大衆文芸作法
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著者名:直木三十五 

  第一章 大衆文芸の定義

 一体、定義というものを、物の進行中に、未だ完成されていない未発達の状態にある時は与える事はむずかしい。現在進行しつつある、発達の過程にはあるが未だ充分発達したとはいえない、大衆文芸に対して、現在のままの姿へ、定義というものを与えたなら――それは、与え得ても、直ちに不満足なものになって了うであろうと思われる。
 併し、もしその将来を想像して、かく成るべき物が、大衆文芸であるというのなら、現在と共に、将来を包含して一つの定義を下し得ぬ事もない。それを下すに就いては、現在と、将来の外に、大衆文芸の歩んできた過去の道をも顧(かえりみ)る必要がある。私は、その点からこの講義を始めて行きたい。
 現在、大衆文芸の名によって呼ばれている如き作品、及びその作家は、震災後に著しく発達し、大衆文芸なる名称も、従って亦その時代以後に使用されるに至ったものである。震災以前とて、その傾向が無いではなかったが、従来の型の如き型を破った髷物(まげもの)小説は、僅かに、指折ってみて、中里介山の「大菩薩峠」(都新聞)、国枝史郎の「蔦葛木曾桟(つたかずらきそのかけはし)」(講談雑誌)、白井喬二の「神変呉越草紙」(人情倶楽部)、大佛次郎の「鞍馬天狗」(ポケット)に過ぎなかったものである。
 然も、現在に於て、これらの作家は、大衆作家として第一流の名声を獲得しているが、その当時に於ては、殆(ほと)んど人の知る者無く、読書階級に於ては勿論、一般の人々にも迎えられていなかったものであった。
 震災後に於て、プラトン社より「苦楽」が出て、講談物を一蹴して、新らしき興味中心文芸を掲載すると同時に、この新らしき機運は大いに動いて来たのであった。そうして新聞社関係の人々は、こういう作品に、新講談という名を与え、文藝春秋、新小説の人々は、読物文芸という名によって呼んでいたのである。
 その内に、白井喬二が、大衆文芸という名称を口にし、同氏が擡頭(たいとう)すると同時に、この名称が一般化して、今日の如く通用する事になった。字義の正しさより云えば、大衆とは、僧侶を指した言葉であるが、震災前に、加藤一夫らによって、しばしば民衆芸術、即ち、現在のプロレタリア芸術論の前身が、叫ばれていた事があり、それと混同を避ける為に、熟語である「民衆」よりも、新しく、「大衆」という文字を使用したのであって、民衆も大衆も、多衆の意味であることに、何等相違はない訳である。
 そこで、嘗(かつ)て震災前に加藤一夫等によって始めて提唱された民衆芸術とは、如何に違っているのか、ということを明らかにしておく必要があると思う。その当時提唱された民衆芸術というのは、かの、ロマン・ローランが唱えた「民衆の芸術」を我が国へ輪入したのであった。彼等の主張は、民衆のための芸術を作らなくてはならない、ということにあった。それらの芸術は、民衆そのものの中から生産されるか、それとも民衆の中から生れなくとも、それが民衆のために書かれた芸術でなくてはならない、というのであった。即ち、彼等によって嘗て叫ばれ、そしてその後発達して今日のプロレタリア芸術論となった、民衆芸術というのは、目的意識的のものであった。処が現在我々が問題としている大衆文芸というのは、何ら目的意識的なものではなく、通俗的といった程の意味のものなのである。その究局に於ては同じであるかも知れない。しかし、その出発点を異にしている。そういうような定義の解釈の相違に過ぎないのである。即ち、現在のままに於て定義を下すなら、大衆文芸とは、震災後に於て現れたる興味中心の髷物、時代物小説である、という事ができる。
 しかし、現在では大衆文芸はややその範囲を通り越して、大衆の字義のままに探偵小説をもその中に含め、進んでは、文壇人以外の、芸術小説以外の、新旧一切の作をも、含めようとするまでになっている。
 ただ未だに、通俗小説の名は残されているが、それは通俗的現代小説を指した物で、大衆文芸も同じ新聞に載り乍(なが)ら、新らしき時代の物のみを、特に、通俗小説、又は、新聞小説と称しているが、この区別は甚だ曖昧なのである。
 例えば、中村武羅夫、加藤武雄は、通俗小説家であるが、国枝史郎が現代物を書いても、彼は大衆作家であり、三上於菟吉が、現代物、時代物二つ乍ら書くと、通俗作家とも云われ、大衆作家にも視られ、又、正木不如丘(ふじょきゅう)は、現代物しか書かぬが、大衆作家であり、総てが文壇人関係者の常識よりなされたる区別故、厳密な意味に於ての区別は不可能である。
 従って、私は、この講義に於て、他の小説作法があって、それが、芸術小説、文壇小説を説くとするなら、大衆文芸の内へはその他の一切、即ち、科学小説、目的小説、歴史小説、少年少女小説、探偵小説等、総てを含めて、大衆の文字のままに定義していいと信じなくてはならぬ。
 それで、それらの総てを包含した物として、大衆文芸の定義を下すなら、
「大衆文芸とは、表現を平易にし、興味を中心として、それのみにても価値あるものとし、又は、それに包含せしむるに解説的なる、人生、人間生活上の問題をもってする物」と云いたいのである。

