死までを語る
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著者名:直木三十五 

「同国人が入(い)らしたので、大変心強くおもいますわ」
 と、云った。私の女は、腹をかかえて、飛んで上ってきて
「貴下、支那人やわ」
 と、笑いこけた。
「何が支那人だ」
「裏手は支那人やろう。奥さんは、日本人やけど」
「うん」
「その奥さんが、同国人が来たので」
 僕は、苦笑しながら、さては、支那人のように、のんびりしている所があるのかな、と思って
「似た所があるかい」
 と、聞くと
「そう聞くと、そうかも知れん」
 と、私の顔を正面から見たが、私は
(何言ってやがる、ちゃんちゃん嬶(かかあ)め)
 と、思って対手にしなかった。所が、これは後日であるが、家賃も払えなくなって、間借りした時、若松町の湯屋へよく行った。
 電車通り、大久保の方へ曲ろうとする所の右側の銭湯である。一日、人の居ない昼間――失業者には、風呂に限ると、ゆっくり、天井を眺めていると、三助が出てきて
「お国は、この頃、埃(ほこり)で大変でしょうな」
 と、云った。いつこの三助、私の大阪生れを知ってるのだろうと
「東京と同じだよ」
 と、答えると
「私は、これで、戦争に行って、約半ヶ年あっちにおりましたよ」
 あれ、又、支那人かと、これは二度目だけに、私も、自分の顔の支那出来を、肯定しなくてはならんようになった。だが
「わかるかね」
 と、いうと
「随分、あんた日本語がうまいが、矢張り、わかりますよ」
 私は暫く、これから、その湯屋へ行かなかった。戻ってきて、この話をすると
「矢張り、あるのかしら」
 と、女は答えたが、生活に打ちのめされていた頃とて、前のようにおもしろくはなかった。声高く笑えないで、微かに不快ささえあった。
 これだけならいいが、大震災の時に、私の情婦を、巣鴨へ訪ねて行って、帰り途、護国寺の前へくると、自警団につかまってしまった。
「お前、朝鮮人だろう」
 と、一人が云うが早いか、ぐるぐると取り巻かれてしまった。
「戯談(じょうだん)云っちゃあ困る」
「いや、朝鮮人だ」
「何んな面だ」
 とか
「ちがうちがう、日本人だ」
 とか、いろいろ周囲で騒いで、無事に納まったが、これで見ると、朝鮮式の所も、多少はあるらしい。
 つまり、いくらかのんびりとしている顔で、そこへ女が惚れるのにちがいない。鏡で、自分で見ると、何処にも、そんな所はないが、人が見ると、いろいろに見えるものと見える。

    三十二

 学校の思い出は殆ど無い。
 中学以来、学校は下らないものだと考えていたのが、確実になっただけである。
 親でもなく、叔父でもなく、主人でもなく、先輩でもなく、先生という一つの尊敬と、なつかしさとをもった人格は、確かに、立派な存在であるが、私は、故郷をもたぬように、そうしたなつかしい先生をもたない。中学の木村寛慈先生が、ややそれに近いだけで、時々、先生はいい仕事だとおもうが、そういう人に逢った事はない。
 小中学で、本当に、智慧なり、人格なりに、影響を与えてもらった人だったろう。恐らく、親よりもなつかしいと思われるが、そうした教育者は少いらしい。
 大阪という土地は、故郷という気のしない所であるし、小中大学に、学校のなつかしさの無い人生は、相当に淋しいものである。
 私のように、その精力以上に、働いている者は、時として、故郷というような所で、深い安息を求めたい気がする。
 私は、新居へ移ると共に、私の部屋へ引っ込んで、自分で炊事できるだけの道具――土釜、土鍋、七輪の類をととのえた。隠居の志が可成り、深い所に潜んでいるらしい。
 何か一つ、ショックを受けたら、私のような人間――負けずぎらいで無理してきた人間は、一度に敗けて、田舎へ逃げるかもしれぬ。
 こういう事が無くても、一人で飯を焚き、一人で暮らしている生活をしたい望をもっている。だが、私の係累(けいるい)は、ことごとく、私より若く、強い。矢張り、私は働きづめに死ぬのだろう。

