トコヨゴヨミ
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著者名:田山花袋 

     五

 小さな海岸の停車場から目も覚めるような賑やかな大きな上野の停車場までのさまざまな光景は、何枚続きの絵か何ぞのようになって勇吉の妻の眼に映って見えた。雪、雪、雪、何処を見ても雪ばかりの広い荒漠とした野原の中の停車場が見えるかと思うと、何本もわからないほどの煙突が黒い凄じい煤煙をあたりに漲らしているような大きな町なども見えた。ある線からある線へ乗換える停車場では二人は寒気に顫えながら、家から持って来た冷たい結飯などを食った。女の兒が泣いて泣いて何うしてもだまらないので、一度背中から下して、乳を含ませて見たりなどしたが、矢張りそりかえって火がつくように烈しく泣いた。
「貴方、ちょっと抱いて下さい。」
 こう言うと、夫は暗い顔をして黙ってそれを抱いてあちこちと揺って歩いた。暗い暗いプラットホームだった。汽車は大きな眼のように光をかがやかして凄しい地響をさせてその停車場に入って来た。
 夥しく混み合った三等室を勇吉の妻は眼の前に浮べた。大きな荷物を抱えて二人は入って行ったが、何処も一杯で坐る処がなかった。妻だけは何うやらこうやら割り込むようにして腰をかけさせて貰ったが、勇吉は大きな荷物を下に置きながら、便所の扉のところに凭りかかっていなければならなかった。それに便所の扉は幾度か明けられたり閉められたりした。後には夫は立ちくたびれて堪らなくなったというようにして荷物の上に腰を掛けた。
 大きな町の雪に埋っているさまなども見えた。鮨、弁当、正宗、マッチ、煙草――と長く引張った物売の声が今だに耳について残っているように思われた。海に近い町に来て汽車を下りて、停車場の傍の方の小さな旅舎で朝飯を食った時には、ひどく労れて、一時間でも二時間でも好いから寝て休んで行きたいと妻は思った。其処は勇吉に取っても妻に取っても思い出の多い処であった。結婚した翌年二人は山の中から海を渡って其処に来た。そこに二人は一週間ほどいた。「その時分は楽しかった。」などと妻は思った。
 追立てられるようにして、埠頭の方へ駈けて行く二人の姿が続いて見えた。向うに渡る汽船の白いペンキ塗は碧い海の中にくっきりと見えていた。めずらしく其朝は晴れていた。朝日が煌々と眩しく海に砕けて光っていた。
 寒い汚い狭い船室に、動物か何ぞのように人々は坐ったり寝たりしていた。一種のイヤな臭気が何処からともなく襲って来た。妻は眠くって眠くって仕方がなかった自分を見た。「己は甲板の上に行っているぞ。」こう勇吉が言って出て行くのをうつつに聞いて、女の兒に乳を含ませながら大勢の人達の中に足を蝦のように曲げて、何も彼も忘れてぐっすりと寝た。
 船から下りたところにある停車場では、故郷の方にわかれて行く汽車が今発とうとして烟を挙げているのを見た。「国になんか寄っていられない。そんな暇はない。そうでなくってさえ遅くなったんだ。もう十二月じゃないか。」こう言って二人とも素通をして行くことにきめていたけれど、此処に来ては流石に国の方に心をひかれない訳には行かなかった。「こうして東京に行けばまたいつ国に行って親や同胞に逢われることだろう。」こんなことを思って、勇吉の妻は涙をそっと袖に拭った。
 其処でも二人は停車場の前の茶店にも休まなかった。一銭でも多く金をつかうことを二人は恐れた。東京に行って暦が売れるか、ある職業にありつくかするまでは、餓を忍んでも暮さなければならないような境遇であった。勇吉の妻は其処で泣く子の為めに駄菓子を二つ三つ買ったばかりであった。
 三等室は矢張混み合っていた。一日も二日も汽車や汽船に揺れ通してやって来た体は、ヘトヘトに労れて、物に凭りかかりさえすればすぐ居眠が出るようになっていた。勇吉は蒼い昂奮した顔をして、両方から押つけられるようにして小さくなっていた。窓の硝子に箒のようにぼさぼさした頭を凭せかけて昏睡していたりした。
 勇吉の妻は段々賑やかな町や村や停車場の多くなって来るのを見た。人が沢山に路を通っていた。こんなに大勢人が居るかと不思議に思われる位であった。海を一緒に越えて来た人は、「北海道はえらい凶作ですよ。この冬が思いやられますよ。」などと言って、粟も稗も馬鈴薯も取れなかったことを車中の旅客に話して聞かせたりなどした。
 気候も段々暖くなって来た。畠には麦が青々と生えていた。「あちらに比べたら、何て好い処なんだろう。こういうところに住んでいる人達は何れほど仕合せだか。」勇吉の妻はこんなことを思って、雪一つない地上に草や木の青々と生えているのをめずらしそうに見た。
「暖かいこと。」
 こう勇吉に言って見たりした。
 賑かな大きな目も覚めるような停車場――幸いにも其処には予め手紙をやって今日の到着を知らせて置いた遠い親類の男が迎いに来ていて呉れた。荷物と一緒に自分と女の兒だけ車に乗せられて、借りて置いて呉れた裏店のような三軒つづきの狭い家にやがて皆なは落附くことになった。それは擂鉢の底のようになっている処で、ちょっとの隙間もなく家が一面に建て込んであった。
「何て家の多い処だか――私吃驚した。」こんなことを勇吉の妻は言った。
 三畳に六畳、床の間もないような小さな家であった。それでも彼方の寒い掘立小屋よりはいくら増しだか知れないと妻は思った。新しい柄杓、新しい桶、瀬戸で出来た釜、鍋、薬罐、そういうものをやがて親類の男は買って来て呉れた。その男は勇吉の母方の従弟で、近所の工場に勤めているような人であった。妻はあの荒蕪地の中からこういう処に急にやって来たのを不思議に思わずにはいられなかった。「私、まだ体が揺いでいるような気がして。」二三日経ってからも妻はこんなことを勇吉に言った。