  第二章 大衆文芸の意義

 私は、次に、以上の定義に従って、大衆文芸の意義を説きたいと思う。それは、しばしば芸術小説との価値比較をされるが故にも必要であり、大衆文芸そのものの使命に就いても、知って置かねばならぬ事だからである。
 私は、問題を少し遠くの方へもって行く。人間は嘗て、太陽が吾々の周囲を出没していると信じ、人類を宇宙の中心と考えていた時代があった。
 又、神の子、仏の末裔(まつえい)であると信じ、宗教への情熱が、人間の中心となり、宗教家は人間の最高の者として、尊敬され、十字軍がしばしば起り、帝(みかど)は、自らを三宝(さんぽう)の奴(やっこ)と称された時代があった。
 然し、やがて宗教への情熱は醒め果て、人間が理智的に目覚めた時、人間の精神生活を指揮するものは、哲学であると信じられ始めた。洋の東西に於て、多くの哲学者達は、人間よ、かく行うべし、かく云うべし、かく考えるべしと、多くの哲理を示してくれた。だが、それによっても人間は救われなかった。
 その次に現れて、人間の感情と、理性とへ訴えたものは文学である。文学は、宗教の如く、非理性的でなく、哲学の如く理智のみで無く、感情を揺り動かし、理性を柔かく撫で、精神生活のリーダーたらんとしたのである。だが、トルストイ伯の、ドストエフスキイの、深刻なる文芸作品によって、然らば人間は? 救われたであろうか?
 目に文字なく、頭に思考する事なく、一日畑に、工場に汗して働く者達が卑く、深遠なる哲理を彼の書斎で考えている少数の選ばれし者のみが尊い、ということは、人間の考え方の一つの重大な誤りであった。精神生活のみが人間の唯一の生活ではない。精神生活のみが尊く、物質的生活が卑しいという事は、明らかに誤謬(ごびゅう)である。だが、まだ人間は、他の動物にない思索力を有するが故に、しばしばそれを過度に尊敬して来たし、現在でも一部分の者はしているのである。
 そして、この誤謬を直さんとする運動の一つが、社会運動である。人間全体の生活をよくする事は、文学に於てよりも、直接の社会運動による事が遥かに有力であると、発見したからである。文学は寧ろ社会運動に利用されようとするに到った。
 この思索の過重的尊重という事が、芸術小説の癌を為(な)している。それが如何に、低級、浅薄であろうとも、それのみを尊重して、興味ある事を除くという事が、精神生活に於ては尊いという風に考えられていた。
 一体、思索の尊さは、読書人がそれによって、感激する場合のみである。何の感激も与え無い、陳腐にして、常套的なる物が、余りに多く描かれ、過去の文学は既に感激を失って了った。現在、果してトルストイ伯の、ドストエフスキイの作品が人々に昔程の感激を読者に与えるであろうか。
 精神生活のみを尊重し、物質生活を卑しいと見ることの謬見であるのを、私は既に述べた。何故なら、物質生活こそが精神生活の根底であるから、私は、物質生活と精神生活と何(どち)らが尊いかと云うのではない。物質生活の安定あって、始めて精神生活が充分に為されるのである。その物質生活は、現在どうであるか。資本主義社会の矛盾によって大衆の物質生活は益々、極端に貧困化しつつある。現在の社会は、見よ、加速度的に混乱して行くではないか。それは一方、科学の異常な進歩と、交通機関の発達によって、生活も社会も、思想も刻々に変革されて行き、往古の如く同一状態に於て、半世紀、一世紀を送る悠長さを許さなくなって来たのである。
 社会はどうなるだろうか? 思想はどう結末するだろうか? 誰も今日、それに対して明快に答え得るものは無いのであろうか? 己の立っている土台が動いているのである。婦人は、封建的貞操を棄てんとしつつ、而(しか)も、それに代る道徳を見出し得ない。男子は、古き衣を脱いだが、新らしき着物を知らない。社会は、一革命を起さんとしつつも二つの勢力は対等に抵抗しあっているのである。
 今や、ヨーロッパ文明は沈消して、アメリカ資本主義のジャズ文明の洪水(こうずい)は、世界の人達を溺らそうとしている。人々は、或は、憤然として奥床しく、深淵なるものの犯されていくのを慨歎するであろう。しかも、慨歎しながらも彼等は共に、その世界に氾濫(はんらん)したアメリカ文化の濤(なみ)に捲込まれ、流されて行かざるを得ないのである。ラジオに、ジャズに、シネマが横行する。人々は、それに感染して、行く所を知らない。
 この加速度的な生活の目眩(めまぐ)ろしさは、人々が垂れこめて、深く思索にふける余裕を与えない。人々は我知らず、生活の苦しさから匍(は)い出んとして、瞬間的な享楽を求める。街にはシネマがある。赤い燈、青い燈、のカフエがある。街中の店という店ではラジオが呼んでいる。かくて、今や世界は未曾有(みぞう)の速力と混乱が到来した。この問題の一切は、やがて直接的な社会運動が解決してくれるであろう。
 だが、ここで、私は文芸に眼を転じよう。文学はこのあわただしさに耐え兼ね、面食(めんくら)った形である。それが、外の芸術と異なり、文芸は、時代を背景とし、時代意識を把握しなくてはならないものだけに、又、従来は、人間の永遠的感情を描かんとし、単に、人間の感情のみへ突入していただけに、外界の急激な変化より来る思想、感情の動揺に対して、手をつける事を知らぬ様である。言葉を換えて云うなら、文学史上、新らしく勃興して来た一つの文芸が、完成爛熟期に到達するためには、半世紀間或は一世紀間なりの文明の継続を必要としたのである。この社会の急激な変転に圧倒されて、遂にそれを一つの形式にまで作り上げる余裕が現在ではない。従って、従来の如き、人間の永遠性を深く凝視し、魂の底を握らんとする如き文学は、読者に迎えられないのみならず、又、描かんとする人にも、外界はあまりに騒がしくなりすぎているのである。アメリカがいい適例である。アメリカの資本主義は建国以来、実に急速に発展してきた。アメリカには現在、芸術と呼ばるべきものはない。
 十九世紀の末葉から二十世紀にかけて輩出した大文豪達、トルストイ、ドストエフスキイ、イプセン、等々の文芸が、既に現在の読者にとって刺戟(しげき)がなくなって了(しま)ったことは、再三述べた。人々は、最早、文芸を読むことによって生活をよくしようなぞという望みを失ったのである。民衆は、この七転八苦の物質的生活の苦悩から避(のが)れんとして、勢い享楽的なものを求める。そこで、そこに文学的欲求がある限りに於て、人々は通俗的文芸の出現を望むようになる。ここに通俗的なる文芸、大衆文芸の発生、隆盛がかもし出されるのである。
 この場合、勿論、科学の発達の中に含まるべきことではあるが、特に文芸に於て注意して置くべきは、印刷術の発達普及ということ、従って一般読者のレベルの向上、及び読書力の普及ということである。これが大衆文芸発達の一原因であるのは云うまでもないことである。
 芸術的小説の衰頽(すいたい)、大衆文芸の発展は、これを世界中、凡ゆる処に例をとることができる。フランスに於ては、今や洒落(しゃれ)文学といったようなものが全盛を極めているし、アメリカに於ては、前に述べたように、勿論、芸術小説は皆無と云っていい。独逸(ドイツ)に於ても、諸君が丸善へ行ったら一見してわかるように黄色本という奴が流行している。イギリスでは大衆文芸が全盛である。新興のロシヤに於てさえ当局がかくも文芸を奨励しているに拘らず、まだ偉大な新らしき時代のトルストイも、ドストエフスキイも出現しないように見受けられる。日本で円本の乱出のために芸術小説が行詰ったなぞというのは、浅薄(あさはか)な考え方であって、やはり日本も、世界の潮流に圧し流され、同じ原因から、既に芸術小説が行詰ったと見るのが正しい。もし、円本のために行詰ったというのが正しいとすれば、読者はその程度の欲求しかないことになり、かかる読者の欲求なりとすればそれは実につまらないことであり、一方作者は自身の芸術的無力を自覚して、小説を書くことを止めたがいいのである。だが、読者は決して、そんな欲求に甘じているのでは無い。きっと広汎な読者層は、芸術小説にあきたらず、寧ろ熱烈に大衆文芸を求めてやまないことを、事実が証明している。日本の特殊的な事情については後に述べる積りである。
 そこで、私が芸術小説の衰頽と云ったのは、決して滅亡を意味しているのではない。総て、物には、芸術にも、時代的な変遷というものがある。例えば、彫刻は何といっても希臘(ギリシャ)時代が最も発達していた。併しながら、彫刻という型の芸術は現在にも滅びずに残っている。他に例を挙げれば、現在アメリカには純粋絵画は存在せず、絵画はポスター絵画として描かれているに過ぎない。そんな意味で、私はここで、芸術小説の衰頽と云ったまでである。
 さて、最後に、特に日本の文芸史に関して一言しなければならぬ。それは、日本の大衆文芸の発達上、重大な一要因だからである。私は、この章の頭初に於て、人間はあまりに精神生活を過重評価したことを述べた。それは、世界の文明に後れて発達し、あまりにあわただしく世界文明を輸入したために、不消化の部分が可成残って、特に、以上のことが変態的に日本の文芸の発達の障害をなしたという事実である。繰返していうなら、日本に於て、特に、何の感激をも読者に与えない、陳腐にして常套なるものが、あまりに多く描れた。即ち、明治の末期より、大正、そして現在へかけての自然主義文学の輸入、跋扈(ばっこ)、従って極端なる、異常事件の軽蔑、興味の否定、そのために、日本の文芸は畸形(きけい)的発達を遂げた。その残滓(ざんし)が今も尚存在し、今度はかえって、日本の近代文芸の取材の行詰りをきたし、世界的な文芸衰微と合流して、芸術小説の不振を招く結果になったのである。この事は亦、日本に於ける大衆文芸発達の一原因となる。
 そうして、一方亦西洋文芸のあわただしい輸入のために充分の余裕がなかったことにも起因するのであるが、日本には芸術小説以外の他の種類の文芸の極めて少いことが最後に大衆文芸発達を将来した原因となって来るのである。
 西洋に例を取って見るのに、立志小説としては、マロックの「ジョン・ハリファックス・ゼントルマン」だとか、少年小説としては、スチブンソンの「宝島」だとか、アミーチスの「クオレ」だとか、マロオの「家なき少女」だとか。科学小説としては、ウェルズの諸作だとか、冒険小説風の読物としては、ハッガードの作品とか、トウエンの「ハックルベリー・フィンの冒険」「トム・ソーヤの冒険」だとか、家庭小説としては、「黒馬物語」とか、ファラアの「三家庭」とか、ホオソンの「緋文字」とか、目的小説としては、「アンクル・トムス・ケビン」だとか、歴史小説としては、シェンキヰッチの「何処へ行く(クオ・ヴァディス)」だとか、ヂケンスの「二都物語」だとか、伝奇小説としては「アラビヤン・ナイト」とか、ゴーゴルの「タリス・ブルバ」だとか、「ロビンソン・クルーソー」だとか、その他、「不思議の国巡廻記」と、ラムの「シエクスピア物語」とか、フェヌロンの「テレマック物語」とか、オルコットの「四少女」とか、キングスレーの「ハイペシャ」とか、ヂューマの「黒いチューリップ」とか、探偵小説では、有名なルブランのアルセーヌ・ルパン物、コナン・ドイルのシャロック・ホームズ物、その他チェスタートン、フレッチャー等々。以上のような種類の文芸の傑作が、日本には、少くとも明治以後には皆無だといっていい。しかし、文壇小説の沈滞にあきたらず、以上の如き種類の文芸作品を痛切に欲求する事は、日本の読者も何ら変りはない。否、その畸形的な発展のために、かえって、助長されたかの感があるのである。
 かくの如くにして震災後日本に於ける大衆文芸は、勢すさまじく発達してきた。だがそれは未だ発達の最初の段階に過ぎないのである。現在ではその一部分が発達したに過ぎない。大衆文芸の発達は愈々これからである。髷物に、現代物に、そして少年少女小説に、探偵小説に、冒険小説に、伝奇譚(だん)に、大衆文芸は愈々、広汎に、愈々深く、読者大衆の中に氾濫して行きつつある。この愈々混乱し速力を増す一方、大衆の貧困の激する処あくまでも娯楽的で、そして啓蒙的なものとしての、大衆文芸の発達は、増々将来に於て見るべきものがあるであろう。然も、大衆文芸に於ては、興味そのもののみにて、何ら目的物でなくしても、独立して成立つということを注意に止めて置いて欲しい。
 以上、私は大衆文芸の意義について述べて来た。で、次の講義には、日本の大衆文芸の歴史的発達過程から講義を続けようと思う。

