死までを語る
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著者名:直木三十五 

 果して、又井戸をのぞく夢であったが、幽霊はいなかった。露次を抜けて「団仲」という牛肉屋――今でも上町第一の大店であるが、ここに、卯のやんという友達がいて、時々遊びに行った――へ入ると、上り口も、奥も真っ暗である。
(おや)
 と、おもった瞬間、現れたのが、井戸を留守にしていた幽霊である。がその刹那に、猛烈に掴みかかったが、それより三十年、幽霊の夢は一度も見なくなってしまった。如何に、この時、しかく、恐ろしかったかは、今でもその夜の夢を、はっきりと思出す事ができる。

    十四

 中学は、市岡中学である。出来てから、四年目で、校長は、坪井仙太郎と云った。市内には、北野と、天王寺と、市岡の三つである。新らしいし、遠いから、競争者も少いだろうと、ここへ願書を出した。
 市岡という所は、西瓜の名産地で、今こそ町になっているが、田圃の真中に、学校が一軒ある切り、前は、尻無川まで見えるし、右は、築港まで一目である。
 水道が引けたり、電燈がついたりしたのも、その頃であるから、市内電車など無論ない。築港、松島間に一線あるきり――私の家は、大阪の東の端近く、学校は市内を離れて、西の方までが、田圃の中、二里以上三里近くもあろうか。入学した成績は、一級四十人中、尻から十六番目。父に叱られて、次の学期に、上から十四番目になったが、それが、私の最高レコードで、卒業の時には尻から八番目であった。
 十三歳の時に、腸チブスになって、それ以来、すっかり、健康体になった私は、とうとう中学五年間、一日の休みもなしに、この遠い道を歩いて通った。二年生時分から巡航船という、河々を通る石油発動機の船ができ、車夫が、この船を襲撃して大騒動を起したりしたが、速力がのろいし、迂廻(うかい)するので余り乗らなかった。乗る金もなかった。
 発育盛りなので、洋服が、すぐ小さくなる。しかし、それに応じて買えぬので、いつも、寸づまりの、手首のうんと出た洋服をきて、ぼろぼろの靴に、破れた帽子をかむっていた。
 当時、何ういうのか、美少年を愛する事が、中学で流行していたので、破帽破靴の風は、豪健と見るや、わざわざ破る者さえ出来たので、私は、ますます平気になって可成り、先生から注意された事もあった。
 遠いから、弁当をもって行くが、アルミニウームは、もう使っていた。電燈、水道と同時代に、こいつも一般化されたらしい。この弁当の菜が、油揚げ、湯葉と、きまっていた。湯葉も、薄い普通のではない。湯葉を竹にかける時、竹につく滓(かす)の厚く、固くなって、竹のかたのついた奴である。私が、骨屋町へ無くなると買いに行った。
「又、湯葉か」
 と、隣りの友人が、箸でつついたので、そいつの弁当を叩き落とした事があった。中学五年間、この油揚げと、湯葉で一貫した。
 十四番が最高で、成績はよくなかったが、その代りに、初めて出来た中之島の、大阪市立図書館へ
「図書館へ行かんとあかん」
 の、私の一言で「真平御免」の父は
「そうか」
 と、許してくれた。二銭で、一時に、三冊貸してくれる。学校から戻ると、中之島まで――これが又、相当の道のりで、恐らく、今の、バス、電車を利用する学生にはわかるまいが、雨が降り出したり、つい遅くなって、夜に入ったりしては、相当つらいものであった。
 今でも、司書をしておられるか――名を忘れたが、細面の、病弱らしい、出し入れのかかりの人が、三年余り前、大阪へ行った時、一寸行ってみたら、未だ在勤で、挨拶をされてなつかしかった。
 ある一つのカードの函などは、ことごとく読んでしまった。歴史、数学、文学に亙って、読んだの、読まぬの、貸本屋以来の渇望で、めちゃめちゃに読んだ。
 私は、記憶力の点に於て、殆ど零に近く、人の顔や、名を忘れる事には、いつも呆れているが、本を読んで忘れる事も、人後に落ちないつもりである。それだけ読んで、何か憶えているかと、云われると、何一つ憶えていない。しかし、憶えているのがいいか、忘れてしまうのがいいかは、俄に判断は出来ないと、信じている。多く読み、ことごとくを忘れると、物の見方、考え方が公平になって行くようであるし、一旦読んで忘れたものは、読まずに知らぬのと、丸でちがう。何か、機にふれると、ふっと思出す。必要があると、ああそうだったと思うことがあるし――この点に於て、読んで忘れて、現在零なのと、知らぬから零なのとは、天地のちがいである。僕らは、凡庸だから、憶えていて、別の物を入れる妨げになるより、ことごとく忘れて、ことごとく入れた方がいいらしい。

    十五

 智識は豊富になったが、記憶力が悪いし
「何んだ馬鹿馬鹿しい、ツィンクル・ツィンクル・リッツル・スターが何うしたんだ」
 と、すっかり、英語を馬鹿にした。いつも、六十五点か、七十点位であった。数学はから駄目。中学五年の時は、三角であるが、とうとう教員室へ行って
「私は、哲学か、文学をやるんです。それも、私立へ入るつもりですから、三角の必要は、絶対にないと思います。必要の無いものを、何も苦しんで勉強することもありませんから、三角はやりません」
 と、云った。数学の先生は、その学期の初めに、大学を出てきた人で、若い、おとなしい人であった。笑って返事をしなかったので、そのまま出てきた。
 当時は、新聞で「社会」という字をつかっても、睨まれた時代で「社会主義」などと云おうなら、今の共産党の十倍位、悪いものと考えられていた。その「社会主義」が、私の綽名(あだな)で、この綽名は、森――ニックネームを大砲という物理の先生がつけたもので
「植村は、学校の社会主義だ」
 と、とにかく、手に負えなかったらしい。何故、手に負えなくなったか? それは、私が、中学の先生を、軽蔑し、失望したからであった。
 私の中学に於ける不平から、云っておきたいことは、中学が、学問を教えず、教育を知らず、という事である。数学の先生はボールドへ式をかいて、答えをかいて、それっきりである。教師用の参考書のあることを知っている私達は
(参考書さえ見りゃ、先生だって、生徒だって同じだぞ)
 と、数学という学問の性質、尊さ、先生の人間的生活のえらさ、そうした教育の根本に、少しもふれないから
(一時間口先で喋(しゃべ)るだけで、何あんだ)
 小学時分は、心から、先生をえらい人だと思っていたから、先生の態度、教訓で、動かされたが、中学は、一つのビジネスにすぎなかった。「学校」は、師弟間の商売、ビジネスでないと信じていた私は、図書館で読む本なら、感激し、感謝したが、先生なるものからは、そうした種類の、いかなる小さい感化もなかったので、図書館はおもしろくなるばかり、学校はおもしろくなくなるばかり――とうとう先生の揚足をとって、楽しむことに、集中しだした。
「あいつ社会主義や」
 と、睨まれたのは、その時からである。しかし、多い先生の中には、私を可愛がる人もあった。今も猶、健在であるが、木村寛慈先生がその人で、この人の御蔭で、私は退学処分にならないで済んだ事件さえあった。

