死までを語る
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著者名:直木三十五 

  自叙伝


    一

 大草実君が
「直木さん、九月号から一つ、前半生記と云うような物を、書いてくれませんか」
 と云ってきた。私は、今年四十二年六ヶ月だから「前半生」と同一年月、後半世も、生き長らえるものなら、私は八十五歳まで死なぬ事になる。これは多分、編輯(へんしゅう)局で、青年達が
「直木も、そう長くは無いらしいから、今の内に、前半生記みたいなものを、書かしては何(ど)うだろう」
 と、云って、決まった事にちがいない。そして、大草実は
(長くて一年位しか保つまいから、丁度、これの終る頃くたばる事になると、編輯価値が素敵だ)
 と、考えたのであろう。
 全く私は、頭と、手足とを除く外、胴のことごとくに、病菌が生活している。肺結核、カリエス、座骨神経痛、痔と――痔だけは、癒ったが、神経痛の為、立居も不自由である。カリエスは、大した事がなく、注射で、癒るらしいが、肺と、神経痛は、頑強で、私は時々、倶楽部(クラブ)の三階の自分の部屋へ、這(ほ)うて上る事がある。
 私が、平素の如く、健康人の如く、歩き、書き、起きしているから、大した事であるまいと、人々は見ているらしいが、五尺五寸の身長で、十一貫百まで、痩せたのだから、相当の状態にちがいない。
 そして、何の療養もせず、注射をしているだけであるから、或は、この賢明なる青年達が、見透した如く、私は、来年の何月かに、死ぬかもしれない。
 ただ、齢が齢故、病状の進行が遅いし、意地張りで、こんな病気位と、大して気にも止めていないから、大変、青年達は見込み外れをするかも知れないが、それは、今の所、何っちとも云えないであろうと思う。
 私も死にたくないから、いよいよ病が進んで来たなら、山へでも入って、専心に闘病してみるが、何んしろ、病人だと思った事がないのだし、三十八度五分位熱を出しても、原稿を書くし――それに、幾度云っても、誰も信じないが、入院して、静養するような金は一文もない。これは、近しい友人でさえ、私が説明せぬと、わからないのだから、他人が、□にするのは当前である。
 何んしろ、桓武天皇時代からの貧乏で、死ぬまで恐らくは、火の車だったり、水の車だったりであろうが、何の位貧乏し、何う大きくなって来たか、私の幼年時代から、話をして、死土産にしておこうと思う。

    二

 貧乏は、桓武天皇以来であるが、祖先は、植村与一兵衛宗春尉(じょう)、という人からしか判っていない。私の本名は、植村宗一で、植を二分して、直木と匿名にし、当時三十一であったから、直木三十一、翌年三十二と、一目上りに変えてきて、三十五で止めたのであるが――この与一兵衛は、大和国箸尾村の土豪であった。与一という名から考えて、十一番目の子らしいが、その時分、それ程正確に、名をつけていたか、何うか分らないから、断言はできない。那須の与一、真田の与一、十から一つ出るので、十一男には、与一とよくつけるのが習慣である。
 高取城々主も植村というが、それなんぞと、関係があるかもしれぬ。天正年間、筒井順慶が、織田信長の命によって、大和を平定した時、順慶と戦って討死した。墓が残っている。
 それから、何代か後になって、東本願寺の家老となった。下り藤の紋のついた鉄砲が、それを物語っている。それから、植村常右衛門の代になって、郡山藩の侍講になった。相当尊敬されていたと見えて、年に一度の、煙火(はなび)の催しの時に、殿様が郡山から、常右衛門が、反対側から、煙火見物の橋上へ、同時に現れて、挨拶をし、それから、打揚げにかかったのだと、よく父が語っていた。
 この常右衛門が、私の父の父で、私の父は、三男として生れ、長子常太郎は、本家を継ぎ、次子は亡くなったが、父の弟も健在である。
 丁度、それが、維新の変乱の時で、この程度の家は、傾く一方で、私の父惣八は、とうとう天保銭を三枚もったきりで、大阪へ出奔してしまった。それから、大丸屋呉服店へ奉公して、番頭になったが、何か熱病で、夢中の内に、情婦に逃げられたりして、店も面白くなくなったのであろう。大丸での智識を基として、古着屋になったのである。父は、よく今でも云うが
「大野の植村と云うたら、大和の人で、知らん人あれへんで」
 という自慢は、本当らしく、一族には、富家が相当にある。この父の所へ、母が
「大野の植村の息子」
 というので、嫁に来たのであった。来てみると、店先には「ぱっち」(股引の事)二三足と、汚い古着が、四五枚釣ってあっただけだったので、びっくりした。と、よく話していたが、これが、そもそも貧乏の始めである。
 母の家は、大和の国の安堵村の下長で、藍と、木綿とを商にしていたらしい。幼少の時、父が死んで、その弟が、時代の衰勢と、自分の怠惰とから、すっかり、身代をつぶしてしまったらしく、後に、筆墨行商人になって、私の家へ、よく来たが、くると、母に叱られて、よわっていた。
 池のある大きい、広い山があったし、馬がいつも、五六頭店先にいたと、母が話しているから、相当の商家であったのであろう。

    三

 この母に、一人の弟があった。養子に行って、新井姓を名乗り、孝次という名であったが、これが秀才で、大阪谷町の薄(すすき)病院の院長、大阪府会議長の薄恕一氏と、親友であり、早世して、非常に惜しまれたが、その為、この薄氏と親しくなり、殆(ほとん)ど育つか、育たぬか分らなかった私が、とにかく、四十三まで、生きて来られたのは、この人が居られたからである。
 私の宗一という名は、鹿児島の、貴島清(西南役の雄将)の息子さんで、名は忘れたが、軍医の人がつけたもので、私の弟の清二というのは、この薄恕一氏が、名づけ親である。
 私は、父が四十の時に生れた子で、母は嫁入してから、八年目である。もう無いものと、諦めていたのが、出来たから、ひどく喜んだらしいが、病弱で、育つか、育たぬか分らなかったらしい。だから、いつも家の中に、じっとしていて、初めて、幼稚園へ行った時など、一人、運動場の隅に立っていて、何んと云っても、人の中へ入らず、母は、心配して、泣いたそうであるが、それが、こういう風に、図々しくなるのだから、おもしろいものである。
 生れた所は、大阪市南区内安堂寺町二丁目であるが、今、そこは、電車路になっている。谷町六丁目交叉点の、内安堂寺町側、谷町館の東側、丁度、乗客が電車を待つ為に立つ所が、そうであった。当時の谷町筋は、鎌倉時代から、紀州、河内へ行く、唯一の道で、今の天満橋、昔の渡辺橋から、一直線に、天王寺の前へ出て、丁度、右手に海を見晴らし、左手に小高く森のつづいていた道であるが、極めて細いものであった。
 城に近いし、唯一のいい路なので、砲兵隊が大砲を率いて、よく通ったが、私の家の上げ店が、その車輪にかかって、破られたのを、覚えている。
 この生れた家は、私の記憶にして、誤り無くんば、三間あった。店と、次と、奥と――そして、道具として、長火鉢が一つあった。私が立てるか、立てぬかの時分、この長火鉢の抽出しを開けると、油虫が、うじゃうじゃと走り廻っていたのだ。
(何んだろう)
 と、別に、恐くもなく、不思議がったのが、今でも、はっきりと残っている。店の品物なんぞは、有ったか、無かったか、少しも憶えていないが、汚くて、暗い家であった印象は、本当であろう。
 この家に出入していた人で「鹿やん」というのが、その後も、よく母を慰めにきて、私の為に土産物などをくれたらしい。母が、私の幼時の唯一の話として、いつでも聞かせたのに――この鹿やんが、住吉神社へ詣って、土で彩色を施した馬を買ってきてくれた。私は、幼少時代、玩具という物を持った覚えがないが、母も、この馬は嬉しかったらしい。それを私は、持ち上げると共に
「四王天、馬とって抛った」
 と、叫んで、土間へ投出したのだそうである。土の馬故、粉々で、鹿やんは
「ああ」
 と、云ったまま、ひどく悄気(しょげ)たというが、この事は、幼稚園以前であるから、私の大衆文学智識というものは、相当に古くから、その淵源をもっている。
 これを裏書するもう一つの事実は、東京の新粉細工(しんこざいく)、大阪団子細工、あれの細工しないで、板へ並べただけのものが、――今も、何んというか知らぬが――欲しくて仕方がないが、名がわからない。いろいろと考えて
「義経の八艘飛(はっそうと)びおくれ」
 と、団子屋に云った。
「八艘飛びあれへん」
 と、素気なく云われて、幼稚園で、友達の中へも入れぬ臆病な私が、大道の真中で、何んなに立ちすくんだか、それから、暫(しばら)く、団子は買わなかった。
 この、四王天や、八艘飛びは、鹿やんが教えてくれたものらしい。私の為に、絵本や、立版子(たてばんこ)を買ってきてくれたのは、ことごとくこの人であるから、何一つ、その話していてくれた事も思出せないが、父も、母も、そんな事は、全く知らぬのであるから、私の今日は、鹿やんのお蔭である。この鹿やんは、それから後、ずっと来ないようになったが、小学校時代に、その死を聞いた。何の感じも起こらなかった。鹿やんへの記憶が、余りに、幼い時分の為であったのであろう。

