。

    二十九

 昭和六年の、税金査定が、一万二千五百円である(この額が不当なので、納めなかったら、問題になった)。七年のが、二万千五百円。これも不当だから、審査を願って、これは、一万六千百七円、という額になったが、これから、私の実収入を推察するといい、月二千円内外と踏んでいいであろう。
 月収二千円。女房(今はない)子が二人、妾(今はない)、家二軒もっていたとて、二千円なら、千五百円ずつたまるだろう――と、誰でも、こう見ているらしい。
 だが、だ。昭和五年の税金を見るがいい。三千七百円(一万を落としたのではない。ただの三千七百円が、税額である)。その前年は無税。
 私に今日、多少の名声がありとすれば、それは「南国太平記」からで、それまでは、貧乏以上の貧乏であった。昭和六年に「南国」を書いてから、ようよう月収が、千円以上になりかけたのである。これが、わからないと、私の貧乏はわからない。
 久米、菊池、大佛、吉川なんぞという人々は、十年前から、一流の名声と、収入とをもっていた人であるが、私はようよう丸三年来である。
 家族は、それでも同じで、妻、妾、子二人、家二軒。だから、いつも、ぴいぴいであった。そして「南国」が終る時分から、肺病にかかったから
「おれが入院すりゃ、明日から家族は食えなくなる。小さい家でも建てて、気長に、養生でもせぬと」
 それで、七年の夏から、金沢に、四十七坪の、ほんの小さい家――書斎、次の間、茶の間、子供、女中の五間――何うだ、玄関もないし、客間も応接間もない、ほんの家族が、それぞれの部屋をもってるというだけの家を建てかけた。
 所が、よく考えてみると、この話に出てくる父が、大阪で健在である。しかし、もういつ引取らなくてはならぬかも知れぬから、父の部屋を――と考えると、それが無い。それで、別に、私の書斎を、ドライコンストラクション式で、建てることにした。
 所が、七年度の収入だから、月千二三百円である。前年まで、ようよう食えるか、食えぬかであったのだから、それだけの金が、全く一文も残らない。
 妾宅、即ち、木挽町へ二百円(家賃百円、文藝春秋の倶楽部で、その頃は私が一切経費を出していた)、己の所が三百円(家賃は七十五円)、私の小遣、二三百円(交際費、貸金、旅費等々)として、建築費に廻るのが、五百円位の予算になった。
 四十七坪、坪百円だから、一年足らずで建つ、と思ったのが、そもそも大まちがいの因で、この建築費の外に
スチールサッシュ        一八〇〇円
山の崩し賃            七〇〇円
昼間電気設備           八〇〇円
 昼間電気位は来ていると私は思っていた。亀楽煎餅の別荘とか、佐分利公使の家とかがあるのだから、そんな事は考えていなかったら、こういうブルジョアめ、昼間電気無しでいたのである。私が、杉田から引っ張って来たら
「私の所へも、私の所へも」
 こ――これでないと、金はたまらない。
急設電話            約八〇〇円
 長者町局特別区域外で一町十八円ずつとられて、総額以上。
配水、排水設備          七〇〇円?
温房設備             ?
  目下設備中
 即ち、五千円の超過である。庭も、垣も、門もなくて、これである。月に割って、五百円――この外、小さいいろいろの物があるし、二三改めさせたから、四千八百円より高くなっているし、ざっと、一万二三千円であろう。
 五百円ずつ余すつもりの所が、千円になっては、眼を剥く他はない。だから、大工さんに
「急がない、気長にやってくれ」
 七年七月から建てかけて、八年の八月、何うにか住めるようになり、移ったのが、十一月の五日。
 この家だけ貯金できた訳であるが、金が残るか、残らぬか、一寸、計算して見給え。八年度になって、月収二千円になると女房と別れなくてはならぬようになり、妾は出て行くし、収入は多くなった代りに、出る金も多くなった。
 八月に出来て、十一月まで入れなかったのも、金の無い為である。諸道具一式女房にやったので、灰や、雑巾からして買わなくてはならぬ。一通り、道具を揃えるのに、二千円程かかっているから、何処で、金がたまるか? だから
「金は一文もないよ。入院したら、明日から食えない」
 は、少しの偽りも無い言葉で、何処かの銀行で、僕の貯金でもあったら、そのかかりの銀行員でもいい、発見した人に進呈する。