    十六

 理窟をよく云うし、鼻っ柱が強い、去年死んだ東惣平という弁護士。奉天にいる河合という乱暴者。台湾にいる内山。何(いず)れも柔道初段であるが、三年になった時
「三年生というのは、学校の中堅だ」
 と云い出して、中堅会というのを作った。
「一つ、中堅の力を見せとかんといかん」
 それから、四年の奴と、喧嘩しようということになって、つまらぬ事をきっかけに、雨天運動場の中で、喧嘩を起した。私は、旗竿をとって暴れ込んだ。四年の連中は、何が、何んだかわからないし、根が大阪の坊ちゃんが多いのだから、一時に逃げてしまって、喧嘩の対手が、忽ち無くなってしまった。そこへ、先生が来たが、喧嘩をしたのでない、しようとしたら逃げたので、――私は、旗竿をもって立っているだけである。
「喧嘩したんか」
「いいえ」
「その旗竿は」
「もってるんです」
「何んでもっておる」
「そこにあったから、もってます」
「もってはいかん」
「はい」
 それ以来、この中堅会が、羽振りを利かすようになって、四年になった時
「五年は、来年卒業するから、もう、学校には縁が薄い。四年が、学校の中心だ」
 という理屈をつけたが、夕陽丘で、女学校の柵へ小便引っかけたのは、この時分である。
 その代り、この年から、大阪府下中学の陸上運動会では、市岡が、いつも優勝で、とうとう三年つづけて、優勝旗をとってしまった。この優勝旗は、三年つづけて勝てば、永久にその校に止(とど)める、というのであったが、三年つづけると
「それは困る」
 と云い出して――私らは卒業後であったが、大いに、憤慨したものである。市岡中学が、野球で、大阪府下を圧したのも、その時分から。柔剣道にかけては、絶対に、市岡のものであった。
 この中堅会の大将は、東惣平で、私は弱いから、そういう事には出ず、煽動ばかりしていた。
 学友の間では、そうだし、教室へ出ると数学や、英語の時には、小さくなっているが、漢文や、歴史の時には、何んとか、かとかいうし、ある時なんどは、漢文の先生と対立して下らず、東惣平が
「植村、黙れ」
 と、云って、立上った事さえあった。そして、四年の時の、演説会に「試験亡国論」というものを弁じて、とうとう
「あいつ、退学ささんといかん」
 という事になった。暑中休暇の初めであったが――その時に、木村先生と、体操の式田先生とが、大いに弁じてくれたし、休暇中に、うやむやになって、危く、五年まで行ったが、この衣鉢(いはつ)を、黒田新(帝展特選になった洋画家)がついで、時々学校をやっつけていた。
 この中学通学中、命を亡(うしな)いかけた事が二度ある。一度は、河合という友人の家へ行った時、ピストルを河合が放った。装弾していないつもりで、口を私の方へ向けていたが、入っていて、私の耳とすれすれに、うしろの押入れへぶち込んだ。七八人いて蒼白になった。
 もう一つは、学校の前の電車である。木の電柱が、線路とすれすれに立っているが何んしろ電車の珍らしい時分で、車掌など生徒に、運転させたりして、乗客なんぞ殆どなかった。この電車へ、飛びのりするのが、生徒の楽しみであるが、次々に、飛び乗るので、踏台へばかり気をつけて、電柱の方を見ないで、電車につかまりながら、走っていると――どかん、真正面から、胸を、電柱へぶちつけた。呼吸が止まって、暫く電柱を抱いたまま
(やられた)
 と思っていた。誰一人、これを知らなかったらしく、暫く、一人で、そうしている内に、少しずつ回復してきたが、歩けないで、門番の所で寝ていた。真正面へぶっつかったのでよかった。あれで、電柱と、車台の間へでも、捲き込まれていようものなら、直木三十五なんぞは、此世にいない訳である。

    十七

 小説を書く位だから、中学では作文がうまかっただろう、と、素人が、よく聞くが、それが即ち、素人考えで、私は絵の方がうまかった。絵は、八十点以下に下らないが、作文は七十点、歴史などは吾三歳にして既に四王天但馬守を知る、であるのに、ようよう八十点。この点数を、数学と、英語が、めちゃめちゃにするので、平均点が、六十五六、卒業の時、びりから八番は、当り前である。
 五年になると、そろそろ次の学校を選ばなくてはならぬが、私は哲学者になるつもりでいた。
 小説を書こうなどと考えたのは、早稲田へ入ってからで、文科へこそは入ったが、漠然と、文科へ入っただけで、小説など書く気は、少しもなかった。だから、哲学の本は、相当に読んだが、この五年生の時に刊行されたのが、姉崎正治博士の、ショウペンハウェル原著「意志と現識としての世界」というやつである。それまで、相当、難解の書も読んだが、判らないというのは殆ど無かったが、この「意志」は、何う引っ繰り返して見ても、殆ど判らない。
(これが判らんようでは哲学者になれんぞ)
 と口惜しさ、心細さ、悲しさ――一冊だけこの本を借出して、図書館で、三日努力してみたが、判らぬものは判らない。今でも、この本は判らぬが、これは、余程哲学志願心をへこました。
(中学五年にもなって、こんなものが判らんようでは)
 と、当時、少し、淋しくなったのを憶えている。父は
「商科か、法科か、医科がええ」
 と、商科は金が儲かるし、法科は恩給がつくし、医科は
「薄さんに頼んだるさかい」
 と、この三つにきめてしまっていて
「高等学校は岡山がええ、わしも、もうこの齢やさかい、お前の高等学校を出るのを見て死にたい。高等学校だけは、やっといてやる」
 父が四十歳の齢の子だから、二十で中学を出ると、父の齢は六十、高等学校卒業までしか生きていられないと考えたのも尤もである。だが、何んと今年私が四十三、父が八十三になって、父は、未だかくしゃくとしているのに、私がこの体なのだから、私としては、この父の死ぬ前に、私を死なしたくないと考えている。それに、この編輯者め――悪魔である。父が見たら、何んなにびっくりするであろうか。月収六七十円の古着屋の、六十歳の親爺が、月二十五円ずつを倅の為に割(さ)いてくれたのである。