     六

 勇吉は着いた翌日から、彼方此方と活版所をさがして訊いて歩いた。しかし落附いてかれの要求を聞いて呉れるような所は稀であった。勇吉の様子をジロジロと見て、てんから相手にしないようなところも何軒かあった。「そうですな、今は年の暮が近いもんですから、忙しくってとてもお引受は出来ませんな。春にでもなれば、また緩り御相談をしてもよう御座いますが……。」ある小さな活版屋の爺はこんなことを言って笑った。勇吉は気が気でなかった。かれは一軒から一軒へと熱心に訊いて見て歩いた。
 かれは活版屋をさがすだけにもに三日を徒らに費さなければならなかった。漸くさがしあてた処は、場末の小さな活版所で、見積もあまり安くはないと思ったけれど、ぐずぐずしていて機会を失っては大変だと思って、勇吉は兎に角其処で印刷させることにして、その翌日すぐ原稿を持って行った。
 鬚の生えた四十恰好の主人は、勇吉からその原稿の説明を聞いて、「成るほど、これは面白いもんだ。千年前でも千年後でも何日は何曜日だって言うことがちゃんとわかるんですな、これは新案だ。」などと言って、丸いものを自分で廻して見たりした。
「博士の証明までついているんですな、これなら確かなもんだ。」などと言った。「忙しいけれども、兎に角二十日までにこしらえて上げましょう。千枚ですな……。」こう言ってちょっと途切れて、「それで紙の色は何が好いでしょう。」
 勇吉は見本に出した小さな帳面をひっくりかえして見た。色の種類も少なく好い色もなかった。ふとかれの崇拝している作家の短篇集の表紙に似た色が其処にあったのを見て、「これにしましょう、これにしましょう。」と早口に言った。
「知っている絵かきがありますから、何か少し周囲に意匠をさせましょうか。いくらもかかりゃしません。余り周囲に何もなくってはさびしいですからな、書斉の柱なんかにかけて粧飾にして置くもんだから……。」深切な主人はこんなことを言って呉れた。原稿を持って行ってから俄かに主人の態度の変って行ったのも勇吉には成功の第一のように見えた。
 博士の邸を本郷の高台に訪ねて行った時には、怪しい姿を玄関にいる大きな犬に噛みつくように吠えられて、かれは狼狽した。幸いに博士は在宅で、立派な庭に面した大きな室で逢って呉れた。「それは好いですな、登録すれば一層好いんだけれども、まあ、誰も始めは真似るものもあるまい。少し売出してからにする方が好い。」などと言ってて、版権登録の手続などを教えて呉れた。勇吉は土産に持って行ったものを出すのが恥かしいような気がした。
 帰る時に、漸く思切って、「これはあっちで取れたので御座いますが、私がつくったんだと猶好いんですけれども……そうじゃ御座いませんけれども、折角持って参ったんですから。」
 こう言って、木綿の汚れた風呂敷から新聞紙に包んだ一升足らずの白隠元豆を其処に出した。
「イヤ、これは有難う。好い豆が出来るな、矢張り、彼方では。」
 博士は莞爾しながら言った。
 勇吉は唯まごまごして暮した。印刷が出来上らない中は販路の方に取りかかることも出来ないので、仕方なしに職業の方を彼方此方で訊いて見たりなどした。路の通りにある職業周旋のビラの沢山に張って出してある家の中にも入って行って見た。其処には矢張かれと同じように職業を求める青年がいて、あるかなしの財布の中から五円札を一枚出したりしていた。勇吉はいろいろなことを訊いて其処から帰って来た。
 ある学校友達は、此前東京に出た時分には、早稲田の学校に入って劇の方に志していたが、此頃では大分文壇に名高くなって、その人の書くものなどが時々芝居に演ぜられたりなどしていた。一度其処を訪問して見ようと思ったがまア印刷が出来上ってからと思って、途中まで行ったのを引かえして戻って来た。「千枚で五十三円、二十円位で出来ると思っていたのに……大分の違いだ。」こんなことを思って、かれは歩きながら貯金を腹の中で勘定したしりた。「二月、三月はまア好いが、そうかと言って、女房と子供をかかえて遊んでなんかいられない。」かれは蕎麦屋にも入らずに、飢えた腹を抱えて裏店の狭い自分の宅に帰って来た。
