死までを語る
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著者名:直木三十五 

    六

 私は、玩具をもった記憶がない、と云ったが、殆ど、間食をした記憶もなかった。いくつ位の時であろうか、家が近いので、学校から、一時間の昼飯時には、帰ってきて食べる事にしていた。遊びたい時分なので、急いで、御飯を食べ終ると、母に
「焦げあるか」
 と、飯の焦げた所の残っているのを、催促する。
「ある」
「とっといてや」
 と、云って、走って、学校へ行ってしまうが、この焦げた飯を握ったのが、私の間食であった。それから、母は、釜や、櫃(ひつ)の洗った残りの飯粒を、笊(ざる)へ入れて、天日に干しておいてくれて、これも、私の間食になった。後になると、私自身が、それを造って食べていた。
 家へ戻ると、中々、出してくれないし、玩具も、何も無いから、私は、チョークを買ってもらって、それで、押入の板戸へ、絵や、字を書き出した。小さい家で、大阪流に、中の間は、薄暗いが、その中で、夜になるまで、書いては消し、消しては書きして、板戸の下から、三尺位の上下は、白墨の白さが、しみ込んでしまっていた。
 それから、間なしに、店と、中の間の間に、一尺四方位の硝子(ガラス)が、一間余り入ったので、嬉しくて堪らず、そこを又手習台にして、主として、絵を描いた。
 時々、近所からの貰い物などがあるが、そういう物は、自分の生活とは、ちがった物のような気がして、例えば、菓子を食べても、それが無くなると、欲しいという感じは、絶対にしなかった。食べられないのが、本当で、食べるのは間違っているように、感じていた。
 生れた時から、こうして育つと、貧乏を少しも、貧乏とは感じないものである。これが、誰でもの生活だ、というように――子供であるから、簡単に――たまたま友人の、広い家へ行っても、何の感じもなく、羨望も何も、起らなかった。
 内安堂寺町の上の方に、尼寺があって、そこに、国宝の観世音が祭られているが、その縁日が、八の日に立つ。立つと、玉造から、丁度、私の家の辺まで、七八町――大阪で有名な夜店である。
 いつ頃か、一人で行くようになった時に、小遣銭として、二銭母がくれた。これが、小遣をもらった最初であるが、二銭を握って、三度位、七八町の間を往復したであろうか? そして、とうとう何も買わずに戻ってきた事があった。
 この中で、本だけは、よく買ってくれた。その時分、道頓堀筋、日本橋東へ入る南側に、絵本屋があったが、そこへ行って、絵本を買うのが、唯一の楽しみで、当時一冊、三銭位であったであろうか、彩色した袋の中に入っていて、中は、馬糞紙の粗末なものであったが、それだけが、私の買ってもらった唯一のものである。

    七

 私が生れてから十年目に、弟が生れた。父が
「清二が生れよったさかい、いつまでも御前遊んでたら、何んならん、少し、うちの事手伝い」
 と、ランプの掃除が、その第一の仕事になった。これは、前々から、私がやっていたらしいが、洋燈の掃除について、一寸も叱った事の無かった父が
「こら、汚い、もっと丁寧に掃除せんといかんがな」
 と、叱るようになってきた。それから、子守。この子守は、母と二人で、大抵母が守をしてくれるが、夕方、骨屋町へ買物に行く時には、帰りに持ち物が増えるので、必ず私が母について行く事になった。
 骨屋町とは、南北に通っている町で、俗称であるが、それは、和泉町から本町へかけて、丁度、今の公設市場のように、一切の食料品店が、その辺に集っていた。
 これは、大阪が、一番よく発達していたのではないかと思っているが、私達の住んでいた上町――坂の上の方にある町、高い所の方の町の意、東横堀川より以東を総称す――は、船場、島の内より見て、貧乏人階級であったから、自然に、そういう風なものが、利用されたらしく、少し経ってから、空堀の方、玉造の方にも、そういう市場の集団が出来た。これは、横堀以西に余りないのであった。
 八百屋、魚屋の類が、凡そ、二三町の間に、連なっていたが、ここで物を買うと、近所の同じ商人で買うより安いから、子供を背負うて買出しに行くのである。母が、葱(ねぎ)と、大根との風呂敷包をもって、私が、弟を負うたり、その反対だったり――それから、それが、だんだん慣れてくると、私が一人で買出しに行ったり、弟を背負うて、母を連れずに行ったり――思春期前の少年だから、平気で
「この頭おくれ」
 と、出汁にする鰻の頭を一皿買ったり、牛肉屋が顔馴染になったので
「味噌まけといてや」
 と味噌を、余分に入れさせたり――そして、多分、私が弟を背負って、そうして、大抵毎日買って歩いているのが商人達に、記憶されたらしく、それから又、憐れまれたらしく――私等兄弟より外に十歳位で、そんな所へ、惣菜(そうざい)を買いに行く奴はいなかったらしく
「まけといたるで」
 と、鰻屋が、八幡巻(やわたまき)を一本添えてくれた事があるし、牛肉屋が
「葱もおまけや」
 と、添え物の葱を一つかみくれた事もあった。そして、そういう日は、私は得意で
「まけてくれよった」
 と、自慢した。この惣菜買いは、それから後中学へ行っても続いていた。
 所が、困った事に、鰻の頭や、葱のしっぽだけでは、大して手助けにならぬし、小僧を置くような資力はなく、私が、惣菜買いの上手を見込まれて、今度は、父と共に、古着の包を背負って、歩かなければならなくなった。
 鑑札が、正面の柱にかかっていたが、それには「古物商」と書いてあった。古い物なら、何んでも買うのである。父は、着物の外に、金物や、道具の類は、少しも判らないが、それでは、商売にならないから、わかったような顔をしていた。そして、鉄瓶(てつびん)を買ってきたり、箪笥(たんす)を買ってきたりしたが、それを値踏みするのは、いつも、近所の、岡本という古着屋の人であった。
「宗一、岡本はん走って、行って、これ何んぼや聞いといで」
 と、売りに来た客へ
「すぐ、持って行きまっさ」
 というような事を云って、帰しては、私が走って、値を聞いた。そういう物が、少し嵩張(かさば)ると、父は
「宗一、手伝うて」
 と、云って、私に半分、背負わせて、持って行ったり、持って戻ったりした。
 電車の出来たのは、それより、ずっと、後であるから、大阪中、何処でも、歩いて行くのである。父は、今年八十三歳で、未だ元気であるから、少々のことは、平気であるが、私は、弱かったから、古着の三十枚も、首へ巻きつけ、肩へのせて、天王寺や、玉造や、淡路町――時として、住吉の近くの勝間辺まで、往復するのは、可成りつらかった。
「若い間に、苦労しとかんと、えろなられへん。わいら、天保銭三枚もって、大阪へきて、こないなったんや」
 父は、大抵同じ事を云った。この小僧代理は、思春期に入ると共に、甚だ不愉快なものになった。しかも、真向うに、惚れた女が出来、古着屋という商売が、余り上等でないとわかってきてからは
「宗一、浜はんへ行って、買うたんのとっといで」
 と、云われるのが、何より嫌であった。然し、これは、すぐ間もなく、中学へ入ったので
「勉強の邪魔になる」
 と、いう口実を造って、逃げてしまった。