    三十

 その小さな新居で、今、これを書いているのであるが、午前五時十六分前、徹夜である。これで、肺病が治るであろうか。
 暖房装置がまだ出来て無いので、炭火である。そろそろ空腹であるが、女中二人と、娘一人っきり(読売新聞の結婚談は大□である)、神経痛で、腰が痛むから、尿瓶(しびん)を置いて、用を足す位で、勝手へ行って、パンを焼く気にもなれない。
 明日の起床、午後二時、太陽は、少し右へ廻っているから、折角、縁側を広くして、日光浴でもして、と考えていたのも、全然駄目で、朝は、腰が曲らぬから、がさがさと赤ん坊のように這いながら、この縁側で、ようよう新聞を読む位。
 東京へ出る日には、アトファンを、寝る前に飲んで、朝痛みの少いようにしておいて、あんよは御上手程度に歩く。
 しかし、こんな無茶をしていながら、痰(たん)が少くなり発熱も、低くなり、咳(せき)も少くなった。六月頃まで、横浜、東京間で、二十回位、痰の出たのが、この頃は、二三回である。
 だから、いよいよ又、元の徹夜生活へ戻りかけているのであるが、これが何処まで押し通せるか?
 私は、私の気力だけで癒すつもりをしているが、もし癒ったなら、闘病法を詳しくかくつもりである。無茶に似て無茶に非ず、私とて、今死にたくはない。

    三十一

 そこで、本文へ戻るが、私は、年増に惚れられる位であるから、何処か、いい所がなくてはならぬ筈だと、自分では考えていた(これは逆に、年増しか対手にしないのだから、取り柄の無い男だとも云える。この判断は、自分でよくわからない)。その、いい所は何処であったであろうか、という話であるが――早大グラウンド裏へ移転して、四円八十銭の家に住んだ時、裏手の家(四軒長屋)の妻君が、裏口へ挨拶しにきて
「同国人が入(い)らしたので、大変心強くおもいますわ」
 と、云った。私の女は、腹をかかえて、飛んで上ってきて
「貴下、支那人やわ」
 と、笑いこけた。
「何が支那人だ」
「裏手は支那人やろう。奥さんは、日本人やけど」
「うん」
「その奥さんが、同国人が来たので」
 僕は、苦笑しながら、さては、支那人のように、のんびりしている所があるのかな、と思って
「似た所があるかい」
 と、聞くと
「そう聞くと、そうかも知れん」
 と、私の顔を正面から見たが、私は
(何言ってやがる、ちゃんちゃん嬶(かかあ)め)
 と、思って対手にしなかった。所が、これは後日であるが、家賃も払えなくなって、間借りした時、若松町の湯屋へよく行った。
 電車通り、大久保の方へ曲ろうとする所の右側の銭湯である。一日、人の居ない昼間――失業者には、風呂に限ると、ゆっくり、天井を眺めていると、三助が出てきて
「お国は、この頃、埃(ほこり)で大変でしょうな」
 と、云った。いつこの三助、私の大阪生れを知ってるのだろうと
「東京と同じだよ」
 と、答えると
「私は、これで、戦争に行って、約半ヶ年あっちにおりましたよ」
 あれ、又、支那人かと、これは二度目だけに、私も、自分の顔の支那出来を、肯定しなくてはならんようになった。だが
「わかるかね」
 と、いうと
「随分、あんた日本語がうまいが、矢張り、わかりますよ」
 私は暫く、これから、その湯屋へ行かなかった。戻ってきて、この話をすると
「矢張り、あるのかしら」
 と、女は答えたが、生活に打ちのめされていた頃とて、前のようにおもしろくはなかった。声高く笑えないで、微かに不快ささえあった。
 これだけならいいが、大震災の時に、私の情婦を、巣鴨へ訪ねて行って、帰り途、護国寺の前へくると、自警団につかまってしまった。
「お前、朝鮮人だろう」
 と、一人が云うが早いか、ぐるぐると取り巻かれてしまった。
「戯談(じょうだん)云っちゃあ困る」
「いや、朝鮮人だ」
「何んな面だ」
 とか
「ちがうちがう、日本人だ」
 とか、いろいろ周囲で騒いで、無事に納まったが、これで見ると、朝鮮式の所も、多少はあるらしい。
 つまり、いくらかのんびりとしている顔で、そこへ女が惚れるのにちがいない。鏡で、自分で見ると、何処にも、そんな所はないが、人が見ると、いろいろに見えるものと見える。