 印刷は何うもはかどらなかった。二十日でも、もう遅いと思っているのに、二十一日になっても、まだその暦は出来て来なかった。催促に行くと、「何うも廻すところが旨く行きませんでな。」などと言って主人はその半分出来かかったものを持って来て見せた。成るほど旨く廻らなかった。「もう少し厚い紙にしなけりゃ駄目だ。」などと言った。周囲の意匠はかなりによく出来ていた。四季の花卉が四隅に小さく輪廓を取って書いてあった。「明日までには是非拵えて下さい。でないと困るんですから。」こう強く頼んで、勇吉は其処から帰って来た。イヤに曇った寒い日で、近所の工場の煤烟が低くあたりにむせるように靡いて来ていた。
 家に帰ると、妻は不愉快な心配そうな顔をして坐っていた。
 突然、
「貴方、また来たよ。」
 勇吉はゾッとした。「え? 来た?」
 漸く免れた危機に再び迫られて来たような戦慄を勇吉は覚えた。勇吉は棒のように其処に立っていた。
「矢張、駄目ですね。」
 妻は失望したように言った。今から一時間ほど前、巡査が入って来て、「お前は北海道から来たのか。」と訊いた。「士別の近所にいたんだな。」こう言ってつづいていろいろなことを訊いた。Socialist の取扱を受けていたということをちゃんと巡査は知っていた。イヤなことを種々言ってまた其中主人のいる時来ると言って帰って行った。
「何うしても駄目かね。」
 勇吉は黙って暗い顔をしていた。東京に行けばそのイヤな監視を遁れることが出来ると思って、それを唯一の希望にして来たのであった。しかしそれも空頼であった。こうした弱い者を酷める社会の残酷さが、染々と痛感されて来た。勇吉は恐ろしくなって体を震わした。
「お前のように気にしたって仕方がないじゃないか。わるいこともしないのに、向うで勝手について来るんだから仕方がないじゃないか。」
 こうたしなめるように妻には言って聞かせたけれど、勇吉は妻以上にその監視を恐れていた。これで出京の希望が十の八九まで破れたようにさえ勇吉には思われた。
 二三日して刑事が訪ねて来た時は丁度活版所から出来た暦を届けてよこして呉れたところであった。勇吉は丁寧に刑事を座敷に通して、死刑に処せられた友達と自分との関係に就いて詳しく話して聞かせた。しかしジロジロと体を捜すようにして見る刑事の眼に出会って時々声を顫わせたりなどした。刑事は痩せた神経質の男を勇吉に見た。勇吉の眼のわるく光るのも気味わるく刑事は思った。何をするかわからない危険人物のように刑事の眼には映って見えた。
「何うも、そうでしょうけれど……私の方も役目ですからな。」
 刑事はこんなことを言った。
「実際、馬鹿な話なんです。仕事をするにも、そんな風に思われていると、非常に迷惑なんです。友達の手紙の中に私の名があったから、帳面に書かれて了って、こうやって何処までも何処までもついて来られるんですが、その帳面から名を消して戴くわけには行かないでしょうか。調べるなら、いくら調べて頂いても好いんです。却って望むところなんです。調べもしないで、唯、跡をつけられるんですから困るんです。調べて頂きたいもんですがな。」
 勇吉は声を顫わして言った。
「何うも仕方がないんですよ。」刑事も流石に気の毒そうな顔をして笑って言ったが、其処に積んである印刷物を見て、「何です、それは?」
 勇吉はそれを一枚取って渡した。刑事はヤマダトコヨゴヨミなどと読んでいた。暦だということだけはわかるが、トコヨゴヨミとは何ういう暦だか刑事はよくわからなかった。刑事は勇吉の顔をジロジロ見ていたが、「何です、これは?」
 勇吉はお前なぞにはわかるもんかと言うような顔をして得意そうにその仕かけを話して聞かせた。
「はアそうですか、これは成ほど面白いな。」こんなことを言って大正三年の処をくるくる廻して、「これで来年一年の七曜が出るんですな、これは面白い。」刑事はこう言ってまた今年の処を廻して見た。
「一つ差上げましょう。」
「そうですか。」といって、「イヤ何アに、買いますよ。」
 勇吉が呉々も頼むと、「私は疑っても何もいやしないですけれどもな、職務ですからな、しかし長い中には、段々様子を見て、帳面を消すことになっているんですから……私の方だって用の少い方が好いんだから。」後には刑事も打解けてこんなことを言った。