    八

 この尋常小学在学中に、私を可愛がってくれた人がある。相当、父は長く、同町にいるので、町内の人とよく交際していた。その中で、売薬屋をしている楠という家に、一人の婆さんがあった。
 この婆さんの娘が「渋川」という特務曹長の妻になっていたが、軍人の事故(ゆえ)、時々、転任するので、その間淋しいらしく、男の子は「二宗商店」という、例の「照葉」に指を切らした放蕩(ほうとう)息子を生んだ大阪屈指のべっ甲問屋へ奉公へ出ていていないし、それで、私が行くと、いろいろと、もてなしてくれた。家で、間食の味は、殆ど知らなかったが、ここでは、いつも、菓子をもらった。
 この渋川特務曹長が、時々、戻ってくると、子が居ないので、矢張り、私を可愛がってくれた。白葡萄酒をのましてくれたが、私は
(世の中に、こんなうまいものがあるだろうか)
 と、感じた。早稲田を出てからさえ、白葡萄酒だけは、どうかして、一本欠かさず備えておきたい、というのが、人生の希望の、大きい一つであったが、今頃飲むと、一向うまくない。
 食べ物では、今でも、食べたいと思うのは、蒟蒻(こんにゃく)。今の蒟蒻とは、蒟蒻がちがうらしい。もっと、色の黒い、汚い黒い斑点の入った――それが、実にうまかった。例の、夜店の関東煮(だき)屋の品であるが、これも、すっかり無くなった。水飴、和砂糖――飴は今でもすきであるが、瓶へ入ったとろとろの飴など、食べられない。田舎へ行くと捜すが、もう、田舎にもなくなっている。
 渋川特務曹長が、千日前の見世物というのを、初めて見せてくれた。見せ物などは、他人の見る物だと、看板ばかり見て、決して、中へ入った事のなかった私は――何うだ、第一に「へらへら坊主と、海女」へ入ったのである。
 舞台の前に、水槽があって、その中へ、赤い湯巻一枚の海女が、飛び込んで、中で、踊を踊るのであるが、十か、十一の私には特務曹長の感じるような事は感じない。
(何んだつまらん)
 と、思って眺めていたが、今考えると、惜しいものである。何んだつまらんと思うもう一つの理由は、表看板に、海中で、海女が、蛸や、魚と、格闘している図が描いてあるから、その通りの事をして、見せるのだと考えていたせいもある。それが、全くちがったのだから、失望した。
 この海女の前に、へらへら踊があった。黄色い手拭で、頬冠りをして
へらへったら、へらへらへ
はらはったら、はらはらは
へらへらへったら、へらへらへ
 と、唄いながら、坐ったままで、扇を動かしているだけの、智慧の無いものであるが、それが、相当人気があったのだから、大部、今日と、人心がちがう。初めて見ただけに、この印象は、強く残っている。
 その次に見たのは「改良剣舞」、女ばかりで、剣舞の真似と、芝居の真似とをするものであるが、これは、大変、気に入って
頃は元暦元年の
  どんどん
源平、須磨の、戦いに
 いつか、放送局で、この節をやったが、私も中々上手である。すっかり、憶えてしまった。憶えたが、唄った事もないし、剣舞の真似をした事もなかった。矢張り、読み、書くだけであったが、特務曹長は、二年の間の、二度の休暇に、この二つの見せ物を見せて、私に、千日前のある事を教えてくれた。
 所が、千日前よりも、私には、もっと、魅力のあるものが、近くへ出来た。辻という貸本屋である。鹿やんに、お伽話(とぎばなし)を聞いていた私は、そういう種類を、暫く中断されていたが、この貸本屋が出来て、講談本が、棚へ陳(なら)ぶと同時に
「宗一、又、きてけつかる。浜はんへ、行かんか」
 と、父が、怒鳴りにくるようになった。この貸本屋で、いかに、私は多くの講談本を読んだか? 「誰ヶ袖音吉」「玉川お芳」などの大阪種の、侠客物の味は、まだ忘れられない。

    九

 植村宗一、直木三十五の外に、私は、北川長三、竹林賢七というペンネームを、一年か、半年もっていた事があるが、その外にもう一つ、安村宗一という名がある。これは、私も、その内に、忘れてしまうかも知れぬから書いておくが、私の両親が、結婚したのか、私通したのか、とにかく、尋常小学へ入学した時の私の姓名は、安村宗一であった。善意に解釈すると、母の安村静が、長女であったが為、植村へ入籍できなかったせいであるが、悪意に考えると、何うも、父母は、公然と結婚したのではないらしい。私も、結婚をした事はないが、貧之と共に、矢張り親譲りのものである。
 弟を背負ったり、惣菜の買出しに行ったりしている間に――尋常四年の頃であろう。その時の光景を、今でも、明瞭(はっきり)と憶えているが「のばく」から、通りへ出る坂の右側に「金時湯」という湯屋がある。その前で、一人の女に逢うた。その時
(きれえやな)
 と、感じたが、これが私の初恋らしい。この女は、すぐに、同町三丁目の露路の中にいる畠山しげ子だとわかったが、この事を、友達に話すと、貧乏人街の早熟の子供は、ことごとく知っていた。この女の家が丁度、惣菜の買出しに行く道筋に当るので、それから二三日は通って顔を見たいし、気まりが悪いし、大いに困ったことを憶えている。
 だが、それは、ほんの僅かな間で、同じような綺麗な娘が、斜向(はすむか)いの薬屋にいるのに、それに対しては、何んの感情も動かなかったのだから、ほんの子供心の恋情にすぎなかったのであろう。それにしても、十一歳か、十二歳の時で、今だに、名まで憶えているのだから、相当なものである。
 この薬屋の娘さんは「おんちゃん」と云った。西村房という名であるが、何故「おんちゃん」と呼び、呼ばれていたか、今でもわからない。私の父は「鬼ちゃん」と呼んでいた。いくど、母に
「そんな名、おますかいな」
 と、叱られても「鬼ちゃん」と云っていた。父は、手紙の冒頭へ「真平御免」とかいて、これが、立派な挨拶だと信じているのだから「おんちゃん」を「鬼」にする位は、何んでもない事である。
 この「おんちゃん」の所へ、遊びに行って、初めて、毛糸というものを見て、びっくりした事がある。こんな綺麗なものが、世の中にあろうかとか、こんなものを「おんちゃん」みたいな子供がもって、とか、そういう驚きであった。家は、木薬(きぐすり)店(生薬が正しいか)で、西洋流の売薬と、漢薬との混沌期であったらしく、店先に、蜜柑の皮が、一杯干してあったのを憶えている。