    十八

 父が八十三歳にもなって、私が「死までを語る」を書いたのを読みでもしたら
「宗一、ほんまか」
 と、それだけで、三年位齢をとるであろうが、絶対に読みっこは無いし、近所の人も、恐らく
「宗ちゃん、えらい事書いてはりまっせ、ほんとですか」
 と、父に聞く事も無いであろう。一心に、金、金、金、金儲け金儲け、とだけ念じている人達の集っている町であるから、こんな事が平気で書けるが、これだけ、印刷文明が普及されていて、猶かくの如き、私の出生町内である。二十余年の昔
「文科へ行く」
 とでも、云おうものなら
「文科て、文士か」
 と、それこそ、何う叱られるか、わからない。私は、早大文科と決心していたが、一言も、この事は喋らなかった。だが、卒業すると、何うしても、次の学校へ行かなくてはならぬし、父の決心が悲壮であるから
「岡山へ行って法科を受ける」
 と、云っていた。
「弁護士はあかん、官吏がええ、恩給がつく」
 と、貧乏で、六十歳になっても、古着を背負って、電車の無い頃の大阪の隅から、郊外の遠くへまでも歩かなくてはならぬ父にとって、恩給という事が、何んなに有難く見えたか!
「しっかりやれ、人間も、恩給もらうようになったら楽や」
 国を出奔してきてから、最高収入六七十円の父は、四十年間を、働きづめに働いてきて、猶働かなくては暮らせないのである。
 だから、恩給恩給、と云うが、何んと私は、岡山へ行って、試験の日、半日、旭川で、ボートを漕(こ)いでいたのである。
 最初の日に、数学が出なかったなら、私は受験したであろうが、初日が、数学なので
(こらいかん)
 と、度胸をきめて、予定通り、試験を受けない事にした。河田屋敷という所に、友人と下宿していたが、ボートから見上げる城がいい景色なので、朝から正午まで、川にいて戻ってきた。
(おれは、恩給取りにはなれん。不孝者だが仕方がない)
 と思って、知らん顔をして帰ってきた。
「何うやった」
「駄目だろう」
「ふむ――何が悪い」
「高等学校は、中々一ぺんで入られへん。それより私立へ行った方がいい。勉強さえしたら、私立でも、官立でも一緒や」
「私立はあかん、岡山が、いかなんだら、来年もう一遍受けてみ」
 薄病院の院長は
「植村、速記者になれ」
 と、云ってくれた。院長を、崇拝している父は、いろいろの所で、速記者というものを聞いてきて
「あら金が儲かる。衆議院で演説するやろがな。それをあとから一寸取消してくれ、と云いに行く時、金を包んでくるのやが、これが大きい。ええ商売や、人の気のつかん商売や」
 恩給が、忽ち、速記者になったが、私は対手にしなかった。

    十九

 当時、末吉橋東詰松屋町に、豊竹呂昇の持小屋「松の亭」というのがあった。ここに落語がかかっていた。友人に連れられて、一夕赴いたが、女剣舞師に花房百合子というのがあって、剣舞一つ、踊一つ、居合抜き、軍歌と、これだけやるが、この女に惚れた。これが、私の初恋である。

雪はちらちら降るその中を
熊本連隊十三隊
第一大隊日を定め
陸軍繰出す熊本城を
数万の弾丸飛越えて
吾兵各所に進撃す

 と、いう唄を唄いながら、御下げ髪に白鉢巻、刀を抜いて踊るのに惚れたのだから、その頃から、ファッショだったのであろう。
 所が、小遣がない。それで、花房が、寄席の掛けもちの為、車で走るのを、私が追っかけて――車は街路の真中を、私は、恥ずかしいから軒下を――走りながら、飽く程顔を見て、へとへとになって
(何んて馬鹿だ)
 と、思ったが、これを二度やった。三度もやったら、気狂いが追っかけてくると花房は思ったであろうが、この時、花房を思う歌などを作った。これが、私の歌の最初であるが忘れてしまった。
 その内に、学校は無し、弟は十歳にもなって、背負わなくてもいいし、時間が余るし、同じ落第仲間へ遊びに行く事を覚えた。同級の井上市次郎が、京町堀にいたが、ここへ遊びに行っている内に、そこから四五軒東の佐々木という家の娘の子と、親しくなった。雪ちゃんという名である。齢は十四歳。これは恋でなく、ただ可愛がっていただけであるが、その可愛がり方が、並大抵でない事は、後にかく。
 この井上の母の妹が、後に私の妻となった女で、京町堀小町と呼ばれて、美人であったが、婚期を失して、二十六歳にもなって独身者であった。

    二十

 遊んでいても仕方無いし、遊んでいられる身分でもないので、薄恕一氏の紹介で、小学校の代用教員になる事になった。赴任地は、大和国吉野郡白銀村、白銀尋常小学校というのである。
 五条の町から、山へ入ること三里半、銀峯山の中腹に建っている学校である。月給十一円五十銭。私の受持ったのは三四年生の男女である。二部教授。
 教員は、校長、その次、女教員、私と四人。校長は校内に宿泊し、女教員は村の人で、私と、同僚とが、山の崖っぷちに立っている小屋に等しい二間の家――二間と云っても、上り口と、その次と、六畳に二畳の家に住んでいた。食べるものは、芋、干魚、豆腐、寒い山の上なので、冬になると芋が凍っている。豆腐は固くて、五六町上の村まで買いに行くのであるが、藁で縛ってくれる。持って帰ってもこわれないから、えらい豆腐だったと、今でも感心している。
 同僚は、前からいるし、私は新参だし、お菜は作るのが上手だし、炊事番は大抵私であった。時々、鹿の肉を売りにくるのと、魚屋が鮫の半干魚をもってくる位で、大抵、菜っ葉と、芋と、豆腐。この生活が八ヶ月つづいた。
 所が、この学校へ勤めるという事を、その雪ちゃんに話したところ
「淋し」
 と、いうのである。
「日曜日に帰ったらええやろ」
「そんならうれしい」
 そこで、学校が土曜になると、山の上から三里半五条の町へ走るのである。
 丁度、それで汽車に間に合って、大阪着が八時、月曜の朝早く家を出ると、学校の授業に一時間おくれてつく。その一時間は、唱歌の時間にして、時間表を変更し、同僚に頼んでおくのである。
 十一円五十銭であるが、初めての月給だし私にとっては大金なんだから、嬉しかった。家は無家賃、芋や、菜は、生徒がくれるから、一ヶ月五円もあれば十分である。残りが小遣になるから、雪ちゃんに、その頃流行(はや)っていたリボンを買ったり――リボンと、週一度の汽車の往復、私はその金で、いろいろの物を買おうと、空想していたが、山を下り、山へ上るだけと、リボンとで、丁度月給が一杯であった。
 私は、女に無駄金を使って、友人に
「君は、馬鹿だ」
 と、今でも叱られるが、この時分から、そうであったらしい。ある日なんぞは、蜜柑を三貫目袋に入れて、背負って、山から汽車へ駈けつけ、へとへとになった事があった。花房の車と走ったり――何うも、少し、おかしな所がある。
 その内に、そのおかしな私にも、ははあんと、思うことが出来た。女教員が独身者で――村の娘で、頬は少し赤すぎたが、一寸いい女なので、独身者の校長と、私の同僚とが、ライバルになったのである。
 両者の睨み合いが、表面化してくると共に、そのとばっちりが私の方へ、時々くるようになった。
(何故だろう)
 と、童貞であるし、十四の女を可愛がっている位だから、初めは判らなかったが、同僚が
「房江さん、君何うおもう」
 と、聞いたので、すっかり、見抜いてしまった。今から考えると、娘の父親は、転々として行先の変る校長より、同僚を婿にでもして、娘を離したくなかったものらしい、娘さんは中立で、困っていたらしかった。事件の解決を見ないで、私は辞して、東京へ出たが、山の中の平和な――もし、私が、文筆で暮らせなくなったら、ああいう所へ行けば、まだまだ日本も、のんびりしていると思うている。
(然し、二十年の間に何う変ったか?)
 急な山の中腹に立っているので、学校の真上に寺がある。とにかく、汽車を見た事がない生徒が多いし、飛行機の話をしたら
「先生□つきよる」
 と、てんで、本当にしないのだから
「先生、地獄てあると、坊さん云うてましたで」
 と、何のはずみか、生徒が云ったので
「そんなものはない」
 と、答えたら、真上の坊さんが怒って
「今度来た奴は生意気だ、代えてしまえ」
 と、校長の所へ云って来た事があった。これだけが、私の起した事件で、相当真面目に勤めていた。そして、早大へ入る為、大阪へ帰ってきたが、ここに又、一つ、恋愛事件が起った。これが、私の最初のそれかも知れない。