     七

 暦を五、六枚持って、市中の雑誌店や何かを勇吉が廻って歩いたのはもう年の暮も押詰った二十五六日であった。市中は賑かに派手な粧飾などをして、夜は電気が昼のように街頭を照した。車や自動車が威勢よく通って行ったりした。
 何処の雑誌店でも、相手にしないような家が多かった。仕かけを説明してきかせても、容易に飲み込めないような人ばかりであった。「まア、なんなら二三枚置いて行って御覧なさい。」こう言って呉れる家は中でも深切な好い方であった。ある店では、「暦はもう遅いですよ。もう大抵何処の宅だって買って了いましたからな……もうちっと早ければ売りようもあったでしょうけれども、こう押詰っちゃ駄目ですよ。」などと言った。勇吉はためしに置いて貰う位で満足しなければならなかった。
 それでも百枚ほどは足を棒のようにして、彼方此方の店に行って頼んで置いて貰った。本郷から小石川、牛込、下谷、浅草の方まで行った。毎日勇吉はヘトヘトに労れて家に帰って来た。
 二三日経ってから、置いて来た店を勇吉は廻りに出かけて行った。勇吉は非常に失望して帰って来た。殆ど一軒も売れないと言っても好い位であった。何処でも店の隅の方に形式だけに置いてあった。「其処にあるから、見て行って下さい。」などと言った。「売れませんな矢張、ゆっくり広告でもしなけりゃ、いくら好いものだって売れやしませんよ。」ある店ではこんなことを言われた。勇吉は都会の塵埃にまみれて暗い顔をして帰って来た。
 荒蕪地で、薬売をやっていた時の方が何んなに好いか知れなかったなどと勇吉は思った。そこには広々した天然があった。其処に住んでいる人も、都会に住んでいるような忙しい冷淡な人間ではなかった。
 歩いている路にも、餓を刺戟する蕎麦屋、天ぷら屋などもなければ、性慾を刺戟する綺麗なぴらしゃらする女もなかった。勇吉は計画が全く徒労になったような気がしてがっかりした。
 刑事も其後度々やって来たという妻の話であった。何うかすると、夜などこっそり様子を見に来るものもあるらしく勇吉には思われた。職業の方もさがす気が出なくなって了った。Socialist という嫌疑がかかっているということが知れては何処でもつかって呉れる処はありそうに思われなかった。望みをかけて来た小学校教員の方は殊にそうであった。教員になろうとするには、黙って隠して置いたところで、本籍から屹度通牒[#「牒」は底本では「爿+牒のつくり」]して来るに違いなかった。二度目に暦を持って博士をたずねた時に、思い切ってその話をすると、「困るねえ、それは――。何うかしてその嫌疑を解いて貰わなければ、本当に何にも出来やしないよ。困ったことになっているんだねえ。」こう博士は言って、矢張勇吉の体中をさがすように見た。俄かに博士の態度が変って行ったように――そういう嫌疑を持っている人間に邸に出入されては困るというように思っているらしく勇吉には邪推された。
 勇吉はいても立ってもいられないような気がした。
「貯金はすぐなくなって了うし……。」
 勇吉は絶えずこう思って、例の鉛筆で計算をやって見たりした。
 正月が来た。注連飾などが見事に出来て賑やかな笑声が其処此処からきこえて来た。
 しかし勇吉はじっとしてはいられなかった。正月の初めにもっと家賃の安い家を別な方面にさがして、遁げるようにして移転して行った。刑事の監視をのがれたいという腹もあった。出来るならば、この都会の群集と雑沓との中に巧みにまぎれ込んで了いたいと思った。しかしそれは矢張徒労であった。一週間と経たない中に刑事は其処にもやって来ていた。勇吉はわくわく震えた。
(一九一四年三月「早稲田文学」)



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