    十

 私の家の東隣りが、小間物屋であった。ここの職人であったか、ここへ来る人の内であったか、その当時から、将棋の強い人がいるという事を聞いていたが、今思うと後の七段神田辰之助氏らしい。神田という名も、辰やんという名も、記憶の中にある。その東隣りが日比野という呉服店で、こっちは、古手屋で、商売敵であるから、私も、決して、遊びに行かなかった。
 その隣りが、堺の名産、大寺餅の、名だけを使用している安餅屋であった。これは私が、九つか、十位の時に、開店したらしく、開店の日の、大安売りにだけ、この餅を買ってもらった。
 その隣りが、前にかいた貸本屋である。神田伯竜口演の「太閤記」七冊つづきを、一日の間に読んで、見料二銭。父が叱るので、母に頼んで、この見料をもらうのであるが、私が子供の上に、貧乏であるし、近所でもあるし、とにかく、一寸、立っている間に、半分位は読むので、本屋の方で、私の立読みを黙許してしまってくれた。
 それから弟を、子守してやると云って背負って出ては、ここへ入込んだ。その内に、講談本のみでなく、渋柿園、涙香、弦斎、というようなのが入ってきた。これは少しむずかしすぎて、読むのに骨が折れた。そして、読書力の低い、この町の人々は、講談の本がよいらしく、この三人の外に、柳葉、春葉が入ってきたまま、通俗小説は、来なくなってしまった。「金色夜叉」や「不如帰」を読んだのは、遥かに後であった。
 この貸本屋一件が、転じて、図書館行になるのであるが、私が尋常小学を出て、高等小学へ入ると共に、成績が、中位になってしまったのは、この貸本屋の御蔭である。
 尋常小学での、私の記憶は、この位しかない。幼稚園で、初めて習った唱歌が
霞か、雲か、はた雪か
とばかり匂うこの花盛り
 であるとか、日清戦争の直後とて
煙も見えず、雲もなく
風も起らず、浪立たず
 のような軍歌が、盛んだった記憶があるが、それは、私一人だけの話でないから、省いておく。

    十一

 高等小学校は、空堀筋、骨屋町角の、育英第一高等小学校というのである。何んしろ、制服制帽を着るのだから、うれしくて写真をとって、大和の親類へ送った。こういう写真があるとなつかしくていいが、家ぐるみ差押えられて、素っ裸にされた時、その中へ入って、何っかへ行ってしまった。雑誌から、時々、子供時分のをと云ってくるが、私の写真は、それ故、最近五年以内のものの外一枚もない。これが、私が写真をとった最初である。その次は、卒業式の時、中学へ入っても、卒業式の時のだけ――だから、余計、この写真の無くなったのが惜しい。私の子供時分のたった一枚の写真である。
 高等小学へ入っても、学校の生活以外は、子守、洋燈掃除、惣菜の買出し、丁稚(でっち)代りであったが、そろそろ大きくなるにつれ、今度は、父が
「店番しろ」
 と、云い出した。父が、買物に出ている間、母が夕飯の支度でもしていると、店へ客が来ても、便利が悪いので
「十三にもなったら、店番でけるやろ」
 である。
「うん」
「符牒(ふちょう)教えたる」
 古着屋の符牒は、今何うか知らぬが「タカラモツシヤワセ」というのであった。これへ、五をかける。だから「タ」は、五銭か、五十銭か、五円かである。「タツ」は「タ」を五に五番目の「ツ」で、五に五をかけて、二十五、計七十五銭が元値で、これに、一円四十五銭位の札をつけ、二十銭引いて、一円二十五銭で、五十銭の利というようなものである。
「おい、坊(ぼん)さん(小僧のこと)まけとき」
 と、云われて
「まかりまへん」
 と、本を読んでいた記憶が可成りある。こんな時には、狭いから、すぐ母が出てきて、応接する。私は、母と入れかわって、台所へ出て、菜を洗う、というようなものである。
 この店にいる間に、着物に対しての智識は、相当にできた。私が、早稲田へ行っている頃まで、着物は、今のようにいろいろの名がなかった。縮緬(ちりめん)、七子(ななこ)、市楽、薩摩、御召、大島、結城位の区別で、その上に、何々御召と名のつき出したのは、ここ二十年位の事で、私は、父が
「こう、変った名ばっかりつけよったら、一々憶えられんがな」
 と、ぶうぶう云っていたのが、今でも、眼の中にある。
 それから、解き物がうまい。これは、今でも自信がある。古着は、着物の形のまま売って利のある事もあれば、表と、裏とを離してしまって、別々に売って、利の多い事もある。この表と、裏とを離すのが、両親より遥かに早かった。鋏(はさみ)を一つ、ぱちっと入れると、殆ど、あとは鋏なしで、解いて行く。古着だから、糸が弱っていて、ぶつぶつ切れるが、それを切らずに解くのが技巧で、自分ではおもしろくて、解き物は一手で、引き受けるようになった。
 この時分、もう一つ上達したのは、飯焚きと、菜をつくることで――これは、後日になって、私の妻が、貧乏の最中、子供を産んで、寝ている時、私が、幾日か、飯菜を作って、その料理の種類の豊富さと味のよさとに、びっくりさせたものである。沢庵漬から――貧乏ぐらしの惣菜一通りは心得ている。ことごとく幾年か手伝った御蔭である。

    十二

 高等小学へ行くようになってから、教科書以外の本を買ってもらえるようになった。それも、一冊一月がかりで、だましたり、悲観したり、母から半分もらって、残りをねだったり、相当苦心を必要とした。
 その時分、私の家へ一人の食客がくる事になった。松原貴速という人である。その人の為に、物置になっている二階へ、南向きの窓を開けて、畳を敷くことになった。
 この松原貴速という人は、長州の俗論党の錚々(そうそう)たる人であったらしく、旧姓山県九郎右衛門という(この人について、御存じの方は御一報願いたい)、後に、石清水八幡の宮司となり、生玉神社にも仕えたが、遂に、浪々の身となって、何ういうのか、父が世話することになったのである。
 当時、父の、一番崇奉していた人は、大和の代議士桜井某で、この人が、時々来ては
「えらい人や、世話しとき」
 と、云われて、うれしがっていた。二年か、三年も居られたであろうか。中学へ行く時分、もう居なくなって、そのあとが私の部屋になったのであるが、この人へ、飯をもって行くのが、私の役目であった。矢張り、家へ戻ってきて、午餐(ごさん)をとるのであるが、母は、仏前へ飯を上げると、次に、この老人の所へもって行く。私が上って行くと、老人は、上品な、白髪、白髭で、歯がなく、もぐもぐと口を動かしつつ、微笑して、私に何か云うが、少しもわからないので、おしまいには、段の途中から、膳だけ置いて、降りる事にしてしまった。明治二十何年からの日記が、ことごとくあるが、読みづらいので、そのままにしてある。
 この頃、いくらか、商売がよかったらしく、品物が店に狭いまでに置いてある日などがあった。それにしても、今、数えると――店の入って左側に吊るしてあるのが八枚、その奥に十二三枚、店に二列に、縦にかけてあるのが十六枚、その着物の間々に、股引だの、襦袢(じゅばん)だの、一枚二円ずつにしても、六七十円の品である。
 しかし、三円から、六七円の売れ行きがあったし、三割近い利益であったから、店のこの小売と、仲間同士のやや大口の商売で、六、七十円の収入にはなっていたらしい。
「月、百円儲かったらなあ」
 と、云っていたのを考えると、この辺は間違っていない。私が、十三四、親が、五十三四であるから、この収入が、父の最大収入であったのであろう。