    二十一

 女が死んだか、生きているか――生きているとすれば正当に考えると、人妻であろうから、姓を秘して、徳子という名だけにしておく。世の中には、朝出て行く時、鏡台の前のポマードの分量を計って、帰ってきて、それが少いと
「男につけてやったのだろう」
 と、食ってかかった夫もあるというから、二十年前のいとも優しく、清らけき恋にも、何ういう誤解があるかも知れない。
 徳子は、大阪谷町の薄病院にいた。私が遊びに行くと一人の鼻の高い女――少うし高く、厚すぎる鼻の女が――足の短かいせいであろう、椅子の前へ、踏台を置いて、それへ足をかけながら、薄恕一のいう薬の名と、分量とを、処方箋にかいていた。若い女だから、何より先に、その顔が見たくなって、前へ廻ると、鼻は、横から見る程巨大な感じではなく、やや、八の字の眉、円い眼。中々いい女である。
 青春期の男女や、貴族、上流の婦人は、広く交際をしないから、すぐ手近い所の異性で済ます癖のある物であるが、私の前へ現れた女性として、私の齢に合うのは、この人だけである。
 然し、私は、何事も、貧乏人的に育ってきたから、こうした女と恋をしようなどとは、決して、考えていなかった。
 所が、ある夜薬局にいると一枚の処方箋を、徳子さんがもってきたが、その中に、散薬を包む四角い紙が入っていた。そして、その中に
「私は貴下(あなた)が好きです」
 と、書いてあった。私は、私の身体が、熱くなって、少しぼう張したように感じた。ああいう女が、女の方から、私に云いよるなんぞ、それは、何かの間違いではなかろうか、何うして返事を――何ういう文句で、何うして、それを手渡すか?
「私も、貴女が好きです」
 という紙を、然し、次に徳子さんが、処方箋をもってきた時に、巧みに、人目に見つからぬよう渡した。
 所が、この散薬紙での文通以外、話する事も、何うする事もできない。それで、私は、患者の来ぬ昼間、病院へ出かけて行って、話する事にした。然し、そうなると徳子さん程の女と、徳子さん程の女に思いつかれる程の男とだから、忽ち、評判になって、一日行って見ると、徳子さんが居ない。
 大事にならぬ内にと、神戸の家へ返さしてしまったのである。
 私は、病院を出ると、徳子さんから聞いていた武庫川の堤近く――芦屋の、徳子さんの家へ尋ねて行った。今の芦屋とはちがうから、何処の家にも、猛犬がいた。これが、がんがん吠える中を、訪ねて行ったが
「神戸の家にいなけりゃ多分、友人の宅にいるでしょう」
「友人の家は?」
「何処そこ」
 それから、神戸の家へ行くと
「わかりません」
 の一言だ。これは予期していたのだから、友人の所を訪ねると
「お別れになった方がいいでしょう。徳子さんは別れると申していますから」
「別れましょう。然し、一度、逢わしてくれませんか」
「妾の手では何うする事もできません。徳子さんのお母さんに、話しておきましょう」
 夜になった。十一月の末だ。大阪までの終電車は、とっくに出てしまって、東明までしか行かぬという。金はぎりぎり電車賃しか無い。東明まで行って、それから先は歩いて、少しでも、明日の朝までに、電車賃を節約しておこうと、歩き出したが、とても寒い。
 歩いたとて、いくら儲かる。それで、夜明けを待とうとしたが、十一月末の吹きっ曝(さら)しに、何うとも成るものではない。
 父が、東京へ行くなら、これを着ろと、古着で買ってきてくれた釣鐘マントの半分の奴を着ていたが、それをかぶって、停留所の中で寝る事にした。線路沿いに行くと、停留所があったが、これが何んと、昼間降りた芦屋の停留所である。
(運命だ)
 と思って、砕け、裂かれた身体を横にしたが、半分のマントでは、足がつつめない。足をつつんだ方がいいだろうと、下へやると、何うして、肩の寒さは、じっとしておれるものでない。
 今度は、マントを縦にして、頭から、足の先まで冠ってみたが、腰掛の板から、夜中の凍気が、しんしんと、身体を刺してくる。とうとう
(畜生、徳子、薄情者)
 と、罵りつつ、それでいて、恋しさに、眠れぬ眼を、見えぬ昼間の家の方へ向けて
(そこにいるなら、徳子、おれが、こんなになっているのを見せてやろうか)
 と、いうような呪(のろい)、愚痴。初めて、家を明けるのであるから、親爺の小言が恐ろしいが、そんな事は、丸で考えないで、悄(しょ)げ、怒り、恨み、寒がって、夜を明かした。
 そして、このままこの恋は終った。期間が短かいし、徳子さんの母親が、クリスチャンで、私の趣味に合わなかったから、諦めがよかった。
 この恋愛事件の最中に、一寸、上京した事があった。これが、最初の上京で、宿は、本郷の元の久米正雄の家へ行く、右側の第二何とか館というのであった。
 この時に、中学入学以来初めての写真をとったが、これも、差押えでなくなってしまった。黒木綿の紋付羽織に、白の長い胸紐、今では、暴力団の外に見られない書生風俗であった。男振りもよかった。

    二十二

 この時の上京は――上京してみたくて堪らないので、父へ、下宿の安い所を捜すつもりだし、南も行ったし、藤堂も行ったし、早く行って、準備しておく必要があるという口実であった。
 南も、藤堂も知らぬが、六十になっても死にそうには無いし、弟が十歳になって、これも、学校の成績はいいし
「貧乏人でも、倅の教育だけは、人に負けまへん」
 と、二十年近く同じ町内に住んでいて、古顔になった父は、倅の自慢が、何よりも好きであった。文字通り、食を割(さ)いても、学資の方へ廻してくれた。
 今春陽会の会員である洋画家藤堂杢三郎が、早くから上京して、駒込蓬莱町の下宿にいた。郁文館中学の左隣りで、これも、第二何んとか館という名である。久米氏の近くのは月二十円で、高級であるが、ここへくると月十六円で、二十五円学資をもらうと、十分にやって行けた。
 この下宿へ落ちついたが、下宿から、中学の庭を透して見える、小汚い生垣の、傾いたような家が、夏目漱石氏の旧居で「猫」は、あすこで書いたんだよ、と、藤堂が説明してくれた。
 汚い下宿であったが、その旧居が見えるのが、誇りのような気がして、そこにいた。
 そして、いかに、二十五円より安くて生活すべきかを、藤堂とも話をした。
「飯が焚けるか」
「焚ける」
「上手か」
「上手だ」
 と、いうような会話から、間借りをして、自炊をするのが安い、という事になって、私は、使命を果し、大阪へ戻った。この上京中に、徳子さんへ、手紙を出したので、確証が握られたのである。
 この上京した夜、勝手の知った本郷へ、一人で出てきた所が、今の燕楽軒の前で、書生と、職人の喧嘩があった。
「何っ」
 と、叫ぶと、職人が、諸肌(もろはだ)脱いだので、大阪の喧嘩しか知らぬ私は
(これは危険だ、東京で喧嘩するもんではない)
 と、感じて、以後、手出しした事はない。年に一度位女房へ出すが、これは危険でない。
 大阪では、子供時分から、よく喧嘩をするし、東横堀の木材の蔭に「十銭」と称する立淫売が出没するので、竹をもって、木材の間を掻き廻しに行ったり、松の亭の下足をとる時、うしろから、馬鹿力で押す奴があるので、振向きざま、撲(なぐ)ったり――相当に暴れたが、諸肌脱ぐ、勢を見ると、善良な、強がりだけの大阪者は、一度に、おじけをふるってしまった。
 この上京から、大阪へ戻ると、いつの間にか、徳子一件を、雪ちゃんが知っていて、大いにすねた。もう、十四になっていたから、嫉妬に似た感情をもっていたのであろう。
 徳子と離れ、雪子とおもしろくなくなり、一人ぼっちになった私を、じっと、覗(うかが)っていた女が、ここに一人ある。
 私は二十一、女は二十七。齢から見ると、所謂若い燕に当るが、女は、京町堀小町と唄われ、評判の美人である。
 何故二十七歳に成るまで婚期を外したかというと、当時、有名な「大寺事件」というものがあった。江戸堀随一の旧家、元の十人両替の中の一軒、大寺家に起った謀殺事件である。これと、一寸、女の家とが関係があったので、婚期を失したし、又、意中の人として、木谷蓬吟氏を思うていて、ままにならなかったし、その為、こういう齢になったのである。この女が、上京して、私の童貞を破り、私は女の家へ乱入して、立廻りを演じるという恋あり、涙あり、武勇ありという話になるが、明月に。