    四

 私の父は、私が生れたので、必死に働き出したらしく、私が小学へ入った年か、幼稚園の後期時分か、同じ町の西方、三十七番屋敷へ移った。ここも今、すっかり、家が新らしくなってしまったが、店の間が三畳、次が二畳と押入、奥が二畳半である。ここで、中学を終えた。
 幼稚園生活は、然し、子供の事故(ことゆえ)、すぐに慣れたらしいが、病弱の私は、いつも、薄氏の所へ通っていた。処方箋に「△」の印がついていて、父は、これを指して
「宗一、これは無料という印やで、皆、孝次さんの御蔭や」
 と、父も、孝次の秀才は、認めていたらしく、母の方の事は、よく悪口云うが、孝次氏にだけは感心していた。
 学校は、桃園尋常小学校と云って、内安堂寺町の高地と、空堀筋の高地との間に挟まれている窪地にあったが、この辺一帯を「のばく」と称して、貧民窟であった。だから、中学へ入った人が少いし、私と、首席を争った「錦」という子は、例の団子屋の息子であるし、もう一人の藤原は、砲兵工廠の職工の息子であった。私が、中学まで行くと聞いた時、二人は
「植村はええな」
 と、羨んだのを、未だに、まざまざと憶えている。その当時の私は、二人に対して、得意であったが、いつも、この三人で、首席を争っていた事を思出すと、少し、感傷的になってくる。
 この「のばく」――私の家のうしろが、丁度「のばく」と、崖になっている高見であるが、この下に、今大阪の落語界で、大立者と称されている九里丸が住んでいた。
 九里丸の話によると、彼の四軒長屋は、出世長屋で、四軒とも、相当の人物になったと、その名まで挙げていたが、私は、関係がないので、九里丸の外に知らない。
 この人の父が、大阪中を風靡(ふうび)した、東西屋(チンドン屋)の元祖九里丸で、大阪奇人伝中の一人である。夜になると、囃子(はやし)の稽古をするので、私達子供は
「のばくの狸が、又囃しとうる」
 と、云っていた。この長屋と、一度、上下で、石合戦をした事があった。私は、もう尋常二三年位で、誰にも劣らぬ乱暴者になっていたので、石を投げていたが、その一つ――誰のかが、九里丸長屋の赤ん坊に当ったため、親父が出てきたので、一目散に逃げ出し、家の中へかくれていた事があった。
 一つ、北の通りが、十二軒町と云って、役人の邸跡であるが、そのつづきの神崎町の腕白共を対手に、竹竿をもち出して、大喧嘩をしたのも、その時分らしい。私は、中学でもう一度、大乱闘をやっているが、それは後の事にする。

    五

 小学では、秀才で、大抵一位か、二位であった。今、何うして、こんなに字が拙くなったのか知らぬが、御手本を見て、真似する字は、私が第一で、丁度、三年生の時、書の上手なのを、雨天運動場へ掲げるようになったが、真先に、私のが出た。
 父は、寺子屋しか知らぬから、字が上手だと、何より喜んで、この時も、すぐ、薄氏の所へ自慢に行ったらしい。
 所がである、同じ三年の時、菅原道真の事が、読本に出ていた。その中に「遷(うつ)され」という字があったが、先生から、聞かれても、誰も答えられない。
「植村」
 と、最後の指名が、いつもの如く私へ来た。
「流されです」
 と、答えると
「意味は同じだが、うつされと読む」
 と、先生が云った。それまで、級中第一の自負心をもっていた私は、この間違いが、叩きのめされたように堪えた。それ以来、いかなる場合にも、知っている、という合図の為に揚げる手を、決して揚げなくなってしまった。
 幼稚園時代の極端な、はにかみ屋が、又復活して、これは、その後――今日も猶、つづいている。座談会などへ出ても、自分から中々口を開かないのは、その時からの習慣が、中学を通じて、天性のようになってしまったからである。
 この打撃は、可成りひどかったらしく、学校が嫌になって、四年の時には、四番目か、五番目へ落ちた。
 だが、父は貧乏の中から、学校だけは、大学までやると、必死になってくれたので、何の不愉快さも残っていないし、不自由さも感じなかった。
 然し、家庭での生活は、今、考えると、みじめ極まるものであった。