    十三

 高等小学の記憶は、尋常よりも少い。その代り、少しずつ、乱暴者になりかけていて、こういう記憶がある。
 それは、この当時まで、大阪には、堂島高等女学校より外に、女学校が無かったが、京都に、清水谷高等女学校ができた。この女学生が、学校の前を通るが、雨天運動場へ出ると、すぐ前が、空堀通なので
「あいつ、別嬪(べっぴん)やな」
 とか
「左向け左っ、こらっ、鼻ぺちゃ、向かんか」
 とか、私の外、二三人がやり出して、とうとう、雨の日には、女学生達、向う側を傘でかくれて通るようになった。所が、一日、金曜日の訓話の日、校長が
「本校の生徒の中に、品性を重んじない者がおって」
 と、やり出して、とうとう、窓側へ、近づけないように、雨の日には、生徒の中から監視が立つ事になった。中学へ行ってから、夕陽丘女学校ができたが、私と河合二人が、夕陽丘の、藤原家隆の墓の前へ立って、女学校の方へ向いて、四人とも、小便をし、これが、市岡中学の生徒と、何うして判ったのか、女学校から、かけ合にきて、びっくりしたのと、こういう話は、二つもっている。
 それから、私が、金を盗んだ話であるが、第五回内国博覧会は、いつだったであろうか、三十五年か、六年とすれば、高等小学三四年であるが、これは細かに憶えている。
 この博覧会に、カーマンセラ嬢電気の舞というのがあった、これを何うかして見たいが見せてくれそうにない。それで、一円盗んで見に行く決心をしたが、貧乏の家に盗める一円なんぞ有ろう筈がない。それで一策を考えて、店の金を入れる張り子の小さい籠を利用する事にした。渋紙張りの汚い四角の籠。上部に太い竹を使ってあるが、この太い竹と、その下に使ってある、へいだ竹との間の渋紙が、破れている。逆様にして、金を出すと、その破れへ一寸引っかかる事がある。私は、その破れを大きくして、その間へ、五十銭を入れる事にした。見つかって、引出せば元々、夜計算をして首尾よく、引っかかったままで通過すれば五十銭になる。
「五十銭足らんがな」
 父は、ぽんぽんと、籠を引っぱたくが、五十銭は、破れ目の奥深く入っていて、出て来ない。
「わて、知りまへんで」
 と、母がいうし、私は一生懸命だ。
「五十銭、負けたん忘れてんね、ちがうか」
 一週間程かかって、ようよう一円盗んだ。それで、カーマンセラなるものを見に行った。「胡蝶の舞」一つ。スカートを大きく拡げるカーマンセラに、色電気を当てるだけの事である。余りつまらないので、冷汗かきかき一円盗んだのを後悔して、二度と、籠を利用しなかったが、本当に、手に汗を握っていた。
 多分、この時分であろうと思う。怖ろしい夢を見るのが毎晩で、仕舞いに、夜になると、恐ろしさに、眠るのが嫌になった。夢は、ことごとく幽霊で、大抵、それがきまっている。「おんちゃん」の右側に、露次があって、その奥に井戸がある。上町の事とて、可成り深い、この井戸をのぞくと、中に、幽霊がいるのであるが、毎晩の夢にのぞいては、恐怖に、眼をさまして、蒲団の中へもぐる。耐えられなくなって
(幽霊なんぞ有るものか、夢じゃないか)
 と、決心した。そして
(今晩見たら、掴みかかってやる)
 果して、又井戸をのぞく夢であったが、幽霊はいなかった。露次を抜けて「団仲」という牛肉屋――今でも上町第一の大店であるが、ここに、卯のやんという友達がいて、時々遊びに行った――へ入ると、上り口も、奥も真っ暗である。
(おや)
 と、おもった瞬間、現れたのが、井戸を留守にしていた幽霊である。がその刹那に、猛烈に掴みかかったが、それより三十年、幽霊の夢は一度も見なくなってしまった。如何に、この時、しかく、恐ろしかったかは、今でもその夜の夢を、はっきりと思出す事ができる。

    十四

 中学は、市岡中学である。出来てから、四年目で、校長は、坪井仙太郎と云った。市内には、北野と、天王寺と、市岡の三つである。新らしいし、遠いから、競争者も少いだろうと、ここへ願書を出した。
 市岡という所は、西瓜の名産地で、今こそ町になっているが、田圃の真中に、学校が一軒ある切り、前は、尻無川まで見えるし、右は、築港まで一目である。
 水道が引けたり、電燈がついたりしたのも、その頃であるから、市内電車など無論ない。築港、松島間に一線あるきり――私の家は、大阪の東の端近く、学校は市内を離れて、西の方までが、田圃の中、二里以上三里近くもあろうか。入学した成績は、一級四十人中、尻から十六番目。父に叱られて、次の学期に、上から十四番目になったが、それが、私の最高レコードで、卒業の時には尻から八番目であった。
 十三歳の時に、腸チブスになって、それ以来、すっかり、健康体になった私は、とうとう中学五年間、一日の休みもなしに、この遠い道を歩いて通った。二年生時分から巡航船という、河々を通る石油発動機の船ができ、車夫が、この船を襲撃して大騒動を起したりしたが、速力がのろいし、迂廻(うかい)するので余り乗らなかった。乗る金もなかった。
 発育盛りなので、洋服が、すぐ小さくなる。しかし、それに応じて買えぬので、いつも、寸づまりの、手首のうんと出た洋服をきて、ぼろぼろの靴に、破れた帽子をかむっていた。
 当時、何ういうのか、美少年を愛する事が、中学で流行していたので、破帽破靴の風は、豪健と見るや、わざわざ破る者さえ出来たので、私は、ますます平気になって可成り、先生から注意された事もあった。
 遠いから、弁当をもって行くが、アルミニウームは、もう使っていた。電燈、水道と同時代に、こいつも一般化されたらしい。この弁当の菜が、油揚げ、湯葉と、きまっていた。湯葉も、薄い普通のではない。湯葉を竹にかける時、竹につく滓(かす)の厚く、固くなって、竹のかたのついた奴である。私が、骨屋町へ無くなると買いに行った。
「又、湯葉か」
 と、隣りの友人が、箸でつついたので、そいつの弁当を叩き落とした事があった。中学五年間、この油揚げと、湯葉で一貫した。
 十四番が最高で、成績はよくなかったが、その代りに、初めて出来た中之島の、大阪市立図書館へ
「図書館へ行かんとあかん」
 の、私の一言で「真平御免」の父は
「そうか」
 と、許してくれた。二銭で、一時に、三冊貸してくれる。学校から戻ると、中之島まで――これが又、相当の道のりで、恐らく、今の、バス、電車を利用する学生にはわかるまいが、雨が降り出したり、つい遅くなって、夜に入ったりしては、相当つらいものであった。
 今でも、司書をしておられるか――名を忘れたが、細面の、病弱らしい、出し入れのかかりの人が、三年余り前、大阪へ行った時、一寸行ってみたら、未だ在勤で、挨拶をされてなつかしかった。
 ある一つのカードの函などは、ことごとく読んでしまった。歴史、数学、文学に亙って、読んだの、読まぬの、貸本屋以来の渇望で、めちゃめちゃに読んだ。
 私は、記憶力の点に於て、殆ど零に近く、人の顔や、名を忘れる事には、いつも呆れているが、本を読んで忘れる事も、人後に落ちないつもりである。それだけ読んで、何か憶えているかと、云われると、何一つ憶えていない。しかし、憶えているのがいいか、忘れてしまうのがいいかは、俄に判断は出来ないと、信じている。多く読み、ことごとくを忘れると、物の見方、考え方が公平になって行くようであるし、一旦読んで忘れたものは、読まずに知らぬのと、丸でちがう。何か、機にふれると、ふっと思出す。必要があると、ああそうだったと思うことがあるし――この点に於て、読んで忘れて、現在零なのと、知らぬから零なのとは、天地のちがいである。僕らは、凡庸だから、憶えていて、別の物を入れる妨げになるより、ことごとく忘れて、ことごとく入れた方がいいらしい。