    二十三

 雑司ヶ谷、鬼子母神の境内を抜けると、もう一つ寺がある。その側に、植木屋があったが、ここに、仏子須磨子の姉の子が、自炊して、早大へ通っていた。ここへ、一日、須磨子が現れた。井上市次郎というその甥さん――だが六つ齢下の甥さんは
「何んや、喧嘩したんか」
 と、大きい眼を、もっと、大きくして聞いた。
「はあ、もう、大阪へ帰れへんつもり」
 須磨子は、兄の玄竜という人と、余り仲がよくなかった。大学生位までは、美人の妹というものをもっていると、いろいろ利益や、興味が、多いものであるが、生活などが、うまく行かないのに、二十七にもなる妹をもっていると、何んなにそれが、美しくとも、古い女房の、美しさと同じで、少しも、よくは感じないものである。
「植村は」
「田端にいよる」
 私は、田端の、小杉未醒氏の所の近く、泥川沿いの戸叶という家の離れに、藤堂と二人で自炊していた。
 藤堂は太平洋画会へ通っていたし、私は早大文科の予科にいたのである。室生犀星氏が、この藤堂と友人で、びっこの詩人と二人、よく、室生氏を訪問に行っていたらしい。
 この戸叶方へ、須磨子が来て、当分、東京に居るつもりとか、少しはお金がある、とか(これは、二十円の債券を何枚かもっていたのである。勿論、後には、生活費になった)。だが、近頃の時代とちがって、婦人の職業と云えば交換手か、看護婦しかない頃であるから
「置いてもろていい?」
 と、いうより外に、家出娘の生活法はない訳である。
「ええ、よろしい」
 とにかく、対手は、六つ齢上の二十七歳、こちらは、童貞の二十一歳であるから、礼を正しく、言葉を丁寧に
「しかし、寝るところが、ここよりほかに、ありませんから」
「そりゃええわ、一緒に寝るわ。藤堂さんと三人でしょう」
「はい」
 皆、中学同期の出身であるから、仲がよかった。私は身体が、ふわふわとなったように感じたが、それは、こんな美しい人が、自分のような者を手頼(たよ)って来てくれた、という事に対しての感謝で、劣情などの如きは神様に食わしてしまえと
「布団を、じゃ、借りてきて」
「ええ」
 素直に答えたが、この女は私を獲(え)ようとして、大阪から出てきたのである。しかし、何事もなかった。翌日
「市ちゃんとこへ行きましょうか」
「うむ」
 そして、二人は、植木屋の離れで、市ちゃんと三人で寝た。
 その暁、私は、無残にも、取り返しのつかぬ事を、されてしまったのである。

    二十四

「荷物をもってくるから」
 と、云って、須磨子は、大阪へ帰ってしまった。私は汚された身を、袴でつつんで、おもしろくない講義を聞きに行っていたが、その内
「家との事が、中々面倒で――あんた、いつ帰る」
 と、いう手紙がきた。そして、この手紙の終りに、何んと「旦那様」と、書いてあった。
 うれしいような、馬鹿にされたような――こんな言葉は車屋と、乞食の使う言葉で、使われる奴は、五十歳以上というように感じていた私は、その手紙を披(ひろ)げて、にやにや笑いながら
(矢張り、征服したのかな)
 とも、感じた。暑中休暇がすぐに来た。大阪へ帰ると
「家から出してくれぬ」
 と、ノートの端に走り書をして、使の者に届けさせてきた。
「奥へ入れたっ切りで、兄が見張っている」
 二十一の男を、大阪から、いい齢をして、追っかけて行ったのだから、兄玄竜の怒るのも尤もである。だが、私の怒ったのも、又尤もであった。
 雨もよいの空、私は、怒りのかたまり見(み)たいになって、須磨子の家の門を押した。ぎぎいと、重い重りが鳴り、鎖ががらがらと響いた中へ入ると、暗い。のぞくと、誰も居ない。
「お須磨さん」
 と庫裡へ入って、声をかけると、市次郎の母が出てきて
「何んです」
「お須磨さんは?」
 と、聞いた時、兄玄竜が
「来てもろたらいかん」
 と、奥から出てきて、廊下へ立ったままで云った。
「何」
 叫ぶが早いか、大衆作家になる私だ。えいっ、廊下へ飛上った天狗飛切りの術。
「待ってたわいな」
 と、奥から出てくる須磨、それを止めようとする姉、うろうろしている竺という爺さんに、女中。
「行こう」
 と、須磨へ云った途端、玄竜が
「人の家へ何や」
 と、怒鳴ったから、それ、大衆作家の青年時代
「何」
 左手で、ネクタイを掴んで、ぐっと、壁へ押しつけた。
 玄竜、顔をしかめて
「巡査呼んでこい」
 今でも、おかしくて、笑うが、私も逆上していた。
「何んだ」
 二三度、力任せに、壁へ押しつけて、右手は、まさかの時の用意。大衆作家だ、その時分から心構えがある。
「何しなはる」
 と、叫ぶ姉。
「宗ちゃん、そんな事したら」
 と、止めにくる須磨子。
「出ろ」
 旦那様だ。
「荷物が――」
「荷物なんか何んだ。こんな家にいたいのか」
 私が降りると共に、須磨も降りた。出ようとするとばらばら――雨だ。ちゃんと、ことごとく、大衆文学の段どりに出来ている。竺さんが
「雨や」
 と、云って、蝙蝠(こうもり)傘を出してくれた。二人は、行く所がないので、友人の南惣平の所へ泊った。