    六

 私は、玩具をもった記憶がない、と云ったが、殆ど、間食をした記憶もなかった。いくつ位の時であろうか、家が近いので、学校から、一時間の昼飯時には、帰ってきて食べる事にしていた。遊びたい時分なので、急いで、御飯を食べ終ると、母に
「焦げあるか」
 と、飯の焦げた所の残っているのを、催促する。
「ある」
「とっといてや」
 と、云って、走って、学校へ行ってしまうが、この焦げた飯を握ったのが、私の間食であった。それから、母は、釜や、櫃(ひつ)の洗った残りの飯粒を、笊(ざる)へ入れて、天日に干しておいてくれて、これも、私の間食になった。後になると、私自身が、それを造って食べていた。
 家へ戻ると、中々、出してくれないし、玩具も、何も無いから、私は、チョークを買ってもらって、それで、押入の板戸へ、絵や、字を書き出した。小さい家で、大阪流に、中の間は、薄暗いが、その中で、夜になるまで、書いては消し、消しては書きして、板戸の下から、三尺位の上下は、白墨の白さが、しみ込んでしまっていた。
 それから、間なしに、店と、中の間の間に、一尺四方位の硝子(ガラス)が、一間余り入ったので、嬉しくて堪らず、そこを又手習台にして、主として、絵を描いた。
 時々、近所からの貰い物などがあるが、そういう物は、自分の生活とは、ちがった物のような気がして、例えば、菓子を食べても、それが無くなると、欲しいという感じは、絶対にしなかった。食べられないのが、本当で、食べるのは間違っているように、感じていた。
 生れた時から、こうして育つと、貧乏を少しも、貧乏とは感じないものである。これが、誰でもの生活だ、というように――子供であるから、簡単に――たまたま友人の、広い家へ行っても、何の感じもなく、羨望も何も、起らなかった。
 内安堂寺町の上の方に、尼寺があって、そこに、国宝の観世音が祭られているが、その縁日が、八の日に立つ。立つと、玉造から、丁度、私の家の辺まで、七八町――大阪で有名な夜店である。
 いつ頃か、一人で行くようになった時に、小遣銭として、二銭母がくれた。これが、小遣をもらった最初であるが、二銭を握って、三度位、七八町の間を往復したであろうか? そして、とうとう何も買わずに戻ってきた事があった。
 この中で、本だけは、よく買ってくれた。その時分、道頓堀筋、日本橋東へ入る南側に、絵本屋があったが、そこへ行って、絵本を買うのが、唯一の楽しみで、当時一冊、三銭位であったであろうか、彩色した袋の中に入っていて、中は、馬糞紙の粗末なものであったが、それだけが、私の買ってもらった唯一のものである。

    七

 私が生れてから十年目に、弟が生れた。父が
「清二が生れよったさかい、いつまでも御前遊んでたら、何んならん、少し、うちの事手伝い」
 と、ランプの掃除が、その第一の仕事になった。これは、前々から、私がやっていたらしいが、洋燈の掃除について、一寸も叱った事の無かった父が
「こら、汚い、もっと丁寧に掃除せんといかんがな」
 と、叱るようになってきた。それから、子守。この子守は、母と二人で、大抵母が守をしてくれるが、夕方、骨屋町へ買物に行く時には、帰りに持ち物が増えるので、必ず私が母について行く事になった。
 骨屋町とは、南北に通っている町で、俗称であるが、それは、和泉町から本町へかけて、丁度、今の公設市場のように、一切の食料品店が、その辺に集っていた。
 これは、大阪が、一番よく発達していたのではないかと思っているが、私達の住んでいた上町――坂の上の方にある町、高い所の方の町の意、東横堀川より以東を総称す――は、船場、島の内より見て、貧乏人階級であったから、自然に、そういう風なものが、利用されたらしく、少し経ってから、空堀の方、玉造の方にも、そういう市場の集団が出来た。これは、横堀以西に余りないのであった。
 八百屋、魚屋の類が、凡そ、二三町の間に、連なっていたが、ここで物を買うと、近所の同じ商人で買うより安いから、子供を背負うて買出しに行くのである。母が、葱(ねぎ)と、大根との風呂敷包をもって、私が、弟を負うたり、その反対だったり――それから、それが、だんだん慣れてくると、私が一人で買出しに行ったり、弟を背負うて、母を連れずに行ったり――思春期前の少年だから、平気で
「この頭おくれ」
 と、出汁にする鰻の頭を一皿買ったり、牛肉屋が顔馴染になったので
「味噌まけといてや」
 と味噌を、余分に入れさせたり――そして、多分、私が弟を背負って、そうして、大抵毎日買って歩いているのが商人達に、記憶されたらしく、それから又、憐れまれたらしく――私等兄弟より外に十歳位で、そんな所へ、惣菜(そうざい)を買いに行く奴はいなかったらしく
「まけといたるで」
 と、鰻屋が、八幡巻(やわたまき)を一本添えてくれた事があるし、牛肉屋が
「葱もおまけや」
 と、添え物の葱を一つかみくれた事もあった。そして、そういう日は、私は得意で
「まけてくれよった」
 と、自慢した。この惣菜買いは、それから後中学へ行っても続いていた。
 所が、困った事に、鰻の頭や、葱のしっぽだけでは、大して手助けにならぬし、小僧を置くような資力はなく、私が、惣菜買いの上手を見込まれて、今度は、父と共に、古着の包を背負って、歩かなければならなくなった。
 鑑札が、正面の柱にかかっていたが、それには「古物商」と書いてあった。古い物なら、何んでも買うのである。父は、着物の外に、金物や、道具の類は、少しも判らないが、それでは、商売にならないから、わかったような顔をしていた。そして、鉄瓶(てつびん)を買ってきたり、箪笥(たんす)を買ってきたりしたが、それを値踏みするのは、いつも、近所の、岡本という古着屋の人であった。
「宗一、岡本はん走って、行って、これ何んぼや聞いといで」
 と、売りに来た客へ
「すぐ、持って行きまっさ」
 というような事を云って、帰しては、私が走って、値を聞いた。そういう物が、少し嵩張(かさば)ると、父は
「宗一、手伝うて」
 と、云って、私に半分、背負わせて、持って行ったり、持って戻ったりした。
 電車の出来たのは、それより、ずっと、後であるから、大阪中、何処でも、歩いて行くのである。父は、今年八十三歳で、未だ元気であるから、少々のことは、平気であるが、私は、弱かったから、古着の三十枚も、首へ巻きつけ、肩へのせて、天王寺や、玉造や、淡路町――時として、住吉の近くの勝間辺まで、往復するのは、可成りつらかった。
「若い間に、苦労しとかんと、えろなられへん。わいら、天保銭三枚もって、大阪へきて、こないなったんや」
 父は、大抵同じ事を云った。この小僧代理は、思春期に入ると共に、甚だ不愉快なものになった。しかも、真向うに、惚れた女が出来、古着屋という商売が、余り上等でないとわかってきてからは
「宗一、浜はんへ行って、買うたんのとっといで」
 と、云われるのが、何より嫌であった。然し、これは、すぐ間もなく、中学へ入ったので
「勉強の邪魔になる」
 と、いう口実を造って、逃げてしまった。