    十五

 智識は豊富になったが、記憶力が悪いし
「何んだ馬鹿馬鹿しい、ツィンクル・ツィンクル・リッツル・スターが何うしたんだ」
 と、すっかり、英語を馬鹿にした。いつも、六十五点か、七十点位であった。数学はから駄目。中学五年の時は、三角であるが、とうとう教員室へ行って
「私は、哲学か、文学をやるんです。それも、私立へ入るつもりですから、三角の必要は、絶対にないと思います。必要の無いものを、何も苦しんで勉強することもありませんから、三角はやりません」
 と、云った。数学の先生は、その学期の初めに、大学を出てきた人で、若い、おとなしい人であった。笑って返事をしなかったので、そのまま出てきた。
 当時は、新聞で「社会」という字をつかっても、睨まれた時代で「社会主義」などと云おうなら、今の共産党の十倍位、悪いものと考えられていた。その「社会主義」が、私の綽名(あだな)で、この綽名は、森――ニックネームを大砲という物理の先生がつけたもので
「植村は、学校の社会主義だ」
 と、とにかく、手に負えなかったらしい。何故、手に負えなくなったか? それは、私が、中学の先生を、軽蔑し、失望したからであった。
 私の中学に於ける不平から、云っておきたいことは、中学が、学問を教えず、教育を知らず、という事である。数学の先生はボールドへ式をかいて、答えをかいて、それっきりである。教師用の参考書のあることを知っている私達は
(参考書さえ見りゃ、先生だって、生徒だって同じだぞ)
 と、数学という学問の性質、尊さ、先生の人間的生活のえらさ、そうした教育の根本に、少しもふれないから
(一時間口先で喋(しゃべ)るだけで、何あんだ)
 小学時分は、心から、先生をえらい人だと思っていたから、先生の態度、教訓で、動かされたが、中学は、一つのビジネスにすぎなかった。「学校」は、師弟間の商売、ビジネスでないと信じていた私は、図書館で読む本なら、感激し、感謝したが、先生なるものからは、そうした種類の、いかなる小さい感化もなかったので、図書館はおもしろくなるばかり、学校はおもしろくなくなるばかり――とうとう先生の揚足をとって、楽しむことに、集中しだした。
「あいつ社会主義や」
 と、睨まれたのは、その時からである。しかし、多い先生の中には、私を可愛がる人もあった。今も猶、健在であるが、木村寛慈先生がその人で、この人の御蔭で、私は退学処分にならないで済んだ事件さえあった。

    十六

 理窟をよく云うし、鼻っ柱が強い、去年死んだ東惣平という弁護士。奉天にいる河合という乱暴者。台湾にいる内山。何(いず)れも柔道初段であるが、三年になった時
「三年生というのは、学校の中堅だ」
 と云い出して、中堅会というのを作った。
「一つ、中堅の力を見せとかんといかん」
 それから、四年の奴と、喧嘩しようということになって、つまらぬ事をきっかけに、雨天運動場の中で、喧嘩を起した。私は、旗竿をとって暴れ込んだ。四年の連中は、何が、何んだかわからないし、根が大阪の坊ちゃんが多いのだから、一時に逃げてしまって、喧嘩の対手が、忽ち無くなってしまった。そこへ、先生が来たが、喧嘩をしたのでない、しようとしたら逃げたので、――私は、旗竿をもって立っているだけである。
「喧嘩したんか」
「いいえ」
「その旗竿は」
「もってるんです」
「何んでもっておる」
「そこにあったから、もってます」
「もってはいかん」
「はい」
 それ以来、この中堅会が、羽振りを利かすようになって、四年になった時
「五年は、来年卒業するから、もう、学校には縁が薄い。四年が、学校の中心だ」
 という理屈をつけたが、夕陽丘で、女学校の柵へ小便引っかけたのは、この時分である。
 その代り、この年から、大阪府下中学の陸上運動会では、市岡が、いつも優勝で、とうとう三年つづけて、優勝旗をとってしまった。この優勝旗は、三年つづけて勝てば、永久にその校に止(とど)める、というのであったが、三年つづけると
「それは困る」
 と云い出して――私らは卒業後であったが、大いに、憤慨したものである。市岡中学が、野球で、大阪府下を圧したのも、その時分から。柔剣道にかけては、絶対に、市岡のものであった。
 この中堅会の大将は、東惣平で、私は弱いから、そういう事には出ず、煽動ばかりしていた。
 学友の間では、そうだし、教室へ出ると数学や、英語の時には、小さくなっているが、漢文や、歴史の時には、何んとか、かとかいうし、ある時なんどは、漢文の先生と対立して下らず、東惣平が
「植村、黙れ」
 と、云って、立上った事さえあった。そして、四年の時の、演説会に「試験亡国論」というものを弁じて、とうとう
「あいつ、退学ささんといかん」
 という事になった。暑中休暇の初めであったが――その時に、木村先生と、体操の式田先生とが、大いに弁じてくれたし、休暇中に、うやむやになって、危く、五年まで行ったが、この衣鉢(いはつ)を、黒田新(帝展特選になった洋画家)がついで、時々学校をやっつけていた。
 この中学通学中、命を亡(うしな)いかけた事が二度ある。一度は、河合という友人の家へ行った時、ピストルを河合が放った。装弾していないつもりで、口を私の方へ向けていたが、入っていて、私の耳とすれすれに、うしろの押入れへぶち込んだ。七八人いて蒼白になった。
 もう一つは、学校の前の電車である。木の電柱が、線路とすれすれに立っているが何んしろ電車の珍らしい時分で、車掌など生徒に、運転させたりして、乗客なんぞ殆どなかった。この電車へ、飛びのりするのが、生徒の楽しみであるが、次々に、飛び乗るので、踏台へばかり気をつけて、電柱の方を見ないで、電車につかまりながら、走っていると――どかん、真正面から、胸を、電柱へぶちつけた。呼吸が止まって、暫く電柱を抱いたまま
(やられた)
 と思っていた。誰一人、これを知らなかったらしく、暫く、一人で、そうしている内に、少しずつ回復してきたが、歩けないで、門番の所で寝ていた。真正面へぶっつかったのでよかった。あれで、電柱と、車台の間へでも、捲き込まれていようものなら、直木三十五なんぞは、此世にいない訳である。