    二十五

 親爺というものは、その脛(すね)を囓(かじ)られていても感じないし
「東京へ早く行って、勉強したい」
 と、□をついても
「そうか、しっかりやってや」
 と、すぐ、東京行を許してくれた。私は、女を連れたような、連れられたような形で、東京へ来た。私は、当時一ヶ月の学資として、二十五円もらっていた。
 女と二人になってこれで、食えるか、食えぬか? それで、いくらかでも、節約をしようというので、私の考えた事は
(学校は、月謝さえ払えば、商科にいて、文科の講義に出ていたっていいんだろう)
 という理論である。それで、月謝の一番安い科をさがしたが、皆一ヶ月四円五十銭で、高等師範部だけが、四円である。
(五十銭でも安い方がいい)
 それで、高師部へ入って、生活費五十銭を儲ける事にした。ある日、高師部で何を教えるのだろうと、教室にいると、その時間は内ヶ崎作三郎氏の英語の時間で、田舎の開業医みたいな肥った氏が入ってきて、傲然として、一同を睨み返した。後年、政治家に成るような人だから、高師志望の学生など、高をくくっていたのだろう。私は、一番前の列にいたが
(何んて、生意気な教師だろう)
 と反感をもって、こっちも、下から睨みつけていると
「一体、諸君は、英語を何の為に学ぶのかね」
 と、喇叭(らっぱ)みたいな声を出して、第一日、最初の口を切った。高師部の人々だから、皆おとなしい。黙って、答えない。すると
「おい、君」
 真下の僕を、指さした。僕は、かっとなった。
「愚問ですね」
 と、答えると共に、脂切って、肥った面がむかむかと、憎くなってきた。正面から、作三郎を睨みつけて、立上ると
「吾々は、小学生じゃありません。何のために学ぶかなどと、そんな質問をしなくてはならぬような幼稚な生徒に、何のために、教えるんですか」
 と、やった。作三郎、さっと、真赤になると
「生意気だ」
 と、云った。だが、さっきの喇叭の音のような明朗さがなく、咽喉に何かが引っかかっているような声であった。私は坐った。
「こういう生意気な生徒がいるから、質問したんだ」
 私は、立って、教室を出てしまった。それ以来、内ヶ崎先生には逢わぬが、あの時の、人を見下げた態度というものは、いろいろの教師を知っているが、不快千万なものであった。

    二十六

 月末になってみると、何うも、五十銭の節約だけではやって行けそうにない。それで
(月謝を払わない事にしたら)
 と考えた。月額四円の節約、これは大きい。
(何うも、あんな先生のあんな講義で、四円五十銭もとるのは、高すぎる)
 島村抱月先生は、何故か休講、坪内先生も二回聞いたきり、相馬御風氏が、文学を講じる外、片上先生、吉江先生も英語を教える時間の方が多い。
(英語なんぞ習いに来たんじゃあねえ、もっと、月々雑誌にかいてるような事を、聞きにきているんだ。それを聞かさないんなら、月謝納めないぞ)
 いろいろと理由をつけてみたが、理由よりも、何よりも納める事が出来ぬ状態になってしまったから
(見つかって学生証見せろと云われりゃ、其時の事だ)
 と、度胸をきめてしまった。
 一二ヶ月は、びくびくしていたが、試験を受ける必要はないし――第一に、もとから、そう勤勉に講義に出てはいないのだから
(一学期分と、四円払っているんだから、それで負けておいていいだろう)
 学校へは、友人と話しに行くだけで、ノートなどは
(ノートをとると、盗講になるから、とらないですよ)
 というような理由をつけて、一冊もとらなかった。この私のクラスは、谷崎、広津、三上、宇野などの二年下で、里芋に拡声器をつけたような木村毅(き)。笑画の小間物屋番頭忠八みたいな宮島新三郎、その外、田中純、西条八十、村山至大、青野季吉、保高徳蔵、細田源吉、細田民樹。
 このクラスだけで、評論、プロ文学、詩、童話、純文学、大衆文学と、田舎のデパート位に揃っている。
 しかし、これは、ずっと後の話で、在学中に、一番花々しかったものは、立石美和の一派で、角帯に、時として前掛けをしめたりしていたが、細田源吉が、苑雪次郎と称して、このグループの雑誌「美の廃墟」に小説をかいていた。沢田正二郎が、わざわざ頸筋に、白粉を残して、得意そうに校内を歩いていたのもこの頃で、頽廃的なものが、主流となっていた。宮戸座に、源之助、工左衛門などを讃美しに行ったのも、当時の流行の一つであった。
「いやな奴だな」
「うん」
 青野と、私とは、時々こう云いはっていたが、彼等には、江戸っ子が多く、喋るのが巧みで、どもりの青野や、無口の私は、羨んでいるより外に仕方がなかった。
 二人の細田が、娘と、その母とに、二人とも関係したとか、せぬとかいう噂が立ったりした。民樹の「泥濘の道」というこの事をかいたという小説が「早稲田文学」に発表されたが、与謝野晶子が
「こんな事、本当にあるんでしょうか」
 と、その四角関係に、呆れた事があった。自然主義末期の影響で、こうした生活を、深刻とか、何んとか考えていたのであろう。

    二十七

 貧乏人には、貧乏人特有の痩我慢みたいなものがある。人からあいつ貧乏人だと云われたくない、というような、例えば、一円の値の物をやると、矢張り一円の品を返してくると云ったような――一種のひがみである。
 私の在学中、私のクラスメートは、恐らく、私の貧乏を知らなかったであろう。それは、その後五六年もして私が原稿をかき出して
「おれは、実は貧乏だ」
 と、云っても、信用しないばかりか
「直木の奴、□吐いてやがる」
 と云ったりした人のあるので、明らかであるが、これは、私の家が、古着屋であると云う事を知らない為であったのだろう。家の商売が、商売だし、父が
(せめて、着物位は人並にしてやらんと)
 と、云ってくれると、私も若い燕であるし、相当にいい着物を着ていた。
 恐らく、クラスの中で、私位、筋の通った着物を着ていたのは、少かったであろう。だから貧乏に見えぬのは当り前である。
 それに、須磨子が、美人で、相当の家の女だから、ちゃんとした姿をしているし、何処から見ても、生活の為に、授業料が納められないとは見えなかったにちがいない。何んしろ、この須磨子は、ハガキ一枚買って来いというと、必ず十枚買ってくる。
「一枚だよ」
「ハガキ一枚なんて買えますか」
 これが、その内、高利貸しの前で、煙草を喫いながら
「お金なんか、廻り持よ」
 と、云うようになるのだから、話もいろいろとおもしろいものがある。
 ハガキ一枚が恥かしくて買えぬ位の女だから、友人がくると、ビール、酒、肴(さかな)、どんどんもてなす。いよいよもって、貧乏人ではない。金が無くなると、私に内証で例の債券を処分していたらしい。私は、生活上に経験があるから
(二十五円で、よくやれるな)
 と、考えていたが、月々十円位ずつは、債券を食っていたのであろう。
 この時分、私の住んでいた家は、今もあるが、私のいた時分には、隣りの大家、村田という大工さんと、二軒きりであった。
 場所は、早大グラウンドの後方で、家賃四円八十銭。八、六、二の三間であった。