    三十三

 私が早大を卒業――というのはおかしいが、クラスメートが卒業したので、私も遊びに行けなくなった時に、もう小説を書いて、売出していたのが、谷崎精二、広津和郎、舟木重信氏らで、国枝史郎が「レモンの花の咲く丘へ」とか「胡弓の弦の咽び泣き」とかという題の作を出したのもその頃である。
 同級生の中では、同じ姓が、競争させるのであろう。細田民樹と、源吉とが「早稲田文学」へ創作を発表した。卒業の前から、保高徳蔵は「読売新聞」に新設された婦人欄の記者として、試験をパスして、就職するし、鷲尾浩が、レートの広告部へ入って、月給四十円。
「うまい事しやがったな」
 と、吾々は、その月給の高を羨んだ。田中純に、宮島新三郎などは、相馬御風氏から仕事をもらっているらしいし、西条八十は、株式相場で生活していると聞くし、それぞれ生活の心配が、何うにかなくなって行く内に、いつまでも職の無いのが、青野季吉と、私とである。二人とも、女房がある。私は、そんなに喧嘩をしないが、青野は、よく夫婦喧嘩をして
「ま、ま、又やってきた」
 と、どもりながら、半日位遊んで行った。在学中、私は早稲田美術研究会の幹事をしていたが、その縁で紀淑雄先生から、日本の美術に関した本を全部書上げてくれないか、出版部から発行するから、という話があった。私は、すぐ金にならぬが、何もする事が無いし、仕上げたなら金になるだろうと、父に
「こういう仕事があるから、それの終るまで、毎月今まで通りに送金してもらいたい。就職口は、そう急にないし、大阪へ帰ってはいけないから、是非たのむ」
 と、云ってやった。期間は三ヶ月と切って、それ以上はいらぬ、とつけ加えた。坂崎坦(しずか)氏、森口多里氏など、この研究会の幹事であったが――それから、三ヶ月、毎日、上野の図書館へ通った。今何うか知らぬが、いつも満員つづきで、待たされるのに、いらいらしながら、古来からの東洋美術に関する書籍をことごとく調べて、書上げた。所が書上げると同時に
「出版部の都合で中止になった」
 と、云われてしまった。私は、大してこういう事に憤慨したり、怨んだりする性質ではないが、失望はした。そして、こんな事は、一切女房に打明けない性でもあるから、仕方が無いと、一人であきらめて、又、青野と夫婦喧嘩の話をして日を送っていた。

    三十四

 その内に、田中純が、一つ仕事をもってきてくれた。それは、当時「アカギ叢書」という十銭で、何んな事でもその梗概だけはわかるという本が出ていたが、それが売れるので、それの模倣の十銭本が、いくつも出たのである。私のは、その中の一つで、トルストイの「戦争と平和」を、二百枚にちぢめて書いてくれ、原稿料は四十円。名は、相馬御風氏のを借りるという仕事である。
「翻訳は出てないだろう」
 と、聞くと
「無いねえ」
 大変な本である。読むだけで、十日や、二十日はかかる。私は四十円の稿料が、灼けつくように欲しいし、見ただけでうんざりする大部の書物を考えると、暗くなってくるし、大抵の事は即答する私であるが、一寸考えこんだ。しかし
「やろう」
 と、云わ無い訳には行かなかった。それから並製本の「戦争と平和」を買ってきて、読みかけたが、三四十頁も読んで、ようよう梗概が二三行しか書けない。私は、幾度か投げようかと思ったが、四十円あると、夫婦で二ヶ月暮らせるし、女房は妊娠しているし、三四日、半分怒りながら書いて行った。三分の一仕上げた頃から楽になって、少しずつ進みかけたが、半分を終った頃、小川町の国民文庫刊行会という名著を大部な予約で出版する家から、「戦争と平和」の上巻だけが出た。私は今までの経験で、この時位がっかりした事は無かった。金高は四十円だが、一枚二十銭の稿料である。そして――まあ、何んなものか、諸君はやってみて、その困難さを知るがいい。
 上巻は出たが、下巻は出ぬ。下巻が出るまで待つ訳に行かぬから又、読んでは書いたが、下巻へかかって暫くすると勇気を恢復(かいふく)して、とうとう二百枚にちぢめたが、この本はもう何処にもあるまい。発行所は、今の精文堂であったらしい。四十円もらった時には、然し、うれしくって、嘗て一度も、先生の家へ、物などもって行った事の無い私が、女房に鯉をもってやらせた。そして七円で、長火鉢を買った。初めて稿料をもらった記念にである。この長火鉢は、震災でなくなってしまった。

    三十五

 所で、ここに、一つ秘密を書かなくてはならぬが、ある日、私が戻ってくると、女房と、友人の某とが、炬燵の中に入っているのである。勿論、坐っていたが、炬燵へ入るには大抵、差向いを原則とするのに、友人と女房とは、三方を空けておいて、一方に二人が固まって、くっついているのである。私は、見るべからざる物を見たような感じで逃げ出そうと思ったが、小さい家で、格子も、障子も開けて見てしまったのだから、何うする訳にも行かない。二人は、一寸赤くなって
「やあ」
 と、友人は云いつつ、少し離れるし、それをしおに、女房が立上ったが――ただそれっきりの事で、何ういうものか、私には嫉妬とか、不快とかの念が少しも湧かなかった。二人とも信用しているし、友人の云う事には、決して反対しない私の性として、そのまま二十年近くをそれは問題にしていなかった。所が、この間、ある話の序(ついで)に、ふっと、この事を思出して
「何うかねえ」
 と、久米正雄君に云った。湯河原の温泉に於てである。
「ふむ」
 久米君は、微笑して
「里見君は、あると云っていたが」
「何うも、そうらしいようでもあるが」
 話は、これだけであるが、これに連関して、それから、二十年の後に、大事件が起るのである。
 この事は、秘しておいた方がいいかも知れぬが、何うも秘密をもつのが嫌いなので、書いておく。