  第三章 大衆文芸の歴史

 本章では、私は、日本の大衆文芸が如何なる歴史的過程を経て発展して来たか、について講じたいと考える。
 さて、一体、日本には、古代から大衆文芸と称(よ)んでいいような文芸作品が存在したのであろうか、という疑問が起って来るであろう。私の考えに依るならば、かの「竹取物語」とか、「宇治物語」とかなぞは、当時の通俗小説であったと見て、何等差支えないと思うのである。そういう見方でするならば、そこで又そんな見方で私は正しいと思うのであるが、その各々の時代の社会的条件に依って、仮令(たとい)その読者範囲が限定せられ、今日のように、否将来愈々そうであるだろうように、広大な読者層を持つことは不可能であったにしても、兎に角、私が最初に云った意味の、一般的な、興味中心の通俗的な文芸作品は、ずっと古くから我が国にもあることはあったのだと云える。
 だが、余り古い時代のことを、此処でぐずぐずと述べるのも本講座の目的では無いと思うから、私は、本講座に必要な限りに於て、ずっと近代に接近している江戸時代の通俗的読物の類から考察を進めよう。
 江戸時代の、謂わば大衆文芸は、次の十種類に分ち得ると思う。
 一、軍談物(難波戦記、天草軍記)
 二、政談、白浪物(鼠小僧、白木屋、大岡裁きの類)
 三、侠客物(天保水滸伝、関東侠客伝)
 四、仇討物(一名武勇伝、伊賀越、岩見重太郎)
 五、お家物(伊達騒動、相馬大作、越後騒動)
 六、人情、洒落本物(梅ごよみの類)
 七、伝奇物(八犬伝、神稲(しんとう)水滸伝)
 八、怪談物(四谷怪談、稲生(いのう)武太夫、鍋島猫騒動)
 九、教訓物(塩原太助の類)
 十、戯作(八笑人の類)
 此等、江戸時代の通俗小説類を一貫して見るのに、勿論当時の幕府の封建的支配の影響の下にあったためでもあるが、次のような諸点がそれ等の作品を通じての特徴として挙げられると思う。
 一に、当時の以上の作品は、凡て全然無批判であった。そして、
 二に、ある一つの型に、すっかり嵌(はま)り込んで了っていること。
 三に、概して、勧善懲悪を目的としていること。そして、そのために、屡々(しばしば)、事実が極端に曲げられ、或は誇張されている。且、歴史的事実の研究が、非常に不足していたこと。
 四に、空想的な、想像力がとても貧弱で、お話にならないこと。例えば、稍々(やや)江戸時代の雰囲気の出ていると思われる第十の「戯作」にしても、都会人中の極く狭隘(きょうあい)なサークル内の人達の生活を描いているのに過ぎないのである。
 それ等の欠点のためでもあり、亦、幕末から明治へかけての政変のためでもあるが、江戸時代の民衆の文芸は、幕府の末に到って遂に堕落し、みる影もなくなったのであった。
 では、次に明治時代にはいって、大衆的なる文芸として、先ず最初に何(ど)んなものが現れ出(い)でたであろうか。否、現れざるを得なかったか。
 提督ペルリの来朝、幕府の倒壊。そして明治維新、開港となり甫(はじ)めて日本は数百年の怠惰安佚(あんいつ)の眠りから覚めた。西洋の文物は続々として輸入され、封建的鎖国の殻を破った我が国は、忽ちにしてその風貌をあらため始めた。即ち遅ればせながら、西洋先進諸国に伍せんとして、日本の資本主義は、遂には不完成に終ったとは云え、隆々たる発展の端緒を開きはじめたのであった。かかる時、今とは違って、我国の新興勢力たりしブルジョアジイは、封建的残存物と対抗して、何を獲んとして居ったか。曰く、自由、平等! そして、自由民権が叫ばれ、議会制度を獲得せんとしたのであった。そのために、尊い民衆の血は流れ、処々に一揆の勃発を見た。
 此の血腥(ちなまぐさ)い時代を背景として、反動的な残存勢力の必死の反抗にも拘らず、西洋の先進諸国の物質文明、精神文明は新らしき進歩的思潮と共に、尚も滔々(とうとう)として輸入されつつあった。そして、当然、西洋の文芸も亦、従って輸入され、翻訳されたのであった。進歩的な人達に依って輸入されたそれ等の文芸作品が、当時の政治的風潮の当然の結果として、自由の思想を盛ったものが主であり、その思想の宣伝の意志の下に、先ず輸入され、翻訳されたのも不思議ではあるまい。こうして、かかる種類の宣伝小説、或は目的小説の翻訳が、近代の我国の大衆文芸の、否文学一般の先駆をなしたのであった。仮令、それ等が、文学史上より見る時、文学的な何等の功績を修め得ない程度の、非芸術的な価値の劣等なものであったとは云え――。
 トルストイの「戦争と平和」なぞ、その当時、「自由の旗名残の太刀風」の題下に翻訳されたのであった。その他主なるものの数種を挙げるならば、
 坪内逍遥訳、リットン「開巻悲憤概世士伝」、関直彦「春鶯囀(しゅんおうてん)」、井上勤訳、ジュール・ベルヌ「佳人の血涙」、モア「良政府談」、大石高徳訳「蒙里西物語」「共和三色旗」等々がある。
 以上のごとき、数多(あまた)の外国小説の翻訳に依って、我国の江戸時代よりの小説類に全く欠けていたものを外国文学中に発見し、外国小説の面白さをつくづくと感じた読者自身が、今度は、自ら創作欲に駆られて、書き初めたのであった。
 その主なるもののみを挙げるならば、
 東海散士柴四朗「佳人之奇遇」、「東洋之佳人」、矢野竜渓の「経国美談」、「浮城物語」、末広鉄腸の「雪中梅」、「花間鶯」、木下尚江の「良人の自白」、「火の柱」、内田魯庵の「社会百面相」等がある。
 之等は、凡て、翻訳小説と同じく、政治、社会、教訓、或は立志に関する宣伝小説であった。
 以後、時代の進歩とともに、西洋文明は愈々我が国民に消化され、その精神的な血となり肉となりはじめた。従って、翻訳小説も、愈々隆盛を極め、宣伝小説に限定されず、より広く、より一般化して、変態的ならざる、正常的な発達を遂げたのであった。
 そして、最初には、何よりも大衆に喜ばれ、理解され易い種類のものが翻訳され初めた。即ち「探偵小説」と「冒険小説」とである。そして、その当初に於ては、それ等探偵小説や、冒険小説の読者は、宣伝文学の訳者と同じ人の手になったのであった。
 主なる例を次に挙げよう。
 森田思軒の「探偵ユーベル」、「間一髪」、原抱一庵の「女探偵」、徳冨蘆花の「外交奇譚」、黒岩涙香の「人外境」等。
 では、何故、当時探偵小説が一般に喜ばれたのであろうか、と云うと、憶うに当時は、尚自由民権の叫ばれた直後であり、仕込み杖の横行した時代であったが故に、自然一般の空気がかかる風潮に影響されていて、従って探偵的興味が強く人心に働き、かかる情態に適応したものであって探偵小説が流行したものの如くである。
 現代を、探偵小説流行の第二期とするなら、当時は、方(まさ)にその第一期に当っていると云い得るだろう。その翻訳小説の盛大を極めたのと同時に、探偵小説の創作も、盛んに行われたのであった。
 例えば、「お茶の水婦人殺し」だとか、「大悪僧」だとか、「ピストル強盗清水定吉」、「九寸五分」、「因果華族」等が書かれた。