    二十八

 何うも、死にそうにない――これは、容易ならぬ事である。
「死までを語る」と題した以上、その時まで書かなくてはならぬが、まだ十年も生きられるとしたなら、私は一体何を書き、編輯者は何うしていいか?
 編輯者は、私がもう死ぬだろうから、書かせてやれ、と考えて、書かせた訳であるか――人を呪うと臍(へそ)二つで、今度は、私が
「こんな雑誌、早くつぶれてしまえ」
 それなら、書かなくていい。
 然し、先月分の本稿を「オール讀物号」の雑文と共に、夜の七時に書上げた時には、三十八度九分の発熱であった。催促にきていた本社の××女史に
「御覧なさい」
 と、その検温器を見せた。××女史は
「はあ、三十八度――九分ございます」
 と、平然としていたが、編輯者なんぞという奴は、命がけで書いていても、この位、面の皮の厚いもので、人を、じりじり殺していながら
「はあ」
 と、すましているのだから――女房になんぞ決してするものではない。
 八年六月二十八日の暑い日、私は、朝から倒れたまま、とうとう起上れなかった。その時には
(この具合だと、よく保って二三年か)
 と、覚悟した。時々、注射するだけで、殆ど養生をしていない。事実出来ない。
「何うして、養生をしない」
 と、誰でも聞いて下さる。
「金がない」
「戯談(じょうだん)を」
 馬鹿野郎め、あるか、無いか、一つ、裸になるからよく見てみろ。

    二十九

 昭和六年の、税金査定が、一万二千五百円である(この額が不当なので、納めなかったら、問題になった)。七年のが、二万千五百円。これも不当だから、審査を願って、これは、一万六千百七円、という額になったが、これから、私の実収入を推察するといい、月二千円内外と踏んでいいであろう。
 月収二千円。女房(今はない)子が二人、妾(今はない)、家二軒もっていたとて、二千円なら、千五百円ずつたまるだろう――と、誰でも、こう見ているらしい。
 だが、だ。昭和五年の税金を見るがいい。三千七百円(一万を落としたのではない。ただの三千七百円が、税額である)。その前年は無税。
 私に今日、多少の名声がありとすれば、それは「南国太平記」からで、それまでは、貧乏以上の貧乏であった。昭和六年に「南国」を書いてから、ようよう月収が、千円以上になりかけたのである。これが、わからないと、私の貧乏はわからない。
 久米、菊池、大佛、吉川なんぞという人々は、十年前から、一流の名声と、収入とをもっていた人であるが、私はようよう丸三年来である。
 家族は、それでも同じで、妻、妾、子二人、家二軒。だから、いつも、ぴいぴいであった。そして「南国」が終る時分から、肺病にかかったから
「おれが入院すりゃ、明日から家族は食えなくなる。小さい家でも建てて、気長に、養生でもせぬと」
 それで、七年の夏から、金沢に、四十七坪の、ほんの小さい家――書斎、次の間、茶の間、子供、女中の五間――何うだ、玄関もないし、客間も応接間もない、ほんの家族が、それぞれの部屋をもってるというだけの家を建てかけた。
 所が、よく考えてみると、この話に出てくる父が、大阪で健在である。しかし、もういつ引取らなくてはならぬかも知れぬから、父の部屋を――と考えると、それが無い。それで、別に、私の書斎を、ドライコンストラクション式で、建てることにした。
 所が、七年度の収入だから、月千二三百円である。前年まで、ようよう食えるか、食えぬかであったのだから、それだけの金が、全く一文も残らない。
 妾宅、即ち、木挽町へ二百円(家賃百円、文藝春秋の倶楽部で、その頃は私が一切経費を出していた)、己の所が三百円(家賃は七十五円)、私の小遣、二三百円(交際費、貸金、旅費等々)として、建築費に廻るのが、五百円位の予算になった。
 四十七坪、坪百円だから、一年足らずで建つ、と思ったのが、そもそも大まちがいの因で、この建築費の外に
スチールサッシュ        一八〇〇円
山の崩し賃            七〇〇円
昼間電気設備           八〇〇円
 昼間電気位は来ていると私は思っていた。亀楽煎餅の別荘とか、佐分利公使の家とかがあるのだから、そんな事は考えていなかったら、こういうブルジョアめ、昼間電気無しでいたのである。私が、杉田から引っ張って来たら
「私の所へも、私の所へも」
 こ――これでないと、金はたまらない。
急設電話            約八〇〇円
 長者町局特別区域外で一町十八円ずつとられて、総額以上。
配水、排水設備          七〇〇円?
温房設備             ?
  目下設備中
 即ち、五千円の超過である。庭も、垣も、門もなくて、これである。月に割って、五百円――この外、小さいいろいろの物があるし、二三改めさせたから、四千八百円より高くなっているし、ざっと、一万二三千円であろう。
 五百円ずつ余すつもりの所が、千円になっては、眼を剥く他はない。だから、大工さんに
「急がない、気長にやってくれ」
 七年七月から建てかけて、八年の八月、何うにか住めるようになり、移ったのが、十一月の五日。
 この家だけ貯金できた訳であるが、金が残るか、残らぬか、一寸、計算して見給え。八年度になって、月収二千円になると女房と別れなくてはならぬようになり、妾は出て行くし、収入は多くなった代りに、出る金も多くなった。
 八月に出来て、十一月まで入れなかったのも、金の無い為である。諸道具一式女房にやったので、灰や、雑巾からして買わなくてはならぬ。一通り、道具を揃えるのに、二千円程かかっているから、何処で、金がたまるか? だから
「金は一文もないよ。入院したら、明日から食えない」
 は、少しの偽りも無い言葉で、何処かの銀行で、僕の貯金でもあったら、そのかかりの銀行員でもいい、発見した人に進呈する。

    三十

 その小さな新居で、今、これを書いているのであるが、午前五時十六分前、徹夜である。これで、肺病が治るであろうか。
 暖房装置がまだ出来て無いので、炭火である。そろそろ空腹であるが、女中二人と、娘一人っきり(読売新聞の結婚談は大□である)、神経痛で、腰が痛むから、尿瓶(しびん)を置いて、用を足す位で、勝手へ行って、パンを焼く気にもなれない。
 明日の起床、午後二時、太陽は、少し右へ廻っているから、折角、縁側を広くして、日光浴でもして、と考えていたのも、全然駄目で、朝は、腰が曲らぬから、がさがさと赤ん坊のように這いながら、この縁側で、ようよう新聞を読む位。
 東京へ出る日には、アトファンを、寝る前に飲んで、朝痛みの少いようにしておいて、あんよは御上手程度に歩く。
 しかし、こんな無茶をしていながら、痰(たん)が少くなり発熱も、低くなり、咳(せき)も少くなった。六月頃まで、横浜、東京間で、二十回位、痰の出たのが、この頃は、二三回である。
 だから、いよいよ又、元の徹夜生活へ戻りかけているのであるが、これが何処まで押し通せるか?
 私は、私の気力だけで癒すつもりをしているが、もし癒ったなら、闘病法を詳しくかくつもりである。無茶に似て無茶に非ず、私とて、今死にたくはない。