    八

 この尋常小学在学中に、私を可愛がってくれた人がある。相当、父は長く、同町にいるので、町内の人とよく交際していた。その中で、売薬屋をしている楠という家に、一人の婆さんがあった。
 この婆さんの娘が「渋川」という特務曹長の妻になっていたが、軍人の事故(ゆえ)、時々、転任するので、その間淋しいらしく、男の子は「二宗商店」という、例の「照葉」に指を切らした放蕩(ほうとう)息子を生んだ大阪屈指のべっ甲問屋へ奉公へ出ていていないし、それで、私が行くと、いろいろと、もてなしてくれた。家で、間食の味は、殆ど知らなかったが、ここでは、いつも、菓子をもらった。
 この渋川特務曹長が、時々、戻ってくると、子が居ないので、矢張り、私を可愛がってくれた。白葡萄酒をのましてくれたが、私は
(世の中に、こんなうまいものがあるだろうか)
 と、感じた。早稲田を出てからさえ、白葡萄酒だけは、どうかして、一本欠かさず備えておきたい、というのが、人生の希望の、大きい一つであったが、今頃飲むと、一向うまくない。
 食べ物では、今でも、食べたいと思うのは、蒟蒻(こんにゃく)。今の蒟蒻とは、蒟蒻がちがうらしい。もっと、色の黒い、汚い黒い斑点の入った――それが、実にうまかった。例の、夜店の関東煮(だき)屋の品であるが、これも、すっかり無くなった。水飴、和砂糖――飴は今でもすきであるが、瓶へ入ったとろとろの飴など、食べられない。田舎へ行くと捜すが、もう、田舎にもなくなっている。
 渋川特務曹長が、千日前の見世物というのを、初めて見せてくれた。見せ物などは、他人の見る物だと、看板ばかり見て、決して、中へ入った事のなかった私は――何うだ、第一に「へらへら坊主と、海女」へ入ったのである。
 舞台の前に、水槽があって、その中へ、赤い湯巻一枚の海女が、飛び込んで、中で、踊を踊るのであるが、十か、十一の私には特務曹長の感じるような事は感じない。
(何んだつまらん)
 と、思って眺めていたが、今考えると、惜しいものである。何んだつまらんと思うもう一つの理由は、表看板に、海中で、海女が、蛸や、魚と、格闘している図が描いてあるから、その通りの事をして、見せるのだと考えていたせいもある。それが、全くちがったのだから、失望した。
 この海女の前に、へらへら踊があった。黄色い手拭で、頬冠りをして
へらへったら、へらへらへ
はらはったら、はらはらは
へらへらへったら、へらへらへ
 と、唄いながら、坐ったままで、扇を動かしているだけの、智慧の無いものであるが、それが、相当人気があったのだから、大部、今日と、人心がちがう。初めて見ただけに、この印象は、強く残っている。
 その次に見たのは「改良剣舞」、女ばかりで、剣舞の真似と、芝居の真似とをするものであるが、これは、大変、気に入って
頃は元暦元年の
  どんどん
源平、須磨の、戦いに
 いつか、放送局で、この節をやったが、私も中々上手である。すっかり、憶えてしまった。憶えたが、唄った事もないし、剣舞の真似をした事もなかった。矢張り、読み、書くだけであったが、特務曹長は、二年の間の、二度の休暇に、この二つの見せ物を見せて、私に、千日前のある事を教えてくれた。
 所が、千日前よりも、私には、もっと、魅力のあるものが、近くへ出来た。辻という貸本屋である。鹿やんに、お伽話(とぎばなし)を聞いていた私は、そういう種類を、暫く中断されていたが、この貸本屋が出来て、講談本が、棚へ陳(なら)ぶと同時に
「宗一、又、きてけつかる。浜はんへ、行かんか」
 と、父が、怒鳴りにくるようになった。この貸本屋で、いかに、私は多くの講談本を読んだか? 「誰ヶ袖音吉」「玉川お芳」などの大阪種の、侠客物の味は、まだ忘れられない。

    九

 植村宗一、直木三十五の外に、私は、北川長三、竹林賢七というペンネームを、一年か、半年もっていた事があるが、その外にもう一つ、安村宗一という名がある。これは、私も、その内に、忘れてしまうかも知れぬから書いておくが、私の両親が、結婚したのか、私通したのか、とにかく、尋常小学へ入学した時の私の姓名は、安村宗一であった。善意に解釈すると、母の安村静が、長女であったが為、植村へ入籍できなかったせいであるが、悪意に考えると、何うも、父母は、公然と結婚したのではないらしい。私も、結婚をした事はないが、貧之と共に、矢張り親譲りのものである。
 弟を背負ったり、惣菜の買出しに行ったりしている間に――尋常四年の頃であろう。その時の光景を、今でも、明瞭(はっきり)と憶えているが「のばく」から、通りへ出る坂の右側に「金時湯」という湯屋がある。その前で、一人の女に逢うた。その時
(きれえやな)
 と、感じたが、これが私の初恋らしい。この女は、すぐに、同町三丁目の露路の中にいる畠山しげ子だとわかったが、この事を、友達に話すと、貧乏人街の早熟の子供は、ことごとく知っていた。この女の家が丁度、惣菜の買出しに行く道筋に当るので、それから二三日は通って顔を見たいし、気まりが悪いし、大いに困ったことを憶えている。
 だが、それは、ほんの僅かな間で、同じような綺麗な娘が、斜向(はすむか)いの薬屋にいるのに、それに対しては、何んの感情も動かなかったのだから、ほんの子供心の恋情にすぎなかったのであろう。それにしても、十一歳か、十二歳の時で、今だに、名まで憶えているのだから、相当なものである。
 この薬屋の娘さんは「おんちゃん」と云った。西村房という名であるが、何故「おんちゃん」と呼び、呼ばれていたか、今でもわからない。私の父は「鬼ちゃん」と呼んでいた。いくど、母に
「そんな名、おますかいな」
 と、叱られても「鬼ちゃん」と云っていた。父は、手紙の冒頭へ「真平御免」とかいて、これが、立派な挨拶だと信じているのだから「おんちゃん」を「鬼」にする位は、何んでもない事である。
 この「おんちゃん」の所へ、遊びに行って、初めて、毛糸というものを見て、びっくりした事がある。こんな綺麗なものが、世の中にあろうかとか、こんなものを「おんちゃん」みたいな子供がもって、とか、そういう驚きであった。家は、木薬(きぐすり)店(生薬が正しいか)で、西洋流の売薬と、漢薬との混沌期であったらしく、店先に、蜜柑の皮が、一杯干してあったのを憶えている。

    十

 私の家の東隣りが、小間物屋であった。ここの職人であったか、ここへ来る人の内であったか、その当時から、将棋の強い人がいるという事を聞いていたが、今思うと後の七段神田辰之助氏らしい。神田という名も、辰やんという名も、記憶の中にある。その東隣りが日比野という呉服店で、こっちは、古手屋で、商売敵であるから、私も、決して、遊びに行かなかった。
 その隣りが、堺の名産、大寺餅の、名だけを使用している安餅屋であった。これは私が、九つか、十位の時に、開店したらしく、開店の日の、大安売りにだけ、この餅を買ってもらった。
 その隣りが、前にかいた貸本屋である。神田伯竜口演の「太閤記」七冊つづきを、一日の間に読んで、見料二銭。父が叱るので、母に頼んで、この見料をもらうのであるが、私が子供の上に、貧乏であるし、近所でもあるし、とにかく、一寸、立っている間に、半分位は読むので、本屋の方で、私の立読みを黙許してしまってくれた。
 それから弟を、子守してやると云って背負って出ては、ここへ入込んだ。その内に、講談本のみでなく、渋柿園、涙香、弦斎、というようなのが入ってきた。これは少しむずかしすぎて、読むのに骨が折れた。そして、読書力の低い、この町の人々は、講談の本がよいらしく、この三人の外に、柳葉、春葉が入ってきたまま、通俗小説は、来なくなってしまった。「金色夜叉」や「不如帰」を読んだのは、遥かに後であった。
 この貸本屋一件が、転じて、図書館行になるのであるが、私が尋常小学を出て、高等小学へ入ると共に、成績が、中位になってしまったのは、この貸本屋の御蔭である。
 尋常小学での、私の記憶は、この位しかない。幼稚園で、初めて習った唱歌が
霞か、雲か、はた雪か
とばかり匂うこの花盛り
 であるとか、日清戦争の直後とて
煙も見えず、雲もなく
風も起らず、浪立たず
 のような軍歌が、盛んだった記憶があるが、それは、私一人だけの話でないから、省いておく。