 併し、それ等創作探偵小説の愚劣さ加減と来ては、言語道断なものがあった。即ち、新聞記事中の事件は、直ちに小説に書きあらためられるのであって、例を挙げるならば、近頃の説教強盗といったような、当時世間を震撼(しんかん)させたピストル強盗清水定吉とか、稲妻小僧坂本慶次郎とかは、忽ち探偵小説となった。だから、探偵小説を創作すると云うよりは、寧ろ新聞記事の小説化と云った方が妥当であろうと思う。そして加之(しかのみならず)、事実を興味深く粉飾するために、何の小説にも一様に、護謨(ゴム)靴の刑事と、お高祖頭巾(こそずきん)の賊とが現れ、色悪と当時称せられた姦淫が事件の裏に秘(ひそ)んでいるのに極まっていた。
 以上のような、程度の低い、探偵小説は、やがて、当然行き詰らざるを得なかった。そうして、それに代って、冒険小説が勢力をもち始めた。
 此処に冒険小説とは、大人子供の如何に拘らず、興味深く愛読出来る冒険談、或は探険談と呼ばるべき種類のものを指すのである。それ等探険小説、或は冒険譚というものは、日本の嘗ての要素に全然無かった種類のものを含んでおって、小説そのものも、事件それ自身も、当時の人々の未知のものであり、無経験のものであり、空想だにもしなかったものであった。換言するならば、当時、日本の文芸にとって、全く新しき境地であり、開拓地であったのである。宜(むべ)なり、当時の新らしき文学を理解し、信奉する、主として若き、新進気鋭の徒は、悉(ことごと)くその方に走ったのであった。
「地底旅行」「海底旅行」「三十五日間空中旅行」等の、当時の人々の好奇心を煽り、空想力を楽しましめるに充分な読物が現れ、
 森田思軒は、「大東号航海日記」「大叛魁(はんかい)」「十五少年」を書き、
 松居松葉は、「鈍機翁冒険譚」を発表し、
 菊池幽芳は、「大宝窟」「二人女王」を書き、
 幸田露伴は、「大氷海」を、
 桜井鴎村は、「三勇少年」「朽木舟」「決死少年」を、
 そして、
 押川春浪は、「武侠艦隊」「海底軍艦」「空中飛行艇」を発表して、世の喝采を博した。
 その他、
 スタンレーの「アフリカ探険記」、キャピテン・クックの「世界三週航実記」、「ロビンソン・クルーソー」、「不思議の国巡廻記」「アラビアン・ナイト」等が翻訳された。
 かくの如く、冒険、乃至(ないし)は探険小説の発達は、当時の少年文学に大きな刺戟を与え、少年文学が提唱された。即ち
 尾崎紅葉は、「侠黒児」を書き、
 巌谷小波は、「黄金丸」を発表し、
 川上眉山は、「宝の山」を、
 土田翠山は、「小英雄」を、
 与謝野鉄幹は、「小刺客」を書き、
 黒岩涙香に依って、「巌窟王」「噫(ああ)無情」が翻訳されたのであった。
 時代物としては、
 外山ゝ山(ちゅざん)の、「霊験王子の仇討」(ハムレット)、「西洋歌舞伎葉列武士」が現れ、
 村上浪六は「三日月次郎吉」「当世五人男」「岡崎俊平」「井筒女之助」と彼の傑作を続々と発表し、
 塚原渋柿園は「最上川」を、
 村井弦斎は、「桜の御所」を報知新聞に書き、その他、「衣笠城」「小弓御所」を著した。
 加之(しかのみならず)、新聞小説も漸く盛んになり、
 恋愛物としては、
 蘆花の「不如帰」が著され、
 紅葉山人の「金色夜叉」が明治三十年に出でて、世に喧伝され、
 弦斎の「日出島」が出て、
 幽芳は、三十三年大阪毎日新聞に、「己が罪」を書いて世の子女を泣かせ、
 小杉天外は、「魔風恋風」を三十六年読売新聞に連載し、大倉桃郎は、「琵琶歌」を書いた。
 同時に、講談は、明治十一年に表れた「牡丹燈籠」を最初として、之又続々と新聞に連載された。
 以上のごとく、通俗小説は、明治三十年頃を絶頂として未曾有の盛観を極め、更に百花撩乱たるの観あること、今日の大衆文芸の盛んなること以上であった。今日の如きは大衆文芸の重要なる一分野である少年文学は全く見る影もなく衰えている。この当時の文壇と、震災以前、大衆文芸勃興以前の文壇とを比較して見るなら、如何に文壇小説がその後、尊ばれ、以外の文学が軽蔑され、衰えたかを一目瞭然と知ることが出来るであろう。例えば少年文学にしても、その分野に踏み止るもの小説唯一人であった。
 かかる文壇小説偏重の悪傾向は、如何なる原因より発し如何にして助長されたのであろうか。
 我々は、此処で、日本に稀なる四人の文芸批評家の出現を省(かえり)みなければならない。即ち、高山樗牛、森鴎外、坪内逍遥、島村抱月が之である。当時、我国には前述の如く、通俗小説以外に文芸は皆無であった。彼等四人の評論家は口を揃えて、文学の正統性を論じ、純粋文芸の必要を力説し、主張し、堂々たる文学論を戦わしたのであった。彼等の云わんとする処は正しかった。彼等は文芸を正道に帰さんと試みた。斯(か)くして、彼等の文学論は、遂に圧倒的な勢力を文壇に占めるに到って、世の文学者、作者は、今度は悉く通俗小説を棄てて彼等の下に馳せ参じたのである。以後、通俗小説に踏み止まったものは、今まで通俗小説を書き馴れて来た老人達のみで三十年以前から書き来(きた)った儘(まま)に、漸く消えなんとする通俗文芸の命脈を保っているに過ぎなくなった。
 樗牛、鴎外、抱月、逍遥四人の優れた評論家が唱えた処は、誠に正しかった。併し、その文学論は、今度は反動的に、文壇小説偏重の傾向を培い、文芸を文壇小説一種に限らんとする努力がなされるに到った。加うるに、日本に於ける自然主義文学運動が次第に盛んとなるや、この傾向を愈々助長促進せしめ、自然主義文学者に非ざれば、作家に非ず、とまで叫ばれるに至った。その後、文芸上の風潮は人道主義派、新理智派とそのイズムの色に変化はあったが結局彼等は、文壇小説以外の通俗文芸を度外視し去り、従って通俗文芸に対する、若き作家達の関心、努力は全く無くなって了ったのであった。このようにして、震災以前の大衆文芸は、沈滞その極に達した。
 蓋(けだ)し、今日の大衆文芸の隆盛は、必然的なものであって社会がかくも大衆的にならなくても、新らしい通俗文芸は当然起らねばならぬ機運にあったものだと云い得るのである。
 そこで、話は震災以後に移るのであるが、震災以後に於ても、本田美禅、岡本綺堂、前田曙山、江見水蔭、渡辺黙禅、伊原青々園、松田竹嶋人(たけのしまびと)と云うような人達が通俗小説を相変らず発表しているのであるが、之等の人は、謂わば硯友社派の残存者達であり、文壇小説家としては落伍した連中であって、残念ながら新らしき大衆文芸の復活者とは決して云えないのである。
 復活以後の最初の作品として挙げるべきは、震災前即ち大正四五年に東京都(みやこ)新聞に連載された、中里介山の「大菩薩峠」である。今日でこそ、大衆文芸の一典型とまで持囃(もてはや)されているが、発表当時は勿論、大正十二三年頃に到る迄は、その存在すら一般には認められなかったのであった。その他、国枝史郎は、講談雑誌へ「蔓葛木曾桟」を書き、白井喬二は、人情倶楽部へ「忍術己来也」を、大佛次郎はポケットに「鞍馬天狗」を書いていた。然も、之等も亦、殆んど全く人々の注目する処とはならなかったのであった。