    三十二

 学校の思い出は殆ど無い。
 中学以来、学校は下らないものだと考えていたのが、確実になっただけである。
 親でもなく、叔父でもなく、主人でもなく、先輩でもなく、先生という一つの尊敬と、なつかしさとをもった人格は、確かに、立派な存在であるが、私は、故郷をもたぬように、そうしたなつかしい先生をもたない。中学の木村寛慈先生が、ややそれに近いだけで、時々、先生はいい仕事だとおもうが、そういう人に逢った事はない。
 小中学で、本当に、智慧なり、人格なりに、影響を与えてもらった人だったろう。恐らく、親よりもなつかしいと思われるが、そうした教育者は少いらしい。
 大阪という土地は、故郷という気のしない所であるし、小中大学に、学校のなつかしさの無い人生は、相当に淋しいものである。
 私のように、その精力以上に、働いている者は、時として、故郷というような所で、深い安息を求めたい気がする。
 私は、新居へ移ると共に、私の部屋へ引っ込んで、自分で炊事できるだけの道具――土釜、土鍋、七輪の類をととのえた。隠居の志が可成り、深い所に潜んでいるらしい。
 何か一つ、ショックを受けたら、私のような人間――負けずぎらいで無理してきた人間は、一度に敗けて、田舎へ逃げるかもしれぬ。
 こういう事が無くても、一人で飯を焚き、一人で暮らしている生活をしたい望をもっている。だが、私の係累(けいるい)は、ことごとく、私より若く、強い。矢張り、私は働きづめに死ぬのだろう。

    三十三

 私が早大を卒業――というのはおかしいが、クラスメートが卒業したので、私も遊びに行けなくなった時に、もう小説を書いて、売出していたのが、谷崎精二、広津和郎、舟木重信氏らで、国枝史郎が「レモンの花の咲く丘へ」とか「胡弓の弦の咽び泣き」とかという題の作を出したのもその頃である。
 同級生の中では、同じ姓が、競争させるのであろう。細田民樹と、源吉とが「早稲田文学」へ創作を発表した。卒業の前から、保高徳蔵は「読売新聞」に新設された婦人欄の記者として、試験をパスして、就職するし、鷲尾浩が、レートの広告部へ入って、月給四十円。
「うまい事しやがったな」
 と、吾々は、その月給の高を羨んだ。田中純に、宮島新三郎などは、相馬御風氏から仕事をもらっているらしいし、西条八十は、株式相場で生活していると聞くし、それぞれ生活の心配が、何うにかなくなって行く内に、いつまでも職の無いのが、青野季吉と、私とである。二人とも、女房がある。私は、そんなに喧嘩をしないが、青野は、よく夫婦喧嘩をして
「ま、ま、又やってきた」
 と、どもりながら、半日位遊んで行った。在学中、私は早稲田美術研究会の幹事をしていたが、その縁で紀淑雄先生から、日本の美術に関した本を全部書上げてくれないか、出版部から発行するから、という話があった。私は、すぐ金にならぬが、何もする事が無いし、仕上げたなら金になるだろうと、父に
「こういう仕事があるから、それの終るまで、毎月今まで通りに送金してもらいたい。就職口は、そう急にないし、大阪へ帰ってはいけないから、是非たのむ」
 と、云ってやった。期間は三ヶ月と切って、それ以上はいらぬ、とつけ加えた。坂崎坦(しずか)氏、森口多里氏など、この研究会の幹事であったが――それから、三ヶ月、毎日、上野の図書館へ通った。今何うか知らぬが、いつも満員つづきで、待たされるのに、いらいらしながら、古来からの東洋美術に関する書籍をことごとく調べて、書上げた。所が書上げると同時に
「出版部の都合で中止になった」
 と、云われてしまった。私は、大してこういう事に憤慨したり、怨んだりする性質ではないが、失望はした。そして、こんな事は、一切女房に打明けない性でもあるから、仕方が無いと、一人であきらめて、又、青野と夫婦喧嘩の話をして日を送っていた。