    十七

 小説を書く位だから、中学では作文がうまかっただろう、と、素人が、よく聞くが、それが即ち、素人考えで、私は絵の方がうまかった。絵は、八十点以下に下らないが、作文は七十点、歴史などは吾三歳にして既に四王天但馬守を知る、であるのに、ようよう八十点。この点数を、数学と、英語が、めちゃめちゃにするので、平均点が、六十五六、卒業の時、びりから八番は、当り前である。
 五年になると、そろそろ次の学校を選ばなくてはならぬが、私は哲学者になるつもりでいた。
 小説を書こうなどと考えたのは、早稲田へ入ってからで、文科へこそは入ったが、漠然と、文科へ入っただけで、小説など書く気は、少しもなかった。だから、哲学の本は、相当に読んだが、この五年生の時に刊行されたのが、姉崎正治博士の、ショウペンハウェル原著「意志と現識としての世界」というやつである。それまで、相当、難解の書も読んだが、判らないというのは殆ど無かったが、この「意志」は、何う引っ繰り返して見ても、殆ど判らない。
(これが判らんようでは哲学者になれんぞ)
 と口惜しさ、心細さ、悲しさ――一冊だけこの本を借出して、図書館で、三日努力してみたが、判らぬものは判らない。今でも、この本は判らぬが、これは、余程哲学志願心をへこました。
(中学五年にもなって、こんなものが判らんようでは)
 と、当時、少し、淋しくなったのを憶えている。父は
「商科か、法科か、医科がええ」
 と、商科は金が儲かるし、法科は恩給がつくし、医科は
「薄さんに頼んだるさかい」
 と、この三つにきめてしまっていて
「高等学校は岡山がええ、わしも、もうこの齢やさかい、お前の高等学校を出るのを見て死にたい。高等学校だけは、やっといてやる」
 父が四十歳の齢の子だから、二十で中学を出ると、父の齢は六十、高等学校卒業までしか生きていられないと考えたのも尤もである。だが、何んと今年私が四十三、父が八十三になって、父は、未だかくしゃくとしているのに、私がこの体なのだから、私としては、この父の死ぬ前に、私を死なしたくないと考えている。それに、この編輯者め――悪魔である。父が見たら、何んなにびっくりするであろうか。月収六七十円の古着屋の、六十歳の親爺が、月二十五円ずつを倅の為に割(さ)いてくれたのである。

    十八

 父が八十三歳にもなって、私が「死までを語る」を書いたのを読みでもしたら
「宗一、ほんまか」
 と、それだけで、三年位齢をとるであろうが、絶対に読みっこは無いし、近所の人も、恐らく
「宗ちゃん、えらい事書いてはりまっせ、ほんとですか」
 と、父に聞く事も無いであろう。一心に、金、金、金、金儲け金儲け、とだけ念じている人達の集っている町であるから、こんな事が平気で書けるが、これだけ、印刷文明が普及されていて、猶かくの如き、私の出生町内である。二十余年の昔
「文科へ行く」
 とでも、云おうものなら
「文科て、文士か」
 と、それこそ、何う叱られるか、わからない。私は、早大文科と決心していたが、一言も、この事は喋らなかった。だが、卒業すると、何うしても、次の学校へ行かなくてはならぬし、父の決心が悲壮であるから
「岡山へ行って法科を受ける」
 と、云っていた。
「弁護士はあかん、官吏がええ、恩給がつく」
 と、貧乏で、六十歳になっても、古着を背負って、電車の無い頃の大阪の隅から、郊外の遠くへまでも歩かなくてはならぬ父にとって、恩給という事が、何んなに有難く見えたか!
「しっかりやれ、人間も、恩給もらうようになったら楽や」
 国を出奔してきてから、最高収入六七十円の父は、四十年間を、働きづめに働いてきて、猶働かなくては暮らせないのである。
 だから、恩給恩給、と云うが、何んと私は、岡山へ行って、試験の日、半日、旭川で、ボートを漕(こ)いでいたのである。
 最初の日に、数学が出なかったなら、私は受験したであろうが、初日が、数学なので
(こらいかん)
 と、度胸をきめて、予定通り、試験を受けない事にした。河田屋敷という所に、友人と下宿していたが、ボートから見上げる城がいい景色なので、朝から正午まで、川にいて戻ってきた。
(おれは、恩給取りにはなれん。不孝者だが仕方がない)
 と思って、知らん顔をして帰ってきた。
「何うやった」
「駄目だろう」
「ふむ――何が悪い」
「高等学校は、中々一ぺんで入られへん。それより私立へ行った方がいい。勉強さえしたら、私立でも、官立でも一緒や」
「私立はあかん、岡山が、いかなんだら、来年もう一遍受けてみ」
 薄病院の院長は
「植村、速記者になれ」
 と、云ってくれた。院長を、崇拝している父は、いろいろの所で、速記者というものを聞いてきて
「あら金が儲かる。衆議院で演説するやろがな。それをあとから一寸取消してくれ、と云いに行く時、金を包んでくるのやが、これが大きい。ええ商売や、人の気のつかん商売や」
 恩給が、忽ち、速記者になったが、私は対手にしなかった。

    十九

 当時、末吉橋東詰松屋町に、豊竹呂昇の持小屋「松の亭」というのがあった。ここに落語がかかっていた。友人に連れられて、一夕赴いたが、女剣舞師に花房百合子というのがあって、剣舞一つ、踊一つ、居合抜き、軍歌と、これだけやるが、この女に惚れた。これが、私の初恋である。

雪はちらちら降るその中を
熊本連隊十三隊
第一大隊日を定め
陸軍繰出す熊本城を
数万の弾丸飛越えて
吾兵各所に進撃す

 と、いう唄を唄いながら、御下げ髪に白鉢巻、刀を抜いて踊るのに惚れたのだから、その頃から、ファッショだったのであろう。
 所が、小遣がない。それで、花房が、寄席の掛けもちの為、車で走るのを、私が追っかけて――車は街路の真中を、私は、恥ずかしいから軒下を――走りながら、飽く程顔を見て、へとへとになって
(何んて馬鹿だ)
 と、思ったが、これを二度やった。三度もやったら、気狂いが追っかけてくると花房は思ったであろうが、この時、花房を思う歌などを作った。これが、私の歌の最初であるが忘れてしまった。
 その内に、学校は無し、弟は十歳にもなって、背負わなくてもいいし、時間が余るし、同じ落第仲間へ遊びに行く事を覚えた。同級の井上市次郎が、京町堀にいたが、ここへ遊びに行っている内に、そこから四五軒東の佐々木という家の娘の子と、親しくなった。雪ちゃんという名である。齢は十四歳。これは恋でなく、ただ可愛がっていただけであるが、その可愛がり方が、並大抵でない事は、後にかく。
 この井上の母の妹が、後に私の妻となった女で、京町堀小町と呼ばれて、美人であったが、婚期を失して、二十六歳にもなって独身者であった。