 大正八九年頃、当時、私は「主潮」と謂う雑誌を編輯(へんしゅう)していたのであるが、その中で、私は「大菩薩峠」と、後藤宙外の大阪朝日新聞に書いた小説とを比較して、「大菩薩峠」の優れていることを賞讃したことがあったが、それも又一般の人々の認める処とはならなかったのである(以下、少々私自身の自慢のように聞えるかも知れないが、事実であるから何とも致しかたのないことだと思う)。その後、春秋社に這入(はい)った私が、喧嘩別れをして出た時に、大菩薩峠を置土産にして去ったのであった。
「苦楽」が発行されることになって、私が編輯の任に当った。そこで私は有名な文壇人達に同誌上へ通俗小説を書いて貰い、自分も書いた。それから大衆文芸の機運が漸く動き始めたと云っていいと思うのである。そこで、長谷川伸、平山蘆江、土師(はじ)清二、村松梢風、大佛次郎、吉川英治等が続々と新らしい大衆文芸を提供し、広汎な読者層が、之に応じ始めたのである。
 この新らしく勃興し来った大衆文芸が以前のそれと異る処は、次の諸点であろう。
 即ち、人物に人間性を与えたこと、物語が事実らしくなって来たこと、文章に新鮮味が加わったこと、等であるが、批判という点では、矢張り殆(ほと)んど欠乏していると云わなくてはならないであろう。
 震災後、起って来たプロレタリア文芸が、実に盛んになって、今日プロレタリア文芸理論の論議が喧噪(けんそう)を極めているのと同様に、将来を期待される大衆文芸も亦、今やその理論を一応は確立すべき時にまで立ち至っているのではないだろうか。新聞紙上に於ても、屡々(しばしば)大衆文芸が問題となっているのを、我々は見るのである。我々は、将来の発展の見通しをつけるためにも、大衆文芸理論を、兎も角も確立する必要があるのではなかろうか。
 併しながら、私は此処で、大佛次郎の、或は某々、等の大衆文学に関する論を或は反駁し、或は賛成して、議論を闘わそうとは思わない。唯、かかる過程を経て起って来た現在の日本の大衆文芸は、かく進んで行くべきであり又進んで行くであろう、と云うようなことをこの章の結論として一般的に述べるに止めたいと思うのである。凡ゆるものは、原因があって起り、そしてそれ自らが持つ最大限度には発展し得るものなのである。大衆文芸も亦、私が再三述べて来たように、一般的には、資本主義的な世界思潮の波に乗って生れて来、特殊的には我国に於ける自然主義文芸運動の変調的発展に堰き止められたために特に遅れて、併し反(かえ)って急速に、近頃になって再び新らしく起って来たのであった。そのことは、第二章の意義の処で可成り詳細に述べたと思うからここには云わないことにする。かかる必然的結果として文学の一部門中に誕生した大衆文芸は、従って芸術小説とは自らその性質を異にして広汎な読者層を包含する故に、階級的な特殊性を避けようとしても避け切れないものがあるのではないかとも思われる。勿論、現在、興味のみのもの、興味即ち事件の運びの面白さと謂ったもののみで、成立した大衆文芸が存在し得るのは事実だ。だが、大佛氏が云うように、現在の資本主義的ジャーナリズムが握っているように思われる所謂「大衆」が、その歴史的必然の途を踏んで階級の特殊性を愈々自覚して来る時、現にしつつあるごとく思われるが、その階級的分離の速度を強めて行くのは当然だからである。そして、作家それ自身もやはり社会生活をするものである以上、彼等自身何等かの色づけをされざるを得ないのではないだろうか。即ち、作家達個々の良心に従って、個々の大衆作家の描く作品そのものも変って来る訳ではある。だが、大衆作家が、大衆作家である所以(ゆえん)のものは、その作品があくまでも文壇的ではなく、大衆的、通俗的文芸作品でなければならない、と云うことは何等変りないのである。
 我国の大衆文芸は、その範囲未だ極めて狭く、鶴嘴(つるはし)の触れてない未採掘の分野は、尚尊い金鉱を蔵してその儘、我々の足もとに広く、深く横たわっていることを知らなければならないのである。そして、それ等を開拓して行くことこそ大衆文芸作家の任務であり、大衆文芸を益々盛んならしめる所以であろうと思う。
 で、私はこの章の最後に当って、大衆文芸の分類方法に関して、若干の意見を述べようと考える。そのことに依って、諸君に大衆文芸の分野でありながら、日本の大衆作家達が、全く手をつけていないような、然も広大な鉱脈を知らせることが出来るだろうからである。そして又、それ等こそは、大衆文芸を目指す諸君によって是非開拓されなければならない沃土(よくど)なのである。
 で、もし、日本の過去の作品のみを以(もっ)て分類するなら、第一に「軍記物」源平盛衰記とか、難波戦記とか――現在の例をとると、日米戦争未来記とか、秩父宮勢津子妃の愛読書だという「進軍」とかは、立派に大衆文芸の一分野を占めていいであろう。
 第二に「白浪物」又は「政談物」とでも呼ぶべき「鼠小僧」とか、大岡越前守の関係物とか。第三には「侠客物」第四に「仇討物」第五に「お家騒動」第六に「怪談物」第七に「伝奇物」第八に「教訓物」第九に「人情本」即ち、恋愛小説の類、第十に「戯作物」これらは総て、大衆文芸の中へ含まれて差支え無い物である。
 以上の分類法は、私が江戸時代の通俗小説を分類するの方法を適用して見たのであるが、之を、現在の言葉により現在の分類法を用いるなら、第一「探偵小説」第二「冒険小説」第三「少年、少女小説」第四「宣伝小説」この中には、政治、宗教、思想等、作によって目的を宣伝、流布せんとする物の一切が含まれてくるのである。第五に「歴史小説」第六に「伝奇小説」この両者の相違は後章に詳説する。
 第七に「スポーツ小説」この中へ、海洋又は山岳文芸を含めてもいい。第八に「立志小説」又は、修養、教訓小説と云っていいもの。第九に「花柳小説」第十に「滑稽、諷刺小説」第十一に「恋愛小説」第十二に「実譚小説」第十三に「怪異小説」第十四に「戦争小説」第十五に「英雄小説」第十六に「科学小説」と。こんな風に分類して行くなら、「競馬小説」「カフエ小説」「シネマ小説」……と何ういう風にでも分類ができる訳である。
 然し、もしこれを内容的に見るならば、ただ二つに帰してくる。その一つは、興味中心、娯楽的、即ち事件の起伏波瀾、変化の面白さのみによって、読ませようとする物であり、他の一つは、勿論、そういう点も十分に考慮されて居るが、純文芸の目的たる、人間及び人生、社会等の探究、解釈をも含めている物である。
 そこで、私は、次のように分類するのがいいのではないかと思う。
 一、時代物
 二、少年物
 三、科学物
 四、愛欲小説
 五、怪奇物(広い意味の探偵小説)
 六、目的、又は宣伝小説
 七、ユーモア小説