    三十四

 その内に、田中純が、一つ仕事をもってきてくれた。それは、当時「アカギ叢書」という十銭で、何んな事でもその梗概だけはわかるという本が出ていたが、それが売れるので、それの模倣の十銭本が、いくつも出たのである。私のは、その中の一つで、トルストイの「戦争と平和」を、二百枚にちぢめて書いてくれ、原稿料は四十円。名は、相馬御風氏のを借りるという仕事である。
「翻訳は出てないだろう」
 と、聞くと
「無いねえ」
 大変な本である。読むだけで、十日や、二十日はかかる。私は四十円の稿料が、灼けつくように欲しいし、見ただけでうんざりする大部の書物を考えると、暗くなってくるし、大抵の事は即答する私であるが、一寸考えこんだ。しかし
「やろう」
 と、云わ無い訳には行かなかった。それから並製本の「戦争と平和」を買ってきて、読みかけたが、三四十頁も読んで、ようよう梗概が二三行しか書けない。私は、幾度か投げようかと思ったが、四十円あると、夫婦で二ヶ月暮らせるし、女房は妊娠しているし、三四日、半分怒りながら書いて行った。三分の一仕上げた頃から楽になって、少しずつ進みかけたが、半分を終った頃、小川町の国民文庫刊行会という名著を大部な予約で出版する家から、「戦争と平和」の上巻だけが出た。私は今までの経験で、この時位がっかりした事は無かった。金高は四十円だが、一枚二十銭の稿料である。そして――まあ、何んなものか、諸君はやってみて、その困難さを知るがいい。
 上巻は出たが、下巻は出ぬ。下巻が出るまで待つ訳に行かぬから又、読んでは書いたが、下巻へかかって暫くすると勇気を恢復(かいふく)して、とうとう二百枚にちぢめたが、この本はもう何処にもあるまい。発行所は、今の精文堂であったらしい。四十円もらった時には、然し、うれしくって、嘗て一度も、先生の家へ、物などもって行った事の無い私が、女房に鯉をもってやらせた。そして七円で、長火鉢を買った。初めて稿料をもらった記念にである。この長火鉢は、震災でなくなってしまった。

    三十五

 所で、ここに、一つ秘密を書かなくてはならぬが、ある日、私が戻ってくると、女房と、友人の某とが、炬燵の中に入っているのである。勿論、坐っていたが、炬燵へ入るには大抵、差向いを原則とするのに、友人と女房とは、三方を空けておいて、一方に二人が固まって、くっついているのである。私は、見るべからざる物を見たような感じで逃げ出そうと思ったが、小さい家で、格子も、障子も開けて見てしまったのだから、何うする訳にも行かない。二人は、一寸赤くなって
「やあ」
 と、友人は云いつつ、少し離れるし、それをしおに、女房が立上ったが――ただそれっきりの事で、何ういうものか、私には嫉妬とか、不快とかの念が少しも湧かなかった。二人とも信用しているし、友人の云う事には、決して反対しない私の性として、そのまま二十年近くをそれは問題にしていなかった。所が、この間、ある話の序(ついで)に、ふっと、この事を思出して
「何うかねえ」
 と、久米正雄君に云った。湯河原の温泉に於てである。
「ふむ」
 久米君は、微笑して
「里見君は、あると云っていたが」
「何うも、そうらしいようでもあるが」
 話は、これだけであるが、これに連関して、それから、二十年の後に、大事件が起るのである。
 この事は、秘しておいた方がいいかも知れぬが、何うも秘密をもつのが嫌いなので、書いておく。