    二十

 遊んでいても仕方無いし、遊んでいられる身分でもないので、薄恕一氏の紹介で、小学校の代用教員になる事になった。赴任地は、大和国吉野郡白銀村、白銀尋常小学校というのである。
 五条の町から、山へ入ること三里半、銀峯山の中腹に建っている学校である。月給十一円五十銭。私の受持ったのは三四年生の男女である。二部教授。
 教員は、校長、その次、女教員、私と四人。校長は校内に宿泊し、女教員は村の人で、私と、同僚とが、山の崖っぷちに立っている小屋に等しい二間の家――二間と云っても、上り口と、その次と、六畳に二畳の家に住んでいた。食べるものは、芋、干魚、豆腐、寒い山の上なので、冬になると芋が凍っている。豆腐は固くて、五六町上の村まで買いに行くのであるが、藁で縛ってくれる。持って帰ってもこわれないから、えらい豆腐だったと、今でも感心している。
 同僚は、前からいるし、私は新参だし、お菜は作るのが上手だし、炊事番は大抵私であった。時々、鹿の肉を売りにくるのと、魚屋が鮫の半干魚をもってくる位で、大抵、菜っ葉と、芋と、豆腐。この生活が八ヶ月つづいた。
 所が、この学校へ勤めるという事を、その雪ちゃんに話したところ
「淋し」
 と、いうのである。
「日曜日に帰ったらええやろ」
「そんならうれしい」
 そこで、学校が土曜になると、山の上から三里半五条の町へ走るのである。
 丁度、それで汽車に間に合って、大阪着が八時、月曜の朝早く家を出ると、学校の授業に一時間おくれてつく。その一時間は、唱歌の時間にして、時間表を変更し、同僚に頼んでおくのである。
 十一円五十銭であるが、初めての月給だし私にとっては大金なんだから、嬉しかった。家は無家賃、芋や、菜は、生徒がくれるから、一ヶ月五円もあれば十分である。残りが小遣になるから、雪ちゃんに、その頃流行(はや)っていたリボンを買ったり――リボンと、週一度の汽車の往復、私はその金で、いろいろの物を買おうと、空想していたが、山を下り、山へ上るだけと、リボンとで、丁度月給が一杯であった。
 私は、女に無駄金を使って、友人に
「君は、馬鹿だ」
 と、今でも叱られるが、この時分から、そうであったらしい。ある日なんぞは、蜜柑を三貫目袋に入れて、背負って、山から汽車へ駈けつけ、へとへとになった事があった。花房の車と走ったり――何うも、少し、おかしな所がある。
 その内に、そのおかしな私にも、ははあんと、思うことが出来た。女教員が独身者で――村の娘で、頬は少し赤すぎたが、一寸いい女なので、独身者の校長と、私の同僚とが、ライバルになったのである。
 両者の睨み合いが、表面化してくると共に、そのとばっちりが私の方へ、時々くるようになった。
(何故だろう)
 と、童貞であるし、十四の女を可愛がっている位だから、初めは判らなかったが、同僚が
「房江さん、君何うおもう」
 と、聞いたので、すっかり、見抜いてしまった。今から考えると、娘の父親は、転々として行先の変る校長より、同僚を婿にでもして、娘を離したくなかったものらしい、娘さんは中立で、困っていたらしかった。事件の解決を見ないで、私は辞して、東京へ出たが、山の中の平和な――もし、私が、文筆で暮らせなくなったら、ああいう所へ行けば、まだまだ日本も、のんびりしていると思うている。
(然し、二十年の間に何う変ったか?)
 急な山の中腹に立っているので、学校の真上に寺がある。とにかく、汽車を見た事がない生徒が多いし、飛行機の話をしたら
「先生□つきよる」
 と、てんで、本当にしないのだから
「先生、地獄てあると、坊さん云うてましたで」
 と、何のはずみか、生徒が云ったので
「そんなものはない」
 と、答えたら、真上の坊さんが怒って
「今度来た奴は生意気だ、代えてしまえ」
 と、校長の所へ云って来た事があった。これだけが、私の起した事件で、相当真面目に勤めていた。そして、早大へ入る為、大阪へ帰ってきたが、ここに又、一つ、恋愛事件が起った。これが、私の最初のそれかも知れない。

    二十一

 女が死んだか、生きているか――生きているとすれば正当に考えると、人妻であろうから、姓を秘して、徳子という名だけにしておく。世の中には、朝出て行く時、鏡台の前のポマードの分量を計って、帰ってきて、それが少いと
「男につけてやったのだろう」
 と、食ってかかった夫もあるというから、二十年前のいとも優しく、清らけき恋にも、何ういう誤解があるかも知れない。
 徳子は、大阪谷町の薄病院にいた。私が遊びに行くと一人の鼻の高い女――少うし高く、厚すぎる鼻の女が――足の短かいせいであろう、椅子の前へ、踏台を置いて、それへ足をかけながら、薄恕一のいう薬の名と、分量とを、処方箋にかいていた。若い女だから、何より先に、その顔が見たくなって、前へ廻ると、鼻は、横から見る程巨大な感じではなく、やや、八の字の眉、円い眼。中々いい女である。
 青春期の男女や、貴族、上流の婦人は、広く交際をしないから、すぐ手近い所の異性で済ます癖のある物であるが、私の前へ現れた女性として、私の齢に合うのは、この人だけである。
 然し、私は、何事も、貧乏人的に育ってきたから、こうした女と恋をしようなどとは、決して、考えていなかった。
 所が、ある夜薬局にいると一枚の処方箋を、徳子さんがもってきたが、その中に、散薬を包む四角い紙が入っていた。そして、その中に
「私は貴下(あなた)が好きです」
 と、書いてあった。私は、私の身体が、熱くなって、少しぼう張したように感じた。ああいう女が、女の方から、私に云いよるなんぞ、それは、何かの間違いではなかろうか、何うして返事を――何ういう文句で、何うして、それを手渡すか?
「私も、貴女が好きです」
 という紙を、然し、次に徳子さんが、処方箋をもってきた時に、巧みに、人目に見つからぬよう渡した。
 所が、この散薬紙での文通以外、話する事も、何うする事もできない。それで、私は、患者の来ぬ昼間、病院へ出かけて行って、話する事にした。然し、そうなると徳子さん程の女と、徳子さん程の女に思いつかれる程の男とだから、忽ち、評判になって、一日行って見ると、徳子さんが居ない。
 大事にならぬ内にと、神戸の家へ返さしてしまったのである。
 私は、病院を出ると、徳子さんから聞いていた武庫川の堤近く――芦屋の、徳子さんの家へ尋ねて行った。今の芦屋とはちがうから、何処の家にも、猛犬がいた。これが、がんがん吠える中を、訪ねて行ったが
「神戸の家にいなけりゃ多分、友人の宅にいるでしょう」
「友人の家は?」
「何処そこ」
 それから、神戸の家へ行くと
「わかりません」
 の一言だ。これは予期していたのだから、友人の所を訪ねると
「お別れになった方がいいでしょう。徳子さんは別れると申していますから」
「別れましょう。然し、一度、逢わしてくれませんか」
「妾の手では何うする事もできません。徳子さんのお母さんに、話しておきましょう」
 夜になった。十一月の末だ。大阪までの終電車は、とっくに出てしまって、東明までしか行かぬという。金はぎりぎり電車賃しか無い。東明まで行って、それから先は歩いて、少しでも、明日の朝までに、電車賃を節約しておこうと、歩き出したが、とても寒い。
 歩いたとて、いくら儲かる。それで、夜明けを待とうとしたが、十一月末の吹きっ曝(さら)しに、何うとも成るものではない。
 父が、東京へ行くなら、これを着ろと、古着で買ってきてくれた釣鐘マントの半分の奴を着ていたが、それをかぶって、停留所の中で寝る事にした。線路沿いに行くと、停留所があったが、これが何んと、昼間降りた芦屋の停留所である。
(運命だ)
 と思って、砕け、裂かれた身体を横にしたが、半分のマントでは、足がつつめない。足をつつんだ方がいいだろうと、下へやると、何うして、肩の寒さは、じっとしておれるものでない。
 今度は、マントを縦にして、頭から、足の先まで冠ってみたが、腰掛の板から、夜中の凍気が、しんしんと、身体を刺してくる。とうとう
(畜生、徳子、薄情者)
 と、罵りつつ、それでいて、恋しさに、眠れぬ眼を、見えぬ昼間の家の方へ向けて
(そこにいるなら、徳子、おれが、こんなになっているのを見せてやろうか)
 と、いうような呪(のろい)、愚痴。初めて、家を明けるのであるから、親爺の小言が恐ろしいが、そんな事は、丸で考えないで、悄(しょ)げ、怒り、恨み、寒がって、夜を明かした。
 そして、このままこの恋は終った。期間が短かいし、徳子さんの母親が、クリスチャンで、私の趣味に合わなかったから、諦めがよかった。
 この恋愛事件の最中に、一寸、上京した事があった。これが、最初の上京で、宿は、本郷の元の久米正雄の家へ行く、右側の第二何とか館というのであった。
 この時に、中学入学以来初めての写真をとったが、これも、差押えでなくなってしまった。黒木綿の紋付羽織に、白の長い胸紐、今では、暴力団の外に見られない書生風俗であった。男振りもよかった。