    十一

 高等小学校は、空堀筋、骨屋町角の、育英第一高等小学校というのである。何んしろ、制服制帽を着るのだから、うれしくて写真をとって、大和の親類へ送った。こういう写真があるとなつかしくていいが、家ぐるみ差押えられて、素っ裸にされた時、その中へ入って、何っかへ行ってしまった。雑誌から、時々、子供時分のをと云ってくるが、私の写真は、それ故、最近五年以内のものの外一枚もない。これが、私が写真をとった最初である。その次は、卒業式の時、中学へ入っても、卒業式の時のだけ――だから、余計、この写真の無くなったのが惜しい。私の子供時分のたった一枚の写真である。
 高等小学へ入っても、学校の生活以外は、子守、洋燈掃除、惣菜の買出し、丁稚(でっち)代りであったが、そろそろ大きくなるにつれ、今度は、父が
「店番しろ」
 と、云い出した。父が、買物に出ている間、母が夕飯の支度でもしていると、店へ客が来ても、便利が悪いので
「十三にもなったら、店番でけるやろ」
 である。
「うん」
「符牒(ふちょう)教えたる」
 古着屋の符牒は、今何うか知らぬが「タカラモツシヤワセ」というのであった。これへ、五をかける。だから「タ」は、五銭か、五十銭か、五円かである。「タツ」は「タ」を五に五番目の「ツ」で、五に五をかけて、二十五、計七十五銭が元値で、これに、一円四十五銭位の札をつけ、二十銭引いて、一円二十五銭で、五十銭の利というようなものである。
「おい、坊(ぼん)さん(小僧のこと)まけとき」
 と、云われて
「まかりまへん」
 と、本を読んでいた記憶が可成りある。こんな時には、狭いから、すぐ母が出てきて、応接する。私は、母と入れかわって、台所へ出て、菜を洗う、というようなものである。
 この店にいる間に、着物に対しての智識は、相当にできた。私が、早稲田へ行っている頃まで、着物は、今のようにいろいろの名がなかった。縮緬(ちりめん)、七子(ななこ)、市楽、薩摩、御召、大島、結城位の区別で、その上に、何々御召と名のつき出したのは、ここ二十年位の事で、私は、父が
「こう、変った名ばっかりつけよったら、一々憶えられんがな」
 と、ぶうぶう云っていたのが、今でも、眼の中にある。
 それから、解き物がうまい。これは、今でも自信がある。古着は、着物の形のまま売って利のある事もあれば、表と、裏とを離してしまって、別々に売って、利の多い事もある。この表と、裏とを離すのが、両親より遥かに早かった。鋏(はさみ)を一つ、ぱちっと入れると、殆ど、あとは鋏なしで、解いて行く。古着だから、糸が弱っていて、ぶつぶつ切れるが、それを切らずに解くのが技巧で、自分ではおもしろくて、解き物は一手で、引き受けるようになった。
 この時分、もう一つ上達したのは、飯焚きと、菜をつくることで――これは、後日になって、私の妻が、貧乏の最中、子供を産んで、寝ている時、私が、幾日か、飯菜を作って、その料理の種類の豊富さと味のよさとに、びっくりさせたものである。沢庵漬から――貧乏ぐらしの惣菜一通りは心得ている。ことごとく幾年か手伝った御蔭である。

    十二

 高等小学へ行くようになってから、教科書以外の本を買ってもらえるようになった。それも、一冊一月がかりで、だましたり、悲観したり、母から半分もらって、残りをねだったり、相当苦心を必要とした。
 その時分、私の家へ一人の食客がくる事になった。松原貴速という人である。その人の為に、物置になっている二階へ、南向きの窓を開けて、畳を敷くことになった。
 この松原貴速という人は、長州の俗論党の錚々(そうそう)たる人であったらしく、旧姓山県九郎右衛門という(この人について、御存じの方は御一報願いたい)、後に、石清水八幡の宮司となり、生玉神社にも仕えたが、遂に、浪々の身となって、何ういうのか、父が世話することになったのである。
 当時、父の、一番崇奉していた人は、大和の代議士桜井某で、この人が、時々来ては
「えらい人や、世話しとき」
 と、云われて、うれしがっていた。二年か、三年も居られたであろうか。中学へ行く時分、もう居なくなって、そのあとが私の部屋になったのであるが、この人へ、飯をもって行くのが、私の役目であった。矢張り、家へ戻ってきて、午餐(ごさん)をとるのであるが、母は、仏前へ飯を上げると、次に、この老人の所へもって行く。私が上って行くと、老人は、上品な、白髪、白髭で、歯がなく、もぐもぐと口を動かしつつ、微笑して、私に何か云うが、少しもわからないので、おしまいには、段の途中から、膳だけ置いて、降りる事にしてしまった。明治二十何年からの日記が、ことごとくあるが、読みづらいので、そのままにしてある。
 この頃、いくらか、商売がよかったらしく、品物が店に狭いまでに置いてある日などがあった。それにしても、今、数えると――店の入って左側に吊るしてあるのが八枚、その奥に十二三枚、店に二列に、縦にかけてあるのが十六枚、その着物の間々に、股引だの、襦袢(じゅばん)だの、一枚二円ずつにしても、六七十円の品である。
 しかし、三円から、六七円の売れ行きがあったし、三割近い利益であったから、店のこの小売と、仲間同士のやや大口の商売で、六、七十円の収入にはなっていたらしい。
「月、百円儲かったらなあ」
 と、云っていたのを考えると、この辺は間違っていない。私が、十三四、親が、五十三四であるから、この収入が、父の最大収入であったのであろう。