  一、時代物

 時代物は、これを伝奇小説と歴史小説に分類する。
 伝奇物とは、髷物であり、所謂大衆小説と称せられている処のものである。主として事件の葛藤、波瀾を題材としたものであって、従って興味中心的であり、多少は歴史的虚偽を交ぜても構わない種類のものである。
 現代の日本の大衆作家の作品の殆んど凡てはこれであると断言することが出来る。
 歴史小説と称ばるるものは、歴史的な史実の考証的研究の充分にされたものであって、歴史的事実は毫(ごう)も曲げずして、新らしき解釈を下した作品である。シェンキヰッチの「神々の死」等の諸作、フローベルの「サランボ」等の如きが例として挙げられ得るであろう。

  二、少年物

 主として想像力に基く一切の作品、大人の持っている分子の一切をも含めたものを、凡てこの題下に呼ぶのであって、怪奇物語、冒険、探険小説等々を包含するのである。例えば、「竹取物語」、「西遊記」、「アラビアン・ナイト」、スチブンソンの「宝島」、アミーチスの「クオレ」、マロオの「家なき少女」、トウエンの「ハックルベリー・フィンの冒険」「トム・ソーヤの冒険」、「ロビンソン・クルーソー」、「不思議の国巡廻記」等。
 この種の創作には、殆んど我が国では手がつけられて居ないといってもいい。よき少年文学は、大人の文学作品の書ける上に、より充分な「空想力」が無ければ書くことは困難である。これを、只単に、年少の人の読物なりとして軽蔑し去る理由は少しも無いのである。それだけの理論さえ理解出来ずして、一端これを棄ててしまった文壇小説が益々狭隘(きょうあい)な途に踏み込んでしまったのは当然と思われる。
 現在、少年、少女小説は、一の転換期にあるように観察される。嘗て、少年を喜ばした処の、空想力に依った科学的探険談は、現在の加速度的なテンポで進歩して止む処を知らない科学の知識によって書き改められるべき時に到達しているのである。この転換期に於ける少年文学は、科学と空想とが如何に巧みに結合するかによって解決されると思う。旧き一切のものは、新らしきものの材料となり得るであろう。もし、現在日本の文学界に最も必要な小説を求むるならば、私は第一に少年文学を挙げるに躊躇しないであろう。
 少女小説に到っても、同様である。現在の少女小説作家が、同性愛と古きセンチメンタリズム以外の何物も描き得ない時に、大人の愛欲生活の世界は、思想的にも経済的にも急速に変化しつつあるのである。かかる重大な危機に臨んで、果して現在の少女小説作家は如何に考えているのか、私は大方の少女小説作家諸君に問いたい。

  三、科学小説

 科学小説と称ばれる種類の作品例は、日本には皆無である。外国に例を取るなら、ハッガードの探険談。ウェルズの諸作品。近頃では、テア・フォン・ハルボウ女史のメトロポリスなぞが、そうである。科学の進歩発展した今日、日本にも当然創作されなければならないものである。私は現代に於ける進歩とは、科学の発展以外の何物でもあり得ない、と断言して過言ではあるまいと思う。精神文明、芸術的諸作品、と云ったものは頽廃しつつある。少くとも科学と比較する時は、退歩していると云い得るだろう。斯(かか)る時に当って、日本に未だ曾て科学小説の現れなかったというのは、日本人が如何に科学に対して無理解であったかを示すものである。と同時に、今後に於て科学小説の領域に全き発達の余地が残されていることをも指し示すものである。
 科学とは、単に機械に対する驚異というような狭い意味の言葉では、決してない。私の意見に依れば、人間の生活は、自然的倫理作用より科学的倫理作用に支配されるようになって来た傾向がある。と云うのは、科学は、必ずしも人間の要求する幸福を実現する方向にばかり進んでるのではない。人間は、自然的な人格作用として、人口の増殖と食物の増加を望む。この自然的倫理作用の命令に従って、科学が支配されるならば、一年中に米が三度取れるようになっているべきだ。然るに、科学の発見があるごとに、一つの傾向だけが雪だるまのように広がり、大きくなるのである。例えばテレビジョンの発明まで、享楽的方面にすばらしい発達を見せている。処が、享楽的科学の発達は、人口増殖とか食物問題とかとは、概して矛盾した結果を齎(もたら)す。つまり、人間的生活は人間の自然的欲望の倫理作用より科学的なる倫理作用に支配さるるに到るのである。この科学文明の歪んだ道を、正当に引き戻すためだけでも、科学小説は、今や立派な使命を持っていると、云えるのである。