    二十二

 この時の上京は――上京してみたくて堪らないので、父へ、下宿の安い所を捜すつもりだし、南も行ったし、藤堂も行ったし、早く行って、準備しておく必要があるという口実であった。
 南も、藤堂も知らぬが、六十になっても死にそうには無いし、弟が十歳になって、これも、学校の成績はいいし
「貧乏人でも、倅の教育だけは、人に負けまへん」
 と、二十年近く同じ町内に住んでいて、古顔になった父は、倅の自慢が、何よりも好きであった。文字通り、食を割(さ)いても、学資の方へ廻してくれた。
 今春陽会の会員である洋画家藤堂杢三郎が、早くから上京して、駒込蓬莱町の下宿にいた。郁文館中学の左隣りで、これも、第二何んとか館という名である。久米氏の近くのは月二十円で、高級であるが、ここへくると月十六円で、二十五円学資をもらうと、十分にやって行けた。
 この下宿へ落ちついたが、下宿から、中学の庭を透して見える、小汚い生垣の、傾いたような家が、夏目漱石氏の旧居で「猫」は、あすこで書いたんだよ、と、藤堂が説明してくれた。
 汚い下宿であったが、その旧居が見えるのが、誇りのような気がして、そこにいた。
 そして、いかに、二十五円より安くて生活すべきかを、藤堂とも話をした。
「飯が焚けるか」
「焚ける」
「上手か」
「上手だ」
 と、いうような会話から、間借りをして、自炊をするのが安い、という事になって、私は、使命を果し、大阪へ戻った。この上京中に、徳子さんへ、手紙を出したので、確証が握られたのである。
 この上京した夜、勝手の知った本郷へ、一人で出てきた所が、今の燕楽軒の前で、書生と、職人の喧嘩があった。
「何っ」
 と、叫ぶと、職人が、諸肌(もろはだ)脱いだので、大阪の喧嘩しか知らぬ私は
(これは危険だ、東京で喧嘩するもんではない)
 と、感じて、以後、手出しした事はない。年に一度位女房へ出すが、これは危険でない。
 大阪では、子供時分から、よく喧嘩をするし、東横堀の木材の蔭に「十銭」と称する立淫売が出没するので、竹をもって、木材の間を掻き廻しに行ったり、松の亭の下足をとる時、うしろから、馬鹿力で押す奴があるので、振向きざま、撲(なぐ)ったり――相当に暴れたが、諸肌脱ぐ、勢を見ると、善良な、強がりだけの大阪者は、一度に、おじけをふるってしまった。
 この上京から、大阪へ戻ると、いつの間にか、徳子一件を、雪ちゃんが知っていて、大いにすねた。もう、十四になっていたから、嫉妬に似た感情をもっていたのであろう。
 徳子と離れ、雪子とおもしろくなくなり、一人ぼっちになった私を、じっと、覗(うかが)っていた女が、ここに一人ある。
 私は二十一、女は二十七。齢から見ると、所謂若い燕に当るが、女は、京町堀小町と唄われ、評判の美人である。
 何故二十七歳に成るまで婚期を外したかというと、当時、有名な「大寺事件」というものがあった。江戸堀随一の旧家、元の十人両替の中の一軒、大寺家に起った謀殺事件である。これと、一寸、女の家とが関係があったので、婚期を失したし、又、意中の人として、木谷蓬吟氏を思うていて、ままにならなかったし、その為、こういう齢になったのである。この女が、上京して、私の童貞を破り、私は女の家へ乱入して、立廻りを演じるという恋あり、涙あり、武勇ありという話になるが、明月に。

    二十三

 雑司ヶ谷、鬼子母神の境内を抜けると、もう一つ寺がある。その側に、植木屋があったが、ここに、仏子須磨子の姉の子が、自炊して、早大へ通っていた。ここへ、一日、須磨子が現れた。井上市次郎というその甥さん――だが六つ齢下の甥さんは
「何んや、喧嘩したんか」
 と、大きい眼を、もっと、大きくして聞いた。
「はあ、もう、大阪へ帰れへんつもり」
 須磨子は、兄の玄竜という人と、余り仲がよくなかった。大学生位までは、美人の妹というものをもっていると、いろいろ利益や、興味が、多いものであるが、生活などが、うまく行かないのに、二十七にもなる妹をもっていると、何んなにそれが、美しくとも、古い女房の、美しさと同じで、少しも、よくは感じないものである。
「植村は」
「田端にいよる」
 私は、田端の、小杉未醒氏の所の近く、泥川沿いの戸叶という家の離れに、藤堂と二人で自炊していた。
 藤堂は太平洋画会へ通っていたし、私は早大文科の予科にいたのである。室生犀星氏が、この藤堂と友人で、びっこの詩人と二人、よく、室生氏を訪問に行っていたらしい。
 この戸叶方へ、須磨子が来て、当分、東京に居るつもりとか、少しはお金がある、とか(これは、二十円の債券を何枚かもっていたのである。勿論、後には、生活費になった)。だが、近頃の時代とちがって、婦人の職業と云えば交換手か、看護婦しかない頃であるから
「置いてもろていい?」
 と、いうより外に、家出娘の生活法はない訳である。
「ええ、よろしい」
 とにかく、対手は、六つ齢上の二十七歳、こちらは、童貞の二十一歳であるから、礼を正しく、言葉を丁寧に
「しかし、寝るところが、ここよりほかに、ありませんから」
「そりゃええわ、一緒に寝るわ。藤堂さんと三人でしょう」
「はい」
 皆、中学同期の出身であるから、仲がよかった。私は身体が、ふわふわとなったように感じたが、それは、こんな美しい人が、自分のような者を手頼(たよ)って来てくれた、という事に対しての感謝で、劣情などの如きは神様に食わしてしまえと
「布団を、じゃ、借りてきて」
「ええ」
 素直に答えたが、この女は私を獲(え)ようとして、大阪から出てきたのである。しかし、何事もなかった。翌日
「市ちゃんとこへ行きましょうか」
「うむ」
 そして、二人は、植木屋の離れで、市ちゃんと三人で寝た。
 その暁、私は、無残にも、取り返しのつかぬ事を、されてしまったのである。

    二十四

「荷物をもってくるから」
 と、云って、須磨子は、大阪へ帰ってしまった。私は汚された身を、袴でつつんで、おもしろくない講義を聞きに行っていたが、その内
「家との事が、中々面倒で――あんた、いつ帰る」
 と、いう手紙がきた。そして、この手紙の終りに、何んと「旦那様」と、書いてあった。
 うれしいような、馬鹿にされたような――こんな言葉は車屋と、乞食の使う言葉で、使われる奴は、五十歳以上というように感じていた私は、その手紙を披(ひろ)げて、にやにや笑いながら
(矢張り、征服したのかな)
 とも、感じた。
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