    十三

 高等小学の記憶は、尋常よりも少い。その代り、少しずつ、乱暴者になりかけていて、こういう記憶がある。
 それは、この当時まで、大阪には、堂島高等女学校より外に、女学校が無かったが、京都に、清水谷高等女学校ができた。この女学生が、学校の前を通るが、雨天運動場へ出ると、すぐ前が、空堀通なので
「あいつ、別嬪(べっぴん)やな」
 とか
「左向け左っ、こらっ、鼻ぺちゃ、向かんか」
 とか、私の外、二三人がやり出して、とうとう、雨の日には、女学生達、向う側を傘でかくれて通るようになった。所が、一日、金曜日の訓話の日、校長が
「本校の生徒の中に、品性を重んじない者がおって」
 と、やり出して、とうとう、窓側へ、近づけないように、雨の日には、生徒の中から監視が立つ事になった。中学へ行ってから、夕陽丘女学校ができたが、私と河合二人が、夕陽丘の、藤原家隆の墓の前へ立って、女学校の方へ向いて、四人とも、小便をし、これが、市岡中学の生徒と、何うして判ったのか、女学校から、かけ合にきて、びっくりしたのと、こういう話は、二つもっている。
 それから、私が、金を盗んだ話であるが、第五回内国博覧会は、いつだったであろうか、三十五年か、六年とすれば、高等小学三四年であるが、これは細かに憶えている。
 この博覧会に、カーマンセラ嬢電気の舞というのがあった、これを何うかして見たいが見せてくれそうにない。それで、一円盗んで見に行く決心をしたが、貧乏の家に盗める一円なんぞ有ろう筈がない。それで一策を考えて、店の金を入れる張り子の小さい籠を利用する事にした。渋紙張りの汚い四角の籠。上部に太い竹を使ってあるが、この太い竹と、その下に使ってある、へいだ竹との間の渋紙が、破れている。逆様にして、金を出すと、その破れへ一寸引っかかる事がある。私は、その破れを大きくして、その間へ、五十銭を入れる事にした。見つかって、引出せば元々、夜計算をして首尾よく、引っかかったままで通過すれば五十銭になる。
「五十銭足らんがな」
 父は、ぽんぽんと、籠を引っぱたくが、五十銭は、破れ目の奥深く入っていて、出て来ない。
「わて、知りまへんで」
 と、母がいうし、私は一生懸命だ。
「五十銭、負けたん忘れてんね、ちがうか」
 一週間程かかって、ようよう一円盗んだ。それで、カーマンセラなるものを見に行った。「胡蝶の舞」一つ。スカートを大きく拡げるカーマンセラに、色電気を当てるだけの事である。余りつまらないので、冷汗かきかき一円盗んだのを後悔して、二度と、籠を利用しなかったが、本当に、手に汗を握っていた。
 多分、この時分であろうと思う。怖ろしい夢を見るのが毎晩で、仕舞いに、夜になると、恐ろしさに、眠るのが嫌になった。夢は、ことごとく幽霊で、大抵、それがきまっている。「おんちゃん」の右側に、露次があって、その奥に井戸がある。上町の事とて、可成り深い、この井戸をのぞくと、中に、幽霊がいるのであるが、毎晩の夢にのぞいては、恐怖に、眼をさまして、蒲団の中へもぐる。耐えられなくなって
(幽霊なんぞ有るものか、夢じゃないか)
 と、決心した。そして
(今晩見たら、掴みかかってやる)
 果して、又井戸をのぞく夢であったが、幽霊はいなかった。露次を抜けて「団仲」という牛肉屋――今でも上町第一の大店であるが、ここに、卯のやんという友達がいて、時々遊びに行った――へ入ると、上り口も、奥も真っ暗である。
(おや)
 と、おもった瞬間、現れたのが、井戸を留守にしていた幽霊である。がその刹那に、猛烈に掴みかかったが、それより三十年、幽霊の夢は一度も見なくなってしまった。如何に、この時、しかく、恐ろしかったかは、今でもその夜の夢を、はっきりと思出す事ができる。

    十四

 中学は、市岡中学である。出来てから、四年目で、校長は、坪井仙太郎と云った。市内には、北野と、天王寺と、市岡の三つである。新らしいし、遠いから、競争者も少いだろうと、ここへ願書を出した。
 市岡という所は、西瓜の名産地で、今こそ町になっているが、田圃の真中に、学校が一軒ある切り、前は、尻無川まで見えるし、右は、築港まで一目である。
 水道が引けたり、電燈がついたりしたのも、その頃であるから、市内電車など無論ない。築港、松島間に一線あるきり――私の家は、大阪の東の端近く、学校は市内を離れて、西の方までが、田圃の中、二里以上三里近くもあろうか。入学した成績は、一級四十人中、尻から十六番目。父に叱られて、次の学期に、上から十四番目になったが、それが、私の最高レコードで、卒業の時には尻から八番目であった。
 十三歳の時に、腸チブスになって、それ以来、すっかり、健康体になった私は、とうとう中学五年間、一日の休みもなしに、この遠い道を歩いて通った。二年生時分から巡航船という、河々を通る石油発動機の船ができ、車夫が、この船を襲撃して大騒動を起したりしたが、速力がのろいし、迂廻(うかい)するので余り乗らなかった。乗る金もなかった。
 発育盛りなので、洋服が、すぐ小さくなる。しかし、それに応じて買えぬので、いつも、寸づまりの、手首のうんと出た洋服をきて、ぼろぼろの靴に、破れた帽子をかむっていた。
 当時、何ういうのか、美少年を愛する事が、中学で流行していたので、破帽破靴の風は、豪健と見るや、わざわざ破る者さえ出来たので、私は、ますます平気になって可成り、先生から注意された事もあった。
 遠いから、弁当をもって行くが、アルミニウームは、もう使っていた。電燈、水道と同時代に、こいつも一般化されたらしい。この弁当の菜が、油揚げ、湯葉と、きまっていた。湯葉も、薄い普通のではない。湯葉を竹にかける時、竹につく滓(かす)の厚く、固くなって、竹のかたのついた奴である。私が、骨屋町へ無くなると買いに行った。
「又、湯葉か」
 と、隣りの友人が、箸でつついたので、そいつの弁当を叩き落とした事があった。中学五年間、この油揚げと、湯葉で一貫した。
 十四番が最高で、成績はよくなかったが、その代りに、初めて出来た中之島の、大阪市立図書館へ
「図書館へ行かんとあかん」
 の、私の一言で「真平御免」の父は
「そうか」
 と、許してくれた。二銭で、一時に、三冊貸してくれる。学校から戻ると、中之島まで――これが又、相当の道のりで、恐らく、今の、バス、電車を利用する学生にはわかるまいが、雨が降り出したり、つい遅くなって、夜に入ったりしては、相当つらいものであった。
 今でも、司書をしておられるか――名を忘れたが、細面の、病弱らしい、出し入れのかかりの人が、三年余り前、大阪へ行った時、一寸行ってみたら、未だ在勤で、挨拶をされてなつかしかった。
 ある一つのカードの函などは、ことごとく読んでしまった。歴史、数学、文学に亙って、読んだの、読まぬの、貸本屋以来の渇望で、めちゃめちゃに読んだ。
 私は、記憶力の点に於て、殆ど零に近く、人の顔や、名を忘れる事には、いつも呆れているが、本を読んで忘れる事も、人後に落ちないつもりである。それだけ読んで、何か憶えているかと、云われると、何一つ憶えていない。しかし、憶えているのがいいか、忘れてしまうのがいいかは、俄に判断は出来ないと、信じている。多く読み、ことごとくを忘れると、物の見方、考え方が公平になって行くようであるし、一旦読んで忘れたものは、読まずに知らぬのと、丸でちがう。何か、機にふれると、ふっと思出す。必要があると、ああそうだったと思うことがあるし――この点に於て、読んで忘れて、現在零なのと、知らぬから零なのとは、天地のちがいである。僕らは、凡庸だから、憶えていて、別の物を入れる妨げになるより、ことごとく忘れて、ことごとく入れた方がいいらしい。