  四、愛欲小説

 現在までの家庭小説は主として恋愛小説であった。殆んど凡ての文学は恋愛事件を含んでいるから、一切の文学は恋愛小説であるとも云える訳だが、特に愛欲のことを取扱った小説を大衆文芸の一部門として分けてもいいと思う。
 ただ、今後の作者が特に、恋愛を取扱う場合に注意すべきは、恋愛を科学的に考察することである。精神的恋愛、肉体的恋愛、という古くよりの二つの区別を信奉するものは、新らしき恋愛小説は書き得ないだろう。私をして云わしむるなら、恋愛は八種類に分類し得ると思う。参考のために、以下少しく、恋愛について述べよう。
 一、思春期的恋愛。この時代の恋愛は、ただ無闇な、盲目的な情熱にうかされるのであって、無批判的で、相手を選択する余裕がない。街角で出あった最初の異性が恋人である。恋愛は、本質的にかかるものではあるが、特にこの思春期に於ける恋愛は、情熱的で、無批判である。
 二、母性的恋愛。無自覚な、大多数の、日本の女性の恋愛は悉く、この種類に属するのであって、恋愛はそれ自身として独立していないのである。子供を欲しい事が、無意識的に動いて、異性を欲しがる処の恋愛である。かかる恋愛は、子供さえ出来れば、あらゆることに忍従するものである。
 三、性欲的恋愛。ある人々は恋愛で無いと云うかも知れないが、恋愛的な気持の一抹もないようなことは絶対に無いと云っていいから、恋愛の中に入れていいと思う。
 四、英雄崇拝的恋愛。必ずしも、その人を独占しようとするのではなくして、その人に、好意をもたれんことを望む。活動俳優に対するファンの気持。著名人物に交際を求める男女の恋愛心理といったものが、これに属する。
 五、社交的恋愛。殆んど之に同じもので、頗(すこぶ)る遊戯的な恋愛である。音楽会へ行く時の、競馬を見る時の、舞踏会へ行く時の相手といった、軽い携帯用の、ステッキのような恋愛である。
 六、同志的恋愛。コロンタイ女史の小説に表れるような最も新らしい型の恋愛であって、何よりも第一に、政治的に思想的に一致した意見によって同志として結ばれていなければならない。これは、労農ロシアの若きゼネレーションの中から必然的に生れたもので、近頃日本でも林房雄なぞに云々され、流行せんとする傾向があるが、本来はそんな軽率な、皮相的なものではないのであろう。

  五、ユーモア小説

 一体、ユーモアとは、現象の見方にある。人生に、到る処に絶えない数限りなき悲劇的現象を、喜劇的に見たものがユーモア小説なのである。だから需要は常にありながら作者が非常に、稀なのである。ユーモア小説作者の稀なことには、二重の不利が存在するからである。一つは、他から反感を抱かれ勝ちであること。そして、今一つは、作法上に非常に困難があるので、教養あるものに解るように書けば、無教養な人達にはその面白さなり諷刺なりが理解されない憂いがあり、教養少き人達の為に解り易くすれば、教養あるものからは駄洒落(だじゃれ)なぞと軽蔑されること。加うるに、我が国に於ける、かの畸形的な、自然主義文学の発達が作品に現れるユーモアを極端に軽蔑したことも、ユーモア作家の少いことの、そして、従って優れたユーモア小説の少いことの重大な原因をしているのである。現在、ユーモア小説作家としては、大泉黒石、佐々木邦の二人を除けば、皆無といっていいであろう。私の考えでは、かの夏目漱石の「坊っちゃん」や「吾輩は猫である」は、立派なユーモア小説であると思っている。
 現在、世にユーモア小説として喧噪されているものの殆んど総ては、低級な言葉上の洒落とか、業々しく無理にユーモア的に歪められたる会話、故意に笑わそうと作られたるもののみである。かかるもののみがユーモア小説とされている現状に於て、我々は大いに考え直さなくてはならない。
 だが勿論、ユーモアには、言葉及び会話の自然的な可笑しさが重大な役目を持つのである。外国のユーモア小説が翻訳されても、面白さが半ばなくなるのもその為である。例えば、改造社の世界大衆文学全集で翻訳されているし、フィルムにもなって我国へ輸入されたから、読者諸君も知っているだろうが、亜米利加で驚くべき売れ行きを示しているアニタ・ルース夫人作の「殿御は金髪がお好き」というユーモア小説でも、原書で読むと、仲々面白い洒落(しゃれ)た会話が到る処に見出されて興味深いものがあるが、翻訳ではその味が全く無くなって、原書と比較にならぬ程面白くなくなっているのも、その故である。又、江戸時代の黄表紙が現在の言葉に翻訳されても、同様に面白味がなくなるのもそうである。
 そのように、ユーモア小説は、言葉が大切であるから、普通の小説家としての才能だけでは書けない。特別な才能が必要とされるのである。駄洒落や無理強いな可笑しさから一歩抜け出た作家の、ユーモア小説が現れれば、それは大したものだ。が併し、丁度漫画家が正道的な画家達から、軌道外の存在として見られるように、ユーモア小説家も、普通な小説家、所謂芸術小説家達から往々にして虐待される傾向があるのである。
 政治的な諷刺、社会に対する諷刺小読も、勿論、ユーモア小説の部類にはいる訳であるが、一面より見れば、小説の中に入れてもいいようである。

  六、目的小説

 或は、「宣伝小説」。先に、私は大衆文芸を内容的に分類すると、興味中心的な、娯楽本意の、事件の起伏、波瀾の興味によって読者を惹きつけようとするものと、以上のことは勿論であるが、所謂芸術小説のごとく、人間及び社会等の探究、解釈、換言するならばある何等かの思想を盛らんとするもの、以上の二つに帰することが出来ることを講じたと思う。目的小説、宣伝小説と称せらるるものは即ち後者に属する処の小説である。その中には、盛るに政治的宗教的、思想的内容をもってし、その作品に依って作者の思想を宣伝、流布しようとする物の一切の種類を含むのである。
 明治時代の、我国に海外文芸が輸入された当初に、翻訳され、制作された一切の通俗的小説が、当時の自由民権の思想に影響され、その政治的社会的思想を、積極的に流布し、宣伝する目的のもとに書かれた宣伝小説であり、その他立志の、或は教訓的な宣伝小説であった。坪内氏の訳になるリットンの「開巻悲憤慨世士伝」とか、井上勤訳する処のモアの「良政府談」とか、創作では、東海散士の「佳人之奇遇」、矢野竜渓の「経国美談」等々皆然りである。
 外国に例を求めるならば、マロックの「ジョン・ハリファックス・ゼントルマン」なぞは、立志的目的小説であり、ホオソンの「緋文字」は、宗教的、教訓的目的小説といい得るであろう。「アンクル・トムス・ケビン」は合衆国の奴隷解放を描いた宣伝小説であり、かのビクトル・ユーゴーの「レ・ミゼラブル」は、歴史的小説であるとともに、仏蘭西革命を書いた政治的社会的宣伝小説である。シェンキヰッチの「何処へ行く(クオ・ヴァディス)」等の歴史小説でも、当時なお人心宗教に篤(あつ)かりし時代に於て、それは宗教的宣伝小説であった。トルストイの「戦争と平和」が明治時代に我国に翻訳されたのも、それが当時の社会状態に対する政治的な社会的な鋭い批判を含んでいたからであり、「復活」等が当時の帝政露西亜の政府の忌諱(きい)に触れて焼かれたにも拘らず、人心をかくも捉え得たのは、亦その政治社会に対する宣伝的要素を充分備えていたからである。トルストイの作品は、社会的目的小説であったと同時に、彼の哲学、そして宗教をも内容としたから、哲学的宗教的意味に於ける、宣伝小説でもあった。
 震災後から猛烈に、大衆文芸と、肩を並べて勃興して来た、当時の民衆文学、即ち今日のプロレタリア文学のごときも、プロレタリア的、革命的思想を民衆の間に広く宣伝せんとする意識的な宣伝小説である。外国ではかかる小説が可成りに広く深く民衆の中に根を張っている。露西亜のマキシム・ゴリキイとか、仏蘭西のロマン・ローラン、アンリ・バルビュッス、亜米利加合衆国のアプトン・シンクレア等の作品はそうである。その他、通俗読物として、ウイリアムス、梅原北明訳の「ロシア大革命史」、ジョン・リードの「世界を震撼させた十日間」等、挙げられるであろう。それ等は我国に於ても割合に広く読まれているようであるが、我国自身のプロレタリア文学は、反って未だ充分に民衆化されていないようである。我国のプロレタリア文学も、その意味でまさに転換期にあると云えるであろう。プロレタリア文学が、文壇的な大衆とは可成りにかけ放れた、狭隘な読者範囲に止っていて、その域を充分脱していないということは、プロレタリア文学の本来の目的に叛(そむ)くものであろうと思う。プロレタリア文学派の人達は、かかる自慰的な域から自身を解放して、文芸のもっと広い大道へ現れ、もっと広汎な読者層を捉えるべく、眼界を転じなくてはならない。林房雄君なぞが、近頃そのことを論じ、「大衆化」が問題とされ来ったのは、注目すべきことであろう。
 宗教が民衆の情熱でありし時代、哲学が民衆の指針でありし時代、それ等の時代には宗教的、哲学的目的小説が行われた。今や、社会の変革が民衆の声ならんとする時、まさに革命的宣伝小説は勃々たる隆興の機運にせまられている。
 その他に、戦争小説とも称ばるべき一群の通俗小説がある。我国の過去の作品を取ってみるなら、「源平盛衰記」「難波戦記」等の戦記物、日露戦役当時で謂うならば、「肉弾」、「此の一戦」等、現在では「日米戦争未来記」とか「進軍」といった類いの小説。これらは、戦争を、軍国主義を積極的に宣伝、鼓吹するものであるから、当然、宣伝小説の部門に入れられるべき性質のものである。