    三十六

 四十円という金と、二ヶ月という時日とはすぐ消えてしまった。父の送金は、とっくにないし、女房の臨月は近づくし、青野と二人で
「困ったなあ」
 と、云って、毎日、新聞の就職欄ばかりみていた。
「よしなさいよ」
 と、女房に、本気に叱られた事さえあった。
「何うにか成るわ、くよくよしなさんな、こっちが悲しいわ」
 と、女房は取上げた新聞をもったまま、快活に云った。その内、一日、保高が
「読売新聞に一つ口があるが」
 と、云ってきた。そして
「前田晁(あきら)氏に逢うて、詳しい話をしてみないか」
 と、晁氏の住所を教えてくれた。それで――何処であったか、郊外の晁氏の所へ行くと、二三、簡単な話があって、帰されてしまった。翌日、保高がきて
「君、いけないよ。応接の態度が、記者に適さんのだ、君、格子戸を開けて、首を突込んで、前田さんはと云っただろう」
 私は、この時、我慢のならぬ不快さを感じた。その時出てきて、私が首を突込んだのを見たのは、晁氏でなかった。
(晁氏ならとにかく、嬶や女中が何んだ)
 と、怒ったのである。
「それがいけないんだね」
「そうかなあ」
 この座に、青野季吉が来ていて
「僕を紹介してくれないか」
 と云った。青野が、読売へ入ったのは、この時である。そして、とうとう私は、一人だけ取残されてしまった。保高が、気の毒がって
「博文館へ話するから、談話筆記でもとらないか」
 と、云ってくれた。それで、かかりの人に逢うと
「鎌田栄吉さんを訪問してきてくれませんか」
 と、いうのである。
「そして、五枚位に書いてもらいたいんだが」
 私は、すぐ鎌田氏を、慶応義塾に訪うた。
「明日午後一時に来なさい」
 というのである。その日に行くと、氏は、部屋から出てきて、私の待っている廊下――庭に面した廊下へ立ったまま、青年に対する訓戒の言葉を話された。私が、それを筆記し終ると
「見せてもらいたい」
 と仰(おっ)しゃった。私はその日、戻るとすぐ清書して送ったが、それっきりである。私は、筆記もとれないらしいのである。その内に、子が出来た。「木の実」という名をつけた。産婆と、隣りの婆さんとに
「家にいてはいけません」
 と、云われて、早稲田のグラウンドの周囲を二時間の余も、歩いていたのを憶えている。戻って来ると
「二人とも達者だよ」
 と、婆さんは、云ってくれたが、私は
(何うして生活すべきか)
 が、第一であった。父にとっては、初孫であるし、いい時に生れやがったと、すぐに、父に無心さした。着物に金を少し送ってきた。ほっと一息ついたが、それはほんの一息である。本をことごとく売り払い、着物のいい物を、ことごとく入質してしまった。

    三十七

「うむ、何うも」
 と、いうより外に、友人が来ても、話をする興味が無い。第一に、それらの友人は、ことごとく就職してしまって、そうは遊びに来ない。本は売ってしまって読むものはないし、入質したものを、古着屋へ売って、その差額を幾度か得た。これは、古着屋の常だから、こういう方法を知っているのである。友人に、金を貸せということは絶対に云えないし、貸す余裕のある者もいないし
「魚なんかいいよ、お前は、乳が出るんだから」
 と、云うようなことになると、強気の女房も、少しずつ悄気(しょげ)出した。ある日、求人欄を見ていると、当時、日比谷公園の、今の――美松の前辺に、いんちき横町、山かん横町というのがあったが、そこへ入る所に、木造洋館の「実業の世界社」があった。そこで、記者を募集しているのである。私は、女房に黙って、家を出た。懐中に、十二三銭もあったから、往復切符を買おうか、片道にしようか、この一銭の差で、可成り考えて
(一銭損でも、職にありつければいい。もし駄目だったら復券は食事にならんから)
 と、駄目なら、帰りは歩くつもりで、出かけて行った。取次が、二階へ上れ、と云うので、二階へ行って、云われた扉を開けると、右側の机に、くりくり坊主の男がいて、こっちを向くと
「もうきまった」
 と、云って、又机に向ってしまった。これが安成貞雄氏であった。私は、暫く呼吸もしないでいたが、それから、お濠の端を、早稲田まで歩いて帰ってきた。このことは、未だに女房は知らないであろう。私は、こういうこととか、困ったとか、何うしようかと云うようなことは、一切女房に云わないし、女房も又
「何うしましょう」
 というような種類の言葉は、決して口にしなかった。これは、貧乏に処する一つの方法である。私の家が古着屋故、着物を送らすのは、金を送らすよりも便利であったから、時々口実を設けては送らせたが、それは、高の知れたものであるし、その着物を送れと書いた手紙に貼る三銭切手が買えないで、幾日も床の間の上に置いてあるようになった。米屋や、八百屋に借金が出来て行った。隣りの大家に見つからぬようにしなくてはならぬようになってきた。