    十五

 智識は豊富になったが、記憶力が悪いし
「何んだ馬鹿馬鹿しい、ツィンクル・ツィンクル・リッツル・スターが何うしたんだ」
 と、すっかり、英語を馬鹿にした。いつも、六十五点か、七十点位であった。数学はから駄目。中学五年の時は、三角であるが、とうとう教員室へ行って
「私は、哲学か、文学をやるんです。それも、私立へ入るつもりですから、三角の必要は、絶対にないと思います。必要の無いものを、何も苦しんで勉強することもありませんから、三角はやりません」
 と、云った。数学の先生は、その学期の初めに、大学を出てきた人で、若い、おとなしい人であった。笑って返事をしなかったので、そのまま出てきた。
 当時は、新聞で「社会」という字をつかっても、睨まれた時代で「社会主義」などと云おうなら、今の共産党の十倍位、悪いものと考えられていた。その「社会主義」が、私の綽名(あだな)で、この綽名は、森――ニックネームを大砲という物理の先生がつけたもので
「植村は、学校の社会主義だ」
 と、とにかく、手に負えなかったらしい。何故、手に負えなくなったか? それは、私が、中学の先生を、軽蔑し、失望したからであった。
 私の中学に於ける不平から、云っておきたいことは、中学が、学問を教えず、教育を知らず、という事である。数学の先生はボールドへ式をかいて、答えをかいて、それっきりである。教師用の参考書のあることを知っている私達は
(参考書さえ見りゃ、先生だって、生徒だって同じだぞ)
 と、数学という学問の性質、尊さ、先生の人間的生活のえらさ、そうした教育の根本に、少しもふれないから
(一時間口先で喋(しゃべ)るだけで、何あんだ)
 小学時分は、心から、先生をえらい人だと思っていたから、先生の態度、教訓で、動かされたが、中学は、一つのビジネスにすぎなかった。「学校」は、師弟間の商売、ビジネスでないと信じていた私は、図書館で読む本なら、感激し、感謝したが、先生なるものからは、そうした種類の、いかなる小さい感化もなかったので、図書館はおもしろくなるばかり、学校はおもしろくなくなるばかり――とうとう先生の揚足をとって、楽しむことに、集中しだした。
「あいつ社会主義や」
 と、睨まれたのは、その時からである。しかし、多い先生の中には、私を可愛がる人もあった。今も猶、健在であるが、木村寛慈先生がその人で、この人の御蔭で、私は退学処分にならないで済んだ事件さえあった。

    十六

 理窟をよく云うし、鼻っ柱が強い、去年死んだ東惣平という弁護士。奉天にいる河合という乱暴者。台湾にいる内山。何(いず)れも柔道初段であるが、三年になった時
「三年生というのは、学校の中堅だ」
 と云い出して、中堅会というのを作った。
「一つ、中堅の力を見せとかんといかん」
 それから、四年の奴と、喧嘩しようということになって、つまらぬ事をきっかけに、雨天運動場の中で、喧嘩を起した。私は、旗竿をとって暴れ込んだ。四年の連中は、何が、何んだかわからないし、根が大阪の坊ちゃんが多いのだから、一時に逃げてしまって、喧嘩の対手が、忽ち無くなってしまった。そこへ、先生が来たが、喧嘩をしたのでない、しようとしたら逃げたので、――私は、旗竿をもって立っているだけである。
「喧嘩したんか」
「いいえ」
「その旗竿は」
「もってるんです」
「何んでもっておる」
「そこにあったから、もってます」
「もってはいかん」
「はい」
 それ以来、この中堅会が、羽振りを利かすようになって、四年になった時
「五年は、来年卒業するから、もう、学校には縁が薄い。四年が、学校の中心だ」
 という理屈をつけたが、夕陽丘で、女学校の柵へ小便引っかけたのは、この時分である。
 その代り、この年から、大阪府下中学の陸上運動会では、市岡が、いつも優勝で、とうとう三年つづけて、優勝旗をとってしまった。この優勝旗は、三年つづけて勝てば、永久にその校に止(とど)める、というのであったが、三年つづけると
「それは困る」
 と云い出して――私らは卒業後であったが、大いに、憤慨したものである。市岡中学が、野球で、大阪府下を圧したのも、その時分から。柔剣道にかけては、絶対に、市岡のものであった。
 この中堅会の大将は、東惣平で、私は弱いから、そういう事には出ず、煽動ばかりしていた。
 学友の間では、そうだし、教室へ出ると数学や、英語の時には、小さくなっているが、漢文や、歴史の時には、何んとか、かとかいうし、ある時なんどは、漢文の先生と対立して下らず、東惣平が
「植村、黙れ」
 と、云って、立上った事さえあった。そして、四年の時の、演説会に「試験亡国論」というものを弁じて、とうとう
「あいつ、退学ささんといかん」
 という事になった。暑中休暇の初めであったが――その時に、木村先生と、体操の式田先生とが、大いに弁じてくれたし、休暇中に、うやむやになって、危く、五年まで行ったが、この衣鉢(いはつ)を、黒田新(帝展特選になった洋画家)がついで、時々学校をやっつけていた。
 この中学通学中、命を亡(うしな)いかけた事が二度ある。一度は、河合という友人の家へ行った時、ピストルを河合が放った。装弾していないつもりで、口を私の方へ向けていたが、入っていて、私の耳とすれすれに、うしろの押入れへぶち込んだ。七八人いて蒼白になった。
 もう一つは、学校の前の電車である。木の電柱が、線路とすれすれに立っているが何んしろ電車の珍らしい時分で、車掌など生徒に、運転させたりして、乗客なんぞ殆どなかった。この電車へ、飛びのりするのが、生徒の楽しみであるが、次々に、飛び乗るので、踏台へばかり気をつけて、電柱の方を見ないで、電車につかまりながら、走っていると――どかん、真正面から、胸を、電柱へぶちつけた。呼吸が止まって、暫く電柱を抱いたまま
(やられた)
 と思っていた。誰一人、これを知らなかったらしく、暫く、一人で、そうしている内に、少しずつ回復してきたが、歩けないで、門番の所で寝ていた。真正面へぶっつかったのでよかった。あれで、電柱と、車台の間へでも、捲き込まれていようものなら、直木三十五なんぞは、此世にいない訳である。

    十七

 小説を書く位だから、中学では作文がうまかっただろう、と、素人が、よく聞くが、それが即ち、素人考えで、私は絵の方がうまかった。絵は、八十点以下に下らないが、作文は七十点、歴史などは吾三歳にして既に四王天但馬守を知る、であるのに、ようよう八十点。この点数を、数学と、英語が、めちゃめちゃにするので、平均点が、六十五六、卒業の時、びりから八番は、当り前である。
 五年になると、そろそろ次の学校を選ばなくてはならぬが、私は哲学者になるつもりでいた。
 小説を書こうなどと考えたのは、早稲田へ入ってからで、文科へこそは入ったが、漠然と、文科へ入っただけで、小説など書く気は、少しもなかった。だから、哲学の本は、相当に読んだが、この五年生の時に刊行されたのが、姉崎正治博士の、ショウペンハウェル原著「意志と現識としての世界」というやつである。それまで、相当、難解の書も読んだが、判らないというのは殆ど無かったが、この「意志」は、何う引っ繰り返して見ても、殆ど判らない。
(これが判らんようでは哲学者になれんぞ)
 と口惜しさ、心細さ、悲しさ――一冊だけこの本を借出して、図書館で、三日努力してみたが、判らぬものは判らない。今でも、この本は判らぬが、これは、余程哲学志願心をへこました。
(中学五年にもなって、こんなものが判らんようでは)
 と、当時、少し、淋しくなったのを憶えている。父は
「商科か、法科か、医科がええ」
 と、商科は金が儲かるし、法科は恩給がつくし、医科は
「薄さんに頼んだるさかい」
 と、この三つにきめてしまっていて
「高等学校は岡山がええ、わしも、もうこの齢やさかい、お前の高等学校を出るのを見て死にたい。高等学校だけは、やっといてやる」
 父が四十歳の齢の子だから、二十で中学を出ると、父の齢は六十、高等学校卒業までしか生きていられないと考えたのも尤もである。だが、何んと今年私が四十三、父が八十三になって、父は、未だかくしゃくとしているのに、私がこの体なのだから、私としては、この父の死ぬ前に、私を死なしたくないと考えている。それに、この編輯者め――悪魔である。父が見たら、何んなにびっくりするであろうか。月収六七十円の古着屋の、六十歳の親爺が、月二十五円ずつを倅の為に割(さ)いてくれたのである。