  七、怪奇小説

 私は、これを広い意味に於ける探偵小説、所謂(いわゆる)怪奇小説と称ばれるものも含むものである。共に、空想的疑惑、恐怖的な好奇心を唆(そそ)るものだからである。人間社会の宇宙の凡ゆる不可思議が残るくまなく科学的知識に依って解き得る時が来るまで、人間の生活をおびやかす物のみに対する人間の心理の、空想的疑惑、恐怖心は人間を誘惑するであろうし、人間社会から凡ゆる犯罪がなくなるまで、より科学的に深まりつつも、探偵怪奇に対する好奇心は人間の著しい魅力として残るであろう。尚人間それ自身は、現在では決して完全無欠ではない。例えば視覚は往々にして錯覚を生じる。錯覚とは知りながら、ある心理的状態においては、それが恐怖心を抱かすことがある。怪奇は、曾て怪奇なりしものが科学によって克服されればされる後から、愈々微妙に、複雑に、緻密にそれ自身を科学の隙間から突如として立ち現れ来るのである。一方、犯罪は愈々巧妙にして新(あらた)な方法で構成されていく。加うるにこの歪める現在の社会に於て、一方に莫大なる富のあくなき集積があると同時に、反面に貧困を愈々深刻化し広汎に拡がらせていきつつある。かかる時、犯罪は亦社会的に後を絶つべくも無いのである。
 エドガア・アラン・ポーの小説は、芸術小説の部類に含まるべきものながら、その題材は主として怪奇物語を取扱っている。我国で例を取れば、江戸川乱歩の傾向がそうである。探偵小説に至っては、益々科学的知識との結合は重大である。犯罪が愈々科学的に巧妙に行われると同時に、捜索も亦、科学的に緻密に行われる。ルブラン、ドイルより現在に至る探偵小説を吟味してみ給え。それが如何に科学を反映しているか。
 だから、怪奇小説に筆を染めんとする諸君は、よろしく何よりも科学的知識を、そこでそれと結合した特異な、豊富な空想力を涵養しなくてはならぬ。
 以上、私は概括的に、我が国大衆文芸の発達史、及びそれに加うるにその各々の種類を説明し終えた。文学は、今や世界的に転換期に到達している。ブルジョア文学よりプロレタリア文学への転換等よりもっと広汎な意味に於て。その二つを合せたものと云った意味でもない。もっと綜合的な、構成的なものへの転化の意である。成程、プロレタリア文学者は多少の科学的な考え方をするであろう。併し私の云うのは、もっとずっと広い意味に於ける科学的な知識、自然科学、社会科学全般に渡っての知識を包括して云うのである。経済、政治、その他一切の社会現象、人間の知識の凡てを、文学者が自らのものとした時、甫(はじ)めて十九世紀に全盛を見、以後次第に衰微した文学が再び勢よく発芽し、花咲き出(い)でるであろう。
 私が、以上を主張するのには、抑々(そもそも)次の三つの根拠を有するのである。
一、赤露的言論の絶対的権威、無批判的受け入れ方、に対する批判。一、無思想であり、無反省でありながら、然も恐しき実行力を、生活力を伝播していくアメリカニズムのジャズ文明に対する批判。 そして以上の二つは、当面の世界の二大潮流である。最後に、
 一、自然的人間的作用の科学文明の発展進路に対する正当なる批判、が亦文学によってなされなくてはならぬと云うこと。
 つまり、世界中の距離が縮み、世界中の思想がインターナショナル的になり、世界の学問と学問との領域が益々接近しつつある今日、その各々のエッセンスを擢(ぬき)んで、理解し、其専門化して歪められたる方向を正しきに引き戻すのは、文学者の綜合的知識と批判を俟(ま)つの他は無い。かかる任務を果し得る文学は、より以上に構成的、綜合的でなくてはならぬと考える。以上の意味に於て、私は将来の小説は、「社会的小説」であると断言して憚(はばか)らないものである。
 もし、これを文学史的に観察するならば、嘗て人類が未だ宗教に情熱を有していた当時、文学が宗教と結び付いていたように、その後文学が哲学と結び付いたが如く、そこで、又文学者の人生観に依って、人類を救わんとした如く今日我々の情熱は社会制度の変革に燃えている。それと文学が結び付くことは、歴史的に必然なことである。そして次の時代に於て、文学が科学と結合するであろうことも亦文学の必然的な道程ではあるまいか。

  第四章 文章に就いて

 これより、愈々本論にはいる訳である。この章では、一般的に大衆文芸は、如何なる文章を適当とするか、を講ずる意(つも)りである。
 大衆文芸に於ける文章は、記述の明晰にして理解し易いことを、第一条件とする。つまり、「話すが如く書く」ことを根本原則とするのである。だから、出来得る限りに於て芸術上の技巧的な個人性を出さないように努めなくてはならぬ。何故なら、技巧の表現の個人性が深まれば深まる程一般の人々に解りにくくなるものだからである。芸術が言葉の表現にある以上、芸術家としては技巧上の個性と謂うものは当然現れるものではあるが、所謂芸術小説とは異り大衆文芸といわるる一般向きのものであるからには、表現上個人的特異性のあまり深まるようなことは避けなくてはならない。此のことは、古来屡々芸術家に依っても云われて来たことであって、仏蘭西の詩人レミ・ド・グルモンも「話すがごとく書くべし」と主張している。

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