    三十一

 そこで、本文へ戻るが、私は、年増に惚れられる位であるから、何処か、いい所がなくてはならぬ筈だと、自分では考えていた(これは逆に、年増しか対手にしないのだから、取り柄の無い男だとも云える。この判断は、自分でよくわからない)。その、いい所は何処であったであろうか、という話であるが――早大グラウンド裏へ移転して、四円八十銭の家に住んだ時、裏手の家(四軒長屋)の妻君が、裏口へ挨拶しにきて
「同国人が入(い)らしたので、大変心強くおもいますわ」
 と、云った。私の女は、腹をかかえて、飛んで上ってきて
「貴下、支那人やわ」
 と、笑いこけた。
「何が支那人だ」
「裏手は支那人やろう。奥さんは、日本人やけど」
「うん」
「その奥さんが、同国人が来たので」
 僕は、苦笑しながら、さては、支那人のように、のんびりしている所があるのかな、と思って
「似た所があるかい」
 と、聞くと
「そう聞くと、そうかも知れん」
 と、私の顔を正面から見たが、私は
(何言ってやがる、ちゃんちゃん嬶(かかあ)め)
 と、思って対手にしなかった。所が、これは後日であるが、家賃も払えなくなって、間借りした時、若松町の湯屋へよく行った。
 電車通り、大久保の方へ曲ろうとする所の右側の銭湯である。一日、人の居ない昼間――失業者には、風呂に限ると、ゆっくり、天井を眺めていると、三助が出てきて
「お国は、この頃、埃(ほこり)で大変でしょうな」
 と、云った。いつこの三助、私の大阪生れを知ってるのだろうと
「東京と同じだよ」
 と、答えると
「私は、これで、戦争に行って、約半ヶ年あっちにおりましたよ」
 あれ、又、支那人かと、これは二度目だけに、私も、自分の顔の支那出来を、肯定しなくてはならんようになった。だが
「わかるかね」
 と、いうと
「随分、あんた日本語がうまいが、矢張り、わかりますよ」
 私は暫く、これから、その湯屋へ行かなかった。戻ってきて、この話をすると
「矢張り、あるのかしら」
 と、女は答えたが、生活に打ちのめされていた頃とて、前のようにおもしろくはなかった。声高く笑えないで、微かに不快ささえあった。
 これだけならいいが、大震災の時に、私の情婦を、巣鴨へ訪ねて行って、帰り途、護国寺の前へくると、自警団につかまってしまった。
「お前、朝鮮人だろう」
 と、一人が云うが早いか、ぐるぐると取り巻かれてしまった。
「戯談(じょうだん)云っちゃあ困る」
「いや、朝鮮人だ」
「何んな面だ」
 とか
「ちがうちがう、日本人だ」
 とか、いろいろ周囲で騒いで、無事に納まったが、これで見ると、朝鮮式の所も、多少はあるらしい。
 つまり、いくらかのんびりとしている顔で、そこへ女が惚れるのにちがいない。鏡で、自分で見ると、何処にも、そんな所はないが、人が見ると、いろいろに見えるものと見える。

    三十二

 学校の思い出は殆ど無い。
 中学以来、学校は下らないものだと考えていたのが、確実になっただけである。
 親でもなく、叔父でもなく、主人でもなく、先輩でもなく、先生という一つの尊敬と、なつかしさとをもった人格は、確かに、立派な存在であるが、私は、故郷をもたぬように、そうしたなつかしい先生をもたない。中学の木村寛慈先生が、ややそれに近いだけで、時々、先生はいい仕事だとおもうが、そういう人に逢った事はない。
 小中学で、本当に、智慧なり、人格なりに、影響を与えてもらった人だったろう。恐らく、親よりもなつかしいと思われるが、そうした教育者は少いらしい。
 大阪という土地は、故郷という気のしない所であるし、小中大学に、学校のなつかしさの無い人生は、相当に淋しいものである。
 私のように、その精力以上に、働いている者は、時として、故郷というような所で、深い安息を求めたい気がする。
 私は、新居へ移ると共に、私の部屋へ引っ込んで、自分で炊事できるだけの道具――土釜、土鍋、七輪の類をととのえた。隠居の志が可成り、深い所に潜んでいるらしい。
 何か一つ、ショックを受けたら、私のような人間――負けずぎらいで無理してきた人間は、一度に敗けて、田舎へ逃げるかもしれぬ。
 こういう事が無くても、一人で飯を焚き、一人で暮らしている生活をしたい望をもっている。だが、私の係累(けいるい)は、ことごとく、私より若く、強い。矢張り、私は働きづめに死ぬのだろう。

    三十三

 私が早大を卒業――というのはおかしいが、クラスメートが卒業したので、私も遊びに行けなくなった時に、もう小説を書いて、売出していたのが、谷崎精二、広津和郎、舟木重信氏らで、国枝史郎が「レモンの花の咲く丘へ」とか「胡弓の弦の咽び泣き」とかという題の作を出したのもその頃である。
 同級生の中では、同じ姓が、競争させるのであろう。細田民樹と、源吉とが「早稲田文学」へ創作を発表した。卒業の前から、保高徳蔵は「読売新聞」に新設された婦人欄の記者として、試験をパスして、就職するし、鷲尾浩が、レートの広告部へ入って、月給四十円。
「うまい事しやがったな」
 と、吾々は、その月給の高を羨んだ。田中純に、宮島新三郎などは、相馬御風氏から仕事をもらっているらしいし、西条八十は、株式相場で生活していると聞くし、それぞれ生活の心配が、何うにかなくなって行く内に、いつまでも職の無いのが、青野季吉と、私とである。二人とも、女房がある。私は、そんなに喧嘩をしないが、青野は、よく夫婦喧嘩をして
「ま、ま、又やってきた」
 と、どもりながら、半日位遊んで行った。在学中、私は早稲田美術研究会の幹事をしていたが、その縁で紀淑雄先生から、日本の美術に関した本を全部書上げてくれないか、出版部から発行するから、という話があった。私は、すぐ金にならぬが、何もする事が無いし、仕上げたなら金になるだろうと、父に
「こういう仕事があるから、それの終るまで、毎月今まで通りに送金してもらいたい。就職口は、そう急にないし、大阪へ帰ってはいけないから、是非たのむ」
 と、云ってやった。期間は三ヶ月と切って、それ以上はいらぬ、とつけ加えた。坂崎坦(しずか)氏、森口多里氏など、この研究会の幹事であったが――それから、三ヶ月、毎日、上野の図書館へ通った。今何うか知らぬが、いつも満員つづきで、待たされるのに、いらいらしながら、古来からの東洋美術に関する書籍をことごとく調べて、書上げた。所が書上げると同時に
「出版部の都合で中止になった」
 と、云われてしまった。私は、大してこういう事に憤慨したり、怨んだりする性質ではないが、失望はした。そして、こんな事は、一切女房に打明けない性でもあるから、仕方が無いと、一人であきらめて、又、青野と夫婦喧嘩の話をして日を送っていた。

    三十四

 その内に、田中純が、一つ仕事をもってきてくれた。それは、当時「アカギ叢書」という十銭で、何んな事でもその梗概だけはわかるという本が出ていたが、それが売れるので、それの模倣の十銭本が、いくつも出たのである。私のは、その中の一つで、トルストイの「戦争と平和」を、二百枚にちぢめて書いてくれ、原稿料は四十円。名は、相馬御風氏のを借りるという仕事である。
「翻訳は出てないだろう」
 と、聞くと
「無いねえ」
 大変な本である。読むだけで、十日や、二十日はかかる。
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