    三十六

 四十円という金と、二ヶ月という時日とはすぐ消えてしまった。父の送金は、とっくにないし、女房の臨月は近づくし、青野と二人で
「困ったなあ」
 と、云って、毎日、新聞の就職欄ばかりみていた。
「よしなさいよ」
 と、女房に、本気に叱られた事さえあった。
「何うにか成るわ、くよくよしなさんな、こっちが悲しいわ」
 と、女房は取上げた新聞をもったまま、快活に云った。その内、一日、保高が
「読売新聞に一つ口があるが」
 と、云ってきた。そして
「前田晁(あきら)氏に逢うて、詳しい話をしてみないか」
 と、晁氏の住所を教えてくれた。それで――何処であったか、郊外の晁氏の所へ行くと、二三、簡単な話があって、帰されてしまった。翌日、保高がきて
「君、いけないよ。応接の態度が、記者に適さんのだ、君、格子戸を開けて、首を突込んで、前田さんはと云っただろう」
 私は、この時、我慢のならぬ不快さを感じた。その時出てきて、私が首を突込んだのを見たのは、晁氏でなかった。
(晁氏ならとにかく、嬶や女中が何んだ)
 と、怒ったのである。
「それがいけないんだね」
「そうかなあ」
 この座に、青野季吉が来ていて
「僕を紹介してくれないか」
 と云った。青野が、読売へ入ったのは、この時である。そして、とうとう私は、一人だけ取残されてしまった。保高が、気の毒がって
「博文館へ話するから、談話筆記でもとらないか」
 と、云ってくれた。それで、かかりの人に逢うと
「鎌田栄吉さんを訪問してきてくれませんか」
 と、いうのである。
「そして、五枚位に書いてもらいたいんだが」
 私は、すぐ鎌田氏を、慶応義塾に訪うた。
「明日午後一時に来なさい」
 というのである。その日に行くと、氏は、部屋から出てきて、私の待っている廊下――庭に面した廊下へ立ったまま、青年に対する訓戒の言葉を話された。私が、それを筆記し終ると
「見せてもらいたい」
 と仰(おっ)しゃった。私はその日、戻るとすぐ清書して送ったが、それっきりである。私は、筆記もとれないらしいのである。その内に、子が出来た。「木の実」という名をつけた。産婆と、隣りの婆さんとに
「家にいてはいけません」
 と、云われて、早稲田のグラウンドの周囲を二時間の余も、歩いていたのを憶えている。戻って来ると
「二人とも達者だよ」
 と、婆さんは、云ってくれたが、私は
(何うして生活すべきか)
 が、第一であった。父にとっては、初孫であるし、いい時に生れやがったと、すぐに、父に無心さした。着物に金を少し送ってきた。ほっと一息ついたが、それはほんの一息である。本をことごとく売り払い、着物のいい物を、ことごとく入質してしまった。

    三十七

「うむ、何うも」
 と、いうより外に、友人が来ても、話をする興味が無い。第一に、それらの友人は、ことごとく就職してしまって、そうは遊びに来ない。本は売ってしまって読むものはないし、入質したものを、古着屋へ売って、その差額を幾度か得た。これは、古着屋の常だから、こういう方法を知っているのである。友人に、金を貸せということは絶対に云えないし、貸す余裕のある者もいないし
「魚なんかいいよ、お前は、乳が出るんだから」
 と、云うようなことになると、強気の女房も、少しずつ悄気(しょげ)出した。ある日、求人欄を見ていると、当時、日比谷公園の、今の――美松の前辺に、いんちき横町、山かん横町というのがあったが、そこへ入る所に、木造洋館の「実業の世界社」があった。そこで、記者を募集しているのである。私は、女房に黙って、家を出た。懐中に、十二三銭もあったから、往復切符を買おうか、片道にしようか、この一銭の差で、可成り考えて
(一銭損でも、職にありつければいい。もし駄目だったら復券は食事にならんから)
 と、駄目なら、帰りは歩くつもりで、出かけて行った。取次が、二階へ上れ、と云うので、二階へ行って、云われた扉を開けると、右側の机に、くりくり坊主の男がいて、こっちを向くと
「もうきまった」
 と、云って、又机に向ってしまった。これが安成貞雄氏であった。私は、暫く呼吸もしないでいたが、それから、お濠の端を、早稲田まで歩いて帰ってきた。このことは、未だに女房は知らないであろう。私は、こういうこととか、困ったとか、何うしようかと云うようなことは、一切女房に云わないし、女房も又
「何うしましょう」
 というような種類の言葉は、決して口にしなかった。これは、貧乏に処する一つの方法である。私の家が古着屋故、着物を送らすのは、金を送らすよりも便利であったから、時々口実を設けては送らせたが、それは、高の知れたものであるし、その着物を送れと書いた手紙に貼る三銭切手が買えないで、幾日も床の間の上に置いてあるようになった。米屋や、八百屋に借金が出来て行った。隣りの大家に見つからぬようにしなくてはならぬようになってきた。