    三十八

 保高が
「君の妻君、文章が書けるかね」
 と云ってきてくれた。
「文章って、手紙位なら」
「実は、婦人記者が一人いるが、勤めるか。木の実ちゃんがあって、駄目かも知れんが、困っているなら」
 女房が
「やります、保高さん、何んな事でも」
「しかし子供が」
「子供は、僕が育てる」
「そうかね。月給は十八円で、電車のパスが二冊出るんだ。そして別に手当が五円だけれど――」
「結構だわ、保高さん、頼んで頂戴」
 女房は、必死であった。
(見っともない、騒ぐな)
 と、私は一寸、睨みつけたが、うまく行ってくれと、心の中では祈っていた。この時の読売婦人欄の主幹が、前記の前田晁氏、上司小剣氏も在社された頃である。
「青野も、保高もいるし、やってみろ。一ヶ月でもいいや、十八円ありゃ助かるからな」
「そう、じや、社へ明日来てくれますか」
「伺います」
 今、大朝(だいちょう)にいる恩田和子女史も、この時の記者であった。五月頃であったであろうか、女房は婦人記者として、読売新聞へ勤める事になったが、亭主の私は、何うであろう。生れて一年足らずの長女のお守である。私が、あぐらをかいて、左脚の所を枕に頭をのせ、脚を私の右脚の上へ置くと、子供は、あぐらの中へ、すっぽりと入ってしまう。これを、上へ下へ動かすと、子供は快く寝るが、男の子守はやってみるといい。女は何(ど)うかと思うが、揺籠(ゆりかご)よりは柔かく、子供にはいい籠である。そして、ゆり上げ、ゆり下げつつ、両手で、新聞を見、本をよみ、物をかくのであるが、女なら毛糸や、刺繍位はやれるであろう。ミルクの調合も上手であるし、時々大家の婆さんが見にきて
「泣かない子ね」
 と云ったが、私の子守は天才的に上手であった。それから十月の三十日まで、子供には風邪一つ引かさなかった。真夏には、湯屋へ行って、三時間位、親子二人裸で、この揺籠をゆりつつ、暮らしていた記憶がある。
 その内、子供が、母親の乳と、顔とを覚えるようになった。当時、江戸川が電車の終点であったが、夕方になると私は、子供に早く母親の顔を見せてやりたいので――決して、私が女房の顔を早く見たいのではない――江戸川の堤を、子供を抱いて、終点へと行くのである。雨の日には傘をもって――それは□であるが、私を考えさせる日が、十月まで半年つづいた。
 女房の帰りを迎える為に、菜を煮、米をかしぎ、座敷を掃除し、時々は、洗濯までしながら、生活について考えた。書く、という事を第一に考えたが、人の書くような小説を今更書いて、細田のあとから、よろよろと行きたくはないし、談話筆記は落第するし、記者も駄目だし――それに、父の年齢の事が気にかかるし、弟が中学へ入っているし(友人と同じように、文筆関係で生活しようと考えている事は大まちがいだ。そんな事で、こんな事をして、愚図愚図していると、大変な事になるぞ)
 私は、金を儲ける事を考えかけたが、何れも資本のいる事であった。その内に、女房が
「もう勤められない」
 と、云って、初めて、悲しい顔を見せた。
「何うして」
「明日から十月でしょう」
「うん」
「この着物で――歩けないわ」
 冬物が、値がいいので、ことごとく入質して、夏物のみである。この夏物と、冬物は交換できないし、金は無いし、女房は、袷を世間の人が来て[#「来て」はママ]いるのに、単衣で働いていたのである。
「よし、止めろ」
 と、私は言下に答えた。社の内情も、少し知っていたし、これ以上、女房に出来ない事をさしてはおけなかった。明日から何うするか、何の見当もつかなかったが、女房が、うつむいて
「勘弁して下さい」
 と、いうと同時に
「止めた方がいい、何うにかなる、心配するな」
 と、云って、何かしらやろうという力の、湧いてくるのを感じた。
(以下中断)



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