    十八

 父が八十三歳にもなって、私が「死までを語る」を書いたのを読みでもしたら
「宗一、ほんまか」
 と、それだけで、三年位齢をとるであろうが、絶対に読みっこは無いし、近所の人も、恐らく
「宗ちゃん、えらい事書いてはりまっせ、ほんとですか」
 と、父に聞く事も無いであろう。一心に、金、金、金、金儲け金儲け、とだけ念じている人達の集っている町であるから、こんな事が平気で書けるが、これだけ、印刷文明が普及されていて、猶かくの如き、私の出生町内である。二十余年の昔
「文科へ行く」
 とでも、云おうものなら
「文科て、文士か」
 と、それこそ、何う叱られるか、わからない。私は、早大文科と決心していたが、一言も、この事は喋らなかった。だが、卒業すると、何うしても、次の学校へ行かなくてはならぬし、父の決心が悲壮であるから
「岡山へ行って法科を受ける」
 と、云っていた。
「弁護士はあかん、官吏がええ、恩給がつく」
 と、貧乏で、六十歳になっても、古着を背負って、電車の無い頃の大阪の隅から、郊外の遠くへまでも歩かなくてはならぬ父にとって、恩給という事が、何んなに有難く見えたか!
「しっかりやれ、人間も、恩給もらうようになったら楽や」
 国を出奔してきてから、最高収入六七十円の父は、四十年間を、働きづめに働いてきて、猶働かなくては暮らせないのである。
 だから、恩給恩給、と云うが、何んと私は、岡山へ行って、試験の日、半日、旭川で、ボートを漕(こ)いでいたのである。
 最初の日に、数学が出なかったなら、私は受験したであろうが、初日が、数学なので
(こらいかん)
 と、度胸をきめて、予定通り、試験を受けない事にした。河田屋敷という所に、友人と下宿していたが、ボートから見上げる城がいい景色なので、朝から正午まで、川にいて戻ってきた。
(おれは、恩給取りにはなれん。不孝者だが仕方がない)
 と思って、知らん顔をして帰ってきた。
「何うやった」
「駄目だろう」
「ふむ――何が悪い」
「高等学校は、中々一ぺんで入られへん。それより私立へ行った方がいい。勉強さえしたら、私立でも、官立でも一緒や」
「私立はあかん、岡山が、いかなんだら、来年もう一遍受けてみ」
 薄病院の院長は
「植村、速記者になれ」
 と、云ってくれた。院長を、崇拝している父は、いろいろの所で、速記者というものを聞いてきて
「あら金が儲かる。衆議院で演説するやろがな。それをあとから一寸取消してくれ、と云いに行く時、金を包んでくるのやが、これが大きい。ええ商売や、人の気のつかん商売や」
 恩給が、忽ち、速記者になったが、私は対手にしなかった。

    十九

 当時、末吉橋東詰松屋町に、豊竹呂昇の持小屋「松の亭」というのがあった。ここに落語がかかっていた。友人に連れられて、一夕赴いたが、女剣舞師に花房百合子というのがあって、剣舞一つ、踊一つ、居合抜き、軍歌と、これだけやるが、この女に惚れた。これが、私の初恋である。

雪はちらちら降るその中を
熊本連隊十三隊
第一大隊日を定め
陸軍繰出す熊本城を
数万の弾丸飛越えて
吾兵各所に進撃す

 と、いう唄を唄いながら、御下げ髪に白鉢巻、刀を抜いて踊るのに惚れたのだから、その頃から、ファッショだったのであろう。
 所が、小遣がない。それで、花房が、寄席の掛けもちの為、車で走るのを、私が追っかけて――車は街路の真中を、私は、恥ずかしいから軒下を――走りながら、飽く程顔を見て、へとへとになって
(何んて馬鹿だ)
 と、思ったが、これを二度やった。三度もやったら、気狂いが追っかけてくると花房は思ったであろうが、この時、花房を思う歌などを作った。これが、私の歌の最初であるが忘れてしまった。
 その内に、学校は無し、弟は十歳にもなって、背負わなくてもいいし、時間が余るし、同じ落第仲間へ遊びに行く事を覚えた。同級の井上市次郎が、京町堀にいたが、ここへ遊びに行っている内に、そこから四五軒東の佐々木という家の娘の子と、親しくなった。雪ちゃんという名である。齢は十四歳。これは恋でなく、ただ可愛がっていただけであるが、その可愛がり方が、並大抵でない事は、後にかく。
 この井上の母の妹が、後に私の妻となった女で、京町堀小町と呼ばれて、美人であったが、婚期を失して、二十六歳にもなって独身者であった。

    二十

 遊んでいても仕方無いし、遊んでいられる身分でもないので、薄恕一氏の紹介で、小学校の代用教員になる事になった。赴任地は、大和国吉野郡白銀村、白銀尋常小学校というのである。
 五条の町から、山へ入ること三里半、銀峯山の中腹に建っている学校である。月給十一円五十銭。私の受持ったのは三四年生の男女である。二部教授。
 教員は、校長、その次、女教員、私と四人。校長は校内に宿泊し、女教員は村の人で、私と、同僚とが、山の崖っぷちに立っている小屋に等しい二間の家――二間と云っても、上り口と、その次と、六畳に二畳の家に住んでいた。食べるものは、芋、干魚、豆腐、寒い山の上なので、冬になると芋が凍っている。豆腐は固くて、五六町上の村まで買いに行くのであるが、藁で縛ってくれる。持って帰ってもこわれないから、えらい豆腐だったと、今でも感心している。
 同僚は、前からいるし、私は新参だし、お菜は作るのが上手だし、炊事番は大抵私であった。時々、鹿の肉を売りにくるのと、魚屋が鮫の半干魚をもってくる位で、大抵、菜っ葉と、芋と、豆腐。この生活が八ヶ月つづいた。
 所が、この学校へ勤めるという事を、その雪ちゃんに話したところ
「淋し」
 と、いうのである。
「日曜日に帰ったらええやろ」
「そんならうれしい」
 そこで、学校が土曜になると、山の上から三里半五条の町へ走るのである。
 丁度、それで汽車に間に合って、大阪着が八時、月曜の朝早く家を出ると、学校の授業に一時間おくれてつく。その一時間は、唱歌の時間にして、時間表を変更し、同僚に頼んでおくのである。
 十一円五十銭であるが、初めての月給だし私にとっては大金なんだから、嬉しかった。家は無家賃、芋や、菜は、生徒がくれるから、一ヶ月五円もあれば十分である。残りが小遣になるから、雪ちゃんに、その頃流行(はや)っていたリボンを買ったり――リボンと、週一度の汽車の往復、私はその金で、いろいろの物を買おうと、空想していたが、山を下り、山へ上るだけと、リボンとで、丁度月給が一杯であった。
 私は、女に無駄金を使って、友人に
「君は、馬鹿だ」
 と、今でも叱られるが、この時分から、そうであったらしい。
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