    三十八

 保高が
「君の妻君、文章が書けるかね」
 と云ってきてくれた。
「文章って、手紙位なら」
「実は、婦人記者が一人いるが、勤めるか。木の実ちゃんがあって、駄目かも知れんが、困っているなら」
 女房が
「やります、保高さん、何んな事でも」
「しかし子供が」
「子供は、僕が育てる」
「そうかね。月給は十八円で、電車のパスが二冊出るんだ。そして別に手当が五円だけれど――」
「結構だわ、保高さん、頼んで頂戴」
 女房は、必死であった。
(見っともない、騒ぐな)
 と、私は一寸、睨みつけたが、うまく行ってくれと、心の中では祈っていた。この時の読売婦人欄の主幹が、前記の前田晁氏、上司小剣氏も在社された頃である。
「青野も、保高もいるし、やってみろ。一ヶ月でもいいや、十八円ありゃ助かるからな」
「そう、じや、社へ明日来てくれますか」
「伺います」
 今、大朝(だいちょう)にいる恩田和子女史も、この時の記者であった。五月頃であったであろうか、女房は婦人記者として、読売新聞へ勤める事になったが、亭主の私は、何うであろう。生れて一年足らずの長女のお守である。私が、あぐらをかいて、左脚の所を枕に頭をのせ、脚を私の右脚の上へ置くと、子供は、あぐらの中へ、すっぽりと入ってしまう。これを、上へ下へ動かすと、子供は快く寝るが、男の子守はやってみるといい。女は何(ど)うかと思うが、揺籠(ゆりかご)よりは柔かく、子供にはいい籠である。そして、ゆり上げ、ゆり下げつつ、両手で、新聞を見、本をよみ、物をかくのであるが、女なら毛糸や、刺繍位はやれるであろう。ミルクの調合も上手であるし、時々大家の婆さんが見にきて
「泣かない子ね」
 と云ったが、私の子守は天才的に上手であった。それから十月の三十日まで、子供には風邪一つ引かさなかった。真夏には、湯屋へ行って、三時間位、親子二人裸で、この揺籠をゆりつつ、暮らしていた記憶がある。
 その内、子供が、母親の乳と、顔とを覚えるようになった。当時、江戸川が電車の終点であったが、夕方になると私は、子供に早く母親の顔を見せてやりたいので――決して、私が女房の顔を早く見たいのではない――江戸川の堤を、子供を抱いて、終点へと行くのである。雨の日には傘をもって――それは□であるが、私を考えさせる日が、十月まで半年つづいた。
 女房の帰りを迎える為に、菜を煮、米をかしぎ、座敷を掃除し、時々は、洗濯までしながら、生活について考えた。書く、という事を第一に考えたが、人の書くような小説を今更書いて、細田のあとから、よろよろと行きたくはないし、談話筆記は落第するし、記者も駄目だし――それに、父の年齢の事が気にかかるし、弟が中学へ入っているし(友人と同じように、文筆関係で生活しようと考えている事は大まちがいだ。そんな事で、こんな事をして、愚図愚図していると、大変な事になるぞ)
 私は、金を儲ける事を考えかけたが、何れも資本のいる事であった。その内に、女房が
「もう勤められない」
 と、云って、初めて、悲しい顔を見せた。
「何うして」
「明日から十月でしょう」
「うん」
「この着物で――歩けないわ」
 冬物が、値がいいので、ことごとく入質して、夏物のみである。この夏物と、冬物は交換できないし、金は無いし、女房は、袷を世間の人が来て[#「来て」はママ]いるのに、単衣で働いていたのである。
「よし、止めろ」
 と、私は言下に答えた。社の内情も、少し知っていたし、これ以上、女房に出来ない事をさしてはおけなかった。明日から何うするか、何の見当もつかなかったが、女房が、うつむいて
「勘弁して下さい」
 と、いうと同時に
「止めた方がいい、何うにかなる、心配するな」
 と、云って、何かしらやろうという力の、湧いてくるのを感じた。
(以下中断)



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